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2024-07-25 28:15

#9 社会の下からの目線で失礼します

【お本日のお品書き】
何かをやろうとして焦ってばかりで1日が終わってしまいましたので、せめて何か日記的なものを残しておこうという配信です。

本日の大まかな流れは
・挨拶
・焦燥感と怒りの中毒性
・障害者と挨拶の複雑な関係
・社会の下から目線で失礼します

となっております。

相変わらず聞きにくい声ですが、少しでもお楽しみいただければ幸いです。

なお、どうしても聞きにくい!という場合はListenからAI文字起こしをみてお聞きいただければと思います。
https://listen.style/p/hgfqoo9b

【くらげについて】
東京都の片隅で妻と二人暮らしの聴覚障害・発達障害当事者。人工内耳ユーザー。よくわからない仕事を在宅でやったり、友人の仕事を手伝ったりしながら生きている。自称デジタル日雇い。妻も発達障害者で著書に「ボクの彼女は発達障害」がある。1984年山形生まれ。

X: https://x.com/kurage313book
note: https://note.com/kura_tera
ポートフォリオ: https://note.com/kura_tera/n/n0a6c56ff56d1
著書: https://www.amazon.co.jp/dp/4054057063

サマリー

彼の生活リズムは相変わらずグダグダで、大変な時間の収録となっています。東京ではゲリラ豪雨があり大変だったようですが、彼が住んでいるところは影響を感じていません。ありがとうということに対して、なぜ嫌な思いをしてしまうことがあるかと言いますと、頻度ですね。障害があると街中に行くたびに何かしてもらうことに対して、ありがとうという言葉を使わなければいけないシーンが非常に多く、回数が多くて疲れるということがひとつあります。 聴学障害者の方々にとっては、お聞き流しいただければ幸いでございます。

話題の天候
はい、こんばんは、くらげです。 本日は
7月26日午前30分です。 本日も大変遅い時間というか、変な時間の収録となりますが、
私の生活リズムは相変わらずグダグダですので、どうしてもこんな時間になってしまうんですね。
自分でも何とかしたいとは思うんですが、どうにもならないまま10何年も経ってしまいまして、
一般的な仕事とかは本当に難しいんですけれども、なんとかフリーランスとしてやっていられます。
本当にいろんな人に感謝ですね。 そんなわけで本日の収録もやっていきましょう。
はい、それでなんか本日は、というか昨日はですね、ずいぶんと涼しかったんですけれども、
東京の方の北の方はすごく大雨だとか、ゲリラが多いだとか、そうなので大変だったみたいですね。
私の住んでいるところは東の方なので、全然ゲリラ豪雨とかそのような影響は感じなかったんですが、
ちょっと午後にちょっと降りまして、それで結構湿気はありましたね。 ただ一雨降った後は全然何もなかったみたいなので、
だいぶ快適に過ごすことができる1日でした。 本当に最近は
暑いか寒いかのどちらかしかない状態で、なおかつ気が抜けると本当にまるでゲリラ豪雨と言いますか、
ゲリラ豪雨なんですけど、 昔は夕立という言葉がありましたけれども、
夕立という言葉はもう全滅したのかなというくらいに、 なんか風情がないと言いますか、
なんでしょうね、 序章がないと言いますか、
まあなんかそんな感じで非常に遠慮なく、 何の風情もなく、
本当にゲリラのようにいきなりやってきては、 全身をずぶ濡れにして、
ずぶ濡れにして、なんかこう不快感だけを残していくというような雨がですね、
本当に毎日のように注いでますし、 下手したら竜巻だの氷だのが降ってきますので、
まあ本当に皆さん、自然現象に負けずに頑張っていきましょう。
ライブ放送の経験
はい、それで次の話題なんですけれども、 ちょっと
スタンドFMの方で、 あれをやってみたんですよね、ライブ放送、ちょっと試しに。
ただライブ放送は収録と違って、 なんというか、
誰かに向かって喋るという前提がありますけれども、 その誰かに向かって喋るという前提がありながらも、
誰の耳にも届かないというのは、 ちょっと心がえぐられるものがありまして、
なんというか別に収録自体も本当に、 何でしょうね、もちろん一人で喋っているんですけれども、
それとは全然違った緊張感と言いますか、 独特なままと言いますか、
そういうのがありまして、 なかなかしんどいなというふうに思ってしまいました。
それで15分間くらい喋ったんですけど、 一人かな、一人だけ本当に2,3秒だけ入ってきて、
すぐに消えてしまうということがあったんですけれども、 かなり心がえぐられたと言いますか、
かなりショックがありましたね。
まあ誰も来なくていいというのは当然あったんですけれども、 それはそれとして全く別な、
何でしょう、やっぱり緊張感と言いますかね、 周りと言いますか、
そういうのがありまして、なんというかずいぶんと、 ライブというものをずっと続けられるとはすごいなと思いました。
あとやっぱり芸能人ですよね。 芸能人は、まあもちろん大人気の人だったら何もしなくても人が来ますけれども、
いわゆる芸人、まあそこまで有名じゃない芸人という方は、 やはり本当にライブとかしてもお客さんが少ないこともあるでしょうし、
あるいは全く人がないところもあるんでしょうけれども、 そういうところで芸をし続けるというのは大変な困難と言いますか、
力量がいると思いますし、 ずいぶんと心が強くないとできないもんだんだなぁというふうなことを、
ちょっと学びましたね。 まあこれからライブをやるかというと、
どうなんでしょうね、かなり厳しいなという思いがあるんですけれども、 ちょっと心を鍛えるためにも、ちょっとやってみてもいいのかなということはちょっと思いました。
まあそういうわけで本当に芸能人という方はすごいですね。 本当にマジできないわと改めて思いました。
焦燥感と不快な話題
さて次の話題なんですけれども、ちょっと焦燥感と言いますか、 なんか何かをやらなければならないという気持ちがすごく強いんですけれども常に。
でもなんか調子が悪い時は本当に何もできないという、まあ当たり前といえば当たり前なんですけど、
まあ何時間単位で寝込んでるというか、 ネットをダラダラ見てるとか、ツイッターを見てるとか、そういう時間が発生してしまうんですけれども、
そういう時は本当に焦ってはいるんだけど何もできないという焦りが、 ますます
なんでしょうね、嫌になるというか、 かなり心にきまして、やらなきゃという思いだけはずっとあるんだけど、
何もできないという焦りから、それで何もまたできないという悪循環になることがだいぶありまして、
まあちょっとこれでもマシ、うつをですね、ちょっと患ってた時に比べればずいぶんマシなんですけど、
それでもやはり、なんかこうアクセルとブレーキを同時に踏んでるようなエネルギーの、 エネルギーの無駄遣いと言いますか、
本当は周りに進めたいけど何かが非常に強烈なブレーキをかけていると、 そういう矛盾した状態が続きますと本当に吐き気がしてきますし、
変な汗も流れてきますし、 というわけでなんとかなりたいなぁとは思うんですけども、
本当にあれなんなんでしょうね、もうちょっとさっぱりバッサリと受けたら本当にいいんだろうなと思うんですけど、
なかなかそこまで択感できないというか、うまく調整できないのがもっかの悩みです。
でもそういう時にですね、やっぱりツイッターとかやっぱりウダウダ見てしまうんですけれども、 そういうツイッターを見る時に限って割と自発的にこう気に食わない話題とか、
イライラしちゃう話題をだいぶ見ちゃうんですよね。 本当にこれ時間の無駄というか精神力の無駄遣いだと思うんですけれども、
なんかそれをやることで何かしらの変な快楽物質と言いますか、
なんか起こること自体でエネルギーを使うことである種の快感を得ているのかなと思ってしまうんですけれども、
まあなんか人間物ってなんかこう楽しいと辛いも同じ刺激として処理するらしいという話を聞いた時あるんですけれども、
なんかこう辛いのを食べると気持ちが良いっていう方がいらっしゃいますけれども、 あれはちょっと辛いものを食べることで脳の物質を、なんか快楽物質を出してて、
それで気持ちいいと感じてしまうみたいなんですけれども、なんか不快な話題というか、 なんか起こりたくなるエネルギーというのも同じような中毒性があるんではないかと思っております。
それは当然なんか生産性の悪いことどころが本当に精神的にマイナスですし、 時間的に何かこう発生するわけでもないし、むしろ世の中に対する変な、
なんでしょうね、世の中に対する怒りとかですね、 そういうのはまあ怒ること自体は本当に必要なんですけれども、
まあ怒るにもエネルギーはいりますからね、 本当に必要とされる時に、
いらないエネルギーを何か使ってしまうんじゃないかとちょっと心配ですし、 なんか世の中ってそういうやっぱり不要な怒りと言いますか、
なんか本当に怒るべき時に怒るのではなくて常に怒ってこだしにしてしまうような、 そんな安っぽい怒りに溢れているかもしれないですねということを改めて思いまして、
できるだけツイッターでは不快になる話題を見ないようにしようと思うんですけれども、 まあなかなかそうもいかないわけで、
本日もちょっと口を出したいテーマが出てしまいまして、 まあちょっとツイッターに書いたんですけどね、
でもちょっとかなりやっぱり難しい話題なので、 ちょっと音声入力の方で配信してみて、
ちょっと自分の言いたいことを言ってみようかなぁとちょっと思っております。 というわけで、ちょっとこれからその話題なんですけれども、
ちょっとあの、 まあ新しいテーマ、次のテーマに入るんですけれども、
障害者に、障害者がですね、 ありがとうと言うべきか言わないべきかっていう話題が結構出てくるんですね。
ツイッターで。 これはどういうことかと言いますと、
つまりあの障害のある人が、 なんか障害があるがゆえに手助けしてもらったことを、
手助けしてもらったことに対して、 ありがとうを言うべきか言わないべきかという論争があるんですよ。
普通に考えたら別にありがとうくらいは言って当然だよねと思うんですけれども、 ただ、
それはあまりありがとうと言いたくないという人もいるし、 ありがとうということに対してあまり素直になれないという方もいらっしゃるんですね。
それをツイッターに書いて炎上するということがたまにあります。 これは本当に
シンプルに考えれば、ありがとうというのはこう人間関係の潤滑油と言われまして、 まあそれを言うことで何かしら
利益があるというと違うんですけれども、余計な摩擦を起こさないで、 スムーズに生きていく上で重要なことの一つというのはありまして、
それは当然そうなんですけれども、 なんでしょうね、障害者が
ありがとうという言葉の頻度
ありがとうということに対して、なぜ嫌な思いをしてしまうことがあるかと言いますと、 簡単に言ってしまえばですね
やっぱり頻度ですね、まず 障害があると何かしら必ず街中に行ったり、何かしてもらうことに対して
ありがとうという言葉は使わなければいけないシーンが非常に多くてですね、 単純に回数が多くて疲れるというのが一つあります。
2つ目に やっぱりやって
もらうという立場なんですよね。 本当に人の善意をもらってばっかりで
それを返せないという追い目みたいなものがやっぱりあるんですけれども、 その追い目に対して
ちょっと自分の中の自尊心と言いますか、なんか余裕がですね、 そういうのがかなりプレッシャーになってしまうという方もいらっしゃるんですね。
結局そういう何かをやってもらうということに対して 追い目を持ってしまうと言いますか
さらに言ってしまえば、何か本当にもののやり取りって ギブアンドテイクが基本じゃないですか
でもやっぱり障害者のやってもらうっていうことは本当に基本的に ギブアンドテイクで言えばテイクだけなんですよね
でその もらってばっかりっていうのも非常に
疲れてしまうということもありまして、まあ当然 やってもらわなければいけないことって本当にあるんですけれども
それに対してのお礼としてのありがとうという考え方も当然あるんですけれども なかなか
心が擦り切れると言いますか なんかやっぱり自分自身に対する情けなさとか怒りとかもやっぱり入っちゃうんですよね
そういうありがとうに そういう意味で非常に
追い目と自尊心
複雑な気持ちになってしまう これは挨拶だけでの問題ではなくて
障害があるが故に何か手伝ってもらう 支援を受けるという時になかなか素直になりにくいというか
やっぱり心がどうしても疲れてしまったり なかなか歪んでしまったりですね
まあそういう どうしても素直になれないというか
素直に受けなければ生きられないというところも多いんですけれども
それでもなかなか難しいところはあるようなという気持ちはありまして もちろん自分も障害者という立場なので非常によくわかるんですけれども
なかなかわからない人にはわかってもらえない気持ちだよなと思いますし 自分がこういうのをツイッターに書いても読んでもらえるんですけど
それに対して反応がポジティブかというとあまりポジティブでもないと やっぱり挨拶ぐらい誰でもできるでしょうとか
障害がなくても誰でもやっているよっていうのがやっぱり反論としてはありますし 当然それはそうなんですけれども
なんていうかやっぱり 頻度と多い目の問題でなかなか
結構 やってもらわなければいけないありがとうと言わなければいけないというちょっといろんなプレッシャー
みたいな的なものがですね やっぱり発生しちゃうわけですよ
まあこれはこれで 仕方ないなと思いますしやっぱり
まあ本当はもちろん心の底からずっといつもずっと ありがとうと言える障害のある方もいらっしゃいますし
そういう方の方がやっぱり生きやすいと思うんですけれども 自分みたいなひりくれてる人とかね
なかなかいろいろ 結構社会との衝突がきつすぎて
心がここ歪んでしまった人とかやっぱりいますので なんかそういう方とかやっぱり
結構ありがとうということに対して疲れてしまった方というとかやっぱりいらっしゃいますので 本当にそれはそれで
なかなか生きにくいというか大変だなぁと思うんですけれども
ただまあそういうこともあり得るということで 一つご了承いただければと思いますし
ただ本当に挨拶しなくていいっていうよりも なんかその挨拶をしなければいけないという背景の
重さですね やっぱり
まあ もちろん日本だけではないとは思うんですけどもやっぱり日本においてはなんかこう
まあ なんかこう障害者自身も重いですしなんか気持ちが重いですし
周りもなんかこう気楽にこう やってあげるとかそういう
あれにポジティブなおせっかいって言うんですかね そういうのがやっぱりやりにくい文化でもありますので
まあ昔からこうなのかは知らないんですけどやっぱり最近の傾向として なかなか困っている人に素直に手を出せるかというと特に東京ではなかなか
難しいところがあるのかなと思いまして まあそういうことでなかなか
やっぱり 何かやってもらった時に素直にありがとうというのは当然前提としてはあるんですけれども
それが必ずしも 難しいという難しくないというわけではないという時もあるようなと
まあそういう話ですね でもやっぱりこういう
経験してみればやっぱりあそうなんだよねと素直に思うことでも 本当に経験しなければいっぱい飲んで済ませるってしまうことってやっぱりいっぱいあると思うん
ですよね やっぱり障害者は何に限らないんですけれども
それは私たち私たちというのも失礼ですけどやっぱり障害者から見ればやっぱり健常さ というのもやっぱりよくわかんない存在だったり
するので なんでしょうねやっぱり相互理解というのは本当にこういう
ある意味お互いが理解できないとかね 立場の済みをどうさとか
そういうのがあるっていうのを前提にした上でどのように そのまあ不平等だ不平等さとか立場に乗ってわかることわからないこと
まあそういうことをですね やっぱりわかるっていうのがすごく
まあわかるわかると言い合う文化がすごく まあ根付いてますしまあいいこととされますしそれ自体は必要なんですけれども
障害者と社会の関係
なんでしょうね やっぱりわからないもことをわからないままに難しく考え続けるっていうのもやっぱり差別
解消のためには必要だと思うんです やっぱりでも
いつも言っても戦っまあさっきの話にもありましたけど いつも怒り続けるのは難しいですし
いつも心を堅くなにしているのは辛いのでやっぱりわかるわかるという塊も絶対 必要なんですよ
特に心を癒すためにはですね ところがまあちょっと
ただわかるわかるで言う いう団体とわかってくれないといけない場合ってあるじゃないですかわかってくれない人に
そういう時はちゃんと わからないままに
聞き入れて それでわかろうとする努力ですかね
そういう努力も多分必要になっていくし そういう努力をある意味怠けている方々も結構いらっしゃるんではないかと思い自分を含めてね
あり わかりやすいものをわかりやすいままに理解しようとする気持ちは人間誰しも持っていますし
当然そういう常に難しいことを考え続けるのも心に良くないんですけれども ただねやっぱり
これはやっぱり情報の扱いにも似ているんですけど やっぱり人というのはちょっとは難しいものにチャレンジして
もちろん勉強もそうですけども 社会に対して仕事もそうですね
やっぱり社会という曖昧無効なものに対しても やっぱりそういう疑問を持ち続ける
わからないものをわからないままに考え続ける そういうことはやっぱり必要なんではないかなというふうに思います
とりあえずこの話も非常に一般論的というか浅いんですけれども やっぱり障害があるとなかなか他人の見えないものが見えてくると言いますか
別に見たくもないものが見えてしまうんですけれども 例えばやっぱり社会の格差というかギャップと言いますか
なんというかなぁ やっぱり恵まれていると恵まれてない人の格差とかね
残酷なまでに見えてしまいますね まあ自分はどしたから目線で失礼しますって言うんですけど
本当になんか自分は社会の下の方にいるって意識がすごく強くてですね まあそれからなんとかこう
這い上がるじゃないですけど 何て言えばいいのかな
やっぱり頑張って まあたまたま時の運とか
あの現在技術のテクノロジーに恵まれて こういうふうに喋れているわけなんですけども
一歩でも間違ってたら絶対こうはならなかっただろうなという恐怖感みたいなのが ずっとありまして
やっぱりそういう恐怖感に打ち勝つためには やはり
いろんなね 障害があるからダメだとか
障害があるからどうのこのっていうのをある意味羽根のけなきゃいけ羽根のけなけれ ばいけなかったというのもありまして
そういう意味でだいぶ無理して心が壊れちゃったりもしたんですけど 最終的に今ちょっとフリーランスとして働いてて
ちょっといろいろ福祉も使ってますけどとりあえず 障害者夫婦二人暮らしで
なんとか自立してやっていけますのでまあそれ自体は大変ありがたいことだなと思って ますけれども
まあ本当に何かあったら こうはならなかっただろうなぁとかこの先どうなるんだろうなっていう不安はめちゃくちゃ
あるんですけれども だそれでも
なんだろうなぁ
頑張りましたね本当に ただ頑張ってここでまたここなんかっていう思いもやっぱりあったりはするんですけどね
もしやっぱり障害がなかったらどこまで行けたんだろうとか 障害がなかったら
自己防衛な謝罪と自己評価
まあもうちょっと頭良かったんじゃないかとか そういうことやっぱり日々考えちゃうわけなんですけどまぁ考えても仕方ないと言えば仕方ない
んですけどね まあそういうことをやっぱり常につらつらと考えると
やっぱり障害があると絶対大きな社会的なハンデだよなぁと思いますし そのハンデがあるから
まあここまでこれたって気持ちもないわけではないんですけど なんでしょうねぇ
ちょっと再撮の話でちょっとやっぱりいろんな ここありがとうということに疲れたって話ありますけど
ちょっと トレートに今自分もありますねそういうのは
やっぱり自分ごめんなさいとかすいませんって言っちゃうんですけどあれ ある意味自己防衛なんですよね
なんか他人に何か言われる前に自分から謝っておこうというある意味防御反応で あんまりやりすぎても良くないなぁと思うんですけどつい口から出ちゃってその後で反省したり
後悔したりするんですけど
自分をこうやっぱり聞くまあ10歳からまあ結構長い間聞こえないっていう生活を送る中で やっぱり聞こえない時には
ミス多いんですよねまあ今でもめっちゃ多いんですけど やっぱりミスとか多いですからね
そうなると何かあった時にとりあえずまず謝っておこうというメンタルになっちゃうわけですよ
まあでもそれもあんま良くないなぁと思って最近意識的に買いようとはしているんです けど
まあ言っちゃうんですよねもうこれは口だから その度にちょっと相手もびっくりしちゃうだろうし
なんでこのとこんなに謝ってなろうと思われたりするんですけどするんだと思うんです けど
あれそれはそれで相手に気を使わせちゃうって意味ではまあよろしくないとは思ってるんです けどね
ただこれ本当に 自分守るっていうテクニックなんで
本当何も考えずにすいませんとかごめんなさいって言っちゃうので そこを本当に何とかしたいんですけどどうすればいいんですかねこれ
やっぱりとりあえず満を置いてあそうですねとかありがとうございますとかって言い換えれば いいんでしょうけど
いやそれが素直にできたら苦労しないようだとも思うんですけど そういうわけでね全然
自己評価と他者の評価のバランス
ありがとう言うまあありがとうというのも全然苦ではないですし まあちょっと
まあ別にありがたくないんだけどなぁと思ったりすることはたまにあるんですけども まあほとんどないです
でも何だろうなぁでも 素直にありがとうが言えるならまぁだましで自分守るためにごめんなさいとか
ちょっとすいませんばっかり言ったのもよろしくないなぁと思って あとちょっと自分は結構いろいろ周りから見れば色々やっててすごいらしいんですけど
自分では全くすごいとか偉いとか全然思ってなくて むしろ全面靴だなぁと思ってるんですけどそれを知り合いに行ったらですね
いやそこはあんまり謙遜していると逆に嫌味になるよって言われちゃったんですね いやそうなんだと思って
いや自分は本当に検証してるつもりもなくてナチュラルに自分靴だと思ってるんだよね みたいに思ってるんですけど
いやそれをやるとそれをあなたすごいねって言った人に立ちせがないよって言われて そうなんだーってなってましてね
いやじゃあちょっと自分であまり謙遜したり自分を卑下しないで そのようにすごいそうですよすごいんですよって言っていいのかなっていう風に思っちゃったりも
するんですけど なかなかそれも難しいですよね
いや本当にこう バランスバランスっていうのは簡単ですけど
中央であることってすごく難しいなぁというふうに思っております 本日も全然あまり実りのない意味のない喋りとなりましたけれども
まあこれも対して喋りが甘くなく最近やっと喋れるようになった 聴学障害者の誰ごとだと思ってお聞き流していただけると幸いでございます
そういうわけで 本日もお疲れ様でしたおやすみなさいませ
28:15

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