自己紹介
Gyoza Weekをいかがお過ごしでしょうか。きっとこの時期のポッドキャスは誰も聞いてないだろうと思いまして、私の自己紹介を2週にわたってお送りしたいと思います。
まあ誰も聞いてないと思ってプライバシー情報をもりもり含んでお送りしますので、ここだけの話ということにしていただければと思います。
餃子以外の活動としては何をしているのということもよく聞かれますので、そのあたりもしっかりとお話しできればと思っております。
前半は私が餃子に出会うまで、どうぞお付き合いください。
ではまず、私、名前が小野寺力と申します。1976年3月に静岡県の沼津市で生まれました。
沼津といえば中央亭という本当にここしかない独特な餃子がございまして、その餃子は中央亭というのが戦後からあるので、私の母も中央亭で餃子を食べてたのかもしれないななんて今だとだっては思うんですけども、もしかしたら中央亭の味を母乳から味わってたのかもしれないななんて今から思うんですけど。
2歳頃、母親が離婚することになりまして、僕と弟は母の故郷である山形県坂田市の方に行きまして、おじいちゃんおばあちゃんと一緒に暮らすことになりました。
だいたい6歳くらいですかね、そこにいたんですけども、本当に周りは田んぼだらけで、何にも遊ぶものがないので、自転車で農道を駆け回ったりとか、農道脇の水路でザリガニを釣って、犬に食べさせるとか、そういった遊びをやってましたね。
おじいちゃんおばあちゃんが畑でいろいろとスイカだろうナスだろう育ったりとか、あとニワトリ飼って卵をますたりとかですね、本当に田舎の農家でございましたんで、その田舎の農家のお手伝いをするみたいな生活でございました。
たまごを朝になって収穫しに行ったりとか、畑に行ったらスイカあるんだけど、なぜかそこの上にヘビーがいたりとかして、おばあちゃんに泣きながらヘビーを追っ払ってもらったりとかですね、そんな感じの小さい頃を過ごしておりました。
幼稚園を卒業する前ぐらいの時にですね、母親が再婚することになりまして、母親と一緒に、あと弟も一緒にですね、宮城県仙台市に住んでまいりました。
そこで大学まで、小学校、中学校、高校、大学まで仙台で過ごすことになったんですが、仙台がね、だから私とってふるさとでございます。
仙台ね、今となっては餃子のお店もありますし、慣れたら仙台アーバー餃子っていうのを作ったりとかするんですけど、当時餃子屋さんなんて全然なくてですね、本当に餃子なんて全く食べることもないし、家で餃子作るなんてことも、うち共働きでなかなか親と一緒にいることもなかったんで、家族で餃子作るっていう体験がほとんどありませんでした。
餃子との出会い
なのでね、大人になってからいろんな人に会ってですね、ちっちゃい時に餃子包んでたんですよとか、一緒に餃子作って食べたんですよみたいな話を聞きますと、すごいな、いいなと思うんですね。餃子をね、家族で作る家庭っていうのはすごく幸せな家庭だなと思いまして、餃子は幸せな食べ物だなと。
当時ですね、その子供の頃は本当に餃子を食べることはなかったんですが、何を食べたかというと、ご飯に納豆と卵と牛乳というのが冷蔵庫にありまして、母親が仕事に行く前にカレーを作ってくれたりとかして、それを食べて育ちました。
私と弟と、その後新しいお父さんの間に弟と妹が生まれて、合計4人になったんですが、ちっちゃい子供たちの面倒を見ながら、僕とすぐ下の弟でご飯の取り合いをするっていうですね、そんな生活でありまして、ご飯をいかに早く食べるか。
弟より早く食べないと取られちゃう。相手に言ってみたら逆にお兄ちゃんに取られちゃうっていうのもあると思うんですけど、食べ物に対しては戦いがありまして、早い者勝ちっていうですね。それでいっぱい食べる、早く食べるっていうので大きくなったのかなと。
本当に冷凍庫を空っぽにする勢いで食べてました。なんで体もしっかりと大きくなりまして、うちの弟も実は大きくて、4人いる中で女の子である妹が170センチで、あと男の子たちは全員185へっていうですね、大きく育った家族でございまして、そういったところの背景があるのかなと思うんですね。
とにかくご飯は味わうものではなかったですね。とにかく栄養でございましたんで、食べてとりあえず満腹になるってことが目的でありましたんで、餃子がおいしいなとかそういったグルメなところとは全く無縁な生活でございましたね。
私、今でもバカ舌なのはそういったところがあるのかなと思いますけども。そんなこんなで小学校、中学校は義務教育を過ごしまして、中学は実はあんまり好きじゃなくて行ってなかったんですけど、もう半分ぐらいしか行ってないんですが。
何してたかというと、電子工作なんかにハマっていた時期がありまして、ハンダとかハンダゴテを買ってきてですね、電子工作キットがありました。電子工作キットでウソ発見機だったりとか、まあよくあるやつですけど電子工作をしたりとか。
あと当時、ミニ四駆が弟の実家に生えてましたね。ミニ四駆をいかに速くするのかっていうので、モーターに電池2本でしたかね、積んでましたけど、電池増やしたらモーターもっと速くなるんじゃないかとか、いろいろ実験したりとかですね。そんなことを楽しんでた時期でございましたね。
当時はゲームウォッチを買っていただいたことがありまして、ゲームウォッチを買ってもらって、これなんでこんな複雑なことをここでできるのかな、こんな小さいのにできるのかなとふと思いまして、大むろにドライバーで解体し始めまして、最終的にそれを元に戻せなかったんですけど、解体して、こんな変なギザギザの部品がいっぱいついてるんだなだったりとか、これどうやって動いてるのかなとかって、電池で動いてることはわかったんですけど、どうやって動かしてるんだろうなとか、熱かけたら溶けんのかなとか。
いろいろ本当にもったいないことをしました。実験しました。解体して遊んでおりましたね。その流れで電子手帳が欲しいっていう話になりました。電子手帳も買ってもらったんですけど、電子手帳も同じく最後解体して終わったっていうですね。
本当に親には申し訳ない気持ちでいっぱいでございますが、そういった何か新しいものに触れていくガジェットがすごく興味津々でございまして、そのガジェットがなぜ動くのかということにも興味津々でございまして、それが将来的に私のITの方に走るきっかけになっているのかなと思いました。
あとは高校の時に、スタートレックThe Next Generationというスタートレックのシリーズの第2弾のシリーズがありまして、それが深夜放送がありまして、そのスタートレックを見るのにとにかく夢中でございました。録画して何度も見るみたいな、とにかくスタートレックで僕の人生観が変わったぐらいの感じでございましたね。
スタートレックは何が面白いのかというと、やっぱりガジェットが出てくるところ、携帯電話みたいなところもそうなんですけど、通信が携帯電話じゃなくてもうハンズフリーですし、なんでだったら密報もコンピューターに語ってそれが記録されていくっていう、これが未来なのかと、未来を感じてこれが実現されていくんだなと思うとワクワクするしドキドキもする。
大人になってから振り返ってスタートレックを考えてみると、スタートレックで見せられていたものが実現してたんですね。携帯電話もそうですし、無線通信もそうですし。やっぱりアメリカっていう国でスタートレック生まれてますけど、アメリカ人自身がスタートレックを見て、それを実現してみようという人たちが実際いっぱいいたんだろうなと。
ワープ方法がどうだとか、バーチャル空間がどうだったのかと。複雑で難しい用語だったりもするんですけど、実際科学者たちが集まってこれ科学的に正しいのかどうかとか、あり得るのかどうかというのを検証しながら作っているので、ただのただの空想だけで作られているわけじゃない。ちゃんとサイエンス、フィクションなんだけどサイエンスであるというところが面白いですね。
とにかく今でもスタートレックは好きですけど、高校生からスタートレック好きでスタートレック見ておりましたし、実際そこでスタートレックは軍艦でございますので、宇宙艦隊っていう軍隊でありますので、軍隊の指示っていうのはすごくクリアでシンプルなんですね。
クリアでシンプルで、かつ上巻に復讐しなきゃいけないんだけど、しっかりと個性が個人の考え方も尊重されていて、しっかりとリーダーシップもそこにあるみたいなところがすごく僕の中には憧れがありまして、将来大人になったら何になりたいかって言ったら、ジャンルクピカードになりたいっていう夢を持つぐらいスタートレックが好きでありました。
それが今どうやってつながっているのかというと、業界につながるところとしては、新しい未来を切り開くというところにすごく好奇心がある。誰かが切り開いた道を行くのではなくて、新しい自分の道を切り開きたいという性格につながっていっているのかなというふうに思うんですね。
部活の方は中学生は帰宅部でございました。本当だから家で電子工作したりとか、ワープロを親が買ったものをワープロ買った場所からマニュアルを開いて、このワープロで何ができるんだろうっていうのをとにかくマニュアルの細かいところまで見てそれを確かめてみたりとかして、この機能をフルに使ってみたいっていう欲求があったんですかね。
それが今でも続いている感じがしますけど、とにかくマニュアルの中に知らない何か機能があるとワクワクして試したくてしょうがないみたいなことがありましたね。スポーツは全くしておりませんで、高校入ってからスポーツしなきゃダメかなと思いまして、身長が高かったんでバスケ部入れてもらったんですけど、本当に小学校から中学校からバスケやってる人間とは全然比較になりませんで。
とにかく何が比較にならないかって、体力ですね。もう走れませんでしたね。長い距離、今でも走れませんけど、有酸素運動は本当に苦手。瞬発力だったりとかジャンプ力みたいなものはあったんですけど、有酸素運動、長距離走るとかそういったものが本当に苦手でございまして、本当バスケ向かないっていう。だけどバスケ部の仲間とは仲良くしてもらってまして、今でも大学卒業した後、東京に出てきたバスケ部の仲間と飲み行ったりとか仲良くしてもらっております。
マクドナルドでのアルバイト
あ、そうだ、その時ね、高校の時にマクドナルドでアルバイトしておりましてですね。バイト禁止だったんですけど、今はもう時効だと思うんで喋りますが、マクドナルド、厨房で働いておりました。マクドナルドでアルバイトしたことある方はご存知かと思うんですけど、むちゃくちゃ楽しいんです。
アルバイト仲間も同じような年齢、大学生だったり高校生とか多くって、その中でマニュアルがしっかり決まっておりまして、そのマニュアル通りに作ればできるんですけど、そのマニュアルをいかに正確に早くできるのかっていうところが評価されるポイントでありまして、それがめちゃくちゃ得意だったんですね。
ハンバーガーを1回で12個作れる機会があったんですけど、その12個ね、焼いてる時間は決まってるんですけど、ケチャップだったりマスタードだったり、シャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャ
私を見てですね、私の弟や妹たちもなぜかマクドナルドで全員働くっていうですね、兄弟4人ともマクドナルドで働いておりました。
なのでね、今でも家族が集まるとマクドナルドの話をよくするんですけど。
今ね、全然作り方変わってるらしいんですけど、当時はかなりアナログで、で、発注のシステムもアナログで、去年はこれぐらいの時期にいくら売れたのかとか、
天気はこの時にいくら売れたのかっていうデータを持って、じゃあ今いくつ分作るべきなのかみたいなことを分析しながら、
厨房内にオーダーしてストックしていくっていうシステムだったんですけど、それも考えるっていうのがすごい大好きで、
マーケティングするっていうところが、その時の初めての出会いだったのかなと思いますね。
とにかくそういうマクドナルドでアルバイトしてたんで、高校のバスキューブも中途半端になりましたし、
何校もがもう中途半端に育ってきて中高をやってましたね。
なので大学も中途半端な大学に行きまして、東北福祉大学の社会福祉学部社会教育学科っていうですね、
本当に何がしたいのかわからない福祉なのか教育なのかっていうんですけど、社会教育っていうね、人生をかけて教育をしていくっていうところの学問っていうんですかね、
研究をしている人たちにも出会うことができまして、
ある意味ではね、今義務教育なんていう話をします。義務教育の中で行座を通して社会を学んでいく、世の中を学んでいく、
大学と中国への留学
自然だったりとか人文科学ってものを学んでいくってことを生きるんじゃないかって言ったら、やっぱりここら辺に起源があるような気がするんですね。
教育をする場所っていうのは学校だけじゃなくて、例えば図書館だったりとか博物館、科学館みたいな、
社会の公共施設の中で一生懸けて学ぶものもあるんじゃないかっていう学問でありまして、
だから常に身の回りに学ぶべきものがある。その学び方だって様々あるんだというところが一つあるのかなというところですね。
あとは個人的に中国に留学をしたいなと思ってまして、というかね、仙台にあまり面白い就職先がないんですね。
仙台って支店経済でございまして、東京のなんとか支店みたいな、仙台支店東北支店みたいな多くって、
あんまり魅力的な仕事と思うものがなくて、
そのことも中国に行って、僕が世界を知って、なんか新しい道を切り開きたいなと思って、中国語を勉強していた時期がありました。
中国人の先生にマンツーマンで1週間に数時間教わりまして、中国語の話し方。
主に中国の漢詩読むっていうですね、そういったことをやったというかしながら中国に関心を持って、
中国の今で言うと甲州南の方の広い州とか行ってたところの甲州大学ってところに留学を届け出を出したりとかしてたんですけど、
大学卒業する時期にですね、地納棟とか事故を起こしまして、なかなかちょっと大きな事故だったんで、
これはちょっと大変だなということで中国留学を辞めまして、当時仙台の駅前にありましたサクラヤっていう家電量販店がございまして、
そのサクラヤで最初ね、ビクターの電話機、固定電話を売ってたんですね。
固定電話を売るっていうことを通しながら、ついでだからマリのものも一緒に売っちゃえやって思って、
携帯電話の営業とマーケティング
FAXがあったりとかいろんな電話機があったんですけど、基本的にはビクターを売ってたんですけど、いろんな電話機を売りました。
それもやっぱり僕マニュアル大好き人間なんで、マニュアルをひたすら片っ端からしっかり読み込んで、
これこんなことができるんですよなんて話をしていると、お客様はそうなんですね、こんなことできるんだったら買ってみようかしらなんつって買っていただくみたいなことがありましてですね。
とにかく売るっていうのは結構楽しいな、なんか知っている知識を誰かに伝えていくのは楽しいなということをやっておりました。
そんなことをしているうちにですね、携帯電話コーナーの方で、小野寺くん携帯電話売ってみませんかってなんて話になりまして、携帯電話を売ることになりました。
携帯電話は本当はマニュアルの塊でございまして、いろんな機能が入っているんですけど、1998年に当時携帯電話を売っててですね、私もその時に初めてパソコンを買いまして、
インターネットに触れることがありまして、インターネット、PHSでインターネットを繋いで、インターネットの世の中の情報が何でも手に入る、もうマニュアルどころじゃないなっていうところがありまして、
いろんな情報に触れながら当時のインターネットを楽しんでいたんですが、そんなことをしているうちに携帯電話でインターネットが見られるらしい。
そういうことが1999年に始まりまして、これは面白いなと思って、私自身もウェブサイトを自分で作ってみようかしらなんてことで、HTMLを読学しまして、HTMLでコーディングしてウェブサーバーも借りてそこに置いて、それを携帯電話で開いてみるみたいなことをやったんですね。
それはそれで感動でございまして、自分で作ったコンテンツが携帯電話で見られる。なんか与えられたものじゃなくて、自分で発信ができる時代なんだと思って、そこですごく感動を覚えまして、iModeコンテンツを自分で作って、それをお客さんに見せながら、
これは僕が作ったんです、こんなことができるんですよみたいなことを話しながら携帯電話を打っていくっていうことをやってまして、それもなかなか好評いただきまして、よく売れたんですが。
そんな中で、仙台駅前のサクラやて家電量販店が潰れるというか、なくなることになりまして、じゃあどうしようか、仕事しなきゃいけないかと思って、仕事先を探している中で、ある大手メーカーの東京市の方の方が仙台で面接があるというので、そこに応募しまして、面接していただきましたら、
面白いね、東京に来て働きませんかって話になりまして、そこで働いた先がデータセンターの営業でございました。データセンターの営業って、データセンターが何者なのかさっぱりわからないままに、しかもデータセンターと同時にセキュリティーの販売もするっていう。
とある稲森さんっていう創業者の本を読んで、朝体操してっていうところ、本当工場みたいなところであったんですけど、そこの営業部門で働いておりましたけども、とにかく全然売れませんでして、才能はないなと、B2Bの才能はないのかなと思うんですけど、とにかくその時は売れませんでして、7ヶ月やってみたけど売れませんで。
営業好きですね、当時サイバードっていうモバイルコンテンツを作っているところがありまして、そこはめちゃくちゃ面白かったんですね。インターネットを使ってこんなコンテンツができるんだよなんていうのは、当時千葉幸太郎さんっていう方が広報をやってまして、千葉幸太郎さんとお話ししているうちに営業しに行ったんですけど、結果的に千葉さんの下で働いてみたいなと思って、サイバードに入社することになりまして、転職しました。
サイバードってこのところでは、主に通信会社の方に営業する部隊っていうところで、マーケティング部っていう、まあ部署名はしょっちゅう変わってたんですけど、私主な取引先っていうか担当がDDIとDDIポケット、今だったら軽DDIです。
そこの新しい携帯電話が生まれますよって、そのときに新しい仕様が出ますよっていうときに、その仕様を聞いて新しいコンテンツを作るっていうところを会社全体で知らなきゃいけない。その情報を仕入れてきて会社に展開するっていうことを仕事にしてたんですね。
それをいかに効率的にやれるのかっていうところで、勝手に社内サーバーを立ち上げまして、自分でグループサーバーを立ち上げて、この権限の方がこの情報までアクセスできますみたいなセキュリティを勝手に作りまして、そこに仕様書を置いて、皆さん読んでくださいねっていうご案内をするみたいな。
そのときからインターネットにコンテンツを作るっていう楽しさがまたムクムクと自分の中に置き始めまして、しかも2004年くらいになりますと、そろそろモバイルっていうのもアプリが出てきたりとかして、だんだんと踊り場に入ってくる時代がありまして、そのときにやっぱりもっとちゃんとインターネットの原理を知りたいなと思って。
そのときロッポニーヒルズっていうビルで働いてたんですけど、ロッポニーヒルズの上のフロアにライブドアっていう会社がありまして、そのライブドアはインターネットをポータルサイトでやっているというところで、ちょっとライブドアに行ってみようかなと思って転職しまして、この会社は入社すると最初に椅子、机なくて自分で調達してこいっていうシステムでございまして、まず机も空いてるところを自分で探して、そこを自分の人質とするってところから始めなきゃいけない。
全く会社としては社員のケアを特にするような会社でもないみたいなところでありまして、ライブドアに入って最初にやったことは椅子、机を探してきたんですけど、空いてるところがお礼さんの近くの斜め向かいぐらいのところの席でございまして、本当にこんなところにいいのかなと思いながら椅子、机をそこに置きました。
エナジャイズの立ち上げ
当時はポータル事業部というライブドア、今のYahooのようにポータルサイトをやってまして、ポータルサイトの中にあるコンテンツ、この中でも検索コンテンツ、検索は当然そうなんですけど、検索系でいうと地図だったりとか辞書だったりとかそういうやつですね、キーワードで引っ張ってきてコンテンツを出すみたいな、こんなコンテンツを作るということを自分の担当としてやっておりました。
ライブドアという会社自体はすごくエキサイティングで、日々新しいことが巻き起こっていくし、本当にベンチャー企業ってかくられるべきだなと思うんですけど、常に新しいものに対して集めてきたお金を投資していくっていう、そのスタイルが面白いなと思いまして、ライブドアでいろいろな仕事をさせていただきました。
その仕事をしていく中で、やっぱりこれは自分で会社をやった方が面白いなっていうのがなんかムクムクとなってきまして、というかサラリーマン合わないなっていうのが自分の中にありまして、サラリーマンを辞めなきゃいけないのかなと思って、サラリーマンをいきなり辞めても会社経営のことは全くわかんないんで、当時2006年ぐらいに自分で会社を独立し始めるんだっていう、サイバード社員の元同僚に会いまして、じゃあちょっとお手伝いさせてもらえますかっていうのでお手伝いさせていただきまして、
そこで3年ほど一緒に働かせてもらって、いろいろ学ばせてもらって、そこを経てようやく2009年に自分で会社を立ち上げました。最初の社名がエナジャイズっていう会社名でございまして、最初エナジャイズっていう会社名にしたのは何でかっていうと、スタートレックの中で転送っていう技術があるんですね。
遠く離れたところに物を送るっていう転送っていう技術がありまして、それを転送するときにエナジャイズっていうんですね。当時クラウドコンピューティングが始まりかけた時期でございまして、まだまだ今のようにクラウド当たり前な時期じゃございませんでして、ただ僕の中でもクラウドこれは当たり前に当然に標準になっていくだろうなと思った時期がございまして、セールスフォースなんかがローソンに導入されましたみたいなのがニュースになるぐらいクラウドがまだまだ使われてない時期でありました。
その時期にクラウドをどうやって世の中に広めていくのか、いろんな企業にクラウドを使ってこんな便利になっていくんだよってことを伝えていくことは仕事にできないかなと思いまして、クラウドコンピューティングを自分の仕事とすることにいたしまして、クラウドコンピューティングの導入のサポートみたいな仕事をやってました。
なんで社名をEnergizeって名前にしました?私一人で始めた。一人社長でございました。当時はいろんな方にご迷惑をおかしながらもいろんな仕事をさせていただきまして、しないにクラウドコンピューティングだけじゃない、当然ウェブサイトを作ったりもするしサーバーの方の仕組みを作ってやったりとかもするんですけど、インターネットの仕事だけじゃなくてスタートアップ支援だったりとかいろんなお仕事をさせていただくようになりまして、
だんだんと仕事の中身がITドカタっていうところから工事現場の現場監督みたいな感じの仕事をデザインする人とかコーディングする人、プロデュースをする人とかいろいろいまして、そういった人たちの思惑だったりとかスケジュールだったりとか予算だったりとかを調整しながらピタピタピタってはめていって、ちゃんと予算通り予定通りのスケジュールにはめて動かしていくっていう、そういったITドカタの親方みたいな仕事をだんだんとするようになりまして、
今に至るんですけども、そのやってる中ですよね、渋谷の工場っていうコワキングスペースで仕事をしてたんですね。職場としてコワキングスペース借りてやってたんですけど、その工場ライブラリーってところがありまして、そこで100人ぐらい無理すれば入れるような場所でございました。
そこで餃子を焼いて提供するってところから、私の餃子人生が始まったという感じですね。
ということで、今週はここまで。次回はどうして工場で餃子を焼くイベントを行うことになったのかっていう話から続きます。
今回もお聞きいただきありがとうございました。聞く餃子はSpotify、Apple Podcast、YouTube Music、Amazon Music、Listenで毎週火曜日の夕方5時に配信しております。ぜひ番組のフォローやいいねをしていただけると嬉しいです。
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次回、餃子ジョッキ誕生の秘密が明らかになります。