不眠とコキブリ事件
午前3時に目が覚めました。
特別何があるわけでもないんですけども、
昨日の夜、9時前に寝てしまって、
大体6時間くらいだったんですかね。
3時ちょっと過ぎにバッと目が覚めて、
ちょっとトイレに行って戻ってきて、
もう一回寝ようかなと思ったら、
まだこうちょっと薄ら寒いので、
ストーブが出してあるんですけども、
そのストーブのところからカタカタ音が鳴ったので、
なんだろうなぁと思って、
薄暗い中、ちょっと見ていたら、
季節のものですね。
コキブリがストーブの隙間からカタカタ出てきたんですね。
多分出てきたというよりは、
イメージ的には天井から落ちてきて、
ストーブに落ちて、
そこでカタカタ鳴らしてたんだと思うんですけども、
すぐに起きて、殺虫剤で動きを止めて、
ペーパーで包んでトイレに流して、
終わったんですけども、
そこからずっと起きてるんですね。
結局朝まで本当に眠ることなく、
十分寝てるので問題はないと思うんですけども、
五道待ちながらとポッドキャスト
ずっと、やることもちょこちょこあるんですね。
今日は仕事が休みで、
やりたいなと思ってた本を読んだり、
電話をして確認をしたいことを確認してみたりとか、
いつものごとく罠を見に行ったりとかしてました。
この後は、子供の学校、
この後は子供の学校の保護者会があるので、
そこに向けて準備をするということになるんですけども、
今日は雨がひどくてですね。
学校行くのに車で停める場所がないので、
もともと駐車場がないので、
歩いて行くかもしくは自転車で行く、
そう大した距離もないので問題はないんですけども、
ただ雨が降ってるというところでね、
やや気持ちが上がらない、そんな日ですね。
今、本を読んでてですね、
ずっとね、何回も借りては読み、
途中で疲れて、最後まで読まずに、
終わってしまうという、
僕の中ではもう何回もこの本を借りてるんですけども、
五道を待ちながらという本ですね。
戯曲本ですね。
五道というね、人を待ってる、
そんな人たちを描いた、
不思議な感覚に陥るという、
そういう戯曲本なんですけども、
何を求めるわけでもないんですけども、
この本、時々借りて読んでしまうんですね。
そして結局、もやもやして終わるという、
この答えがない感じが、
僕の中で一番、
その一冊ですね。
それとは別にね、
ポッドキャストの方で優しい、
優しい、
優しい、
優しい、
優しい、
優しい、
介護民族学の感想
優しい、
優しい、
優しい、
優しい、
優しい、
優しい、
優しい、
優しい、
優しい、
優しい、
優しい、
優しい、
優しい、
優しい、
優しい、
優しい、
優しい、
優しい、
優しい、
そこからちょっとこう民族学っていうものにね 少し興味を持ったので
図書館で民族学という本を検索してみると 出てくるのはもちろん柳田邦夫の党の物語
で 原作は多分
一発目読んでもわかんないだろうと思ったんで 漫画で読む
党の物語っていうのをね
これ どなたかの寄贈の本ですね寄贈された本
それを借りてちょこっと読んでみました よくわかんないですねまぁただ
それと同時に借りてきたのが 無車由美さんという方の
介護民族学へようこそスマイルホームの物語 という本ですね結構古い
本ですかね
これ自体は 2015年8年前になりますか
そういう 本
を借りてきて 介護と民族学まあ今介護は自分がいる
カテゴリーですねそして民族学は興味のある 興味を少し持ったそういう
ワードが2つも並んだ本があったので借りてみました で
そこで この無車由美さんがやられていることが聞き書きというね利用者
に対する聞き書きということをやられていて 非常に面白い
取り組みだなぁとなんかこう共感できる なんかしっくりくるなぁっていうのをずっと思っていて
なんでかなぁっていうのが あったんですけどもそれは多分僕自身
神給師として
仕事をしていた時に 患者さんの
今の状態 まあ例えば腰が痛いとか
首が痛いとか お肌の調子がものすごく悪いとかね全身
の肌の調子が悪いとか
女性ねであれば
生理が 定期的にないよとかね
生理痛がきついとか そういう話だったりとか
夜全く眠れないとか いろんな
症状 不定周曹を訴える
そういう患者さんたちと
まあお話をして僕自身はね 聞き書きというワードを全く知らないし
あの僕はこのやり方というのは自分の
治療の 師匠とか先輩とかそういう人たち
とかからのね
やってること教えですね教えを受けてやってることですけれども もうあの本当に老いたちから聞く
まあその人が話したいことを話したいくないことがある ねその中で自分の中で
話せる 部分でもいいしまあ
病ね治療院の中 だけのものだから
あなたと私だけのことなので治療に必要だと自分でねもしこの今の自分の状態を本当に直したかったら
全部洗いざらい言って構いませんよと ということで
本当に子供の頃 記憶
にまあようやく残るかどうかっていうような頃の話からね ずーっとこう
メモ してね
記録をして その人の年表というかね生きてきた
ことだったりまああとどういうところでどういうタイミングでご家族が なくなったかとか結婚
別れいろんなこと そういうことをすべてがねその人の体に残ってきての今の状態
っていうふうに捉える まあそういう考え方ですよね治療の中での考え方
介護民俗学
ただ今だけを見る っていう
治療の考え方ももちろん ありますしそういう考えで治療する
ことも僕自身もありますけれども
その過去をね 聞いてその人の履歴を全部聞いてその上で治療を行っていく
っていう まあそういう治療方法っていうことをねやってたことがあります
それが少し聞き書きと似たような 感覚でしてね
まあできるだけその
聞き書きと違うのは
第3者的な感想 とかはそこにはさまないので
さらにこう
ねあの盛り上がらせるような感じの煽りみたいなそれそれからそれからとかねそう いうのは長いので
まあただ 淡々と聞くっていうところだけなんですけどもね聞く
っていうそういう やり方に
すごくこう 面白いなと思いましてね
でまぁ自分自身こうまぁ今 僕は介護施設でリハビリ担当ということで
利用者さんの体を触ることが多いわけですけども その時にね
まあ
膝が曲がってる腰が曲がってる
とかそういう体のまああらゆる 場所を触ったりて
まって節々がゴツゴツしてるねとか でまぁ体骨折したりとかしてるとその骨折
した部位っていうのは太くなってたりするのでまあパッと何これ昔本音をたの とかね
そういうことを聞いてそうなんだそれは仕事の時 あの
仕事関係なくとかねそういう聞き方でどんどんどんどん聞いていって そうなんだ仕事すごいね今は機会があるけど当時は機会がないからねーとかね
どんどんどんどんこう話を回していく みたいなことでね
姉妹には何かこう ね利用者さんの方が
リハビリはいいから先生また昔話しようよみたいなことでね言われたりとかして あの
なんか本当にね 僕自身もその
昔話をね聞くのは楽しくてね 思わず時間をオーバーして聞き入ってしまうそういうことがあるんですけどね
そういう介護 の上での民族学聞き書きというそこをすごく
感動したのとさらに ね本当に
僕 はこう
人間て 年取っても年取らなくても人間は必ず死ぬんですけども
まあ 年を取ってできないことが増えればそれは必ず
人間最後はみんな死ぬのでね その
死んでいくことに その死ぬということに後ろ向きな
感覚を持ってる のがおかしいんじゃないかというそういう
ようなね内容がちょっとありまして そこにはすごくこう
共感をまたここも共感を得たあの得たというか共感したんですね
その死ぬことを とにかく悪いことと捉えるその
っていうのも変だなぁと思うし僕こう 体を触る専門職として
衰えていくことが 絶対悪
っていうふうに
今の介護の世界ではなっているんですよね
機能訓練 っていうところであれば
介護の哲学
短期記録短期目標というものをね立てて
そして長期目標というものを立ててそして その目標に向かって
どんな年齢の人でも 訓練を行って向上していく回復していく
っていうことが目標に掲げられるわけですね でなおかつ
この新しく
データを取ってねやっていく科学的な介護ということでのライフというね
ソフトウェアを使っての うちの施設はやってないんですけどもそういう中ではね
いわゆる要介護度が下がる adl が上がる成長する
そういう 人がそういう利用者が
介護度が下がる そういう利用者が多い施設ほど加算が
得られるという そういう
仕組みに なってきてます今のね介護の
仕組み自体がね でもこれって
衰えることを 良しとしてないわけですよね一切
家庭での介護
もう 人間
衰えて 年取ってね
衰えて
やれることがだんだん減ってくる まあトイレに行けないとかねまあ料理ができないとかももちろんそうですよ買い物が
できないとか 車の運転ができない買い物
ができない 料理ができない
お金の計算薬の管理 お風呂に入れないとか
まああれもこれもできない そういうところをこう介護の
ケアという言葉で お手伝いというね
解除しているわけですけども なんかそこ自体がね
本当に
おかしいなって思う部分があるんですよ あの
できないことを 手伝い
していくとやらなくなるんですよね 例えばデイサービスに来て
ご飯が出てくるお昼ご飯が出てきますね もうその時点でお昼ご飯の用意をしないわけですからお昼ご飯
を 自分で食べる作って食べるというそういう
ノウハウはその人の体からなくなっていっちゃうんじゃないかなと思うんですよね 今は配食サービスと言ってね
ご飯を届けてくれる そんな
仕組みもあるのでまぁ作らなくてもいいじゃん とかね家でとにかく
家で生活できるように自宅で生活できるようにということをこうお題目のように 言ってるんですけども
まあその家で過ごせる ようにという中でまぁあれもできなくなってもいいこれもできなくなってもいい
それでもいいから家で過ごせっていう風に 言ってるような気がするんですよね
ご飯が作れませんああわかったじゃあ3色箱の配食サービス もしくはの昼は
デイサービス 夜と朝の分は配食サービスだ
お風呂お風呂は週3回ぐらいデイサービスで入れりゃいいだろうね
トイレリハパンで パッド
自分でそれに 出して交換できる
ようになったりもし交換がうまくいかないんだったらヘルパーさんが入ってそれを 交換するだから
大きなパッドで6回とか10回とかたっぷり吸収できるものを入れて
トイレに行かなくてもまあなんだったらもうなかなか歩けないわけですから 歩けなくてベッドからトイレに
頑張っていかなくても 1日
2回パッド交換 リハパンの交換おむつの交換をして何とか過ごす
寂しさと生きる意欲
そこまでして家でやっぱり 過ごさせるっていうことの
なんかこう違和感を 感じる部分ですよねそして
本当にどうしようもなくなったら 施設だと
まあなんでこんなになるまで施設
を探してなかったんだみたいなこともね出てくるでしょうし なんかここすごくね
今の制度に
違和感っていうのをねやっぱり 思っているところです
人間って年取っても頑張らなきゃいけない まあ
っていうその 目標を持つというのは良いことだと思うんですよね
何にせよ 何にせよ目標を持つということはいいでしょうけども
例えば うちの祖母
ですね103歳で 亡くなりましたけども
100歳を超えて 総理大臣からの表彰状をもらいますね
で それからしばらくして
それまでは 離れの2階に一人で生活していたんですね
まあ食事の時だけ
家族と一緒に食事をとるという形だったんですけども
離れの2階で トイレが1階
階段を降りてトイレに行って和式のトイレです そこで用を
出してでまた2階に戻るそんな 生活をしていたんですね
で別に本人が辛いというわけでもなく本人はそこで暮らしているのが
とても楽 気は楽ということなのでまあ誰も
止めませんからね でこの
祖母がね
僕の治療を受けてたんですけども
そんな時にね時々言うのはね
あの僕に コロッといける壺はないのってたまに言うんですよね
コロッといける壺がいやー みんな寄ってたかって僕のとこ来ちゃうだろうっていう話もしたこともあるんですけどね
あの 今日ここにプスッと針を刺したら明日の朝目が覚めないで済む
そんな壺はないのかとか
いろいろ言うわけですよ で
やっぱりねその 死にたいというねワードを直接言うんではなくて
楽に生きるものはないかっていうまあでも言ってる内容は全く同じなんですけどね で
まあこっちも興味があってなんで そんなまあ全部ね
まあ ねないものはないんでないよーっていうことで
言ったら まあその後ちょっと興味があってなんでそんな猫という
っていうふうに 聞いてみたら
孫 申しんでまあ僕のいとこですねいとこも死んで
私は孫の葬式に出るつもりはなかったと
で 自分の兄弟も全員死んで
近所の 知っている人たちももう誰もいないと
自分だけ 長生きしてしまった
まあそこに対して 本人の中でこう寂しいという感覚ですよね
まあ時々冗談めかして言ってたのは おじいさんボケちゃって私のことをね忘れてあの世に行って私の迎えに来るのを
忘れていると いうことをこう冗談めかして
いうわけですよね もう本当にあのじいさんはねあの地方になってあのボケちゃったもんだから
私のことも忘れて 早く連れて行ってくれりゃいいのにもほったらかされてるもんだから私はずーっと
長生きしちゃってるよと さっさと連れて行ってほしいわ
そうやって言うんですよね 寂しいその
現実として僕たち ねあの親類一族が
老化と医療
いてもやはり寂しさはあるわけですよね
やっぱり 本人の中での寂しさというものがどこにあるのかってのは人それぞれ違うと思うんです
けど その寂しさを
本人の中ではもう自分が みんながいる方に行くことでしかその差し寂しさを埋めることができない
という状況だったわけですよね
だからといって 死にたいと今すぐここで死にたいと
いうわけでもないし
何かしらの手段で 死のうという
ことも そこまでの考えることではないけどとにかく寂しい
どうやったら早くちゃんちゃんと死ねるかっていうねどうやったら早く死ねるのか ちゃんと死ねるのか
なんで私は長生きしてるんだ っていうふうに言っている
本当に毎週2回僕は治療ずっとやってましたから2回3回
やってましたからね
常にそういう話を聞く
立場でしたね なかなかこう
治療師でありながら家族の 一員というねそういう
立場の 人間というまあ面白いポジションだったんですけども
長生きして
まあ100歳を超えて 膝が痛いのも飽きた
別に治りたいっていうわけじゃないんですよもう膝が痛いのも飽きた 腰曲がってるのももういい別にあのまっすぐ歩きたいと思う
だから いろいろ飽きた
っていうふうにも言ってましたね 本人の中で
膝がまっすぐに伸びない変形 していることもあるし
腰が伸びない そして痛いっていうことに対しての
現実はそこにあってももうそれは本人の中で悩みじゃないわけですよね で
介護の現場の問題点
介護の現場にふっと今戻ってみると 本人が
意欲的に 改善傾向に
自分の体をね良くしたいと思っていないのにも関わらず さあ何々さん今日も頑張って運動しましょうねと
いうのは何か違和感あるんですよ どうも
何なんでしょうかねそこは
多分ですけど僕が年取って
あっちもこっちも悪くなって 動きが悪くなって
さあゴリさん今日も歩くための運動しましょうね
歩くための運動で歩かせるっていうのは僕はあんま好きじゃないんですけど 歩けない
うまく歩けないのにも関わらずなんで歩くんじゃいって言うね 歩くために必要な基礎的な
歩かなくてできるトレーニングを まずやるべきじゃないのかっていうふうに思うんですけどもね
一足飛びに今歩けないから歩く練習してください
むちゃくちゃなこと言うなっていう人もいますけどねご家族でね まあ
本人がね今歩けないから急に歩かせろっていうふうに いう人ってあんまり見たことないですよ
もうちょっと歩きが良くなったらいいなぁ っていう言い方をしてきますよね
高齢者の機能訓練とケアプラン
ただそれはもうちょっとなんですよね昔みたいにスタスタ歩きたいっていう そこまでの超高齢者っていう人はあまり見かけないわけですよ
だから本当に超高齢者あの85歳を超えるような 方
方ですら
機能訓練をして 機能を向上して
生活をより良く していきましょう生活の質を良くしていきましょうと
いうふうなプランをね 立てられたりするんですけども
まあそういうことに対して違和感を 持ってるのが僕一人じゃなかったっていうのをこの
無車さんの本を読んだ時にすげー遠回りになりましたけど戻ってきましたね この無車ユミさんのね本を読んだ時に
年寄りが 年寄りらしく
望むような おしまい
を迎えられるように そういうサポートができるような
世の中にというかまぁ考え方に
なっていったらいいなーって 思っています
本人が活力的に 生活したいのならばそれのサポートをするそうじゃなければ
本人が望むような ことをしっかり聞く
そのケアプランとかを作る時にそういう あの毎日静かに部屋で好きな本を読むとかっていう
そういう静かなねあの アクティブでない
そういうケアプランてあんまり見たことがないので ソフトウェアにもそういうのは元からないんじゃないですかね選択肢の中に
もちろん普通は全部自分で手書きで入力 するんだしと思いますけどね僕ケアマネー
静かでアクティブでないケアプランの不足
でではないのでどういう風なツールを使って皆さんケアプランを立てているのか知りません けれども
例文みたいのがあってねその中にそういう静かなプランというのはあまりないのかな っていうふうに想像してしまいますね
でも
人生頑張ってきて ようやく静かに過ごせる
時間
を なんかこう周りが引っ掻き回しちゃってる気もしないでもないなと
いう ようなね感覚を
ちょっと持ったりしています さあじゃあちょっと子供の学校に行かなきゃいけないので今日はこれで
終わり