1. グッドバイブス ミッドナイト楽座
  2. 064「人には言えない最初の形..
2022-12-23 50:30

064「人には言えない最初の形」に戻せば怒りの大半は消えてなくなる

spotify apple_podcasts
自分の怒りを、誰もが共感できる「行儀のいい形」に変換すると根強く残ってしまう。それをちょっと恥ずかしい「最初の形」に戻して向き合えば簡単に手放せる。今日はそんな話をしています。番組でお知らせした「ちえとぞの年末特番トークライブ」のお申し込みはこちら→ https://goodvibes20221223.peatix.com
00:00
GOOD BYE'S ミットナイトラクザ by クラザムケイザ
こんばんは。ただいま12月22日、木曜日の午前3時5分ですね。
実はこの番組はね、配信する直前のミットナイト、午前何時、3時とか4時とかね、そのあたりに撮ってるんですけども、
今日は、今日はというか明日はですね、明日の金曜日のこの時間は寝ないといけないんですよね。寝てないと。
というのも、浜田知恵さんとね、生知恵園ライブを大阪でやる日でして、朝ね、大阪に向けて旅立つんですよね。
だからこれ直前までこの収録をしてるとほぼ徹夜になってしまうんで、前倒しですよ。
まさにこの前倒しでね、初のこの番組始まって以来のこの取り溜めみたいなやつをね、今やってるわけですね。
これもね、やっぱりこう、僕らの気持ちというのはね、別に明日もどっかでできるんじゃないかなっていうこの、なんかね、かすかなこう逃げがありまして、
だったら今日やらなくてもいいんじゃないかみたいな感じがするんだけどね、どう考えてもできるはずがないんで、今やってます。
だからあのまさにね、この放送を聞きながらっていうのかな、僕は大阪にきっと行くんでしょうね。
だからあの関西圏の皆さん、これ朝聞いたらですね、夜19時からやりますんで、中野島ぜひぜひ駆けつけてください。
当日参加も全然OKですからね、あのPTXで申し込めなくても、なんかもう気が変わった、行こうみたいな時は、当日その場で入場できますんで、ぜひぜひお越しください。
で、そろそろね、お正月が近づいてきたじゃないですか。
私はね、わりとこの年末年始というのはね、好きなんですよね。
で、夏休みとかゴールデンウィークはまず休まないんですよ。
というのも、もう昔から私はその音楽をやってライブ活動とかをやっていたんでね。
このいわゆる一般の方がお休みの日が僕らの稼ぎ時っていうね、まさに水商売感覚なんですけどね。
それでずっと生きてきて、そして雑誌の編集もやっぱりこの8月、夏のね、休みとかそんなのは一切関係ない。
ゴールデンウィークも関係ない。
毎月のスケジュールが決まってるんでね、そんなの休んだ日には大変なことになるっていうんで。
頼むから休ませないで、みたいなそんな世界だったんですよね。
でも不思議なことにこの年末年始だけはね、年末進行というのがありましてね。
まあ印刷所が、だからその年末年始お休みになるんで、それに合わせなきゃいけない。
年末進行大変なんですけどね。
さらに前倒すっていう、これがあるおかげでね。
一応その、まあどんぐらいかな、31日ぐらいからはお休みできた感じかな。
03:02
お正月も3日ぐらいは休めたなって記憶があるんですけどね。
そんなわけで、なんかその1年を通して音楽やった時も、この雑誌の編集をやった時も、そして今もですね。
割とこの夏休みゴールデンウィークとかね、シルバーウィークとかそんなのは一切、僕の中にないというかね、そういう概念がないんだけど。
この年末年始はとても大切にしているんですよね。
というのもその、うちは前もお話しましたけど商売をやってましてね。
母親とその弟2人が3軒並んでお店をやってたっていう、そういう環境で育ってまして。
この商売人のお家のね、特に九州人の商売人だったんで。
結構こういうなんていうのかな、こう節目節目のこのお飾りみたいなね、そういうのは欠かさないんですね。
やっぱりね、だからお正月になると3軒のお店にドーンとね、でっかい門松が建てられましてね。
子供心にもなんかお正月っていうのは特別な日なんだなというね、そんな感じがしてましたね。
で、まあそれに向かうその大掃除とかね、年末にやること年始にやることみたいなのが一通り決まっていて。
まあそれを子供も私たちのような子供もね、手伝わされるっていう、そんな環境で育ってきたんで。
その音楽やってた時もね、大体年末というとこの31日大晦日ライブみたいなのをやるんですよね、オールナイトで。
1回だけやったことあるんだけど、やっぱりちょっと僕には合わなくてね。
あの、やっぱ31日は家でゆっくりしたいなっていうのがあって。
音楽やってた時も大晦日、正月は基本的には休んでたんですよね。
もうほんと年越しライブとかもほんと1回きりそれのね、全然なんかもう嫌だなっていう感じでね、やってましたけど。
それで、昔からね、そのうちにも言い伝えがありまして。
言い伝えっていうのかな、なんか習わしというかね。
日本にはその元旦にやってはいけないことっていうのがあるんですよね。
まあこれも多分土地、土地というかね、地方によって異なるんでしょうけど。
うちは、えっとなんだったっけな、掃除をしちゃいけないっていうのがあったね。
元旦に掃除をしちゃいけないっていうのと。
あと、まあ料理人だったんでみんな包丁を使わないっていう。
だからまあおせち料理を作っておくんですけどね。
それからまああと、お飾りをしちゃいけないんですよね、元旦にはね。
1日にお飾りするのはダメだと。
で、もう一つ、怒ってはいけないっていうのがあるんですよ。
面白いよね、これね。
なんで元旦は怒っちゃいけないのかなっていうね。
まさにちょっとこのgood vibesに絡むような話なんだけど。
おそらく1年の初めのね、この最初の1日を怒ってしまうと、
おそらく1年間、もうその元旦でさえ怒るんであれば、
365日怒って過ごすことになるだろうっていうね、そんな感じなんでしょうね。
だからちょうど今日が、だから23の放送になるんでね、これね。
06:01
ちょうど1週間前ぐらいかな、その元旦に備えた1週間。
ここでそのまさにね、good vibesのメソッドの中にも数々あるね、この怒りに関わる話。
これをしっかりとお届けしてね、元旦に怒らないようにするための、
この1週間を過ごすための特番みたいな感じにしようかな。
別に特ではないんですけどね、いつも話してるような話の延長なんですが。
まず前提としてですね、これもちょっと誤解されやすいんだけど、
good vibesっていうのは怒りを手放す、怒ってはいけないっていう、
そういう話なのかって思われがちなんだけど、そんなことは一切言ってないんですね。
そうではなくて、まず自分として、私はその怒るということによって、
いろんな人間関係をぶち壊してきたのでね、
これを何とかしなきゃいけないよねっていうのはあるんですね、始まりとして。
それとともに、やっぱりこの怒るということに費やすエネルギーっていうのはね、
前回のヒットポイントの話でも、疲れないための取り組みみたいなので、
お話ししたようにでかいんですよ。
これはもう誰しもが経験してると思うね、
怒った後ってのは本当にもうなんかくたくたになりますよね。
これが嫌だなっていうのが一つ。他にやりたいことがありますからね。
こんなことにエネルギーを消耗したくないなっていう。
そしてもう一つ、やっぱり怒りというのは攻撃なので、
人を巻き込む。これが僕にとっては一番厄介な問題だったんですよね。
そしてなんとなく怒っている時はそれによって気が晴れる。
そしてこの問題もそれによって解決するんじゃないかと思うんだけども、
決してそんなことはない。
特に親しくなければないほどね、
やっぱりこの怒りという手段を使ってしまうと、
やっぱりものすごく修復不可能な感じになっていくわけですね。
人と人との間がね。こうして僕らは繋がりを失っていき、
だからやっぱり攻撃というのはね、
この私の言うところの一つ意識によればですね、
あなたと私は一つなので、
あなたを攻撃するということは必ず私自身を攻撃することになるわけですね。
まあこれはなんか自分の手足を叩いたら痛いよねっていう、
それと多分同じような感じだと思うんですね。
僕らが一つであれば、他の人を攻撃することによって必ず自分が傷つくことになる。
そしてこれがあまり問題解決の手段としてね、
まるであまりじゃなくて、まるで有効ではない。
これは私が攻撃のないコミュニケーションという、
まさに今年の1月に出した本に書いた通りなんですよね。
僕らはこの攻撃をすることによっても、されることによっても、
とても疲弊してね、そして人と人との繋がりがとても嫌になり、
そこから切り離して自分をね、一人のシェルター、
ちっちゃなカプセルに置くことが安全なんだと思ってしまうね。
そして怒りというのは基本的にはこれで人をコントロールしようとした時に、
恐怖を持って人を自分の思い通りにしようというね、
09:04
こういう思惑がやっぱりあるのでね、
私はそれを自分がされたくない。
だったらやっぱりこれは手放した方がいいなって、
そんな感じから始まってるんですね。
ただしこれはね、意思によるんですよ。
私はこれを使いたくないと。
私はもうほんと完璧に意思を持ってるんですね、その意思をね。
そしてここにメリットを見出さないというね、
そこの選択ももう終わっているんですよ。
だから手放す。
そうではないっていう方がもしいらっしゃったとしても、
全く問題ないんですね。
で、しかもその私がお話しするね、
今日のお話もそうなんだけど、
このグッドバイブスの取り組みをやったからといったって、
毎回うまくいくはずはないんですね。
やっぱダメだったよね。
やっぱこの怒りだけはどうにもならないよねっていう。
この結果はね、僕は本当はどうでもいいと思ってるんですね。
うまくいったかいかないか。
つまり起こらない選択をできたかできないか。
そんなのはどうでもよくて、
重要なのはですね、
僕らは、私もそうでしたが、
こういうことがあり、外からこういう出来事が起こり、
こういうことを人に言われたら、
起こるの一択しかないよねっていう感じで生きてきたんですね。
逃れられないっていうね、ここからは。
まさにその水をかぶせられたら冷たいと思う。
この感覚を変えることはできないよねっていうね。
釘でクッと刺されたら痛いってことは当然じゃん。
だからこの言動、この行動を自分がされたら、
これは起こる一択なんだよねっていうふうに
みなして生きてるんですね。
私もそうです。
そうでした。
だけども、そこにいやいや、
実はもう一つの選択があるんだよ。
それは何?
起こらない?
マジで?っていうこの感じなんですよ。
この選択肢が見えるか見えないかだけでいいんですね。
結果その起こらないという方を選ぶか選ばないかはどうでもよくて、
毎回ザーッと来た時に、
もう僕はこの起こる一択、
ここはもう自由意志を働く余地は全くなくて、
僕はここに向かわされるんだっていうこの状態から、
いやそうじゃなくて、
あなたの意思を発揮したいすれば、
こちらのもう一つ平安な道というかね、
私はこの幸せな道と思ってるんだけども、
そちらに進むことができるよっていうこの選択肢が見えるということは、
私は自由であるってことなんですよ。
ここが重要なのね。
外からどんな要因、どんな原因が私に訪れたとしても、
ここを選ぶ可能性はいつも残されている。
これは一択だった時に比べてはるかに自由ですよね。
つまり可能性がそこにいつもあってくれるっていう、
これだけで僕は世界の景色の見え方が
随分と変わってくるんじゃないかと思ってるんですね。
人生とは何だみたいなね、
私とは何だみたいなことを問うときに、
こういうことがあったらもうこうするしかないんだっていうんじゃ、
僕はちょっとやっぱり納得できないんですよね。
そこにも自由な意思を発揮できる余地があってほしい。
12:01
だから一生懸命探した。
そして見つけたんですね。
あるんだなってことがね。
ここだけが私が提案したいというかね、
お伝えしたい部分なんですよね。
だから怒ってはいけないとか、
怒るのが悪だとかそういうことを一切言うつもりはない。
私も随分と随分ともうこの数年ね、
そちらのその怒る道を行かずに進むようになりましたけども、
いつ何時、明日また激怒する機会がやってくるか、
それは分からないですよね。
たまたまこの数年、
そういうひどい出来事に遭遇しなかっただけでね、
そういう人に出会わなかっただけで、
明日はどうなるか全く分からない。
でもいいんですよ。
そうだとしてもその瞬間でも、
僕はもう一つこっちにもう一個道があるんだなってことは見えているのでね。
見えていさえすれば、
仮にその反対側の怒る方を選んだとしても、
僕は自由を失ってない。
どちらも自分の意思なのでね。
怒るというのを決めるのも私だし、
そっちじゃない道を選ぶというのを決めるのも私だから、
二つあるということが重要なんですよね。
これを何とか実現したくて、
私はこのお話をずっと積み重ねてきたっていう、
そういうふうに受け止めていただければいいかなと思います。
今日の話はですね、
まずその怒りへの向き合い方っていうところから始めたいと思うんですね。
僕らは前にもちょっとちらっとお話ししましたけど、
まず怒りの元は恐れや不安なんですよ。
これはもうどんな形の怒りであろうと、
ここは変わらないんですね。
ただしそこからこの怒りを抱いたときに、
僕らはそのまま怒りを抱くという選択をしないことがあるんですよ。
ここから変換が始まるんですね。
多くの場合、怒りは罪悪感に変わりやすい。
これは単純に言うと、
僕らは怒りを抱くというのはまず辛いことなんですね。
さっき言ったようにものすごくエネルギーを消耗する。
自分にとってね。
それから怒りを抱いている自分を見せたくないという感覚もあるわけね。
これはなぜかというと、
やっぱり僕ら心の奥底で怒らない方がいいっていうのは何となく分かってるんですよね。
だからこの怒りをすぐに表に出すとかね、
なんか小さなことですぐにカチンときてしまう人っていうのは、
やっぱりその世の中的にあまり良い印象を持たれないんですよね。
なんか心の狭い人間だとかね、度量が狭いとかそんな感じに思われがち。
そしてある種のわがままみたいな風に見られる可能性もありますよね。
だからこの怒ることは損だっていう感覚もあるんですよ。
自分自身に対して損だし、
その周りに自分がどう見えているかっていう意味でも損だよねっていうのがあって、
これをいろんな形に変換して、
持っていないかのような定か、
持っていないかのような定を作りたがるわけね。
で、罪悪感というのはこの目的に非常に合致してるわけね。
15:03
要はまずは相手に怒ったと。
怒った、いやいかんいかんと思いながら、
そうじゃなくて私が悪いんだよねっていう風に持ってくれるんだよね。
そうするとこの人に怒るんじゃなくて、
私のミスだ、これは私の落ち度なんだっていう風に持ってくることによって、
罪悪感に変えてしまえばあたかも怒っていないような感じがしますよね。
これがよくやる変換の一つなんですよ。
それからこれは前回の番組でもちらっとお話ししましたけども、
損は言っても抑えられないっていう時ね、
やっぱりこの罪悪感に変えたりするのはなかなか難しいぞと。
これは明らかに向こうが悪いんだみたいなことをどうしても抑えきれない時に、
僕らはこれを正当化するっていう変換をするんですね。
正当なものに変えるっていう変換かな。
これが前回お話したように、例えば遅刻してきた人がいたと。
最初のこの自分が感じた怒りの形は、
俺をバカにしてるのか、俺を軽く見てるのかっていうね、
なめてるのかみたいな感じ。
これはなかなか人にこのまま伝えにくいんですよね。
それをやるとどうなるかっていうと、
心が狭いねっていう感じになるんでね。
それは嫌だと。
もっとこれをちゃんとした形、
私がこの怒りを抱くのが当たり前だっていう形に変換したいっていう願望が僕らの中にある。
そこで人生で最も貴重な時間を無駄にされたっていう風に変えていくわけね。
これも一つの変換なんですよね。
ずいぶんと実は形が変わっちゃってるんですよね。
本当はバカにされたなんだけども、
人に伝えるためにそこをもう少し社会的、社会の通伝に照らし合わせて、
それは起こって当然だよねっていう形に変える時間を無駄にされたって全然違うんですよ。
意味もね、それからニュアンスも、それから自分がその言う時に感じる感覚ね。
もう少し例をちょっと挙げておこうかな。
例えばね、古今東西よく耳にする例として、
弟子用に書けた弟子がすごく活躍したとか売れたみたいなケースがありますよね。
例えば私で言う書き上げ塾みたいな文章を教える師匠がいて、
弟子に一生懸命それを教えたらその弟子がなんと芥川賞を受賞しましたみたいなそんなケースですよ。
この時に師匠がね、イラッとするというかなんかムカつくみたいなこういうケースってあるじゃないですか。
なんか怒りをこう滲ませるみたいなね。
で、おそらく例えばなんか後書きを見たらこの写字の一つもないと。
インタビューする時に藤沢さんがね、よくその師匠を引き合いに出してくれるように、
俺の名前出せよみたいな。
この人のおかげなんですよとかね。
18:00
この人に本当に世話になってもう一から叩き込まれてみたいなことをなんでテレビで言わないみたいなことでやっぱ腹が立つわけね。
それとともになんていうのかな、自分よりも売れてしまったっていうね、このなんか焦燥感みたいな。
ここにもやっぱり怒りがこう滲み出てくるんだけど、
こんなことは当然だけど心が狭いと思われるから言えないですね。
師匠としてはね。
あいつさ、後書きに写字も書いてくれないんだよね。
言わない。絶対言わない。
そんなことは気にしても気にもしてませんよみたいな感じにやっぱりしておきたいわけですよね。
師匠としてはね。
でも怒りは持ってるっていうね。
だからやっぱりこのなんていうのかな、僕らがその表に出せずに返還したくなる怒りというのはね。
やっぱり社会人として失格だよねとかね。
それからなんかすごく子供っぽくない?その怒りの起こり方みたいなね。
こういうものに関して僕らはそっと胸にしまっておきながら返還していくんですよね。
次第に次第にね。
最初はクソとか思ってるんだけど、
いやこれは言えねえな、ダメだよなとかっていう。
これを無意識のうちにこうやってるわけね。
それで何をするかっていうと、
コンテンツのその小説の中身を批判するんですよね。
師匠がね。
いやあいつはまだまだだ、ここが甘いみたいなね。
なんか私の弟子としてちょっともうなんか認めたくないような感じ。
これはあのダサくであるみたいなことを別の雑誌に批評を書いたりとかね、するっていう。
こういうのよくありますよね。
なんか弟子いじめみたいなね。
売れた弟子をいじめてしまうみたいな。
こういうなんかそのやり方なんですよ。
本当はまあ一ついわゆる簡単な単純なジェラシーみたいなものなんですよね。
やっかみとかね、羨ましいなって思って。
でも俺が育てたんだよな。
だから少しぐらい俺のことも言ってくれたっていいのにさ、みたいな。
ここでお前が売れたんだったら俺もお前よりあやかくて有名になれるのに、みたいなね。
そんな感じ。
こんなことは言えない。
だから師匠としての立場をしっかり保ったまま、
この弟子に怒りをぶつけるその方法が小説の中身をいわゆる同じ執筆家として批評する、批判するっていうね。
こき下ろすみたいなやり方をするわけね。
まあこういうことを僕らはやってるってこと。
で、これをやめましょうっていうのが最初のステップなんですよ。
この怒りを二つに分けましょう。
だからまずは最初にこの感じた馬鹿にしやがって、下に見下しやがってとかね。
俺の名前なんで出されんだよ、みたいな。
このくったらないやつ。
子供っぽい感じのこの怒り。
これを最初の怒りというふうに名付けましょう。
元初の怒りでもいいんですけどね。
なんか最初の怒りの方が言葉が優しいかな。
最初に抱いた怒り。
この形を社会に通用するようなね、表にこう公言できるような形に変えないっていうことですね。
こちらの変えてしまった方の怒りは多分だけど、あの行儀のいい怒りみたいな感じなんですよね。
21:01
お行儀がいいというかね。
もしくはこの正当な怒りみたいなそんな感じでもいいのかな。
これも例えば会社とかでもよく行われるっていうかね。
特に自分の上司がなんか理不尽だと。
これもやり方がおかしいみたいな。
そこで怒りを感じる場合ね。
これも最初の怒りはとてもシンプルでプリミティブな感じなんですよね。
どうして分かってくれないんだとか。
なんでこんなに頑張ってるのに褒めてくれないんだとかね。
もっと評価しろよとかね。
そんな感じだと思うんですよ。
それがそのままだと表に出せないので、この場合はですね。
だんだんミクロな視点が真っ黒になっていくんですよね。
この上司が良くないと。
この上司に対する怒りを私は抱いていると。
そもそもこんなやつを課長とか部長にしておくこの会社がおかしいんじゃないかっていうね。
そして組織の構造がそもそも問題があるんだよみたいなことにどんどん広がっていくわけね。
次第に最後には多分これがその会社全体になったり社会全体になったりしていく。
真っ黒に広がっていくわけですね。
広がっていけばいくほど面白いことにその論の展開がしやすくなるんですよ。
その相手が大きくなっていきますからね。
大きくなっていくとその向こうが強くてこちらが力を持っていないというこういう関係になりやすいので。
訴えることがなんとなくだけどさっき言ったね社会人として失格とかね子供っぽいということにはなっていかない。
どんどんどんどん大きくなっていけばいくほどそうなる。
でもですねこれをやるとこれをなぜやらない方がいいかというと自分が何に怒ってたのか誰にどんな風に怒っていたのかがわからなくなってくるんですよ。
面白いもので僕らは本当にこうなんていうのかなまさにこの自分を騙すというかね心象によって自分を騙すことがうまくて心の通りにその目や耳がね働いてくれるし。
心象を強く強く持つことによってこのようはねその最初の怒りからお行儀のいい怒りに変えるというのはこれは心象ですからね。
頭の中で変換してるわけだから大きくなってしまった正当に正当な感じになってしまった怒りっていうのは僕らが頭で作り出している。
もともとは最初の本当にかわいい感じの怒りだったんですよね。
これが大きくなって正当な感じの怒りになりそれを喋ってるうちにそれを現実というふうに僕らはどんどん思うようになっていくわけね。
で何に怒ってるのって聞かれた時にもう真っ先にそのねこの正しい方つかな行儀のいい方の怒りを喋るようになるわけ。
いや組織のあり方なんだよっていうね本当は違うんですよ。
なんでこの上司はもっと僕のことを見てくれないのみたいな感じなんだけどそれが組織のあり方みたいなことに大きく膨らんでいってしまうわけね。
さっきの師匠で言うならば本当に俺の名前を後だけに一つのしておいてくれればよかったっていうそういう感じなんだけども
24:07
それがコンテンツの中身を批判するってところに行ってしまうわけね。
そしてその師匠はそれをやっているうちに私は決してこの子のね振る舞いとかね自分の名前を出さないことに怒っているんではないと。
そもそも私が教えたのにこんなくだらない小説を書くことに私は腹を立てているんだっていうことがまさにこう現実に思えてくるわけ。
そうするともうこの師匠はそもそも俺は何に怒ってたんだっけっていうことを見失うんですよね。
だからこういうふうに何となくこう自分のね怒りの形が何となく人に言える形になっているなと思ったら元に戻すということをやりましょう。
これはなかなかその人にはね言えないはずだから自分で一人でやるしかないんだけどもね。
まあなんかできればね気のおけないそのパートナーとかね家族みたいなことがここに使えるといいですよね。
まあちなみに私はねこのワンオンワンのワントレとかを通してこのお手伝いをしているような感じなんですよね。
本当は何に怒ってますみたいな感じになる。
もっともっともっともっと本当ピュアな形に戻しましょうよと。
いやそれもなんとなくやっぱりちょっとお行儀良くなってるなと。
まだなんかこうよそいきの形になってますよみたいなことを言いながらね。
だからこんな感じで自分に問いかけてみてください。
いやそれさよそいきになってないとかそれ誰かに有用な形に変換されていないみたいな形でね。
自分に問いかけてみるんですよね。
言っていいの?みたいな感じで。
いいから言ってみて言ってみてもう全然ここだけの話だから何言ったっていい。
いやあいつがバカにするからなんだよとかねそういう感じで出してみてほしいんですよね。
でそうすると面白いことにこの怒りというのはねなんか自分が思ってたよりコンパクトだなってことがわかるんですよ。
コンパクトだなっていうことがわかる上にいろんなことに気づけるんですよね。
特にねえっと僕らは自分が本当はやりたくてできないことできないというよりもね自分で禁じてしまったようなことね。
例えば私のケースで言うとね僕はなんだろうなまさにこの商売人の家で育ったからなのかもしれないんだけどお金に汚いみたいなことがすごく苦手なんですよ。
お金に汚いやつと思われるみたいなことが苦手なのかな。
だからその割り勘にしようとか言った時もなんかこうざっくりじゃあいいよ俺3000出しておくよみたいなね。
みんながじゃあ2500円投資とかって言う時にああいいやもう釣れないから3000でいいやみたいなことに憧れてるようなタイプなんですよね。
まあこれもあのしょうもない話なんだけども。
だからこういうことがねこう積もり積もってどういう形になるかというと僕は例えば自分がやるイベントとかまさにこのワントレ募集してますみたいな告知をするのが本当に苦手なんですよ。
それをやるとクラゾーのなんかグッドバイブスとかって綺麗事言ってるけど結局金なんじゃねえのみたいなことをね思われるんじゃないかっていうこんな心象を抱くわけですね。
27:02
だから僕はそのこれ実は今年のね2022年のテーマでねここの恐れや不安を手放すこの心象を手放して私にそれをやってもいいと許すというのがテーマでねなんとなく秋ぐらいになんとなくできるようになったんですよ。
でもこのそれをねこう開放するまでに60年かかってるんだよね。
でやっぱりちょっと怖かったですよね。
やっぱりこういうことをやり始めるとそのソーシャルメディアのフォロワーが減っていったりね。
例えばグッドバイブスファクトリーの皆さんがね一人二人辞めていきねなんかここに入るといろんなもの売りつけられるみたいな感じのそんな風に思われてるんじゃないかみたいなそんな心象も抱いたりしながらね。
どうしても踏み出せなかったんですよね。
1個のイベントは2回まで告知はみたいなことを勝手に自分で決めて。
でももうえっとそこをね開放しようとこのこのなんかこだわりみたいな変なこだわりはね良くない。
なぜかっていうとね僕はやっぱりそれを禁じているのでそういうことをやっている人を見るとねやっぱりちょっとイラつくんですよね。
そしてよくあるあーはなりたくねーなーって言ってしまうんですよ自分で。
で言うからなおさらのことあーはできなくなるんだよね自分に禁じてるからね。
でこの時にもうこの最近さすがにこのグッドバイブス以降はねそういうことをやっている人に怒りは持たないんですけども。
以前はやっぱりそのライブとかでねえっとこういう演出は最悪だよねみたいなねあのなんかこうコーランドレスポンスやるみたいなね。
しかも全然お客さん盛り上がってないのにイェーイェーみたいなことをやってくださいって頼んだりね。
あとこの曲のサビで一緒に歌いましょうとかってお客3人しかいねえじゃんみたいな時に平気でそういうことをやれる人に僕は怒りをかすかに覚えてたのね。
でもじゃあ心の底ではどう思ってたかって言ったら自分もやりたかったんですよ要はこういうことがなんか全然恥ずかしくなくできればいいなーみたいな憧れを抱いている。
でもやっぱりこの金に汚いとかなんかそのお客が3人なのにバカみたいにコーランドレスポンスをするみたいなことを自分に許せてなくてね。
そういうことをやってた人にやっぱり怒りを抱いてたわけね。
でこの時も必ず変換するんですよ。
なんかあのこの人ってさなんかコンテンツはこんなのなにやたらなんかPRがすごいよねとかって言ってねコンテンツの方を攻撃したりとか。
よくこんな演奏しててねコーランドレスポンスを恥ずかしくなくできるなみたいなこの演奏力みたいなことを批判したりする。
そこに怒りの矛先をぶつけるように変換えるんですよね。
そうすると僕は本当はやりたかったことが自分にできてないことがこの人たちは平気でできるっていうことに怒りを感じてたっていう怒りを抱いてたっていう事実を見逃してしまう。
これを最初の怒りの形に戻すとやっぱり羨ましかったんだなってことに気付けるんですよ。
このねだから最初の形はとても重要。
30:02
この瞬間に面白いことにねそうかそうか俺はこの人のこのなんていうのかなやたらこの告知ばっかりする人に怒りを抱いていたけどももうなんだったらもうブロックしてやろうかみたいなことを思ってたけどもやりたかったんだよね。
こういうことができたら僕もいいだろうなってもっと活動の幅を広げられるんだろうなとかねもっと多くの集客を得られるんだろうなとか心の奥底で思っていたんだなってことに気付けるんですよね。
この瞬間不思議なことにもうその僕が抱いていた怒りというのは持たずに済むんですね。
すっと消えていく。どうして消えるかって言ったらその最初の形に戻したからなんですね。
これを演奏力だとかそのコンテンツの中身の変換をしたままでは僕はここに気付けないしずっとこの怒りは消えないまま持ち続けるしかないんですね。
だからこの本当に最初のくだらないところに戻してみてください。
そうすると戻した瞬間に消える怒りというのももしかしたら半分以上あるかもしれない。
これを一人でできるようになるっていうのも変だけどこれをやる習慣をつける行儀のいい変えてしまった怒りからね。
最初の形、子供っぽくてもいい、社会人として失格でもいい、もう人出なしでもいい。
例えばねすごい忙しい時に自分の部下が病気で休むと言いましたと。
こんなん起これないですよね絶対ね。
でもかすっかり僕らはなんで今休むのみたいな怒りを抱くことがあるんですよ。
この時に当然これを誰かに言う必要がない。
でも自分だけはなんだこのいらつきはって思った時にこれを何か組織の構造なんかどうのこうのみたいな形に変えずに
俺こいつが休んだことに腹立ててるんだなしかも病気だって言うから文句も言えないっていうこのシチュエーションにも腹を立ててるんだなみたいなことをしっかり自分で認識するんですね。
その瞬間にこの人に怒らなくていいんだっていうことに気づけるし自分が一体何にいらついてたんだっていうことも判明する。
だからぜひぜひこの習慣をつけてですねなんかイヤッとした時はその最初の形をキープするってことをやりましょう。
これもう舐められたっていうこの怒りだよとかね。
先越されたっていうなんかこの悔しさだよみたいなこの感じみたいなのをおしげもなくおしげもなくじゃないな恥ずかしがらずにか気にせずにね自分の度量の小ささみたいなのもこの受け入れた上ではいこれが最初の形ですっていうね。
なんかもう本当のことを言ってしまえみたいな感じこれを自分でやるといいと思いますね。
この瞬間に怒りというのは大きくならずに済むというかね元の形のまま扱えるようになる。
ここにいろんな気づきも得られる。
それからもう一つこの形にするといいっていうねメリットが一つある。
私ここのここの取り組みはちょいきついんですよね。
だからまあこれはまさに選択の世界なのでここから先は行きたくないって言うんであればやめればいい。
33:02
どういうことかというとこれはこれも確かねいつかどっかの番組でお話したんだけどね。
えっと怒りの種みたいなやつね。
あるあるよくこれをね僕らは地雷と呼ぶことがありますよね。
なんでこの一言を言ったらこの人は怒るのかよくわからないんだけどなんか地雷踏んだ感じがするみたいなあれありますよね。
これは最初に僕らの中に怒りの種というのがあるんですね。
まあこれはもう主に親子の間で生まれる作られることがおそらく多いでしょうね。
90%以上そこにあると思います。
まあ例えばねその運動部かなんか入ってて部活でね。
まあ今まさに流行りのそのサッカーです。
サッカーでもいいですけどねサッカーをやってましたと。
そして県大会も優勝して全国大会に出たと。
そこで決勝戦で負けて2位だったと。
でもこれも花々しい実績ですよね。
全国大会で2位みたいなね。
でもうなんかまあ決勝で優勝できなかった悔しさはあるものの。
まあ自分よく頑張ったよな。
うちのチームよく頑張ったよな。
なんか見事な試合をやったよな。
みたいなことを手応えもあったよなとかね。
そんな感じでそういういい感じを抱きながら家に帰ったらね。
まあそんなことは言わないと思うんだけど。
例えば人生勝たなきゃダメなんだぜって。
2位なんてのは3位も4位も5位も同じだからっていう。
1位になってこそ価値があるんだよみたいなことを言われ続けたとしたらね。
その子の心の中に微かな怒りが芽生えるはずなんですよ。
なんでこれで褒めてくれないんだっていうね。
まあでももっともらしいし。
なんとなく反論もできないし。
そのままぐっとこらえながらね。
こうして僕らの中に怒りの種みたいなのがどんどんどんどん増えていくわけね。
まあこの他にも例えばその学校の生活の中とかで。
同級生相手に植えられる種みたいなのもあるかもしれない。
これが例えば大人になってね。
同じように相当頑張ったんだけども。
売上で言うと他社にちょっと及ばずに業界第2位だった。
だけどもパーセンテージで言えば30%ぐらい売上が上がっていると。
これで上司に報告したらね。
いや業界1位じゃなきゃダメだよね。
この瞬間にこの種がパーンとはじけるっていうね。
これを僕らは当然だけどもこの種のせいだっていうふうにはなかなか気づけないんですよ。
そうじゃなくて同じようにね。
そのかつてサッカーの1位を褒めてもらえなかった時のように。
この上司に対してなんてわからない奴なんだみたいなことを抱くわけね。
でもこれはですね。
この種を持ってない人はこの言葉にそれほど反応しない可能性があるんですよ。
じゃあ次は1位目指しましょうって簡単に流せる人もいなくはない。
なぜかその種がないから。
36:00
でも例えば僕の中にその種がしっかりと植え付けられていたら。
しかも1度や2度じゃなくてね。
ものすごく強い感じで植え付けられていたらその言葉にもう一瞬で反応しますよね。
まさに地雷なんですよ。
踏んだんですよ。
そして僕は当然だけどもその業界1位じゃないとダメだよって言った上司に強い怒りを抱きます。
でもこの最初の形みたいなものをねしっかりとこう改図に持っておけば。
これってあれと一緒だなってことに気づくんですよ。
あの時のあの感じだとあの時の種が爆発してるっていうね。
でこれをまたなんか余計な形に変換して。
またなんか組織論とかね。
その上司のマネージメント能力みたいなところに行ってしまうとね。
この種が見つからないんですよね。
そうじゃなくてなんでこの30%上がった方を褒めてくれないんだよっていうこのね可哀そうな感じ。
まさに自分がね子供の頃そのサッカーの試合で褒められなかった時のこの感じ。
この最初の形っていうのをしっかりとね。
これだっていうふうに気づけたら私が向き合う相手はねこの上司ではないんだってことがわかりますよね。
そうじゃなくてこの種を植え付けた私の父親なんだってことがわかる。
そこで向き合う方向が定まるわけですね。
ここでおそらくだけどもその上司に向き合ったとしてもこの種は消えないんですよね。
彼はそれを植え付けた人じゃないからね。
そしてもしそのままこの種を持っていればね同じような経験をするたびに別の人別の人に怒りをぶつけることになる。
怒りを抱くことになる。
でもこれを最初の形としてしっかりと認識したらこれは親だ父親だっていうことがわかる。
あとはですねそこの父親の父親が自分にしたことこの怒りを手放すかどうかっていうチャレンジにいけるわけなんですよ。
まあこれはね今こうやってこの私が自分で話していてもねこれはきつそうだなーって感じはしますよね。
そしてここには向き合いたくないっていう感覚もわかりますよね。
だから無理をする必要はない。
ここに行きたくないんだればそれはしなくていい。
でも方法はなくはないんですよ。
まさにさっき言ったようなここもここも一択じゃないんですね。
これは知るまで持ち続けるみたいなものではないんですよ。
実はもう一本の道があるんですね。
ここで父親を許すというねここに許すというキーワードが出てくるんだよね。
だから最後にこのね最初の形に直した時にさらっとこの手放せるやつってのがなんだそういうことみたいな風にして自然と消えるやつ。
それそうではなくてそれともう一つね見つけたんだけどもこれはすっごく根深い種なんだなっていうねこの2種類あるってことね。
この場合はそのその種を植え付けた長本人のところに行かないとダメなんですよ。
39:03
だからといって今実家に帰って親父みたいな話をするってことじゃない。
そうじゃなくてその時代に戻らないとダメなんですね。
全国大会のサッカーと言えばね高校生ぐらいのから高校サッカーになるのかね。
そうするとちょっとでかい話なんだけども15、16ぐらいの時ここにですねその自分の今の年齢のまま戻っていくんですね。
そしてその子に出会いこれ記憶の中でね。
そして今ちょっと自分はねこの怒りについて手放すみたいなトライをしてるんだよと。
そしてねそれをやってたら最初の形がここにあると君が今怒ってるってことに気づいたんだっていう風にねこう自分に向き合うわけね。
これ全部頭の中でやるんで大変なんだけどね。
でねえっとこの種ちょっともういらないんだって俺は思ってるんだけどどうよってその子に聞いてみるわけ。
おそらくいやいやとんでもないと俺は許せないよとこの親父のねこの暴言というか2位で褒めてくれないなんてありえないじゃんみたいなことをきっと言うでしょ。
いやでもねそれがあると俺はこの上司に対してものすごい腹が立つんだよと何とかしませんかみたいなことをこう相談するわけね。
そのうちにでもさこれがないとさ困らないみたいなことをねその子供の自分が今の自分に言うのかな。
だからこれは僕にとっては自分の身を守るとても大事な術だと思ってるんだけどなあみたいなことを言うんですよね。
そこで大丈夫今の私はそれなくても大丈夫だからっていう風に言ってあげる感じかな。
それでこう説得するっていうのも変だけどね15歳の自分と話してみるんですね。
そしてもしかしたらその子がねそう言うんだったらねじゃあいいかなみたいなことでポンと手放してくれるかもしれない。
そうするとその時のねお父さんの暴言を許せるかもしれないね。
こういうトライは不可能ではないってことね。
できるかもしれないできないかもしれないけども難しいかもしれないけどもできる可能性もあるというそんな感じ。
でこの許すというトライはね場合によっては過去ではなくてねまさにその目の前にいる相手これに対してやる必要があるかもしれない。
さっき言ったその最初の怒りの形にしたとしてもやっぱりこいつだけは許せないみたいな感じになる可能性もありますよね。
そんなに珍しくないケースだと思うんですよ。
でこの時に重要なのはね私の中にこの人を許せる自分がいるというねここの信頼を持つことが大事なんだよね。
いやこの私にどうやったってもう逆立ちしたって何したってこれをこの人を許せるはずがないって思ってしまうともうそこでさっき言った日本の道の片っぽは閉ざされる消えてしまうんですね。
そうじゃなくてできるかできないかもう置いとこうとでもきっと私の中にこの人を許せる私がいるんだろうなっていうこの感覚だけは信じておくんですね。
42:10
これは何かというとえっと私がよく言うその体で体が本体と思っている自分ではない方の自分ですね。
つまり傷ついたり損なわれたりしない形のない意識マインド。
そしてこれは恐れや不安を一切抱かないので私は愛そのものである存在というふうに呼んでるんですね。
こちらの自分はそもそもその最初からこちらの自分が出ていたらえっとおそらくこの怒りは抱いていないんですね。
つまり私の中でここがスイッチした瞬間にえっとこの人の言動がきっと今とは違って見えるはずだっていうこういう信頼を持つわけです。
そしてもう一つこれがまず第一ね。
許せる自分がいるんだっていうここを信じることが最初でもう一つはえっと誰かその目の前にいる人ではなくてねとっても大事な人。
もしお子さんとかいればね一番それがいいんだろうなと思う。
僕のようにいない人はねそれに変わるような大事な存在。
まあ僕の場合は例えばパートナーだったりねその時付き合っている女性だったりするのかもしれない。
まあ多分僕は人生の中で誰が一番大切って言われたらその人をきっとあげるでしょうからね。
でこの人が私にひどいことをした時にこの人を許すことができるかっていうねそういう問いかけをしてみるわけですね。
多分子供だったら簡単にできるだろうね。
恋人だとちょっと難しいのかもしれない。
でもそういう人がいないかどうかっていうねそんな感じでこう人を探してみるんですね。
この人が同じことをした時に私の中にそのさっき言った許せる自分を出すことはできないのかなっていうね。
こんな感じをシミュレーションしてみるね想像してみる。
いけるかもしれないなってことはもしかしたら不可能ではないってことですよね。
これを頼りに許せないかどうかっていうのをトライしてみる。
そんな感じかな。
ここはねそのなんだろうな罪と罰というね大きな障害というかね壁これがありますからね。
一旦罪とみなしたものに関して僕らはその罪というのをねそのラベルを取り外すのは本当に難しいのでね。
ここの話もこう合わせてやらないとなかなかうまくいかないんだけど。
今日のとこはねそこまでややこしくしたくない。
このお正月の元旦1日をねどう過ごすかっていうことなんでね。
怒らないで過ごせるかっていうのをまずはそのねちょっとまとめてみましょうかね。
怒りを最初の形に戻してあげるっていうこと。
そして戻してしまえばもうその瞬間に消えるものっていうのも半分以上ある。
そして厄介なのは一つはやっぱりその子供の頃に植え付けられた怒りの種みたいなものね。
これが残っている場合はそれを植え付けた人に会いに行く。
45:02
そしてそれを許せないかどうかトライしてみる。
あまり無理はしないでください。
どちらかというとねその人に向き合うというよりはその時の自分に向き合うといいね。
そして今の自分とその子供で相談をしてみる。
いやお前がそれを手放さないと俺は永遠にこの種に苦しむんだよね。
頼むよちょっともうやめないみたいなことかな。
そしてそれでもきついなっていうことであればその長本人に一回会いに行きましょう。
そしてこいつを許すことができるかなっていうことをトライしてみるね。
その時に先言ったように許せる自分というのはこの中に必ずいてくれるんだと。
だからその自分を出すかどうかの選択なんだよねっていうね。
これはなぜ難しいかというと体か本体の恐れの自分は
愛の自分が現れたら消えちゃうんですよ。
だから絶対にそれを阻止しようとするのね。
許すなんてとんでもないと。
そんなことをした日にはもう俺はこの世の中を危険な場所だと見て
リスクヘッジをしたり計画を立ててね
綿密に準備をしたりすることをしなくなるっていう風に考えるわけね。
なんかそこに直結してるんですよ。
この恐れや不安がない愛の自分が出てくることが
この恐れの自分にとって最も怖いことなんですよね。
存在が消えてしまうっていう。
だからここにものすごい抵抗がある。
でもその抵抗なんだってことがわかれば
どちらの自分でいたいんだっていうこの問いが立てられたんですね。
ここにまさに2本目の選択肢が現れる。
ここはまあ今日はこのぐらいで勘弁してもらうしかないんだよね。
これここにかけてみるっていうね。
ここに許しのチャンスがあるっていうそんな感じね。
だからここでまたね許すために理の整然と許すための弁護みたいなのをしちゃダメなんですよね。
と言ってもねこの時の親父はなんか機嫌が悪かったとかね
ちょっと会社がうまくいかなくて
いろいろその私生活もねなんか安定してなかったから
その時にこういうこと言ってしまうのは仕方ないよねみたいな弁護をしないってことが大事ね。
これをやっても必ずひっくり返るから。
だからこの罪を見たままこの怒りの原因を見たまま
それを多めに見るみたいなトライはこの取り組みとしてはね全くお勧めできないんですね。
そうではなくて寝こそぎ取り去る。
そもそも怒りを持つ必要がないんだ。
なぜならば私は形のない愛そのものである存在だからっていうところに行き着けたらいいんですけどね。
これもこんな数分間で納得できるような話ではおそらくないでしょうから。
この番組を通じてね少しずつ少しずつここの部分は一生懸命語ろうと思っています。
まあだからできるところまあこれでもね6割ぐらいなくなれば大したもんですからね。
そしておそらくこの正月に起こることなんていうのはまさにこの最初の怒りの部分ですよ。
48:02
バカにしやがってとかねなんで俺だけ不公平なみたいなそんな感じだと思うんですよね。
あとめんどくせーなーとかね休みなのにいい加減にしろよとかね。
俺がせっかく期待していたようなこの休みのこの感じがこれによって壊されてしまったみたいなそんな感じだと思うんですよね。
だからこれだったらその原初の形に戻してしっかりと向き合えばそう難しくなく切れるんじゃないかなと思いますね。
今日のところはこんな感じでとにかく変換しないっていうねこれをぜひトライしてみてください。
変換してしまったらそれを元に戻すというねこの習慣をつけるというのはとてもおすすめです。
そんな感じかな。
今私はですね密かに本当にホッとしてますね。
毎年でこの木曜日前日に金曜日の番組が撮れた。
偉いぞ自分みたいなそんな感じ。
本当によかった。できなかったら金曜日お休みなのかなっていうのがありましたからね。
よかったです。
これもですねやっぱり前にもお伝えしたその焦らない心配しない怒らないという一日を一応過ごしたからできるんだろうなと思います。
これも合わせてやってみてくださいね。
怒らないはこの一つですからね。
最も大きな5ポイントを失わずに済むっていう。
これを惜しがずに失わないようにしましょうっていうのが今日の話だね。
そしてもう前半にも言いましたけどくどいので簡単にしておきますが。
まさに今日やりますんでよかったら大阪中野島19時案内は今日リンク貼っておきますんで場所を確かめて飛び込みでぜひ来てください。
楽しい一日を過ごせたらいいなと思ってます。
おそらくいい話になると思います。
まさにテーマ愛ですからね。
このさっき言った愛である愛そのものである自分を出現させる話。
これは許せる話にも当然だけど通じますよね。
この辺りを繰り広げたいと思いますんでよかったら遊びに来てください。
じゃあ今日は怒りを行儀のいい形に変えずに最初の形のまま向き合って。
あれなんかなくなっちまったなみたいな感じでいい一日をお過ごしください。
ありがとうございます。
50:30

コメント

スクロール