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今回は、前回私も愚城の糸城のお話をしたと思うんですが、
愚城祭りも兼ねて、また糸城にお伺いして、その時に訪ねた糸城洋品店を営む平野彰秀さんにお話を聞こうということで、今回お呼びしました。
地域再生機構の副理事長でもあり、糸城で様々な活動をしている平野さんに、今回いろいろお話を聞いていければと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
平野さんとの出会いは、ひょんな出会いだったんですが、前回糸城に行った時、時間がそんなになくて、山合いをずっと結構回ってたので、
町に降りるタイミングがあまりなくて、行けなかったんですけど、糸城っていう場所にある糸城洋品店のところに私は行ってみたいなと思っていて、
友人からここいいよとか、いろんな噂を聞いてたので、ぜひ訪ねてみたいなと思っていたんですが、前回行けなくて、今回祭りも兼ねて遊びに行かせていただいたという形です。
洋品店の電話番として。
電話番として、そうなんですよ。行こうかなって調べたら、要予約なんですね。糸城洋品店の。
そう、でメッセージをして、明日急なんですけど行きますか?みたいな形で、何人かと遊びに行かせていただいたんですけど、
最初あそこにたどり着いた時もすごい素敵だったなと思って、たどり着いたらみんな巻き先で藍染めをちょうどされていて、最初から素晴らしいプレゼンテーションが始まったっていうような感じで、
藍染め今こんな風にしてるんですよみたいなところを教えてくれて、ちょうど染色したお洋服とかも庭先で干されていて、
説明を平野ファミリーが総出でしてくれるっていう。
総出でしたっけ?
家族が全員揃って、息子さんたちも一緒に迎えてくれたんですが。
ちょうど藍の葉っぱも刈り取ったばっかりで、葉っぱも広げてましたもんね。
そうめちゃくちゃ綺麗な色でしたね。本当に天気も良かったので、本当に色が映えてとっても綺麗で、みんなそこまで買うかどうかわからず行ったんですけど、爆買いっていう。
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それぞれ一着は買いましたね、みんな。
みんな大切に今着てます。
しかもその後、川に遊びに行った。
そうなんですよ。しかもその後、どうしても川に行きたいっていうようなことをボソッと言ったら、これから行くけど来るみたいな形で誘ってくれて、
お子さんと一緒に秘密の川に連れてってくれて、まず奥さんから飛び込む、川に飛び込むっていう。
大人たちが飛び込むもんなんで、私たちも飛び込まずにはいれないだろうっていうことで、私たちも川に飛び込む、子供たちに魚の刈り方を教えてもらいっていう、なかなかエキサイトな時間を。
すごく過ごしましたね。
その説ありがとうございました。
その時、ゆかがさんが都市のことをやってる人とは全く知らず。
そうなんです。お互いにあまり知らず、とりあえず川で遊ぶみたいなところから始まったんですが、
意外と前回、ポッドキャストにも出ていただいた東大の中島先生とも同級生だったんですよね。
はい、同じ研究室で。
そんな繋がりもあったようで、ぜひもう一度きちんとお話、リベンジさせてくださいっていうことで、ちょっと今回ポッドキャストも兼ねてお話をさせていただいてます。
多分、このリスナーさんにもかなり知っている方もいらっしゃると思いますし、関心のあるトピックなんじゃないかなというふうに思っているので、ちょっとまずはひなのさんについて。
いろいろな記事でも語られているとは思うんですが、少し自己紹介もしていただけたらなというところと、
愚上に来たきっかけも含めて少しお話ししていただければと思います。
はい、よろしくお願いします。
そうですね、今ご紹介いただきましたけど、大学の時に都市計画とか町づくり建築を専攻していて、
実は最初に就職した会社も町のプロデュースというか、商業施設のプロデュースをするような会社に勤めてまして、
その後ちょっと違う会社に勤めたんですが、31歳の時に、ここの愚上の糸城という集落に出会って、ピンとして東京の仕事を辞めて、
出身が岐阜なんですが、一旦岐阜に3年間住んだ後、35歳の時にこの集落に住み始めて、今11年になります。
なるほど。だってあれでしょうね、コンサルティングの会社にいらっしゃったんでしたっけ?
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2つ目の会社が経営コンサルだったんです。でも1個目の会社は、これ聞いてる方、ご存じの方いらっしゃるかもしれないんですけど、北山創造研究所という会社で、
商業施設をプロデュースするんだけれども、そのライフスタイルとか、町の人の在り方とか、そういうところを考えながら、
そういう会社で設置方法をしておりました。
なるほど。北山創造研究所からコンサルティングファームに移ったのは何でなんですか?
町のことっていろんな側面があるので、
北山創造研究所はデザインとか、社会の在り方やライフスタイルだったりとか、
あとは商業ですね、そういうところからアップするんですけど、もう少し違う側面からアプローチすることを学んでみたいなと思って、
経営だったり組織だったり、そういうことを知りたいなと思って転職したという感じですね。
そこで偶像に出会い、移住もなかなかの、それだけを聞いていると、なかなかのギャップがあるように聞こえるんですけど。
大学、実はでもあれなんですよ、2つの会社に東京で勤めている方々、ずっと技術のまちづくりみたいなのに関わっていて、
割とそっちがメイン、仕事は当然東京でしてるんですけど、自分の心の中では結構技術での活動をメインにしてるところがあって、
そうですね、ちょうど2つ目の会社勤めて3年目の時に、大学の研究室の、それこそ中島君とかと一緒に行った西村研究室っていうところで、
同窓会があったんですけど、同窓会?研究室の放念会かな、僕が転職したっていう話をしてたら、西村先生すごい嫌な顔をして、
いや、まちづくりやめたのか的な感じだったので、これから田舎に行こうと思ってるんですみたいな話をした覚えがあった。
でもあれですね、ずっと町のこととか地域のことをやろうと思っていて、やるために、どういうものを身につけるといいかなという観点で、最初の会社と2つ目の会社に勤めてたっていう感じですね。
うんうん、なるほどなるほど。じゃあその35歳で、いよいよ今だって時が来たっていうことなんですね。
そうそう、32かな、32の時に来たからね。
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あーそうなんですね。
偶像のこのピンと来たポイントはどこだったんですか?
まず、岐阜市の人にとって偶像っていうのは割と身近というか、ちょっと遊びに行くとき、偶像を始めるに行くっていうのはあって、
子供の頃も来たことがあったし、大学生の時に友達が来ると偶像に連れて行ったりすることはあったんですよね。
やっぱり踊りがあったりとか、歴史的な街並みがあったりとか、本当に水が綺麗だったりする場所なので、昔からいいところだなと思って来てたんですけど、
東京に行って、岐阜の活動していた仲間の一人が偶像出身だったんですよね。
それで、彼の実家の田んぼを手伝いに行ったりとか、
その延長で、川遊びの達人の人たちに一緒に川で遊んでもらったりとか、
そういう時に、偶像で何かできないかなっていうことを思い出して、
仲間と一緒にどんなことできるといいかねっていうことを話してた中で、
食べ物もエネルギーも昔は地域に賄ってたんだから、エネルギーのこともやったらどうかっていう話になって、
いろんな地域で、偶像のいろんな集落で水力発電、小さい水力発電やりませんか?
持ち掛けようとしてた時に、初めて城っていう偶像の中で一番多くの集落に行く機会があって、地元が一気投合した。
水力発電やろうって言ったのは、僕じゃなくて周りの人たちなんですよ。
そのメンバーでやろうって盛り上がって、僕はなんかちょっと遊びについてただけ。
それで、東京から半年くらい通ったのかな、最初。
通ってるうちに、この集落は面白いって思ったのと、ここの集落で地域のことをやりたいなと思って、仕事を辞めてしまった。
なるほど。
でも、糸城という場所がそういうパワーを持つのは、行ってみるとじわじわと感じてきますね。
なんか気になるなみたいな、そんな部分がある場所だなっていうのと、
意外と外からの人も受け入れてくれるようなフードっていうのかムードっていうのか、そういうのがあるなと感じました、私も。
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結構最初にやった、グジョウでのプロジェクトは、小水力発電?
そうですね。だから、東京の仕事を辞めて、岐阜に戻ってきて、エネルギーの活動を始めて、それで地域の人たちと小さな水力発電を順番にしていって、
ずっと飛ばしちゃうと、2007年からその活動を始めて、2008年に仕事を辞めて、
最終的には2016年に、大きなというか、125キロワットという収録、150セッタイぐらいの電気を作る発電所を、地域の人たちとお金を出し合って発電所を作ったっていうのが、エネルギーの活動としてしたということですね。
いくつか、私も前回行ったときに見させていただいたんですけど、結構、できた当初とかは、かなりいろんな地域から注目されて、いろんな方が見に来たんだよ、みたいな話も伺いました。
そうですね、やっぱり東日本大震災の前からエネルギーの取り組みをしてたということで、震災後にすごくたくさんの人が来ていただいたというのはあります。
いろいろ他にも活動をやられていると思って、その話も後からできればと思うんですけど、今のそういった町づくりに、町づくりっていうものへの関心がずっとあったっていうようなことをおっしゃってたんですが、
平野さんとしての現風景っていうんですかね、どういうところがそこへの関心を作ったのかな、みたいなのをちょっとお伺いしてみたいです。
僕は生まれ育ったのは岐阜市の郊外、中心ではなくて、外れというほどでもないんですけど、もともとずっと田んぼが広がっていたようなところで、そこがだんだん住宅が増えてきて、
近くを幹線道路が通ったんですよね。それで、そうすると、うちはその幹線道路から一歩入ったところだったので、周りの田んぼがどんどん埋め立てられて、駐車場だらけになってきて、
それで、子供の頃は本当に田んぼにカエルもヒビもたくさんいたし、冬はそこでたこあげしたりとか、あとちょっと行けば山があったので、山で遊んだりっていう環境だったんですけど、
小学校から中学校に上がるにつれて、どんどん状況が変わっていったということがあって、現役風景に日本の現役風景みたいなのがあったので、
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それを年化するだけじゃなくて、なんか違う形ができないかなっていうのが、結構一番の原負としてはある。
その風景、変わっていく風景がある意味ショックだったみたいなところもあったんですかね。
そうですね。親とかに言わせると、そんなの便利になっていいじゃないっていう感じだったので、
ショックっていうか、どんどん年化していくことを良しとする価値観がある一方で、そればっかりじゃないよなぁみたいなことを、今も続いているのかもしれないですね。
そうですね、確かに。
いろいろな活動を拝見させていただいていく中で、単純に地方の生活だけじゃなくて、都市との繋がりをどう作るかみたいなことだったりも、
関心ごととしてあるんだろうなぁっていうものを感じていたんですけど、それもやっぱり自分のそういう暮らしてきた場所とか、働いてたところも東京だったっていうところもあると思うんですけど、
都市との繋がりを活動の中で作る意味とか、外から都市から人を呼んでって一緒に活動を立ち上げるような取り組みもされていると思うんですけど、そういうことをやる意味みたいなものがどこにあるんでしょうか。
そうですね、まず多分都市との繋がりの活動として、僕具体的に何をやってたかっていうことを少しだけお話をすると、発電所をこの糸城で作った後に、同じ偶像市で移住した人たちで、都会の人たちが働けるような
サテライトオフィスとか、そういうワーキングスペースを作ろうという話があって、ハブ偶像っていう団体である場所なんですけど、
その後、
グジョウカンパニーっていう、グジョウの人が新しい事業を始めるときに一緒に都会の人たちにワークショップをやりながらそのプロジェクトをブラッシュアップしたりとか、実際に移住して地域おこし協力したりという制度を使って3年間かけて共同創業していくというプログラムをやってきましたということがあって、
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それで、もともと東京にいたけど、このすごい山奥に引っ込んだっていうのが、いわば自分の中で都市を捨てたというとあれですけど、都市ではない場所に行ったわけなんですが、
そこでいろんな発見があったので、この糸城っていう地域を持続させていくっていうことだけじゃなくて、自分がいろんな発見があったことを都会の人にもシェアをしたいなっていうのが一つはあったということと、
やっぱり僕が東京にいたのは2008年までなんですけど、時々東京に行ったり、東京の人とか自分より若い人たちと出会っていくと、やっぱり5年10年世代が変わっていくとすごい考え方とか価値観とか感覚とかすごい変わるなと思っているんですよ。
自分が20代の頃に抱いていた感覚と、今の20代の方が抱いている感覚って、結構全然違ったりするなっていうところがあって、タイムマシンじゃないですけど、僕にとっては東京は昔のままだったりするんだけど、
でも人々はすごく変化をしているっていう定点観測的な感じですけど、
一回都会から外に出ているからこそ見えることとか、都会でずっと暮らしている人たちとか都会で活動している人たちからいろんなことを教えてもらいたいなとか、そういうことがあって、
ただ田舎に引っ込んでいるというよりは、つながりを作ってお互い学べるみたいなことをしていきたいなと思って、そんなことを日々思っています。
松本 いやまさにまさに、私たちもすごくその部分に共感するなと思うんですけど、私も結構都市っていうものを歌っているので、その田舎とかは対象じゃないんですか、みたいなことを聞かれたりするんですけど、都市か田舎なのかの二項対立ではなくて、そこは必ずつながっているし、そこのつながりだったりを見ないと、おかしなバランスになっていくっていうところを思っているので、
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なんかそのつながりを感じながら暮らしている、都市とのつながりを感じながら暮らしているという感覚はすごく共感できるなみたいなのを思っています。
松本 なので、その中でも結構都市に持ち帰られるものって何なんだろう、みたいなものは常に私もいろんなところに行く中で感じていて、それを平野さんがどういった部分で感じているのかな、みたいなのも気になりました。
平野 なるほど。僕の場合逆に都市に持ち帰れるというよりは、都市の人からいろいろ勇気をいただいて、たぶんね、きっと感覚としては裏表なんだろう。
松本 都市の人が逆に来ることで何が変わったり、何が変化したりすると思いますか。
平野 そうですね。さっきの質問に答えると、都市の人が糸城みたいなところとか武城みたいなところに来て、いろいろ持ち帰っていただくことって、それはたぶん人それぞれだと思うんですけど、
この前みたいに本当に藍の葉っぱを刈り取ってたりとか、手で一枚一枚染めてたりとか、土からものを作っているというものづくりのプロセスに触れていただいたりとか、川に一緒に飛び込んだりとか、
あとは、糸城は本当に神様の集落なので、そういう神社とか信仰に触れていただくことで、たぶん感じていただくところがあるんだろうなって思ってるんですよね。
平野 逆に都会の人に来ていただくことは、一つ、二つ挙げるとすると、よくある言い方でいうと、本当に新しい価値観とか、
新しいアイディアとか、新しい価値を都会の人たち、そして暮らす人たちから持ち込んでいただく。全然自分たち、僕も10年も住んでいるとだんだん地元の人になって、そこしかいない感覚で、
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僕らのやっていることとか、ここのフードとかを見ていただくということは、たぶん一つあるんですよね。そういう価値を持ち込んでいただくというのは一つと、もう一つは、なんだろう、さっき言った、僕にとってはすごい経典観測的なところがあって、
時代がどう変わっているんだろうってことも、僕すごい興味があって、それを知ってくださった方から感じ取るみたいなところがある。
おー、なるほど。それ気になるんですけど、今どう変化しているんですか?
いや、わかんないですよ。でも、なんかすごい、なんだろう、ゆうくんさんがやってるようなこととか、この前来た皆さん、一人一人どんなことやってるかって、ちゃんと詳しくは聞けてないですけど、
なんだろう、なんか、こういうおっさん的なことを言うとあれですけど、10年前に1年前に比べると、それこそ、個人が軽やかにいろんなことをできる世の中になっているっていうことはすごい感じるところとしてあって、
それは、10年前、例えばね、都市とか街づくりの話を言うと、大きな物語と小さな物語があるとしたときに、なんかかつてはやっぱり大きな物語が主で、
都市開発とか不動産開発とか、そういう文脈で街が語られるところが大きくて、なんか小さな活動はきっとたくさんあったんだろうけど、それはすごく限定的、知ってる人は知ってるけど、大きなムーブメントにはならないっていう、そういうこともあったし、
すごく何かをやるときに、方法手段もないから、すごいエネルギーが必要だったと思うんですけど、今は何か新しいプロジェクトを始めるにしても、それこそ起業をするとかそういうことにしてもかもしれないけど、
なんか、より個人が小さい物語を影響を及ぼすような形でやってるんだろうなっていうことを、例えば感じたりします。
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それはなんか、都市的な環境によく生まれている状況だなっていうふうに思われるっていう感じですか?それとも、工場みたいなところでも?
両方で起きてると思います。やっぱりね、田舎で暮らすって、たぶん昔はものすごいカードルが高くて、それこそ都会を捨てていくみたいな世界。
結構覚悟がいることみたいなね。
だけど、今はSNSもあるし、大学の同級生とかとつながってるし、発信もできるし、すごく田舎に引っ込んで専任生活をするみたいな感じではなくなってるんです。
生活自体は全然違うかもしれないけど、常につながってるし、やっぱりその地方でいろいろ活動してる人を見て、実際そこを訪れたりとか、地域に実際移住する人もそうだし、行き来する人もそうなんですけど、
そういうことがすごくやりやすくなったなというふうに思います。
本当にそうですね。たぶんその小さい活動みたいなものが、ちゃんと表舞台に立つというか、ちゃんとさっきほど言ったみたいに影響力を持つみたいなところを、ある意味私たちも信じてるからこそ、
ポシティーズもああいったプラットフォームから始めたり、個人のローカルに隠れている活動に光を当てたいみたいなところがあるんだろうなみたいなのは思いました。
だから今後は小さな活動をどうやって同士がつながっていくかとか、その活動が個人が疲弊してしまって終わらないためにどうやって継続的にヘルシーに続けていくのかみたいなところも挑戦ポイントなんだろうなとか最近思ったりしています。
ご参考になるかどうかわかんないですけど、僕、岐阜の街にずっと関わってきたんですよね。
今から21年前なので、2001年ですね。僕は多分25だったのかな。僕は25で、当時早稲田大学の学生だった秋元君というのがいて、21歳だったんですけど、2人とも岐阜市の出身で、東京で出会ったんですよね。
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それで、岐阜の街なんか元気がないからなんとかしたいよねっていう話。
それでその時に、東京ってその頃、ベンチャーブームみたいなのがあったりとか、学生でもいろいろイベントをやる、ちょうどミレニアムに切り替わるところだったので、そういうのがいろいろ東京ではあったんですけど、岐阜ってそういうのは全然なかったんですよ。
学生たちが何か大きなことをやるみたいな。みんな、岐阜の街って何にもないって、すごいネガティブな捉え方をしてる。それは大人もそうだし、若い人たちもそうだったんですけど、
自分たちが何かできるかもしれないっていうことを、周りでそういうことをやってる人がいないから、だから自分たちには力がないし、街を変えることなんてできないってみんな思ってる。
みんな勘違いするような場を作ろうと。自分たちが何かこういうことを実現したいって言って始めて、それができたら自分たちも何かできるかもって思う。
だから自分がやりたいことをちゃんと声に出して、行動するような人たちを何か増やすような場を作ろうっていうことで、最初は年末にカウントダウンのイベントをやったりとか、岐阜の真ん中の公園でライブのイベントを6年もやってたんだけど、
それで僕は2人とも東京から通っていて、岐阜でそういうイベントをやってくるスタッフの学生から社会人まで100人ぐらいとか集めてる。それでそれが発展していって、今その団体はNPO法人になって、今でも続いてるんですけど、
そこを辞めた人たちもたくさんいて、でもその辞めた人たちがまた新しい活動をいろいろとしていて、それでずいぶん、岐阜って街が面白くなったんですよ。
それは全部僕らがやったからっていうつもりは全くないんですけど、もう本当に街が変わったと思うんですよね。
そうなんですね。
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その活動自体にみんな参加し続けるわけじゃないけど、そこで勘違いした仲間たちが新しいことを始める?みたいなことが多少はできたのかな?
勘違いっていうのはいいですね。本当勘違い大事ですよね。
そうなんですよね。なんか結構関われないって思っている人はまだまだ多いなと思っていて、
そういう風に東京でそういった公共空間の活動をしてた時も、自分たちが使うものじゃなくて、管理はなんか行政がしてるんでしょ?みたいなとか、自分たちが何かそこに意見しても何も特に変わらないでしょ?みたいな、なんか無意識のなんか意識みたいなものがあるなぁと思って、
確かにその勘違い者を増やすことをしたいのかもですね。勘違い野郎を増やすべく。活動してるから。でもいいワードですね。そこからなんか始まる。
やっぱり長く変えて、長くかかることじゃないですか。街の風景を更新していくって。だから結構勘違いしながら、こうしたらこうできるかもしれないぞみたいな、そういうイマジネーションと勘違いから現実が始まっていくのかもしれないですね。
で、やっぱり勘違いするっていうのと、そういう人を増やすっていう。
そこがなかなか定量的に観測しづらいんですけど、めちゃくちゃ重要ですよね。
でも本当に僕、たぶん今から21年前は、そういう人が増えていくと5年10年経ったら変わるんじゃないかなって思って。
僕の話とみんなで一緒だって言ってたよね。でもやっぱり実際にそういう影響は出てる気がするし、やっぱり街が変えれるとか、未来が変えれるとか、そういうのが、そういうとこは僕結構信じているので、
街って自然発生的にできた部分もあるけど、やっぱり誰かがこうしたいって思って、そのことによって街が変わってきたっていうのは実際、歴史的にもそうだと思うし。
そうですね、うん。本当そうですね、確かに。
確かになんか、宮城ってなんでいろんな人が噂してるんだろうなーみたいなの気になってたんですけど、もしかしたらそういう人の数がいろいろ実は眠っていて、
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たぶん宮城に行った人が同じルートで必ず行ってるわけじゃなくて、いろんな人の繋がりとかいろんな人の出会いから今ここに訪れてる気がしていて、
それってたぶん確かにそういういろんな接点の数や出会いの数が多様になっているからこそ、外からも周辺からもいろんな人が訪れたり、旅だったりするような場所になっているのかもなぁと思いました。
実際そうですね、ハブグジョーとかジョーカンパニーとかやったのは、結構そういうところの狙いがあって、それこそね、ながらがカンパニーやってる岡野さんとか、
彼みたいな人が来ると、今度また彼がね、岡野さんもそうだけど、いろんな人を呼んできてくれるので、それは僕一人が呼んでくるのとは全然違うんじゃないですか。
僕の前にもやっぱり僕が来るきっかけになった人がいるんですね。そうすると、なんかそういう人が人を呼んで、またその人が呼んできてみたいな感じで、芋づる式なんですけど。
芋を引っ張るとずるずるずるって感じなんですけど、なんかそういうことがやっぱりグジョー、もともとの風土として多分そういう風土があると思うんですけど、でも人を呼んでくるから、もっと面白くなっていくし、いろんな動きが出る。
なんか多分、いろんな地方都市がこぞってそういうことをしたいと思ってると思うんですよ。
外からいろんな人を連れてきて魅力的にしてほしいって思ってると思うんですけど、なかなかそれってコピー&ペーストできないというか、このパターンとこのフォーマットを導入すればできますみたいな形で、
インストールできるものではないなぁと思っていて、そうやってこう出会いを増やしたり接点を増やしていく中で大事にしている部分とかってあったりするんですか?
そうですね、まあ本当偶然っていうところが大きいですね。偶然彼と出会ったとかね、そういうのはすごく大きいんですけど、
なんかやっぱりその人が自分らしく本領を発揮できているみたいなことが大事かもなと思って、
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いや、これ悪口になっちゃうとよくないんですけど、例えば行政の方が仕事としてやってますみたいなね、そういうのよりもやっぱ個人の思いとかね、
溢れ出たりしてる方がやっぱり人って引きつけられるところがあると思うので、なんか僕それは別に田舎に限らず都会の人もみんなそうなんですけど、
そういう人が本当に持っている役割とか、思い入れを持ってやってることとか、そういうことは人が有力的だし、どうしても力があると思うので、
そういう人はどんどん増えるといいなと思ってるし、部長の人なんかそういう人いっぱいいますよね。
いや、本当そうですね。確かにそうだな。なんか心からその言葉を言っているっていう感じがする人が多いなっていうのを思いましたね。
ちょっとそういう特殊な人に会い続けてた。
いや、でも。
でも結構の、どうなんだろう。でもなんかそのピュアさというか、心からそれを言っている、心からここに住むことを楽しいと思っているっていう人との出会いをたくさんしたので、
なんか景色の魅力があっても、もちろんまた行きたいと思うんですけど、そこにやっぱり暮らしている人が本当に心からそこがいいんだよって言われた場所にはやっぱりもう一度行きたいなって思うなと思って、
今その話を聞いてすごく納得しました。なんで惹かれたんだろうっていう部分。
本当に変な人って言うとあれだけどね、歌を追求してたりとか。
変ですね。変ですよね。
いろんな人がいますよね。
そうですね。確かにいろんな人がいるけど、それはそれでいいみたいな感じがある感じもいいんですよね。
そうですね。
なるほどね。なんかそうですね、これはちょっと少しシリアスなクエスチョンになっちゃうかもしれないんですけど、地方の街や小さな街の問題としてこれから人口が減っていく中で、どうやってこの街の未来を続けていくのか、この街がどうなっていくだろうっていろんな場所で議論されて考えられていることだと思っていて、
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糸城も少なからずかなり移住者は増えている特殊な場所ではあると思うんですけど、相対的に見ると人口がものすごく減っていってるし、ここから爆発的に右肩上がりにかつてのような人数になるってこともないと思っていて、
どうやって豊かに街を畳んでいくかみたいなものも最近関心があって、糸城っていう場所は今後どうなっていくのかなっていうところをちょっとお伺いしたいのと、もう一つは、
糸城は多分文化とか歴史がまだある、かなりあるような場所だと思っていて、そこら辺の土地が持つ長年の魅力みたいなものも引き付ける理由にはなっているのかなと思いつつ、本当に何もない文化もなくて、歴史も浅いみたいな街もたくさんあると思っていて、
そういう街の未来っていうものがどうなっていくのかな、そういう街も同様にそういう人口減少の問題とか高齢化の問題を抱えていて、糸城と同じような問題も抱えていると思うんですけど、そういった背景の違いみたいなところがどう影響してくるのかというところも、ちょっとひらのさんの個人的な考えを聞いてみたいです。
まず客観的な糸城の人口のお話をすると、縄文時代から続いていて、ずっと1000人ぐらいの人が住んでてきた。昭和30年代がピークで1400人ぐらいいて、そこからずっと減って、今実際に住んでる人たぶん200人ちょっとぐらい。
なのでピークからすると7分の1、本当に昭和30年からすると多分1000人以上減っちゃってるという状況です。
それも100世帯で200人ちょっとなので、多くのお家は単身かお年寄り2人みたいなことなんですけど、移住の方がここ10年ちょっとの間で増えているので、その移住した世帯で今50人ぐらいいる。
なので200人ちょっとの中の50人なので、今4人は移住したという状況になっていて、糸城小学校って全校児童が4人まで減ったときがあるんですけど、
今は13人で、2年後は20人になります。
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増えていく。
保育園今14人いて、2人待機児童。うちの子は保育園に入れないと。
そうなんですか。
そうなんです。
増えすぎて入れない。
そうなんですね。
っていう状況ですので、本当に若くて地元に残っている方がもう少ないので、やっぱり移住を入れないと集落として成り立たない。
やっぱり今後も多分、地元の人だけではここの集落に移住ができなくて、ある程度人を入れていかないと成り立たないだろうなという状況なんですね。
それで、ただ糸城、そういった意味ではここ10年で50人ぐらい増えてるんですけど、減った分を埋めてるって感じですね。
なくなっていく方も転出する方もいるので、人口としては多分この10年ぐらいで6、70人ぐらい減っていて、そこに移住者が5人ぐらい入って、ちょっと入ってる程度で進んでると。
全国に至るところでこういう状況で、糸城は人が入ってるけどここのところは人が入ってないところも多いですよね。
で、実際、糸城の周りに消滅した集落がいっぱいあるんですよ。
特に福井県、糸城って屑流川の最上流になるんですけど、屑流川沿いはダムがたくさんあるので、
ダムができると補償金が支払われて、それをきっかけにみんな出てくるんです。
でもね、昭和20年代以降、ダムが作られ、補償金が払われ、人がいなくなるっていうのは全国の片方で繰り返されてきたことで。
本当に福井県側だと大野市っていうところから糸城まで来る途中は廃村だらけという状況ですね。
やっぱり糸城の一個、西側の谷があるんですけど、そこも糸城と同じくらいの集落があって、
でもそこは今もう人住んでないんですけど、そこのちょうど山を越えた隣の集落がかつては糸城ぐらいだったのに、
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もう今本当に廃村になったのを、糸城の人がそれを見て何とかしたいということで、
20年前に地域づくりの活動を始めたという、そういうのがあるんだ。
それで、まあ亡くなっていくのはしょうがないというとあれなんですけど、やっぱり多くのところはだんだん消滅をしていく運命にある。
実際に想定。
でも文化や歴史がなかったとしても、やっぱり結局は人だと思うんですよね。
結局は、ここの集落は何とかしたいとか、ここの集落は何とかしたいとか、
こういうちょっと普通じゃ説明がつかないような思い出とかね。
そういうのがある人がいて、そこで何か取り組みを始めていくということが、それでもどんどん減っていくというのは事実としてあるんですけど、
何かをやろうとする人がいるところだけが残っていくということになるんだろうなって気がしています。
そういう意味では、糸城の今の流れが、希望を見せれる部分みたいなものは何かあると思いますか。
そうですね、結局田舎を畳まなきゃいけないとか、こんなところに住んでてもしょうがないから町に行った方がいいっていうのって、
そういった価値観なんですよね。例えば仕事がないっていう現実問題ももちろんあるし、それは結構大きいんですけど、
でも何にもないっていうふうに思うのか、すごく豊かなものがいっぱいあるって思うかってやっぱり大きく違うじゃないですか。
だから、僕らは糸城ってすごく資源も豊富だし、ここで暮らすことの良さとか豊かさとかをすごく感じるので、
いいところだよっていうふうに見えるんですけど、やっぱりこんなところ本当にどうしようもないからっていうふうに思ってる人も一方でいるから、
だからそういう方たちは出てっちゃうと思うけど、
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そう、なので、何かそこの何もないかもしれない、ここの地域をどういうふうに捉えるかっていうのが一つあるんだろうなって。
ある意味、さっき少しよそ者の話もしましたけど、外から来たからこそ地元でずっと暮らしてると見えない価値とか、そういう部分を、なんていうんだろう、
たたえるというか、見せることができて、もしかしたらそれがじわじわとこれまで住んでた人の価値観を変えて、そこにとどまろうとか、ここで子どもを育ててみようかなとか、そういうふうに思う流れを作っているのかもしれないですね。
うんうん。できたいですね。
うんうんうん。ありがとうございます。
ちょっと長々といろいろお話ししてしまったんですが、最後にちょっとここ数年でやってみたいこととか挑戦したいことを少しお伺いしたいなと思って、
読ませていただいた記事の中でも結構数年単位でいろいろ取り組みを変えたり、やってみたいことを変えているみたいなお話があったなと思ったんですけど、
ここ数年もしくはこれから数年で挑戦してみたいところとかがあれば、最後にお伺いしたいなと思います。
そうですね、妻が始めたいっとしろ洋品店というお店があるんですけど、洋品店という名前がついているのに和服を作っているっていう、和服っていうと着物とかを想像される方が多いと思うんですけど、
それではなくて、昔洋服が日本に入ってくる前の時代に日本人が作っていた直線だけでできていて、剥ぎれが出ない、なんかそういう服が、もともとは日本全国にあったんですけど、
ここのいとしろには過労死でその知恵が残っていて、それを現代着れる形に復活させるということを今やっています。
すごくいとしろ洋品店の取り組み自体は2つ可能性がすごくあるなと思っていて、1つは直線立ちの日本の服って多分ほとんど知らない方が多くて、
日本かつて着ていて、縄文時代かわかんないけど、日本人が服を着始めてから、限られたのでどうやって組み合わせたら着やすい服が作れるかっていうことをブラッシュアップし続けた結果としての形というのがあるんですけど、
54:20
なんかそれ洋服が入ってくると捨てちゃったので、こういうすごく合理的で美しい服があるっていうことを知っていきたいというのが1つあって、
それからなんだろう、僕らはいとしろで自然に近いところで暮らしてるんですけど、服ってエネルギーとかなかなか目に見えないものなんですけど、
服を通じてここの集落のこととか、ここの自然の情景だったりとか、そういうのが伝えていけるメディアになり得るなと思っているので、いとしのこと知っていただく入り口になるだろうなと思って、
3つ目には、ここで例えば宿みたいなのを営んで、うちの嫁さんのイメージだとそこに馬がいるんですけど、
馬とって山に行って、やる材料とかを山で取ってきたりとか、木の実を取ってきたりして、それでみんなでご飯を作ったりして、なんかものづくりの体験をしたりとかして、
滞在できるような、そういうサステナブルなものづくりを体験できるような場を作って、そこで体験していただくような、そういう場を作っていきたいね。
なるほど。めちゃくちゃいいですね。
エネルギーは勝つ自分だし、できると治る。そういう場を作っていきたいな。
面白いですね。なるほど。いや、その動きが本格化したら、ますます面白くなりそうですし、いろんな人がまた訪れるきっかけに確実になりそうですね。
はい。実際に来ていただいて、それを体験していただいたので。
いやー、なんか明るい未来が見えてきました。
見えた。
なるほど、いいですね。お互いに夫婦でそういった取り組みをされて、それがいい相乗効果で活動が加速しているのも素敵だなと思いましたし、
57:02
あの4人の元気たちな子どもたちが、今度はまたどんなことをしていくのかも楽しみだなと思いました。
ありがとうございます。
はい、ありがとうございます。
今回はお話をお伺いさせていただきありがとうございました。
ありがとうございました。
グッドニューフォーシティズでは、毎週新しいエピソードを配信しています。
次回もお楽しみに。