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2021-07-08 14:50

#387 擬態と適応、受け止めると受け入れる

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「私」の輪郭が少しぼやけてしまうが社会に適応できるのと、「私」の輪郭は浮き彫りになるが社会に適応できない。溶けたいのに溶けない領域、線を引きたいのに引けない領域。人間は相変わらず、ややこしいなと思う。擬態と適応のバランスを考えてみるのは面白いのではないか。/話の元ネタはこちら https://note.com/y_uemizu/n/n518ff9a84910 /こちらでも色々話しています!【脳内議事録】 https://note.com/y_uemizu/m/md0e3af51acf5 /シソフレ(思想フレンド)募集中!【秘密結社S.A.B】 https://forms.gle/cDFpZtHra1dAkPR66 /うえみずゆうき【@y_uemzu】  https://twitter.com/y_uemizu

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皆さんこんばんは、上水優輝でございます。 サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、擬態と適応、受け止めると受け入れる、という話をしたいと思っています。
サイコパスのラジオ、シーズン2に入ってからですね、15分に合わせてですね、プラスマイナス何十秒ぐらいの感じでね、
ちょっと作っていこうと思ってるんですけども、15分喋ろうと思うとね、結構難しいですね。
一応、軽く台本ではないけども、箇条書きでね、こういうことを話そうってメモしてるんだけども、まだコツがつかめずに、そのメモしたところで、これが何分ぐらいの分量になるのかなっていうことが、全く想像もつかないっていうね、
ちょっとね、経験を踏んでいかないといけないなと思いますね。まあ、これまではですね、全く分数考えずに喋りたいだけ喋って、
15分の回もあれば5分の回もあるみたいな感じでやってたんですけども、週1回の配信ということもあるんで、なるべくね、こう、
均質なというか質を整えていきたいなというのもあって、15分に揃えるように、まあちょっと今試みているところでございます。
というわけで、今日も本題に入っていきましょう。
最近ですね、社会に擬態するみたいな表現をですね、僕はよく使うんですけども、
社会に対して、行動的には、行動としては馴染めている感覚はあるんだけども、認知的、特にね、その自分の気持ちみたいなところとかは、全く馴染めている感じがしないっていうことを、
擬態する、社会に擬態するみたいなふうに僕は言ってるんですけども、そもそも擬態って何だろうっていうことですよね。
擬態っていうのは、こう、別のものの様子を似せること、動物が周囲にあるものや他の動植物に似た形や色彩、または姿勢を持つことというふうにですね、辞書に書いてあるんですけども、
まあ、よく虫とかがですね、擬態をしますよね。こう、葉っぱに隠れてバッタがいるとか、木にね、止まっているガがいて、木の中にいるから、木の中にいるっていうか、木に止まっていて、木と同じような柄だから、
ガがいたんだ、みたいな感じで、わからない、みたいなことってあったりしますよね。そういうのを擬態って言いますね。擬態にもね、その2種類あって、今のは隠蔽的擬態って言って、その隠れる方の擬態ですよね。
あの、わかんなくするための擬態っていうのがあって、もう一個ね、標識的擬態だったかな。今度、あえて目立つようにする擬態みたいなのもあるらしくて、
例えば、弱い、よく食べられちゃう虫なんかがスズメバチみたいな柄になる、みたいなね。スズメバチと思わせることによってビビらせる、みたいな感じの、あえて目立つ擬態っていうのもあるらしいですね。
僕が社会に擬態するっていう時はどっちかというと、この隠蔽的擬態ですね。隠れる方の擬態。行動はそこに寄せている、社会に馴染むような行動をしているんだけども、認知的には全く馴染めてないよね、みたいなところを社会に擬態するというふうに表現しています。
あえて擬態っていうような言い方をしてますけども、まあ広い意味でですね、社会に適応するということに含まれると思うんですよね。
適応っていう言葉もこの辞書で調べてみると、ある状況に合うこと、また環境に合うように行動の仕方や考え方を変えること、生存のために環境に応じて生理的、形態的な特質が変化することっていうふうにあるんですね。
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なので、行動だけでなくですね、そういった考え方であるとか、極端に言うとその生理的、形態的な特質が変化することも含めて適応と呼ぶと。
外から観察している分には、行動が適応できてたらもう適応って含まれますよね。社会に適応するという時に、行動がちゃんと社会人として振る舞われていたら適応できてるねってなりますよね。
でも心は適応できてない人っていっぱいいるんじゃないですかね。じゃないとこんだけ鬱病な人っていないと思うんですよ。
それってなんていうかな、行動は適応したけども認知的には適応できなかった状態だと思うんですね。
でも本人は適応しなきゃっていうような解像度で物を見ているから、多分苦しかったんじゃないかなというふうに思ったりしますね。
僕は完全に適応っていうのを細分化して、行動も認知面も適応できている状態を適応と言い、行動しか適応できていない状態を擬態と言っているので、何だろうな、苦しむことがないんですよね。
これは擬態であると。行動は馴染まないと生きていけないから馴染むけれども、認知的には全く馴染めてないなということを自覚するというイメージです。
今言ったみたいにですね、適応しなきゃって思って、行動を合わせてるけどなんか違和感あるな、でも違和感あるけどもこんな違和感持ってちゃいけないと、適応しなきゃいけないって思ってると苦しくなるので、
僕はですね、擬態と適応っていうのはしっかり自分の中で分けてですね、今ここは擬態なんだと、ここは適応できてるなっていう感じでちゃんとね
自己理解していくってことが大事なんじゃないかなというふうに思ってますね。無理に適応しようとすると、やっぱり心を病んでしまうんじゃないかなというふうに思います。
一方でですね、今言ったみたいに馴染めてないな、擬態してるなっていうのは自覚しやすいんですよね。なぜなら違和感があるから、その違和感を
適応できてないって別に焦ることなく、擬態してるんだって思えばちょっと余裕が持てるよねって話であって、認識するのは簡単なんだけども逆に適応できてる人っていうのは
ある種ね、その考え方もそこに変わって、そこに混ざっているし、その環境によってもう適応しちゃってるから、そこにいると安心するホルモン出たりとかテンション上がるホルモン出たりとかっていう感じで、
ある種、生態的なその反応まで適応するということがあると思うんですよね。そうなってくると今度、自分とは何かみたいなものが理解しづらいと。
だから適応していることの方が、かえって自分を見つめにくいんじゃないかなとかってことは思ったりしますね。
自分の違和感があるからこそ、その違和感が自分の輪郭としてはっきり見えてくるみたいなところで、僕は結構擬態と適応を分けて、擬態の部分こそ自分が社会とのギャップの部分であり、
自分らしさでもあるというかね、ある種このシステムに馴染めないんだけども、自分の特徴としてこういうとこがあるよねってことを理解できるっていう意味で、
擬態と適応を分けて認識することが大事かなというふうに思っています。で、マイノリティのですね、別に戯言ってわけではなくて、今の時代って
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社会システム自体は確かにこうどんどん統合されていくというか、なんか一つでね、管理されていく時代になっていこうとしていると思うんですけども、
一方でそれは管理システムの話であって、その下にぶら下がっている国民というか人々の価値観とか考え方みたいなものは
どんどんね、昔に比べるとですね、多様性があると。僕がそれこそ高校を卒業するぐらいの時っていうのは、
高校卒業するんだったら大学に行く、大学に行かないんだったら就職する、そうでない人はまあやばいよねみたいな、すごい極端な進路、選択だったんですよね。
だから僕は高校卒業してバイトしながらバンドをするっていう道を選んだんですけども、完全非国民でしたね。
何かの回でもお話ししたんですけども、合コンに呼ばれてピンチヒッターで呼ばれて行ったらもう人権がなかったですね、無視されてですね、全く会話もしてもらえないということで、すごい時代だなと思います。
まあ今でもそうなのかな、なんか定職についてないみたいなのっていうのは無視されるのかな、わかんないですけども。
まあとにかくそういう極端な三択、二択とかじゃなくて、今っていうのはいろんな働き方、いろんな生き方ありますし、結婚生活一つとっても必ずしも一軒家を買って家族、夢のマイホームみたいな話じゃないですよね。
別にそういう人もいるだろうし、なんなら家は買わないしとか結婚もしないしとか、結婚、自立婚とか結婚してるんだけども別々で生活してるとか、いろんな生活があるし働き方にしてもそうですよね。
一社に生涯勤め上げるっていう人もいれば、転職しまくる人もいれば、何社か駆け持ちしてる人もいれば、フリーランスの人もいれば、経営者もいれば、みたいな感じで、いろんな方がかなりいると。
働き方も恋愛感も生活も、職生活も、全てですよね。全てのことにおいて選択肢が増えた分、多様性があると。
そうなってくるとですね、こうしとけばOKだよねってことはないわけですよ。ある程度だから、僕が高校卒業するくらいの時には、こうしとけばOKだよね、こうしとけば何も言われないよねっていうゾーンがあったんですよね。
いわゆる社会のレールみたいなものがあったんだけども、明らかにやっぱ壊れてきてますよね、今。壊れてきてるというか、レールがすごい広がってきてる感じがするので、その意味ではこの感じは合うけどもこの感じは合わないっていう、
必ず違和感みたいなものに出会うと思うんです。今までだったらレールに適応すれば勝ち組、レールに適応しなければ負け組みたいな、レールに擬態する人もいるみたいなレベル感だったと思うんだけども、今はいろんな場面で適応っていうのは変わってくるので、
適応したり擬態したり適応しなかったりっていうことを結構瞬間的に使い分けていく力が求められてくるんじゃないかなというふうに思いますね。
そういう意味では、さっき言ったみたいに適応しなきゃいけない、もしくは適応できないっていう二択で考えちゃうと、行動も合わせて心まで変えなきゃいけないと思って精神を病んでしまう人結構出てくるんじゃないかなと思うので、
あんましね、行動は合わせることはするけれども、考え方まで変える必要はないよとか、気持ちまで変える必要はないよ、擬態するっていう方法もあるんだよって一つ持っておくとですね、
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行きやすさに繋がるんじゃないかなと個人的には思っています。思っていますというか、自分はそうやって生きていると、あんまり適応できる場面が少ないなという感覚があるので、結構擬態の比率が高いというか、
振る舞いとしては求められる振る舞いをするんだけれども、全然内心はそう思っていない。わかりやすいところで言うと、スーツを着るとかっていうのは、求められる衣装ですよね、この衣装を着てこういう動作をして、こういうセリフを言ってくださいっていう台本があるわけだけれども、
僕は全くそんなことに共感はしていないし、仕方なくやっていると。別にその儀式は仕方なくやっているんだけれども、目的があるから、目的達成のための手段として擬態しているという感じですかね、みたいなことが山ほどあるという感じです。
で、今このことを言うと、なんかひどいやつだなと思う人もいるかもしれないけれども、大なり小なりですね、皆さんやっぱり擬態しているはずなんですよ、何かにね。全部が全部擬態じゃないにしても、こういうところは行動はそうしてるけども、本当はそう思ってないんだよねとか、
まあよく聞く話で言うと、その女子同士のトークとかで可愛いと思ってないのに可愛いって言うとかっていうのは、あれは完全に擬態ですよね、適応ではないですね、本当に心から可愛いと思ってないけれども、求められる振る舞いとしてというか、リアクションとして可愛いと返すっていうのは、行動としては合わせてるんだけども、認知的には全然可愛いと思ってないということで、擬態をしているんだと。
自覚がないだけであって、それは多分適応だと思い込んでいると思うんですが、それを適応しなきゃいけないと思ってたら苦しいですよね。じゃなくて、ちょっとね、ひいた目で自分は擬態してこの関係を良好なものに保っているんだ、ぐらいに思うと、心までね、傷つかなくていいんじゃないかなというふうに思ったりします。
別件なんですけども、別件なんですけども別件じゃないということで、ツイッターでですね、僕がつぶやいたんですね、起こった事実をただ受け止めて、これから生きるはずの人生をどうすればよく生きられるかを考えるほかない、事実は事実なので事実に抗っても仕方ないっていうツイートをしてたんですが、これはまあそのまんまですね、事実は変えられないし、事実は受け止めて、事実に対して、それを受け止めた上で対策を打っていくしかなくないっていう、
事実受け止めないっていうと何も始まらないよね、ぐらいの軽い感じだったんですけども、そこにね、共感というか賛同すると、でも受け止める?それとも受け入れる?みたいな感じで、ちょっと受け止めるか受け入れるかっていう疑問がですね、いただいたので、ちょっとそこに触れていきたいなと思うんですが、これはですね、擬態と適用の話にね、通ずるものがありますね。
受け止めるっていうのを辞書で調べてみると、飛んできたものや落ちてきたものを手や腕で支えて進行を止める、攻撃を食い止める、防ぐ、外からの働きかけを受けてそれに対応する、取り組む。
受け入れるっていうのを調べてみると、人の言うことや要求を聞き入れる、引き取って世話をする、受け取って納める、また他からもたらされたものを取り入れるということで、イメージでいうとですね、受け止めるっていうのは自分の手前で止めてるんですよね。
今度受け入れるってなると自分の中に入れると。ここの差って結構でかくないですか。自分の中まで入れる、自分の手前で止める。これってまさに擬態と適用だと僕は思ってますね。
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擬態っていうのは一旦受け止めるけども、決して自分の中に入れないと。適用っていうのは自分の中にまで入れていくってことなのかなというふうに思ってます。
受け止めるっていうのは具体的に言うと、事実を受け止めるっていう時には僕は事実を自分ごととして理解して解釈して評価して判断して、ではどう対策していけばいいか、どういうふうに動いていけばいいかってことでやっていくと。
つまり行動をどう起こしていくかっていうための考え方であって、別に自分の考え方を変えようとか自分の中に取り入れていこうとか思ってないですよね。事実を受け止めて、自分の手前で止めて解釈して、それをどうしようかというふうに考えていくっていうまさに擬態の方向性ですね。
今度受け入れるになると、受け入れるという考え方は僕にはあんまりないのでわからないですけども、事実を自分の中に入れ込むってことだと思うので、事実を含む環境の一部として世界の一つであるみたいな感覚なのかな。
もしくはその事実を包み込むみたいな感じなのかな。わからないけども自分の中に取り入れていくという要素があるんじゃないかなと思います。
この2つは擬態と適応に通ずるものがある。擬態的な発想でいくと受け止めるだし、適応的な発想でいくと受け入れるなのかなというふうに思いますね。
事実というものに対しての挙動というか反応そのものが擬態的であるか適応的であるかということもあるんだなということを感じました。
だから受け入れられる人ってやっぱすごいな。適応能力高いなと思うんですよね。
僕はなかなか受け入れられないというか、受け止めることはできるんですね。全然自分と違うものを受け止めることはいくらでもできる。
例えば、よく僕があまり感情的になっている人の気持ちがわからないんだけども、その状況を受け止めることができる。
受け入れることは難しいんですね。自分の中に取り入れて一緒に悲しくなったりとか、悲しいよねっていうふうな理解はできない。
一回止めて、この人はここでこう悲しいんだろうなということを論理的に理解するというか認知的に理解することができるという感じですかね。難しいね。
という感じですね。言いたかったこととしてはですね、ちょっと話戻しますけども、これからの時代というのは今までみたいに禁止的なものではなくて、
適応する範囲というのが定められてないですよね。すごく広い範囲あるので、ここでは適応するけども、ここは擬態してここは適応しないという感じで、
うまく瞬間的にというか場面で使い分けていかないと適応するかしないかみたいな二択で考えていくと苦しくなっていきますよというお話でした。
なので積極的にですね、その擬態のゾーンに自覚的になる。擬態しているんだなということに対して自覚的になることによって、
二択から三択に変わるので少しはね、いきやすくなるんじゃないかなというふうに思ったりします。
本日は以上です。またお会いしましょう。さよなら。
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