00:02
みなさん、こんばんは。ゆうすけです。
さっぱです。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
藤子不二雄史、続けておりますと。
前回は、豊山県の高岡市で、2人で漫画を描きながら、
新聞とか、ネザーシとかに、作品が載るようになってきたよっていうあたりで、
社会人になり、やっぱり本気で、漫画家としてやっていくためには、行くしかないんじゃないか、東京にということで、上京するところまでのお話がありましたと。
まず、一番はじめはね、安彦先生のご親戚のところに下宿して、狭い部屋で、2人で暮らしてましたよっていうところだったと思うんですけども。
そうですね。
そこでも、2人がんばって漫画家として活動してたわけですよ。
ところがね、2人のうち、藤本先生のほうですね、風邪をひいてしまうんですね。
あー、まずいですね。
ね。
なかなかちょっとね、うまくいっかけた頃に、手をけがしたりとか、いろいろある方やなっていう感じはするんですけども。
うーん。
でも、筆を止めることはできないわけですよ。
なるほど。
ね。
で、もうゲホゲホと咳をして、
おいおい、大丈夫かっていうふうに、安彦先生とかも心配するわけですよ。
まあ、そうですよね。
でもね、こういうわけです。
病院に行くお金なんてないし、こんなことで歩みを止めるわけにはいけない。
うーん。
そういうことで、もうがんばって漫画を描こうとするんですけども、あるときに、咳込んだこの咳の中に血が混ざってたんですよ。
おお。
なんだこれ、あてになるわけですね。
うんうんうん。
えっと、藤本先生、この頃にね、血核をわずらってらっしゃったそうです。
ああ、なるほど。はい。
今となっては、あまり聞くことの少なくなった血核という病気ですけども、
はい。
これ、1950年代ぐらいまでは、日本での死亡原因の第一位だったんですね。
うんうんうん。
かかった人の半分が、2年以内に死亡すると言われてた、そういう病気だったわけですよ。
だから、まあまあ大変な状況ですよね、これは。
しかも、伝染するしね。
そうですね。まずいレベルが、マックスぐらいまでいってますね、今だと。
だけどね、この時はね、病院に金がないとかね、そんなもあったし、
せっかく夢を抱いて、状況してきたわけだから、
それに血核って、知られてしまうと、高岡に連れ戻されちゃうわけですよ。
03:03
ああ、はいはいはいはい。
というわけで、もう先生ね、気合で治したそうです。
いや、確かに、病は気からとは言いますけど、気合、気合ですか?
なんか、すっかり良くなったね、みたいな、そんな感じで漫画になってました。
え?
軽って。
うーん。
まあね、今は治療できる病気になったし、
なかなかね、死亡原因とかには上がってこないようになってますけどね、この病気はね。
うんうんうん。
ちょうどだから、この頃くらいまでは、
なんていうの、その、線の細い人とかはね、
よくゲホゲホって言って血吐いてるみたいな、よくいろんな作品でも見ますけども。
そうですね。
まあ、一般的というか、今よりも大衆的な死の病だったわけですね。
うーん。
まあでもね、ここで、結果治ったから良かったけども、
じゃあ、結核ですってなってね、連れ戻されてたら、それこそね、歴史も今のようにはならなかったでしょうし。
まあ、そうでしょうね。
ねえ、まあ、結果オーライっていう形ではありますけども、こういう困難もあったんだなってことですよね。
うんうんうん。
まあ、いかにこの生活がギリギリだったかっていうことも、ちょっとうかがい知れるような話。
うーん。
で、まあ、出版社とかがね、東京にたくさんあるし、
まあ、それが目的で、まあ、上京してきたわけじゃないですか。
そうですね。
なので、2人は売り込みを始めます。いろんな出版社にね。
うんうんうん。はい。
僕たちこういう漫画を描いてるんですと。
うーん。
まあ、原稿を持ってったりとかしながらね、こうドアを叩いていくわけですよ。
うんうんうん。
ここまで、ある意味、まあ、成功してる人っていうこともあって、
うんうんうん。
やっぱ、一定の評価は得られるんですよ。
はい。
すごいじゃないかって、おもしろいね、この漫画っていうことで。
うんうんうん。
ただ、時代はね、進んでるわけです。
あら。
はい。
えっと、もうこの頃になるとですね、いろんな漫画雑誌っていうのがもう生まれてるわけですよ。
ほうほう、はい。
うん。
なんで、まあ、これね、この頃に限って話じゃなくて、今でもあるのかもわからないですけど、
うん。
うちの漫画には、ちょっとこういう人気作があってね、と。
うん。
こういう漫画を描いてほしいんだよって、言われるんですよね。
あー、なるほど。
ね、なんかちょっとありそうじゃないですか、こういうのって。
はい。
あの、2人の漫画、おもしろいんだけど、ちょっとこの先生みたいな感じで描いてもらえないかな、みたいなこと、やっぱ言われちゃうわけですよね。
うーん。
むずかしいところよね、やっぱり。
そうですね。
出版社としてはね、流行る漫画を描いてほしいっていうのは絶対あるし、
うんうんうん。
こういう路線でいきたいからっていうことで、仕事をいらっしゃるわけですから。
06:01
はい。
ただ、この2人はやっぱりね、自分たちの描きたいものと、求められるなんて言うんでしょうか、作風とかっていうのが、やっぱりこの、
頼まれて、自分の描きたくない漫画を描くっていうのは、嫌だと。
うーん。
なので、これ以降、この2人はもう出版社に売り込むっていうことはしなくなったようですね。
あー、なるほど。
思い描いてた夢というかね、っていうのと現実にやっぱり帰りがあったと。
うーん。
似せて描いてくれたら載せてあげるよ、みたいな、ちょっとね、プライドとかもあったでしょうしね、この時はね。
うーん。
で、まあ、漫画を描き続けた2人は、
また、手塚先生のところに行こうってなるわけですね。
はい。
で、この頃、手塚治先生はですね、すでに上京されてたんです。
うんうんうん、はい。
彼が住んでた場所っていうのが、東京都、豊島区、椎名町にございます、時和倉という場所だったんですね。
あら。
はい。
はい。
時和倉ですよ。出てきましたよ、ついにね。
はいはいはいはい。
このマンションというか、まあ、アパートですよね。
はい。
1952年に手塚先生が入ってと。
うん。
で、出版社、その時に手塚先生が連載してあった、出版社のすすめで、
はい。
この同じ出版社に連載を持ってる作家人っていうのをみんな住ませたんですって。
うんうんうんうん。
なので、時和倉という名前なんですけども、漫画倉という相性がついていたと。
うーん。
そこに今、尋ねるわけですよ。
はい。
まあ、以前はね、宝塚市に住んでたときに尋ねたこともありましたけども。
うんうんうん。
なんかちょっとね、この藤尾良史と手塚先生の関係性みたいなものが、
どんどんなんか近しくなっていくのを感じて、読んでると楽しい話ですね、ここは。
うーん、はいはいはい。
そうだ、行ってみようって言って、行く感じ。
うふふふふ。
で、この時和倉にはですね、一人のキーパーソンがいらっしゃるんですよ。
うん。
漫画家の寺田博夫さんという方がいてあって、
はい。
この人ね、いろんな、おのちにね、この時和倉出身の漫画家さんが時和倉のエピソードを書いたときに、
うん。
あの、兄気分、リーダー格みたいな感じでよく登場する方で、
おーん。
うん、寺さん寺さんってすごい親しみをね、持って呼ばれてる、
ま、ほんとにお兄さん的な人だったんですね。
はいはいはいはいはい。
なんかこう面倒見がすごくよくて、
うん。
で、漫画だけじゃなくて、あの、私生活の相談とかも載ってくれたりとか、
09:01
うん。
あとは、あの、家賃立て替えてくれたりとかね。
おー、なるほど。
調和に気分って感じですよね。
うんうんうん。
うん。
ご自身は、えっと、スポーツ系の漫画、野球とか、その、柔道とかの漫画とかを書かれてたようですね。
うんうんうん、はい。
で、この寺田博夫さん、寺さんという方が、
うん。
ま、彼が迎えてくれましてと、
はい。
いらっしゃい。手塚先生なら、もう今、缶詰なんだよっていうね。
うーん。
ねえ、缶詰っていうのはあれですね、なんていうの。
もうずっと、昼を雇わず、あの、部屋の中で、こう、作品を書き続けるという、あの状態ですよね。
はい。まあ、人気漫画家さんですからね。
ねえ。
で、先ほど、あの、出版社に売り込んだときの話をしたんですけども、
はい。
こう、漫画を巡る状況っていうのは、だいぶ進んでるんですよ。
うんうん。
で、この頃はですね、ものすごい勢いで、まあ、発展していってと、
はい。
で、漫画雑誌が急激に増えてと、
うん。
なんか、ほら、よく、あの、ね、ネタとかで見るような、この、出版社の編集の人が、
先生、先生って言って、この、爪かけるみたいな、あるじゃないですか。
はい、ありますね。
あんな時代ですね。
ああ。
もう、なんか、作品できるまで、ここで待たせてもらいます、みたいな。
うんうんうん。
ありますよね。
はい。
たまに、パロディとかでね、ドラえもんとかエスパーマミーとかに、こういう漫画家がね、登場したりとかしますけども。
うんうんうん。
で、まあ、手塚先生もすごい売りっ子だけどもちろん、いろんな方がいらっしゃったわけで、
はい。
もう、なんていうの、あの、無理なスケジュールで、もう、めちゃくちゃ働いてたりとか、まあ、してたんですよね、漫画家さんが。
うーん。
まあ、あの、過労でね、亡くなってしまうような漫画家さんも出てくるような、そんな時代です。
ああ。
はい。
本当に、この頃、あの、漫画という文化が、こう、一般的になっていったんやなっていうのが、わかる辺の話ですね、これね。
うーん、そうですね。
うん。
で、この後なんですけども、
はい。
えっとね、1954年、手塚先生は、この時は、そう、出られるんですよ。
はいはいはいはい。
で、東京の両国に2人で住んでた、藤本先生と安彦先生は、
この手塚先生が暮らしてた部屋に、後から入るという形で、入居します、時はそうに。
はい。
あの、先生がね、置いていってくれたんですって、机を、作業机を。
ああ、なるほど。
だから、まあ、憧れのね、本当に子供の、出会いの頃からちょっとね、話してますけども、
憧れ続けて、目指し続けた、手塚先生の残してきた机で、仕事ができると。
うーん。
あともう1個嬉しいのが、あの、資金も置いていってくれたらしいです。
12:02
ああ、さすがというか。
ここの、えっと、時はそうの14号室。
はい。
ここに、手塚治虫先生が抜けた後に、藤本先生と安彦先生が入居しますと。
うん。
僕、ちゃんとね、調べるというか、こういう話を聞くまで、僕、手塚先生のことはもちろん単独で知ってたし、
はい。
藤子不二雄先生っていうね、漫画家がいるっていうのも知ってたんですけど、
うん。
ここまで密接に関わりのある2人だって、知らなかったんですよ。
うーん。
なんかね、どちらも有名なね、漫画家さんですごい、日本のね、漫画界に名を刻んであるじゃないですか。
そうですね。
だから、僕、後からこういう、なんていうんだろう、本当に学生の頃に会いに行ったりとか、
はい。
ね、その、部屋を引き継いだりとかっていう話を聞いて、
あ、ここまで、なんていうの、その、繋がりのある人たちだったんだっていうのを知って驚きましたね、初めは。
うーん。
まあ、なんかちょっと嬉しいというか。
はい。
おかげでね、この藤子藤雄のみならず、手塚先生の作品なんかも、ちゃんと読んでみようっていう気持ちがすごく芽生えてきて、
うんうんうん。
ただただちょっとね、膨大な作品量になるので、なかなかね、
まあ、そうですね。
手はつけられてないっていうのはあるんですけども、
きっと、藤子藤雄ファンの方には、こういう感じでね、連続性を感じて、
手塚先生のファンだったりとか、いう方は多いんじゃないかなっていうふうに思いますね。
うーん。
手塚先生の作品が好きな方なんかにおすすめとか聞いてみたい気持ちではありますね。
うーん。
うん。
で、まあちょっと話が逸れましたけども、
この頃ですね、先登場した寺田博雄さんね、寺さんね。
はいはいはい。
と、あと藤子藤雄、藤本浴子。
で、すでにこのときに時和荘に入居してた、
寺さんの弟分的な漫画家さんたちも何人かいらって、
うーん。
彼らと一緒にね、新漫画棟という棟を結成するんですよ。
棟、はいはい。
で、この人たち何やってたかっていうと、
うん。
月に1回集まって、これからの漫画について語り合うとかね。
あー、なるほど、はい。
なんかいいよね。
うんうんうん。
あとは、合作、みんなで描いた漫画を雑誌に載せたりとか、
うんうんうんうん。
そういうことをしてたようです。
うーん。
なのでやっぱりね、この若手の漫画家さんが集って一緒にね、共同生活してるっていうのが、
ただただ一緒に住んでるわけじゃなくて、
まあ若い漫画家さんたちが一緒に活動するような時間とかもとってたと。
うんうんうんうん。
なんかもう、あのね、青春って感じがすごいして、
15:01
うーん、そうですね。
好き。
めっちゃ好き、こういう話。
うん。
というわけで、ちょっとずつね、そういう存在とかを認知されてきてですよ、時はそうという場所の。
はい。
で、お二人のもとにも、仕事がちょっとずつね、来るようになってくるわけですね。
うんうんうん。
うちの出版社で読み切りの作品書いてもらえませんか?とか。
うーん。
今度こういう企画で考えてるんですけども、連載持ちませんか?とかね。
はいはいはい。
もうなんかこう、思い描いてた漫画家って感じの日々が訪れるわけです、二人にようやく。
うーん。
ねえ。
でも忙しくて忙しくて、二人は。
はい。
一晩中、もう徹夜でね、漫画を描いて、部屋の明かりが消えない夜なんかもあったようですね。
へえ。
なんか一気にうれっ子というか。
そうですね。
ね。
なので、寺さんとかもね、大丈夫かって、無理すんなよみたいな。
うーん。
面倒見てくれたりとか。
うんうんうん。
で、ふるさとにね、手紙を書くわけです、藤本先生は。
お母さん元気にしてますか?と。
うん。
僕たちは、手塚先生の残していった部屋に暮らしてますって。
うーん。
どんどん仕事も増えてきて、忙しくなってきたけども、大丈夫だよ、体には気をつけてくださいねと。
はいはいはいはい。
で、忙しくなったけども、今度の正月には家に帰るからということで、手紙を書くわけですね。
うんうん、はい。
はい、そして正月が訪れます。
はい。
一気に、実家のシーンにこの漫画が映るんですけども、超リラックスしてるわけですね、先生。
まあまあまあまあ。
わかるよね、なんかその感じね。
うん、わかりますね。
で、よう藤本とか言いながら、安彦先生とかも、なんか近所からこう挨拶に来てね、明けましておめでとうございますみたいなことをしたり。
うん。
なんかあの、漫画家としてのね、こう忙しい日々を一時的に離れて、こう実家でこうくつろぎながら、なんか学生の頃の2人の雰囲気にこう戻ってるというかさ。
はいはいはいはい。
まあ、お母さんとかと一緒に暮らしたりとかして、でも仕事がないわけではないんですよ。
うんうんうん。
ね、山ほどね、仕事を受けてましたからね。
そうですね。
徹夜しないといけないぐらい受けてましたから。
うんうんうん。
持ち帰りの仕事があるわけですね。
あらー。
まあまあ、しゃあないね、それはね。
まあまあまあまあ、そうですかね。
ゆっくり休まれへんっていうのはね。
うん。
でね、あの安彦先生がね、おいおい藤本ってまだ全然手つけてないじゃないかと。
うん。
実は僕もなんだけどみたいな。
あはははは。
いやー、もうやっぱり実家にね、戻っちゃうとやっぱ気がゆるんじゃって。
うん。
まあまあでも、お正月だしまだ。
18:01
うん。
まあ1月の7日までに、まあ郵送で届けばいいんだからまだまだ時間あるやんと。
うーん。
まあそれもそうかということでね、大事な大事なことですよ。
仕事ばっかりじゃなくて、休む時間もちゃんと取るっていうのは現代人にとっても大事なことですよ。
そうですね。
はい。
そして日が流れ。
うん。
7日。
うん。
やべ、まだやってないってなるわけですね。
あー、まずいな。
ははは。
全然できてないよっていうことで、急いで書くわけですね。
はい。
すると不吉な知らせが届きます。
ん?
電報が来てるわよと。
はい。
はい。
至急現行送られしという電報が届くわけですね。
あー、はー、まずいですね。
やばいね。
電報です。
速達が来てます。
また電報が来てますよっていうことでね、どんどんどんどん実家に届くわけですね。
出版社からのお知らせが。
はい。
救済できぬ。18日の朝までに着くよう。
とか、電報って全部カタカナで書いてるんですけどね、この時のやつって。
困っている。すぐに出てこられたし。
とか。
うん。
文面がほら、ちょっと時代っぽいじゃないですか。
そうですね。
なんか、こうやって面白く書いてあるけど、当時たぶん血の気引いてたんちゃうかなと思うんですよね、2人とも。
いやー、もうそりゃそうですよ。
で、もう待てぬ。すぐ遅れ。とかね。
そして、急いで急いで書くんやけども、この焦って書くもんやからインクのツボ倒したりとか、そんなシーンが出てくるわけですよ。
あー、そうですね。
で、最後ね。
原稿送るに及ばず、間に合わず、よそへ頼んだみたいな電報が届きますと。
あー。
はい。で、ついに出版社からの連絡は途絶えました。
あー。
はい。この時、たぶん一番、漫画家生命としての失敗というふうに、後に語っておられますね、この事件に関しては。
うんうんうんうん。
うわー、まずいまずいって。
ちょっとまあね、仕事をね、受けすぎたというか。
はい。
うん。この原稿の締め切りを何本も落としてしまうという事件は、藤子藤代氏の1ページを盛大に彩るわけですね。
うんうんうん。
この時は、何本もの仕事に穴を開けてしまって、信頼をすべて失ってしまった、お二人。
はい。
せっかくここまで積み上げてきた信頼を失ってしまうわけですよ。
うん。
うん。6本の仕事をここで失ってしまったようですね。
21:02
多いな。
多いね。
はい。
うん。で、まあ後にこれを反省してというかね、一度も締め切りを破ることはしなかったそうです。
うんうんうん。
はい。
で、まあ急いで正月明けて、まあ時はそうに戻るわけじゃないですか。
はい。
で、そしたらもうあれですよ。寺さんですよ。ね。
はい。
大変なことになったなと。
うん。
そうなんですと。ね。藤子はどこへ行ったってね。こう何人も編集者が詰めかけてきたりとか。
うんうん。
もう二人がいないんだら代わりに寺田が書けってね、こう言われたりとかね。
おー。
もうご迷惑をかけしました、すいませんすいませんっていうことで、もう謝って。
うん。
で、出版社にも電話かけまくってね、もう今更電話してきたって遅いよっていうふうなこと言われたりしながら。
うーん。
まあどうにかこうにかようやくまあ嵐は去りましたと。はい。
はい。
そろそろ春だねって言って、窓の外見てるんやけど。
うん。
その二人には春を越えても仕事は来なかったようです。
ふぅー。
まあちょっとね、こう今思うとね、この漫画家さんにもこういう若励の至りというにはちょっと大きすぎるけども、失敗があったんだなと。
そうですね。
えー。
じゃあちょっと今回はこの辺までのお話にしましょうか。
はーい。
はい。じゃあ終わっていきます。
はい、というわけでエンディングです。
はい。
えらい失敗をやらかしましたね、お二人。
やってしまってますね、完全に。
いや僕もね、たまにあるというか、その仕事をね、こう持ち帰ってしようっていうときあるんやけど、結局家ではできないんですよ。
うーん。
あのね、こう完全にもうくつろぎモードになっちゃうというか。
はいはいはい。
だから手つかずのまま結局ね、次の日職場に持って帰って、結局職場でやんねんみたいなことはあるんで。
わからなくはないんですけど、規模がなんかね。
そうですね。
ねー。
このような失敗もあったそうなんですよ。
うんうんうん。
まあね、東京に出てからのしばらくの二人の道筋を今日聞いていただいたわけですけども、どうですか?さっぱさん。
いやー、まあそうですね。
いやー、ちょっと、なんだろう、正月に仕事やらないの、夏休みの宿題、最終日までやらないのとめっちゃ似てるなとか思いながら。
わかる。
そう、でも問題の規模が違いすぎるみたいな。
24:01
ねー、やっぱりこの頃そんなね、気軽に東京とね、富山を行き来するような時代でもなかったでしょうから。
そうですよね。
電報っていうのがリアルじゃない?なんか。
うーん。
電報ってほら、電話のシステムでね、届けるやつなんで、距離が離れててもね、割と早めに届くようなやつやから、この切羽詰まってる感がすごいわかるなっていう。
うーん、そうですね。
意外とね、この二人やらかしてるなっていうのが僕の感想なんですよ。
まあ、そうですね、結構やってますね。
ね。
はい。
まあね、すごい人やとは僕は思ってるんですけども、こういう心配エピソードとかも聞くと逆にね、あ、こんなこともあったんだっていう感じでさらに好きになるじゃないけどもね。
はい。
何もかも完璧な人じゃなかったんだなっていうあたりがすごく好感が持てますよね。
うーん。
で、この後、時予想にまた戻りましてと。
はい。
漫画家としての再スタートをかけて頑張るわけですけども、この二人は。
うーん。
いろんなね、後に有名になる漫画家さんとかも集っていくわけですよ。
うーん。
そのあたりのお話が次回はできたらなというふうに思っとります。
はい。
はい。
じゃあ、今回は終わっていきますね。
はい。
少し不思議ないと、この番組では皆様からの感想反応、それから藤子不二雄作品への愛、どしどしお送りいただければと思っております。
はい。
さっぱさんに宛先の方をお願いしましょうかね。
はい。
メールアドレスはfushigi7110 at gmail.com。
ツイッターのアカウント名は少し不思議ないと。
ハッシュタグはハッシュタグ不思議な。不思議はひらがな。名はカタカナで検索してみてください。
はい。それからお名前だけで送っていただけますメールフォームの方もご用意しております。
エピソードの概要欄、それからツイッターの少し不思議ないとアカウントのプロフィールのところにリンクがありますのでご活用ください。
はい。
というわけで、皆さん次のお話でお会いしましょう。
さよなら。
またね。