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はい、というわけで始まりました。本日はですね、フランソア・ジュリアンという人が書いた
道徳を基礎付ける 孟子vsカント・ルソー・ニーチェという本があってですね
これはすごく面白かったので、ちょっとこれのですね、内容を忘れないようにおさらいしたいなぁと思ってですね
話すっていう、まあ割とこういう本の内容ですね、忘れないようにおさらいで話そうと思うとですね
だいたい結構長くなるんですけど 最近ちょっと孟子がすごい熱くなってきたんで、ちょっとその話をしようかなと思います
道徳を基礎付けるっていうのはね、なんでそんなこと必要やねんって思うわけですけど
道徳っていうのがもとで、もちろん人間の価値判断というのがされててですね
道徳ってね、国・時代それぞれによって違いますけど、何にせよですね、道徳っていうものがどんな社会でも何か形を変えてあってですね
それによって人々の価値判断というのはされてて、さらにですね、もっとその先にですね、その道徳を基にして法律とかもできてるわけですよね
それによってですね、もちろん国とかも運営されてると、人間もですね、人間の価値判断、人間の行動とかですね、国の運営みたいなことにですね
道徳って基礎としては働いてるわけですよね
なんですけど、その道徳っていうのがですね、一体何に基づいているのかっていうことが次は問題になるわけですよね
僕らのその社会とか考えをですね、基礎付けてるものっていうのがですね、そもそもなんでそういうふうに俺らはこれが良い悪いと思うのっていうことがですね
ちゃんとはっきりさせたいよねっていうのでですね、道徳を基礎付けるっていう
ムーブメントがあったわけですけど、そういうふうに、道徳が一体どこから来てるのかというのがわからなかったらですね
すごい誤視的にね、例えば道徳を道具として使おうというような可能性も起こり得るわけですよね
こうすると誰々にとって得だから、これを道徳として良いことにしようとかね
これは国家にとって得だから道徳的に良いということにしようみたいなね
ということもまあその道徳っていうのがですね、ふわふわとその基礎付けられてなくて
ふわふわとしているものでですね、恣意的に動かせるものってなるともちろんそういうことも発生しうると
まあそしたらやっぱり怖いわけですよね なんでですね、道徳を基礎付けるって言ってですね
なんだそれ、そんなこと必要あるのかっていう感じはするわけですけど、割りかし切実な問題としてあると
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でですね、なんですけど、じゃあその道徳の基礎付けっていうのがですね、うまくいったのかっていうとですね
まあそのうまくいってないと、その道徳っていうのが一体どこから来ているのかっていうのがですね
ずっとわかってない問題っていうのがあるわけですよね
でですね、この辺はこの人フランスのね、著者なんで西洋の話をしているわけですけど
そういう意味で言うとですね、道徳はね、昔はキリスト教とほとんど一緒だったわけですね
キリスト教によって裏打ちされていると
なんでですね、まあ教義に沿っていればですね、道徳的だったんですよね
その道徳ってどこから来てんの?ということのですね、説明を免れていたわけですけど
キリスト教の力が落ちるにつれですね、会議論みたいなのが当然上がってくるわけですよね
そんな中でですね、よし道徳を築き続けるぞと言ってですね
まあこのキリスト教の代わりになるようなですね、なんか理論とかなんか裏付けを持って
道徳っていうのをちゃんと築き付けるぞ、築き続けるぞと言ってですね
いろんな哲学者がですね、その辺ぐらいからチャレンジしていったわけですよね
で、その中で結構ですね、活躍したのはカントとかルソーとかですね、ショーペンハワーとかでですね
で、ショーペンハワーが一つちょっとピークみたいなのを作ってですね
これか?みたいなことをですね、言ってた時にですね
ニーチェがですね、それ意味ねえ、道徳の築き続けとか意味ねえしみたいな話になってですね
で、そこからですね、先はもうその道徳を築き続けようというですね
あの議論自体がもう古臭いものとなっていったわけですよね
で、例えばなんですけど、マルクスとかはですね
道徳なんていうのはオカルトだと、そして奴隷的だと
なんでかというと、その支配階級にそもそも握られているから
それがその道徳っていうのはこうだよって決めることでですね
支配階級にこう、都合のいいように作られてるから
奴隷のなんていうか、奴隷が信じる宗教なんだみたいな道徳っていうのはみたいな感じなんですよね、マルクスに言わせると
今度はフロイトに言わせるとですね
道徳っていうのはその幼少期のですね、理想化された両親の投影なんだと
こんなお父さん、こんなお母さんいいなっていうのをですね
投影されたものが道徳なんだみたいな感じでですね
本には出てなかったですけど、まあ風光とかもですね
まあ権力構造がまあその道徳とかね、倫理観とか
まあ何が正常、何が異常かを決めているみたいな、まあそんな話なわけですよね
だからですね、もう本当にその道徳って一体どこから来るんだろうね、みたいなですね
前は経営宗教だったけど、今はどうなんだろうね、みたいなですね
そういう感じの議論からですね、そんなものはないとかね
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あの所詮こんなもんだとかね、権力構造決めてるんだとかね、みたいな感じになってですね
まあ解体され尽くしちゃってるわけですよね
でですね、どれもまあなんていうか、フロイトとかですね
風光とか言ってることはまあそれなりにそうかなって思う部分もあるわけですよね
なるほどと、道徳ってのは理想化された両親の姿の投影ですかとか
権力構造決めてるんですね、みたいなね
っていうのをですね、まあそれでですね、一応説明ついた風ではあるんですけど
すごくですね、でって思うんですよね
道徳がね、そういうものから決まっているのだよって言われてもですね
でってなるわけですよね
で、どうするの?みたいな
でですね、こので問題っていうのはですね、まあすごいこの20世紀以降の哲学がずっとハマってる問題なんですよね
特に構造主義とかですね、あの辺りからですね
はいこういう構造で世の中っていうのはできてるんですよ、なんか人間の何というか価値観とかはこの辺から来てるんですよ、実はとかね
みたいなことですね、まあ見せられてですね
でってなるんですよね、その
っていうのは、えっとでそれを知ったからといって我々はどう生きればいいの?っていうことへの回答には全くなってないわけですよね
だからですね、えっと
まあ本当にこう、はいこういう構造です、みたいな風なね、なんかこう説明書とかね、なんかこう解体図みたいなの見せられてもですね
何にもならないわけですよね
これもやっぱ同じことが起こってると
まあ道徳の基礎付けっていうのがまあすごいね、こんな意味ねえよと、古くせえよってなってですね
でいろいろいろんなことをみんな言っていった結果ですね、解体され尽くしてですね
まったくその答えに全くなってないと
でですね
でも結局ですね、まあ何でしょうね、僕らはね普通に一人の人間とですね
なんかもっとよく生きたいなぁとかね、なんかもっとよく生きるってどういうことかなぁみたいなことはまあ思うわけですよね
でですね、もしかしたらもう少しそれは違う回答として、答えというか疑問としてね、もっとどうやったら幸せになれるんだろうみたいなことなのかもしれないんですけど
でですね、実際にまあその周囲にですね、良い人というのがいるわけですよね、あの人は良い人だなみたいな
っていうのがあると、だから僕らの中にですね
よく生きたいなぁ、どうすればいいかなぁとかいう気持ちとかですね、あの人は良い人だなぁみたいなものはですね
厳然と存在しているのに、いやーその道徳ってのはね、理想化された良心の投影ですよとかね
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権力構造が決めているんだよとかね、支配階級に握られているオカルトだとかね
言われても、ああそうすか、みたいな、まあそうなのかもしれないですけど、まあちょっと
あまり関係ないですね、みたいな感じになっちゃうと
でですね、じゃあそれに応えられるようなものがですね、じゃあ現代哲学みたいなことがちゃんと用意できてるかって言ったら
なんかできてなさそうに思えますぞ、と
いうことでですね、まあここでまあ袋工事に入っちゃうわけですけど
ただですね、そのもともとね、そのこんなね、道徳の傷付けなんてね、そんなもうおこがましいし意味ねえって言ってたニーチェはですね
その時に同時にですね、傷付けはできないけど、まあ比較くらいならできるんじゃないって言ったんですよね
道徳っていうのがどういうふうに来てるのかっていうのも、国時代によって違うから、それの比較くらいだったらできるでしょうと
みたいなことを言っていると、でこのですね、著者のフランスワ・ジュリアンって人がですね
よし、じゃあ人道、義とかを得ですね、儒教と比較してみようと
その中でもその、孟子とを比較してみようというのがまあこの本ですというところで、もう本のですね
なんでこの本が書かれたのかという概要説明でも10分経ったので、本日は以上とします。ありがとうございました