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2024-07-03 36:00

#46-2 SDGs時代に先駆ける!社会貢献に捧げるキャリア【インパクト投資ってなんですか? ゲスト:インパクト投資アドバイザー 小笠原由佳さん】

▼内容:
高山ゼミの先輩/ザ・エリート!政府系金融の世界/ファイナンスによる国際開発援助/プリンストンで公共政策を学ぶ/修士号を取らせてくれない⁈それなら辞めます/外交ツールとしての円借款/戦コンの常套句「君のバリューは何?」/プロボノでNPO支援する「社会貢献マネージャー」/出戻りでどっぷり開発援助/育休中に始まった親の介護/管理職昇格するしない?ダブルケアの渦中で海外駐在の打診

▼出演:
ゲスト
小笠原由佳さん(インパクト投資アドバイザー、2児の母)

MC
田中優子(元クラウドワークス取締役、ビジネスアドバイザー、社外取締役、1児の母)
岡澤陽子(ブランドコンサルタント、戦略リサーチャー、ビジネスメンター、2児の母)

▼関連エピソード:
#16-2 「女性は管理職になりたがらない」の裏に潜むもの
#31-1 未来への感度を磨け!飾りじゃないのよサステナは
#31-2 それは「やっかいな正義」?ダイバシティマネジメントの要諦はパッションだ!
#41-1 求めよ、さらば与えられん!キャリアとライフをトレードオフにしない働き方
#45-2 EC、SNS、SDGs・・・現代的キーワードがもたらすファッション業界の変化

▼番組への質問・感想はこちらまで

00:01
スピーカー 2
Dialogue cafe 筋書きのない対話から新しいアイディアと自分自身に出会う場所
この番組は様々なテーマで楽しみながらお届けします。
小笠原由佳さんをお迎えしての第2回でございます。
小笠原さんのキャリアについて今回はお伺いしたいなと思うんですけれども、もともと私の先輩なんですけど、小笠原さんは法学部?
小笠原さんは国際関係の教養学部で、東大の教養学部で国際関係をやっていらっしゃった。
前に小野君という政治学の先生にもゲストに来てもらったんですけど、小野君も同じ高山ゼミです。
高山ゼミが国際社会とメディアのなんとかかんとかの社会の変容、正式タイトル忘れたんですけど、そういうテーマのゼミだったんですけど、そこで小笠原さんが先輩だけど、
スピーカー 1
ゼミ同期ではありません。私は2年生の時に入ってくられて、小笠原さんは1年生の時に入って、最初は喋れなくて苦労した。
スピーカー 2
小笠原さんでもそうだったんだって思う感じでしたけど、
高山さんはハイレベル、難易度高いゼミだったんだけど、そこのご出身で、その後就職がJB。
スピーカー 1
そうですね。国際協力銀行。現国際協力銀行ということで、入ったところはOECF、海外経済協力基金というですね。
めちゃくちゃ知らない人が多い名前なんですけど、いわゆる日本のODAって、お金をあげちゃう無償資金協力と技術を協力していくという技術協力と、それからお金を貸す円借官というのがあるんですけど、
当時円借官というのって別の組織が、JICAとは別の組織がやっていて、それがOECFというところだったんですね。
そこに入ったんですけど、OECFは輸出入銀行というところと、私が入った後、半年後に合併して国際協力銀行というのになって、
そういう都城国向けに開発目的でお金を貸して、例えば道路を作ります、地下鉄を作ります、橋を作りますというプロジェクトと、
日本の消費者さんとかが海外に進出するときに、状況的というかリスクを取れるお金なんですけど、
ファイナンスをつけますということをしている輸出入銀行という機能があったんですけど、それもやります。
その2つが一緒になったんですね。そこに最初に入って、
03:02
スピーカー 1
大学卒業してもすぐに新卒ですね。そこは何で選ばれたんですか?
私が国際問題とかに関心が強くて、高校時代くらいから強かったのかな。
学部も教育学部の国際関係論というところに行って、何をやろうかなと思ったときに、
政策とかをやるよりかは、実務に近いようなことがやりたいなと。
途上国に関係することがやるかと思ったので、そこから在家がJVICなんですけど、
なんとなくファイナンス的な知識もつけたいなと思ってJVICに入ったというのが
スピーカー 2
ファイナンスというアプローチが、途上国支援に重要だという感覚があったということですか?
スピーカー 1
今考えてみるとあまりよく考えてなかったなと思うんですけど、
今はその機能は在家に移っちゃってるんですけど、当時の在家だと、
結局、例えば青年海外協力隊を送りますとか、専門家を送りますみたいな、
プロパーの職員ってコーディネーションが結構大きな役目だったんですよね。
今思えばコーディネーションも相手のニーズとこっちのニーズを
オピを聞いてちゃんとマッチングしてってすごく重要な機能だし、難しいので、
当時は分かってなかったなと思うけれども、なんとなく自分として手に職をつけたいな
みたいな思いがあって、そうするとバンカーとまだ行きませんけど、
ファイナンスの知識が曲がりなりに身につくであろう、
高校のメイン釈迦の世界に入りたいなっていうのはあったんですよね。
スピーカー 2
なんか、すごいエリートっぽい感じですよね。
東京東大、東大室のあなたさんが何をしたかっていうのは。
東大の中にもヒエラルキーがある気がして、政府系金融とかってやっぱりちょっと
スピーカー 1
頭いい感じがする。しかも志も高い。
スピーカー 2
金融に行く人はもちろん東大からね、金融に行く人はいっぱいいるけど、
それこそグリーディーな感じの、儲けたるで、みたいな感じか、
もしくは私たちの頃はあんまり外資系の金融っていうよりは、
都銀、メガバンクっていうのがやっぱりまだまだ多かったんで、
どっちかというとちょっとエスタブリッシュな世界としての金融機関っていうのを
希望する人が多かったと思うんだけど、
政府系金融に行く人っていうのは、志の高さと金融に行く頭の良さと
06:07
スピーカー 2
両方両立してる感じがあって、すごいかっこいい感じがする。
スピーカー 1
思い出した。なんであれだったかっていうと、
たぶん国連職員になりたい時期があったんですよ。
ゼミでも言ってたんですけど、国際国連職員ってかっこいいなと思ってて、
どうやったらなれるのかなって調べたら、やっぱり収支を取らなきゃいけない。
海外で収支を取らなきゃいけないっていうのがあって、
留学制度があったんですよ、OCFには。
それも一つ大きな要因でしたね。入ったらそういうことをしていただけるっていう。
スピーカー 2
なるほどね。実際留学されたんですよね。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
何年目で行ったんですか?
スピーカー 1
4年目かな。結構早いですよね。
確かに結構早い。
みんな行けるんですか?大体。
私の上までは全員行けたんだけど、
私の時からみんな辞めちゃうから、
えっ、そうなの?
留学から帰ってきて。
スピーカー 2
それで行かれたの?プリンストン?
そうです。プリンストン大学の国境政策学部。
スピーカー 1
なるほど。
スピーカー 2
アメリカにはどれくらいいらっしゃったんですか?
スピーカー 1
トータルで2年ですね。
そこがちょっとややこしくて、
先ほど全員行けてた制度がいけなくなっちゃったっていう制度変更のもとに
1年しか行っちゃいけないっていう縛りになったんです。
スピーカー 2
えっ、何それが?収支を取るなっていうこと?
スピーカー 1
プリンストンを買ったやつは2年のコースなんですよ。
ここを買ったんですけど、行っていいですか?って言ったら
1年で帰ってくるならいいよって。
スピーカー 2
別に収支も取らなくていいよって言われたんですよ。
スピーカー 1
じゃあ行こうと言って行かせていただいて
休学制度ってのがあって、大学側に。
だから休学して戻ってきて1年働いて、
そこで休職して行かせてほしいと言ったんですけど、
それがダメだったんですね。
それはやっぱり示しがつかないと。
スピーカー 2
示しがつかない。
どっかで聞いたことあるね。
私たちがいた会社でもそういう理由で留学…
行けなかったんですね。
そういう話聞きますよ。
スピーカー 1
そこで実は辞めていて、
授業料を返してるんですけど、
会社に?
その時から5年間を勤めろって話になったんで、
5分のいくつっていう。
計算式で。
スピーカー 2
そうなんだ。
スピーカー 1
で、そこで辞めて、
プリンストンに行って、
マスターをとって、
それで帰ってきて、
外資系のコンサルティング会社に入りまして、
2年ぐらい劇部で働いたっていう感じですね。
スピーカー 2
その時は、後にね、
そのコンサルの中で、
独特のポジションを作られたと聞いてるんですけど、
普通のコンサル担当やってたんですか?
スピーカー 1
いわゆる普通のコンサル担当です。
09:01
スピーカー 2
じゃあ普通の企業のどうやって利益増やすんだ、
みたいなことを支援してたから、
インパクト投資とはちょっと、
インパクト投資はわからないけど、
開発援助とは全然関係ないことをやってたわけですよね。
スピーカー 1
そうですね。
会議とか考えなかったんですか?
当時、あんまり考えなかったですね。
なんか、
開発援助をやっていた時って、
結局、資源を分配する仕事なんですよ。
例えば、お金をどういうセクターで、
どういうプロジェクトを作るのか、
という話でやってて、
民間セクター開発みたいなのもあったんですけど、
どっちかっていうと、
政府的にお金をどう分配していくか、
みたいな話で。
かつ、
当時でも、
資金とかで流行っていたのは、
民営か民営かって話が流行っていて、
特に私は、
カザフシタンとか、
当時の移行経済を担当していて、
いかに国営企業を民営化していくかとか、
ガス会社を民営化していくかとか、
電力会社とかって話をよくやったんですけど、
私自身は政府系金融機関にいて、
そういうビジネスを全くやったことがないのに、
その人たちが民営化をしなさい、
みたいなことを言っているのが、
ちょっと片手落ちな気がして、
分配するっていうところを一回やったので、
もうちょっと都民を作り出すみたいなところを、
ちゃんと自分で経験した方がいいんじゃないかなって思って、
取り払えばいいのかコンサルかなと思って、
外資系のコンサルをいくつか受けたら、
オファーをいただいたので、
入ったっていう、そういう感じですね。
スピーカー 2
やっぱり政府系金融って、
金融機関だけど、
ちょっとやっぱり役所っぽい感じのアプローチなんですか?
スピーカー 1
そうですね。
損はしちゃいけないっていう観点で、
有識の審査みたいなものは、
ものすごくそれなりに民間的なアプローチなんですけど、
組織運営はやっぱり完全に、
完全に政府ではないけれども、
とても政府チック、パブリックなんですよね。
儲かった部署にたくさん人が行くとか、
スピーカー 2
そういうこともないですし。
スピーカー 1
運用するのは国のお金なんですか?
そうですね。それもいくつかあるんですけど、
財政投融士っていうところから借りてきて、
それを途上国に貸し出すっていう、
そういうやり方でしたね。
ただすごくお互い金利が低い。
借りてくる金利も低いですし、
貸し出す金利もすごい低いっていう。
しかも円借家だと30年とか40年経つんですよ。
自由って言えるのかなっていうぐらい、
スピーカー 2
かなりこう、なんていうんですか。
そういう意味では、銀行自体が直接の融資の、
融資っていうか、投資というか融資の主体。
12:02
スピーカー 1
契約主体ですね。
スピーカー 2
そうですよね。融資ですもんね。
スピーカー 1
融資ですね。
スピーカー 2
エクイティじゃないもんね。ネットで。
スピーカー 1
本当に一部ありますけど、そうですね。
融資がほとんどですね。
金融先鋒の政府に貸すか、
政府系金融機関に貸すっていうことがメインですね。
円城の世界、円借家に関して言うと。
なるほど、なるほど。
スピーカー 2
そっかそっか。損はしちゃいけないようなんだけど、
そういう意味では元々、
インパクト投資はより利益出さなきゃいけないかもしれないけど、
別にファイナンシャルリターンを最大化しましょうみたいな、
一般的な金融機関とはやっぱり違う方針でやってるってことですね。
そうですね。
実際には、
投資先がちゃんとビジネスとしても成功しないと、
何でもいいから、世の中のためになるなら何でもいいってわけじゃないから、
ビジネスの部分っていうのも、
ちゃんと学びたいなっていう感じだった。
スピーカー 1
そうですね。
自分自身がビジネスの仕組みみたいなものを、
ちゃんとわからないといかんのではないかみたいな気分を
当時すごく持ってたのは覚えてますね。
スピーカー 2
投資先、いろんな案件が来ると思うんですけど、
どういう基準でカザフスターに出すのか、
カザフスターのこの案件に出すのか、
アフリカのこの国のこの案件に出すのかみたいなのって、
どういうことを基準に決めるんですか?
スピーカー 1
それは、やっぱりODAって外交ツールの一つなので、
例えば去年までインドに3000億円貸し付けたのに、
今年ゼロになっちゃうとかだと、
すごい外交的なメッセージが、
インドミスって何ですか?みたいな話になっちゃったりするわけですね。
だから外務省もすごく、
外交的メッセージとしての規模と中身っていうのはすごく気にする。
経産省とかは、日本企業がそれでいかに悲劇するかっていうのを気にする。
財務省は、そうは言っても、
インドにこれだけ貸し込んだら帰ってこないんじゃないかっていうのを気にする。
っていう省庁さんの間で、
私たちが案件を作っていくっていう、
そういう立場だったんですね。
開発金融機関の使命としては、
そういう国としての大きな方針のもとで、
いかにやっぱり開発効果が高い案件を選んでいくかっていう、
そういうことで考えていく。
例えばですけど、
ネパールのブータンだったら、
やっぱり観光産業すごく大事で、
全体の外貨獲得の中で何パーセント観光業が占めているので、
やっぱり観光業をいかに持続可能にしていくかっていうのは
国としての大きなテーマなのか、
マクロレベルで国の発展計画みたいなものをベースに
どうやっていこうかねみたいな話を考えながら、
でもそうは言っても、
やっぱりいい案件ってなかなかすぐはできないので、
15:02
スピーカー 1
調査とかもやっている中で、
これは多分めちゃくちゃ開発効果高いけど、
でもやっぱり住民に対して発生するよねとか、
高山ないほうがいいかなとか、
そういう話とかをずっとしながら、
結構長い時間をかけて案件を作っていくっていう、
そういうことをしているので、
担当としてだからそのうちの本当に一部にしか関わらないって感じなんですけど、
結構3,4年かかってば案件形成されるので、
そんな形ですか?
そうですね、やっぱり対象、フィージビリティスタディがあったりとか、
その前にマスタープランっていう地域開発計画みたいなのがあったりとかして、
その中でじゃあここの道路を作りましょうっていうので、
フィージビリティスタディがあって、
じゃあ本当に作りましょうって積算しなきゃいけなくて、
っていう感じでやってたりするので、
そのプロセスは結構長いですね。
日本でも例えば新幹線作るのが長いじゃないですか。
そういう話ですよね。
スピーカー 2
なるほどね。
なるほど。面白い。
そういう世界から一般の民間企業を相手にするコンサルの世界に行かれて、
なんかギャップというかカルチャーショックありました?
スピーカー 1
やっぱりありましたね。
単にパブリックとプライベートっていうことだけじゃなくて、
コンサルティングって知恵だしてお金をいただくっていう状況じゃないですか。
かなり高いお金をいただくわけじゃないですか。
やっぱり常に、君がやった仕事はお客さんに対して価値になったのかみたいなことを問われ…
スピーカー 2
私もよく言われました。君のバリューはなんだみたいな。
よく言われましたよ。
スピーカー 1
そこがやっぱりすごい勉強にもなったけど、やっぱプレッシャーでしたよね。
本当時間じゃないみたいな。
いくら10時間寝ないで考えても何ら価値が出せなかったから、君は無価値だよみたいな。
そういう世界観で当たられるので、やっぱ大変だったなと思いますよね。
なるほどね。
コンサルは2名?
いわゆる普通のコンサル担当としては2名であって、
もっかり買ったのやめますって言ったんですよ。
そしてたまたま、本当にこれはラッキーとしか言いようがないんですけど、
たまたま当時新しいオフィスヘッドが買われると思って、
その人が当時は2007年くらいかな。
日本の人口って2005年くらいから減ってるんですけど、
この先日本も社会課題解決みたいなことをやっていかないと大変なことになるから、
こういうコンサルティング会社もそういうことをやっていかなきゃいけないよねっていう思いを持っていて、
18:00
スピーカー 1
プロボルのオフィスでは結構やってたんですけど、
日本って全然当時はそういう感じじゃなかったんですね。
で、おばさんそういうこと興味あるでしょって言われて、
やらないって言われて、
じゃあそれだけやっていいんだったらと言われて、
交渉をして、お給料下がっていいですって言って、
お給料下げてもいいからって特別にね、
社会貢献マネージャーっていうわけのわからないポストを作っていただいて、
2年くらいプロボのプラクティスの立ち上げと運営っていうのをやってたんですね。
どういうところがクライアントになるんですか?
有名どころだと、フローレンスさんっていう養子屋さんがいて、
当時まだね、売上規模1000万円、全然いってないぐらいのところで、
まだだって、ビジネス立ち上がってそんなに…
3年前とかだったんですよ。
あの時に、当時最初NPOでスタートされたんで、
使えば使うほど赤字になるプライシングになってたんですよ。
それをベインがネットワークとかで、
いくらまで払いますかというアンケートを取ったら、
めちゃくちゃ払う人とかもいて、
大丈夫です、上げても大丈夫ですって言って、
値段のテーブルを作ったりとか、そういうことをしていました。
スピーカー 2
それは完全にプロモノなんですか?
スピーカー 1
完全にプロモノです。
私はある意味マネージャーロールで入って、
1人フルタイムでサインしてもらって、
それ以外は、いわゆるエクストラ10%で投注って言ったんですけど、
ケースに入りながらやりたい人がちょっと入るっていう形でチームを組んで、
やってました。3ヶ月ぐらいだったかな。
何年ぐらいですか?
2008年だったかな。
7年か8年か、それぐらいですね。
スピーカー 2
あんまり聞いたことないっていうか、
コンサルでプロモノ結構あります?
スピーカー 1
でもね、今は結構いろんなところがやっていると思いますね。
やっぱり若い方はすごい関心が強いので、
やっていると思いますね。
スピーカー 2
どういうきっかけで、
フロレンスさんはどういう経緯で
メインに頼もうみたいな話になったのか、
それはマネージャーとしての活動は、
案件があってそれをやるっていうのもあると思うんですけど、
お金もらうわけじゃないから営業なのかってのはよくわかんないけど、
そういう、どうやってその案件を見つけてくるんですか?
スピーカー 1
はいはい。もうちょっと前から話をすると、
当時だから、じゃあ岡田さんやってねって言われて、
オフィスヘッドからのマンデートをいただいたんですけど、
当時は若い人はすごいやりたかった。
ほんと若いって1年目、2年目とかですね。
そういうのをやりたいって多かったんですけど、
21:01
スピーカー 1
やっぱりコンサルタントとして残っていたおじさんたちは、
スピーカー 2
なんでそんなに儲からないことをやるの?
スピーカー 1
っていう感じだったわけですよ。
スピーカー 2
言うと思う。
スピーカー 1
だからやっぱりベイン、東京オフィスとして、
何をフォーカスしてやるのかとか、
どういう風に決めるのかとかっていうのを、
結構最初からアプローチ作って、
社内営業して、
社内的なね。
そう。だからトップが言ってるので、
明確に反対しないんですけど、
でも入ってくれる人を集めないといけないので、
そういう社内会議で説明したり、
なんかでアンケート取って、
じゃあどのイシューでいこうかみたいな話をした。
結局さっきの意図と一緒なんですけど、
例えば介護福祉と子どもと環境とかって、
コンサル的な考え方だと、
一番重要なやつからやりましょうみたいな話になるんですけど、
それって比べられないじゃないですか。
だからもうじゃあみんながやりたいところからやりましょう。
というのでアンケートを取って、
子どもっていう切り口が出てきたので、
あんまり両親とかも使えなかったので、
東京圏の子どもをやっている、
ヒエリの男大さんでやりましょう。
スピーカー 2
こっちからアプローチするってことですか?
お手伝いしますよって。
スピーカー 1
エリアはそういう感じで決めて、
あとはなんかいろんなそういうイベントとかに、
私が出ていって名刺配って、
当時ね、外資系のコンサルタントの人が来たら、
なんか何ですかこれみたいな。
スピーカー 2
思いますよね。
縁通りですね。
お金ありませんけどって思いますよね。
スピーカー 1
そういう感じだったんですけど、
たまたま一番最初のJVICにいた2年上の先輩が、
カーライルに転職していて、
上げた顔をやってたんですけど、
左腕でフローレスの理事をやったんですよ。
へー。
で、なんかコンタクトしたら、
彼はだから、
まさに自分のキャリアでは右手でめっちゃ稼いで、
左手でそういうことするっていうのを今もやってるんですけど、
その人が多分ピンときて、
当時フローレスとしてもやっぱり
プライシングを考えなきゃいけないっていうタイミングで、
ベインだったら多分ここは分析できるだろうっていうことを、
多分マッチングでピンときて、
で、私としても知ってる人がいるとやっぱりやりやすいじゃないですか。
というのでマッチングしたっていうのはありますね。
へー。
でもその後もいくつかやってるのは、
もう本当にそこは飛び込みで営業してみたいな感じとか、
で、なんかそういうイベントとかに行きだすと、
結構向こうから話は来るようになるので、
結構だからほぼ1年で、
多分なんか100団体とかあったと思います。
へー。
それ何人くらいの体制でそれやってたんですか?
100%私だけだったんですよ。
ケースになるまでは全部私が決めて、
あー、なるほどね。
スピーカー 2
で、プロジェクトになったらサインするみたいな。
スピーカー 1
ショートリスト作って6件くらいやって、
で、じゃあやっぱり社内でアーケード取って、
24:02
スピーカー 1
どれやりましょうって決めて、
で、そのタイミングで空いてることに、
100%サイン取ってもらって、
なるほどね。
そういう感じです。
だからアサイメントとかをうまく内部で調整するとか。
スピーカー 2
そういうのも結構大事ですね。
いやー、すごい、わかります。
大事ですよね。
なんかコンサルってパートナーシップじゃないですか。
皆さんね、利益を言ったらパートナーで分け合うみたいなビジネスだから、
全体の利益を損なって、
リソースだけ使って利益につながらないものに対しては、
結構直接的な自分たちの利益だから、
結構嫌がる人は嫌がると思うんですよね。
それって理解されるのすごく難しかっただろうなとは思うし、
最終的に全員が理解することはなかったかもしれないですけど、
それはどうやって説明したんですか?
スピーカー 1
トップがすごくそこはぶれなかったっていうのは大きかったのと、
あとグローバルにもすごくやってたんですよ。
だからオーストラリアのすごいシニアなパートナーの方が
メンターになってくださって、
そのフロボのプラクティス同士で全世界でつながってるネットワークがあって、
うちはこういうことやってるよとかいう資料とかどんどんくれるんですよね。
それをコピペして日本語にして、
こういうアプローチでいったらいいのかとかってやっていって、
そこのオフィスを超えたサポートっていうのはすごくありましたね。
大きいですね。
ベインってニューヨークオフィスからスピンアウトしたブリッジスパンっていう団体があって、
それはまさにコンサルフィーをすごく下げて、
ギリギリブレイクイブンにするようなモードで、
ただそのノンプロフィットに対して試験、コンサルするんですけど、
ただその中身は全部公開させてください、公共地だからっていうディールでやってるコンサルティングファームがスピンアウトしてできてるんですよ。
そのことを芸術大団の戦略とか作ってるんですよね。
っていうぐらい結構グローバルではすごく盛んなとこだったので、
そういう意味で東京オフィスでは結構苦労しましたけど、そういうサポートはありましたね。
スピーカー 2
そういう活動をするっていうのはベインの中でのどういう位置づけなんですか?
何のためだっていうふうに説明してるんですか?
スピーカー 1
一つは本当にやっぱりまさにパーパスみたいな形で、コンサルティングファームのたるもの、そういうことをやらなきゃいけないのが一つと、
スピーカー 2
あとやっぱりリクルーティングとリテンション、若い人のリクルーティングっていうのはすごい利きました。
なるほどね。
スピーカー 1
リクルーティングで、やっぱりベインってBCGとかマッキンゼルに負けちゃうわけなんですけど、
プロモノがあるから来てくれることができるようになって、そこは結構マネージメントとしては大きかったと思います。
27:06
スピーカー 1
確かにすごい独自な感じがしてるね。
そうですね、オーディションとしてそういうことがあると。
スピーカー 2
なるほどね。
それをどれくらいやったんですか?
スピーカー 1
2年間ですね。
2年やって、なるほど。
2008年ってさっきもおっしゃったんですけど、リーマンショック直後ってコンサルって結局お仕事なくなって暇になるじゃないですか。
で、暇になるとプロモノしやすくなるんですよ、人がいるとか。
でも、景気悪くなりすぎちゃうと結局人を切り出すので、そういうこともできないってことになって、
で、さすがに私もフルタイムでそれだけやってるのはもうアカンと。
アドミの方を見てくれと。
例えば秘書のマネージメントとか、ファイナンスとか人事とか。
っていうのが34歳くらいの時で、
いやでもなんか、私はそれが果たしてやりたいんだろうかっていうのをちょっと悩んで、
当時すごく上の方には可愛がっていただいて、ぜひ持ってほしいみたいなことを言っていただいたんですけど、
本当にそれをやりたいのかなって思っていた矢先に、
さっき申し上げたJ-BIGのうちの援助部隊がJICAに移ってたんですけど、
そっちですぐすごい人がいなくなっちゃったので、どっちを搭載をすると。
ついでは、辞めたった人にも声をかけてるっていう話があって、どう?って言われたんですね。
で、さっきの退職の経緯で、私はやっぱり援助の仕事をやりきってないなっていう、
なんか完全燃焼してない感っていうのがすごいあったんで、
たまたまタイミングとして、フェインもそうだったし、こっちもっていうのではすごい良いタイミングだなと思って、
なんか、で、須田さんとかもわかんないんですけど、
当時特に館長系で戻って来てほしいって、なんともありえない話だったんですよね。
もう辞めたら裏切りもみたいな。
そうなんですよね。
昔はね。
そこまで言ってくれるんだなと思って、須田中等で受けて、
2009年かな、12月にJICAに戻ったんですよ。
第一号、あらのない採用第一号みたいな。
そして戻ったんですよね。という経緯です。
スピーカー 2
なるほどね。
昔やってたことと同じことをやる感じだったんですか?
スピーカー 1
昔は1年しかやってなくて、1年やって、
さっきの日本企業支援みたいなところに移っちゃっていて、
留学の間は広報やってたんですよ。
だからちゃんと園長をやりきった感もなかったんですよね。
だからもう本当に、インドを担当になったんですけど、
インドって当時すごい伸びてて、本当にいっぱい仕事があって、
そこすごい大変でしたけど楽しかったですね。
なるほどね。
そうか。
ちょうどブリックスとか行って、
そうですね。
そうですね。2009年、10年、11年ですかね。
30:02
スピーカー 1
震災の時はインドをやってたので。
そこに何年いらっしゃったんですか?
インド間に1年半ちょっといて、その後移動して、
中東欧州部ってところに行って、
クライナーとかオルドバとか、
あまり知られてないんですけど、
当時は結構ブルガリアとかのあたりの支援してたので、
そういう東欧とかを担当してました。
スピーカー 2
なるほど。
その頃インパクト投資という言葉が生まれ始めた頃ですかね。
スピーカー 1
全然そんなのは知らなかったです。
スピーカー 2
その時は別にそういうキーワードは出てなかった?
スピーカー 1
全然。
それで子供を産んで、申し上げたと思うんですけど、
4年実は育休を取ってるんですよ。
4年!?
2人で。
スピーカー 2
連続でってこと?
スピーカー 1
連続で。
JICAは非常に寛容な組織なので、
スピーカー 2
3年取れるんですよ、1人。
スピーカー 1
私は2人欲しかったので、
でも1人産んで復帰して仕事しながら2人目って、
ちょっと無理だなと思ってたので、
2人。
スピーカー 2
すごい計画的な。
スピーカー 1
もっと早く産みたかったんですよ。
3年経った時に2人目ができたので、
2人目の時はもう1年休んで、
0歳、3歳で復帰したっていうところですね。
ただ当時は、多分次の話になりますけど、
母が亡くなって、その後父が要介護状態になって、
育休しながら結構介護的なこともしてたっていう感じの時期でしたね。
育休自体に介護始まったんですか。
始まりましたね。
スピーカー 2
なるほどね。
スピーカー 1
ご自家は東京なんですか?
そうなんです。もともと埼玉に両親住んでたんですけど、
子供1人産んだ後ぐらいに東京に引っ越してきて、
たまたまそこに貸してたアパートがあったので、
そこが人が出てたので、もうちょっと東京の方が便利だよねっていうことで、
引っ越してきた途端に母が亡くなっちゃったんですよ。
それはもう本当にある意味ピンピンコロリだったので、
そんなに介護っていう感じじゃなかったんですけど、
その後父がずっと持病を持ってたので、
その父がだんだん悪くなっていくのを、
近かったんです。
自転車で10分ぐらいのところに住んでたので、
育休中って時間があるので、
子供連れては行ってご飯一緒に食べたりとか、
そういう感じでやってましたね。
スピーカー 2
それを育休からでも復帰もされて、
でも介護はまだ続いてみたいなので、
仕事を辞めて独立されたのは、
割と最近じゃないですか。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
それは、介護自体はもう終わった後に、
33:03
スピーカー 1
そこに1個実は転職挟んでる。
スピーカー 2
そこはどういう?
スピーカー 1
子供が、当時、保育園に入れなかったじゃないですか。
2人目はゼロ歳で入れようと思って、
そこで復帰したんですよね。
だから父もだんだん悪くなってたんですけど、
とにかく復帰しようということで、
復帰をしてゼロ歳、3歳、プラス介護っていう状況で、
ゼロ歳に戻る。
今思うと、本当によく頑張ってた。
記憶が飛びそう。
だんだん父が悪くなっていって、
倒れて入院したりとか、
でもやっぱり1人無理だから介護施設に入れようとか、
っていう話にどんどんなっていって、
ゼロ歳では次は駐在って言われてたんですよ。
駐在も行きたくないわけじゃないけど、
行くだけの価値があるかなって思っていて、
それでちょっと、
あんまり自信がないまま、
40代で子供2人いて、
小さくて、介護してて、
職なんてできませんよねっていうのをエージェントに聞いたら、
インパクト当初を持っている財団というのがあって、
他にもいくつかご紹介いただいたんですけど、
これはゼロから作り上げるところ、
親切だったんですね、当時。
だからそういうところの方が面白そうかなと思って、
転職を決めて、
もう本当にお休みに入って、
3月から働くっていう時に、
スピーカー 2
実は2月24日に父が亡くなったんですよ。
スピーカー 1
そうなんですね。
だからちょっと入社は遅らせてもらいましたけど、
転職した時にはもう介護が終わってたっていう状況ではあったんですけど。
なるほどね。
スピーカー 2
でも別に介護のために辞めたっていうわけではないんですか?
スピーカー 1
そうですね。いろんな理由のうちの一つにはありましたけど、
やっぱり介護はいつまで続くかわからない。
次はこの会社ではとにかく駐在に行かなければならないと言われている、
駐在に行ってもいいけど、
行くだけの価値があるのかみたいな、
そういう問答の中で他にオポチュニティがあったら、
まあ転職してもいいかなぐらいな気持ちになっていたっていう感じでしたね。
スピーカー 2
なるほど。
ちょっとね、介護の話とか、
その最後辞めた系みたいなところは、
もうちょっと掘り下げたいなというふうに思っているので、
それは次回、より深掘りするのをやりたいと思います。
はい。
36:00

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