00:05
Chikara Charge! Radio! おはようございます。Chikaraです。
今日もお盆中でございますが、俺流人宇宙でじっくりお話をしてみたいなと思います。
よろしくお願いします。
前回の放送がだいぶはしょったんですけど、それでも40分ぐらいかかってしまったというね。
とにかくあるかないかのお話を、一気にそこまではたどり着きたかったので、
はしょった部分をちょっと今日は補足説明的なお話になるかもしれませんが、させていただければと思います。
よろしくお願いします。
いやー、リブラ先生の引用放送というかお返事放送を聞かせていただきましたけど、やっぱり面白いですね。
妄想と丸二の世界のあるのかないのかっていうね。そこはやっぱりグラデーションでしたね。
僕もそこはね、チャットGPTともグラデーションになるだろうということを思っていて、
1人だと妄想ならば2人だとどうなの?3人だとどうなの?っていう話をGPTに問いかけながら、
GPTとしてはそのグラデーションの中で、何人ぐらいからだったら妄想、何人ぐらい以上は丸二の世界っていうふうに定義作るのかなと思ってそれをGPTに実際聞いてみたところで、
3、4人ぐらいですかねみたいな。 GPT自体も曖昧に回答してきたのをそのまま放送でお話ししましたけど、まさにそうなんですよ。
リブラ先生がご指摘いただきましたけど、 曖昧であるという回答を定義として曖昧さをとったからこそ、曖昧であることが明確になったというね。
そう、なんか面白いですよね。だからグラデーションである以上、妄想なのか丸二の世界として真実、真にあるという世界なのかは、境界線ははっきりできないということがはっきりしたと。
わかります? 言葉で言うとわかるかわかんないけど、曖昧であることがはっきりしたっていうね。すごい面白かったですよね。
だから僕が言う丸二の世界という、僕が言う3つの世界のうちの丸二の世界は、妄想と真実、真にあるとがもうミックスされていってそこの境界線はないというところまでが、こうしてはっきりしてきたというのがすごく面白い状況だなと思います。
僕がこの曖昧だからこそ曖昧だとはっきりしたみたいな話を聞いたときに、実際GPTと話をしていて違う観点でちょっと思い出したことがあったんです。
03:09
何かというと、GPTが昨日ちょっとさらっと話を流したんだけど、
要はGPTに僕は何をしたかというと、ディベート形式で、僕の言う3つの世界のうちの丸二の世界をずっと否定する立場からずっと否定を試みてくださいっていうことをやって、
僕はずっとその反論否定、こうだから丸二の世界はないでしょっていうGPTにずっと僕は、いやそれはこうですこうです、だからあるんでしょ、あるでしょ、あるでしょっていうのをずっと僕はディベート形式でGPTとやり合いをしたときに、
GPTが最後の方で言ってきたのは3つあったんですよ。
1個は、その丸二の世界っていうのは主観で作られたものでしょって、だから客観性がないんだから本当の世界としてあるとは言えないんじゃないのみたいなことですよね。
ここはもうわかりますよね。俺流人宇宙やリブラ先生のお話を聞いている方はもうすぐピンとくると思いますけど、僕はもう一発で一撃でした。
本当の客観性が欠けているということをGPTはおっしゃいますけれども、じゃあ世の中に本当の客観性ってありますかっていう、まさにその質問をバーンと投げたらもうGPTはすぐに認めました。
確かにこの世の中に本当の客観性があるのかというと、それは大変疑わしい。
完全な客観は存在するのかという観点については、哲学や科学における重要な議論の一つですと言ってきましたね。
科学的な観察や理論構築は客観的なデータや検証可能な事実に基づくものとされていますが、これらも最終的には人間の認知能力に依存しています。
観察する行為そのものが観察者の視点や知識、文化的背景に影響を受けることは避けられません。
例えば科学者がある現象を観察するとき、その観察結果は彼らの持つ理論的枠組みや予備知識に影響を受ける可能性があります。
なので、こういう科学的なデータの解釈も、その価値観や経験に基づいて行われるものであるので、世の中に完全に客観的と言える状況は難しい。
したがって、完全な客観が存在するかどうかは確かに疑問であります。
06:07
ということで、②の世界も他の世界観と同様に、客観的にあると言われているような、一般的に言われているようなどんな他の世界観とも比べても、
②の世界も同様に人間の主観に基づく存在であることが、この世界がないということを否定する根拠にはなり得ないと、
GPTも結論を付けますということを言ってました。
なので、もう一回ですけど、僕の②の世界の定義の一つ目は、人の主観によって生まれたもの。
要はこれは、人の主観というのはもう本当の大きな意味での人の主観という意味で、
一般的には客観的にって言われるものですら、人の主観ですよね、そうですよというGPTとのやり取りも踏まえた上での人の主観により作られたものです、というのが②の定義の一つ目になっています。
ここが結構重要なポイントだと思いますので、ぜひ覚えてみてください。
この後も含めてお話を展開しようと思うので、①の人によって生み出されたものというのはそういう意味です。
どんなに客観性を持っている、主観が入っていないと言い張ったものであっても、人が絡んだものは全て本当の客観ではないということはGPTも認めたところにあります。
ということで、人間の主観に全て基づくという前提の定義が一つ目の定義になっておりました。
これが僕の世界、②の世界の定義の一つ目。人が生み出した世界ということです。
そして二つ目。概念の持続性と実在性というのは昨日ちょっとお話ししましたから飛ばして。
三つ目面白かったのが、限定された影響力というのが、この世界についての、僕が言った②の世界があるとは言い切れないんじゃないかということを言ってきたんですよ。
最終的には他者への影響力を持っていることが定義になったんだけども、
その前にGPTとやりとりした話がちょっと僕は面白かったんでちょっと補足しますけど、
GPTが、この僕が言う②の世界というのは、影響力が限定されて限られた範囲にしか影響しないという可能性があるんだったら、
この②の世界があるとは言えないんじゃないかということを最初に言ってきたんです。いいですか。
だから、変わらない普遍じゃなくて、万物に共通するような普遍性がないだろうという話に近いと思うんですけど、
09:08
何かしらの影響を与えたとしても、その与える影響の範囲が狭いとか限定されてるっていうことは、
この世界が本当にあるとは言えないんじゃないかっていうことを言ってきたんです。
でも僕はそこに対してこういう反論をしました。
その影響力の範囲について、影響が範囲限定されている場合は世界がないと、もし言うんであればですよ。
そもそも人が今在籍する家族だったり、学校だったり、会社だったり、
街、国、地域、文化、そういったものは全て影響が限定されているものですよね。
であれば、影響力が限定されているもの、そういう世界がないともし定義するのであれば、
本当に僕が感じている、在籍していると思っている会社や街、国、地域、文化、
この地球の中でも分断されている、限定されているエリア、
そういったものは存在しないと言っているんですか。
僕はこれをGPTに聞きました。
もうここまで言ったら皆さんわかると思いますけど、答えは、
あなたが述べている通り、影響が限定されていることが存在を否定する理由にはならないと考えられますね。
例えば会社や街、国、文化など全てが限定された範囲で影響を持ちますが、
それらは確かに存在していると認識されています。
なので、影響の範囲が限定されているということは、むしろその存在を否定するのではなく、
限られた範囲での影響力があることこそが、
その存在の証明と考えることもできると思います。
ということで、ここでチャットGPTは自分の意見を真逆に180度変換したという瞬間でした。
これが僕がちょっと面白いなと思った、リブラ先生が言ってた、
曖昧なことをはっきりしたみたいな、そんな文脈に近くないですか。
影響が普遍でないこと自体が、むしろこの〇2という世界があるという証明になり得るということで、
12:00
GPTはこの瞬間に一気に〇2の存在を否定しきれないと、はっきり言った瞬間でございました。
ということで、それを踏まえて、〇2の世界の定義は1番、人によって生み出されたものであり、
〇2番、人と共有されているものであり、〇3番、それで人に影響力を持つものであるということが定義されたというのが昨日のお話でした。
それでさらにもう一個名言すると、その〇2の世界というのは妄想と真実とかグラデーションでつながっていて、
そこを境界線をはっきり線引きすることは難しいということがはっきり見えてきたのが、これまでのところでございました。
これで今日はそのまま補足説明をしたかったのと、
もう一個、この間言ったSNSの炎上の関連の話と、もう一個は悟りについてをどう捉えるか。
GPTがこの僕の言う世界、〇1、〇2、〇3の定義や議論、文脈を通して、その上で悟りという世界をどこに位置づけたのか。
GPTがね。それもちょっと皆さん面白い興味を持っているところじゃないかとは思うんですが、
そうね、悟りの方の話をしてみようかな。三宅さんがね、ちょっと反応がないんだよね、前回の話にね。
じゃあちょっと悟りの話をしてみようかなと思いますね。
その悟りの話に行く前に、今回〇2の世界を結構しつこく話しましたから、
もう一個ね、〇3の世界についてをGPTから見たらどう見えるのかっていうのを聞いたところを一回説明させてください。
今探していきます。
この〇2の議論をずっと通じた中で、自然とCATGPTも、〇3の世界というのがどういう定義かっていうのをなんとなく理解してくれていて、
それを僕は話をしているので、ちょっと聞いてみてください。
ありました。見つけましたよ。
僕は聞きました。
今まで話をした中を通じて、〇2の世界と〇1の世界と〇3の世界の話をしましたけれども、
僕はCATGPTにこう聞きました。
15:01
これらの話を通して、今あなたは、人が〇2の世界を超越して、
〇3の世界を知る術はあると思いますか。
僕はこれをCATGPTに聞きました。
〇2の世界を超越して、人が〇3の世界を知る術はあると思いますか。
僕はこういうふうにCATGPTに聞きました。
そしたらCATGPTの答えはいかになりましたか。
〇2の世界を超越して、〇3の世界、人知を超えた真理の世界を知ることができるかどうかは非常に難しい問題であり、
哲学的にも宗教的にも多くの議論がなされています。
ここでいくつかの視点を提供します。
一つ目、〇3の世界への到達の可能性。
〇3の世界は人知を超えているので、知覚できないんじゃないか。
これをGPTが言っていました。
〇3の世界は人間の知覚や認識を超えたものであり、完全には理解できないという立場も存在します。
この見方では、〇3の世界はあくまで理論上のものであり、人間がその本質を直接知ることはできないとされています。
これはそういう議論がいろいろされている中で、そういうふうに定義をされていますということを言ってくれました。
もう一個は、悟りや啓示としての〇3の世界というので、
多くの宗教や哲学は、人間がある種の悟りや啓示を通じて、〇3の世界に到達できるとも考えています。
例えば、仏教の悟りや神秘主義的な体験は、通常の人間の認識を超えた真理に触れる方法とされています。
この視点からは、個人的な体験や精神的な成長が〇3の世界を知る鍵とされています。
これが〇3の世界への到達の可能性として言われたことです。
だからもう一回ですけど、悟りや神秘主義的な体験を通じて、
人知を超えた〇3の世界に到達できる鍵になるよと言われている世界もありつつ、
18:05
〇3の世界は人間を超えているので知覚ができない、
本質を直接知ることはできないとされているという、両方の意見があります。
限界を超える手段としては、瞑想や自己超越の技法としていろいろ言われているものもあります。
科学からの観点からいくと、科学の限界を超えて〇3の世界を知ることができるかどうかは、
現代の哲学や科学でも議論されていますが、
〇3の世界は観測可能な範囲を超えたものとされるため、
科学的な手法では到達できない可能性が高いですよというのが言っています。
だから感覚的に僕らもそう思ってますね。
そして3つ目、言語と概念の限界。
ここ結構重要だと思います。
〇3の世界は言語で表現できない。
3の世界が存在すると仮定しても、それを言語や概念で正確に表現することは難しいと考えられます。
人間の言語や概念は〇2の世界に基づいています。
〇3の世界を完全に表現することはできないということは、
だから〇2の世界は人間は表現したり認知したり認識したり、言語で表現もできる。
知覚もできると言ってますけど、GPTによると〇3の世界はそれをさらに超えた世界であるので、
完全に表現することは難しい、できないかもしれません。
〇3の世界は直感や体験によってのみ理解されるものとして考える方たちもいて、
完全にはそれを他者と共有できないと考えられています、ということを言ってます。
この話を受けて僕はこう質問しました。
人である以上は、人知を超えた〇2の世界を知ることができる。
信じたり見たり体験をできるのは〇2の世界。
あくまで〇2の世界は人知を超えた世界として認知することができても、
真の人知を超えた〇3の世界を知ることは難しいんじゃないですか。
僕がこう聞きましたら、GPTの回答は以下でした。
その考え方は非常に理にかなっています。
人間である以上、人知を超えた〇2の世界は信じることや体験することである程度知ることはできますが、
真に人知を超えた〇3の世界を知ることは非常に難しいか、あるいは不可能であると考えるのが自然です。
21:07
その理由をいかにまとめます。
一つ目、〇2と〇3の世界の違い。
〇2の世界は、これは人間の思考や信念、宗教、哲学などに基づく世界です。
例えば神が超自然的な現象を信じたり体験したりすることができるため、
〇2の世界は人間の認識や主観に強く依存しています。
つまり、人がその世界を知ることができるのは、人間の心や文化がそれを構築しているからです。
〇3の世界について。
一方で、〇3の世界は人間の認識や主観を超えた完全に独立した真理や現実の領域です。
これは人間の知覚、思考、概念を超えたものであり、言葉や経験で表現することも困難です。
このため、〇3の世界を人間が真に知ることは極めて難しい、あるいは不可能かもしれません。
また二つ目の理由。
認識の限界。
人間の認識は生物学的および文化的に制約されています。
私たちが見るもの、聞くもの、感じるものはすべて脳や感覚器官の働きに依存しています。
この制約の中で、私たちは〇2の世界を理解し構築はできますが、
〇3の世界はこれらの枠組みを完全に超えています。
なので、〇2の世界を人間は認知したり、思考したり、思いを巡らせたり感じることはできるけれども、
人間の感覚や脳や感覚器官に制限がある以上、〇3の世界を感じることは非常に難しいということが、
この人間の認識の限界ということからもGPTは説明をしてくれています。
ということで、この〇3の世界というのは、存在するかもしれないが、人である以上それを知ることはとても難しい。
人間の知覚や認識の範囲を超えているため、難しいという矛盾が生じておりますが、
どうしてもその存在を信じることは、気持ちとして信じることはできても、
実際にそれを知ることは人間には達成できない可能性がとても高いですというのが、
24:06
GPTが言ってきた〇3の世界についてでございます。
いいですか。これは僕の感覚にものすごく近かったですね。
僕はだから〇2の世界と〇3の世界が違うと言っているのがそこで、
人知を超えた人を超えている〇3の世界はどこかにあるかもしれませんけど、
人である以上それを知覚することも認識することも知ることも感じることも一切できない。
僕たちが持っているアンテナでは何一つ受信できないか、
受信できたとしてもノイズをカットした一部分だけをちょっと感じるぐらいしかできないんじゃないかというのが僕の今の感覚ですけれども、
〇3の世界を知るということは無理ですということで、
〇3の世界はそういう世界だということがGPTも認めたことになりました。
それを踏まえた上で、いいですか。
今日のちょっと本題になると思います。
仏教でいう悟りの世界、これは果たして〇2の世界なのか、
〇2の世界を超えた〇3の世界に行っている行為なのか、どっちなんですか。
どういう位置づけなんでしょうかというのをGPTに確認しました。
いいですか。ちょっと探します、またね。
何個か長いやり取りの中でちょっと探しておきますよ。
もう一度ですけども、〇2の世界というのは僕の定義、GPTと作った定義によると、
人が生み出した世界であること、そして人と共有されている世界であること、
そして人に影響を与えている世界であること。
それが僕が言っている〇2の世界で、
僕にとってもGPTにとっても、宗教だったり思想だったり科学だったり、
人が生み出したもの、人が関わっているものは全て〇2の世界ですというのがこの定義で。
〇3の世界はそれを飛び越えて超越しております。
ただ僕の疑問は、〇2の世界が第一の定義、人が生み出したもの、
要は人が主観で生み出している世界が〇2だというのが、これ定義にどっぷり書いてありますから。
でも悟りというのは自我を超越したものですよね。
そうするとこの〇2の世界の条件から外れて、それを超越したことが、要は悟りになるんじゃないかしら。
僕は正直素直にどういうふうにGPTは思いますかというのを聞きました。
27:08
そこについての答えです。
こういう質問をしました。いきますよ。いいですか。
仏教の悟りは、主観、自我を脱せよと言っているものなので、〇2の世界じゃなくなりますか。
それとも、主観、自我をなくせという、そういう主観を共有した世界だから、〇2のままだと思いますか。どう思いますか。
これをGPTに答えたところ、一回目の回答は次の答えでした。
これは非常に興味深い問いですね。
仏教の悟りは、主観や自我を超越することを目指すものですが、それが〇2の世界に属するかどうかを考えると以下のように整理ができると思います。
一つ目、仏教の悟りと主観の超越。自我の超越。
仏教の教えでは、悟りは自己の主観的な執着や自我を超えて、真理を直接体験することを目指しています。
これは、個々の主観や自己中心的な認識から脱却し、より普遍的な真実を体験することとされています。
つまり、個人的な主観を放棄し、無我の状態を目指すものです。
これは普通に悟りの話を説明してくれているだけですね。
それで次。
悟りと〇2の世界の関係。主観の共有としての〇2。
一方で、主観をなくせという教えそのものが仏教との間で共有され、それが共通の信念として存在しています。
つまり、悟りを目指す過程や教えは、仏教コミュニティの中で共有されている主観的な認識の一部とみなすことができます。
〇2の世界は、主観で生まれたものが人と共有されていて、
さらに人に影響を与えているのが〇2の世界と言っているので、
その悟りを開くということ自体も含めて、
そういう教えはすでに仏教とのコミュニティの中では共有され、その人たちに影響を与えているという以上、
この教え自体はまずは〇2の世界のものだと言えるでしょう。
そういう〇2の世界に属するものと考えることができますね、というのがGPTが言っています。
じゃあここでもう一回です。
ここから論点になるのは、先ほどの教え自体は共有されていて影響をするものなので〇2の世界だということが整理つきましたけど、
30:08
実際に個人として悟りを開きました。
悟りの領域に到達した人は、〇2の世界を個人一人は飛び越えていくのかどうか、ここです。
GPTは最初は、この超越した個人の悟りを開いた人自体は〇2の世界を飛び越えている可能性があるということをGPTは言ってきたんです、最初ね。
なので僕はこういうふうな質問を一回返しました。
そうすると、仏教での悟りの教えや概念などは、もろもろ〇2の世界で継続をしていくものだけれども、
仮に誰かが悟りを開いたとしたら、悟りを開いたその子の存在だけ、悟りを開いた人自身は、その瞬間に〇2の世界から下脱する。
人知を超えた〇3に行くということなんでしょうか。
ただし、悟りというもの自体が自我を超えた存在であるという教え自体は、
そのコミュニティに属さない外の人からすると、主観で定義されたものを抜け出てないんじゃないでしょうか。
そうすると、その悟りの教えを受けているコミュニティの外の人からすると、
悟りを開いた人もまだ〇2の世界の中で、
その仏教コミュニティの中では自我を超えた定の人になっているっていうだけで、
結局〇2の世界の中からは出れてないんじゃないですか。
これ質問わかりますかね。
だから一人一宇宙みたいなイメージかもしれませんけれども、
〇2の世界にはいろんなコミュニティがあって、いろんな世界があるということが定義されてますよね。
キリスト教の信じる世界もあれば、仏教の世界もある。
仏教の中の人たちからすると、悟りを開いた人は、
とうとうついに〇2の世界を超えて〇3に行けたというふうに思っている。
そういう教えを信じている。
ただし、それを信じていないコミュニティの人からすると、
僕は悟りを開いて〇3に行った、もしくはあの人は〇3に行ったという定義した主観に過ぎないよねと見えませんかという質問をしてます。
いいですか。
33:00
だから仏教を信じる人たちの中だけに限ると、
確かに〇3に行ってるように見えるかもしれません。
ただし、それを外から見た人たちからすると、
〇2の中で単に仮の〇3に飛んだっていう定義されてるだけじゃないですか。
僕はそういう意図で、ストレートにGPTに聞いたわけです。
結局〇2の中の世界からは出てないじゃないですか。
そうしたらGPTがこう答えました。
あなたの考察は、仏教における悟りとその教えがどのように〇2の世界と関係するかについて、非常に深い洞察を示しています。
1つ目。悟りの教えと〇2の世界。
仏教の悟りに関する教えや概念は間違いなく〇2の世界の一部です。
これらの教えは仏教との間で共有され、世代を超えて継承されており、
コミュニティの信念体系の中に深く根付いています。
だからまず教えは〇2の世界であることは間違いないとGPTは改めて言っています。
そして2番目。悟りを開いた瞬間の超越について。
これはもし誰かが悟りを開いたとすれば、その人は自我を超越し、仏教が説く最終的な下達を達成したことになります。
この瞬間、その個人は自己の主観や個人的な制約を超えた存在となり、
ある意味で〇3の世界、人知を超えた真理の世界に到達したとみなせるでしょう。
ただし3つ目。外部からの視点。
ただし、仏教コミュニティ外の人から見ると、その悟りを開いた人は依然として〇2の世界の一部とみなされる可能性が高いです。
外部の人々にとっては、悟りを開いたという主張やその教えは、仏教という特定の信念体系の中でしか意味を持たず、
その人の悟りもまた、その信念体系における概念に過ぎないと解釈されるでしょう。
このように考えると、悟りを開いた人にとっては、個人的には〇3の世界に達したかもしれませんが、
外部の視点から見ると、その存在はまだ〇2の世界に縛られているように見えることになります。
つまり、悟りの概念自体が〇2の世界に依存している限り、悟りを開いた人が完全に〇2の世界から下脱したとみなすのは難しいかもしれません。
36:10
まとめ。悟りを開いた瞬間にその個人は〇2の世界から下脱し、〇3の世界に達したとみなされる可能性はありますが、
外部の視点からは、その人の存在や悟りは依然として〇2の世界の一部とみなされるでしょう。
これは悟りの教えが〇2の世界に深く根付いているため、外部からはその境界を完全に超越したと認識されにくいからです。
この二重の認識は、悟りの達成が主観的な体験でありながらも、その解釈が他者の視点によって異なるということを示しています。
要は、主観的には悟りを達して〇3の境地に行った、もしくはコミュニティ内での主観。
コミュニティ内にいる他者からは、あの人は確かに〇3の世界に行ったという主観で見る人もいますけど、
そのコミュニティ外の主観から見たら、いやいやそこにまだいるじゃない、3には行ってないじゃないという見られる可能性は大々にしてありますよという話でした。
なので、さっきの冒頭の質問に僕は切り替えて言ったんですけど、
じゃあ〇2を超越して人が〇3を知る術はあるのかというと、さっきの言ったとおり、
〇3の世界というのは人知を超えたものである以上、
人が認識して到達したり認知したりすることはできないというのが冒頭にお話ししたとおりです。
なのでGPPと僕の間では悟りを開いたとしても、それは〇2の世界の中での定義、
どういう体で〇3に行ったみたいに言ってるだけで、本当の真の意味での〇3の世界へは到達できていないということがこれではっきりしたと思います。
だから結局人が考えたり、人が思考したり、体験したりできているものである以上は、
僕たちは何をどうやっても〇2を超えられないんです。
これはキリスト教でも何でもスピリチュアルでもすべて同じことが言えるということが、これをやらなくてもわかると思います。
これを悟りはないだろうけど、スピリチュアルはあるよって言う方がいたら逆を考えてみたらわかると思います。
もしくはスピリチュアルはないけど、スピリチュアルのアカシックにつながるのは嘘だけど、悟りはあるんだって言う方は逆を考えればいいと思います。
同じことを僕はチャットGPTにやるはしませんけども、逆の立場で外から見ると、
39:02
それって〇2の世界で単にそのコミュニティ内でやってるだけでしょって思いませんか。
それが外から見たときの姿ですよ。
実際にもう一回ですけど、GPTは言いました。
〇3の世界を人という存在が知覚したり認識したりできる存在ですが、これは相当難しいか不可能に近いと言わざるを得ません。
なぜなら人の認識できる、知覚できる機能に制限があるからです。
人である以上、脳か、視観する何かか、触覚か、アンテナか、何を使ってもいいですけど、
人である以上は、人が知覚できる、認識できるものを超えることはできない。
これはもう当然のことだと思います。
なので、これで悟りが〇2の世界の話なのか、〇3の世界の話なのかが整理できたと思います。
ということで今日は以上になります。
ただし、今日の話は誰かを攻撃する話ではなく、
僕はその〇2の世界であって、仏教の悟りやスピリチュアルや他の教えというのがとても面白い、興味深い話で、
僕はそれを否定するものではない。
むしろGPTが言ってくれました。〇2の世界を否定することはできません。
ということは僕は〇2の世界はあると思っています。
なのでもう一回ですけど、仏教が言う世界もスピリチュアルが言う世界も、
今のところ僕とGPTの間ではないと否定することはできませんという結論に至っているので、
それを否定するものではありません。
ただ僕が言っているのは、それをさらに超えた〇3の世界とは別ですよということが、
これではっきりしたんじゃないかと思います。
ということで、僕は〇3を近くするアンテナを誰か開発して埋め込んでほしいと思いますが、
それを埋め込んだところでどうなんでしょうか。
人が作ったものである以上、科学的に何かを作ろうと何だろうと人を超えることはできないんじゃないかなと思いますが、
皆さんどう思いますか。
〇2の世界を何がどうあっても超えられない人の限界というのが僕はちょっと感じ始めましたが、
むしろだいぶ整理できてきたんじゃないかと思います。
ということで、次回は、
このいろんな僕がGPTとまとめた定義に当てはめたときに、
SNSでの炎上というのがどういうふうに解釈できるのかというのはちょっと面白かったので、それを次回お話したいと思います。
42:09
ただそこの話を説明するには少しまた違う説明をしないといけないかなと思うので、
それはそれでまた時間をいただければと思いますが、今日は以上になります。
以上です。
聞いていただきありがとうございました。
それでは行きます。
チカラチャージ!
今日もチカラあふれる一日を!