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2025-01-05 22:21

令和七年睦月の回「だいたいの日本史2」1

ガチャを回して出てきたお題について語る「文ガチャ」

令和七年も、どうぞよろしくお願いいたします。

今月のお題は「だいたいの日本史」です。


ざっくりざっくり、苦手な人に向けて「だいたい」で説明する日本史のお話。

今回はらい堂さんの挑戦で「下調べなしで幕末の歴史!」です。


1週目の今回は『騒乱の江戸編』です。

幕末と言われる四半世紀ほどの時代を、4つに区切ってお話します。どうぞふんわりゆるりとお聴きください。

サマリー

このエピソードでは、幕末から明治維新にかけての重要な出来事、特に黒船来航に焦点が当てられています。また、様々な歴史的背景や人物が説明されており、当時の日本の混乱と変化が探られています。安政の大獄や桜田門外の変を通じて、伊伊直介の強権政治とその反動が描かれています。歴史の中での藩主たちの対立や動きが、江戸時代の重要な一幕として浮かび上がります。

幕末の始まり
文ガチャは、ガチャを回して出てきた番組についてのんびりおしゃべりするポッドキャストです。
文ガチャ、令和七年睦月の回、椿雷道です。
拓也です。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、ということでですね、ガチャの出た目が偏りに偏った結果、今回も私のターンという感じになるんですけども、
はい。
だいたいの日本史という番組になります。
はい。
で、これ前回の収録の最後のガチャがね、ガチャ回して出た時にもちらっと言ってるんですけど、
はい。
当初は室町幕府の話しようと思ってたんですけど、
え、え、え。
ちょっと気が変わって、一番僕が個人的に好きな幕末明治維新あたりの話をしようかなと思います。
はい。
でですよ。
はい。
これ拓也さんには実は事前に言ってるんだけど、
はい。
えっと、だいたいの日本史なんで、
はい。
僕が今手元にあるメモは、メモはあるんですけど、
え。
全部記憶を頼りに書いたので、
ははは。
間違ってる可能性もあります。
はい。
はい。っていうね、言い訳だけ先にしとこうかなっていう感じですけれども、
はい。
4回にわたって話しますので、
だいたい時代の流れ順でね、4つに分かれてるんだよっていうくらいの話なんですけれども、
はい。
最初が僕が勝手につけたタイトルは、
今週ね、この1週目の部分は、
騒乱の江戸編っていうタイトルにしました。
はい。
まあ、騒ぎ乱れるですね。
はい。
で、なんでかっていうと、まず最初。
僕の考えの中でね、
はい。
えー、幕末っていうもののスタートは黒船来航だと思ってるんですよ。
えー。
なので、最初に話すのは黒船来航なんですけれども、
はい。
これが1853年の6月に黒船が来ました。
はい。
で、江戸とかね、今でいう神奈川県とか、
その後静岡県とかが大騒ぎになるわけですけど、
はい。
えーとね、いろいろ話したいことはあるんだが、
幕末明治維新の話、
一番最初の大体の日本史でもちょっと話してるんですけど、
僕はこの1853年しか基本的には年号を覚えてないんですよ。
へー。
で、えーとね、ポイントとしては、
この15年後、
はい。
ですから1868年が明治元年になるんですよ。
えー。
で、さらにその10年後、
だから78年が明治11年になるわけですよね。
明治元年から10年後なんで。
そうですね。はい。
が、大久保利道暗殺なんですね。
おおー。
で、大久保利道暗殺の1年前が、
だら、えー、何年?
えー、1825年、
77年かな?
はい。
が、西南戦争なんですよ。
おおー。
なので、僕の考えでは、ここまでが幕末明治維新なんですよ。
25年間。
そう。非常にわかりやすいじゃないですか。
そうですね。四半世紀で。
で、その四半世紀でわかりやすい上に、いわゆる幕末明治維新っていうのの、
幕末と明治維新の中黒になるところも、
最初から数えて15年、その後が10年っていうところでわかりやすいかなと思うので、
えー。
僕はこういう風に覚えてて、歴史好きな人は、
廃藩地権までって考えるべきじゃないかっていう意見もよく聞くんですよ。
はい。
っていうのは、要するに、
封建制度が完全に終わるタイミング?
えー。
という意味でそういう風に言う人もいるんですけど、
僕は廃藩地権が何年か覚えてないので話せません。
はい。
黒船来航の影響
はい。で、あとね、
このことを考えてる時に、
はい。
まあ、黒船って最初裏側置きに現れるんですけどね。
はいはい。
で、いろいろあって下田の方に移るんですけど、
はい。
そういえばって思って、これはちょっと調べたんですけど、
はい。
えーと、関東から大阪までの、
はい。
えーと、半島と湾の名前っていうのを一応確認してみたわけですよ。
はい。
千葉県があるところが暴走半島で、
はい。
暴走半島の隣に東京湾、今で言う東京湾、当時は江戸湾っていうのかしらんけど、
はい。
があって、その西側にあるのが三浦半島、ここが裏側ですね。
そうですね、はい。
で、三浦半島の隣が相模湾で、相模湾のその向こう側が伊豆半島で、
はい。
伊豆半島の隣が駿河湾、
はい。
で、厚見半島、三河湾、千田半島、伊勢湾、
はい。
で、紀伊半島、大阪湾、で、淡路島、淡山で向こう側が瀬戸内海って感じかなっていうふうに思うんですけど、
はい、そうですね、はい。
なんとなくその、単純にやっぱりちゃんと凸凹のところで名前がそれぞれついてんだなっていうのを改めて感じて、
そうですね。
地名もわかるし、先のほうの話になりますけど、大阪湾から最終的に江戸に帰ってくる人もいたりするので、
大阪湾ぐらいまでこういうふうになってんだなっていうのがイメージあると、
はい。
一つ足しになるかなというふうな気もしています。
はい。
で、黒船来航は1853年なんですけれども、これによって動き出したのは上位運動ってやつですね。
はい、はい。
日本は神の国であると、
はい。
遺敵が土足だがっていうような土地ではないのだというような感じの思考ですね。
はい。
で、外国人を追い払うという考え方、そして行動が起こりました。
はい。
で、これを結果的に後押しする形になっているのは、この時の天皇である孔明天皇が大の偉人嫌いということがあったのも、
ここ後の混乱がある意味では長引いた理由。
へー。
すごい嫌いだったみたいですね。
へー。
そしてそんな時に、いろいろそれまでにいろんなことがあるんでしょうけれども、そんな時に実質的な幕府の政権を担当しているのが老中の安倍政宏という人で、
この人はすごい解明的な人だったとは思うんですけど、
はい。
国全体に大きく影響を及ぼすような出来事なのね。
まあ黒骨大公はちょっと説明もおれましたけれども、開国を求めてきたというのがポイントですね。
はいはい。
ペリーが黒骨に乗ってきたわけですけど、ペリー提督が来たわけですけれども、
はいはい。
当時は捕鯨目的で来ていて、要は蒸気船なんで石炭でいいんだと思うんですけど、燃料を補給する補給場所が欲しかったんですよね。
へー。
要するにそこで飼うってことは結果的に貿易なんで、貿易をさせろというのが初目的。
そういう意味で言うと別に侵略者に来たわけでもないんですよ。
そうですね。
でも今まで260年ぐらい鎖国していた、このタイミングだと250年ぐらいかな。
はい。
鎖国していた国にとって大きいことなので、解明的なね、ある意味では現代的な安倍政宏は、いろんな人に意見を求めたわけです。
はい。
いろんな人って言っても、現実的な農民とかね、漁師さんとか木こりとかには求めてないんだと思うんだけど、
初代名とかに留まらず、とか過労とかに留まらず、一般の無視であれば誰でも意見が述べられる。
述べられるっていうか、あって述べるわけじゃないんだけど、書面を送ったりできるみたいなことをしたのが、
ある意味では諸藩の藩士にとっては言いたいことが言える世の中になってしまったっていう側面もあるんですね。
ええ。
だからその後、いろんなことを言いたいことを言うようになっていくっていうのもありますし、
だいたいこのぐらいの時期に、五賢公って言われた人がいると記憶してるんですけど、
五人の賢い公ってなんて言えばいいですか、貴族的なことですよね。公爵とかの公ね。
このメンバーが、これも僕の記憶なんで間違ってる可能性がちょっとだけありますが、
越前の松平春学と、水戸の徳川成明と、薩摩の始末成明と、土佐の山内陽道と、たぶん、これどこ、伊予かな。松山の伊達宗成。
伊達宗成だけじゃ若干自信ないんですけど。
っていう五人がいて、言ってみれば共和制に近いような合議制というのかな。
で、いろんなことを話していこうみたいな感じがあった時の、藩としての実力、財政的な実力もありつつ、賢い人たちっていうのが集まっていろいろ話をしてたっていうような状況で、
このメンバーは亡くなっちゃう人も多いので、結果から言うと伊達宗成の枠は亡くなって、始末成明の後に弟の始末久光が入って、徳川成明の後に息子の翼義信が入ってる感じで、試験校会議っていうのにも変わってはいくんですけれども、
そこまで具体的にここで決定した何かがすごく動いたとかいうことがあったわけでもないんですけどね。
ただこういうわりと解明的な人とかが多いんですよ。このメンバーってわりと始末成明なんて、県庁にいろんな新しいものとかをどんどん取り入れるみたいなタイプだったし、
この時点のことで言うと、開国って発想ではないけれども、尊能っていう意味では徳川成明、美都の劣行って言われる人ですけれども、この人なんかもう圧倒的なまでの尊能派なので、
美都学って言ってね、それこそ美都公文の時代から連綿と続く歴史学っていうのをやってきた班なので、今は徳川家が実質的な政権を握ってるけれども、
それをあくまで天皇ありきのものだよっていうところをしっかり意識して代々伝えてきてるようなところがあるので、尊能傾向がとても強いと。
山内陽道は、元々後の時代になってから言われることですけども、酔えば金の、冷めれば砂漠とか言われた人で、わりと賢かった実力もあったんでしょうけれども、わりとどっちつかずなところがあったのと大酒のみだったっていうのがありますかね。
はいはい。
はい。で、わりとそういう開明的な人たちがいろいろ言いたいことを言ったりする状況があって、幕府の方針っていうのはなかなか明確にならないというか、
今まではね、この黒船大公以前はなんだかんだ言って幕府がやりたいようにやってきたわけですよ。
何事についても。鎖国するってこと自体についてもそうだし、参勤交代っていう制度についてもそうだし、みたいなもの全部幕府が勝手に決めてきたのに、
いろんな人がいろんなことを言いたいように言い出し始めたっていうのが、幕府としてはやりづらいわけですよね。
そうですね。
開国と新しい政治体制
で、安倍政宏のソフトな感じのやつの揺り戻し、振子が反対側に振れる感じで、かの有名な大老、伊伊直介が現れます。
はい。
伊伊直介はもともとは伊家の六なんとかだったんですよね。だから全然藩主になるようなところじゃなかったんだけど、いろんな事情が重なって藩主になって結果的に大老になった。
へー。
人です。
で、その強硬な姿勢を示すっていう大きい目的があって、結構強引なやり方で、ペリーというか、ペリーは来て、言うことだけ言って帰っていくっていうか、
1年後にまた来るからそれまでに決めとけって帰っていって、で翌年また来て、
で、その時にいろんな人が反対してたにも関わらず独断でその開国する方向性を決めたのが伊伊直介。
おー。
で、さっき挙げた御健康みたいな人たちっていうのは割と言いたいこと言ってた人たちだから、
はい。
意見が対立するわけだよね。政治的に対立するわけですよ、伊伊直介と。
で、伊伊直介は大老って言って、将軍の次に偉いという言い方でいいのかな。
えー。
常設されてない役職なんですよね。
大老ですか?
うん。
えー。
豊臣自体はまた別の話になっちゃうんだけど、将軍がいてその下に老中がいるっていうのが常で、何かの時に大老を置くみたいな形だったと記憶してます。
おー。
で、伊伊直介が初めてではないような気がしてますけど、
えー。
滅多にいないと思います、大老っていう人がいた時代っていうのは少なかったように思います。
えー。
はい。で、そんな強権を持ってる大老伊伊直介が言いたいことを言う奴らを制裁していくわけですね。
はい。
で、それこそ、徳川成明とか一橋義信とかは撤去とか、松平春学もそうかな。
はい。
とかなるし、下の方では有名なところで言うと吉田松陰が斬首されるみたいなことにもなっていきます。
えー。
実は吉田松陰の斬首は、まあ伊伊直介からしたらどうでもいいような話だったんだけど。
はい。
で、吉田松陰自身が必要ないことまでやって、必要ないことまでやったのを隠しとけばいいのに全部喋って、
自ら打ち首になるようなことをしたみたいな感じの経緯ではあったみたいな。
まあやっぱり一藩主に過ぎないので、別に藩の過労とかでもないので、
そんなに幕府全体から見たら大きな問題ではなかったんだけど、連座させるという意味では。
えー。
斬られてしまうし、処刑されてしまうし。
はい。
その刺激が高杉晋作とかを動かしていくことにもつながってくるので、実は結構大きいことにはなってくるんですけど、
当時としてはどっちでもいいけど、みんな他の橋本さんとかと一緒に殺しとけみたいなレベルのことでしかなかったんじゃないかなと僕は思ってます。
桜田門外の変
はい。
で、さっきも言ったように徳川成明っていう三藤の藩主も、この時は院境はしてたと思うんですけど、
もう撤去させられたり、その息子の一蔵出身はもう撤去させられたりしているっていうことがあって、
三藤藩辺りとかあと薩摩とかっていう、いい名をつけた対立してる藩主の膝元は、
あいつめってなってくわけじゃないですか。言い直すけに対して。で、起こるのが桜田文外の変ですね。
安政の大獄の反動として起こったことで、実際に襲撃したのはほぼ三藤藩氏。三藤藩氏っていうか三藤の浪人。
はい。
三藤藩の出身の人なんだけど、大老を殺そうとしてるわけなので、藩に迷惑がかかるので、一応手続き的に事前に脱藩してるというような感じだったと思います。
はい。
で、これも名前が正確じゃないんだけど、もともとは薩摩と共同でやる計画で、薩摩の方から何人か行ってたのが、
だんだん薩摩の方に呼び戻されたりとかして減ってって、多分合ってると思う。有村地財門っていう人が唯一残ったっていうふうに柴梁太郎は書いてた。
えー。
本当の歴史かどうかちょっと怪しいけど、でも一般的にもほとんどが三藤氏で薩摩藩氏もいたっていうのは間違いないんだけど。
はい。
で、柴梁太郎の小説とかだと、イイイイの首を取ったのを唯一最後まで残ってくれた薩摩藩氏の有村地財門に、どっかに打ち取ったっていうのを伝えに行く役として、首を持って伝えに行く役みたいなのをやら、みんなから言われてそれを役目をやるみたいなくだりも出てくるような、そんな話でしたね。
えー。
それは小説の話だと思います。その役割のことに関しては。
あとこれに関してちょっと付け加えるならば、雪が降っててね、その日。
えー。
太郎である飯直介の行列。
はい。
ちなみに東京に今清居坂っていう坂の名前が残ってるんですけど。
はい。
清居坂っていうのは、紀伊と終わりと伊の頭を取ってるんですね。
あ、伊の稲ですね。
そうなんです。
はいはい。
で、そこら辺にその辺の紀徳川家と終わり徳川家と伊家の屋敷があったから清居坂っていう地名なんですけど。
はい。
その辺から江戸城に行くまでの間の道中は、伊直介はカゴに乗ってるわけですね。まあ雪も降ってるし。
はい。
馬じゃなくカゴってこともあったか、馬のことがあるのかどうかわかんないですけど。
えー。
で、その行列に参加してる人って伊家の彦根藩の藩主としては高級な人たちなわけですよ。
はい。
で、お金も持ってるので、逆に言うと刀とかもいい刀を持ってるんですよね。
いい刀っていうのは切れる刀っていうよりもこしらいがいいとかそういう意味でのいい刀。
あーはいはいはい。
なので、雪が降ってるから刀の束とかにもカバーみたいな、今で言うレインコート的なものをかけてたわけですよ。
はい。
なので、水戸藩の水戸脱藩老子たちに吸収されたときにすぐ刀を抜いて対応できなかったっていうのが、いい暗殺まで行くことになった原因の一つというふうにも言われてたりします。
へー。
はい。そんな感じでいろんなことがあったんですけれども、この安政の大国から桜田門外の藩っていうところまで行ったあたりで、話の中心は江戸ではなくなっていきますので、
はい。
騒乱の江戸編はここまでっていう感じになりますかね。
はい。
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