面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第59回の本は、「チャッター!頭の中の一人ごとをコントロールし、最良の行動を導くための26の方法!」について語ります。
はい、よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回はクラシターのターンということで、実用性、ノウハウ性大好きのクラシターが取り上げる本なんですが、
一見、ちょっと、チャチビジネス書のようなタイトルですけども。
印象は、よく見る、今売れてるチャチビジネス書っていうタイトルの印象は受けます。
ですけど、中身はね、結構、どう言ったらいいんかな、サイエンス的な話とノウハウ的なビジネス書的な話が、結構上手いバランスで整理している本でして、
日本のAmazonでも結構、星がついてますが、これは頷ける内容かなと思います。
限りある時間の使い方というのが、割と直近の印象として、チャッチタイトルに感じたけど、中身がちゃんとしているっぽいっていう印象があったんですけれども、それに似た感じですかね?
そういう本を発掘するのが好きなんですけども。
それは数限りないチャレンジを経てってことですかね?
そういうことですね。限りある時間使い方はどちらかというと、ビジネス的な時間の捉え方と人文的・哲学的な時間の捉え方が融合という感じですが、こっちはより科学的な感じの本で、
著者がイーサン・クロスという方で、実験心理学者で、神経科学者とガチのサイエンティストの方でして、本書が1冊目の本らしいんですけど、
なかなかライターとしての手腕も優れているかなと。内容云々以前に語り口が非常に面白い本になっております。
それはいいですね。最近、この手のジャンルというか、人文科学全般で最近感じていることなんですけど、長いなっていう本が多くて。
確かに。
むしろ、逆に最近の傾向を見て、自分はもうちょっと短くまとめられることを意識しようと思うようになったりするぐらいで。
まあ、伝書籍で出す場合、短い方が好まれるような気はしますけどもね。ちょっとその辺は、神との差があるのかないのかはちょっとわかりませんが。
ああ、そうか。物理で見えないからっていうので、短さがデメリットにはほぼなり得ないか。
勝って損する漢字がないから、その辺が逆に、やっぱりアメリカ式なんはボリュームが多い方が正義みたいな感じがありそうですけど。
まあそういうのとは、日本読者はもしかしたらちょっと違うんかなとも思いますが。
一応読みやすくて、もちろんエピソードとかも多いんですけど、ダラダラする感じはなく、最後まで読める感じの本でしたね。
いいですね。
出版が2022年11月18日ということで、少し前の本ですが、出版社が東洋経済新報社と、ビジネスショーで有名なところですね。
タイトルなんですけど、「頭の中の独り言をコントロールし、最良の行動を導くための26の方法」がほぼ後付けというか。
まずそこからなんだ。
放題式アレンジというか、現在はチャッタっていうメニュータイトルは一緒なんですけど、サブタイトルが「The Voice in Our Head. It Matters and How to Harness It」と。
私たちの頭の中にある声、それが何が問題で、それをどのようにハーネスするのか。
飼いならすとか、タズナとかアブミをつけるみたいな意味ですね。
制御するっていう感じかな。
コントロールするっていうところは一緒だけど、最良の行動に導くための26の方法というのは、現代にはないわけですね。
この部分がちょうどチャッチビジネスショっぽさを出してるんですけど。
目次を画面見てる方は見えると思うんですけど、1章から7章があって、最後に結論があって、その最後に補足としてチャッターを制御するための26のツールというのがあって。
これは1章から7章までの話をまとめながら、要点だけを抽出した補足の章になってるんですね。
ここに確かに26の方法は載ってるんですよ。
何ページくらいなんすか。
補足の章だから、本当にちょっとだけで265ページから始まって、277ページで終わってるから。
10ページくらいで、ようやくしてまとめてるものがあって、ここの部分を当時法的に最初に持ってきてタイトルにしてるという感じで。
そこの最後の部分だけ除けば、ガッシリとしたビジネスになっております。
どこから行くかちょっと難しいんですが。
章立てが始めに変わって、第1章、うちなる声はなぜ存在するのかというところが始まって、第2章が自分に話しかけることが引き起こす問題。
この2つの章が、本章が主題としてるチャッターというものの、それは何なのかと、なぜそれが問題を引き起こすのかというところが整理されて、
3章以降、どうやってそれと付き合っていけばいいのかとか紹介されて、最後に言ったようにまとめが出てくるという構成です。
この本章のタイトルなんてチャッターなんですけど、まずあた、心の声。
心の声というものがまずあると。
その中でもネガティブな状況を引き起こすものを、チャッターと著者は呼んでると。まずこの理解ですね。
それで言うと、一般に会社した言葉ではない。
ないですね。著者がチャッターと呼んでる、この分野で。
著者は感情と自性研究所所長っていう、そういう省研究所を運営しておられて、そこでよく使われる言葉ですよね、このチャッターというのが。
めちゃくちゃ喋るとか取り留めないっていう、そのお喋りという意味で、心の中の声でもやや特殊な位置づけを持ったものをチャッターと呼んで、そのチャッターが厄介だよということを本章を話していくという筋立てになっております。
チャットの名詞形というか、たぶん変形ですよね。
心の声っていう、the voice in our headという副題にもあるんですけど、人が心の中で心象風景とも言いますけど、言葉として思い浮かべる人もいれば、そうではない人もいるらしいのですが、
概ねの場合、言語という形態を取ると。言葉としてメッセージで表されると。頭の中のビジョンっていうのは、例えばイメージの場合もあれば音楽の場合もあるのかもしれませんけど、言葉の場合もあると。
言葉の場合があって、しかもその言葉が結構強力な位置づけを持っていると。それをボイス、声と呼んでいるんですけども。
人によってはあるないはあるんですけど、例えば紙に書かれた13桁のパスワードをパソコンに入力しなあかんときに、コピーがつかないとしたら、たぶん口に出さないで、心の中でぶつぶつパスワードを読み上げながら入力すると思うんですよ。
4356285とか。そういうことをしない人ももしかしたらいるかもしれないけど、多くの場合はおそらくそのような処理をすると思うんですけど。
ここで働いているのが心の声という機能ですね。これは結構人間独特の能力らしいんですね。
言語がなかったらできない行為ですもんね。
こういうのは生物的に備わっているものなんですけども、結構重要なものらしく、それが重要であるからこそ私たちに時には致命的な影響を与えてしまうという話ですね。
一番最初に本社が提示するのが、このビジネスショーでよくあるんですけど、今ここに集中するみたいな話があるじゃないですか。今ここを生きるか。
うんうん。今を生きるみたいなやつ。
そうそう、マインドフルネス的な。で、あれって言うほど簡単じゃないよねと著者は言うんですね。
なぜかというと、脳のデフォルト状態、デフォルトモードネットワークっていうのは、むしろふらついている状況?
常に何かが、意識に昇ってくる個内は別にして常に何かが働いてるはずですよね。
それはつまり目の前の対象から注意がそれてるっていうことですね、要するに。そういう状況が脳の当たり前だと。で、その目の前のあることから離れて考えてる時っていうのはその内なる声が働いてる状況だと。
ほう、目の前のものに向き合っていない時に内なる声が働いている。
だから、今ここをモデルっていうのは心の声を遮断するというような意味合いになるけど、僕たちはそもそも脳はデフォルトで目の前の現実から割と意識を飛ばしがちだと。
じゃあ、まずマインドフルネスが言っている今ここに集中というのは脳はそうはならない仕組みが普通だと。
だからこそやる価値があるという言い方もできますけど、相当の努力が必要で、脳は自然状態だと目の前のことよりももっと内なるものに目を向けると。
その内なる心で例えば何をしているかっていうと、著者の言い方を変えるとタイムトラベルをしてるわけですね。
つまり過去何があったかを検討してじゃあ次こうしようとか、そういうふうに過去に飛んだりとか、将来こういうことが起こったらこうしようみたいな、未来について検討するみたいな。
つまり現実の目の前、今リアルタイムから離れて、時間を意識的な時間を過去とか未来とかに飛ばすことができる。
その能力がいわゆる人間の計画とか、いわゆるシステム2と言ったらいいですかね、的なものの発露を助けていると。
ああ、内なる声はシステム2を起動する働きがあると、そのように捉えられると。
この内なる心が、実はこのワーキングメモリーとすごく関わってるという話がされるんですね。
ワーキングメモリーはたぶんゴリゴさんご存知だと思うんですけど、作業記憶と言われているもので、人間の短期記憶のごく短いものを指すんですけど、それがあることで僕たちは行動を制御できるわけですね。
例えば、お腹すいたからご飯食べようと思ったときに、いや待てよと思えるのはワーキングメモリーですし、ゲームをしたいけど確定進行をしなければならないと思うのもワーキングメモリーがあるからですね。
人間の意識的な行動制御っていうのは、そのワーキングメモリーがあって可能だと。
そのワーキングメモリーは、脳科学でよく言われてるんですけど、オンインループというものに支えられていると。
オンインループ。オンインのインはインを踏むのインですね。
カタカナ、漢字の方ですね。音に。
音にインを踏むのイン。カタカナのループ。
で、オンインループっていうのは、内なる耳と内なる声で支えられていると。
その2つが働くことで、僕たちはごく短い時間の間だけ情報を保持できる。
さっき言ったパスワードの入力が、紙を見なくてもできるのはこのオンインループ上に数字が保存されてるからですね。
短期記憶はオンインループとニアリーイコール、ほぼほぼイコール?
オンインループの仕組みによって、短期記憶というかワーキングメモリーが保持される。
で、ここで内なる声が出てくるんですね。
オンインループを構成するものの一つとして内なる声がある。
さっき言った2、3、5、4っていうのを心の中で思い浮かべられて、思い浮かんだものを聞こえるからこそ、
情報を失わずに、もう一回その言葉を繰り返すことができる。繰り返してる間だけはそれを覚えてられる。
この基礎的なものがワーキングメモリーを支えて、それがさっき言った行動制御に繋がる。
ここに、今さっき数字でしたけど、言葉というのが入ってくる。
この言語、さっき言ったように、例えば、今は確定申告しなきゃっていうのは言語として認識されるわけですね。
つまり、行動制御っていうのは、言語の発達とすごい関わりがあるという話が紹介されます。
言語が発達したことで、人間はその前頭用的な働きができている。
で、自己制御っていうのは、言語でないと精緻に行えない。
多分そうだろうなっていうのは、なんか想像できますね。我慢するのは言語でしかできない。
そうそうそう。こういう理由やから我慢しようって言い聞かせるのは言語の発達で。
本社でも軽く触れられてるんですけど、マシュマロテストっていうのがありまして。
子供にマシュマロ与えてる、ちょっと我慢したら後で2個与えるよっていう話なんですけど、実験なんですけど。
そこで、我慢できている子の特徴って、自分に何かを言い聞かせてる子が多いらしいんですよ。
それはそうですよね。
口に出す子も多いとか言ってますよね。
ああいうふうに自分の行動を自分の言語によって制御するっていうことを、
うちなる声を返して行う。だから言語の発達とうちなる声が結びついて、
自己制御ができる人間として成長していくっていう構造になっていると。
で、こういう力があるから、僕たち人間はその能力を今持っていると。
つまりトータされずに。むしろなぜ今持ってるかっていうと、そういう自己制御の力に役立つから、
そのようなうちなる声イコール自己制御機能を持っているんだっていうのがまず第一章の説明です。
なんか面白いですね。そうか。自分の中で脳内で改めて言語として喋っていて、
それを脳内でまた言語として聞いていて、考えてみれば喋るときにしても何にしても多分同じシナプスを伝達しているというか、
同じ脳の処理が行われているんですよね。
だからごく簡単に言うと、うちなる声っていうのはセルフコミュニケーションなんですね。
自分から自分に向けたこうしようっていうメッセージなんですね。
それが他人同士だと音声を、空気を返してしかやり取りできないけれども、
自分一人なら脳内の電流だけでできる。
その言語が未発達な状態から発達することによって、より精緻に自己制御ができるようになるし、
これはたぶん、上等を言語化するとよりわかりやすく、コントロールしやすくなるっていうのもちょっと近い話だと思うんですけど、
もう一個、やっぱり子供の教育って、大罰を除けば基本的に言語によって行われるじゃないですか。
こうしなさいとか、こういう時はこうしちゃいけませんよっていうのが、
そのメッセージが声としてその人の中に出てきて、例えばそれをやろうとした時に、
これはこういうことをしてはいけないとして、やっぱり言語として認識される。
だから、質疑とか行動様式の伝達も、やっぱり言語という回路を通って行われ、
うちなる声を発言の場として確認するっていうことが行われるから、
超大事。人間が人間として生き抜いていく上で、これは超大事だと。
で、その言葉が持つもう一個の力が、自分っていう、自我っていう物語を形作れるっていう話もありまして、
これも実感はないんですけど、私が私であるという認識は、記憶とともに物語でもあるんですね。
断片的ではない、ひとつながり。
それはやっぱり言語が支えていると。言語がないとこで、そのような自我の物語は立ち上がらないだろうと。
だから、第一章で言いたいのは、精緻な行動制御とか、自分っていう自我の物語を支える言葉と、
うちなる声の重要性が確認されて、これは結構大切だよなということが確認されるんですけど、
その全く同じ能力が時にひどいことを起こすというのが、第二章のテーマです。
めっちゃ思いついてしまって、ちょっと聞きたいんですけど、犬とかに待てって覚えさせられるじゃないですか。
あれって犬は言語では処理してないですよね。
あれは、手の空気の響きで行動を止めなければいけないという感じで、
つまり、待てという意味を解釈しているわけではないと思われるね。
で、その場合に待つことができているのは、犬はオン・イン・ループではないことで行動を制御できている。
パブロフの犬的な文章、あれはきっと。
その、学習してはいるってことなんですよね。
ストップして学習してるけど、自己認識として、そのような状況でこうだからこうっていう決断は多分下してないんじゃないですか。
そこに人間との同じことをしているわけではないってことですかね。人間と犬、おそらく。
だから人間はそこから逸脱することもあるじゃないですか。
犬もあるんじゃないかなという気がして。
でもかなり訓練した犬はどうなのか。賢い犬であればあるほど逸脱はしないじゃないですかね。きっと。
マシュマロを我慢する子供も、我慢しないときもあるはずで、きっと。
そこの辺が微妙に違うんじゃないですかね。
か、そうなのかな。
2章の後でも話が出てくるんですけど、ある科学者が怪我をして、心の声っていう機能が止まってしまったらしいんですね。
そうすると、ありとあらゆる自己制御がほぼできなくなってしまったと。
で、自分という物語も失われてしまったという話があるんですけど。
僕たちが何かを犬的に学習してたら、うちなる声が失われても、多分行動制御はできてるはずなんですよね。
だから、学習ができれば行動の制御はできるけれども、人間がやっている行動の制御はもう一段階複雑な言語による処理だから、厳密に同じものではない。
ないという感じがします。
もちろん動物的な人間もあると思います。
火傷しないように引くとかっていうのは、学習で動くやつですよね。
人間の少し精緻な行動、計画とか価値観に沿った行動みたいなのは、言語レイヤーを介しているんじゃないですかね、きっと。
言語レイヤーを介することで複雑な行動の制御ができる。
できるようになっているっていうことだと思います。
だから、そこが入ることは人間の人間らしい特徴と。
さっき言った心の声をなくした人は生活がすごくしづらくなったけど、ある種の心の平穏さを手に入れたと。
圧倒的な開放感があったと。
やっぱりそれはさっき言ったように、いいこともするけども悪いことをする側面もあって、人は自分の内なる声の悪いことを制御する術を割と身につけないまま大人になってしまうと。
そこから一時的にでも開放されると、開放感があるけど。
でも、だからといってそれがないのがいいとはとても言えないよねと著者は言うわけですね。
なぜならさっき言った人間的な計画行動が行えないからなんですけど。
行えなくなってしまうのはよろしくないと。
心の声に苦しめられる状況があったときに、心の声をなくしましょうみたいなことを。
マインドフリースもほぼそっちなんですけど。
言っちゃいがちですけど、そうじゃないと。
良いもともあるし、上手い付き合い方を身につけられたらもっとハッピーだよねというところで、第一章が締まるというところです。
第一章。話しかけること。自分のチャッター的なものの悪影響がどんなふうに起きるのかなんですけど。
エピソードとしては、野球のピッチャーの選手がテンパってしまって、ボールが大暴走してしまうと。
そこで緊張してしまって、心を鎮めようと思って、落ち着け落ち着けって自分に言い聞かせるわけですね。
どうなるかっていうと、より投げられなくなるんですね。
結局、そのときは全く投げられずに後退してしまった。
次も当番するけどやっぱりダメっていうので、結局そのピッチャー生命が心の声を克服できずに終わってしまったというエピソードが紹介されますね。
これは特徴的なんですけど、例えば落ち着こうって言う、口に出さなくても思うことがあるわけじゃないですか。
それが心の声の効果で、さっき言った行動制御なんですけど。
こうやって一番最初に言ったように、心の声っていうのは注意を目の前の対象から、今考えてる対象に向けるスイッチする効果があるわけですけど。
つまり落ち着こうと思えば思うほど、落ち着こうって言う。
対象から目を逸らしてしまう。
落ち着こうと思うことに注意してしまうか。
一番野球選手がどうやってボールを投げてるかっていうと、何も考えてないわけですね。
注意を向けてないわけですよ。
体の流れが一番スムーズになるのは無意識ですよね、要するに。
あの無意識レベルまでピッチングが体に染み込まん限りは、綺麗な投球フォームっていうのができないわけですけど。
例えば落ち着こうとか、肘をこう使おうとか、なんかよくわかんないですけど、
その辺に一個一個個別に注意を向ければ向けるほど、全体としての行為のバランスが崩れてしまうと。
だから注意の向け方が、本来一番注意がないのが良い状況のはずなのに、
その挽回しようと思えば思うと、体の行為に注意を向けすぎて、結局できなくなってしまう。
これが一番わかりやすい内なる声のネガティブな効果ですね。
無意識が一番良いはずなのに、意識が強まってしまって行為ができない。
これが体を動かすときに起こりがちな問題なんですけど、それだけではない。
ネガティブなことが起きたときに、その内なる声を出すことを続けていくと、
人はだいたい人に喋りたくなるらしいんですね。
その内なる声を外に出したくなると。
そうすることによって、例えば助けが得られたらいいんですけど、
これよくあると思うんですけど、そういうネガティブなことばかりを言っている人は、
ちょっとうざがられるわけですね、これは。
基本、嫌われて人が遠くに行ってしまう。
ということは、本来助けを求めているはずの人が、むしろ助けから遠ざかってしまうという効果もあると。
でもこれはまだ序の口で、序の口の効果で。
ネガティブなことを発言すると、さっきも言ったように、
それに注意が向くわけですね。
つまり、世の中にはネガティブじゃないこともいっぱいあるはずなのに、
ネガティブなことばっかりを見てしまうと。
そうすると、その人についてそのネガティブなことの、心理的に占める割合が多くなって、
ますますダメな自分っていう感じになって、またネガティブな声が湧いてくるっていう循環になる。
だから常にストレス状態になってしまうと。
で、これがさらに、現代のデジタル社会において非常に悪いことになっていると。
つまり、FacebookとかSNSですぐかけてしまうわけですね。
そのネガティブな感情、自分の心の声、そのまま吐き出せてしまうと。
しかも、吐き出すと、やっぱり神経科学的にすげえ良い効果があるらしいですね。
脳が喜ぶらしいんですよ。そういうのを書くと。
だから、ネガティブなことを書き出してしまうと、すごい嬉しい感じになるらしいですね。
だから、人は止めがたく書いてしまうと。
それはTwitterとか見てりゃよくわかるんですけど。
で、その瞬間的に書くと。
そのネガティブな感情が一番高いときに書く。
もし、例えば誰かに相談するために、3日かかるとしたら、その3日間の間にやっぱりちょっと冷めるわけですね、ネガティブさっていうの。
だから、言葉にしたときも、そんなに強くはなくなっている。
これの時間っていうのが解決してた問題が、現代ではまずないと。
で、もう1個はTwitterとかで書くと、共感をもらえる感じがするじゃないですか。
ハート押してもらえますからね。
そうそう。でも、人間の共感って、それではね、パラメーターが少なすぎる。
つまり、今例えば、ゴルゴさんと喋ってますけど、何か言ったら、うなずき以外にも、その表情の変化とか姿勢の変化があるわけじゃないですか。
フィードバックがめっちゃ多いですよね。
それによって、例えばネガティブなことを話したときに、お互いに表情を見て、それが相手からどんな感じで起きてるかっていうことも踏まえての、得られる共感と、いい音がつく共感って、質的に全然違いますよね、結局。
うーん、1-0しかないですよね、数字として。
だから、共感をもらえているようで、リアルな共感からすると、次元が1つか2つぐらい落ちてしまっているものしか得られないと。
だから、この速度が速い共有と、すごい薄い共感っていうもので、結局その人のネガティブな感受っていうのは全然収まらないままに、むしろ増大していくことが起こってしまうと。
一時的に吐き出して快感は得られるけれども、得られるリアクションは本物ではないから、結局満足しているつもりなのに全然満足できてない。
だから、結局また呟く。で、呟くとそれが楽しいけども、やっぱりっていうことが循環している。
もう、文字通り麻薬的な症状ですね。
だから、現代的な問題は結構大きいんだけど。
だから、やっぱり注意のコントロールというのがここではポイントで、さっきみたいに、本来やったら何も考えずに投げれるからプロの投手になってるわけで、投げれたはずなのに注意を各部分に向けることで投げられなくなってしまう。
ネガティブな発言も結局、本来人生を構成しているものからしたらごく一部のはずなのに、ネガティブなものだけに注意を向けてしまう。
で、一度ネガティブな状況で注意をそれに向けると、そうすると、例えば私は不幸せだみたいなことを思いついて、やっぱりそれがネガティブな心の声として出てくる。
だから、循環してしまうんですね、これは。
で、対象に注意がずっと集まってしまう。出たり入ったりじゃなくて、どんどんどんどんズームインしてしまう。ここがこのチャッターの一番の問題だというのが、著者の視点で。
ネガティブループに入って抜け出せなくなってしまうどころか、深みにはまっていってしまう。
だから、チャッター、心の声っていうのが基本的に健全に動いているときはいいんですけど、ネガティブな状況にズームインしてしまったときに、一回ズームインすると、もうフォーループがずっと回ってしまうと。ここに人が、うちなる行為によってあまり良くない結果を得てしまう大きな原因であろうというのが、2章が確認するとこです。
ブレイクを仕込んどかないといけないってことなんですね。
そういうことなんですね。まさにそういうことなんです。第3章から以降は、じゃあどうしたらいいねっていう話なんですけど、さっきズームインと言いましたけど、結局はズームアウトしたらいいと。
で、ズームアウトしたらいいっていうのは一番簡単なんですけど、でもさっき言ったようにズームインしているときほど、ズームアウトはしづらいということは一応覚えておかなあかんですけど、例えばズームアウトするのってどういうことかっていうと、もし他の人だったらどうするかを自分で考えるっていう方策があるんですね。
ああ、よくあるメタ視点の考え方の一番よくあるパターンだけど一番有効なやつ。
自分やったらこの状況だけど、例えばこういう状況に置かれている友達がいたときに、あなただったらどの選択をするアドバイスをするとして、それが受け入れられる心理的状況やったら、やっぱり一気にズームアウトするらしいんですね。で、普段チャッターインしてないときと同じような決断を下せるようになると。もうこれは本当にありがちなアドバイスなんですけど、これは非常に極めて有効度が高い。
ついでに、そういう意識を持って日記を書けると、もう一段階効果が高そうですね。
と思いますね。だから、あいつがムカついたからって言って、そのムカついたやつの恨み事を書くんじゃなくて、フラットな気持ちで1日を振り返ろうと思って書くと確かに効果は高いような気がしますね。
そういうふうに、ズームアウトの話が第3章で語られてます。第4章の他人の視点を手に入れるというところが、個人的には結構面白くて。
残念ながら、これ英語の本なんですよね。英語は当然主語が文に入ってきますよね。
日本人ってあんまり主語が使わないから、この本の議論がどこまで役立つかは知らないんですけど、要するにごく簡単に言うと、愛じゃなくて言うで語れっていう話なんです。
言うで語れなんだ。
言いで語るっていう方法も、確かあれは誰か返されたかな。言いで語る方法も紹介されてるんですけど、とりあえず愛から言うの転換っていうことがあって、言うっていうのは基本的にはあなたなんですけど、言うって使うときに一般人、一般的な人を指すことも使えますけど、
そのように文章を書き換えるだけで、さっき言ったズームアウトが起こりやすくなると。
それはありそうだし、英語圏の強みですね。すげーな。
日本語圏はこれ結構難しいなとは思うんですけど、でもね、よくよく僕は気づいたんですよね。
例えばゴリゴさんはこの手の話にあんまりハマらないと思うんですね。自分の心の恋に苛まれて何もできなくなるとかっていうのが結構少なそうに見えるんですよ。
おそらくそうだと思います。なんとなくだけど。
でね、僕ゴリゴさんの文章を読んで、その本を読んだ後にヨウロコさんのニュースレターかな、なんかを読んで気づいたんですけど、
一人称ゴリゴじゃないですか、文章の中で。
あれはわざとそうしてるんですけど、そうですね。
ああやって書くだけで多分違うんですよ。意識的に使おうが使わないが、もう私というところから離れて、ゴリゴっていうのを主観的に見てるメタがそこにあるわけじゃないですか。
言われてみると、わざとそうしているかも。キャラ作りという要素があるかもしれない。
だからキャラを作ってる時点で、キャラを作ってる自分と作られたキャラっていうその距離があるわけじゃないですか。
そう、そういう感覚はありますね。
で、やっぱりそういう、例えば僕、数学ガールの結城先生とかも一人称結城って書かれるんですよ。
そうですね。
で、やっぱりそういう人って落ち着いたっていうか、心の声に過剰に悩まされてない雰囲気を僕は受けるんですよね。
で、日本人って一人称を自分の名前に出すのってあんまりないじゃないですか。
結構さっき言ったようにキャラ的にはありますけど、あんまりないんですけど、
でも、日記書く時に一人称を自分の名前で書いてみるとか、暮らした畳のりは朝これをこうしたみたいなのを書くだけで、急になんか視点が変わりそうな気がするんですよ。
あると思います。日記をそれで書けば、言うより強いかもしれない。ひょっとしたら。
この辺の言語の違いはあれだ。日本人は一人称を普段あんまり使わないからこそ、逆に意識的に使うことによって、その距離感をデザインできるんじゃないかなというふうにはちょっと思いました。
めっちゃいいネタじゃないですかね、それ。名前で日記を書こう。
だから、結構この本面白いんですよ。ライフハック的に面白かったんですけど。
その辺の言語的なスライドの話が他人の視点を転じているという第4章で語られている話。ここが一番面白かった章ですね。
第5章の他人との対話がもたらす講座という章があって、これは結構シビアな問題なんですけど、
当然さっき言ったようにネガティブなことがあったときに人に言うと。言ったときにリアルで例えばあったとしても、
だいたい人が返す反応っていうのはその人の感情に対して共感をすると。ああもうあいつムカつくよねって言ったときにムカつくムカつくって返すという。
で、その人はそれで感情的に納得して終わるんですけど、それ終わるだけで何も解決してないじゃないですか。その気が晴れたっていうだけで。
本来はそこに認知的な欲求の解決、つまりどうしたらいいのかをプラスでアドバイスしないといけないししたらおそらくその状況が好転するとは書かれてるんですけど、
やっぱりその感情的な欲求を満たすことに話す人も聞く人もどうしても優先してしまいがちで、それが終わったらもう終わりっていうことになりやすいらしいんですよ。
だから僕はむしろその認知的な解決方法を先に出して、感情的な欲求を満たさないからだいたい妻に怒られるんですけど。
だいたい順番としてはまず感情を満たす。ああそれはもう大変だなって言った後に認知的な解決方法を提示するというこの段階を踏むケアが必要だと書かれてます。
だからこれはどっちかっていうと、話す人じゃなくて聞く人へのどっちかというとアドバイスとして読めますね、これは。
ずっとずっと言われている男女のすれ違いみたいなやつですよね。感情を満たしたい側と理屈で解決したい側と。
どっちかだけでは結局ダメだということなんですね。両方いる。両方でしかも多分順番が重要。
ああそれはそうでしょうね。きっとそうというか絶対そうでしょうね。
感情を満たしてから結論に行こうと。これも確かに実行啓発的なものでよく書かれてますけど、
認知的な優先順位の高さ、脳が満たしたい優先順位の高さから考えたらごくナチュラルな結論になるというところです。
ここまでが大きく内なる声に関する個人のノウハウなんですけど、最後の、最後じゃないけど、第6章の環境の持つ力を利用するという章があって、
さっき言った内面的なものだけでは限界もありますし、その認知的能力が下手っているときはもうどうしようもないんで、
自分だけじゃなくて環境をどうにかしようと。やっぱりごく簡単に結論を言うと、自然はいいという話なんですよね。
自然に囲まれているのはいいよという話で、多分システム2という使い方をすると一番わかりやすいんですけど、
システム2を起動するためには意志の力、意志の力がどういうものかわかりませんが、意志の力みたいなものが必要だと。
つまり、あれに注意を向けよう、集中しようと思う力そのものが必要なんですけど、それは枯渇しやすいと。
例えば、僕らが森とか自然を見たときに、川のせせらぎとかっていうのが聞こえますけど、ナチュラルって自然だから当然。
自然に意識しなくても耳に入るっていう感じがあるんですね。注意を向けなくても注意を向いてしまうっていう。
柔らかに注意を向ける効果が自然にあって、そのような注意を向けていると、意識的な注意を向ける力が回復するという話があるんですね。
自然に注意を誘われている間に注意を向けなきゃいけない筋力が休むんでしょうね。
しばらくしたらそれが治っている、回復できるようになるということで、とりあえず自然に囲まれるのがよろしいと。
リアルの自然じゃなくて、実はその自然の絵とかでもいいらしいですね。
自然の音とか、実際の音じゃなくて、環境音とかでも別に効果はあるらしいです。
だから別に田舎に住めという話ではないんですけど、自然的なものに囲まれることによって注意力を回復させるという話が一つ。
あれかな、遺伝子的なものなんですかね。
きっとそうやと思う。
もともといた環境に近ければ近いほど、余力ができるというのが感じだと思います。
このさっき言った自発的注意と非自発的注意っていうのがあって、自発的注意っていうのが要するに、よし、注意を向けようと言うんだけど、
それが枯渇しやすいから、なんとか合間合間で回復させていこう。そのために自然環境が役立つっていうのがまず一つ。
自然環境のもう一個が、IFなんですけど、アルファベットじゃなくて、恐れるのIFで、
例えば、すごい山脈とかあるいはマリアナ海峡とか、人間の力で及ばないような自然の風景を見ると、人はそのIFを感じるわけですけど、
そのIFが、さっき言ったやっぱりズームアウトに繋がるらしいですね。
まあ、そりゃそうかなという気がするんですけど。だから、今ここにいる自分っていうものから急にズームアウトする感じ。
だから、たぶん地球を宇宙で見た人もそもそもそんな感じなんでしょうけど、おそらく。
IFの心とズームアウトっていうのが近しいところにあると。で、自然環境に触れてると必然的にIFが起こりやすい。だから僕たちはズームアウトしやすい。
逆に、人工的な環境っていうのは人間の声優化にあるという前提で動いてるわけで、あんまりIFは感じないわけですね。IFを感じないからズームアウトしにくいと。
ズームインしがちになると。だから、このIFの力を使っていこうというのが、自然環境を使おうのライフハックのその2位ですね。
宗教とかもそういう力を持ってそうだなって気がして。
神という偉大なのは多分ズームアウトになりますよね、どう考えても。
で、心の落ち着きをもたらしてくれるってその感覚と近いのかなっていう。
確かに。だからやっぱりSF的な尺度で歴史を感じたりとか、ゴリゴさんが生物の歴史を眺めたりするのもある種ちょっとIFを感じるじゃないですか。その、おーすげーっていう。
だからそこもやっぱズームアウト的な効果があるかなと思います。
そしてそれはね、なんかね、わりとね、快感みたいな。快感とは言語にするとちょっと快感って言うと安っぽいんですけど、それに近い感覚はなんかあるような気がしますね。
なるほど。だから、そうやな。まあ、解放されることによる解があるんやろうな。だから自我に執着するっていうのはやっぱりちょっと重たいんでしょうね、きっと。
うん、あのあれかな。やっぱ自分が本当に文字通りちっぽけな存在に思えることが、あんまり悪いことではないとわかる。
そうやね。ある種、さっきの掛け絵図とも一緒で、その全体の一部を、そのIFする全体の一部に含まれている自分というふうに認識が置き換わる。
で、逆に自分は自分はってなってるときは外部に注意が行かないから、自分自身に起こるちょっとしたこともすごくネガティブに感じられてしまう。
この、こういうズームインの状態からズームアウトにいかに引けるようになるのかが、おそらくそのチャッターとの付き合い方の大きな可能性を秘めているっていう感じがしますね。
うん。
だからやっぱりその、話がだいぶ戻ると、16世紀以降の生まれてきた個人主義っていうのは、人権の確立としてはもちろん良かったんですけど、
人が注意を向ける対象が自分ばっかりになってしまっている弊害というのがあって、それは社会として迷惑があるという以前に、
多分、その個人としても多分あんまり良くないことなんですね、きっと。自分しか見ないっていう。多分ストレスなんですよ、これはきっと。
あの幸せな時間の使い方なんかでも、人のためにお金を使うのが一番その幸せを得る感覚だみたいなのとかも結構繋がっているような印象ですね、それを聞くと。
だから人間の性質として似た的なものがあるっていう側面と、さっき言ったように時間の執着から離れられる。あと多分そのお金の執着からも離れますね、きっとね。おそらくそれは。
そうですね。お金がいい意味で自分にとって重要なものじゃなくなる気がする。
そういうズームアウトする要因を、例えば旅行に出かけて環境の偉大さに触れるとか、知識を学んで人間のちっぽけさを学ぶとかっていうことが、ズームインしたりズームアウトしたりするときに役立つような気がしますね。
この辺が非常にいわゆる環境、つまり自然環境の使い方なんですけど、もう一個すごくライフハック的なところがあって、環境、自分の身の回りの環境に自分で秩序を与えることによって、自分の心に秩序を与えるっていう方法。
片付けるってこと? 簡単に言うとそういうこと。片付けると心が落ち着くらしいですね。これはもう。で、自分がその環境を片付けることができている、つまりコントロールできているという感覚が自分自身の精神の安定につながると。これはもう片付けの魔法的な話ですけど。
ああ、そっか。心がときめくものしかなければずっとときめいているんだ。 というふうに自分が環境を、例えば家帰ったらときめくものしかなくなってましたっていうのでダメで、自分で捨てていってその環境を作ったっていうプロセスによって自分の心が落ち着くわけです。
だから手を動かしてその場を整えること、だから本棚でもいいです、机の上でもいいですけど、それをすることで自分の心の整理につながると。だからこの環境利用っていうのは、この心の整理っていうのは例えば自分の心配事を片付けなくてもいいんですよ。
自分の心配していることと全然別の物理的なものを片付けても案外その心も片付くっていう、だいたい的コントロールが可能であるっていうのが非常にライフワーク的で面白いんですけど。
取り掛かれない仕事を取り掛かろうとすると、なぜか本棚の片付け、机の片付け、部屋の掃除を始めて全く取り掛かれないっていうのは、それが悪い方向に作用している感じの現象なんですかね。
心が片付いてしまったから、もういいやってなってしまうんですよね。焦る心が消化されてしまってるんじゃないですか、きっと。
あれは焦ってるのを落ち着けようとしているかもしれない?
だからその焦りを何か行動すれば落ち着くはずや、でもあれはしたくない、じゃあこれをしようっていうね、だいたいしてるんですよ。でも実際にものが、締め切りは片付いてないですけど、ストレスは減ってるはずですから、きっと。
ちょっと片付いたから。
一時的にストレスを片付ける。実際はもちろん対象を片付けた方がいいですけど、精神コントロールっていうのが案外秩序を与えることで効果がある。
それをよりエスカレートした、エスカレートというか、より強力になったものが、いわゆるルーティーンと呼ばれるやつですね。
ああ、そうか。
ルーティーンっていうのは、いわゆる習慣とルーティーンって似てるようで、厳密に言うと違うと。で、習慣っていうのは、行為を構成する一つ一つの所作がだいたいアバウトなんですね。
でもルーティーンっていうのは、ものすごく厳密に決まっている。順番とその行動をどう取るかっていうのが厳密に決まっていると。で、その行動をなぞることによって、言ったら自分自身をコントロール、この行為にコントロールすることによって自分自身をコントロールするっていう感覚になっていくと。
で、ルーティーンはスポーツ選手でよくやってて、厳格技みたいなもんだよねとは思うんですけど、やっぱり効果はあると。
集中力には明らかに効果があると感じますね。
その効果があるっていう話が、第7章の科学が解明した信念の力につながっていくんですけど、これプラシボの話が出てくるんですけど、要するにルーティーンをしたら集中できると信じれる人は、やっぱりルーティーンをしたら集中できるんですよ。
ありますね。日本語成立してねーやんっていうやつですよね。
そこを信じれない人が疑心暗鬼でやってもやっぱり効果はないらしいんですね。その自己コントロールがそれによって可能だという信念が自己コントロールをもたらすという循環構造になってて、この循環構造は時々怪しい宗教とかにはまるきっかけにもなるんですけど、やっぱりこれ重要なことなんですね。
逆に言うと、それがどんなルーティーンでも別にいいんですね。ルーティーンそのもの、例えば一郎がやってるルーティーンを真似したらいいとかそういうことではなくて、自分がそれをやった時にこれは確かに集中力を感じられるなとわずかでも感じたものを信じれたらもうそれはその人によってのルーティーンになると。
だからここの実践と信念の形成っていうところを確立したらその対象はもう別に何でもいいというのがこの信念の力の面白いところ、プラシーボの面白いところですね。
日常の習慣をルーティン化することを意識することにも何らかの効果はあると見込まれるってことなんですかね。
だから、ある集中力をここでパフォーマンスを発揮したいということの前に、そのこういうの直前に何か儀式的なものを作る。儀式的なって言いますけど、人類が作ってきた儀式も多分一緒で、きっと。
完全にそうでしょうね、そうやって言われると。 ミニチュア版のそういう儀式を作れば人間の心をそっちに持っていくことができる。だから、ものかきの人が集中するためにわざわざこれをやってるっていうのはちょっと笑い話的に語られますけど、やっぱり当人にとったら間違いなく効果があることで、それはもう他人が何を言うか関係のない話なので。
皆さんは皆さんで自分の儀式的なものを確立されるといいだろうというような話がなされて、一番最後にその26のツールとして今まで言ってきたようなことが、道具箱としてずっと並んでいくと。
基本的にズームアウトすることによって、うちなる声とハマりすぎないで俯瞰できる視点で見ることによって制御できるっていうことがいいと言いつつも、距離を置くっていうのは必ずしも全てに対して万能界ではないと。
例えばそのネガティブな経験の心理的な影響を減らせるってことは、ポジティブな経験の心理的な影響も減らしてしまうんですね。ズームアウトした状態っていうのは。つまり、熱狂状態で例えばこうすごいサッカー場とかで熱狂してる中で一人それをメタ認知で見てると、やっぱりその熱狂感って半減どころかほぼなくなってしまう。
全く楽しめないですよね。楽しむ基本ですよね。その目の前熱中するというやつは。
そういう時はやっぱりズームインすべきだと。物語も読む時も、分析的に読む時と体験的に読む時って全然違うと思うんですけど、楽しみたかったらやっぱりズームインしなければいけない。だからやっぱりズームアウトだけではいいという話にはならないですね。
人生を楽しむ方向に行くにはズームインや、困った人に共感するときはやっぱりズームインしてた方がいいですけど、じゃあ一旦引いてアドバイスが必要だったらズームアウトしなければならないっていうそういうスイッチング、アクセルとブレーキみたいに2つの原理性で立ち向かうのがよろしいというのが本書の一つの大きなメッセージです。
こういうふうにチャッターというのは厄介ですけども、心の声の機能は人間にとって有用ですし、ハマり、ズームインしすぎないで、そのインした時にズームアウトできるような諸々を持っていたら、そんなに悪い結果にはまり込むこともないので、うまくハーネスしていきましょうというところが本書の話です。
なんかいろんなところが、宗教ってうまいことやってるんだなっていうのをすげえ思って。
こういう諸々がすべて組み合わさってる気がするね、きっと。
なんかその、最近仏教に関する話とか、主に仏教かな、仏教がどんなことを考えてきたかみたいなのをいろいろ見てるんですけど、なんか全部そういうことやってるなって感じがして。
うんと言う気がするね。
うん。仏教的ななんか儀式みたいなやつも、やっぱすごく重視しているものもあるし、あの、なんていうんだろう、ナムアミダブって言えばもう救われるんだぞっていうし。
まあそれも信じることが大切なんですね、きっとね。
うん。で、内なる声を見るためのその座禅なんてもう内なる声とイコールぐらいに感じるし。
だからあれも内なる声を抑えるというよりは、その付き合い方を学ぶっていうものに近いもんね。
たぶんあれはその、まあそこまで深くは知ってないですけど、抑えるではないと思いますね。いかにその平穏に向かい合うか。
うんうんうん。
フラットに内なる声と向き合うようにするのかか。
そうやな、だからある種の禅問答、答えのない問答みたいなのもあれ、結局ズームアウトするための多分方策なんだよね、きっと。
二項対立というものから抜け出るための問題設定というか。
ね、脱構築はもう結局仏教が先にやってたって話ですからね。
そういう、だからやっぱ生活の知恵としての仏教というのは、仏教というか宗教というのはあったよね。
この個人が、自我を持ってしまった人間が生きていく上で必要な装置として、多分古来からあったんでしょうね、きっと。
で、たぶん今まで残っているそのレベルの宗教というのはやっぱそれらの要素が一番上手に組み合わさっているんじゃないかなって感じがして。
確かに。
いや人間は賢かったんだなって思いますね、そういうふうに考えると。
それはもう間違いなく人間というか人類とプラス文明みたいな。
そういう文明装置として見たときに、やっぱりある種の適応をきちんと築いてきたんだなとは思いますね。
なので、何を学ぶときにもそういうふうに今回の話とかも全部応用できそうな気がして。
うん、確かに。
面白いですね。やっぱそのタイトルとは違う面白い感じの方ですね。
いやこの本はね本当に、逆いい意味で裏切られた一冊で、単に僕その頭の内なる声に興味があったから本書を読んだんですけど、予想以上に実用的にも面白かったです。
さっき言ったその愛と優を使い分けるっていうのは言語学的な興味もなかなか刺激された面白い本でした。
ですね、これはなかなか印象が変わった感じですね。最初に思っていたのと。
ちらっとでもちょっと覗いてみるとよろしくあると思います。
そうですね。
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それでは今回もお聞きいただきありがとうございました。
ありがとうございます。