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2025-01-28 59:14

BC106『訂正可能性の哲学』と自己啓発

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今回は『訂正可能性の哲学』を取り上げました。

主に紹介したのは第1部の内容で、最後に少し倉下の考え(自己啓発の課題)も提示してあります。

本編は あたりからスタート。倉下の読書メモは以下のページで確認できます。

◇ブックカタリストBC106用メモ | 倉下忠憲の発想工房

家族と思想

本書で一番ビビっときたのが、エマニュエル・トッドの家族と社会体制の関係を補助線にしながら、私たちは「家族」的なものの外側には出られないのではないか、と提示された部分です。

家族の外に出たと思ったら、そこにも家族があった。

フラクタルな構造としても面白いですし、私たちの思考・思想が生まれ育った環境に強く制約されているという点でも示唆に富む提示です。

その上で、です。

私たちたちが生まれ育つ環境そのものが動いている、という点も見逃せません。生活の実態として「家族」的なものが今後変化していくならば、私たちの共同体の思想もその土台から動いていくことが考えられます。おそらくそれは、希望を形作る可能性でしょう(もちろん、絶望に転じる可能性も同時にあるわけですが)。

たとえば、金田一蓮十郎の『ラララ』では、恋愛ではない形で結婚した夫婦が養子を迎え入れるという「家族」の形を提示していますが、そのようなさまざまな形態の家族が増えていけば、私たちの共同体思想も変わっていくのかもしれません。

訂正可能性

本書の中心となるのが「訂正可能性」であり、それは「閉じていながら、開いている」という二重の性質を持ちます。また、「訂正可能性」を持つためには、つまり「訂正される」という可能性を担保するためには、それが持続・継続していく必要があります。

開きと閉じの二重性、そして継続性・持続性。

そうした性質が大切だよ、ということを真理の追究や功利主義などとは違った立場から本書は提示してくれています。

ごく卑近な実感としてもその提示には頷けるものがあります。たとえばこの「ブックカタリスト」は、あるブックカタリストっぽさを維持して続けていくことが大切でしょう。ある日聴いたら「楽にめっちゃ儲けられる方法」などが語られていたら残念感が半端ありません。

一方で、そのブックカタリストっぽさは常に更新され続けていくことも必要です。同じでありながら、変化もすること。それがシンボル(ないしブランド)にとって重要な要素です。

それと共に、やっぱり配信を続けていくことも大切です。というよりも、同じでありながら、変化もすることは続けていくからこそ可能なのです。

単に続ければいいというものではないし、単に変化すればいいものでもないし、単に変わらなければいいものでもない。

これらの複合において、はじめて可能になるものがある。

そういう意味で、本書の提案は哲学的面白さ以上に、実践的活動において大切な話だと個人的には感じました。



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サマリー

このエピソードでは、『訂正可能性の哲学』と関連する自己啓発についての議論が展開されています。著者は新しい家族の概念や共同体の理解について掘り下げ、家族と公共性に関する哲学的視点を提供します。特にカール・ポパーやエマニエル・トッドの思想を通じて、家族のあり方やその影響が探求されています。また、訂正可能性やビッグデータが社会に与える影響についても考察されています。 さらに、ウィトゲンシュタインの言語ゲームやクリプキーの理論について説明があり、言語やコミュニケーションにおける訂正可能性が探究されます。家族という概念が変化し続ける中で、共同体のルールがどのように形成されるのかにも触れられています。 著者は訂正可能性の哲学が自己啓発に与える影響について考察し、自己認識や価値観が時間と共に変化することを示しています。固定的な自己像を持つことの危険性についても指摘されています。 また、自己啓発における再解釈の重要性や、記録を残すことがもたらす持続性の価値についての探求も行われています。さらに、ビッグデータの影響による定性可能性の喪失についても考察されています。

ポッドキャストの紹介
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、最初にいただいたコメントなどなど紹介したいと思います。
はい。
かまいだいすけさん、2024年に買ってよかったもの、年始に購入したブックカタリストのサポータープランは、アフタートークが想像より面白くて買って正解でした。
浮かん無理クリップ、両手を開けて本を読めるのが単純に便利なのと、姿勢に与える影響が大きくて重宝しています。場面に分けて3つ買ってしまった。
とりあえず、前半部分がとてもいいですね。
大事なことはそこですね。
アフタートークの感想ってあんまり聞かないんですけど、感想がないと喜んでもらっているのかどうかわからないので、こういうのがツイートしていただけるのは大変助かりますね。
そうですね。アフタートークを簡単に内容を紹介しておくと、大体必ずやっているのが、ブックカタリストで紹介していない最近読んだ本について。
正直、あまり良くなかったという感想もパブリックじゃない場所でなら語れるなっていうので、もちろん悪口ではないですけど、自分にこれはあまり良いと思わなかったっていうのは割と率直に話しているような感じですかね。
そうですね。あと、最近出かけたイベントとかの話かもありますね。
そうですね。最近どっか行ってきたっていう日常的な話を何か無理やりブックカタリストにつなげるっていうパターンだったり、あとは共通の興味であるデジタルノートとか情報整理の話を割と手加減なしで喋っているとかも結構多いですよね。
そうですね。ナレッジスタック出張場みたいなところにはなってません。
訂正可能性の哲学の紹介
そうですね。毎回ではないんだけど、前提となる文脈とかを省略して話していて、だから自由に話せるはあるんだけど、そういうのもあったりします。
タカピさんが改めて聞くと、その時は手に取ろうと思いつつ、後回しのまま忘却していた本があるな、今後は何かしらメモをつけておかないとって、振り返りについてコメントをしてもらいまして。
大事ですね。何かしらのメモ。よく言ってるのが、読んだ本の名前だけでいいから書いておくといいぞっていう。
そうですよね。だから逆に書いたいと思っている本とか、読みたいと思っている本もメモしておいた。
そっちは溢れる問題があるのでどうするかって、ちょっとレベルが高いんですよ。
あとですね、MOさんがBC105ブックカタリストで、私も同じポートキャスト番組を何度も聞きます。
ブックカタリストは基本、まずアーリーアクセスで聞き、その後本配信で聞きます。その後ブックカタリストで紹介された本を読んだらその回も聞きます。
同じ番組を聞いても毎回気になることが異なるところが面白いです。
いやーすごいですね。3回ぐらい平均2.何回聞かれている。
ブックカタリストって本編だけでも1時間ぐらいあるわけで、結構大変だろうなと思うんですけどね。
うん。ありがたいことですね。
そして、俺も1、2、1回喋って1回聞いて1回聞いて最低3回ぐらいはあるかな。
へー。
まあ編集しながらもう1回聞いてるがあるので。
うんうん。なるほど。
まあ自然と、ただ頭に入る、自分の場合は自分が喋ったことを聞くので、やっぱ頭に何て言うんだろう、が整理される効果はすごく高いなと思いますね。
なるほど。
まとまってないことをどっかで話してるかもしれないけど、それを何回も聞いてもう1回話すとだいぶまとまるとかは効果としてでかいですね。
ブラッシュアップされていくわけですね。
うん。そこはポッドキャストをやるメリットじゃないかなと。
はい。あとですね、じんさん。
ブックカタリスト105を拝聴。
技能習得に関してゴリゴさんの他人と比べないちょっと前の自分と比べるが割と資源でした。
年間を通じて本の紹介もさることながら、自分に対するライフハック的な面でも活かせる内容でトーク自体が面白かったです。
はい。
ありがとうございますですね、これも。
105というと、配信の振り返り後半戦の話でトレーニングとかの文脈で出てきた話でしたね、確か。
そうですね、これはすごいありがたい話で、ついでにっていうと言い方があれだけど、これを見て、そういえばこれはちゃんと記事として書いておいたらいいなと思って、
そのナレッジスタックの中にそのことを、この話を膨らませて、2、3000字ぐらいの文章とかにもしました。
なるほど、でもこれは本当に練習の哲学の一つ基本的なコンセプト、プリンシパルに入る気がしますね、このテーゼは。
うん、ですね。その前提として記録が必要だっていう、そこはもちろんあるんですけど、そのためにその価値というのはそこなんだっていう、その記録の価値という話でもあったりするのかな。
確かに。
あとですね、ブルースカイでフックさんが、年末のブック語り人を聞いて、なんとなく自分も絵画が見たくなって、モネ店に行ってきた。
絵との距離感が大事だなとか思いながら、いろいろとメーターなしを押してた。そして平日でも込みすぎ。
まあ人気ないね、やっぱりモネ店というか。
まあ多分、あとあれでしょうね、おそらく東京エリアなので。
うんうんうん、人が多いね。
あとモネの絵とか、やっぱりわかりやすい良さがありますよね、多分。
まあ確かに。
言ったらなんだけど、ピカソの絵を見ても一見してわかりやすいとは言い難いし。
確かに。
ゴッホとかモネとかは、なんかこう日本人が好きそうな印象があるかも。
そうですね、これ絵との距離感が大事だなというのは、たぶん近くで見るときと遠くで見るときの印象が違うみたいなことなのかな。
とかどのぐらいの距離感で絵と向き合うかとか、いろんな視点が考えられそうですけどね。
確かに。
その見る人として、描く人として、その付き合い方との距離感というか。
まあ絵画店とかね、俺は人生の選択に全くなかった存在なんですけど、注目してみると結構そこら中でやっていて。
うん、そうだね。
うん、まあそんなに高いわけでもない。
まあ2,000円、3,000円ぐらいが、3,000円はそんなにせんかな。
まあで、その機会があったら、特にやっぱ都会に住んでると有利なことは多いし、都会じゃなくても地元でもその大きくないところだと本当、なんなら無料で。
無料はあんまりないかな、5,600円とかで入れるような、そういう美術館とかも結構あったりして。
はい。
なんか旅の選択肢、前も言ってましたね、としても結構最近は良いものじゃないかなと思っております。
ということで。
はい。
106回ですね、今回は。
はい、106回ですね。
今回は、定性可能性の哲学。
と、自己啓発というのが一応タイトルで、取り上げる本は定性可能性の哲学を倉下が紹介させることで、本編に入りたいのですが。
読み終えたのはずいぶん前のことなんですよね。
たぶん発売日に勝って、発売日が2023年の9月なんで、2023年内には読み終えてて、この本はぜひ紹介しようと。
僕が最初に紹介しようと思ったんですけど。
1年以上経ちましたね。
ところじゃない。
本の扱っている領域が大きいっていうのと、自分がこの内容を消化しきれてない部分もあって。
家族概念の再考察
次にしよう、まあ次にしようという感じで。
ずっと先送りしてきたんですけど、さすがにもうそろそろあれかなという点と。
ある程度、実はこの本じゃないですけど、この本で紹介された哲学者の本とかをいくつか読んで、
ちょこっとなんかそろそろ自分でも語れるかなということで、今回東さんの本を取り上げようと思った次第でございます。
年明けその1個目という気分の良さっていうか、そういう新規一点みたいなのもあるし、
神がかっているんですけど、きょうね、Kindleの日替わりセールが動物化するポストモーダンでした。
ああ、そうなんや。さすがに。
偶然力が高い。
確かに。
でも一応、さっきも言ったように本全体が大きい話題を提供してるんで、本全体を語るわけではなく、前半部分だけを語って、
さらにその話を受けて、ちょっと自分なりの考えを最後に提示するという構成でいきたいなと思っております。
3冊目ですね、あずまさんの本でいうと。
そうなんですよね。
結構トップですね。
一番最初に取り上げたのがBC004回で言論選挙ということで、
これは普通に新章で、ビジネスものとして普通に楽しめる本で、紹介しやすかったんですね。
ギュッと飛んでBC080、これも多分新年一発目の回ですけど。
毎年あれなんですね。
新年はあずまさんが始めるみたいな感じですけど。
観光客の哲学と哲学の門前という、哲学をキーワードを2つにして、しかも語っている内容に近しいところを感じたので、
それをキーワードにして、読書についてという話題を考えました。
3冊目のこの、訂正可能性の哲学という本なんですが、先ほどの2023年に発売されている本で、
そのちょっと後に、訂正する力という新章。
そっちは分かりやすいやつですね、だいぶ。
こっちは力というのは、観念的には近いものを扱っていますけど、
もっと一般向け、あるいは時事ネタに関して、訂正可能性というものがどう役立つのかというところが語られている一般向けの本なので、
言論前期からのルートであれば、訂正する力がいいでしょうし、
あずまさんの哲学書を好きな方は、すぐに訂正可能性の哲学を読まれると思うんですが、
その前に、一応全著と言ってもいいとは思うんですけども、観光客の哲学と続編というほど強いつながりではないですけど、
論考としては、観光客の哲学があり、訂正可能性の哲学があるという順番なので、
もし可能であれば、観光客の哲学から読まれるといいかなというのが僕のガイドでございます。
興味あったら、前のやつも読んでみてね。先にそっちを読んでおくといいよ。
ほかという感じはしますね。どっちも別に単独で読みますが、両方読んでおいたほうが話としては受け入れやすいかなと。
本書、訂正可能性の哲学なんですけど、ものすごくざっくり言うと、家族という言葉、何でしょう、概念というのを、
それまでの哲学とか思想で扱われてきた家族という概念を脱格式しようという試みと、おそらく言えると思います。
それは結局、家族という一つの共同体ですけど、共同体について語る言葉、概念というのを変えていく。
それは本書が扱っている用語をそのまま使えば、共同体についての新しい言語ゲームを始めようじゃないかという提案として多分受けます。
これが超ざっくりの本書の説明ですね。
第1部がって感じですかね、イメージでいうと。
前半部分のまとめがそうで、基本的には共同体ということ、あるいはその共同体を存続するために何が必要かという観念を全体としてあるとは思いますね。
全体が2部構成、大きく2部構成になっていて、1章から9章までありまして、ここで超高速に各章を見ていきます。
第1部が家族と訂正可能性という部になってまして、その第1章、家族的なものとその敵というタイトルで、この辺は本を読み慣れた人ならピンとくると思うんですけど、
ポパーが主に取り上げられていますね。
ポパーの滑らかな社会とその敵というのが一つの話のきっかけとして取り上げられて、そこから話が展開。
第2章、訂正可能性の共同体ということで、家族という言葉が最初に紹介されますが、家族というと、これも哲学オタク、哲学好きの人だったら、
ウィト・ゲインシュタインの家族的類似性という言葉があるんですけど、それとウィト・ゲインシュタインの思想を受けた、クリプキーという方がおられるんですけど、
その思想を紹介しつつ、家族、あるいは家族という言葉みたいなものの扱い方関連というものを検討していくというのが第2章。
第3章が家族と観光客ということで、ここがポイントなんですけども、全庁にあたる観光客の哲学は、
家族と公共性の再考
観光客の哲学というタイトルですけど、こっちも2部構成になっていて、第1部が観光客の哲学、第2部が家族の哲学で、
家族と観光客って全然違うものが2つ並べられていて、あつまさん曰く論理的なつながり、この2つの概念の論理的なつながりっていうのは、
はっきりと確立できなかったと。で、本章のこの議論においてその2つが接続できるようということが確認される。ちょっと短めの章が第3。
第4章、持続する公共性ということで、超話題のアレントの中にある彼女が語っている公共性という概念が再検討されて、そこがさっきここまでの続いてきた家族というものと、
あと訂正可能性っていうものが、その公共性にどう機能するのかっていうのが確認されて、第1部が閉められると。
第2部が一般意志最高ということで、ここは結構難しい反面、多分僕とかゴルゴさんが非常に興味を持つ章というか部ではないかと思うんですけども、
第5章が人工知能民主義の誕生ということで、ビッグデータですね。ビッグデータというものが扱われて、ごくごく素直にルソーの一般意志というのを解釈してしまうと、
ビッグデータありきの。
あれば上手く、社会は上手くいくみたいなやつですよね。
ビッグティーブっていう、いわゆる現在のテクノロジストがよく夢見がちなものがあるけども、それは実は訂正可能性ということを考えたときにちょっと危うさがあるんではないかというところ。
第6章、一般意志という謎ということで、ルソーの一般意志という言葉が、ルソーの単独の本だけではなくて、彼が書いた小説的なものと合わせることで読みを深めていくと。
第7章がビッグデータと私の問題、私のかぎ箱付きの私の問題ですけど、ビッグデータはいわゆる統計的データで、そこで固有名詞が消えていく、私の固有性が消えていくと。
その環境では主体化が起こらないと。それは民主主義に問題である、起こるんではないかというところで、この7章あたりが現代的な問題と非常に重要な問題提起がされているんじゃないかなと思いまして。
第8章が自然と訂正可能性ということで、この先言ったシン・エロイーズという、ルソーが書いた小説なんですけど、ルソーって芸術を否定していたはずなのに小説を書くということで、これどうなってんねってそのねじれを読み解いていく。
最後第9章、対話、決着、民主主義ということで、本章の話を引き継いでこういうビジョンがいいんではないかみたいなことが最後示されるというところで。話題として面白いので、基本的に第5章は現代的に非常に重要な問題提起があるとは思うんですが、今回は前半部分、第1部の1から4までの話をもう少し詳しく見ていこうかと思います。
改めて見てみたんですけど、知っておいた方がいいことがめちゃめちゃ多いですね。
めちゃめちゃ多いですね。しかもこの本って結構いろんな哲学的トピックを引っ張ってきて、著者なりにまとめしているので、全然この辺詳しくないよという方でも、一応ゆっくり読んでいけば読める内容になっているので、やっぱりそういうふうに広く読まれることを想定して書かれているような気がしますね。
同時に自分が思い出したのが、めっちゃ読むのに苦労したんですけど、結構元ネタに興味が持てるようにちゃんと書かれていて、実際に元ネタに興味を持って、結果的にやっぱり広がるきっかけになった本だったなっていう。
哲学を動機づける本としては非常に素晴らしい。たぶん個々の内容について、ある研究者から見たらこれが不正確だみたいなことがあるのかもしれないけれども、やっぱりそこまで人の関心を掻き立てて哲学的探究に呼び込む著作として力はちゃんとある本だなと思いますね。
カール・ポパーとかもいろんなところでよく出てくるし、クリプキーとかもよく出てくるしっていうのはそうなんだけど、それ以上に分かった気になって読みたくなるっていうね、上手なんだなと思いますね。難しいけれども。
そういうことをやっぱり目指されてるんだろうな、シラスっていうプラットフォームとか、でもやっぱり一般市民、学術探究じゃなくて一般市民で考えるという行為を欲してる人に向けて、それをアジテーションするようなことを活動全体で行われてるような気がする。
あとあれですね、一般医師で思ったのが、一般医師に関してはコテンラジオで結構詳しく紹介してる回があったんですよ。それは自分レベルの知識で言うとめっちゃ参考になった。
へー、なるほど。
まず話題の発端として、家族っていうものの扱いがコロナ禍で変転したという話がありました。それまでの哲学的あるいは思想的なものにおいて、家族っていうものはあんまりよく思われていなかった。むしろそれは個人というものを抑制するものとして扱われていた。
家が大切ですよって話になった。その閉鎖的なもの、開放的なものから閉鎖的なものへのシフトっていうその捉え方は、そもそもその前提は本当に正しいんだろうかということから考えていこうということで。
実際プラトンの国家という本では、国の指導者となるような人間というのは家族を持たないと。公共的で理想的な人間というのは国のために生きて家族っていうプライベートなものに囚われないものが好ましいと提案されている。
家族関係すらダメだみたいに何か言ってましたよね。
家族そもそも持たないと。例えば子供っていうのは国が全体として子供たち育てていく。その当人は子供を作ってもいいけどそれは家族という関係にはならないことが望ましいということが言われている。プラトンというのは西洋哲学のそのそのみたいな感じですから、そこからも脈々とその考え方が受け継がれていると。
よく出てきたルソーも、基本的にルソーというのは人間は自然状態では家族とか配偶者を持たないものだということを言ってまして家族性を否定。
話を飛ぶとマルクス主義っていうものあるいはエンゲルスっていうのが集団住宅っていう形でみんなで集合的に住めばよくて家族で家を持つなんていうのはもう贅沢であり不存であるみたいな感じで理想的な国家が語られると。
で結局現代でもさっきも言ったように家族と公共性というのは大体対峙されてるんですね。家族っていうのはその哲学っていうのは真理を探求するもので、真理を探求するにおいて私っていうエゴっていうのは邪魔だと。
で家族っていうのはその私のエゴを閉鎖的に守る環境なわけで私のエゴ性っていうのを否定する哲学は当然のように家族っていうのも否定してしまう。
もっと開かれた公共的なものが良いのだよというかもうベースにあるこの個々の思想は違っててもベースにそういうものがあると。
でそういうふうに扱われてきたけどまあ著者としては家族がその閉鎖的で排他的な人間関係という捉え方は確かにそういう側面もあるけども果たしてそれだけなのだろうかそんな単純な割り切り方でまあいいんだろうかということで
じゃあ一回ちょっと家族っていうのを本格的に考え直してみようと話題提起されるのがまず第一章のスタート地点です。
ポパーの思想と家族の影響
で引き合いに出されるのがそのタイトルにモチーフとなっているポパン、カール・ポパンなんですけど開かれた社会とその敵ということでこの本多分読んだことはないと思うんですよ。
読んでない。
僕も家にイワナミの本があるんですけど全部読み切れないんですけど大きく2部だてになってて一部ではプラトン間違ってるっていう話で2部がマルクス間違ってるっていう話らしいですね。
ではそのポパーが言わせればその国家っていうもの理想的なさっき言った国家っていうのは確かにそこでこの国家に対して自分の家族っていうものを持たない国家に奉仕する人がいいと言いつつ
結局それは国家こそが重要でありその国家以外のことは重要じゃないといわれる全体主義と呼ばれるものにアクセスしているのではないかという否定が行われる。
で細かい議論があってそのポパーの見方もさすがにちょっとうがってるんじゃないかなとは言いつつ著者はでもそこにポパーのそのそう言ってしまった、そう批判してしまったとこに何かカギがある。
でつまり開放を目指していたものが閉鎖的になってしまう。開放と閉鎖っていうのは実は二重性があるんじゃないかというのがまず提案されてで次にエマニエル・トットっていうこれは思想家ですかね。
今でも日本で結構使われている著者が結構出てはる人ですけどもが彼の家族と社会体制の関係っていう論語があってここがねすごく僕は面白かったんですけども
例えば資本主義とか共産主義とかいろんな主義がいくつかの主義がこの社会世界には広がっていたわけですけどそれが受容された地域の見てみると家族の形態に違いがあったのではないかという話がありまして
例えばその核家族とか直系家族とか共同体家族ってあるので詳しく説明すると長いのでやめますけれどもそのような家族の形態があるとでその家族の形態と受容された思想につながりがある関係があるっていうことが確認された上で著者はつまりこういうことではないかと僕たちはいろんなことを考えるけども結局もともと自分がそこに育った家族っていうものの形からしか新しい共同体は思想できないのではないかといったふうに言われています。
というところが確認されまして僕ここ非常に面白かったんですよね。
ゴルゴさんここどうでしたか。
あのなんて言うんだろうな。読んでる当時はそのレベルで分かってなかったなって今思いました。
なるほど。
あの純粋にあのポッパーが言ってた分布と重なってるっていうのがうわマジかって思って、あのその後エマニュエル・トッドの本とかは読んだような気がする。
はいはいはいなるほど。結局その僕の観点で言うと自分の共同体を共同体はこういうものだっていうその考え方のモデルっていうものが自分が育ってきたあるいはその自分の身近にあった家族って一番小さい身近なモデルから僕たちは少なくとも脱出できないあるいはもう自然にそう考えてしまうんではないかというところが第一章で批判されて
結局家族の外に出ようとしてもそこには結局家族がいるっていう家族の外に出られないというところが第一章で確認。
まあ今だと自分が思うのがやっぱその国家って例えば日本だと1億人いるわけで想像すらできないんですよね。
確かに。
でやっぱ結局自分が想像できる集団が家族以上の規模にはなり得ないんだろうなっていう。
まあでもそれは確かにそれはよくよく例えば考えてみるとごく自然なことで例えば各家族ごく小さい規模の家族そのでかい大家族から独立して小さく
親僕から子供から見たらおじいちゃんとかおばあちゃんと世帯と別のとこに住むっていうその家族形態と個人主義っていうのが合致するっていう話がありまして
これ僕はその説得的になっあの説得されてませんけど実感的にはそうだなとは感じるんですよこれやっぱり
それでも僕はそのそれ以外の家族を知らないからわからないもっと大きいとこで育ったときに
ただもっと違う社会の方が自然だと感じることも普通にあると思うんですよね
だから思想ってそんなに独立してないというか僕らっちの生態環境から出発するしそこに強く縛られるっていう制約を持ってるという風に捉えるのはまあ面白いなと思う
そうですよね結局集団って自分でも体験してきたもので言うと家族と学校ぐらいしか事実上存在してなくて
どういう形の共同体のときどんな感じを受けるのかとか何が正しいのかっていう判断すらそこに影響を受けるんだろうなと思いますね
なんかね自分の場合正しいどころかなんかそれしか当たり前にならないぐらいの強さなんじゃないかなっていう
そういうことも改めそのトットの議論を引きながら確認される家族っていうもののあり方がその人の共同体についての思想に強い影響を与えてしまう
訂正可能性とコミュニティ
続く第二章訂正可能性の共同体というところではじゃあその家族っていう言葉についてもっと詳しく考えてみようということで
ウィトー・ゲンシュタインの家族的類似性という言葉が紹介されるんですけども
これウィトー・ゲンシュタインはドイツ語で多分書いてるんですけど彼が言う家族って日本の家族より少し広いんですよね
一族っていうようなニファンスもあるらしいさ元々の言葉っていうのは
一族って捉えた方がもうちょっとイメージしやすくて例えば
観光総裁で親戚一同が集まったらそこにいる個人は何となく似てる人たちが共通性があると全員に統一する
この家族はこういう特徴を持ってるっていうのはない家族って言いまして一族ですが
一族こういう特徴を持ってるのはないけどAさんとBさんはこの辺が似てるCさんとDさんはこの辺が似てるっていう
その細かい繋がりがあるだけっていうその関係性が家族的類性で
これはウィトー・ゲンシュタインが言語ゲームっていう言葉を説明するときに使った言葉なんですけど
これまた言語ゲームを説明するのが長いのでちょっとやめますが
ウィトー・ゲンシュタインの考えを発展させてクリプキーっていう方がおられまして
ウィトー・ゲンシュタインのパラドックスという本がございます
この本でウィトー・ゲンシュタインは議論を引きながらその言語ゲームについて今より詳しく検討されていくと
ウィトー・ゲンシュタインは非常に精緻に自分の議論を組み立てる人で
自分の考えについてものすごい自分で反論をしていってそれにまた反論していくということで
非常に神経質に議論を進める方なんですけど
僕たちは言語ゲームをしているとある種のゲームと
言語という真理があるんじゃなくて言語というゲームをその時その時にしていると
言語ゲームというのは色々あるけどもそこにあるポイントは
僕たちはそのゲームのルールを把握しているわけではないということがありまして
これはもう非常に実感的に言うと僕たちは文法を知らないんですよね
少なくとも
説明うまくできないんですよね
できないそれ分かっているとは言えない説明できないってことは分かっているとは言えないんですけども
僕たちはそのゲームをしていると
どんなルールとかどんな目的であるかも分かってないけど僕たちはそのゲームを
ここで面白いです
例えばある人が突然来てお前はAっていうつもりで言ったけども
それはやっぱりBのつもりだったんじゃないかって言われたとしても
うまく反論できそうな気がしますけどそれはできないんだと
効果的に反論できないんだと
言語ゲームは常に批判されるゲームをひっくり返される可能性があるというところを受けて
さらにクリプキーはそれは言語だけのやり取りじゃなくて
例えば数学的計算数式の計算においてすらも同じような
イチャモンをつけることができてしまうと
つまり人間的なコミュニケーション文字のやり取りとか情報のやり取り全般におとって
言語ゲーム性があるということがクリプキーによって確認されたと
でそのいやそれはお前がやってることはこうじゃないんだ
AのつもりだけどBだっていう定性というキーワードが出てくるんですね
ここで初めて本書の通定する定性という
言語ゲームは常に他者によって定性される可能性を持っている
言語ゲームというかいわゆるコミュニケーション全般はそれを持っている
そこで出てくるのが一般名と固有名という話なんですね
これも説明するとすごく長いわけですけど
三角形っていう人工の言葉がありまして三角形は定義できますね
断片に囲まれたほにゃらららみたいな言い方ができる
三角形という名前と三角形の定義は非常に密に対応していて
定義が変わってしまえば名前が三角形そのものが変わってしまう
例えば線が4本になったら四角形これが一般名なんですけど
同じ名前の固有名本書ではソクラテスが例に挙げられていますけど
ソクラテスっていうのは古代技術者に来た哲学者で男性で
プラトンを弟子に持ったみたいないろんな性質があると
このいろんな性質の列挙がソクラテスを示しているんですが
これがさっきの三角形の定義とは関係が違うということが確認されて
ほとんどありえないですけどある文献を読んだら
ソクラテスは実は女であったという事実が明らかになったとしましょう
その時にさっき三角形が四角形に置き換わったのとは違って
ソクラテスはソクラテスのままなんですね
ソクラテスという呼び方は変わらない
これ僕ら言語で使っているとすごく当たり前のことなんですけど
確かにその一般名と固有名で扱い方が違うんですよね
固有名はそのように新しい事実が分かった時に
名前は変わらずに中身定義内容そのものが訂正される
新しく再認識されるという関係を持つ
こういう固有名は常に訂正される可能性を持っていると
だから結局固有名の扱いというのは非常に無限の可能性があると言うと大げさですけど
カッチリ決まっていないと
そんなカッチリ決まっていないものの中で
そういうものの中で僕たちはでも当たり前のように言語を使っているわけですね
この非常に混乱するはずのものが
でも実は僕たちは何も困らずに使えてしまっているというのが
ウィトゲン主体のパラドックスという言葉の意味なんですけど
固有名と家族の定義
それをクリピックは共同体の視点から取り入れやすいわけですね
結局私はAですよって言った時に
Bですよって言わない人たちが共同体だと
Aだって頷く人たちが集まっている
そういう頷く関係性が共同体であるというのがまず一つ
イチャマをつけない人たち
そうです
仮にある共同体がAだよって言った時に
いやそれBでしょって言われて
いやAなんだよって
こちらが共同体が言い返して言ってきた人が
Aなんですねって言ったら
その人が共同体に入れるわけですね
つまり言ってきた人の考えが訂正されることで
これまでメンバーじゃなかった人がメンバーに入る可能性がある
逆にこれはAですよっていう話に
誰かやってきていやそれはCですよって言われた時に
Aの誰か全体が
Cやったら面白いかもねって言うかもしれない
今度は言うんだったら面白いかもしれないって言うんだったら
AはAだっていうルールが書き換わる
でも共同体はそのまま
さっき言ってきた人も多分仲間に入るっていうことで
外部を取り入れるっていう変化だけじゃなくて
内部のルール性そのものも変わっていく
でも共同体はずっとそこにある
あるものをAだという
ある瞬間からあるものはCだというっていう
変わりゆくルールを持った
ある同じ名前を持つ共同体がいる
そういう共同体のルールの認定によって
ウィルドゲイン主体のパラドクスというのは回避されている
僕たちは普通に言語ゲームをしている
だから1たす1は5だよって常に言う人がいたら
その人は数学のゲームには入ってこれないわけですね
それは数学のゲームだけじゃなくて
僕たちのもっと日常的な言語ゲームでも
意味が通じないことを言ってる人は
その人独自の言葉かもしれないけど
僕たちの言語ではないということに切り分けられてしまう
共同体とルールの関係性で
そのルールと変更によって
共同体そのものが訂正されていくっていう
ここのアプローチ
それが家族っていうこと
そのものなのではないかというところで
大きく話が広がるわけですけど
現代的な話で言うと
例えば家族の定義っていうのは非常に広くて
飼っている犬とかを家族に
加えるような過程もありますし
逆に結婚
国の制度で結婚は認められていない2人が
2コミュニティ
共同体を作ってやっていく
それはやっぱり
家族なんですね
家族って言うしかない
だから昔に比べて
家族っていうものの形が変わっている上に
新しく家族増えたりとか減ったりとか
変化していくことが
普通に行われている
家族っていうのはそもそも
この4人が我々の家族であるっていう定義に従って
なされるものじゃなくて
新しく増えたりとか出ていったりする
変化していく
でも僕たちの家族っていうそのものも
ある種変わらない
ずっと固有名として残り続けていく
っていうものとして
家族が存在しているっていうのが
第2章
先天図学で確認される家族論ですね
言語ゲームの話が
結構難しいけれども
それと家族っていう概念が
似てるところがいっぱいあって
家族っていう言葉そのものが
一つの言語ゲームですからね
家族っていうのは例えば
自分の子供のことを振り返ると
両親と共に住んでいて
おじいちゃんおばあちゃんと一緒に住んでいて
兄弟がいて
みんな家族だったけれども
大人になるに従って
じいちゃんばあちゃんが亡くなって
家族ではなくなり
両親と別々に暮らすようになって
競技の家族ではなくなり
結婚したり子供ができたりして
メンバーはいつの間にか
すげえ変わっているけど
家族はずっと続いている
少なくとも自分の中にある
家族っていう概念そのものは
家族2.0とかにはならないわけですね
家族2.0にはならない
それは重要な気がする
家族っていうものとして続いていく
その変化していくもの
同じ名前なのに変化していくものとして
家族っていう概念が再確認される
第3章が家族と観光客ということで
家族と観光客の接合
最初に言った
全庁ではうまく接合できなかった概念が
接合されるわけですけど
そもそも全庁の観光客って何かっていうと
いわゆる政治っていう概念が
基本的に私たちと敵
敵と味方っていうのを
せんびくものへと
私たちにとって良いことをする
敵にとって良くないことをする
っていうことが政治なわけですけども
観光客提示された観光客っていうのは
そのどちらでもない存在
あるいはどちらでも
ちょっとだけ生えている存在
っていうものとして観光客が提示されると
観光客っていうのはつまり
定性を
こちらでも
敵でも味方でもない第3者として
そこにある共同体に対して
変化する可能性を
呼び込むものとして提示できる
だからその定性可能性っていう
家族はさっき言ったように定性可能性を持つし
観光客も既存の共同体について
定性可能性を与えるというので
この定性可能性という性質において
その接合できなかった概念が
接合できるんじゃないかっていうところが第3章で
これ前の本読んでると第3章が
あーなるほどねということで
不応地するかと思いますね
最後の第4章なんですけども
持続する公共性ということで
アレントが
アレントっていう哲学者が
公共性について考えてて
そこが議論されるわけですけども
結構難しいんですが
アレントって
公共性について著者が2つ
語っていると
1つが開かれた
場所に出て例えば
政治的な場所に出て
その人が
その人であると認識されること
名前を持った主体として
認められること開かれた場所で
その個人が個人的に認められる
っていうこの解放性
公共性っていうところの
公共性の中での開放みたいなところが
言われるわけですけど
もう1個あんまり注目されていない
ポイントとして持続性っていうところが
背後に隠れて
主張されていると
結局現れる場
あの人はあの人だって現れる
訂正可能性の哲学とは
場がそもそも存続せないと
そもそもそういうことは不可能であろうと
場の継続
っていうことがないと
そういう
民主主義とか公共性っていうのは担保されない
である
インターネットの時代からは
その開放開放開放オープンオープン
オープンということが常に言われてきた
わけですけどその
背後にそれが存続可能であるのか
継続可能であるのかっていう論点が
結構見過ごされてきてまして
実際
現代2025年とか4年になって
ごたごたと10年前の何かが
効いていっているパターンが多いわけですね
継続性っていう持続性がなくなっていくと
確かに開放的では
あったけど持続しないものに
おいて
さっき言ったあるものが存続して
訂正されていくその連続性
そのものが失われてしまう
続かないと訂正され続けないわけで
家族っていうのも
中身が変わろうと
家族的なものが続いているから
変化していくわけで場の
存続性継続性っていうところが
公共性を担う
門半分であると
いうところが提案されて
結局
僕らの認知において
敵と味方という線引きを完全に
なくすことはおそらく不可能
でも一度引かれた線を
引き直せたらいいと
引き直すたびには例えば場が
持続されている必要があるわけですね
例えば僕とゴルゴさんが何かで
口喧嘩したとしましょう
それ以降一切喋らなかったら
仲直りする機会はないわけですよね
でもとりあえず
話し合う場が定期的にあったら
僕らのきっかけでその線を引き直せることがあるわけですね
だから続いていること
継続していくことが
引かれた線を引き直す
っていう行為を可能にすると
だから思想的に言って
敵も味方もないよねっていう
自己啓発の問題
宇宙船地球号だよね
みんな味方よねっていうのは
一つ立派な理想なんですけど
僕らの認知は多分普通に敵と味方を
切り分けてしまうんで
そうなってしまうのは仕方がないけど
別の捉え方をするために
定性可能性を持ち込むために
持続するっていうことを
考えた方がいいよということが
第4章で
ここまでが大体1章から
4章の話で
敵味方をどう考えるかっていうときにおいて
敵味方を作ってしまうのは
仕方ないとしても
定性可能性によって線引きそのものを変えていく
っていうアプローチを
持ち込むっていうところが
面白いわけですね
だから定性可能ある概念を
変えてするっていう考え方から
むしろ流動的に変化していくものとして
捉えるあるいは見方っていうのも
変わっていくっていう風に
捉えることで
そうすることによって
何が敵で何が味方だかっていう
考え方
例えばリベラルだって
非リベラルな人たちを敵として排除するわけですから
これはあんまり自由じゃないんですね本来的に言えば
だから思想的自由さ
っていうのはむしろ定性可能性
の中で議論が
続いていくことそのものに
本来のリベラルな考え方が
あるんじゃないかなと個人的に
思いましたここまでが第一部の
すごい雑な
実はドラゴンボールに
いろんな敵味方の
解決の秘密が
隠れているんじゃないかって今思いついたんですけど
なるほどね確かに
ピッコロは敵として出てくるが仲間になるし
ベジータも敵として出てくるが
挙句の果てに地球人と結婚
してしまうみたいなやつですね
それってかつては
敵だとして決めつけてしまったら
絶対に起こり得なかった
ことで
さらに言うと
漫画的な話で言うとピッコロ大魔王は
意図せずだけど
ベジータとかは
殺さなかったことによって
そうやね確かに
味方に残る可能性が残っていた
残すことができた
悟空は結構そうやもんね
ギリギリまで殺さないで
生かそうとしたりも本当にどうしようもないとき以外はね
ドラゴンボールの場合はね
強いやつと戦いたいという根本原理が
あったっていうそんだけなんだけど
でもそれが多分重要なんじゃないかな
結局
最初の方で言いましたけど
僕たちがAだって言ってる
共同体にCだって言う
人ができて何を言ってるんだ
こいつじゃなくてそれって面白そうだ
って言えること 悟空はそうだね
まんまそうだね
面白そうだという感じワクワクするという感じが
定性可能性を呼び込むんじゃないかなとしたら
そうですよね
クリリーはベジータを悪だと決めつけて
殺そうとしたけど
それが地球人の
人間の一般的な感情ですよね
ワクワクするっていう
しかもあれ
自分がちょっと苦労してもいい
という感じの
合理性を超えた
衝動なわけですねワクワクっていうのは
それが多分定性可能性を呼ぶ
っていうことを
学べるかもしれませんね
っていうことを思いつきました
というところで
その概念
定性可能性とか言語ゲーム
っていう観点を持って
捉えると線引きができるっていう
その考え方を
僕は別の観点から
捉えたいという
1章から4章まで
っていうのはさっきも言ったように
共同体についての語る言葉
新しい言葉を用意しようと
人数の人間についての言葉ですけど
僕はこれを
フラクタルに一段下にいって
自分っていう存在にも
多分言えるんじゃないかなと思う
それがまあ要するにこの
定性可能性の自己啓発なんですけども
結局ねその自己啓発
っていう文言は
中にはその良いもの良いもの
良質なもの悪質なものがあるわけですね
だから10%かけらに
全部悪いとは言えないんですけど
人を生き
生きにくくする
自己啓発があるとしたらやっぱり
自分っていうのを固定化するものだと思うんですよ
でその一番
現れる例が
理想っていうものを
描いてそれに
邁進するでそうなることが
素晴らしくて
そうなれない自分はダメだという観点を
立てるこういう自己啓発はね
あんまりよろしくないこれはだから
本書の議論を引き継ぐと
定性可能性が含まれてないんですねそれは
固定された自分の像っていうものを
ずっと継続して持ち付け
定性しないまま同じルールでやっていく
これはだから自分っていうものが
例えば自分の中に
複数の性質を持った自分がいる
それは時間的に見ていくと
変化していく自分これも複数の自分として
捉えられますけど
自分っていう一つの集合
共同体として捉えることができたとしたら
同じ理屈を多分持ち出すことができる
と思うんですね本書の
やっぱりね家族っていうのが
変化していくように自分っていうものも
変化していくのが自然やと思うんですよ
それを変化を止める方が多分難しくて
で例えば
すごく長い目で見たときに
自分っていうのも
家族的理屈性しかないと思うんですよ
自分の本質っていうのは多分なくて
1年前の2年前の
自分はちょっとこの辺が似てて
2年前と3年前の自分はちょっとこんな感じで
共通点があるっていうそういう連なりしかない
だから本質的な
自分っていうのにこだわると
定性可能性を失ってしまうそうじゃなくて
自分っていうのはそのときそのときに
何かしら状況に合わせた言語ゲームをしていて
その言語ゲームをする主体としての
自分があるけどそれは
時間が変わったり環境が
変わったりしていくと変わっていく
だから立てた目標もある時点の
目標としては機能するかもしれんけど
定性可能性の中で目標そのものが
変わっていくしそもそも自分がどうありたいか
とか自分自身も変わっていくっていう
その開かれた形での
事故っていうものを見出して
それを補助するっていう事故啓発なら
僕はいいと思うんですよね
本書を読み終えた後に
気がついたんですけど
固定観念っていう言い方します
固定観念ってあんまり良い
ニファンスじゃない言葉なんですけど
固定観念ってわざわざ言うってことは
観念って固定されてないってことなんですよ
観念って
流動性があり変化していくもの
緩やかなもの境界線があやふやなもの
っていうのが観念なんですね
事故も観念なんですよ
自分っていう観念
だから事故を固定観念で捉えるか
捉えないか普通の観念として捉えるか
っていうことの違いとして
見受け取ったときに
固くなる事故啓発じゃなくて
緩くなる事故というものを
捉えていけばいいんじゃないかなっていう風に
思って
これ本書の共同体の
すごい大きな議論からすると
非常に賄賞な話ではあるんですけど
4章で
人文学の役割っていう話が
ちょこっと出てくるんですよ
人文学っていうのは基本的にさっきの
歴史的発見からもそうなんですけど
常に訂正されていく
可能性を持つ
ある分野の本が別の分野で
使われていくっていう
アズマさんと言うと誤廃みたいな言い方をされますけど
本書も結局
そのような仕事なんですね
訂正可能性の哲学っていうのも
人文学の役割と新たな視点
いろんな思想家とか
哲学者の
議論を自分なりに
引っ張ってきて再構築
ある種考えを訂正して
新しく文脈付けているっていうこと
なのでその仕事をまた
さらに僕なりに引き付けて
いわゆる自己啓発にすると
やっぱり自己啓発っていうものを
訂正可能性に置くっていうことが
多分僕なりの
その人文的な仕事として
多分位置付けられるんじゃないかなと
だから本書結構ね本として面白いと思った時に
自分の仕事として
自分の仕事として結構
役立つっていうのは直接的ですけど
大きなヒントになりましたし
こういう捉え方
っていうことと説得力の
足せ方っていうのを結構
考えた
一冊でした
この本を紹介するのにすごく長い
時間があったわけですけど
結構いろいろこの間に
考えたりして
今みたいな結論に至った
というと
もうちょっと今の
再解釈っていうか
人文の人文学の
価値みたいなところで
思ったのでいうと
なんていうんだろう
多分あずまさんが言ってるのが
だいぶ強引に解釈
すると
昔のやつをどうとでも後から
読み換えれることができるようになる
みたいなニュアンスだと思うんですよね
でそれって
個人の経験に関しても
再解釈の重要性
同じことが言えるんじゃないかと思っていて
まさに
まさに自分の場合はなんですけど
過去に大学を
行けなくなって中退していること
というのは
行っている最中から想像
していた物語は
絶望しかないみたいな感じだったんですよね
はいはい
ただ今それを読み換えて
振り返ってみると
ほぼ間違いなく
自信を持って言えるレベルで
そっちの方が良かったな
と思うんですよね
っていう感じで
おそらく不幸だと思った
出来事も後から
再解釈することで
いろんな経験とか物事
っていうのを
死ぬという断絶がない限りは
何とでも再解釈
することができる
みたいな感じで言えるんじゃないかな
ってことをちょっと思いました
そうですね
継続・持続っていう点で言うと
生き続けるということが
一番の持続なわけですけど
記録を残しておくということも
その持続・継続につながると思う
再解釈するために
データがあった方が良いのは確かで
日記とか手帳を持っている人は
過去に縛られるよりは
自分が書いたものを
過去として捉えた上で
再解釈しやすいんじゃないかなと
個人的には思うんで
僕はそういう自分の人生の再解釈を
人生を語り直すと言いますけども
そのための記録っていうものの価値を
改めて言えるんじゃないかなと思います
それあれですね
記憶に頼っていると
まさに今までのいろんな本でも
ずっと出てきたと思うんですけど
人は記憶を
本当に心の底から書き換えてしまう
そうだね
という意味でずっと
解釈を変えようがなくなってしまう
多分
ずっと同じになってしまう
ビッグデータの影響
そうそう
記録ということで距離を置くからこそ
可能になるっていうことはあると思う
どこかでちょっと固定しておいて
そこを
固定でいいのかな
固定することによって
逆に解釈を変えることが
できる
それは人文学がテキストをずっと残してきた
歴史っていうのと重ねることができる
そうですね
ソクラテスは何も言ってなかったから
解釈しようなかったけど
プラトンのおかげでそれができるようになった
だから
ソクラテスの思想は多分いろんな
風にこれまでの歴史の中で
再解釈されてきたり
今でもそうです
あずまさんのこの本もまた
別の観点で再解釈されるだろうし
その再解釈も
再解釈されていくっていう
連続した営みが多分
知的なプロセスっていうものだと思う
それは
個人の60年とか80年の人生に
おいても多分普通に言えることで
記録を残すことの
価値みたいなものを短期的に
役立つっていう点
微暴力として役立つっていう点もあるけど
実はもう少し大きいスパンからも
多分言い直せるんじゃないかな
とは思いますね
そしてこの本がやっぱ過去の再解釈に
寄って出来上がっている
寄っているっていうところと
通定してますよね
基本的に人文的なものっていうのが
あんまり役立てないつまり
チェックデータとAIの
生成であればいいっていうことがあるにしても
人間が
コミュニケーションの中で定性可能性を
必要としているっていう点そのものは
しばらくは変わらないでしょうからやっぱり
必要は残っていくでしょうね
そうですね
2部の話は結構あれですよね
強く喋れるほど
まとまってないけど
なんていうんだろう
今時のネット社会やばくないっていうのを
ちゃんと
示してくれているというのか
そうやね定性可能性がない
っていうのは非常に
説得
ここは説得的に感じましたね
何がやばいのかが上手く
表現できてやばいのはわかるけど
っていうのがあって
やばさがあんまりわからなかった
この本の紹介されている
あなたを支配し社会を破壊するAI
ビッグデータの罠というような本がありまして
これ本書の中でもエピソードですけど
ビッグデータが一回
判断を下すともうその判断を
覆すことができないと
だってもうデータは揃ってますからと
Aの人は
このXさんはAについての
資質がないからもうAをする
チャンスみたいなのが与えられない
チャンスが与えられるとその評価を
定性できないさっき言った喧嘩ばかりすると
仲直りできないっていうのが一緒で
ビッグデータが判断を下したら
もうそれに合わせて環境が動いて
もう一生定性できなくなると
仮に人間だったら
気まぐれとかによって定性可能性が
生まれることもあるわけですね
機嫌の良さみたいなこともあるわけですけど
一切なくなってしまう揺らぎがない
揺れない
そこがやっぱりビッグデータ的に
強固であるがゆえに
怖いというところは
意識した方がいいんでしょうねこれは
気まぐれとかはグラフ理論の話で
本の価値と推薦
なんか
こっちの本だったっけ
前のほうから繋ぎ替えね
繋ぎ替えっていう言い方をしていたか
そう思い出したけどね
やっぱあずまさんの前の本で
そういうグラフ理論に
興味を持って
読んでいたりもしていたし
7章で出てきた
監視資本主義っていう
キーワード
それとかもめっちゃ面白いやんって思って
図書館で
本を借りたら
超極太小さい文字の
くっそ大変な本だったけど
それも一応
頑張って読んだし
なんかやっぱだいぶ
影響を受けているなと改めて思いました
だからやっぱ
改めてねその
一応哲学的とか現代的に
非常に難しいはずの問題を
相当
わかりやすく書かれて
もちろんそこのわかりやすく書くために
かなりアクロロバティックなことが行われているとは思うんですけど
言うてもこの仕事は
簡単じゃないよなと思いますね
まあまあ
簡単じゃない
いや読んでるときは
フフーンとオーオーと納得して
読むんですけど
例えば個々の文に当たるウィートゲインシュタインとか
クリピティの話をちゃんと読もうとすると
すごく難しいんですよ
だからこの本のわかりやすさは一体何なんだと
思ってしまうぐらい
すごい仕事ですね
俺はちなみにねやっぱ1回目はね挫折してますよ
あーそうなの
やっぱねそのわかりやすかったとは言え
そのレベルとして
レベルとしてだいぶ届かない
あーやっぱちょっとだから
高度といえば高度か
うんだいぶ高度だと思うな
そうかまあでも例えばあくまで
比較やけど
例えばうーん
ウィートゲインシュタインの学術研究書を
読むよりは簡単じゃないですか
フフフ
それぐらいの位置づけですよ
心象的平易さと
学術的難しさの間
ちょっと心象よりぐらいの感じかな
あとはね
多分この本で確か
痛感した話だと思うんだけど
えーと
1回読んでからもう1回メモでも
取ったらいいかなって思ってたんだけど
この本とかは
メモを取りながらじゃないと読めない
タイプの本だった当時
自分の実力で言うと
でそのやっぱ
小さなレベルでわからないを
ちゃんと潰さないと
いつの間にか
何がわからないかわからなくなる
いろんな話題も出てくるし
話の流れはあるけど
流れが見えなくなるんですよ
それはわかるわ
っていうので
このクリプキーさんが
言ってるのはわかったけど
これなんやっけっていう風になりがち
なるほどね
確かにそういう複雑さは確かにあるかもしれないけど
でもさっき
メモを取るとかゆっくり読めば
わからない文章ではないわけで
その辺時間かけて読む
例えば今年この本読むって目標立てて
読むのは多分いい感じの本やと思いますね
そうですね
イメージかつての自分が読んでいた
3倍の時間を使っても
まだ足りんのじゃないかなぐらいかな
その4,5年前の
自分に言うならば
それぐらいの本なんで
個人的にある程度
本を読み慣れた人であれば
おそらく読めると思うんで
この本は思想とか
考え方とか思考法とかに興味がある方は
多分だいぶ
示唆を受ける本じゃないかなと思うんで
今年
まあ発売されてだいぶ経ってますけど
今年一発目のおすすめ本ということを紹介させていただきました
はい
あのねちょうど昨日本屋さんに行ったんですけど
哲学人文コーナーに
行くと
定性可能性の哲学と
観光客の哲学とかは
今でもそのメンチンというか
表紙が乗っかって
並べられているぐらい
定番になっているなって感じでした
まあそういう力のある本屋だと思います
はいということで
今回のご意見ご感想など
お便りフォームやツイッター
ブルースカイなどで
ハッシュタグブックカタリストをつけてお送りください
感想やお便りが
一番の励みになっており
二番目はサポーターに入ってもらえることが
励みになっておりますので
よかったら
そのサポーターなどもご検討いただければ
今年買ってよかった
モノクラスの
満足感がやられると思いますので
ご検討いただければ
幸いです
それでは今回もお聞きいただきありがとうございました
ありがとうございます
59:14

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