そうですね。毎回ではないんだけど、前提となる文脈とかを省略して話していて、だから自由に話せるはあるんだけど、そういうのもあったりします。
タカピさんが改めて聞くと、その時は手に取ろうと思いつつ、後回しのまま忘却していた本があるな、今後は何かしらメモをつけておかないとって、振り返りについてコメントをしてもらいまして。
大事ですね。何かしらのメモ。よく言ってるのが、読んだ本の名前だけでいいから書いておくといいぞっていう。
そうですよね。だから逆に書いたいと思っている本とか、読みたいと思っている本もメモしておいた。
そっちは溢れる問題があるのでどうするかって、ちょっとレベルが高いんですよ。
あとですね、MOさんがBC105ブックカタリストで、私も同じポートキャスト番組を何度も聞きます。
ブックカタリストは基本、まずアーリーアクセスで聞き、その後本配信で聞きます。その後ブックカタリストで紹介された本を読んだらその回も聞きます。
同じ番組を聞いても毎回気になることが異なるところが面白いです。
いやーすごいですね。3回ぐらい平均2.何回聞かれている。
ブックカタリストって本編だけでも1時間ぐらいあるわけで、結構大変だろうなと思うんですけどね。
うん。ありがたいことですね。
そして、俺も1、2、1回喋って1回聞いて1回聞いて最低3回ぐらいはあるかな。
へー。
まあ編集しながらもう1回聞いてるがあるので。
うんうん。なるほど。
まあ自然と、ただ頭に入る、自分の場合は自分が喋ったことを聞くので、やっぱ頭に何て言うんだろう、が整理される効果はすごく高いなと思いますね。
なるほど。
まとまってないことをどっかで話してるかもしれないけど、それを何回も聞いてもう1回話すとだいぶまとまるとかは効果としてでかいですね。
ブラッシュアップされていくわけですね。
うん。そこはポッドキャストをやるメリットじゃないかなと。
はい。あとですね、じんさん。
ブックカタリスト105を拝聴。
技能習得に関してゴリゴさんの他人と比べないちょっと前の自分と比べるが割と資源でした。
年間を通じて本の紹介もさることながら、自分に対するライフハック的な面でも活かせる内容でトーク自体が面白かったです。
はい。
ありがとうございますですね、これも。
105というと、配信の振り返り後半戦の話でトレーニングとかの文脈で出てきた話でしたね、確か。
そうですね、これはすごいありがたい話で、ついでにっていうと言い方があれだけど、これを見て、そういえばこれはちゃんと記事として書いておいたらいいなと思って、
そのナレッジスタックの中にそのことを、この話を膨らませて、2、3000字ぐらいの文章とかにもしました。
なるほど、でもこれは本当に練習の哲学の一つ基本的なコンセプト、プリンシパルに入る気がしますね、このテーゼは。
うん、ですね。その前提として記録が必要だっていう、そこはもちろんあるんですけど、そのためにその価値というのはそこなんだっていう、その記録の価値という話でもあったりするのかな。
確かに。
あとですね、ブルースカイでフックさんが、年末のブック語り人を聞いて、なんとなく自分も絵画が見たくなって、モネ店に行ってきた。
絵との距離感が大事だなとか思いながら、いろいろとメーターなしを押してた。そして平日でも込みすぎ。
まあ人気ないね、やっぱりモネ店というか。
まあ多分、あとあれでしょうね、おそらく東京エリアなので。
うんうんうん、人が多いね。
あとモネの絵とか、やっぱりわかりやすい良さがありますよね、多分。
まあ確かに。
言ったらなんだけど、ピカソの絵を見ても一見してわかりやすいとは言い難いし。
確かに。
ゴッホとかモネとかは、なんかこう日本人が好きそうな印象があるかも。
そうですね、これ絵との距離感が大事だなというのは、たぶん近くで見るときと遠くで見るときの印象が違うみたいなことなのかな。
とかどのぐらいの距離感で絵と向き合うかとか、いろんな視点が考えられそうですけどね。
確かに。
その見る人として、描く人として、その付き合い方との距離感というか。
まあ絵画店とかね、俺は人生の選択に全くなかった存在なんですけど、注目してみると結構そこら中でやっていて。
うん、そうだね。
うん、まあそんなに高いわけでもない。
まあ2,000円、3,000円ぐらいが、3,000円はそんなにせんかな。
まあで、その機会があったら、特にやっぱ都会に住んでると有利なことは多いし、都会じゃなくても地元でもその大きくないところだと本当、なんなら無料で。
無料はあんまりないかな、5,600円とかで入れるような、そういう美術館とかも結構あったりして。
はい。
なんか旅の選択肢、前も言ってましたね、としても結構最近は良いものじゃないかなと思っております。
ということで。
はい。
106回ですね、今回は。
はい、106回ですね。
今回は、定性可能性の哲学。
と、自己啓発というのが一応タイトルで、取り上げる本は定性可能性の哲学を倉下が紹介させることで、本編に入りたいのですが。
読み終えたのはずいぶん前のことなんですよね。
たぶん発売日に勝って、発売日が2023年の9月なんで、2023年内には読み終えてて、この本はぜひ紹介しようと。
僕が最初に紹介しようと思ったんですけど。
1年以上経ちましたね。
ところじゃない。
本の扱っている領域が大きいっていうのと、自分がこの内容を消化しきれてない部分もあって。
次にしよう、まあ次にしようという感じで。
ずっと先送りしてきたんですけど、さすがにもうそろそろあれかなという点と。
ある程度、実はこの本じゃないですけど、この本で紹介された哲学者の本とかをいくつか読んで、
ちょこっとなんかそろそろ自分でも語れるかなということで、今回東さんの本を取り上げようと思った次第でございます。
年明けその1個目という気分の良さっていうか、そういう新規一点みたいなのもあるし、
神がかっているんですけど、きょうね、Kindleの日替わりセールが動物化するポストモーダンでした。
ああ、そうなんや。さすがに。
偶然力が高い。
確かに。
でも一応、さっきも言ったように本全体が大きい話題を提供してるんで、本全体を語るわけではなく、前半部分だけを語って、
さらにその話を受けて、ちょっと自分なりの考えを最後に提示するという構成でいきたいなと思っております。
3冊目ですね、あずまさんの本でいうと。
そうなんですよね。
結構トップですね。
一番最初に取り上げたのがBC004回で言論選挙ということで、
これは普通に新章で、ビジネスものとして普通に楽しめる本で、紹介しやすかったんですね。
ギュッと飛んでBC080、これも多分新年一発目の回ですけど。
毎年あれなんですね。
新年はあずまさんが始めるみたいな感じですけど。
観光客の哲学と哲学の門前という、哲学をキーワードを2つにして、しかも語っている内容に近しいところを感じたので、
それをキーワードにして、読書についてという話題を考えました。
3冊目のこの、訂正可能性の哲学という本なんですが、先ほどの2023年に発売されている本で、
そのちょっと後に、訂正する力という新章。
そっちは分かりやすいやつですね、だいぶ。
こっちは力というのは、観念的には近いものを扱っていますけど、
もっと一般向け、あるいは時事ネタに関して、訂正可能性というものがどう役立つのかというところが語られている一般向けの本なので、
言論前期からのルートであれば、訂正する力がいいでしょうし、
あずまさんの哲学書を好きな方は、すぐに訂正可能性の哲学を読まれると思うんですが、
その前に、一応全著と言ってもいいとは思うんですけども、観光客の哲学と続編というほど強いつながりではないですけど、
論考としては、観光客の哲学があり、訂正可能性の哲学があるという順番なので、
もし可能であれば、観光客の哲学から読まれるといいかなというのが僕のガイドでございます。
興味あったら、前のやつも読んでみてね。先にそっちを読んでおくといいよ。
ほかという感じはしますね。どっちも別に単独で読みますが、両方読んでおいたほうが話としては受け入れやすいかなと。
本書、訂正可能性の哲学なんですけど、ものすごくざっくり言うと、家族という言葉、何でしょう、概念というのを、
それまでの哲学とか思想で扱われてきた家族という概念を脱格式しようという試みと、おそらく言えると思います。
それは結局、家族という一つの共同体ですけど、共同体について語る言葉、概念というのを変えていく。
それは本書が扱っている用語をそのまま使えば、共同体についての新しい言語ゲームを始めようじゃないかという提案として多分受けます。
これが超ざっくりの本書の説明ですね。
第1部がって感じですかね、イメージでいうと。
前半部分のまとめがそうで、基本的には共同体ということ、あるいはその共同体を存続するために何が必要かという観念を全体としてあるとは思いますね。
全体が2部構成、大きく2部構成になっていて、1章から9章までありまして、ここで超高速に各章を見ていきます。
第1部が家族と訂正可能性という部になってまして、その第1章、家族的なものとその敵というタイトルで、この辺は本を読み慣れた人ならピンとくると思うんですけど、
ポパーが主に取り上げられていますね。
ポパーの滑らかな社会とその敵というのが一つの話のきっかけとして取り上げられて、そこから話が展開。
第2章、訂正可能性の共同体ということで、家族という言葉が最初に紹介されますが、家族というと、これも哲学オタク、哲学好きの人だったら、
ウィト・ゲインシュタインの家族的類似性という言葉があるんですけど、それとウィト・ゲインシュタインの思想を受けた、クリプキーという方がおられるんですけど、
その思想を紹介しつつ、家族、あるいは家族という言葉みたいなものの扱い方関連というものを検討していくというのが第2章。
第3章が家族と観光客ということで、ここがポイントなんですけども、全庁にあたる観光客の哲学は、
観光客の哲学というタイトルですけど、こっちも2部構成になっていて、第1部が観光客の哲学、第2部が家族の哲学で、
家族と観光客って全然違うものが2つ並べられていて、あつまさん曰く論理的なつながり、この2つの概念の論理的なつながりっていうのは、
はっきりと確立できなかったと。で、本章のこの議論においてその2つが接続できるようということが確認される。ちょっと短めの章が第3。
第4章、持続する公共性ということで、超話題のアレントの中にある彼女が語っている公共性という概念が再検討されて、そこがさっきここまでの続いてきた家族というものと、
あと訂正可能性っていうものが、その公共性にどう機能するのかっていうのが確認されて、第1部が閉められると。
第2部が一般意志最高ということで、ここは結構難しい反面、多分僕とかゴルゴさんが非常に興味を持つ章というか部ではないかと思うんですけども、
第5章が人工知能民主義の誕生ということで、ビッグデータですね。ビッグデータというものが扱われて、ごくごく素直にルソーの一般意志というのを解釈してしまうと、
ビッグデータありきの。
あれば上手く、社会は上手くいくみたいなやつですよね。
ビッグティーブっていう、いわゆる現在のテクノロジストがよく夢見がちなものがあるけども、それは実は訂正可能性ということを考えたときにちょっと危うさがあるんではないかというところ。
第6章、一般意志という謎ということで、ルソーの一般意志という言葉が、ルソーの単独の本だけではなくて、彼が書いた小説的なものと合わせることで読みを深めていくと。
第7章がビッグデータと私の問題、私のかぎ箱付きの私の問題ですけど、ビッグデータはいわゆる統計的データで、そこで固有名詞が消えていく、私の固有性が消えていくと。
その環境では主体化が起こらないと。それは民主主義に問題である、起こるんではないかというところで、この7章あたりが現代的な問題と非常に重要な問題提起がされているんじゃないかなと思いまして。
第8章が自然と訂正可能性ということで、この先言ったシン・エロイーズという、ルソーが書いた小説なんですけど、ルソーって芸術を否定していたはずなのに小説を書くということで、これどうなってんねってそのねじれを読み解いていく。
最後第9章、対話、決着、民主主義ということで、本章の話を引き継いでこういうビジョンがいいんではないかみたいなことが最後示されるというところで。話題として面白いので、基本的に第5章は現代的に非常に重要な問題提起があるとは思うんですが、今回は前半部分、第1部の1から4までの話をもう少し詳しく見ていこうかと思います。
改めて見てみたんですけど、知っておいた方がいいことがめちゃめちゃ多いですね。
めちゃめちゃ多いですね。しかもこの本って結構いろんな哲学的トピックを引っ張ってきて、著者なりにまとめしているので、全然この辺詳しくないよという方でも、一応ゆっくり読んでいけば読める内容になっているので、やっぱりそういうふうに広く読まれることを想定して書かれているような気がしますね。
同時に自分が思い出したのが、めっちゃ読むのに苦労したんですけど、結構元ネタに興味が持てるようにちゃんと書かれていて、実際に元ネタに興味を持って、結果的にやっぱり広がるきっかけになった本だったなっていう。
哲学を動機づける本としては非常に素晴らしい。たぶん個々の内容について、ある研究者から見たらこれが不正確だみたいなことがあるのかもしれないけれども、やっぱりそこまで人の関心を掻き立てて哲学的探究に呼び込む著作として力はちゃんとある本だなと思いますね。
カール・ポパーとかもいろんなところでよく出てくるし、クリプキーとかもよく出てくるしっていうのはそうなんだけど、それ以上に分かった気になって読みたくなるっていうね、上手なんだなと思いますね。難しいけれども。
そういうことをやっぱり目指されてるんだろうな、シラスっていうプラットフォームとか、でもやっぱり一般市民、学術探究じゃなくて一般市民で考えるという行為を欲してる人に向けて、それをアジテーションするようなことを活動全体で行われてるような気がする。
あとあれですね、一般医師で思ったのが、一般医師に関してはコテンラジオで結構詳しく紹介してる回があったんですよ。それは自分レベルの知識で言うとめっちゃ参考になった。
へー、なるほど。
まず話題の発端として、家族っていうものの扱いがコロナ禍で変転したという話がありました。それまでの哲学的あるいは思想的なものにおいて、家族っていうものはあんまりよく思われていなかった。むしろそれは個人というものを抑制するものとして扱われていた。
家が大切ですよって話になった。その閉鎖的なもの、開放的なものから閉鎖的なものへのシフトっていうその捉え方は、そもそもその前提は本当に正しいんだろうかということから考えていこうということで。
実際プラトンの国家という本では、国の指導者となるような人間というのは家族を持たないと。公共的で理想的な人間というのは国のために生きて家族っていうプライベートなものに囚われないものが好ましいと提案されている。
家族関係すらダメだみたいに何か言ってましたよね。
家族そもそも持たないと。例えば子供っていうのは国が全体として子供たち育てていく。その当人は子供を作ってもいいけどそれは家族という関係にはならないことが望ましいということが言われている。プラトンというのは西洋哲学のそのそのみたいな感じですから、そこからも脈々とその考え方が受け継がれていると。
よく出てきたルソーも、基本的にルソーというのは人間は自然状態では家族とか配偶者を持たないものだということを言ってまして家族性を否定。
話を飛ぶとマルクス主義っていうものあるいはエンゲルスっていうのが集団住宅っていう形でみんなで集合的に住めばよくて家族で家を持つなんていうのはもう贅沢であり不存であるみたいな感じで理想的な国家が語られると。
で結局現代でもさっきも言ったように家族と公共性というのは大体対峙されてるんですね。家族っていうのはその哲学っていうのは真理を探求するもので、真理を探求するにおいて私っていうエゴっていうのは邪魔だと。
で家族っていうのはその私のエゴを閉鎖的に守る環境なわけで私のエゴ性っていうのを否定する哲学は当然のように家族っていうのも否定してしまう。
もっと開かれた公共的なものが良いのだよというかもうベースにあるこの個々の思想は違っててもベースにそういうものがあると。
でそういうふうに扱われてきたけどまあ著者としては家族がその閉鎖的で排他的な人間関係という捉え方は確かにそういう側面もあるけども果たしてそれだけなのだろうかそんな単純な割り切り方でまあいいんだろうかということで
じゃあ一回ちょっと家族っていうのを本格的に考え直してみようと話題提起されるのがまず第一章のスタート地点です。
で引き合いに出されるのがそのタイトルにモチーフとなっているポパン、カール・ポパンなんですけど開かれた社会とその敵ということでこの本多分読んだことはないと思うんですよ。
読んでない。
僕も家にイワナミの本があるんですけど全部読み切れないんですけど大きく2部だてになってて一部ではプラトン間違ってるっていう話で2部がマルクス間違ってるっていう話らしいですね。
ではそのポパーが言わせればその国家っていうもの理想的なさっき言った国家っていうのは確かにそこでこの国家に対して自分の家族っていうものを持たない国家に奉仕する人がいいと言いつつ
結局それは国家こそが重要でありその国家以外のことは重要じゃないといわれる全体主義と呼ばれるものにアクセスしているのではないかという否定が行われる。
で細かい議論があってそのポパーの見方もさすがにちょっとうがってるんじゃないかなとは言いつつ著者はでもそこにポパーのそのそう言ってしまった、そう批判してしまったとこに何かカギがある。
でつまり開放を目指していたものが閉鎖的になってしまう。開放と閉鎖っていうのは実は二重性があるんじゃないかというのがまず提案されてで次にエマニエル・トットっていうこれは思想家ですかね。
今でも日本で結構使われている著者が結構出てはる人ですけどもが彼の家族と社会体制の関係っていう論語があってここがねすごく僕は面白かったんですけども
例えば資本主義とか共産主義とかいろんな主義がいくつかの主義がこの社会世界には広がっていたわけですけどそれが受容された地域の見てみると家族の形態に違いがあったのではないかという話がありまして
例えばその核家族とか直系家族とか共同体家族ってあるので詳しく説明すると長いのでやめますけれどもそのような家族の形態があるとでその家族の形態と受容された思想につながりがある関係があるっていうことが確認された上で著者はつまりこういうことではないかと僕たちはいろんなことを考えるけども結局もともと自分がそこに育った家族っていうものの形からしか新しい共同体は思想できないのではないかといったふうに言われています。
というところが確認されまして僕ここ非常に面白かったんですよね。
ゴルゴさんここどうでしたか。
あのなんて言うんだろうな。読んでる当時はそのレベルで分かってなかったなって今思いました。
なるほど。
あの純粋にあのポッパーが言ってた分布と重なってるっていうのがうわマジかって思って、あのその後エマニュエル・トッドの本とかは読んだような気がする。
はいはいはいなるほど。結局その僕の観点で言うと自分の共同体を共同体はこういうものだっていうその考え方のモデルっていうものが自分が育ってきたあるいはその自分の身近にあった家族って一番小さい身近なモデルから僕たちは少なくとも脱出できないあるいはもう自然にそう考えてしまうんではないかというところが第一章で批判されて
結局家族の外に出ようとしてもそこには結局家族がいるっていう家族の外に出られないというところが第一章で確認。
まあ今だと自分が思うのがやっぱその国家って例えば日本だと1億人いるわけで想像すらできないんですよね。
確かに。
でやっぱ結局自分が想像できる集団が家族以上の規模にはなり得ないんだろうなっていう。
まあでもそれは確かにそれはよくよく例えば考えてみるとごく自然なことで例えば各家族ごく小さい規模の家族そのでかい大家族から独立して小さく
親僕から子供から見たらおじいちゃんとかおばあちゃんと世帯と別のとこに住むっていうその家族形態と個人主義っていうのが合致するっていう話がありまして
これ僕はその説得的になっあの説得されてませんけど実感的にはそうだなとは感じるんですよこれやっぱり
それでも僕はそのそれ以外の家族を知らないからわからないもっと大きいとこで育ったときに
ただもっと違う社会の方が自然だと感じることも普通にあると思うんですよね
だから思想ってそんなに独立してないというか僕らっちの生態環境から出発するしそこに強く縛られるっていう制約を持ってるという風に捉えるのはまあ面白いなと思う
そうですよね結局集団って自分でも体験してきたもので言うと家族と学校ぐらいしか事実上存在してなくて
どういう形の共同体のときどんな感じを受けるのかとか何が正しいのかっていう判断すらそこに影響を受けるんだろうなと思いますね
なんかね自分の場合正しいどころかなんかそれしか当たり前にならないぐらいの強さなんじゃないかなっていう
そういうことも改めそのトットの議論を引きながら確認される家族っていうもののあり方がその人の共同体についての思想に強い影響を与えてしまう
続く第二章訂正可能性の共同体というところではじゃあその家族っていう言葉についてもっと詳しく考えてみようということで
ウィトー・ゲンシュタインの家族的類似性という言葉が紹介されるんですけども
これウィトー・ゲンシュタインはドイツ語で多分書いてるんですけど彼が言う家族って日本の家族より少し広いんですよね
一族っていうようなニファンスもあるらしいさ元々の言葉っていうのは
一族って捉えた方がもうちょっとイメージしやすくて例えば
観光総裁で親戚一同が集まったらそこにいる個人は何となく似てる人たちが共通性があると全員に統一する
この家族はこういう特徴を持ってるっていうのはない家族って言いまして一族ですが
一族こういう特徴を持ってるのはないけどAさんとBさんはこの辺が似てるCさんとDさんはこの辺が似てるっていう
その細かい繋がりがあるだけっていうその関係性が家族的類性で
これはウィトー・ゲンシュタインが言語ゲームっていう言葉を説明するときに使った言葉なんですけど
これまた言語ゲームを説明するのが長いのでちょっとやめますが
ウィトー・ゲンシュタインの考えを発展させてクリプキーっていう方がおられまして
ウィトー・ゲンシュタインのパラドックスという本がございます
この本でウィトー・ゲンシュタインは議論を引きながらその言語ゲームについて今より詳しく検討されていくと
ウィトー・ゲンシュタインは非常に精緻に自分の議論を組み立てる人で
自分の考えについてものすごい自分で反論をしていってそれにまた反論していくということで
非常に神経質に議論を進める方なんですけど
僕たちは言語ゲームをしているとある種のゲームと
言語という真理があるんじゃなくて言語というゲームをその時その時にしていると
言語ゲームというのは色々あるけどもそこにあるポイントは
僕たちはそのゲームのルールを把握しているわけではないということがありまして
これはもう非常に実感的に言うと僕たちは文法を知らないんですよね
少なくとも
説明うまくできないんですよね
できないそれ分かっているとは言えない説明できないってことは分かっているとは言えないんですけども
僕たちはそのゲームをしていると
どんなルールとかどんな目的であるかも分かってないけど僕たちはそのゲームを
ここで面白いです
例えばある人が突然来てお前はAっていうつもりで言ったけども
それはやっぱりBのつもりだったんじゃないかって言われたとしても
うまく反論できそうな気がしますけどそれはできないんだと
効果的に反論できないんだと
言語ゲームは常に批判されるゲームをひっくり返される可能性があるというところを受けて
さらにクリプキーはそれは言語だけのやり取りじゃなくて
例えば数学的計算数式の計算においてすらも同じような
イチャモンをつけることができてしまうと
つまり人間的なコミュニケーション文字のやり取りとか情報のやり取り全般におとって
言語ゲーム性があるということがクリプキーによって確認されたと
でそのいやそれはお前がやってることはこうじゃないんだ
AのつもりだけどBだっていう定性というキーワードが出てくるんですね
ここで初めて本書の通定する定性という
言語ゲームは常に他者によって定性される可能性を持っている
言語ゲームというかいわゆるコミュニケーション全般はそれを持っている
そこで出てくるのが一般名と固有名という話なんですね
これも説明するとすごく長いわけですけど
三角形っていう人工の言葉がありまして三角形は定義できますね
断片に囲まれたほにゃらららみたいな言い方ができる
三角形という名前と三角形の定義は非常に密に対応していて
定義が変わってしまえば名前が三角形そのものが変わってしまう
例えば線が4本になったら四角形これが一般名なんですけど
同じ名前の固有名本書ではソクラテスが例に挙げられていますけど
ソクラテスっていうのは古代技術者に来た哲学者で男性で
プラトンを弟子に持ったみたいないろんな性質があると
このいろんな性質の列挙がソクラテスを示しているんですが
これがさっきの三角形の定義とは関係が違うということが確認されて
ほとんどありえないですけどある文献を読んだら
ソクラテスは実は女であったという事実が明らかになったとしましょう
その時にさっき三角形が四角形に置き換わったのとは違って
ソクラテスはソクラテスのままなんですね
ソクラテスという呼び方は変わらない
これ僕ら言語で使っているとすごく当たり前のことなんですけど
確かにその一般名と固有名で扱い方が違うんですよね
固有名はそのように新しい事実が分かった時に
名前は変わらずに中身定義内容そのものが訂正される
新しく再認識されるという関係を持つ
こういう固有名は常に訂正される可能性を持っていると
だから結局固有名の扱いというのは非常に無限の可能性があると言うと大げさですけど
カッチリ決まっていないと
そんなカッチリ決まっていないものの中で
そういうものの中で僕たちはでも当たり前のように言語を使っているわけですね
この非常に混乱するはずのものが
でも実は僕たちは何も困らずに使えてしまっているというのが
ウィトゲン主体のパラドックスという言葉の意味なんですけど