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2023-11-21 19:22

読書ラジオ『私とは何か 個人から分人へ』平野啓一郎

いつも聴いていただきありがとうございます。

表の顔、裏の顔、本当の私はどれ??
じゃなくて、どれも私。と思うほうが健全な気がします
誰にも見せない顔、まだ誰も知らない私。きっといるんでしょうね🤔
そういえばケイコちゃんがカラオケセトリ会でそんなこと言ってましたねw
『誰も見たことのない顔、誰かに見せるかもしれない』Sweet 19 Bluesより

⭐︎本紹介
私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書) https://amzn.asia/d/80txit8
(配信の冒頭部分は本の説明文・あらすじを読み上げています。)

⭐︎自己紹介
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#読書 #読書感想 #読書ラジオ
#分人
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こんばんは、ゆうこです。このチャンネルでは、私の読書ログや、日々の学びや、音声配信しています。
今日は平野啓一郎さんの『私とは何か 個人から分人へ』という本について話してみようと思います。
嫌いな自分を肯定するには、自分らしさはどう生まれるのか、他者との距離をいかに取るか、
恋愛、職場、家族、人間関係に悩むすべての人へ、小説と格闘する中で生まれた、目から鱗の人間感。
ということで、小説家の平野啓一郎さんですね、マチネの終わりにとか、
ある男が有名かなと思いますけれども、たくさんの小説を書かれている方の
私とは何か、分人主義というものについて書かれた新書になります。
これはですね、平野さんが小説を書く中で生まれた疑問だとか、自分のその生き様というかですね、人生経験の中において
持っていた疑問と向き合うことで生まれた全く新しい人間感ということです。
まずこの分人というものの定義からこの本を始まります。
まず、個人から分人へということで、まず個人とは何かということで言うと、個人っていうのはこれ以上分けることのできない
人に関する一番小さな単位ですよね。
これがほとんどの人で言うと、私という人一人のことを指すわけです。
英語で言うとインディビジュアル。
インとディビジュアルで構成されたインディビジュアルという、個人という言葉は
ディバイド、分けるという動詞に由来するディビジュアルに否定のインがついた言葉なので、インディビジュアルっていうのはこれ以上分けきれないっていう意味。
それが日本語で言うと個人ですよということなのでも、これ以上分けきることのできない人の単位、それが個人なんですけれども、
平野さんが言う文人っていうのは、この個人に対して本当にそうなのかっていうことですね。
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私は私なんだけど、私が持ってる顔って一つじゃない。
人間はほとんどの人がこう一面だけでどんなところにも登場しているわけじゃなくて、家族といる時の私とか、パートナーといる時の私とか、会社でいる時の私とか、いろんな私がいるわけです。
でもそれって、さっきの単位で言うと、私という個人ではあるんだけど、いろんな私はちょっとずつ違う。
そういうものをどう表現するかっていうことに出てきたのが文人。さっき個人は英語でインディビジュアルって言ったんですけれども、文人っていうのはそのインを取ってディビジュアル。
人間を分けられる存在とみなすっていうのが、文人主義の考え方になります。
最初はこういう論理から入ってしまうと、ああって思っちゃうんですけど、自分のことに置き換えて考えてみると、どんな人にもぴったり当てはまるフレームなんじゃないかなと思いますね。
さっき話してみましたけれども、ほとんどの人が完全に統一された確立された私の顔で、どんな場所にも出て行っているわけではないと思うんですよね。
家族の時だけに見せる、ちょっと甘えたりとか、お母さんにも辛辣なことを言ってしまう自分とか、いい歳してるんだけど親の前に行くといつも子供に戻ってしまう自分みたいなのがあったり、
友達の前ではすごいくだらないことばっかり言っちゃう自分、だけど会社に行くとなんか部長の椅子に座ってちょっと偉そうにしてる自分とか、そんな偉そうにしているおじさん部長でも家に帰って奥さんの前に行くと頭が上がらないとか、
その奥さんは旦那さんの前では完璧な主婦で言おうとしているけれども、実は隠れて不倫をしているとか、みんなその場所その場所で最適な顔というかね、自分の一番その場所で行きやすい一面を使って生きているんじゃないかなと思うんですよね。
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で、それ自体悪いことじゃない。逆に言うと、なんかいろんな顔を使い分けている私ってとか、この人発泡美人だよなとか、その場所その場所でいい顔する人だから信用できないなとか、こうだと思ってた人が実は違う一面を持っていたことに気づいてしまうと、なんか裏切られたような気がする。
要するに人、つまり個人っていうのは統一された誰に対しても同じ一面、一つの顔を持っていた方がなんか信頼できるし、その方がなんとなくいいような気がするとみんなが思っている反面で、そうじゃない自分だとか他人を知っているから、罪悪感とか嫌悪感をどうしても抱きやすいんですよね。
で、そこのギャップが、なんで私この人の前だとこんなになっちゃうんだろうとか、なんかこの人のこういう裏の顔嫌だわーみたいな、そういう人間関係の悩みにつながっていってしまう可能性もある。
なので、この広野圭一郎さんの文人主義っていうフレームワークを通して、自分とか周りの人の顔ですよね、個性っていうものなのかもしれないですし、そういうものを見ていくと、今まで結構感情的に嫌だとか思ってたものが、あ、そういうことなんだって整理ができる。
本なのかなと思います。私の経験で言うと、私は昔の友人、知人に会うのがすごく嫌なんですね。で、なんでなんだろうなーとずっと思ってたんですけど、その人たちが嫌なわけじゃなくて、その人と対峙していたあの時の自分が嫌なんですよね。
私は結構中学校、高校の時とかは割と尖がっていて、結構自分が正しいとずっと思ってたんですよね。で、なんでみんな私が正しいのに、なんか違うこと言ってんなーみたいな、そういうことが受けられない、られない自分だったと、今思うとそう思うんですけど、振り返るとそう思うんですけど、
自分が正しいのかどうか気づいてないわけですね。で、当然こううまくいかなくなったりとかして、いや、こんな田舎に住んでるから、なんかみんな頭が硬いんだとか思っちゃって、で、あの、就職したら除去したいなとかずっと思ってたんですけど、そこにいた時の自分が好きだったかというとそうじゃないんですよね。
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私は周りの人とか、住んでいる土地のせいにしてたんだけど、よくよく振り返ってみると、あの時のあそこにいる自分がすごい居心地悪さを感じていたし、そういう自分が好きじゃなかったなって思う。
だから昔の友人知事に会うと、その時の自分の顔を思い出してしまったり、その時の私で接してこられたりとかする、それが嫌なんだなって思ったんですよ。
そこまでわかると、え、じゃあじゃあ今の私でいいんじゃんって思えるんですよね。みんなが覚えてるかどうかわかんないけど、今の私だったらこういう風に接することができるかもしれないって思えるから、同窓会とか昔の友人に会ったり、地元に帰ることもそんなに嫌じゃなくなったりしたんですよ。
そういうようなことを文人主義っていうフレームワークで当てはめて考えてみると、すっと理解できたんですよね。こういうことなのかと読みながら理解できた本でした。
あとは、今の人間関係においても、心地良い環境とか心地良くない環境ってすごいあると思うんですよね。
例えば私だと、キャリアコンサルタントとかコーチングとか、会社から派遣してもらう社外セミナーみたいなところに行くと、それぞれでコミュニティができたりするんですけれど、
なんかここのコミュニティはちょっと、毎回なんかおっくーだなーとか、ここは毎回楽しいなーってすごいコントラストがはっきり出るんですよ。
それは何かなーって言うと、なんかこう説明が難しい。言いようのないちょっと嫌な感じ。でもそれって、そこにいる私が、そこに参加している私が、なんかこう受け入れられないってことなんだなーと思ったんですよ。自分自身として。
なんかうまく立ち回ろうとしすぎているとか、まとめ役になってしまっているとか、そういうことを持っている自分がいるみたいな。
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結局、人かどうかの影響を受けて自分がどういう自分でいるか、その場の私が、自分として受け入れられるものなのかどうかで、そのコミュニティにいたいかどうかが決まっているんじゃないかなと思いました。
そういう点でいくと、じゃあこのスタンドFMの、私のこの配信はどうなんだろうと。この前の配信でスタンドFMをやると決めた時に、あまり強い意見は言わずにおこうと。
それでも滲み出てしまう部分があったら、それがきっと私の個性なんだろうなと思うみたいな。そんなルールを課してスタンドFMを始めたんですよっていう話をしたんですけど、たぶん私はここのスタンドFMで配信している自分が割と気に入っているんだと思うんですよね。
だから続けてこられたのかなと思います。
あとは読書をしている時の自分。好奇心を満たすことができるし、この本に向き合っている時間とか、その時の自分の頭の中だったり状態そのものが私にとって結構好きなんですよね。
だから続けられているんだなと。読書をしている自分だったり、スタンドFMをしている自分、あとはスタンドFMの自分の配信を後で聞いてみて、耳から聞こえてくる自分の声、自分の話し方、考え方みたいなのは割とOK出せているんですよね。
そういうものは続いていくものなんだろうなと。
逆に会社関係で参加しているコミュニティの中で、このコミュニティにいる自分はあんまり好きじゃないなっていうのはやっぱり続かないわけです。
ここまでわかってくると、じゃあ好きな自分のエッセンスをあんまり好きじゃない、うまくいってないなと思っている会社のコミュニティの自分ですよね。
もう一人の私というか、文人の私にちょっとこのうまくいっている文人のエッセンスを分けてみる。
例えばあんまり自分の強い意見は言わないでおく、でも滲み出てしまうものが自分だと割り切って参加してみると、もしかしたらうまくいくかもしれない。
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そのコミュニティごとの文人Aとか文人Bみたいなものがあって、その文人AとBでも影響し合っていくとうまくいかないところでも少し変化があるかもしれない。
そうやってきっと最初の話に戻ると、個人という私の人格とかアイデンティティとか、私というものがどんどんいろんな文人の私のエッセンスが混じり合って融合し合って、
元々の私というものがどんどん塗り替えられていくというか、形が変わっていって、それでも統合されていくみたいな、そういうことなんだろうなぁと思いました。
ちょっと今日はかなり勢いよく喋っておりますが、それぐらいこの本はすごくわかりやすくて、今の自分だったり過去からの自分のいろんな経験をこのフレームで整理することができるなというふうに思いました。
だから結構興奮して喋っているのかもしれない。
あとはですね、平野圭一郎さんの小説。この小説を書いている中でこの問いが生まれたから、こう考えてみたいなプロセスが書いてあってですね、それをなぞっていくだけでもめちゃくちゃ楽しいんじゃないかと思いましたね。
だからちょっとここに書いてある平野圭一郎さんの本は、読んでみたいなと思っていて、インスタの方でこの私とは何か読みますよっていう投稿をした時に、反応いただいたフォロワーさんからは、空白を満たしなさいっていう本がめちゃくちゃ面白かったですよっていうふうに紹介を受けて、
それを読んでみようかなと思っています。
これがきっと私の核となる原動力というか、アイデンティティのようなもので、これはどの文人の私にもいるものだと思うんですけど、自分の好奇心を満たしたい。
次から次に湧いてくる。それが私の核であるんだろうなと思うんですよね。
それを満たすためにいろんな場所に出て行ったり、いろんな経験をして、それごとに私の文人というものができていくわけですね。
私というものが一つの円グラフだとすると、経験するものごと、場所ごとに文人の私が何パーセントずつができていて、時にはそれが統合されたり、また新しいものができたりとかして、
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そうやって常に私という個人の円グラフのグラデーションというか色彩が変わっていったりするんだろうな、そんな風に思いました。
これはですね、新書が苦手っていう方結構いらっしゃると思うんですね。小説が、小説は好きなんだけど、こういう新書系は読みませんみたいな人いると思うんですけど、
ちょっとね自分に対する考え方のアップデートというか、レビューができるような本かなと思うので、ぜひ読んでみてほしいなと思います。
ということで今日はちょっと興奮気味でございましたが、平野圭一郎さんの私とは何か個人から文人へという本について話してみました。
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今日も最後まで聞いていただいてありがとうございました。ではでは。
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