2024-07-24 28:23

#10 【ゲスト:宮永雄太HC】B1初年度の最多勝記録を残したトップチーム、ヘッドコーチはどんな人?(前編)

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今回は初のゲスト回!佐賀バルーナーズヘッドコーチの宮永雄太さんにお越し頂き、チーム視点からのプロスポーツ運営についてお話頂きました。
前編は、トップ選手時代を経てゼネラルマネージャー兼ヘッドコーチと、チームとフロントの両輪で活躍する今に至るまで、どんな考えを持ってキャリアを積み上げたのかを聞いていきます。

【今回の内容】
・優勝まであと一歩の学生時代
・NBLの実業団時代からBリーグのプロ選手へ
・選手から指導者目線になるターニングポイント

宮永雄太ヘッドコーチ
https://ballooners.jp/team/staffs/miyanaga


★番組のご感想や内容のご質問大歓迎です!
お便りはこちら
https://forms.gle/QKn2cjdCrW4SzRsT9


=====
BリーグB1所属のプロバスケットボールクラブ『佐賀バルーナーズ』のフロントスタッフ2人が、プロスポーツの魅力や面白さを現場のリアルを通じてお届けする番組です。(クラブのマスコット『バルたん』の心の声かも…!?)


佐賀バルーナーズの公式サイトはこちら
https://ballooners.jp/


🏀毎週水曜日配信!

00:04
いよいよ来ましたね。めちゃくちゃ楽しみにしてました。
僕ら楽しみにしてた回が実現しました。
今回は、佐賀バルーナーズの現在トップチームのヘッドコーチ、宮永ヘッドコーチにお越しいただきました。
よろしくお願いします。
僕も楽しみにしてました。
今回ですね、バルたんのマイク第10回ですよ、ちりちりさん。
そうですね。記念劇、10回もやってるんですね。
ゲストをそろそろ呼びたいなって話した時に、どの方がいいかってなって、
ポッドキャップ系の有名人とかプロ選手とかってなった時に、
こんなに身近にプロ選手としても実績すごくて、ヘッドコーチとしても結果を残して、
さらにGMとしてフロント目線まで大活躍な宮永さん。
いやー出てくれないかなと思ってですね。
で、話しさせていただいたところ、面白そうだったんですよ。
僕でいいですかね?代表じゃなくて大丈夫ですか?
代表…
代表さん、いいんですかね?僕で。
やっぱり選手目線とかも含めたところでの話を聞けるのが、
全然代表が悪いとこじゃないけど、やっぱりファンからしたらね、
すごい宮永さんの話を興味あるだろうなって思うので。
わかりました。
改めまして、宮永さんに説明させていただければと思います。よろしくお願いします。
お願いします。
一緒にタイトルコーチしときますか。
じゃあ始めましょう。
バルタンのマイク。
嬉しい。ありがとうございます。
この番組はBリーグB1のフロントスタッフがプロスポーツの裏側をお届けする番組です。
今回、宮永ヘッドコーチ、改めてお呼びさせていただきました。
ちなみに宮永さん、このバルタンのマイク、聞いたりもしていただいている感じですかね?
はい、聞きましたよ。今さっき聞きました。
はい、初めて。
はい、主力標準だったのでありがとうございます。
どうですか?こういう番組があることとか。
僕はフロントスタッフの皆さんの仕事、ブリというか、触れ合う機会も少しあるので、GMという職業から。
なので、なんとなくは理解しているんですけど、やっぱり知らない人たちもいっぱいいらっしゃって、そういう人たちにはすごくいいメッセージになるなと。
例えば、いろんな取り組みをやっているとか。
一時的に言えば、選手も広がってくると少し気になって聞き出すと思うんですよ。
それ、やばいですね。
嬉しいですね。聞いてもらえて嬉しいですね。
そういうのもいい循環かなと思いますよね。
そう言っていただけると、一緒に話しながら、選手にとってもいいメッセージを残せるような会見ができるといいですね。
意外とファンの人もこういうのを知りたかったって言ってくれるんですよね。
絶対知りたいですよ。
じゃあちょっといろいろ裏側、特に宮永さんの裏側を出していきましょうか。
はい。
選手としても一円球の活躍をしていて、現在チームとフロントの両輪で仕事をされている宮永さんから見たプロスポーツ運営の話をぜひ聞かせていただければと思います。
実際どうですか?
僕、今4シーズン目ですけど、やらせていただいて。
03:03
もともと初年度の時に田畑代表が来られて、ゼロからチームを作っていこうという中で、
大半の選手とかコーチがいなくなってしまったので、代表と一緒に作っていかなきゃいけないという状況で、
ヘッドコーチとGMを分けてやってたら、2年後に昇格しなければいけないというアレがあって、間に合わないだろうと。スピード感が。
アリーナが2年後にできると。
アリーナが2年後にできるとは既に決まっていて、美馬に2年で上がらなきゃいけないという中で、
あまりにも人が多すぎるとスピード感的に間に合わないだろうという思いがあったので、
当時代表にヘッドコーチとGMを兼任させてくださいと。
それは宮永さんの方から?
僕からお話をさせていただいて、それで行こうというところで決まったんですよね。
2000何年ですかね?
2021?
2021ですね。そこから4年ということですね。
そうですね。
GMはされたことは?
ないです。ないです。
じゃあそこは、宮永さん的にはある種挑戦みたいな感じですか?
そうですね。ただ、僕が現役時代、今の川崎ブレイブさんなんですか、
当時場に入社した時は、もうあの監督がリクルートとかもやってたので、
あんまり違和感はなかったんですよね。
ビリーグもできてね、まだ浅いですし、
しっかりと両輪でヘッドコーチとGMでやられているチームってまだまだ少ないと思うので、
僕が入ったタイミングっていうのはまだ両立できるかなというところでやってましたね。
なるほど。今、経歴も少し話していただきましたけど、
まずはバルニススターやバスケファンの方々は宮永さんのことをよくご存知だと思うんですけれども、
バスケをあまり知らないような方にも宮永さんの僕らからするとそのすごさっていうのをお伝えしたいと思いますので、
まずちょっとそこをプロフィールも語りながらいろいろ聞かせていただければと思います。
まず最初、学生のところまで遡るんですけれど、
出身は北海道?
北海道、札幌ですね。
東海大学第4高校、インターハイ準優勝。
当時、3年生の時ですね。
大東文化大学進んで、その大学の方でもインカレで準優勝。
4年生の時ですね。
そんな方に話聞くっていうだけ恐縮なんですけど、どういうエピソードとかあったでしょう?
いやー、優勝してないですよ、これ。両方とも。
当時はメンバーも揃ってましたし、素晴らしい監督の下でやらせてもらってたんで、優勝する気満々だったんですよ。
圧倒的にできるなっていう考えだったんですが、2位で終わったっていうのはなんか、今となってはですけどね、
いい経験だったなというか、そんな簡単にチャンピオン取れないというのはありましたけどね。
06:02
優勝したメンバーがもっとすごかった?
練習試合とかで対戦してても圧勝してたんですよ。
へー、そういう感じだったんだ。
それが良くなかったんでしょうね。なんかもう勝ったなみたいな。
組み合わせ見たらもう勝ったなみたいな感じでいたので。
もう当時からポイントガードとか?
当時は今でいうと、愛心三河でやってる柏木信介っていうのが僕と同級生で東海大学で一緒にやってたので、
彼がポイントガードで、僕がセカンドガードというか2番ポジション的なところで一緒にやってましたね。
強いわ。
強いですね。柏木選手。
今でも元気でやってるんでね。
なるほど。一見すごいキャリアって思いましたけど、宮永さん的には全然納得いってない感じだった?
全然ですね。しくじりですね。
JBL甲子場に先ほど話された甲子場にチーム加入してっていうところなんですけど、この時はまだBリーグじゃないですもんね。
そうですね。午前中働いて8時、12時でお仕事させていただいて、午後から練習というルーティーンでしたね。
会社員として就職された?
会社員として就職して、福利構成で教科部があると。バスケット部があるから。
授業員の皆さんが式行用のために存在しているというようなところでしたね。
そうか。実業団チームっていうのはそういう位置づけで。
そうですね。
どんな仕事をするんですか?その午前中とか。
甲子場の小向井工場というところで勤務だったんで、防衛関係の仕事だったんですよ。
戦車とかのレーダーとかの部品ですね。そういうのを調達したりとか、現場に持って行ったりとか、そういうのをやってました。
この話ってどこかでしたことあります?
ないです。初めてしました。
そういう意味で言うと、選手とヘッドコーティングって話してましたけど、一社会人としての仕事もキャリアの中である中でっていうのは大きいかもしれないですね。
大きかったです。この8年は本当に大きくて、本当に社会を学んだっていう時だったので。
例えばどんなことを学んだという感覚があるんですか?
一般常識ですよね。あとはパソコンの使い方ですとか、お客様との対応ですとか、本当に皆さんのような勉強をできたっていうのは大きかったですよね。
今は本当にプロ選手になったらもうわけもわからずバスケットだけやってるみたいなところですけどね。大きかったです。
午前中の時間は今ないですもんね。
そうですね。プロになるとね。
なるほど。ちょっと楽しみになってきましたね。
その時にはJBLのスーパーリーグ優勝というのが念願の優勝経験みたいなのがあるんですか?
優勝したんですけど、僕はほぼ試合にルーキーだったので、ほぼ試合に絡むことはなく先輩方の姿を見て、いつか自分が出てっていうのはずっと見てましたね。
09:02
競合チームっていうことですね。
当時は今で言うと、北GMか川崎のGMの北さんですとか、解説やってらっしゃる節マッサさんとかっていうお二人が活躍されてる時代だったので、
多分この時は優勝したんで、優勝旅行あったんですよ。
NBAのファイナル一緒にチーム全員で観に行ったりとかさせていただいたので、本当に企業チームってすごいなというのを覚えてますね。
2004年の頃はピストンズくらい?
ピストンズ、スパーズとかヒートとかですね。その試合観に行ってましたね。
熱い。
その翌年にオールジャパンで優勝。
この時も本当に短かったですけどね、プレータイムは。
そういう経験を先輩方にさせていただいたという状況でしたね。
この流れで結構何チームか所属してると思うんですけど、この後がリンク・トチギブレックス、今で言う宇都宮ブレックスですね。
ここは1シーズン?
これ1シーズンでしたね。
当時プロ球団というのが少しずつ増えてきている状況だったので、移籍も多くはなかったんですけど、ちらほらあった中で。
宮永さんはこのタイミングでプロ契約というか?
そうですね。会社員を辞めてプロ契約というところですね。
そういうことか。宮永さん自身での決断とかは?
これは東芝で8年やらせていただいて30だったんですよね。
人生的にはそのまま残って会社員として働いたら一流企業なので、それなりの人生が送れたんですけど、当時はまだまだバスケットをやりたいというかチャレンジしたい思いだったので、会社を辞めてトライしたという年でしたね。
結構リスクも取った一大決断というか。
そうですね。そのまま残って社業に専念する方々がほとんどだったので。
今とも結構決断のタイプが違いそうですね。今のプロ選手たちにもですね。
ちなみにブレックスといえばタブス製優太選手が日本人初のNBプレーヤーになった選手も同じタイミングでプレーをされていたんですか?
一緒にプレーさせていただきましたね。
やっぱりありました?その違いというか。
いや、もともとプレー自体はそのビジョンが広かったりとかね、バスケットIQがめちゃくちゃ高いとかっていう。
僕も高校時代から体制何回もしているので、当時からね、素晴らしい選手だなと思ってましたけど。
世代同じですか?
一つ上ですね。タブスさんが。
ただそのいろんな選手いると思うんですけど、準備にかける時間とか熱量は本当にすごかったですね。
第一戦でやっているトップでやっている人でもこんだけの準備をするのかというのは本当にびっくりしました。
12:06
例えばどんな準備が違ったりするんですか?
当時はその栃木ブレックス宇都宮は練習会場というのが決まってなかったんですよ。
大枠はあったんですけど決まってないのでテンテンとするんですよね。
ただそんな中でも体育館オープンと同時にタブス選手が来るんですよ。
フロントスタッフが来てリングの準備とかボールの準備とかしているその時間に来るんですよ。
一人で横でストレッチしながら、2時間前とかですよ。練習の。
そこから一人で準備しているのを見るとやっぱりトップの選手なんだなというのを感じました。
若手というか他の選手も見習わなきゃいけないなってなりますね。
だいぶ刺激になりましたよ。僕も入ってすぐだったので早く行って準備をするっていうのをやってたんですけど、
当時の新人の遠藤選手とかも早く来て準備するんですけど、それと同じタイミングでタブス選手が来て
やってるんでびっくりしましたね。
周りがどうこう関係なく自分の基準で早い準備をしている。
周りの選手は本当に10分15分前に来るんですよ。それもどうかなと思うんですけど。
でも素晴らしいなとは思いましたね。
この時はJBLとBJリーグがそれぞれ発表が終わった。
そうですね。
1年後にNBLの時の千葉ジェッツに参画した形なのかね。
2015年からBリーグが開幕しているのでちょうどその境目という感じなんですかね。
そうですね。
この時はどんな感じだったんですか。
栃木もそうですし千葉もそうですし、プロチームってまたちょっと違った覚悟というか、
本当にバスケットで結果を残さなければいけない。
その実業団というのは少しちょっと甘いというか、バスケット終わっても生活は保障されるという中から。
バスケに向き合う姿勢で行くと感覚が違いますか。
気持ちはちょっと違いましたね。
当時は田伏優太選手とか東橋選手とかとやらせていただいて、
やっぱりプロ選手としてのあるべき姿というのは、こうも違うんだなというのは本当に学んだところでしたね。
確か2-3アシストップはNBLとかでいくと田伏選手とかと競り合うような形で、
歴代3位くらいのスピードでナンアシストアとか。
ありましたね。
ナンアシストアだったりとかになってて、
一番選手としても油乗った時期がこのくらいだったんですかね。
そうですね。この千葉の時かな。
別の時に話させていただくときに、島田県千山、当時が島田社長の影響をこの時に受けたという話、
聞かせてもらったと思うんですけど。
15:00
本当に何もないところからスタート。
本当にちょっとバルナーズに近い感覚だったんですけど、
島田さんがしっかりと目標を定めて、フロントの選手たちもビジョンを共有し合ってやってたんで。
すごく印象に残っているのは、チップオフミーティングからあった時に社長がですね、
島田さんが来てくれたのはありがたいんだけど、この環境は当たり前じゃないよと。
だからバスケットをするだけじゃなくて、千葉のために。
船橋のために何ができるかというのをちゃんと考えてほしいというところからスタートしたので。
そこはすごく響きましたね。
それはだから選手にもとですよね。
選手にね。そんな話されたことがなかったので、これまでは。
なるほど。それが結構今にも繋がってたりするという感じですね。
繋がってますね。
なるほど。で、この時にBリーグが開幕。何かありました?
Bリーグが始まったというか。
当時はまだなんとなくNBLに入れる選手たちの枠って少なかったんですよ。
本当に1年で10人いるかいないかぐらいなところで。
BJリーグは幅広く選手を育成してやってる。
エンターテイメントに特化してるような状況だったので。
最初統合するというのはちょっと不思議な感じでしたけどね。
そうですよね。オープニングセレモニーとかバルバルク対リュウキュウ。
そこまでプロが変わってない。僕とかでもインパクトが残るような広告。
なんかあれじゃないですか。エリート軍団と雑踏軍団みたいなやつが。
始まったぞみたいなところがあったんだけど。
でも選手側からすると延長上で進んでたやつですね。
そうですね。
なるほど。で、バンガレンタルから富山に行ったりとか。
この辺りはあれですか。もう結構キャリアの後半差し掛かって。
そうですね。地元でプレイしたかったなって思いもあったので。
富山さんにレンタリー席で北海道飛ばしてくださいって話をして。
それも宮永さんの方からしてるんですね。
そうですね。で、当時は富山さんと織山さんがコンタクト取れる状況だったので。
お願いをしてですね。
織山さんは今、俺バンガの社長。
そうですね。
なるほど。からの富山。
この辺はどんな流れとかあったんですかね。
まだまだ元気でチャレンジしたいっていう思いが。
この当時何歳だろうね。34とか。
そうですね。
34、35、36ぐらいの確か年だったかなと。
確かにレブロンなんかは全然やってますもんね。
だいぶ違うよね。
2017、18シーズンは選手兼任、アシスタントコーチという形なんですかね。
なので選手指導とかも鍛えられながら、編集としてもやりながらという。
両方全力でやってましたね。分析も一人でやってましたし。
当時最終年度にB.T.テーブスコーチが富山グラウジーズのアシスタントコーチをやられていて。
その繋がりでこの後からね。
18:00
なるほど。
女子の世界へっていうところだったんですけどね。
今回日本代表も選ばれているテーブス会選手の父親。
父さんですね。
そうですよね。指導者として結構日本で活躍されてるんですよね。
ちなみに順天堂大学博士号取得ってこれ何ですか?
これ将来的にその指導者になりたいなという思いがあったので、その枠を広げようというかね。
知識広げようと思って。
選手しながら大学通うみたいなことですか?
これはジェッツの時に今佐藤裕樹という取締役の一人がいるんですけど。
彼と僕同級生で一緒にプレーしてたんですよ。
彼が順大出身だったんですよね。
順大の先生からあなたはいずれ順大に戻ってきて、
コーチやるんだよと、監督やるんだよって話をされたっていうのを僕に相談してきたんですよ。
なんかこういう話されたんだよ。
大学院通ったらどうだって言われてんだよねっていう話を僕にされたんで。
何それ面白いねと。
2人で行こうよって言って。
なるほど。
順大の大学院に2人で通った。夜にですね。
もともと佐藤さんに言われてたのを平岡さんも一緒に話が回ってきて。
じゃあそれ俺も行くから一緒に行こうよって言って。
じゃあ卒業しようよって言って行ったんですよ。
面白い。いい仲間がいる。
結局それは今の繋がってるというか。
どういうこと勉強されてたんですか?
心理学とかですね。
法人学とか。
学問的な分野かな。
なるほど。
いよいよそういった準備とかも含めて満を持して指導者のキャリアに進んでいくってところだと思うんですけど。
富山ではアシュースさんと。
選手権ACでやってましたね。
一体を決められたきっかけとか経緯とか。
2つあったんですよ。
1つはBTテーブルスコーチが富士通のヘッドマッチになるっていうタイミングで一緒に来てくれないかという声をかけていただいたっていうのが1つと。
富士通は女子の。
そうですね。
女子のリーグのところで。
もう1つはバスケットキャリアを積み重ねていく中で。
自分が出てやるパフォーマンスと若手をもっとうまく出させてあげるというか。
引っ張ってあげる方にちょっと興味が湧いてきたんですよ。
要するに蹴落としてまで試合に出たいという思いから。
だんだんチームのために今はこの選手だなとかっていう考えになってきて。
自分ファーストじゃなくなってしまったんですよね。
それがちょっと選手としてはどうなのかなと。
本来はもう俺が出て活躍するなっていうのがやっぱりその選手の意識だと思うので。
そこに変化が起こってきたのがちょっと試合を考える機会になったってことですね。
面白いですね。
最初の選任で指導者側になったのはWリーグでの不実だったんですね。
21:05
実際どうでした?最初は変化ありましたか?
最初はちょっとこっちの畑来ちゃったかって感じでした。
やっぱり男子は1つ2つ言えば掛け算して広げていくんですよ。
女子の選手はどっちかというと10を教えてあげて8で生きてくるような。
なので細かく女子の選手は指導しなきゃいけないなと。
その違いにちょっと最初はここまでやらないといけないかというような感覚でしたね。
結構その指導者になるっていうのもそうですけど男性女性みたいなところの指導の仕方のスタイルも。
やっぱ違いましたね。
なるほどな。確かにそれもそうですね。
そういう意味で言うとそれも大きいですよね。
そういう経験をできたっていうのは大きかったですね。
あんまり宮永さんのキャリア的には関係ないかもしれないですけど
ちょっとね最近話題の田中紋子さん。
この時フジツーにいたっていう情報をチラッと見つけたので。
いたんですよ。
でもほとんど話したことないんじゃないかな。
それくらいすごく自分でできる選手というか自立した選手。
大学も卒業されてから入社されていたので素晴らしいプレーヤーだったなというイメージしかないですね。
すごいイメージ通りで。
イメージ通りです本当に。
ちょっといじるところがわからなかった。
全くなかった。
そうなんですね。
綺麗に見ているといろんなイメージが出てくるのですごい面白いなと思いつつ。
フジツーでのアシスタントコーチ経験を経て次がレバンガでヘッドコーチ。
これはどんな流れで。
当時女子の世界で2年目が終わる時だったんですよ。
これ以上女子の世界にお世話になると当時男子Bリーグの成長スピードがめちゃくちゃ速かったので。
いつか男子に戻りたいというのがあったので。
ここで何年もやってBリーグに戻ったらバスケットの感覚がだいぶずれるなという思いがあったので。
もう2年で退社させていただいて北海道に就任するんですけど。
この時もオリモ社長に直接会いに行って自分はこういうプランですというのをお話しさせていただいてチャンスをいただいたというところですね。
地元の北海道でということですね。
ただここでのヘッドコーチ歴が1年でやっとですね。
ここでついに我々バルーナーズの復活になったんですけど。
ここも何かいろいろありそうでしたね。
僕としては外戦なので地元でヘッドコーチをやるというのは大変光栄なことですし。
そういうチャンスをいただいて。
当然長いスパンで北海道を立て直すというか強いチームにしていきたいという思いがあったんですけど。
24:03
やっぱりヘッドコーチというのはシビアな世界で。
1年1年の結果次第でというのは当然あるところなので。
残念ながら1年で結果を出せなかったので退団するという運びになりましたね。
オブラートに進むと。
話せない場合はこの感じですね。
マイク止めていろいろ気持ち悪い。
そのおかげでといったんですけど、我々が関わらずいただいていて。
また何でこう下がっていくことになったんですか?
これがですね、また遡ると千葉ジェッツの時に佐藤博紀という僕の同級生がですね。
巡台の一緒にいた彼がですね。
僕が北海道退団するとなって辞めることになったよと。
他のチーム探していくわという感じで話していた時に。
たまたま佐藤さんと水町君が昔大分かな?
ヒートデビルズで同じチームだったんですよ。
そういった繋がりもあって。
水町さんが佐賀で今コーチを探しているんだというのを佐藤さんに言ったんですよね。
そういったタイミングで僕に連絡をいただいて。
今ヘッドコーチ探しているみたいだよとちょっと話してみるというところから
水町さんですとか代表と話をする機会をいただいて。
僕がこう考えて。
当時何人かヘッドコーチの候補がいたので。
僕にもしチャンスをやらせていただけるのであればこういうようなチームを目指してますというようなお話をさせていただいたところ。
一緒にやりませんかという流れがありました。
すごい面白いですね。人の縁が繋がって。
佐藤さんどんだけキーパーソナルですか?
佐藤さんはそうなんですよ。
むちゃくちゃなやつなんですけど。
面白いですね。
フロントで近くで働いていても知らないこと結構あったなと。
ありがとうございます。
ここまでで今宮永さんのキャリティーかどんな人なのかを紹介させてもらったので
簡単にどんな話をしたか。
まず学生時代、ギリギリ優勝届かずの優勝みたいな経験があって。
東芝、ブレイブサンダースはその実業欄を経て
リンク・トチギブレックス、千葉ジェッツ、Bリーグがあった後にレバンガ北海道、富山、グラウジーズでのコーチ経験というのが今
それだけでもすごく宮永さんの面白さをたくさん聞けたんですけど
実際この流れの中で目線とかがこういう時に大きく変わったのとか
プロスポーツに対するスタンスがこう変化したのみたいな
ターニングポイントとかあったら最後確認していければ。
いくつかあったんですよ、ポイントは。
東芝入った1年目の社会人の厳しさというか難しさというのもターニングポイントでしたし
その時に大先輩に瀬津政さんという人と北さんというスーパースターがいて
27:04
日本代表に選ばれてるですね。
そういった人と同じ環境でやらせていただいたというのも1つターニングポイントでしたし
そこからプロチームに行って千葉ジェッツで
島田社長とレジー・ゲイリーというアメリカ人のコーチ
この2人に出会えたということも1つターニングポイントで
選手だけじゃダメだよ、プレーをしてるだけじゃダメだよというのも島田さんに教えていただきましたし
あとはコーチングって少しちょっと面白いなと思い出したのが
このレジー・ゲイリーというコーチから教わった時だったので
ここは大きなターニングポイントだったなと思います。
なるほど。
そうですね、この辺は佐賀に来てからのチーム作りとか
それを通しての宮永さんの考え方
それから今話したみたいにいろんなことを経験している宮永さんから見たスポーツ運営
このプロスポーツ運営を仕事にするみたいなところを
バルタのマイク、そういうところをテーマにさせてもらっているので
聞かせてもらいたいと思います。
じゃあ一旦今週はここまでにしましょう。
ソイギンダー!
ソイギンダー!
下がってくる?
28:23

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