自我の基本的理解
どうも、丸山です。
まずは、おめでとうございます。
ということで今回は、自我というテーマで話をしていきます。
自分に言われと書いて自我。
改めて見てみると、自我という文字はいいですね。
自分、そして我、これこそが私だというような字面というんですかね。
コミュニケーションをとる際に、自我が強すぎたり弱すぎたり、極端な方に偏ると、それもそれでいいと思うんですけど、
社会で生きていく上では、どちらか生きすぎるということよりかは、中間の方が良さそうな感じがしますよね。
どうしたらいいですよとか、そういうことではなくて、自我というものについてつらつらと話をしようと思います。
あなたがどのような自我を持っていようとも、それはあなたの自由ですから、何だっていいんですよ、言ってしまうとね。
ただそれ以前に、自分の自我というものは何なのかというようなことは考えたことありますか。
自我というものに改めて向き合ってみると、自分自身のことをより深く知るような手助けになることがあります。
仮に今、自分は自分のことをよくわかっているというように思っている場合でも、果たしてそれは本当にそうなのか。
そしてその自我というものは、どこからやってきたものなのか。
今まで自分はこうだと思っていたものが、実はそうではなかった。
そういうことがね、見えてくるようなこともあります。
何よりこの自我というものと向き合って、自分自身のことをより深く知ると、
やりたいこととやりたくないこと、今自分は何をしたいのかということがわかるようになります。
よくやりたいことがないんだよなぁとか、好きなことは特にないなぁと、そういうことを思っている人もいるんですけれども、
自分の自我と向き合った上で本当にやりたいことがなければ、それは別にそれでいいんですよ。
そうしたことをへずして人生に諦めるというか、
特にやりたいことがないから、なんとなく生きていくというようなこと、
これを知った上でやるのか、自分自身のことをよく知った上で、それでも自分はそれでいいんだというように生きていくのか、
自分の人生なんですけれども、まるで自分ではない人生を歩んでいるかのように、
なんとなくふわふわと生きていくのか、余計なお世話だと言われればそれまでなんですけれども、
なんだかもったいないなぁと思うんですよね。
自分の自我というものを見つめ直して向き合ってみて、それで本当にやりたいことがないというようなことがわかっている。
その上で大多数にあえて埋もれて生きていくというような選択を自分でするのであれば、それはそれでいいと思いますし、
それが全くない、自分が今何なのかよくわからない、わからないということすらわからない、
ただなんとなく生きているだけというような、そうしている人が多いんじゃないかなというふうに思うんですね。
自我の拡張と社会との関わり
あとはね、自分というものはこの社会に生きている、生かされているというような、
そうしたことの延長線上で自分のことはわかっていますと、どのような生き方をするにしてもそれは自分が決めたことです。
そのように生きていくと自我というものが拡張していって、そうなると自然と相手のことが考えられるようになる。
自分というものは自分一人だけじゃない。
言葉にすると変ですけど、自分というものは自分一人じゃなくて、この世界に自分は生かされているということ、
今この時代に生きている自分というもの、さらには同じ時代に生きている周囲の人たち、
どこの誰ともわからない赤の他人というか、人生で一度も会うことがないような人、
関わることがないような人のことではなくて、今社会に生かされている自分自身がここにいて、
その自分と直接的に関わるような人、間接的にでもいいですけど、自分は相手のことを知っているような人のこと、
そうした相手のことも考えられるような自我というものが拡張していくんですよね。
角が立つかもしれないですけど、
メディアに出ている有名人、芸能人だとか、自分が会ったこともない、話したこともない人、偶像というか、
あとはメディアを通じて知る他の国々の世界の人々というか、自分とは一切関わりのない人、
ここまで拡張をして考えられる人というのは、なぜそういう状態になるんだろうというように、
疑問に思うこともあるんですよ。
それが自分自身の人生の糧になっているんですとか、
もしくは知らない、見えない、聞こえない、話したこともない、そうした他人のことを思うことによって、
自分自身の心も充足されていくんですというようなこと、
世界の貧困どうたらこうたらとか、環境問題どうたらこうたらとかありますけれども、
それは本気で思えているというような場合には本当に素晴らしいなと思うんですが、
今の現状から逃げるためにそのようなことを考えているんじゃないかなというような思ったりもするわけですよ。
別に逃げたければ逃げればいいんですけれどもそれは。
自分で逃げるって決めたんだったら逃げればいいんですけど。
ですから自分の人生の焦点を当てる部分ということ、
誰の人生においてもその人の人生はその人が主役であって、
私の人生は私が主役で、あなたの人生はあなたが主役なわけですよ。
少なからず接点があるんだったら、どういう形にせよ接点があるんだったら、
それは相手のことを考えるというようなこともいいと思うんですが、
何の関係もない人、そうした人に自分自身を差し置いてまで焦点を当てるというようなこと、
自己犠牲ということが美しいなんていうように表現をされる場合もありますが、
自我を見つめ直す意義
本当にそうなのかなと、自我というものを見つめてみると本当にそうなのかなと、
そうしたことを思う時もあります。
また、自我が強すぎると、例えば自己中になるとか、自己中心的な人間になるとか、
自己が弱すぎると自分というものが全くない空虚な人だとなるとか、
これはどっちでもいいと思います。自分がいいと思うんであれば。
自己中であれば、それはとことん突き詰めて自己中をしたらいいと思いますし、
その道中は多くの人に迷惑をかけるでしょうから、
本当に報いを受ける覚悟を持ってやるといいんですけど、
自己中な場合は途中はないですから、一度崩壊までいかないとわからないものなんですよ、そういう人は。
これは私なんですけれども、とことん自己中だったんで、
特に自分が経験してきたマイナスのポイントというんですか、
こういうことに対しては、どうしても悪く言ってしまうというか、
悪くというか、行くところまで行ったらいいんじゃないかと。
結局そういう人には言ってもわからないことが多いですから、
だったら行き着くところまで行ってみればと。
それはその人の人生にとって必要なことですから、
因果応報なんて言いますけれども、それは本当にあることで、
人にやったことは結果的に良いことも悪いこともめぐりめぐって帰ってきますから、
それは仮に自我が強すぎて、
自己中なのであれば、それはもとことん行ったらいいと思いますし、崩壊するまで。
その逆に自我がなさすぎて、自分というものがないと、空虚な場合というようなこと。
こちらの場合は、自分自身を全面に出していかないということによって、
誰かに迷惑をかけたりするようなことはあまりないと思うんですよ。
そもそも活動をしないじゃないですか。
自我がない空虚な自分というふうに思っていたら、何もしないと思うんですね。
そのような場合には、スポンジが水を吸収するかのごとく、
何でも吸収できる余地が、余白があるということだと思うんですよ。
空虚の方はどうなんですかね。
行き過ぎると、自ら自分をなんていうようなことがあるのかもしれないので、
それは崩壊まではいかない方がいいと思うんですけれども、
自我が別になくてもいいじゃないかという。
それはそれでいいと思いますし。
ですから、自我と向き合うというようなこと、自分を見つめるということ、
これは全員やったらいいのになと思いますというようなことです。
そうやっても、見つめ直し方がわからないとか、向き合い方がわからないというようなこともあれば、
そもそもそんなことをする必要はないと思ったりだとか、
意見もそれぞれなんで、
これはあくまで私の感想というところで、
自我というものについて話したいことを話したというようなことです。
ということで、今回は以上となります。
最後まで聞いていただいてありがとうございました。