1. パリで学んだ「ブレない自分の作り方」
  2. Vol.171「自分の体験を皆とシ..
2019-07-04 49:07

Vol.171「自分の体験を皆とシェアしたいという原動力」

バースドゥーラの木村章鼓さんのインタビュー第1回目です。
バースドゥーラというお仕事のお話や、学生時代にボランティア留学をしたお話、思わぬタイミングで就職・結婚をしたお話を伺っています。 

オープニングでは、酷暑のパリからフランスの保険制度と自立の関係までお話しています。

オフィシャルサイトは、http://projectsparis.com/


00:14
こんにちは、あきです。
今日も、パリで学んだブレない自分の作り方の時間がやってまいりました。
今日もさやみさん、どうぞよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
今、これを6月の終わりに収録させていただいているんですけど、とうとうパリの夏が来ました。
そう、突然って感じですね。
突然ですよね。
毎年このパターンじゃないですか、突然。
で、6月結構、もともと何、前半は寒かったよね。
いつまで冬なんだ、みたいな感じ。
ずっとジャケット着てましたよ、私。
ダウンとか着てましたよ。
ダウンはさすがになかったけど、でも確かにジャケットとストールはもう必須で、
考えたら5月と6月ほとんど同じ格好だなってずっと思ってた。
冬と同じ格好でしたね。
やっぱり裸足なんて、素足で見ることはありえない。
寒くなりますもんね。
ところが、最終週に入り、いきなり酷暑。
そう、猛暑を超えて酷暑な感じですよね。
いきなり、今週は38度とか39度で寒いと。
体温より高いぞ、みたいなね。
で、エアコンがないですからね。
フランスは本当にエアコンがない状態なので、きついですね。
バスとか電車がきついんですよ。
メトロも入ってないし。
入ってないところが結構多いですね。
まだ地下だからなんとなく、
ひんやりしてる感じもなきにしもあらず。
だけどやっぱり人がたくさん乗ってくると、いろんな匂いがしてきたりしますよね。
もう泣きそうです。
ラッシュ時は本当にきついですね。
なんであんな臭いし暑いしみたいな。
私ね、今日たまたまメトロに乗ってたら、
私最初一人で座ってたんですけども、
隣にものすごい巨漢の女性が座ってきたんですよ。
もうね、腕とか私の太ももぐらい。
かなり巨漢系の方ね。
すごい大きいんですよ。
押されて、しっかりくっついてるんで。
もう暑くて。
太陽が時間に当たるぞみたいな。
あと匂いもやっぱり、どうしようこれは拷問だと思って。
で、立とうと思ったんですよ。
立ったら普通そこの椅子ってバタンって閉まるような椅子なんですよ。
入口のそばのね。
私のスペースも半分取ってて、椅子が上がらないんですよ、立っても。
03:03
だから立てなくて、結局座ったんですけど。
それぐらいね。
巨漢の方、時々いますね。
最近でもね、増えてる気がする。
なんで?フランスも増えてるんですかね。
食べ物のせいじゃないですか、やっぱり。
食生活、あと食習慣とかも。
ただの太ってるじゃなくて、結構固太りっぽい。
硬い肉がなかなか落ちなさそうな感じでしたね、その方も。
なんかうちの夫の会社の人が、たぶんね、確かにコーラとか飲んでるんですよ。
コーラ飲んでて、とにかく何やっても痩せないって言って、
お医者様が認めると、有給をもらえて手術。
死亡除去?
はい、求院で。2週間。
それも、だから有給って言っても、自分の有給じゃないんですよ。
会社として、公給として、要はメディカル的な扱いをされるから。
うちの夫が怒ってました。
ダイエットしなさいって感じですよね。
でもどうやっても痩せないっていう。
だから胃をちっちゃくするか、胃を閉じるのと、死亡と、いろいろある。
いくつかコンビネーションでやってた。
いろいろあったと思うんですけど、それをやって、2週間しっかり休んでいたという話をして、
一応戻ってきたと。
どうだったって聞いたら、ちょっとは痩せたけど、これでも前より良くなったっていうだけで、
全然、すっごい痩せちゃったねっていう感じではないんですよ。
基本的な食生活とか習慣を変えない限りは、
また、吸引した死亡のところにまた死亡がつきやすいんじゃないかと。
だからね、結局メンタルがそこで影響してくるんだなっていつも思うんですけど、
どんなに整形手術をして、きれいになりたい、きれいになりたいって言っても、
本人がそれを認めたりするようなメンタルが整っていないと、
永遠にないものを追っかけることになっちゃうのと一緒で、
だから、どんなに周りがきれいになったよとか整形うまくいったねって言っても、
本人が全然納得しなかったら意味がないわけで、
結局自分の気持ちが手術でなんとかなればいいやとかになっていると、
結局元に戻っちゃう。
ある意味だって手術も足利き本願だし、
自分で努力したとか、自分でより良い体を目指して何か変えたとかっていうわけでもないんですね。
06:02
そういう意味では、健康保険で全部おびるからね、ある意味ね。
高く払ってますよ、確かにフランスは。
でも、それでやって、結果的にまた同じことを繰り返してしまうというのは、いかがなものか。
アメリカって予防医学ってよく言われて、健康保険とかなかなか払えない社会っていう風に言うじゃないですか。
フランスはそういう意味では税金払ってるからその分恩恵を受けられるっていう前提の話なんだけれども、
これってどうしても病気になっちゃった人がやむを得なく受けられるっていう意味はあるんだけど、
結構私の知ってる人でも糖尿病で薬飲んでるからデザートガンガン食べるとか。
つまり薬で抑えられるんだから、それも健康保険でちゃんと下りるわけだから、
習慣を変える気はないわけ。
原因をちゃんと自分で調べて、じゃあこうすれば良くなるとかって研究して、
職種生活とか習慣を変えるとかっていうわけではないんですね。
みんなに平等に健康保険っていうかそういうのを与えられる権利っていうのは良いことだと思うけど、
それによって自立する力を失ってるのも事実で、
だからアメリカはアメリカで多分きっとそういうお金がなくってそういうのをたどり着けないっていう不平等さもあるけど、
フランスはフランスで平等ではあるけどそこの上にアグラを書いてる人もいっぱいいるのも事実。
薬とかだって山のようにもらって大量に余ってますもんね。
こんなにいらないよって感じですもん。
だから私なんか全然お世話になってる方じゃないし、
私もそうですよ。
そういう感じだけど、そうやって豆乳の薬飲んでるから何でも好きなもの食べていいんだっていう、
その発想がちょっともう根本的にこの制度に対する限界を感じましたね。
そうですね。アグラを書いてるっていうのはすごくよくわかる。
だからどっちがいいかってどっちもいいところもありはいいところもあるんだけど、
やっぱりルンナリ平等っていうのは自立を、
もともと共産主義が壊れてしまったっていうのも多分そこに働かなくてもお給料もらえるとかっていうところから持ってくるように、
何が正しいって、どこにも正しさっていうのは案外なくって、
やっぱり結局自分がどうしたいかによって全部変わるんだなっていうのを感じました。
国書から全然違う方向に行っちゃいましたね。
でもお互い日本に行くので、ちょっとこの国書を乗り切って日本の夏を楽しく過ごせたらなっていう風に思います。
09:06
それでは本編スタートです。
はい本編です。7月の1週目なので今回もインタビューをお届けしたいと思います。
今回はフランス在住のバース・ドゥーラの木村あき子さんです。
あき子さんはさゆみさんもご存知だと思うんですけどね。
偶然にも。
やっぱりつながってるんですけども、彼女はバース・ドゥーラって知ってました?
ドゥーラっていうのはね、全然初めてだったんですよ。
私も意味が分かってなくて、
助産師さんみたいなものなのかなっていう位置づけですよね。
でもちょっとどういうのなのかちょっと全然違いが分かってなくて、
彼女の口からバース・ドゥーラの話を中心に、
あと彼女の経歴を中心に伺ってますので、まず1回目をお聞きください。
こんにちは、あきです。
今日も素敵なゲストの方に来ていただいています。
バース・ドゥーラの木村あき子さんです。
あき子さん、今日はどうぞよろしくお願いいたします。
どうぞよろしくお願いします。
あき子さんはバース・ドゥーラという肩書きなんですけど、
バース・ドゥーラというのはどういうものなんでしょうか?
バース・ドゥーラとは、女性の妊娠・出産・産後に継ぎ目なく寄り添う。
その時に身体的、情緒的、そして情報的なケアを継ぎ目なく、
その方にオファーするというのがバース・ドゥーラの一番のケアです。
とすると、基本的には、妊娠中からスタートするんですか?
はい。
それは、バース・ドゥーラの場合には、
妊娠できるだけ早いタイミングでコンタクトしていただければ、
長くその方を継続的に見ていられるというので、
産後にも、もちろんそれだけ長い時間かけて、
その方の、それこそ必要なものであったり、
お好みであったり、家族構成であったり、
さまざまなことを把握しているので、
産後もよりケアがしやすくなるということですね。
なるほどね。
じゃあ、実際に関わってくださっている女性は、
妊娠中から、人によっては初期どころから、
あるいは中期・後期から入らっしゃる方もいるんですけど、
基本的には産後のケアとかものでセットという感じなんですか?
そうですね。
例えば、実際に、仮に私が妊娠しました。
初めての子供です。
といった場合に、あき子さんにコンタクトを取りますよね。
そしたら、どういったところからスタートするんですか?
まずお話を丁寧に聞かせていただいて、
その方がどういった部分に不安を感じていらっしゃるのか、
自分の中で思い描くような前後の時空間に何が欠けているのか、
12:02
どんな部分を強化したら、
本当に自分の一番最善のコンディションで臨めるか、
そういった話を見極めていくということですね。
なるほどね。
例えば、最初の時っていうのは、
何にもあんまりイマジネーションがわからないじゃないですか。
そういった時も、希望を引き出したという感じ?
そうですね。それはエクササイズです。
いろいろあるんですか、そういうワークみたいな。
ミニワークをいくつも入れることで、
だんだん心も体もほぐれていくようになりますので、
お会いしているうちに、
ポロッと何か本当はそれまで封印していたものが出てきたり、
実はね、お母さんとの関係がね、とか、
なんかホロホロっと玉ねぎの薄皮を剥くような、
ゆっくりと時間の中で、
その方の本当に必要なニーズにたどり着いてくる。
なるほどね。
実際はその方と一対一ってあるんですか?
はい。
ご家族とか関係なく、もう彼女と一対一?
ところが、本当に輪月も、だんだんお産も押し迫ってという形で、
そろそろ家族皆さんの顔もね、
知っておきたいということで、
あえて、ブレッシングセレモニー。
お母さまとかお姉さま、妹さんも招いて、
女性だけの輪を作ることがあります。
お友達とか、みんなで、
本当にあなたのことを思っているよ、
いいお産になるように、みんなで願っているからね、
安心できるセーフゾーンを作ってもらうために、
女性の集い輪をすることがありますね。
その女性に限っているというのはどういうところなんですか?
ココン東西おそらくお産というのは、
女性たちの中でかなわれてきたんじゃないかなと思っていて、
もちろん男性がパートナーがいることで、
実際にお産婦さんは元気をもらうとは思うんですけれども、
でもやはりそこは女性にしかわからないような領域といいますか、
体のこと、月のこと、
みんなわかっているからこそ寄り添えるというのがあると思うので、
おシュートさんを呼ぶよりもね。
確かに。
なごみながら、普段は伝えられなかったありがとうを
おシュートさんに伝えてもらうとか、
そういう場も設けているんです。
うまくちょっとぎこちなかった方とかね、
自分の桐の母さんも今後助けてもらうようになるけれども、
今の自分だとちょっとぎくしゃくしているからという方がいらして、
その方はエステリアの方だったんですけれども、
そうやって空間をクリエイトする、
時空間をクリエイトしてその場で何が起きるだろう、変容をもたらすような、
そんな場を作るのもバースデューラーの大切な仕事かなと思います。
なるほどね。
じゃあもう本当にプロデューサー的な感じですよね、
出産に関するさに。
で、生まれるときにも立ち会ったり、基本立ち会う。
基本立ち会って。
15:00
それは病院だろうが自宅だろうが、
所在院だろうが、どこでもという。
どこでもということですね。
じゃあその時期になったら呼ばれていくわけですね。
そうなんです。
枕元に24時間待機して携帯が慣ればこんな感じみたいな形で。
なるほどね。
で、終わった後もそうやってまたケアをしていくんですね。
そうですね。
基本終わった後はどれぐらいまで期間的なものってあるんですか?
特に本当に期間的なものは決まってないんですけれども、
最低家族同棲になっていくので、
ですよね、きっとね。
何年経ってもいまだについ先週とかロンドンでケアさせていただいたお母様が、
赤ちゃんの男乳の時期にね、また、
あき子さんそうなんだけど。
なるほど、なるほど。
ということで、卒乳ですよね、男乳じゃなくて。
本当に彼女の場合は交通事故で本当に腕が大変な状態で、
一人でのお座りにちょっと不安要素を持ち出したので、
私が文明立ち会うことによって、
ご主人様も戸惑うことなく子育ての中に入っていけて、
素晴らしい病院出身なってもいいおさんでしたけれども、
そういった方であっても、やっぱり子育てしている中で、
そろそろもう卒乳でいいのかなとか、
もうエンドレスですよね。
気になりだしたらずっと続きますもんね、こういうのはね。
本当にゴッドマザー的な気分で、
確かに確かに。
親戚が一人増えたと思ってもらえればみたいな。
なるほどね。
その子の成長も一緒に見守っていく。
そう楽しめて。
なるほど。
その辺のバースデューラーについて、
またちょっと後ほど詳しく聞きたいんですが、
いくらでも多分お話ししていただけると思うんですけど、
その前に秋子さんのバックグラウンド、
今のお仕事に至るまでっていうところも
最初に聞きたいなと思っていて、
秋子さんは日本はどちらのご出身なんですか?
日本は、今ここにずっと海外ほとんど20年近いので、
実家って何か言っても、
どこがほか?みたいな。
そもそもあるようなないような、
さすらいの旅人ですね、ほとんど。
でも東京都の町田市の方に家族は住んでいたりしますので。
なるほどね。ご実家はそこにある。
今ははい。
なるほどね。
小さい頃から海外行ってたんですか?
いえいえ。小さい頃は父は本当に引っ越しの好きな父だったので、
てんてんとはしてたんですけど、みんな国内ですよ。
引っ越しがすぐにお父様だったんだ。
電気もありましたけれども、海外ではなくて国内で。
じゃあ基本的には学生まではずっと日本にいらっしゃったの?
はい。そうです。
その時は海外に対する願望とかそういうのはどうだったんですか?
あったと思います。
自分で本当は鳥かごが半開きになっていて、
ちゃんと出ようと思えば扉をプッと開けて外を飛び立てたのに、
なんか変に尖っちゃったりとか、変になんかこうやる気出して鳥かごにぶつかり、
18:04
どこも開いてないみたいに思っていた。
そんな時代があったんだ。
葛藤の時代も。
とにかく肌で、顔を使って肌で自分の世界、
自分の見知っている日本以外の世界を見てみたいなという気持ちはあったはずです。
じゃあ実際には出ていったわけではなかったんですか?
実際にだから鳥かごをひっくり返すような形でポンと飛び出しましたけれども、
結局自分の中に命を宿すという行為を通して、
自分の中に埋蔵境があって、何もどこかに限定を求める必要なく、
外じゃなくてということね。
自分の内側だということに至ったので、
もうこの16年とか、これまでの時間というのは自分への探求で過ごしてきて、
それまでは外への探求だったと思います。
じゃあ実際に最初の外側への扉というのはどこからスタートしたんですか?
小さい頃からね、古いものとか綺麗なものとかとっても好きだったんですよ。
小学校の時から、ナスカの地上絵の描かれた不思議な石を集めるような、
イースター島のモアイに絶対会いに行くとか、
イースター島にドクロのマークを描くような、
小学生の時?
小学生の時。
ムーという怪しげなアニメーターを毎月描いて、
今もあるんですか?
今も分からない。
昔ぐらいの古代文明とかすごく好きで、
ミステリーね。
ミステリーが。
で、しかも綺麗なものといったら、
エミル・ガレとか、ルネ・ラリックとかが作って、
シーアール・ムーヴォンのガラスとかが描かれて、
あの脆いもの、薄いもの、綺麗な透き通ったものとか、
そういうのが描かれてから、将来はガラス職人になりながら、
工科学部を勉強するというのがイメージ的には思ってたんですよ。
そしたら親に、中学までを卒業してくれって言われて、
とにかくガラス職人になってもいいけれど、
工科学やってもいい、シュリーマンのように発見した。
いいけど、とりあえず中卒にはなってくれって言われて。
で、結局中学行ったら、
小回りがね、高校受験とかになってるわけで、
その波にだんだん飲まれて、
あんなにたくさんデッサンを描いていたにもかかわらず、
ガラスのね、自分の吹きガラスのデザインを描いていたにもかかわらず、
フタを開けたらちゃんと高校に行き、
フタを開けたらちゃんと大学にも行き、
で、そのあたりで大学でちょっと、
言葉悪いけど、5月病って言ったらあれかな、
ちょっとみんなどうしたの?っていう感じになって、
私も自分自身の可能性みたいなものがまだわからない時代だからこそ、
いろんなところに出てみようと思って、
で、たまたま大学の国際部の掲示板で、
ボランティア留学って、新書社施設でのボランティア留学っていうのを見て、
で、応募してみようと思って、
21:01
そしたらたまたまそれでも、トントンと面接とか通ってしまって、
で、ボローニャに派遣されたんですね。
なるほど。
そしたら夏休みみたいな感じ?
1年間休学で。
1年間休学で、へー。
で、シスターと一緒に、
そのボローニャの施設は、1階がね、コンベントじゃないけどチャペルがあって、
そこで生活しながら、同じ部屋にはダウン症とか自閉症の子どもたちが寝てて、
で、そんな中でみんな女の子でした。
で、その子たちの排泄の世話からプールに連れて行ったり、乗馬セラピー連れて行ったり、
あとはイコン画ってロシアのビザンチン文化のイコン画を木に焼き付けて、
で、それを売るっていうのが、そのカーザ・サンタ・キアーラという名前のコミュニティの重要な資金源になったんですね。
新庄舎施設の。
で、そのお手伝いの工房でのお手伝いをしたりとか、1年間ずっとその子どもたちって呼んでたんですけれど、
バンビーニとか、そのみんなと一緒に。
でもそうは言っても、みんな年齢は40代とか50代にかかめるお年を召したい方もいらっしゃる。
子どももいらっしゃった。
でね、学びましたね、1年くらい。
でも自分がボランティア美学なんて肩書きのもとに行ったら、私の方がたくさん学ばせていただいてあって、
なんと拝ましかったんだろう、自分はね。
ボランティア留学生です。
実際癒されてるの、私じゃないっていうのが本当に正直なところで。
例えばどういうところでそういうのを実感されるんですか?
ピュアーにね、本当にピュアーにね。
ピュアーにね、馬に乗せて降りてきてから楽しかった、馬に揺られてとかね。
本当に苦痛になっても、私の顔を例えば見るたびに、
あ、キッコー、キッコーって寄ってきてくれて。
いまだに去年も行ったんですけれども、
そうなんだ。
繋がってていくと、言葉を話せないとか会話ができない子たちなのに、
私の名前だけは覚えててくれてて、一緒に寝泊まりしてた。
どっか記憶が呼び覚まされるみたいで。
例えば髪の毛絶対触らせないっていうラウラっていう女の子がいたんですけど、
いまだに私行くとラウラは私には髪の毛触らせてくれるとか、
本当に不思議なことが、不思議ななの、人間関係が、
言葉を越えて、国籍を越えて、その女の子たちと私の間にあったんです。
そういうことですね。
言葉だけじゃない部分ですよね。
とっても信頼関係にベースがあって、
一年間愛されて、私もみんなを愛して、
本当に自分が一年間耐えて、最初イタリア語わからなかったので、
基本やっぱりイタリア語ですよね、生活はね。
全く3ヶ月くらい入ってくることが全部わからないまんまだったから。
そうですよね。イタリア語やってたわけじゃないんだもんね。
先に応募しちゃって、たまたまイタリアだったからみたいな感じですよね。
でもね、既得な方がいて、大学院の先輩がイタリア語できる方がね、
特訓で1ヶ月間くらい、もう特訓してくださったわけで、
24:02
文法だけはちょっとはね、頭に入った状態でボローニャに行った。
じゃあその行く前の秋子さんと、戻ってきてからの秋子さんってどうか違ったんですか?
やっぱりね、分かち合いたいって気持ちがすごく深まって、
自分一人ではできないこういう体感、ボランティアをさせていただいてたっていうのは、
させてくれる人がいて初めて創立することで、
なんかこう自分だけの子供っぽい学生気分だったところから、
自分が何かをさせていただくっていう立場になって初めて、
これって演劇でも映画でも見る側がいて初めて成就すると同じで、
私がそこに行ってボランティアさせていただいたことで、
すごく深まったというか、一体感、充足感みたいなものを味わえたので、
そこで大きく価値観が、私のこれからの残りの人生もシェアしていきたい。
みんなと繋がっていきたいっていう自分に変わりましたね。
それを学生時代で感じて、その後の仕事もそういう視点で探していく感じになったんですか?
それがその帰ってからも、わずか半年以内ぐらいだったんですけれども、
たまたま冬の日にね、小夏に入ってみかんでも剥きながら新聞読んでいたら、
朝日新聞の広告で、イタリア語スピーチコーテスト全日本なんとかなんかで書いてあったんですよ。
でも私その時に、自分のした体験を皆さんに伝えたくて、
早速これちょっと通らなくてもいいから、自分の体験だけしたために送ってみようと思って書いたんですよ。
そうしたら全国なのに、全国規模なのに、10名の最終選考に残れたんですね。
ハマリキューホールで当日スピーチになった時に、
イタリア語ですよね?
イタリア語で。それこそ一生懸命勉強したんですよ。
イタリア語の文法間違ってないか、自分の書いたものは間違ってないか。
イタリア人の先生、日文化会館に教えていただきに行って、発音も直していただいて、
それを何度も何度も自分で聞いて間違いを直して、
当日挑んだはずなのに、緊張のあまり、巨大なスポットライトの嵐と巨大なスペースに圧倒されちゃってですね、
10人のうち多分私、5番目、4番目とか5番目ぐらいで、完全にポーンと3回ぐらい抜けちゃったんですよ。
次に話す台本みたいに覚えてたはずだったのに。
それでしまった、ダメだった。でも深く首を流れて、絶対結果はダメだなって。
案の定入選3位には入らなかったんですよね。
1位はイタリア航空の往復の無料チケットみたいな感じで、どんどん豪華な得点がついてくる3位はね。
私はもう3位以下だからないなのかもわからない。
そんな中でレセプションが、すぐに速やかにカクテルパーティーじゃないですけど、お疲れ様でした、みたいな感じで関係者の方々がね、握られてくださって、
27:05
その場でね、たまたまアリタリアの渡す方?
共産してたからね。
そうなんです。NHKさんと朝日新聞さんとアリタリアさんと、アリタリア、あと何カ所か大使館と。
いろんな復唱みたいなものをいただきながら話したら、その方がね、君英語話せる?って聞かれたんですよ。
はい、とりあえず片言ですけどって答えたら、だったらちょうど探してたんだけれど、君みたいな人。
週末だったんですけど、月曜日朝来られる?みたいな感じだったんですよ。
会社に?
会社に。
私自身は大学生ですから、もう親にその日早速帰って、今日ね、こんな話で緊張したけれども、
とりあえず来てって言われたんだけど、虎ノ門のオフィスに行くことにしてもいい?みたいな、
まだちょっと親の非豪化みたいな雰囲気を漂わせている、まだね、大学生ですから。
そしたら両親ともに、そんなことあり得ないと、おかしいと、なんだ、
でもね、勉強に、社会勉強になるから、とりあえず行っといてみたいな感じで、
ほんとそれで、ノコノコ、それこそ大学に行く前に、破れたズボンみたいな感じの。
遊びに行きました?みたいな。
遊びに行きました?リックサックスって。遊びに行きました?って言ったら、
いきなりですよ、女性の秘書さんが、お待ちしておりました、こちらへどうぞみたいな感じで、
通されたら、人事の方が日本人、その方は日本人だったんですけど、先ほどの当日スピーチコンテストで会った方はイタリア人で、
その方はアリタリアの社長さんとかそういうのではなくて、
広報とか、そういう方だったような。
で、通されて、でそのアリタリアの代表のその日本のね、市店長さんが現れたら、
ボンジョールノーって言われて、ボンジョールノーみたいな感じでアックスして、
もうなんか、ほんと一言一言ですよね。いきなりもう決まりって言われて、
その場で。その場で。で、その時に、え?何が決まり?決まり?って。
そしたら、日本人のその人事の方が、君今何が起こったか分かってるのかい?みたいな感じで、
実はその何百通もそれこそ履歴書が届いている日々、日々っていうか日々1通2通であっても、
溜まっていきますからね。で、全然その、応募はしてないから。
そうでしょうね。全く。だから年にせいぜい1人、この2人が。
で、そんな中で、こんな形でね、いきなりトップダウンで、君が就職決まっちゃってるんだけど、
分かる?君分かってる?って言われた。ことの重大さ分かってる?みたいな。
私自身が分かってなかった。それで、すいませんちょっと家に帰って、
ちょっと相談してからお答えさせていただきますので。
その日は本当にポワンとした気持ちで家に帰ったね。
30:00
なるほど。
両親すごく堅い人たちなんで、当然、許可!もうダメ!そんなのは危険だし、
かなりね、否定的に言われましたね。
そうだったんですよね。
ただ、オローニャのラウラとかオリエッタとかカーティアとかモニカとか、
その自分たちが一緒に過ごした時間を思えば、
オローナに帰れるんだよな、アリタリア航空就職したら。
確かに。
イタリアにはいけるんだもんね。
いつでも帰れるかも。
だったらいいんじゃない?足がもらえると思って、
ただでどこでも行けるわけだし、って思ったわけですよ。
すごい横島。
まあでもね、そんなもんですよね。
そんなもんですかもね。
本当に完全に棚ぼたというか、
本当にコタツで小さな新聞記事を見たことが全てのきっかけ。
でもその原動力はシェアしたい。
自分の体験を聞いてもらいたい。
それがきっかけで、思わぬ方に思わぬタイミングで、
あ、君のメッセージはとっても良かったよと。
英語話せるかいと。
そうやってもうすぐその次の週にが英語のことになって。
両親には、父はこのように言いました。
秋子、いいのか。お前の真っ白い裸体がローマの高速道路の脇に捨てられる日が来るんだぞ。
父はジャーナリストだったんですよ。
そっちはメディアだね。
わざとビジュアライゼーションじゃないけど、
そういう自分が未来にいてもいいのか。
いいんです、みたいな感じで。
そこでかなり自分でも消化して、
そういう未来をも受け入れられるかと。
お母さん、お父さん、心配かけて申し訳ないですけれども、
ぜひこれはね、やっぱり自分ではこれもまた一つの運命でいいもの。
そういう流れだと思うので、今回アリタリアにしばらくね。
まだ私も大学3年生だったから、まだ教授会にもかけられてなかった時だったので、
その後教授会にかけられて、こういう学生が一人いると。
すごく既得のいいケースじゃないか。
なので就労学生だけれども認めようということが決まって、
先生たちみなさん応援してくださって、私も卒業まで。
本当に卒業するまでゼミとか参加できなくても、
その分レポートを出すとかで。
フォローして。
フォローさせて。
じゃあ実際には大学、いつから働いてしまったの?
3年生。
アルマーニの制服を着た大学3年生がいるわけですよ。
キャリーケース持って。
でも見た目ほら大人っぽいから。
わかんない。
そんな20歳そこそこの学生。
普段そのとき大学生って履いてるズボンなんですよ。
信じられないですよね、私。
自分でも思うんですけど、ほんと変わんないんですよ。
ありえないって言われます。
顔はシワシワになってます。
完全にシワシワですよ。
だけど、体型の話で言うと、
33:00
自然出産したからってみなさん体型擦れるとかって
言いますよね。
私はそれは、エクツリア・ベッカムさんとか
そうやって体型とか気にされたりとか
噂ですからね、信憑性はやですけど
別に私大学時代とサイズ変わってないぞ、みたいな感じで
そう思ったら、これから選択しようと思っていらっしゃる方には
おせっかいは、PTSDとか社会的適応が
当てはまる方にのみ、本来であれば
本当に必要な方が受けられる医療処置なんです。
必要な方もいらっしゃるってことですよね。
いらっしゃいますよ、もちろん。
すいません、話脱線しましたが
それでアリタリアで飛び始めました。
先生からのサポートもあり、楽しく飛んでたところを
アリタリア人ってすごいですよね。
まるでドラマみたいな、一人で一つのセクションを担当するじゃないですか
例えばビジネスクラスだったら、私一人とか
プリマクラスだったら、まだファーストクラスがあったので
すごい方とかもいらっしゃるんですよね。
大好きな小説家の方とか
私、塩野七海さんという
住んでらっしゃったから乗ったりしてますよね。
今は最近は追ってないんですけれども
彼女の書かれたエッセイも
もちろん海の都の物語とかローマの物語
もともと昔のそういうのが好きだったわけだから
考古学的だね。
顔とかも分かったんですか?
もちろんです。本に一枚だけ乗ってるじゃないですか。
ちらっと乗ってますよね、ポートレートね。
塩野さん乗ってらっしゃる今日!
ファーストクラス!
私どうしてもファーストクラスやりたい!みたいな感じで
自分は担当じゃない場合でも
でも結局その時は担当だったんですよね。
全然もう眠られないんですよね。
一心不乱に書類を読まれてたり
本を読まれてたりとか書かれてたりとか
お仕事されてて
私その間は塩野さん!とか
たまたまその時も持っていて
彼女の本を。当日知らなかったんですよ。
パッチリサインしていただいて
そんなようないろんな方と出会いました。
普段大学生じゃ出会えない
面白い出会いが
驚くばかりの。びっくりですよね、今から思うと。
その体験を経てCAは結局どれくらい続けたんですか?
いや、もうすごく短いんですよ。
あ、そうなんですか?
どれくらい?
いや、どれくらいいたんでしょうね、通算でっていうくらい。
本当に短かったですね。数年ですね。
本当に?
うん。
それは?
それは結局
アリタリア航空のチョアデスって言っても
36:02
その当時すでに
食卓みたいなものに切り替わっていたんですね。
で、いろいろ契約が更新するとかしないとかっていう時に
自分が本当に心の底から接合してなった職業だったら
どんなことがあっても続けたいって思いますよね。
アキさんだって。
私の場合ちょっとタナボタ式だったので
いろんな選択肢がある中で
いいですよ、私辞めますみたいな感じで
2つ返事で辞めちゃったんですよ。
そこで家辞めませんとかって
ずっと呼ばれてた方とかもいっぱいいらっしゃるんですけど
なんかね、ろうせずして得たものって
やっぱり手放すのが早いというのか
本来自分の求めていた世界ではなかったので
もちろんたくさんの社会勉強させていただいた重要な修行の場ではあったんですけど
その後
パッと辞めてしまった?
パッと辞めましたね。
で、辞めたっていうよりちょうど辞めさせられた時期
まあそう、タミングってことですよね。
で、その時、秋子さんはどうされたの?
えっと、これも導きだと思いましたね。
純粋に。
で、次のことをそこから考え始めたの?
考え始めるも何も
ちょうどその時にやっぱり
カゴを壊すような
出てこうみたいなことになりまして
いろいろなお世話になった方々も
ご恩を一生感じながら
たくさんの方々に
別れを告げ
そうです。
結婚してしまうんです、突如。
なるほど。
じゃあそこも
そこがきっかけだったわけではなく
なんか偶然のタイミングだったんですね。
そうですね。
まあそれも本当に
オーバーラップしてっていうのもきっと
今から思うとね
まるでシナリオがあったかのように
今の自分にはつながっているけれども
当時にはそれは
わかり知れなかった。
ちなみにご主人さんどこで出会ったんですか?
出会った場所は
エジプトのルクソウルという町で
出会いました。
仕事、旅行でいらっしゃったんですか?
そうなんです。
もうそろそろというような
まさかというようなタイミングで
すれ違ったお互い
すれ違った通行人みたいな感じで
当時は私もその時イギリス人の
彼女たちと
一緒にすれ違っただけだったので
それこそ絵ハガキを
交わし合うような感じでしたね。
なるほどね。
何にもEメールとかもない時だったので
当時はね。
記念撮影をみんなで全員で撮り
市場で
じゃあねみたいな
本当にそんな感じでしたよね。
住所だけ交換して
絵ハガキだけ送るみたいな。
そしたら驚いたことに
私そういうの初めてだったので
39:01
ちょっとそれが聞いちゃったんだと思うんですけど
そのエジプトの旅が終わって
ローマに戻って
仕事して日本に帰ったら
もうポストに
今のカエンの
絵ハガキが届いてたんです。
ちょっとびっくりしちゃって
これはエジプトから送ったの?
違うところからまた?
送ったんじゃないですか?
なるほどね。
速達かどうか。
びっくりしましたね。
それはね。
だからそういうものに
ほどされちゃいけないぞと言いたいので
こういう風なところで
お話をさせていただいていたんですが
でもちょっとほどされちゃったわけ?
純真だ。
当時まだ純真だね。
やっぱりね。
アクション早いですよね。
早いね。
でもその波に乗ってったわけでしょ?
今から思うと
その時の心情
自分自身の置かれてた立場
自然に流れるように
それこそ
そうですね。
すごくずっとずっと
お互いね。
彼も結構移動する方だったの?
そうなんです。
当時もオマーンに住んでいたんですね。
そうだったんだ。
そっからじゃあエジプトに来てたみたいな感じだったんだ。
会うことはないですよ。
もう会うことはない
みたいな風には思ってたぐらいの
人でした。
そっから秋子さんが
そういうところまで行くのは
それから行ったり来たりとか
あったりしてた?
でもそれもね
たぶんある意味
とっかかりだったり
突破口だったり
なんか鳥かごはあらかじめ
扉が開いてたのに
自分はそれに気づけなくて
鳥かごをひっくり返すような生活をした
いろいろ
そんな中で
天竺街みたいな
そんな
外国に
目指すみたいな
きっかけを
与えてくれる
結婚だったってことですかね。
これが秋子さんに改めて聞かれても
うまく言葉で
出てこない
なるほどね。
じゃあ結婚を決めて
結婚を決めたときに
彼はどこにいたの?
オマーンですね。
オマーンに行ったって感じだったの?
結婚式の前日に
到着したんですよ。
日本に
近くのホテルに泊まったら
私はもちろん実家から
だから
お互いをあまり
知らない
ママみたいな感じ
結婚してオマーンに行くわけで
そこで出会う
出会ったんですね
すごい方に私
オマーンのマスカットに
滞在していたときに
今のしている仕事に
つながるような素敵な出会いがあって
日本中の女性で
42:01
当時オマーンのマスカットに駐在されていた
奥さんがとっても
素敵な方で
今も信仰が深いんですけれども
彼女が秋子さん
女性として生まれたんだったら
人を
相手を他者を
全身で受け尽くすという体験は
してみるといいよ
って言ってくれたんです
具体的に話してくださったのが
ご自身の賛同が
三人のお子さんを
産むときに
だんだん普通の
筋繊維がだんだん柔らかくなって
最後
柑橘の柿のように
とってりと植えて
とってもしっとりと
とっても相手が
自分に身を
連れてきたら
それを完全に受け尽くすような
柔らかさを
女性さんが手を誘導してくれて
彼女の手を
自分の賛同の入口に触らせてくださったんです
その時の自分の指を通して
電撃が走るではないけど
私の体の一部って
こんなにたおやかに
こんなに優しく
こんなに受け尽くせることが
変化できるんだって
彼女は思ったんですよ
気もない
私に彼女が
全身全霊で
話してくださった
彼女にとってすごい衝撃的な
体験だったんでしょうね
それこそ
言葉ちょっと大げさだけど
天に繋がるような
自分の中の母性ってすごく深いものなんだ
って思ったことを
惜しげもなく
若い私に支配してくださった
その彼女とは
その後ずっと
彼女も日本に帰ったり
私もその後別の国に行ったりとか
同心不通になって
メールもない時代なのでずっと会えなかったんですよ
そしたら東京の地下鉄で
私がね
娘を抱っこして
座ってたら
赤ん坊の娘をね
優しい眼差しで見てる女性がいるなー
と思ったんですよ
向かい側に座ってる
よく見たらそれがその彼女だったんです
お母さんをお世話になって
そのもう敬愛する
お友達の先輩の
友達の彼女がまさに
私の地下鉄でその前に座ってた
私の娘を見てた
その時に彼女思ったんですね
可愛いお母ちゃんだなー
お母さんの顔見てなかったんです
外で見てなかったんだ
私がその時に
可愛いと思って見てくださってる
と思って彼女の顔はってみたら
と思って
すごく感動的な
感動的な再会を大声で
地下鉄の中で
日本の地下鉄で
抱き合って
未だにね
夏に今月末帰るんですけど
会えることになってた
すごいね
やっぱり
そういう出会いが繋がっている
45:01
と思ってますよ
そのお話を聞いて
多分今の仕事のベースには
絶対なってますよね
でもその時はまだ
自分も子供もんでないしね
そこまで考えてなかった
そうなんですただ
何かとっても大事な話をされてる
とてつもなく広い話
深い話だっていうのは本能で感じ取っていて
その時の日記に
20ページくらい書かれて
熱く私書いてるんですよ
今日はこの話を聞いて
いつかこの話を
体感できる日がこの私にも来るのであろうか
みたいな感じで
本当に深く感じてたんですよね
自分は
だから女性は産んでなくても
産む予定であっても産む予定じゃなくても
どんなステージの女性だっても
大切な話っていうのは
本能のレベルで分かる
なるほど
そっかそれを
オマーブで体験したわけですね
やっぱりお子さんの議事体験みたいな
そっかその場でしちゃったんだね
1回目の木村あき子さんのインタビューでした
彼女のバースドゥーラに至るまでの
お仕事というか
まず彼女が
ボローニャにボランティア留学した
っていうとこから
帰ってきて
いろんなスピーチ
コンテストとかなんかに出て
でアリタリアにまで就職してしまい
であっさり辞めてその後結婚し
みたいなオマーンに行ってしまうみたいな
結構
波乱万丈というか
そうですねなんかこう
多分ご自分で意図したっていうのは
また違うけれども
流れにトントントンって
スムーズに流されて
いい意味で
いった感じがしますね
でもまあ全ての原点は
彼女がイタリアに
ボランティア留学して
やっぱり結果的に
彼女の
癒しのために
ボランティアで行ったのが
結局自分が癒されていた
ところからシェアしていきたい
って思いになり
結果的にバースドゥーラのお仕事に
最終的には後がね
つながってるんだなっていうのが
分かりましたね
すごい流れですよね
でもね
普通だって大学卒業しないで
就職
それって可能なんだ
みたいなところが
でもやっぱり
大学で教授会に
掛けられたみたいな
フォロミンナがしてくれたとか
エジプトで
ちょっとした出会いから結婚
してしまったとか
すごいなと思いましたね
そういうご縁を大切に
する人なのかなっていうのは
聞いててずっと
思ったんですけども
後半はね
48:00
30からバースドゥーラに
どういうふうに向かっていったのか
っていうことと
実際の今の現状とか日本の話を
伺ってますので
ぜひ楽しみにしていてください
ありがとうございました
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また
次回もパリで学んだ
ブレない自分の作り方をお楽しみに
秋でした
49:07

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