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2023-02-23 23:40

#337 ホロス宇宙塾 十牛図 第九を振り返る〜悟りの向こうの覚者と吉本ばななの関係

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愛
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・ほんまモンの覚者は至って“ふつう” ・二元性の消滅。すべての次元を行き来する ・じゃあ、核廃棄物も殺人も“美しい”のか? ・わたしがばななを好きな理由


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真の愛のある皆様、アロハです。愛です。今日は2月の22日、水曜日、午後22時、ちょっと過ぎとなっております。
はい、222なんですけど、今朝私、午前2時に起きてですね、ホロス宇宙塾オンライン参加してきました。
で、これはまあたびたびね、お話ししているんですけれども、まあ京都のね、実験寺院、報道寺の和尚さん、和尚さんというか、まあ総委員長なんですけど、
松並龍弦さんと谷崎寺さんのね、対話形式だったりとか、日本柱形式だったりとか、その時々でね、お二人の本当に濃いね、
英知がね、詰まった3時間のね、講座になっております。講座っていうか、これ何なのかな、名付けえぬ、名付けえぬね、ものすごい、まあ3時間、ニコゴリたっぷりっていう感じでね、
まあそれが固まっちゃわない前にですね、何だろう、こうね、ちゃんとアウトプットしとこうと思ってこれをね、今、録音しております。
で、今年4年目で、来年5周年記念というかね、5期になるらしいんですけど、今年のテーマは重牛図ですね。
これ多分皆さんね、見たら、見たことあるっていうふうにわかると思うんですけど、まあ10個のね、図なんですよね。
10個ある牛界の青年が、牛を求めて、探し、探すと。で、見つけて、捕まえて、手名付けて、そしてっていうね。
これ何かというと、この牛さんっていうのは本当の自分の象徴であり、真のね、自己の探求、悟りを得るために奔走するというか、自分を高めていくっていう、そういうね、人間の成長、悟りを得るまでのね、
過程、そして得てからの何が起こるかということを、例えた10個の絵柄なんですよね。
で、これがまあ10回にわたってね、講座が繰り広げられるわけなんですけど、この第8図、今回は第9図だったんですよね。
第8図っていうのが、これぜひね、皆さんちょっとどっか探してみてほしいんですけど、第8図っていうのがまあ悟った瞬間ですね。
これ人、牛、具、棒、人、牛、何これ、人変に具で忘れる。
まあね、これ何かというと、全てが忘れ去られて無に変えること。
これ悟りを得た瞬間のスパークみたいなものが描かれているんですけど、何が描かれているかっていうと、第8図で、ただの深淵ですね、丸が描かれているんですよね。
だからまあ人ってこう悟りを得た瞬間に、もう全てが空とかして、一つとなる、一人が一人というか命の境目とかなく、全てが円となる。
その悟りの瞬間のスパークを描いたのが、先月の第8図ですよね。
今月が第9図というわけで、これ何が現れるかというと、その円の中にですね、自然、なんだろうこれ、牢牧ですかね。
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牢牧の自然の姿がね、現れると。
これは変本、変本元元、読めない感じ。
そう帰る、元に帰るっていうね、源に帰るっていう、変本元元という、これが第9図なんですけど、
これは本当にありのままの世界、悟った瞬間のスパークの後には、ありのままの世界、元の世界に戻ってくるんですけども、本当に正常無垢な自然の姿っていうものが、
宇宙の源である、宇宙の本当の姿であるっていう風な段階、これが第9図なんですよね。
なので、第7図まではね、その牛さんがいて、その青年がいてっていう格闘士で捕まえて仲良くなって、牛さんとっていうね、そういう、
何かストーリー的なものがね、繰り広げてられていたんですけど、この第8図、第9図になってですね、いきなりなんかこうね、世界が変わってしまうっていうね、
悟りを得るっていうのはそういうことなんでしょうけども、そういうね、すごいクライマックス的な第8図、第9図なんですよね。
で、今回の第9図っていうのは、その悟りの後に何があるのかっていうことがテーマだったんですよね。
その悟り、その前、その悟りの先のその前に、そもそも悟りっていうのは何かっていうと、
どこからどこまで、悟りっていうのは何かっていうと、目覚める、心理への覚醒、そして苦しみからの脱却、で、完全なるこの消滅ということで、
まあ本当に悟った瞬間にね、苦しみがなくなって、ネハンというニルワーナというものに至ると。
西洋のね、神秘主義で行くとカバラのてっぺんに行くっていうようなことなんじゃないかということなんですけど、
あらゆる仏教以外でもね、キリスト教でも、他の仏教以外の宗教でも、インド哲学とかね、インド宗教とか、
あらゆる宗教でその悟り、やっぱり悟りを目指すっていうことはあって、それはやっぱりね、心の覚醒、苦しみからの脱却、で、この消滅っていう、その辺はね、基本的には、悟りの概念っていうのは同じなんですけど、
何が違うかというと、仏教の場合は、悟りに至ったその向こうに、もう1回現世に帰ってくるっていうね、ことがね、あるらしいんですよね。
それも含めて、悟り。で、その仏教以外のものに関しては、悟ったらそのまま神とね、絶対的な本質である、絶対的な存在である神に消えして、神と一つになって、ただただね、
どっか、どっか行ってしまうというか、もうあちらの世界でね、行ってしまうっていうね、そういう、だから帰ってこないんですよね、現世にね。だからまあ修行を極めたね、何だろう、各社みたいな人が山に籠ってそのまま帰ってこなかったりとか、そのままね、消滅というか、焦点というか、
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もう現世にね、いない存在になってしまったりとかいうことなんですよね。でも仏教の悟りを開いた、本当に悟りを開いた人っていうのは、その悟った瞬間に、
悟った瞬間に、すべてのね、二元性が消えてしまう。例えば、悟ったことがいいとか悟ったことが悪いとか、これは清らかである、これは汚れ、穢れているとか、なんかそういうね、二元性みたいなものとか、階層みたいなものがすべてね、消える。
全部、すべて消える。で、そのすべて消えた状態で、現世に戻ってくるっていうことなんですよね。そう、だからまあ高い低いとか、俺は修行やってるやってないとか、そういう区別することに全く意味がないっていうね、そういうことらしいんですよね。
仏教以外のものは、もう悟り、悟りを開いて下達に至って、もう涅槃に行っちゃうっていうものね、どっか遠くに行っちゃうっていうね、もうその黄骨のままに命を吹き消して、永遠にね、その神様の心と一つになっていってしまうっていうね、私たち、現世の私たちを置いていってしまうっていう。
だからちょっとそれ寂しいですよね、ちょっとね。それで多分、まあ何だろうな、まあ、波動的にはね、この世の波動的に上がるのかもしれないけれども、でも行ってしまうんですよね、仏教以外の方は。
そうなんですけど、まあ仏教、何回も繰り返しになりますけど、仏教の悟った、本当に悟った人っていうのは、各社っていうのは悟りに至って、その状態で全ての区別、全ての次元というものを消滅させた状態で、この現世に俗世に帰ってくるということらしいんですよね。
という感じなんですけど。
でも、そうそう、だからそれはね、すごいなんか救いっていうかね、前回はそのニーチェとかね、ニヒリズムの話も出てきたんですけど、悟りに至るっていうのは、山口で悟って、それで自分だけが神と一つとなって、骨の中で焦点していくっていうね。
それって何なのっていう感じじゃないですか、この俗世を生きる私たちと比べてみたら、それって救済なのっていう、何のために、それ自分のためにやっているのかみたいなね、そういうあの単純なことではないと思うんですけども。
ちょっとやっぱりね、残された私たちとしてはね、私たちも私たちなりにね、その悟りという言葉ではないかもしれないけど、自分を良くしようというふうに日々頑張っているわけで、やっぱりそういうね、そこに至った人のエッセンスっていうのをね、ちょっとこういただきながらね、自分も精進していって、その人の各社のようにはね、そこまでは至らないかもしれないけれども、
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やっぱりね、より良くしていきたいっていうものを元に原動力に生きていっている、生きているわけで。なので、その仏教的にはね、その各社を悟った人がこの世界に帰ってきてくれるっていうのは、なんか私的にはすごいなんか、ああ良かったというか、嬉しいなあって。
でもやっぱりそうじゃないと、宗教って本当に、人間による人間のためのというか、神様的なエッセンスはそこにありますけれども、より良く人類全体がね、より良くなるためのものであってほしい思想であると思うので、
この流言さんのね、今回語ってくれたことっていうのは、すごいね、納得、そして嬉しいお知らせでしたね。
で、その真のね、その悟りに至って、それでもその悟りの状態でもって、その悟りの状態でもって、悟りの状態っていうかね、その悟りの状態っていうのが、スパークしたその瞬間のね、光骨っていうことではなくて、その光骨も含めた全ての次元に、どこでもね、自在にね、移動できるっていうことらしいんですよね。
だからその、どんなことがあってもその瞬間の、悟りの瞬間の光骨の命との一体感みたいなのを感じられるし、そして目の前に苦しんでいる人がいれば、その苦しみに寄り添って、同じ次元まで降りていって、手を差し伸べるっていうこともできる。
だから神であり人間であるっていうところ、すべての次元を自在に行き来できるっていう状態で属性に降りてくる。
だからその悟った、その帰還したね、属性に帰還したその各社っていうのは、山は山であり、水は水であり、ゴミはゴミであり、すべてはね、あるがままで美しいと、そういう境地らしいんですよね。
まあそこでね、やっぱりちょっともう一つ疑問が出てくるんですよね。まあすべてを美しいという境地がね、その縁の中のその描かれた牢獄、その自然の姿っていうのがその第9図なんですけど、私たちの身の周りには美しい自然もあれば、産業廃棄物もあれば、処理できないゴミの山もあれば、原子爆弾みたいなものもあれば、
でもその存在するものっていうのはやっぱり、それでもすべては美しいのかって言ったら、やっぱりその辺の境界線をどこに置くのかっていうのは、あの疑問ではありますよね。
だから、良いも悪いもない、醜いも美しいもない、すべてはね、美しいっていうのは、やっぱりそれは生悟りの人なんじゃないかっていうのが流言さんの提言だったんですよね。
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やっぱりその真善美っていうふうにありますけど、本当何が美しいかっていうのは、やっぱりその命と調和しているとか、この宇宙と調和しているっていう、そういうなんていうのかな、ルールというかあると思うんですよね。
これは美しい、これは美しくない、その二元性とかすべての次元を超えて、すべての次元を行き来して、帰ってくる、属性に帰ってくる格舎であるんですけれども、
でもやっぱりこの世にあるものの、全部がいいよね、じゃあ殺人もいいのか、人の命を謝める、盗む、かすめる、そういうことも美しいのか。
破産去廃棄物も美しいのかって言ったら、やっぱりそうではない。それはやっぱり命の法則、宇宙の法則っていうものと反しているから、やっぱり大地から生まれて大地に帰れないっていうね、そういうものは、やっぱりなるべく少なくしていくべきであると思うんですよね。
そこがね、そこが、なんていうのかな、勘違いしやすいところっていうか、大事なところだと思うんですよね。
すべては一つで、全部があるがままで美しいよねっていうのは一見すごく優しくて、すべてを包み込んで美しい言葉に見えるんですけれども、そうするとやっぱり矛盾が出てきてしまう。
なので、やっぱりね、何が美しいのかっていう、何が命に即しているのかっていうことを調和しているのかっていうのは、やっぱりね、私たちは生命としての共通の、なんていうのかな、ルールとか境界線みたいなものは境界線というかね、あると思うんですよね。
共通の美しさっていうものがあるんじゃないかなと思うんですよね。そうなんですよ。だから、でも面白かったのはね、本当に悟った人っていうのは、そういう意味で本当に本当に本当に悟った人っていうのは、一周回ってめちゃ普通っていうね。
そう、めちゃ普通の姿をして、属性にね、紛れ込んでいるっていう。だからまあ、なんていうのかな、だからその人が悟りを開いているかいなかっていうのは、普通の人から見たらわからない。でもその悟りの近い、悟りに近いところにそれを求めて、悟りを求めている人からすると何か感じるものがある。
だから、この世界に悟ってる人なんていないじゃんっていうふうに見える人っていうのは、やっぱりまだね、自分自身がその境地にいないっていうことである。だからそうなんですよね。だから自分自身が、そう、心が、そうそう、それで面白かったのが、だからめちゃくちゃ普通、本当の各社はめちゃめちゃ普通っていうことと、
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あとは誰もがね、あの人は聖者だとか各社だ、あの人は悟りを開いているっていうふうに、誰もがね、見出せるような聖者は本物の聖者じゃないっていうね。心が至ってない人が見出せるような聖者は聖者ではないっていう、それはなんかこうある意味ね、こうなんだろうな、すごい技、例えばね、こう何、
ちょっと宙に浮いて見せたりとか、魔法をね、けらかしたりとか、そうする、それをね、わざわざ表現することで人の心を引きつけて何かね、支配しようとするとか、あと自分の名誉をね、保つとか、そういうふうなね、そういうふうにもういかにも分かりやすいっていうようなこととか、あとめちゃくちゃ苦しい修行をしてね、
えつに入っているとか、そういうね、っていうのは一見ね、すごいっていうふうに言われがちなんですけれども、実は本当それは本当の悟りではないっていう、何かしらのエゴみたいなものっていうのが見えるよねっていうような話でした。もう15分も喋ってるぞ。
で、まあね、そういうことがすごい面白かったんですよね。で、まあ、ここ、それで、えっと、ま、テトラさんのね、後半に入るんですけれど、これ全部喋ってたらめちゃくちゃ時間かかるな。そうなんですよね。私的には何が面白かったっていうと、まあそのさっきのね、おこみもあるし、この世界には苦しみもあるし、あの悲しみもあるし、それと同時に、あの、
ものすごい喜びとか愛とか、人の優しさみたいな、同時に存在している、その自然の大急須で描かれている、ありのままの自然の美しさっていうのもあれば、産業廃棄物ね、とかね、海もどんどん穢れているし、森林も伐採されているしっていう、その人間のね、エゴによる、あの、
なんていうのかな、悲しい現実みたいなね、美しくないもの、自然に変えれないものっていうものがあると。なんだけれども、それも全部ひっくるめて、それでも世界は美しいっていう、それでも、それでもね、あの、命は素晴らしいっていう、そういう境地っていうのが、そういう境地っていうのが悟りなんじゃないかとは言ってないんですけども、たぶんお二人的にはね。
それ、そういう境地、それでも世界は美しい、ビューティフルワールドだっていうふうに、そこをど真ん中にして、いろいろ言えることはあるけど、それでも美しい、それでも命は素晴らしいっていうものを真ん中に据えて生きていくっていうことしか、私たちにはできないのかなっていう、まあ少なくとも私にはそれしかないのかなっていうふうに思ってます。
それを真ん中に右に左に揺れながら、悟りなのか、他に名付けるものがあればそれでもいいんですけど、自分を良くしていく、周りを良くしていく、それによって世界を少しでも良くしていくっていうことに向かって、一つ一つ一歩一歩、昨日より今日を良くしていくっていうことなのかなというふうに感じました。
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そして、そこで私が思い出したのは、吉本バナナがめちゃくちゃ好きなんですよ、私。吉本バナナってある80年代後半とか一世を風靡して、結構ね、ミーハーといえばミーハーなんですけど、
あの人の小説って、あの人の小説って一見ね、なんかこうフワッとして可愛くて美しくてなんか癒されるよねっていう小説に思われがちなんですけど、実は登場人物たちが結構ね、虐待だったりね、殺されたりとか、結構悲惨なね、追い立ちとか出来事とかね、さらっとね、書かれているんですよね。
そうなんですけれども、主人公たちはそれにね、抗ったり、泥沼になったりっていう、そういうなんかこうドラマチックな気象転結があるようなスペクタルな物語ではなく、ただただね、そういうなんかいろんなね、闇とかね、苦しみっていうものを抱えながらも普通にさらっとね、生きているっていう、そういう主人公たちが日常の中に潜む
何か素晴らしい、なんていうのかな、本当に些細なこと、パン屋さんで働いている主人公がそのパンをね、焼かれている匂いとか、それをね、夕方に買いに来るお客さんたちのね、その風景、風景みたいなね。
なんかそういうね、商店街でお豆腐屋さんのね、湯気を見るとか、歩いているね、おじいちゃんと孫がそれを買いに来るとか、なんか食べ物屋の話ばっかりだけど、それこそその自然を見た時にその一瞬感じる何かだったりとか、本当にその日常の中に一瞬感じるその永遠みたいなものだったり、愛みたいなものだったり、その宇宙との結びつきっていうものが日常の中に潜んでいて、
その一瞬の体験っていうのが、そのさっき言ってたど真ん中、それでも世界は美しい、何があってもどんな体験をしたとしてもそれでも美しいっていう、そのど真ん中、その絶対的な真理とか、まあもう信仰に近いですよね。
っていうのが、私たちは実は教会に行かなくても、山で修行しなくても、私たちのこの日常のつぶつぶの、もう一粒一粒の中にその絶対的な生命の工程っていうのが、この日常のつぶつぶの中にそれが入っている。
それでも世界は美しい、ビューティフルワールドだっていうのが入っている。
それを瞬間瞬間に捕まえることのできる、キャッチすることのできる、感じることのできる、その感性というかね、感覚っていうものを、吉本バナナのね、出てくる登場人物たちは持っているんですよね。
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私たちもそうだと思うんですよ。
そう、だから、なんていうのかな、この世界はね、苦しみとか、すべてのものはね、美しい、すべてのことには理由があって、悪い人なんて誰もいないっていうね。
苦しみもね、悪も存在しない、そんなものはないっていう、逃避するでもなく、これが悪いんだとか、反対とか言って、立ち向かってね、決戦、決戦、戦う、でもなく、ただただそこにね、
い続ける、生き続ける、その延長に、もちろんその延長に困っている人を助けるとか、海を渡ってね、貧困とかね、何か世界で起こっていることを解決しに行く、その先にいろいろね、それぞれのミッションあると思うんですよ。
それは本当に素晴らしくて、一人一人がね、どこにいようとただそこにい続ける、ただそこに生き続ける、それは生命、生命への物体的な肯定、何があってもこの世界は美しい場所だっていう、そういうね、信仰が真ん中にあると。
だから、まあね、悟りの話から私は吉本バナナだなっていうふうに思ったんですけど、そうなんですよね。このつぶつぶの中にね、悟りの瞬間が全部詰まっているんじゃないかなというふうに思った次第でございます。
わ、22分も喋っている、まあ2222なんでね、もうそろそろこれで、はい、おしまいにしますが、そんなこんなでね、今夜もね、楽しいホロス宇宙塾でした。
まあ来月3月がね、最終回で、で、この今度のね、春からはまた新しいシリーズ第5期が始まるんですけど、これがまたまためちゃくちゃ面白そうで、えっと、胎造会マンダラか、12のね、マンダラのひも解くっていうことでね、これ多分12回シリーズになるのかなと思うんですけど、まあね、次回も、そしてね、次のね、回、第5期もとても楽しみな、はい、今日こんなものでございます。
というわけで、今日も引き続き良い1日をお過ごしください。バイバイ。
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