レイさんのプロフィールをご紹介いただいてもよろしいですか?
はい、ではご紹介させていただきます。
レイ根本さんのプロフィールです。
クリエイティビティー意志の世界で最も影響力のある50人。
フォーブス世界の広告業界で最もクリエイティブな25人に選出され、
ニューヨークを拠点に世界で活躍するクリエイティブディレクターです。
エージェンシーのRGA、AKQAという会社のCCOにされて、
ナイキ、アウディ、XBOX、グーグルなど世界を代表するブランドの戦略とクリエイティブを多数手掛けられております。
2013年と2019年には日本人として初めて、
カンヌライオンのモバイル部門、デジタルクラフトの複数部門の審査委員長に抜擢されております。
2016年にアイアンドコを立ち上げられて、
2019年7月に東京オフィスを開設と、クライアントの新境地開拓の支援をされていらっしゃると。
これは零産的には本位か不本位か分かりませんけれども、
広告界の一郎と評されていらっしゃるという感じでございます。
ありがとうございます。丁寧にご紹介いただきありがとうございます。恐縮です。
広告界の一郎って僕も本当に何回か伺ったことがあります。
自分で言ったわけではないんですけど、知り合いの方が多分15年くらい前に、
ちょうどそれこそ一郎選手がアメリカでバリバリと活躍をされていて、
海外で日本人のスポーツ選手として、今だと特にサッカーとかだと結構多いんですし、
あと野球でも大谷選手がいらっしゃるので、海外で結構活躍されている方は少なくないかなと思うんですが、
特に海外で何かをやっているっていう人がすごく少なかったんですよね。
今でも正直少ないんですけど、そんな時にそれこそ広告批評っていう雑誌がその当時あったと思うんですけど、
そこにインタビューを受けたことがあって、インタビューを対談だったんですね。
パーティーという会社の伊藤直樹さんが、その時は多分AKだったかYDNだったかと思うんですが、
ちょっとどこかはしっかり覚えてないんですが、そこにいらっしゃっていて、
伊藤さんがその対談を僕に持ちかけてくれて、その時に紹介していただいた時のニックネームを伊藤さんが付けてくださって、
それが多分一番初めだったと思います。
それは伊藤直樹さんがお付き合いになった?
そうですね。僕じゃないです。僕なんか恥ずかしくて言えないです。
そうなんですね。早速裏話がいただいて、ちょっと嬉しい。ありがとうございます。
津中さん、今回のコラボレーションをした経緯を、僕らがアドバタラジオが世界のクリエイティブ志向語とコラボっていうところをぜひ、
なぜかと。
我々、先日ジャパンポッドキャストアワードというところでノミネーションをしていただいて、
その時の受賞式パーティーの方で参加をさせていただいたら、
この世界のクリエイティブ志向語のスタッフの方と会うことがあって、
そこで実はレイさんの担当、マジですか?担当してるんですか?って話になって、
いやいやいやって言って、僕はそのスタッフの方と立食パーティーだったんで、
しゃべっていたら、トミーが遠くにいたので、
やべえぞ、トミーこっち来いって言って、
世界のクリエイティブ志向語の関係者がここにいるぞって、
お前絶対ここ絡んどけ!みたいな話になって、
で、時を経て今です。
ほんとだから、3ヶ月前とかのお話ですもんね。
そうですね。
なんかこういうのってよく日本ではある口約束で終わるのかと思いきや、
ちょっとしたらそのスタッフの方からすぐにメールが来て、
やりましょう!こういう感じで、こういう段取りで!っていう感じで、
さすが海外志向と言ったらちょっと語弊がありますけども、
なんかいい感じの流れだな、みたいな思いましたね。
あとあれですよね、やっぱりもしこれがパンデミック前とかだったら、
オンラインで収録するっていう考えにならなかったかもですね。
そうですね。
次回日本に行った時とか、でもそれはいつになるかわからないし、
みたいな感じで流れちゃってた可能性もあるんで。
そうですよね、確かに。
2023年パンデミックもようやく落ち着いてきて、
オンラインでの作業とかオンラインでのつながりが自然になった環境だから、
現実になったのかもしれませんね。
そうですね。
なんかいい言葉じゃないかもしれないですけど、
ちょっと若干ありがたさを感じますね、このパンデミック。
時代の流れがその分加速したところもあると思いますけども。
本当そう思います。
ちょっとここ一個僕踏み込ませて伺いたいんですけども、
レイさん、今回のコラボするにあたって
アドバタラジオって聞いていただいたりしたのでしょうか?
もちろん聞かせていただきました。
ありがとうございます。
楽しくお二人が、トミーさんと砂犬さんがこのノリで、
でも正直今日緊張されてますよね。
いつもよりも滑りがってちょっと感じてますけども。
でも僕の近いところのその業界で起こっていることとかも話されているので、
親近感もありますし、
あと日本で一応会社は経営はしてるんですけど、
そのパンデミック前後は結構な頻度で行ったんですが、
今は3ヶ月に1回とちょっと減っていて、
そういう環境の中で音声メディアを通じて
日本のその環境が分かったりとかするのは、
またまたそれもそれで勉強になりますし、ありがたいです。
いや本当ありがとうございます。
ちょっと改めてアドバタラジオもちゃんとやっていかなきゃいけないですね、砂犬さんね。
ここはちょっとネクタイをグッとやらなきゃいけないなという感じになったね、今。
では、はい、すいませんジャング。
ではですね、今回のエピソードはレイ名本さんのこれまでのところについて、
いろいろお話を伺いたいなと。
そして聞いている方々にレイさんのそのITな部分を
少しでもお伝えできたらなというふうに思っておりますのでよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
ではですね、レイさん。
日本人もそこそこはいたんですが、
でも200〜300人の学校ででも、
70カ国の子たちが来ている、すごくその人種のるつぼ、
まさにそういうところでしたね。
面白い。
そうですね。
そういうビレッジトゥービレッジからですね、
まさにこう話の中で、
僕はこの人との出会いがあったってことをちょっとふわっと聞いて、
田中範之幸さんという存在が出てくると思うんですけれども、
田中範之幸さんというと、
僕たち広告業界のCM大好きっ子からすれば、
ユニクロのルックを作った男と当時言われておりましたけど、
あと携帯のコマーシャルであったとか、
そういうのをいっぱい作ってらっしゃる。
一番最初はアーティストと言われるような感じだと思うんですけど、
その田中さんと出会って、
田中さんの元で働いてらっしゃるんですよね。
そうですね。
田中さんとのエピソードに関わる背景が3つありまして、
1つは、中学生の時に出会った本があってですね、
精神と物質という留川進さんというノーベル賞を受賞した方なんですね。
日本人で、アメリカの大学で教えてらっしゃる方なんですけども、
その人の本を2、30年くらい前に読んだ時に、中学生の時に読んで、
科学というものが芸術だったりとか、
精神ということを解いていくということをおっしゃっていて、
科学を勉強すれば、アートでなぜ人が感動するかというのが分かるんじゃないかなと思って、
まず中学生の時に、僕はもともとどっちかというと、
アートとか絵とか描くとかが好きな人間だったんですけども、
科学にまず興味を持ったのが1つです。
2つ目に、僕は大学美術学部に入るんですが、
まだその時、コンピューターはほとんど使ってはなかったんですね。
大学1年か2年くらいの時にコンピューターで、
インターネットという言葉がまだなかったくらいで、
テルネットとかすごく古い話なんですけど、
それでこの世界の裏側にいる友達とチャットをリアルタイムにした時に、
これすごいっていうすごく衝撃を覚えたんですよ。
それが2つ目。
3つ目にちょうど同じくらいの時に、
ジョン・マエダさんという日記アメリカ人のデザインテクノロシストの人がいるんですけども、
その人がプログラミングを使ってアート作品だったりとかデザイン作品を作っていたんですよ。
その時に僕は彼にランダムにメールを出して、
そしたら意外と返事をくださって、
会いに来ないよってことを言ってくださって、
大学の時に会いに行った。
デザインとテクノロジーを融合すると、
私こういうことができるんだってことを彼の作品みたいに思って、
これがやりたいと。
ちょうど大学卒業する間際に日本に夏に帰っていて、
そろそろ就職考えなきゃいけないなっていう時に、
知り合いの知り合いを通じて田中さんに面接をしていただく機会をいただいて、
じゃあうちにアルバイト来ないよって言ってくださって、
それでクリエイティビティで飯を食っていくってのはこういうことなんだっていうことを見えてそこで初めて。
彼のおかげで元々勉強不足で広告ってことが業界ってことも知らずに、
クリエイティブなことがやりたくて絵を描くとかアートを作るとか、
彼の場合はそのアーティストとしてなおかつ商業的な目的でも
そういうアート活動だったりとかデザイン活動された方なので、
そこでこういう仕事があるんだって気づいてこの道に入ったわけですね。
なので広告っていうことはその時は全く意識してなくて、
それ以外の話もあるんですけども、それが田中さんに出会ったきっかけで
クリエイティブの業界っていうのがあるんだっていうことを教えていただいて、
そしてクリエイティブを作るっていうのはこういうことなんだっていうことを
彼の元で働いたことで、短い期間で終わったんですけども叩き込まれたという感じですね。
ちょっと怖かったんですか?田中さんの思い出で言うとどうなんですか?
僕がですね、20とか21ぐらいの時で、田中さんが多分30後半ぐらいだったと思うんですね。
その時も広告だけではなくてクリエイティブ業界では個展もたくさんやってらっしゃるとか、
すごいブイブイ言わせてたという感じの方で、
僕には意外と、僕と田中さんの元でアートディレクターとして働かれてた2人だけだったんですけど、
怖い前に働き方がめちゃくちゃでしたね。
田中さんとこれはあまり言葉を選ばずに言ってしまうと、
多分これご自分でも認識されてると思うんですけど、時間にめちゃくちゃルーズな方で、
田中さんとお仕事をされた方だと、もう皆さん口を揃えて時間守らないですよね、
そういう方ではあるんですが、クリエイティビリーとか発想とか思いつくことは、
こんな考え方があるのとか、こんな絵にできるのとか、
そういう驚き、毎週何回もそういうのを見ていて、その印象はすごいですね。
田中さんのところに下積みというか、どれくらいいらっしゃったんですか。
もう半年もいなかったので、アルバイトだったので、
インターン的に働かせていただいて、
それから海外の方に行かれたと。
それからまた田中さんのところでインターンとして働かせていただいて、
週6回、間鉄毎週3、4回みたいな生活を。
ちょっとレイさんの口からそれが聞こえるとは思わなかったです。
すごい新鮮です。
20何年、30年くらい前の話ですけど、
広告業界は多分そんな、広告とかクリエイティブ業界はそんな働き方が結構普通だったのかなとは思うんですが、
正直、俺これやっていけないわと思って、
またアメリカに戻って、日本でこんな働き方だったらちょっと無理だなということで、
ニューヨークに行くことにして、
ニューヨークで主力活動をし始めて、クリエイティブ業界に入ったというのが元々の原点です。
それで一番最初、ニューヨーク、海外お戻りになって、一番最初がRGAというわけではないんですよね?
いや、ないんですよ。実はRGAの前にほんの1年くらいだったので、
正直履歴書にはあまり入れるほどのことではないので入れてはないんですが、
就職活動をして、でも最初はですね、アメリカっていわゆる就職活動っていうのが日本みたいにきっちりとないんですね。
なので結構自分で見つけに行かなきゃいけないところはあるんですが、
職なしで兄弟とニューヨークに引っ越して、それからインターネットで色んな職を探して、
毎週10通くらいのメールで履歴書を送ってっていうのをずっとやったんですよ。
それがですね、9ヶ月10ヶ月くらい続いて、無職のままで返事が来なくて、
ちょこちょことアルバイトをしながら親にもお金を借りて最初の数ヶ月は生活できるくらいのお金を借りて、
でも毎月3週4週目くらいになると、あと1週間どうやって食っていこうみたいなのが結構続いて、
最終的にはヘッドハンターが僕のことを気に入ってくれて、色々面接をさせてくれて就職できて、
最初そこに入るんですけどもちょっと会わずに、もう一回職を探し始めて、
RGAも飛び込みで自分からRGAのインフォアットRGA.comみたいなメールを出して、
作品集を届けて、ただ数日後にメールが来てっていう。
なんか意外です。
Aさんなんかポンポンポンと勝手なイメージですけども、海外に渡ってそういうコンペティションがあって、
それのグランプリを取って、それを見たRGAのリクルーターがちょっと君うちのADやんない?
やりますやります!みたいなポンポンポンみたいな、そういうルートを勝手に想像してたんですけど。
いや全然結構ドロドロしてましたね。
RGAに最初入った時は素晴らしいクリエイティブディレクターの人が雇ってくれたんですけど、
そうですね。僕を雇ってくれたボスの方が辞めちゃったので、
いわゆるクリエイティブディレクターという人がいなかった状態が結構2年ぐらい続いたんですね。
その時に徐々にプレゼンをしなきゃ、まだ20、多分5、6だったと思うんですけど、
プレゼンをしなきゃ、それもまだまだ慣れない英語でしなきゃいけないっていう機会が無理やり回ってきて。
すごい。
多分それぐらい、26、7くらいの頃にちょうどデジタルっていうのがかなり大きくなってきて、
マーケティング業界とかが騒がれ始めてきて、
ナイキからのピッチがあって、
デジタルエージェンシー、その専属でナイキのデジタルを担うエージェンシーっていうのを探してますっていう依頼がナイキから来て、
多分5、6社でピッチがあって、その時にクリエイティブディレクターがいなかったので、
まだその20何歳だった時に、僕がアートディレクターとして、
ナイキのお店にプレゼンをしに来たんですね。
ラッキーなことに、RGAがそのナイキのアカウントを勝ち取るんですが、
その時に、RGAにそのナイキ専属のチームとして例を入れてくれっていうことを依頼されたみたいで、
クリエイティブのトップとして、僕がまだ全く未熟な時に、
その役割を担うことになりまして、正直早すぎたと思うんですけど。
でもそれがあった上での、そのヤングガンズなんですね。
そうですね、ヤングガンズの時には、20代後半の時にそのナイキのお仕事が入ってきて、
ヤングガンズはですね、ポートフォリオを出さなきゃいけなかったので、
10点か15点ぐらいの作品を出さなきゃいけなかったんですけど、
その中で、10点だったかな、たぶんRGAの仕事は2点かせいぜい3点ぐらいしか入れなかったんですよ。
他は全部自分で実験的にやってたことだったりとか、自分の活動でやったことを入れたので、
全部RGAの仕事ではなかったとか、ナイキの仕事ではなくて、それは部分的でしたね。
ああ、そうなんですね。そこからの流れが結構いいですね。
そうですね。
ポンポンポンとステップアップと繋がったのかなというふうに思ってたんですけど、
意外と結構泥臭くやってらっしゃったっていうのが見つけてよかったです。
20代の頃はもう結構不安な時でしたね。どうなることやらみたいな。
いや、もう本当にね、トミー、なんか意外だよね。
ちょっとなんか言葉を選ばずに、親近感を勝手にわかってたんですよね。
ここで質問をちょっとしたいなっていうところがあるんですけど、
要にAKQAでCCO、チーフクリエイティブオフィサーまでなって、
2016年にアイアンドコアを立ち上げられて、2019年には東京オフィスを作るじゃないですか。
もう何年か経ってきましたね。
そうですね。
何年か経ってきましたね。
アイアンドコアを立ち上げられて、2019年には東京オフィスを作るじゃないですか。
もう何かずっと向こうでその仕事をし続けて、
余乳会長とかエグゼクティブクリエイティブオフィサーとかわかりませんけど、
それをずっと、変な話で君臨し続けられる、向こうで。
君臨し続けられるのに、あえて会社をお作りになり、
そして東京ブランチ、日本にもそのブランチをお作りになったっていうのはそれはなぜなんですか?
ありがとうございます。いろいろ理由があるんですが、
個人的な理由と、あとそのプロフェッショナルな理由と、
あと日本人の理由があるかなと思うんですね。
まず個人的なところから言うと、
自分で何かをやりたいなっていうのは、20代後半30代の頃からずっとぼやっと思っていたんですが、
どういう形でやれるかっていうことがまだ見えてなくて、
いわゆる英語で言うとミッドライフクライシスっていう言葉があるんですけど、
その中年期の危機みたいな言葉で、
結構これ僕の周りでもたくさんの人がそうなってるのを見たりとか、
30後半ぐらいからもう何やったらいいかわかんないみたいな状況に陥ることはあると思うんですけど、
僕の場合は、その今すなけんさんがおっしゃってくださったみたいに、
君臨し続ける選択肢っていうのはあったんですね。
でも例えば70とか80になったときに、
お金もちゃんといいものをもらって、そこそこ優雅な生活をして、
AKQAでも、そこからどっか行ったとしても大企業のお偉いさんになって、
そこそこの給料をもらって、対処金をもらって、いい生活をして、
日が沈んでいく生活、人生っていうのを、
80ぐらいになって振り返ったときに、
自分がそれで本当に満足するか、
そして後悔しないかっていうことを考えたときに、
いやこれは後悔するだろうなって思ったんですよ。
なのでその30後半ぐらいのときに、
結構安定した道をずっと渡り歩いていくのか、
もしくは今このここ1,2年ぐらいで独立することを決めて、
先はわからないけど、そっちの道を行くのかって考えて、
例えばもう70とかになって一文なしになったとしても、
死ぬ間際に、いや少なくとも俺は試したからって、
自己満足的なことが言えた方が自分ではいいなっていう結論に至って、
独立するっていうことを、君臨する道を捨てて、
まずそれが個人的な理由ですね。
2つ目にプロフェッショナルというか、
仕事の話で言うと、
ちょっとこれ先に話した方が良かったかなって今になって思うんですが、
もともと僕は広告をやってる人間ではないんですね。
さっきもお伝えしましたように、
広告っていう業界があるってことも認識してなくて、
っていうよりかは、
クリエイティブとかアートとテクノロジーを掛け合わせて、
それこそアートとサイエンスを掛け合わせて、
新しいことを生み出す。
英語では僕はアートとコードっていうプログラミングというのを
アートとコードの融合っていうことを言ってるんですけど、
そこの中間点から新しいことを生み出すっていうことをやりたくて、
今でもそのテーマはあまり変わってはいないんですが、
それが別に広告なのか広告じゃないのかっていうのは、
僕はそこは他の人が判断すればいいわけで、
例えばこういうかっこいい映像が作りたいからとかっていうところは、
ほとんど正直、
面白いものはたくさんありますし、
良いものもたくさんありますし、
その業界自体は、
僕も足を片方入れてる人間ではあるので、
ずっと勉強はしてる人間ではあるんですが、
広告はとにかくそこまで気にしてることではないんですね、正直。
なんですが、
その仕事上でクリエイティビティを発揮して、
結果を出すとかっていうところに面白いことがあるんですけども、
クライアントと外部のエージェンシーとの立ち位置だったりとか、
クライアントが求めてるものがどんどん変わってきてるんですけど、
業界がそれに追いつけてないなっていうところがあるじゃないですか。
それを業界の中から僕が広告代理店とかに行って買えるよりかは、
自分の会社としてその大きい客船に乗って、
例えばタイタニックのような客船に乗って、
それをグーッて動かそうとするよりかは、
ちっちゃいスピードをボートに乗って、
いろんな方向に行った方が結果が出せるなと思ったんですよ。
なので、その業界に対するインパクトを大きい企業の中でやるよりかは、
自分でやって新しい道を切り開いていく方が可能性が高いなと思ったので、
独立することを決めました。
最後に日本人としての理由はですね、
これはここ数年築いたというか、言い始めてることなんですけど、
やっぱりこの20年とか30年とか海外に見おいていると、
日本がどんどん衰退していくうちからが弱くなっているのがかなり見えるんですね。
これは日本にいらっしゃる方も同じようなことをおっしゃっている方がたくさんいるので、
海外からだけの視点ではないと思うんですが、
特にその海外にいる日本人として、
日本がそうなっちゃうのを見ているのはすごく残念なんです。
なので、日本人として、
すごく偉そうなことを言わせていただくと、
海外で活動できる日本人として仕事をやっていくことで、
日本を元気にしたい。
僕の別のやっているポドキャストの目的でもあるのが、
日本をどうやったら世界の中で必要な不可欠な存在にできるかというところを目的にして、
いろんな人にクリエイティビティーは何ぞやという話を聞いて、
インスピレーションを与えるというのが、
僕のポドキャストの目的でもあるのですが、
プロフェッショナルとして、そして日本人として、
日本が滅びるのをストップさせたいというところがあるので、
その3つですね、独立した理由は。
なるほど。
すごいですね。
すごいという言葉が簡単すぎて、
レイさんありがとうございます。
ここまでで一旦、
レイさんのこれまでをダイジェスト的に伺ってしまったなと
改めて反省はしているのですが、
この後のエピソードの方では、
いろいろグローバルの部分で審査員に選ばれたり、
取り上げられたというところを、
新居の部分をいろいろ伺えたらなと思いますので、
この後のそういった方たちの質問をさせてください。
はい、わかりました。