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2024-03-12 21:43

#6 建築家の隈研吾さんと考える「千利休 x アーキテクチャー」

今週のお客様は世界的な建築家の隈研吾さん。国立競技場はもちろん、広重美術館や中国の竹の家など、細い木材や竹などを使い、自然に寄り添う建築を手掛けることで知られていますよね。


実はJoiさんの肩書きは、デジタルアーキテクト、つまりデジタル上の建築家なんです。デジタルアーキテクトのJoiさんと、世界的建築家の隈研吾さんによるデジタルとフィジカルの建築家トークを是非お楽しみください。


隈研吾さん略歴:

1954年生。1990年、隈研吾建築都市設計事務所設立。慶應義塾大学教授、東京大学教授を経て、現在、東京大学特別教授・名誉教授。40を超える国々でプロジェクトが進行中。自然と技術と人間の新しい関係を切り開く建築を提案。

主な著書に『日本の建築』(岩波新書)、『全仕事』(大和書房)、『点・線・面』(岩波書店)、『負ける建築』(岩波書店)、『自然な建築』、『小さな建築』(岩波新書)、他多数。


プロフィール写真:

隈研吾さん撮影:(c) J.C. Carbonne 

伊藤穰一撮影:(c) 森清



【編集ノート】

編集ノートには難しい用語や人物名などの詳しい解説をお伝えしています。  

https://joi.ito.com/jp/archives/2024/03/12/005945.html


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サマリー

建築家の隈研吾さんとデジタルアーキテクトのジョイさんがデジタルとフィジカルの建築家トークをしています。隈研吾さんの代表作やジョイさんのニューヨークでの経験などについて話されています。隈研吾さんが中国の竹の建築について話し、美学やセンセビリティについて考えています。

00:02
ここは、エビスのクリプトカフェ&バー。
今日は大切なお客様がいらっしゃるということで、朝からみんながそわそわしています。
あ、いらっしゃったみたいです。
すいません、休みの日。
事務所になってるんだね。
そうです。このビルがもともと僕のデジタルガレージの本社で、
本社が今度渋谷パルクを移ってここが開いたので、
カフェとかバーにしながら、うちの若いチームを入れて、
少しこの辺で遊んでます。いつでも。
隈研吾さんの代表作
本日のお客様は、建築家の隈研吾さん。
国立競技場はもちろん、広茂美術館や中国の竹の家など、
細い木材や竹などを使い、日本的な建築を手掛けることで知られてますよね。
実はジョイさんの肩書きはデジタルアーキテクト、
つまりデジタル上の建築家なんです。
デジタルアーキテクトのジョイさんと、世界的建築家の隈研吾さんによる
デジタルとフィジカルの建築家トーク、気になりますよね。
最近千葉工業大学の学長になって、設立の時に西田喜太郎さんが参加してるんですよね。
そこから始まって、その時代のいろんな本とか電気とか読んでて、
最近英語でThe Great Waveって言って、1840年とかギルデデージの初めと明治の初めの時の
行ったり来たりする人たち、岡倉天心とかジョンマンジロとか、
その辺の人たちのいろんな本があって、だんだん感じてきたのが、
やっぱりギルデデージってアメリカがすごくちょっと南北戦争が終わって、
バブリーになってて、日本はワビサビから西洋に移っていて、
アメリカ人はすごく日本の和の勉強に走って、日本は逆に行っていて、
日本的建築とテクノロジーの関係
その時結構いろんな人たちが日本とアメリカの間つないで、
哲学的にあの時代は物理がすごい伸びて、物理と西洋哲学が入ってきて、西田さんとかが入って、
西田さんから禅が西洋に行って、なんか今また戦争が始まりそうだし、世界中で、
そして物理の代わりにコンピューターが来て、でもやっぱり熊さんとか東洋を西洋に表現して、
西洋を解釈してクリティサイズするっていう、その時期がなんかすごく150年100年前に似てるような感じがして、
それで読んでたら小倉さんのブックオフティーにも影響されたっていうので、確かフランク・ロイドライトもそうですよね。
そこのうねりの中にすごい入ってるような気がしたんですけど、どう思いますか?
それはですね、僕も知らぬ間にそのなうねりに吹き込まれてるって感じはするんですよね。
きっかけをたどっていくと、僕はコロンビア大学にビジティングスカラーって呼んで行ったのが1985年で、
その時までは実は日本の文化なんかそんな興味がなくて、それでその時までにはアフリカの集落とかそっちの方に興味があったわけですね。
僕の建築始めた頃は、もうメタボリズムがそろそろ終わりかけた頃で、
それでかぶって日本の古いものも興味なくて、それ自粛したなと思ってたから。
面白いのはアフリカの集落かなって。アフリカの集落、サハラの縦断旅行とかなんかしたりして、何やっていいかわかんないけど、面白いのは集落だと思ってて。
でもニューヨークに行けば、なんかもう少し別のものも見つかるかなっていうぐらいの曖昧な気持ちで、
85年にニューヨーク行ったらば、日本のこととかばっかり聞かれるわけですよ。
それで何にも答えられないなっていうので、それでオカクラ天神を読んで、英語でちゃんと書いてあるから、
それにやっぱり英語ですごく容量よく書いてあるじゃないですか。だからこれ読んでよかったなと思って。
ジョイさんと熊さんの愛読書、オカクラ天神のThe Book of Teaは、明治39年、当時ボストン美術館に勤めていたオカクラ天神が英語で書いたもの。
日本語で茶の本とも呼ばれています。
茶道をモチーフにして日本人の美意識や文化などを解説したこの本は、当時アメリカでベストセラーになりました。
この一冊の本がジョイさんと熊さんをつなぐキーポイントになってるんですね。
ニューヨークで自分のアパートに茶室を作ろうと思ったんですよ。
茶室作るって言ってもそんな天井も高くないところだから、畳を2畳敷いて、2畳敷けば一応なんかお手前もできるから、日本から急遽茶道具を持って来させて、
それでそこでお手前らしきものをして、で、そうするとそこで視点が下がった途端に畳の上に座らせた途端にうるさかったアメリカ人もちゃんと黙るみたいな感じがあるじゃないですか。
そこの視点の変化とその身体のポジショニングだけで、こんな風に社会が変わって見えるっていうのが面白かったので。
僕もその岡倉天心さんが、元々横浜かなんかであんまり日本語が上手じゃなくて日本語も好きじゃないんだけれども、
アメリカに行ってやっぱり日本聞かれて、そして彼もアメリカに行って和服を着るようになるんだよね。
で、ガーディアンの美術館でお茶を立ててファンドレイジングしたり。
僕もそうなんですけど、やっぱりアメリカに行って初めて日本人の表現の仕方がなんか発見しなきゃいけない立場になっちゃうんですね。
ちょうど僕がニューヨーク行った時に、その同じロックフェラーのグラントもらってたのが、
アーティストだと河又忠と岡田健次郎がもらってて、それで彼らといろいろやってて、
岡倉が、その獣の話が僕もすごくその時ね、刺さったんだけど、
自分の弟子がアメリカに行くのに何着てったらいいですか先生みたいなことを言ったらば、
英語ができるんだったら和服着て、英語ができないんだったらお前何着て、同じだって言ったっていう。
それがね、すごい刺さって、あ、岡倉ってなかなかわかってるなって思って。
それがね、やっぱり僕のある意味でそのニューヨーク体験が原点で、
その前はなんか集落いいなぐらいのいい加減な何やるかやっていいかわかんない、
いい加減な青年だったんだけど、そこでなんかね、自分が見えてきた気がする。
そうですよね。
岡倉健次が見た南北戦争後の後継期に湧くアメリカ。
留学当時の熊さんが目の当たりにした不動産投資が加熱するニューヨーク。
そしてAI潜伏によって株価が最高値を行使する現在。
3人が共通して東洋に惹かれているのは、きっと重要な何かがそこに隠されているからなんでしょうね。
そういう意味で今海外に行く日本人もずいぶん減っちゃってると思いますし、
今海外日本をすごく好んでますよね。
多分熊さんの建築の表現も喋ってる表現も出てると思うんですけども、
やっぱり権力持ってるアメリカ人はまだ結構コンペティティブでトップなんだけども、
一般の若い人たちはこの環境破壊だとか貧富の差とかで、
なんかこうサステナビリティとかをやっぱり日本の美学を通じて感じてるような気がしていて、
日本も上手にそれを漫画とかそういうのはあるけど、表現できてないような気がしていて、
そういう意味で言うと熊さんの言ってるこのアーキテクチャの方向ってすごく響いてるんじゃないかなっていう気がするんですよね。
そうですね。だからそれはニューヨークのそこのところでなんかある種の気づきはあったんだけど、
実はそれがすぐに僕の建築師になれたわけではなくて、それニューヨークが85年86年に行って、
その後やっぱりバブルがあってバブルが弾けて、86年帰ってすぐの5年ぐらいは事務所始めたらすぐいろんな仕事をバンバン来たわけですよ。
で、その時岡倉天使もそんなに関係なくやってたような気がするんだけど、それが弾けた時に東京で仕事すべてキャンセルされたから、
もうそれは日本の田舎歩いたことないから日本歩いてみようっていうふうに思って、
それで日本の田舎のちょっと知り合いがいるようなところ遊びに行ったりして、
で、高知県のユッサラってところで、ユッサラ座って古い木造の建物保存運動やってる友達たちとそこのユッサラの町長と盛り上がって、
ユッサラで木の建物作るようになって、それまで木の建物ってバブルの間の5年間って作ってないわけですよね。
で、それが突然地元の大工とボトル食品と作るってことになって、
で、そこでまたもう一度自分は何も知らないなっていう、木の作り方何も知らないなっていうのに気づいて、
そこで90年代のその失われた10年間の間に日本の地方でそういう木の建物を作ってた時に、
あ、これがそのニューヨークで何か俺が見つけたこととこれが繋がって何かちょっとできそうな気がして、
で、それがこう海外の雑誌にポロポロ90年代のおしまいぐらいから紹介されたらば、
アメリカ人のその頃からある種作者のビリティみたいな感じでみんな建築を見始めてた連中が面白がって見に来てくれて、
まあだから一つの大きな転機は僕が広茂美術館っていうのを栃木県の山奥に作ったのをCNNが撮りに来てくれて、
CNNのアートの番組で結構長い尺で放送してくれて、
栃木県のなんで山奥に来たか栃木県の人は分からないって感じなんだけど、
それが結構世界にバーンっていうきっかけになりましたね。
なるほど。
栃木にある広茂美術館は東海道53都議の中でも最も有名な作品、
翔の白雲をモチーフに設計されたといいます。
突然の夕立ちに見舞われ走り出す旅人たち。
広茂は細い線を使って雨を表現しました。
熊さんもまた木の板を何枚も使って広茂の細い線を建築で表現したんだとか、
地元の杉でできた木の板や石材、和紙などを使い、
周囲の環境や自然に溶け込むように作られています。
この作品が2000年初めに世界から評価されたのも、
建築に対する人々の思いが少しずつ変わってきたからなのかもしれませんね。
岡倉さんの本に少し書いてあるんですけども、
リキューとか禅がお茶に入ると、ギルディデイジっぽいものからサステイナビティとかワビサビみたいになってて、
江戸時代も結構洋服をリサイクルしたり、建築も結構シンプルにしたりするっていうのがあると思うんですけども、
その時代のサステイナビリティとかの流れって今、
例えば一部の人はリキュー今生きてたらきっとお茶やってないっていう人と、
やっぱお茶はお茶で年寄りがやるもので、
本当は今の現代だったら違うものだっていう人と、
やっぱりお茶はやっぱりこのまま続けてサステイナビリティの芯にあるとか、
今のお茶との関係とそのお茶のサステイナビリティの美学って何かこうトランスフォームして今使えるのかとか、
何かその辺ってイメージありますか。
いやそのお茶の話で言うと、やっぱりリキューっていうものの当時やった転換っていうのは、
それこそ本当にまさにギリリデイジからヒデオシティンのギリリデイジを判定するみたいなことを当時やって、
それは僕が体験した80年代からの体験とすごいパラレルに見えるんですよね。
でもその時にリキューがやったお茶っていうのがその後江戸時代っていう、
ある意味SDGsみたいなものが社会のベースにすごくシステムとして入ってセットされたみたいな社会の中で、
リキューっていうのが受け止められ方っていうのは、やっぱりリキューが思ってた何かこう反転するみたいな、
本当にレボリューションっていうのとはちょっと違う形でシステムがされちゃったって感じがあって、
彼は多分それについてはすごい不満があるんだろうなと思いますよね。
そうですよね。それも似てますよね。だから本当は変革したいのに、
何かSDGsのバッジを着た官僚的なシステムになっちゃうっていう可能性もありますよね。
そうですね。で、やっぱりそれはリキューの折り目あたりまではね、
なんとなくこうリキューのエネルギーを引き継いでるんだけど、
その後になっていった世界っていうのは、僕にとってもある種退屈な世界になっていっちゃうし、
それのつまんなさはもちろんあるんだけど、でもそのお茶っていうもので、
あそこの座らせて、座らせた途端になんか世界が変わるみたいな、
入口を小さくした途端に世界が変わるっていうリキューの発明は、
いまだにやっぱりパワフルであるのは感じるから、
なんかそういうそのパワーをうまく活かしながら、システムにはまらないものができないかなって気がしますね。
僕もあの、今本当に最近やりだしたんですけども、まず1個ずつこうパーツが奥が無限に深いっていうのと、
あとはおっしゃる通りですね、リキューの100種を読んで、1個ずつ、
例えばなんか置くときには愛してるものをやや手放すように置きなさいとか、
読んでいるとなんかもうだんだんこう彼の雰囲気がわかってきて、
でやっぱりリキューが作ったことって結構あそこのスピリットをちゃんとこう道具や形で残してるのはすごい表現だったなと思うんですよね。
だからそれを今の翻訳する部分とやっぱり残す部分両方あるような気がして、
だからさっきおっしゃったそのお茶室ってすごく僕面白いと思うんですよね。
そのお茶室のエッセンスをどうやって残すかっていうのと、
熊さんもいろんな文脈でお茶室作ってるの、
うちも今ちょうど新しいマンションのリビングに実はお茶室作ろうとして東大の三井玲さんっていう若い現実家に今一緒にお茶室回って見てるんですけども、
やっぱりすごく面白いですよね、柱一つ取っても。
僕は逆に海外のときには少し日本を表現してたけども、
日本から14年間離れて戻ってきたら、
やっぱり自分も年取ったのもあるんだけども、最初住んでたときに比べてやっぱり深みが全然違うのと、
やっぱり歴史的な背景が年取ったのもあると思うんですけども、見えて。
日本のエッセンスを海外に出す
日本のエッセンスをどうやって海外に出して、
これはそのピースフルネスとかポライトネスもそうだし、サステナビリティもそうだと思うんだけども、
日本が今までやってきた歴史とか美学の中にすごく今世の中にいろんな問題に対してアドレスするフィロソフィーのヒントはあると思うんですよね。
それを建築だとか他のパターンでどうやって外に伝わる形で表現できるのかなっていうのが課題だと思うんですよね。
まさに日本の中にそういうものをアドレスするヒントっていうのはめちゃめちゃ多くですよね。
同じアジアといっても中国とか韓国と比べて、建築物を比べてみただけでも環境に対する意識が違っていて、
中国は戦争している国ですよね。基本的にずっと戦争している国。
でも中国の熊さんの竹の内装が響いてるっていうのもあれすごいいい話ですよね。
まさにその竹のやつは、僕は無意識的にちょっと中国を少しこうこう変えるのに役立ったかもしれないなっていうのは感じてるんですよ。
竹の家は万里の頂上の脇に建てられたホテルで、壁も床も天井もすべて竹で作られた作品です。
テレビのコマーシャルにも使われていたので、覚えている方も多いかもしれません。
あれ最初頼まれたときは、中国の万里の頂上の脇に建築作れないって言うから、万里の頂上の脇作れるのか言ったらなんか、
それは作れるんだよ、なぜかってみたいな話で。
そのとき竹使うなんて考えてなかったんだけども、現地行ってみて、現地の自然のとこ見たら、ここに竹の建築あったらすごいかっこいいなって。
中国人に受けるかどうかわかんないって感じはあって、僕はやっぱそのときの中国っていうのは日本の建築とは全く違う。
やっぱし作っては戦争して壊してまた作るみたいな。
で、ピカピカのチョコ蕎麦菓子そのときは作ってる中国だったから、ここで竹なんか作ったら、
まずクライアントが絶対ノーだろうと思ったし、受けるわけないと思ったら、やけくそで見せたわけですよ、プレゼント。
使用されるだろうと。
そしたらクライアントはなぜか、これは面白いって。
その後みんなが言うには、きっと竹が財布安かったからそれはいいんじゃないか。
安そうで作れそうだと思ったんじゃないかっていう風に後でみんな言うんだけど。
まあ急いでできたらば、そこ10人ぐらい呼ばれて、建築家が世界から呼ばれて作った中で、
僕の竹の内がなんか一番点数入れたら高かったって言って、
お、中国人意外にこれ受けるんじゃないかって言って、
それでなんか特に若い連中がこういうの面白いって言ってくれるから、
あ、中国もなんかちょっともしかしたら違う方向もありえるかもしれないなっていう風には思ったんですよね。
僕の感覚はやっぱり一般の人たち、若い人たち特に世の中のことについて敏感なので、
心の中の美学は結構共通しているものがあるんじゃないかなと思って、
で、熊さんのこういう話聞いたと思うのは、建築で言うとバウハウスっていう建築のムーブメントありましたよね、
百数十年前で、その時僕面白いなと思うのは、根っこにはアーキテクチャ、建物なんだけども、
知らない人に、熊さんに僕がレクチャーするのは変なんですけど、
やっぱり大量生産の時代になって、鉄とかコンクリートとか数学ができるようになって、
ミニマルでビシッとしたビルができて、ヘルベディカのフォントが出るんだよね。
その前はちょっとヒラヒラっとしたフォントが多くて、大学のロゴもみんなそれなんだけども、
MITもやっぱり工学の大学で合理的な男性中央集権トップダウンバーンってやって、
建築の美学とセンセビリティ
ロゴもヘルベディカになるんですね。
で、たぶん最初のヘルベディカの大学のフォントになるんですよね。
MITは。
確かそうだと噂では聞いていて、ペンタグラムのマイクロベルに聞いたんだけども、
でもその大学もノーノンセンスのエンジニアリングになって、
応用系のちょっと二流な大学から結構伸びて、今世界の建築のトップになるんだけども、
でもその大量生産ミニマルの時代っていうのがたぶん100年前、西田さんとかの時代で、
今はその大量生産で観光破壊しても人間を強くするっていう時代から、
もっとサステイナブルで、それこそアフリカの原住民の分散型の美学と、
鉄ではなくて木で、そしてブラック&ホワイトじゃなくてカラーで、
やっぱり全然違う美学が今生まれようとしているような気がするんです。
その中でやっぱりその美学っていうのがやっぱりアーキテクチャが一番いろんな素材を理解して、
そしてデザインもするけども世の中何百年単位で考えるっていうのはアーキテクチャだと思うんですね。
私が行ったメディアラボなんかは建物一個も作ったことないネグロフォンティっていう人が作って、
これもアーキテクチャの中なんですよね。
その時僕らが思ったのはアーキテクチャっていうフィールドがデジタルとか社会をちゃんとこうセンセビリティを作らなきゃいけないっていうので、
今デジタルガレージでもデジタルアーキテクチャレブと呼んでいて、
全然物理的建築じゃなくてこのデジタルのアーキテクチャとかフォントだとかデザインを中心にやらなきゃいけないよねっていう話をして、
いろんなヒントを探してたんですけども、
で、いつもデジタルアーキテクチャというといろんな建築家を紹介してくるんですけども、
そういう建築じゃないっていつも言い返したんですけど、
でもくまさんの場合はもしかすると一緒にできる建築かなとちょっと今日聞いたと思いました。
だからその中国の人たちが竹の表現に賛同して、
それをこうなんだろうね、センセビリティにつながってるわけですよね。
まさにセンセビリティ。
物質に対するセンセビリティっていうのがかなり人間の本質的なところとつながってるような気がしてて、
例えばコンクリートの立派な車は触りたくないけど、竹だったら触ってたいとか、
そのまま枕に竹の枕なんてもあるんだし。
だからそういうところっていうのは、
その部分っていうのは中国の中の人間の中にもちゃんと備わっている部分があって、
そこに引っかかってくれたからああいうふうにできて、
映画監督のチャンエムが今度は北京オリンピックのそれで、
うちの竹の家でオリンピックのCM撮って買い返しに使いたいって聞いたから、
その時日中関係一番最悪だったから、
これ北京オリンピックいいの本当に俺のだって言って、
その日中の問題が問題なければいいですよって言ったら本当に彼使って、
それで北京オリンピックでその映画バンバン流れたから、
その後中国中で僕の仕事を頼んでくる人が出てきて、
一応北京オリンピックで使われたってことは国のお墨付きも一応もらってるわけだから、
じゃあオッケーってことですね。
オッケーじゃないかって感じで僕にいろいろ頼んでくるようになったのは、
もう全部竹野氏から始まったんですよね。
ジョイさんと熊さんの話はまだまだ続きます。
番組ではオリジナルNFTを不良でプレゼントしています。
ご希望の方は特設サイトにて次の問題の答えを入力してください。
熊さんが1980年代に留学していた大学の名前は何だったでしょうか。
大文字半画S字でお答えください。
サイトのリンクは番組詳細欄に記載しています。
また、変革コミュニティのメンバーは答えをお見せサイトで入力してください。
正解された方には100変革をプレゼントします。
デジタルガレージは危険な海に最初に飛び込むファーストペンギンスピリットを創業以来大事にし続けています。
これからくるWeb3、オープンソース時代を見据えた
テクノロジーで新たなビジネスを生み出す仲間を募集しています。
番組詳細欄にあるリンクよりぜひご覧ください。
21:43

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