こんにちは、伊藤穰一です。 今日は、うちのプロダクションチームが、サイバーパンクについて話を聞きたいというので、ちょっといつもと違うパターンの企画にしました。
SF小説に始まって、映画、アニメ、音楽などに広がり、社会運動にまで発展したサイバーパンク運動、1980年代に突然と登場したこのムーブメント、皆さんはご存知でしょうか。
すごいプリンシブルがあって、みんなでやろうみたいな感じではなくて、ただファッキューみたいなムーブメントだから。
反骨精神を貫き、コンピューターで全てを壊そうとしたその時代。
アーティスティックなレイヤーとか、テクノロジーなレイヤーで、破壊したところから出てくるイノベーションというのはあるんだよね。
クリプトとか、そういうのは結構その時代のポリティカルな人たちが、例えば中央銀行ってひどいよね、もうちょっと分散しなきゃいけないよね、アンゴウェイズフリーダムみたいな感じで、中央銀行のアプレッションをクリプトで戦おうぜ、みたいなのって結構ネルじゃない。
まだ見ぬインターネットの登場を夢見ながら、多くの若者が未来のデジタルアーキテクチャを描き続けました。
昔の自分が今いたらあんまり応援してないと思う。ダサい、ダサい、ダサいと思う。
あの時代だったからちょっとかっこよかったのは、コルチュラルなインパクトもあったし、変なテクノロジーの使い方をするっていうのもあったし、
多分そこでパンクしてなかったら、パーソナルコンピューターはないんだよね。もしかするとインターネットもできてないんだよね。
ブロックチェーンや暗号通貨などを生み出すきっかけとなり、メタバースの失礼をも築いたムーブメント、今日はファイバーパンクに迫ります。
サイバーパンクっていうのは、ムーブメントなのかジャンルなのかわからないけども、多分80年代がメインだと思うんだよね。
サイバーパンクっていうのは、70年代ってパンクロックが結構あって、その前のサイエンスフィクションっていうのは美しい、スターウォーズみたいなサイエンスフィクションが結構あって、
サイバーパンクっていうのは、サイエンスフィクションのもっとパンクの汚い、ダーティーなドラッグのジャンキーがいたり、ヤクザが出てきたりっていうので、
よくサイバーパンクのイメージっていうのは、ブレードランナーって典型的なサイバーパンクで、汚い東京とか汚い香港みたいなイメージにテックが入っているので、
代表的な作品でいうとブレードランナーとか、本でいうとニューロマンサーとか。
1984年に出版された、ウィリアム・ギブソンによるSF小説、ニューロマンサー。この作品がサイバーパンクの始まりと言われています。
以降、ハッカーやAI、拡張技術、大輩的なムードなどのモチーフを使った映画やアニメ、音楽などが量産されました。
広角機動隊とかアキラとかっていうのはすごくサイバーパンクで、ゲームとかCD-ROM、マルチメディアとか、その時代でちょうどインターネットが出てくるところまでかかっていて、
ヒッピームーヴメントとレイブとかアシッドハウスとか音楽の方はパンクとハウスが重なるようなところのロボットとかバーチャリリアリティとか、
バーチャリリアリティというのも今流行っているような感じがするんだけど、バーチャリリアリティも80年代にイメージができて、
ちょうどそのインフルエンスと、あと僕のガッドファザーだったティモシー・リアリーのヒッピームーヴメントと、
ゲームとマルチメディアとレイブ文化がガチャンとなってできるんだよね。
ただちょっとでもダサいのね。
サイバーパンクっていうのはゲーマーが多いので、親の家の地下でゲームをやりながら、
彼女もいなくて、ちょっとお風呂に入ってないお兄ちゃんみたいなのがバーチャリアリティして、だからそういう感じで。
パンク由来の反骨精神に、最新テクノロジーのコンピューター、それに音楽やアートなどユースカルチャーが融合し、
反体制の動きは世界中に広まっていきました。
サイバーパンクの舞台となったのは大敗した近未来都市。
当時世界経済で倒殻を表していた日本に、その風景を重ねていた人は多くいたようです。
実際、小説ニューロマンサーの冒頭は、廃墟と化した都市、千葉からスタートします。
例えばウィリアム・ギムソンって日本に行ったこともないのに、ニューロマンサーの最初は、
スカイと千葉がテレビのスイッチと同じように見える。
という有名なオープニングがあるんだけども、
日本人はあんまりサイバーパンクってそんなに意識していなかったんだけども、
アメリカにいる人たちは、日本見てあれがサイバーパンクだよねと。
なんか日本って、外から見るとロマンチックに見えたのもあるのかもしれないけども、
ガチャガチャした秋葉原とか、香港のああいうスラム街みたいなところのイメージが、みんななんかちょっとかっこいいなっていうのがあって、
日本人はそこ多分見えないよね。向こうから見るともうちょっとそれがロマンチックだったんじゃないかな。
サイバーパンク憧れの国で生まれ、コンピューターと音楽を愛した日本人。
ジョイさんはサイバーパンクムーブメントの広がりと、最もシンクロしていた人物の一人でした。
僕が高校3年卒業した時には84年なんだよね。
84年にニューロマンサーも出るし、84年にフィリプスとソニーがCD-ROMを出して、
そこからマルチメディア時代っていうのがあって、日本でいろんなCD-ROMのゲームとか、
その頃も結構NTTもマルチメディア時代だっていって、CD-ROMゲームもいろんな日本のゲーム機とかも出てきて、レーザーディスクとかそういう時代なんだけども、
その時代ってまだインターネットもちゃんと動いてないし、結構なんちゃってテックなんだよね。
ゲームはちゃんと動くけど、それ以外のものってまだサイエンスフィクションだった時代なので。
ただ、まだこの頃はテレビや雑誌などでサイバーパンクを目にする程度だったといいます。
僕もゲームを好きだったし、音楽もずっとインダスチュアルミュージックをかけてたし、結構自然な自分の仲間だなみたいな。
やっぱりサイバーパンクってパンクの延長だから、やっぱりオーバースローをしようとしているレボリューションの動きがあるので、
僕もちょうどその頃はアクティビストになろうみたいな感じで。
僕が日本のアメリカンスクールを卒業した年にCD-ROMとNeuromancerが出るので、そこでもうキックオフなんだよね、メディア的にはね。
本当に自分がもうそのメンバーじゃんってなるのが、たぶん90年サンフランに行った時だと思うんだよね。
ジョイさんがサイバーパンクに大きく関与するようになったのは、1990年頃のこと。
当時、世界は揺れ動いていました。
北京ではテガオモン事件が起きました。
ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが45年ぶりに統一。
中東では湾岸危機が勃発。激動が続いていました。
一方、日本はバブル経済が崩れ去る一歩手前のお祭り騒ぎ。
その頃はゲームが流行ってたし、日本はそんなにアメリカみたいにドラッグギーじゃなかったし、
レイブの音楽とか、音楽芯は強かったので、マルチメディアのムーブメントのノリと、
ゲーム、ニューウェーブ、ナイトクラブ、アメリカを気にしてるけれども、
コンピューターグラフィックスとか、ビデオディストローキー、VJとかは、
僕が一緒にやってたハイパーデリックビデオっていうオーストラリア人なんだけど、
日本でビデオやってたユニットもうちと一緒にやってたし、
ビデオミキシングとか、テクノロジーがちょっと入ってきた時代なんだけど、
ただその頃はアナログなんだよね、ビデオミクサーもアナログだし、
コンピューターグラフィックスってすっごい高かったから、
ちょろちょろってみんな使って格好つけてた時代だね。
あの時代は、僕も上の偉い人たちに圧迫されてる日本人の若者の気分があって、
やっぱりサイバーパンクってパンクの延長だから、やっぱりオーバースローをしようとしているレボリューションの動きがあるので、
僕もちょうどその頃は10代、20代なので、こんな感じでアクティビストになろうみたいな感じで。
そんな時、サイバーパンク運動の中心人物、ティモシー・リアリーが東京を訪れたのです。
ティモシー・リアリーが日本に何年かな、90年かなんかに来た時に、
僕が会って、その頃僕六本木のディスコとかクラブやってたので、
ティモシー・リアリー連れて日本の若者のムーブメントを紹介するのよ。
80年代僕はシカゴでDJやってた。
その時はインダスチュアルミュージックとかニューウェーブの後半とかハウスミュージックとかが流行ってて、
それはディペッシュモードとかニューウェーブとか、その辺は結構日本は格好良くやってて、
僕もシカゴのクラブのスタッフを日本に連れてきて、六本木でお店やってた。
その時にティムとかも来て、今までの日本人とすごいコントラストだったので、
そういう意味では尖ってるなっていう感じだったんじゃないかな。
当時、日本を訪れていたティモシー・リアリーのコメントです。
ソニーの技術はインディビジュアルの下に持っていくと。
コンスユーマーの方から組織とか企業をドライブしていくっていう方向がすごく出てきましたよね。
通訳をすると言うと、コンスユーマーの方から企業とか組織をドライブしていくっていう方向がすごく出てきましたよね。
コンスユーマーの方から企業とか組織をドライブしていくっていう方向がすごく出てきましたよね。
通訳をすると言うと、コンスユーマーの方から企業とか組織をドライブしていくっていう方向がすごく出てきましたよね。
通訳をすると言うと、コンスユーマーの方から企業とか組織をドライブしていくっていう方向がすごく出てきましたよね。
通訳をすると言うと、コンスユーマーの方から企業とか組織をドライブしていくっていう方向がすごく出てきましたよね。
通訳をすると言うと、コンスユーマーの方から企業とか組織をドライブしていくっていう方向がすごく出てきましたよね。
これみたいに大会社の企画部によって商品ができて、その商品によってトレンドが動いて、トレンドに動いて人間が考えるっていう方向の逆方向から訴えてまして、
これみたいに大会社の企画部によって商品ができて、その商品によってトレンドが動いて、トレンドに動いて人間が考えるっていう方向の逆方向から訴えてまして、
逆方向って言うと逆に人間が何欲しいかと。それでみんなでグループでムーブメントを作って、それで逆に企業を動かすと。
その逆方向が90年代の90sの考え方と思うんですけど、それをプッシュするのはコミュニケーションがものすごく大事。
グループの意識を持っていく。それは雑誌とかこういうビデオとか、コミュニケーションチャンネルもテクノロジーで増えてきてますので、
そのインディビジュアルのパワーっていうのをこれからどんどんどんどんテクノロジー通じて強くしていきたいっていう彼のものすごい夢で。
昔は60sに彼らが言ってたのも、やっぱり技術の部分とかでテレビで人々をコントロールすることができたんです。
でも今はもっと増えて安くなったので、そういう技術が人の手に入ることになってコミュニケーションが増えて、やっと彼の夢が実現できる社会になってきたと思っていると思います。
彼はこれだって言って、一緒に本を書こうとか言って。
ヒッピー時代はトゥーンイン、トゥーンオン、ドロップアウト。
ドロップアウトするのがヒッピーだったんだけども、僕とティムが日本人はトゥーンイン、トゥーンオン、テイクオーバーっていうので、
日本の若者はこれからテイクオーバーするんじゃないのかなって言って、
日本人の若者はThe New Breedっていう新しい人種だっていう、新人類はもうちょっと前の話なんだけども、新しい人類だっていうので一緒に本を書こうとしてた。
母親がロスに引っ越した時に、ティムが僕らを飛行場で迎えに行って、彼の家に連れて行ったら、そこにトニー・スコットとか、いろんな人たち、ハリウッドの人たちがいて、
彼は車で僕と母親と妹をサンフランに連れて行くんだよね。
サンフランでモンド2000のモンドハウスっていう家があって、そこでパーティーして、
そこでジョン・ペリー・バーロとか、スコット・フィッシャーとか、その当時のサイバーパンクのほぼ全員が集まって、そこでみんな紹介してくれたんだよ。
ほぼ1週間で、ロスとサンフランの意味がある人たちをほとんど全員、ティモ・シリアリーに紹介してもらって、
うちの妹がそこで出会ったスコットと結婚しちゃうし、そこからいろんな発展があるんだけども、
だからティムが全部ハブだったよね。彼が日本に来て僕と繋がって、僕をアメリカに連れて行って、僕を全部繋がって、
そこから僕がサイバーパンク&サイカデリック・ワールドに引っ張り込まれるんだよね。
ジョイさんがニューロマンサーの作者であるウィリアム・ギブソンと出会ったのもこの頃のことでした。
ティモ・シリアリーとウィリアム・ギブソンが友達だったので、結構すぐウィリアム・ギブソンとも会えて、
ウィリアム・ギブソンとも仲良かったし、ティムがウィリアム・ギブソンと一緒にニューロマンサーのゲームを作ろうとしていて、そのお手伝いとかもしてたし。
さらにティモ・シリアリーの紹介で、雑誌モンド2000の東京特配員に就任。
日本のテクノロジーやカルチャーなど様々な情報を提供しました。
その頃ちょうどデジタルガレージもマルチメディアだったので、ティモ・シリアリーのウェブサイトとか、CD-ROMのウェブサイトに変えちゃうんだけどね。
ジョン・C・リリーも、彼もその時代のグルーなんだけど、そのウェブサイトもデジタルガレージが作ったり、ちょうどそこでいろいろプロジェクトをやった。
当時は現地の雑誌や新聞などでサイバーパンク当事者として取材されたこともあったといいます。
ティモ・シリアリーとかモンドの連中は、本物の日本人だと言って、彼らのイメージする日本人にしちゃうんだよね。
人に紹介するときにいろんなことを言って、そうなのかな、みたいな感じになって、結構自分のアイデンティティも複雑だったんだけど。
僕について、僕の話を結構アメリカの雑誌とかで、ハワード・ラインゴールとか、モンドとかに書いたりして、
ちょっとだからそういう日本人代表、若者サイバーパンク当事者みたいな感じでご紹介されていたのかな。
僕は幼稚園から中学校1年生までアメリカで、そのときは71年から81年ぐらいの間なんですけど、
そのときは日本人ってすごく嫌がられた時代。車が出てきて、僕もデトロイトに住んで、結構日本人だといっつもいじめられたんだよね。
中学校、日本に来てインターナショナルスクールに行ったら、DJやったりパーティーやったりして、日本人としてのプライドも出てくるし、
ずっといじめられてると結構自分も不安になって自尊心もないんだけど、ちょうどその頃日本人はかっこ悪いブランドからかっこいいブランドになって、
多分自分の人生で一番なんていうのかな、僕の中でなんとなく自分の青春の一つのステップだったのかな。
そしてインターネットの登場により、サイバーパンクは終焉を迎えます。
10年ぐらいボワッと盛り上がるんだけど、そこからインターネットができちゃうんだよね。
そうするとモンド2000の時代からワイヤードの時代になって、
ワイヤードの時代は結構みんなお金が儲かり出すし、アップルとかインターネットが流行る時代になると、
シリコンバリにプッシュして、結構みんなクリーンなイメージになってくるんだよね。
だからドラッグもなくなるし、レイブ音楽からもうちょっとポップス系になって、
そしてダウンタウンのサンフランシスコからスタンフォーノのイメージになって、ピシッとなるんだよね。
1994年、ヤフーとネットスケープが誕生したこの年、ニューヨークタイムズに小さな記事が掲載されました。
タイトルは伊藤上一、デジタルな欲望のままに。
インタビューではこんなやりとりが残されています。
サイバーパンクについてはどう思いますか?
サイバーパンクという言葉はあまり良い言葉でありません。
パンクはザラクしたイメージが強いですし、ちょっともう古い言葉ですよね。
今はネットサーフィンの方が響きがいい。
私はかなりサイバーパンクにハマっていましたが、今はもっと建設的なことがしたい。
もう60年代ではありません。
私たちは自分自身を変容できる時代にいるんです。
ゲームというホビーとDJというホビーと、僕その頃やっぱりサンフランレイブのファッションを日本に輸入してたりするので、
ファッションの話と、あとはムーブメント作りとかコミュニティ作りだとか、
全部僕がやったことがそのままぐちゃっと混ざっているムーブメントだったので、
そこはすごく相性が良かった。
その当時のワイヤードもモンド2000も全部僕は編集部に入っていたし、
日本の雑誌に竹村先生がメインで結構活動していたんだけど、そこでもいろんな連載とかしていて、
そこから自然にインターネットがメインになって、
どっちかというとネットサーフィンだとか、インターネットスタートアップとか文化の方に行って、
今のデジタルカルチャーがちょうど出てくる頃がサイバーパンクの終わりの頃なんだよね。
サイバーパンク運動は何だったんだろうと。
デジタルテクノロジーがやっぱり一般社会に普及して、
パンクカルチャーと重なって今のポピュラーデジタル文化を作る最初のフェーズだったんじゃないかなと思うんだよね。
ヒッピームーブメントがあって、ステュアート・ブラウンがいて、
ステュアート・ブラウンがホールエースカタログでTools for Everyoneとやって、
そこがスティーブ・ジョブズとかが刺激して、ホームブルーコンピュータークラブができて、
アップルコンピューターができてっていうのが、ここは結構サイバーパンクと連続性があるんだよね。
もう一つはサイファーパンクっていうのがある。サイファーって暗号ね。
サイファーパンクっていうのがサイバーパンクの後にくるんだよね。
それはサイバーパンクやってたディセントラライズの人たちが暗号に入って、
暗号から暗号通貨に入って、そこがそのままWeb3につながっているので、
結構そういうムーブメントはそこから出てきているのは確かなんだよね。
ここまで当時の音声も交えながら、サイバーパンクについて、
ZOEさんの思い出話をご紹介してきました。
もはやインターネットが当たり前となりましたけども、
その裏側にある知られざるストーリー、
現在のブロックチェーン仮想通貨Web3まで続く文脈を知ることができて、
僕は本当に面白かったですね。まさに歴史の証言でした。
さて、ここまでお聞きいただいた皆さんにNFTをプレゼントします。
サイバーパンク運動のきっかけともなった小説のタイトルは何だったでしょうか。
大文字半画英数字でお答えください。
詳しい取得方法は番組詳細欄に掲載しています。
そしてここでお知らせがあります。