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国宝について話しまくる(睡眠導入剤 )
2026-03-27 42:03

国宝について話しまくる(睡眠導入剤 )

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眠すぎてUPする前に寝てしまいました💤

感想

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サマリー

このエピソードでは、映画「国宝」を鑑賞した感想が語られます。映画は難解で長く感じられたものの、その独特な表現方法や、主人公の葛藤と成長の描写に深い感銘を受けた様子が伺えます。特に、言葉にならない感情や深い境地を巧みに表現した点、そして俳優陣の卓越した演技について熱く語られています。また、レビューを読み漁る中で得た様々な視点や、自身の解釈との比較も興味深い点です。全体を通して、作品の芸術性の高さと、鑑賞者に深い思索を促す力について語られています。

映画「国宝」鑑賞と第一印象
こんにちは。今日は、何日なの?25、3月25ですね。
ヨガでね、ここまで歩くんで、話しましょう。
今日はですね、映画見てきました。国宝ですね。
2025年の6月に始まった、そうなんですけど。
ありがとうございます。
この国宝の映画の、最後ね、エンディングに流れるキングネームの、何とかっていう、何だっけ?聴きそうに。
音楽が良くて、で、それのプロモーションビデオを見て、国宝ってやっぱりいいのかなぁと。
その時に鬼滅の刃が、現場でも結構流行ってて。
鬼滅の刃を2回見に行った時期だったんですよ。ちょうどその放映時期ね。
で、感想としましてはですね、難しかったですね。
それというのは、本当に感想とか、出来栄えとか、感じ方とか、いろんなポイントがあると思うんですけど。
長いっていうのは結構有名だったと思うんですよ。
でね、当時鬼滅の刃も長かったの。長かった。
まだやるの?っていう、赤澤の人間の頃の回想シーンで、3回目くらいから、いらないだろうって思う感じの長さあったんですよ。
で、今回の国宝もね、10時40分からスタートだったんですけど、12時半で1回腕時計見ましたね。
あと何分なんだろうって。
なんでやっぱりだいたい、1時間半くらいで人の追求力って切れるんです。どんなに頑張っても、どんなに作品でもね。
いろんな感想はあれど、こうやってモヤっとして話そうって思うモチベーションを得られたってことが、映画を観に行ってよかったなと思いますね。
今回1300円だったんですけど、当初映画って2000円くらいするイメージがあったんで、1300円だったら十分元は取れてるんじゃないかと思います。
で、これはね、国宝がものすごく好きで何回も通ってますって人もいるのも知ってて。
そんな中では、もう1回見たいのは、主人公2人、でもダブル収演だったと思うんですけど、主人公2人が幼少期の時の渡辺健さんみたいですね。
本当ね、演技俳優のぶつかり稽古みたいな映画だったんで、寺嶋忍さんだったかな、がパッて画面に映った瞬間に、出たーってなりましたね。
出た、この人。
もうこういう役をやらせたら、一流というかね、ぴったり、ぴったりだなって思いますね。
本当にね、今回って出演してる人とかも全然知らないまま見てたんですけど、本当に知らないまま見たので、どういうことだったんだろうなっていうところもいっぱいあったから、
今ね、最近よく女の子たちがね、シャブ用に行くって言ってたんで、シャブ用っていうね、ファミレスで1人でお肉を茹でて、野菜を巻いて、もぐもぐ食べながら、
この国宝の数あるレビューをね、読み漁ってたんで、私のこのモヤモヤをピタッとね、言語化してくれる人がいるんじゃないかという期待を込めて、ノートとかをね、読み漁りましたけど、
多分ね、みんな本当にそうだよねっていう感想をみんな持ってて、私、え?って思う感想はそんなになかったかな。
ただ、大人になって、若い子も書いてるから、なので若い子よりも年配の方が書いてるものの方が、全体的にやっぱりね、需要帯が広くて大きいというか、
深読みしてる、いい意味でね、すごく豊かに補完されて、映画を見てた人とか、見た感想を補完してくれる人の文章っていうのはすごく、あーなるほどなって思うところもありましたね。
とりあえずちょっと予感いかなきゃいけないんで、終わったら、ノート、読んだ時の何個かね、ノートがいい記事があったので、それに合わせて感想戦したいと思います。
まあもうネタバレ、もう見に行く人いないかもしれないけど、一人でね、なんせ一人で見に行ったんで、まあでもね、これって別に見終わった後に一緒に見た人と感想戦するっていうものでもないんだよな。
同じ枠の枠ぶってなった人と話したいことであって、どうだったっていう話し合いみたいなのはしたくない作品だったかなと思います。
はい、ではガチフォローです。
はい、ではそこからね、結局一日経ってしまって、今仕事終わって帰ってきまして、すっかり明日なってしまいました。
今日は金曜日になっているかと思うんですけど、国宝の話はね、話し切っちゃいたいなと思って、で、昨日話していた、私がね、シャブ用っていう食べ放題のランチ行った時に読み漁ってたノートの記事が国宝で検索しても出なくなってきましたね。
で、ノートはね、ランダムに検索結果を出すのかなと、なんでしょうがないので眠かったんですけど、もう一回ノートで自分の考えとか、今回はね、説明をするにあたっての近い文章は何かなと思って探してみたところありましたね。
近いとはまた違うんだけど、2026年の2月22日に書いているハルエモンさんの文章をちょっと紹介しつつ、一回にちょっと読みます。
で、それはまたね、もう一回戻って反省しながら話していこうかと思います。で、これがね、もちろん90%以上私の思っていることを言葉にしたものではなくて、ただ、見ているフェーズっていうのかな、階層が近いなーってちょっと思ったので、これを紹介していこうと思います。
はじめに、映画国宝を見ました。
この記事は映画の感想文を書こうとしているわけではありません。
あの時間に何が起きていたのかを、後から言葉で辿ろうとしている試みのようなものです。
ただ、言葉にした瞬間に何かがこぼれ落ちることもあらかじめ承知しています。
この書き方がまたね、独特な人なんだろうなと思いますけども。
レビュー探索と作品への期待
辛すぎる人生として描かれないということ。
物語の表面を追えば、これは過酷な物語だと思います。
極道の血を引きながら、目の前で父を亡くし、歌舞伎の世界に飛び込んだ主人公、菊尾が、歌舞伎の血筋を持たないという欠落と、
まあネガティブな部分ですね、と向き合いながらも、盟友や将との別れや葛藤を経て、人間国宝へと至る一大旗。
だけど、この映画は辛すぎる人生としては見せていない、そういうふうに感じました。
嘆くフェーズを通り越したところにある何か。
沈黙、需要、覚悟とでも呼べばいいのでしょうか。
それをただそこに置くような、菊尾の苦しみは説明されていない。
感情も誘導されない。
観客にここで泣いてほしいという作意がどこにも感じられなかったように感じました。
通常の映画であれば、そこには音楽が差し込まれ、表情のアップが重なり、感動の場面というラベルが貼られることがあると思います。
しかしこの作品は、そのラベルを徹底的に剥がしたまま進んでいく。
剥がされた空白に観客自身の何かが吸い込まれていく。
考察ではなく鼓動音のようなもの。
通常、映画を見るとき、人はあの場面はこういう意味だったのではないか。
あのセリフにはこういう背景があるのではと考えると思います。
物語を読み解こうとするのではないでしょうか。
しかし今回私はそうならなかった、というよりできなかったのかもしれません。
頭が考察モードに入る前に別の何かが先に届いている。
「国宝」の表現技法と主人公の描写
それは波動のような、旋律のような、鼓動音のような。
キクオはキクオという人間が世界に対してどのような形で存在していたかという輪郭そのものが、
言語化される前に体に流れ込んでくるような感覚でした。
意味ではなく周波数とでも言えばいいのでしょうか。
ストーリーを解読するのではなく、その物語が発している固有の振動に自分自身を調律させていた。
そういう受け取り方をしていたのではないかと今では思います。
だから映画を見終わった後疲れていたのかもしれない。
言葉に変換する前の段階で受け取り続けることは思ったよりしょうもするものですから。
キクオの晩年
私これ初めて読んでますけど、読めない漢字があったらやだな。
徳川家康との類比
人間国宝に戦死された後のキクオの表情や佇まいに、私は徳川家康の晩年を重ねました。
これは私の個人的な解釈です。
乱世を生き抜き、人質時代を絶え、信長の陰に、秀吉の陰に在り続け、それでも最後に残った男。
豊臣家を滅ぼそうとするその決断のうちに、慈悲とも礼徹とも取れない、分類不能な何かが宿っている。
仏のような悟りを開いたようでいて、心は揺らがない。
固いというよりも強い糸のような、どれほどの重さがかかってもギリギリのところで張力を保ち続けている。
キクオの晩年の佇まいもそういうものだったように感じたのです。
若者の持つ万能感とは違う。
万能感とは何でもできるという、全方向へのエネルギーの拡散だが、キクオのそれはむしろ逆のように思えました。
あらゆる選択肢をそぎ落とし、ただ一点のみに全存在を集約させた、修練させた、究極の限定。
何かに捧げたというよりも、どこか取り返しのつかないトレードオフだけれども、それはネガティブな意味ではない。
そしてそこに立っているという出障りがありました。
なぜ歌舞伎に執着するのかという問いに、監督自身もおそらく明確な答えを持っていないのではないかと感じました。
もしかしたら明確な答えを持っているかもしれませんが。
そしてそのことが、この映画の誠実さなのではないかと思いました。
なぜという問いを到達点にしないから、その問いに答える必要もなく、
観客も答えを求めずに済むような、説明されない執着の前で、ただ佇んでいる。
なぜという問いが存在できない場所。
なぜという問いは、自分と対象の間に距離があるからこそ生まれると思います。
深い瞑想状態で無に至る瞬間に近いと後から思いました。
思考が静まり判断する自分が後退し、ただ今ここにいるという事実だけが濃密になっていく。
菊王が辿り着いた場所も、そういう構造を持っていたのかもしれません。
徳川家康との類比と主人公の晩年
彼にとって歌舞伎として生きることは、もはや選択ではないのではないかもしれません。
呼吸と同じ動かしがたい事実になっている。
なぜ息をするのかと問わないように、なぜ芸を続けるのかという問いにも、そこには入り込む余地がない、そのように感じられました。
語られない沈黙の中に込められたコンテキストは膨大だと思います。
けれどもそれは決して重々しくドロドロしたものではなく、慈悲の雨のような野原のような静けさである。
でも軽やかではない、ポジティブとも言えない、かといってネガティブでもない。
中立的に満たされた空間に一人どこかを見つめて佇んでいる、という何とも言葉では表現しづらい景色でした。
遠くから眺めていたということ。
人間国宝となった後の菊王を私は遠くから眺めているような心地で見ていました。
手に届くような生々しい人間味から少し離れたところにある、ほら読めない、難しい、せいなんとかな美のようなもの。
柔らかいのに芯がある。
その柔らかさはあらゆる執着と抵抗を捨てた後の柳のような静けさで、柳のようなしなやかさで、芯は捨て去った後に残ったものが折れることのない何かだったから、威風の距離と言えばいいのでしょうか。
あまりに純粋で美しいものに対して自然と一歩を引いてしまうような、あるいは彼が佇む場所が、すべてを捨てたものにだけが立てる生意気であり、私は外側からそれを目撃しているという感覚。
その遠さは寂しさではなかった。
完成されたリングの中にいる、一人でいる、孤高の、しかし不思議な清潔さがあったようにも思います。
作りもの感がないということの意味。
この映画には作りもの感をほぼ感じませんでした。
ドキュメンタリーに近い質感があると言いましょうか。
でも、ドキュメンタリーよりもドラマチックな感じ、そのパラドックスの正体は何かと考えると、おそらくそれは劇的な事件だけをつなぐのではなく、その間にある残酷で静かな時間の堆積を丁寧に描いているからではないかと思います。
沈黙や佇まいに多くを委ねているような、現実が持つ割り切れなさや沈黙をそのまま画面に置く、その選択がドキュメンタリーをも超えるドラマチックな実在感を生んでいるように感じます。
また、引き込まれる感覚があまりありませんでした。
引き込まれるとは強い自力で外側から引っ張られること。
そうではなく、ただそこにある、流れているのに気づいたら自分ごととして入り込んでいた。
二つの顔の流れがある時点でいつの間にか一つに混ざり合っていたような、そんな没入の在り方でした。
観客をコントロールするという意思がないように見えたから、警戒心が働かなかったのかもしれない。
ここで感動させようとしているという仕掛けが見えないから、メタ認知が防御壁を張る必要がなかったのかもしれない。
その隙に物語はスルリと自分の内側に入ってくる、そんな心地でした。
語られない沈黙と孤高の美
善であり、無である。
完全なる善と完全なる無、全てがあり、同時に何もない。
その矛盾する二つが衝突することなく、一つの空間の中に同居してしまっている。
そしてその空間に菊王が佇んでいるようなそんな心地がしました。
完全なる善と完全なる無の内容はわからないというか、複雑に絡み合いすぎて言葉で表現できない。
だからこその善であり、無なのかもしれません。
言葉で表現してしまったらそれは善になり得ないでしょうし、無でもなくなるような気がします。
身体が受け取ったもの、入り込まないように自分で制御しながらメタ認知をフル稼働させていた。
後から振り返るとそういう状態だったと思います。
菊王の善であり無である、その境地に深く潜り込みながら同時に、それを観察している自分という病を現実に打ち込み続ける。
それが限界に達したことにより、作品を見た後ぐったりと疲れを感じたのかもしれません。
身体が受け取ったと言えばいいのでしょうか。
知的に理解したというのは違う次元で、菊王という人間の性の周波数に自分の神経系が同調してしまったような感じ。
言葉になる前の段階の何かがそのままの重さで自分の内側に入ってきた感じ。
作り物感のない実在感と没入のあり方
疲弊はそれほどまでに純粋に一つの魂の奇跡を見届けた証なのかもしれません。
言葉にすると軽くなる。
菊王は芸に自分を捧げたと言ってしまうと、そこにはまだ情熱や献身という美しいものが混じってしまうように感じます。
でもそれは私にとっては少し違う気がする。
芸のために捧げたという言葉は、ある種の美化のようなものであるように感じます。
ラベリングも。
あの佇まいに宿っていたのは、需要と覚悟の延長線上のような悪魔との取引による等価交換でもない。
冷徹さでもない。
そしてその先に何があるのかはわからない。
解釈しない方が、またラベルを張らない方がしっくりくる。
言葉にした瞬間に軽くなってしまうものがあると私は感じています。
この映画が描こうとした言葉にできない景色に対して、最も誠実な付き合い方は、それを言葉にしないことかもしれない。
でも言葉にしないことにはここに欠けない。
善と無の共存と深い疲弊
だからこれは、言葉にしながら言葉にできないことを描こうとしているという矛盾した試みです。
そういう矛盾の中でこそ、この映画は生きているのだと思います。
最後に、今までに体験したことのない、間無料の映画体験でした。
監督やキャストの方々、そして映像や歌舞伎の再現に関わられた全てのスタッフの皆様の並々ならぬ熱意とこだわりがあったからこそ、ここまでの作品が生まれたのだと思います。
制作に関わった皆様への最上の敬意を表するとともに、心より感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。
という文章が、わりとしっくりきたなと思っております。
ここから、この文章の中から抜粋して、私の感想を伝えたいなと思いました。
最初に、ここを見ました。
私は、このシアターを出てから、もやっとして、どんな感想が世の中に出ているのだろうと、早く確認したいなと思いました。
いい映画だったかどうかという、前半で話したかもしれないですけど、その要素をチャッピーに20個くらい聴いて、すごくいい答えが出てきたんですけど、
1時半なので、サクッと話すしかなくなっちゃうんですけど、
まずは、私が見終わった後、レビュー、他の人の意見を聴きたいなと思いました。
私は映画、インターステラという映画もすごく好きなんですけど、
インターステラを最後どうなったかというのを明確に描かない、きっとこうでしょっていう描き方をするんですけど、
私はものすごく、そういう受け取り側に投げちゃうものがあんま好きじゃないんですね。
受け取るのが得意ではないっていうのもあって。
今回の映画も割とそれに近いのかなと思うところもあれば、こうなんじゃないかなと自分で思うところもあったので、
それを言語化している人がいたらいいなと思って探していました。
辛すぎる人生として描かれなかったということ。
これもね、私も本当にそう思います。
なんかそういう悲しいとか、お涙ちょうだいみたいなのじゃなかったところが非常に品があっていいなぁと思いました。
いろんなレビューをね、いろんなレビューを読んだ中では、糖尿病怖いって書いてる人がいて、
もちろん糖尿病が怖いしなりたくないんですけど、
この映画を見た時の感想としては、私とはちょっと違うなぁと思っていて、
これは糖尿病が怖いとか病気で話を終わらせよう畳みかけようとしてるっていうコメントあったんですけど、
私はね、これはね、キクオっていう主人公が欲しがった血ですね。
自分が今まで以上に輝いていく、自分らしく生きていけるために必要なものが血だと言ったけど、
言葉にできないものへの誠実な向き合い方
糖の血筋の人たちは血によって満足する人生を生きられなかったっていうところなんじゃないかなって思ってはいたので、
後半の、このね、ノートにある後半の文章である、なんだっけ、なんだっけ、結構長かったですよね。
えーとね、なんだっけ、今何の話してたっけ、ちょっと眠くなってきちゃった。
えーと、今日大変だった、今日女の子が一番大変だったと思うけど、今日のゲーマーはなかなか大変で、
めちゃめちゃ眠い、なんだっけ、今私はどんな話してたっけ、今私が話したのは、
あ、そうだ、自分の着地するところもあったから、どっちなんだろうなって、すごくね、レビュー読みたいなと思った最後でしたね。
で、えーとね、なんだっけ、今私何の話をしてた?
きくおが、きくおが、えーとね、きくおがね、なんだっけ、本当に今時間が経てば経つほど抜けてきちゃうな。
まあでもね、えーと、後半に書いてあったのになー、なんだっけ、
あ、そう、お涙ちょうだいの流れにしてないところがとても品画ってよかったって言ったんだ。
そうそうそう。で、このね、男の子の人生が悲惨であったかどうかっていうのはね、本当に描写の仕方、どの部分を切り取るかだと思っていて、
なんで、映画でね、キャッチに作るために、いろんな人間がいる中でのすごい辛い部分だけを切り取って貼っていくと、
とても心にズシンとくる重さのある、砂糖がいっぱいのケーキみたいなのが作れると思うんですよ。
で、それも一個のスイーツとしてはもちろんいいんだけど、
このね、今回のこの国宝っていう映画は、すごくね、甘さが上品。甘いケーキにしようとしてない、ちゃんと美味しいケーキを作ろうとしてるっていうのが、
なんとなくわかる、私にとってはね、わかる作品だったかなと思います。
なおかつ、乗ってるイチゴもね、生クリームの卵も、砂糖も、牛乳も、なんなら泡立て器も、全部一流のものを揃えて作りました。
なんでこのケーキは一個700万円です、みたいな感じの密度だったと思います。
作品の品格と「血」の解釈
で、それがね、いいか悪いかっていうのもね、今回はほんとなかった気がしますね。
なんで、あ、そうそうそう、思い出した。
あの、こういう風に押し付けようっていうところがないっていうのも品があっていいなって話したんだ。
で、それは何かっていうと、考察をする暇がなかったっていう話をしてる人がいたんですが、
まあこれ書いてあったんですけど、私はね、割と見ながら考察する派だったので、
この人とはちょっとこれがね、違うとこなんですけど、
その糖尿病は、血っていう言葉の表現が目に見えてわかるものだったし、
それが命を奪うものだった。
歌舞伎という血をね、奪うものだったっていうものがすごく皮肉でもあるし、
ただそれが皮肉っていう言葉のフェーズでもなく、
なんでもないっていうのもあるんだろうなって思わされる描写だったかなと思います。
もし本当に菊王がここで歌舞伎の血をもらっていたら、
自分も国宝にはならずに若くして死んでいた可能性があった?
それがなく、自分が生きられたことっていうのは血が助けてくれた。
これね、劇中に血が助けてくれるっていう言葉が出てくるんですけど、
血が入ってなかったから助けられたっていう表現なんじゃないかなって思いながら見てたりしましたね。
あとはね、すごくヒンがあったのは、
俳優陣の演技と人間関係の描写
多分ね、寺島忍さんだけがちょっと嫌な役を担っていて、
後の人たちは、原作が濃密すぎるんだと思うんですけど、
割とさらっと悪意のある人が少なかったっていうのは見てて気持ちが楽でしたね。
やっぱりどうしても歪んでる部分があるっていうのを、寺島さんが引き受けてくれたなって感じました。
なんでそれ以外の主人公の人たちはみんなね、割と純粋であって、
なんでこの主人公の菊王がお子さん隠し号を無視するシーンがあったんですけど、
それって普通に考えたら非人道的なんだけど、
でもその時の気持ちもわからなくもないというか、
それがね、どこで一番感じたかっていうと、
最初の渡辺圭さんが演じるお父さんが事故にあってしまって、
その事故の大役として抜擢されたのが、
本来だったら直属の息子であるなんとかっていう人に、
龍星さんがやってたやつね。
なんなきゃいけなかったのに、大抜擢で菊王にお父さんが役を回したんですよ。
それっていうのは、やっぱりお客様に届ける品質が高いものを出さなきゃいけないっていう、
すごく平等的な考え方で菊王を押したんですよね。
じゃあわかりましたと、大役で出る子はこの子にしましょうって決まった時に、
やっぱね、寺嶋忍は怒ったんですよ。
こんなの、知恵を繋がった子を出さなかったらお客さんも納得しないでしょって。
でも、知じゃなくて芸で勝つっていう、芸でお客さんを納得させるんだっていう、
渡辺健が演じるお父さん役もすっごく素敵であった気はします。
お父さんがそこまで思うのって、やっぱり芸に対しての真摯さがあったからだなって見ながら思っていました。
息子もね、悪いやつじゃないんですよ。
ただ、絶望的に才能がこの主人公の菊王にありすぎたっていう描写なのと思うんです。
私はそんなにあんまりわからなかったけど、
でもそこで、ボンボンの男の子を流星さんが演じてた男の子は菊王を恨まないんですよ。
これは自分が今まで怠けてきたツケだったし、才能が違うっていうことをもうね、
わざわざと見たからだと思います。
なんでその大抜擢の後も喧嘩せずに送り出してあげてるってところもすっごく品が良かったです。
なんでそこで殴り合いとかね、泥棒だなお前はって罵るだけのシーンも映画としてあると思うけど、
そこを罵らなかったっていうところが、私は見てて気持ちが楽でしたね。
でね、この人の文章で良かったなと思ったのは、
そうなんだよね、現実が持っている割り切れなさや沈黙をそのまま画面に置くっていうのは良かったと私は思いました。
それっていうのは、これ何が言いたいの?とか言葉にすることもできるんだけど、
言葉にしきれなかったからこそできる、佇まい、沈黙、割り切れなさだと思いました。
それもね、本当に押し付ける感じがないっていうところでは、とても上品。
癖がないのにまた食べたくなるっていう、すごく上質な味なんだと思いました。
一番印象に残ったシーンは、大役を任された時に、最後幕が降りるんですね。
キクオが大役を務め上げた時に、褒めてもらった。よく頑張ったって、裏方さんにね。
極致の先に待つ空虚と自己探求
その時に幕が降りて、一人になるんです、舞台の上で。
誰もいない。音もしない。誰も見てない。
その瞬間に、寺島忍からはね、ガッツリあんた辞退しろよって言っちゃダメだって、
こんな子を立たせちゃダメだって言われながらも、完璧にやり切ったキクオの目の前に何もないっていうところが、
たぶんね、私はこの3時間で一番印象的だったと思います。
それっていうのは、私が曲がりながらも、曲がりなりにも、技術の仕事をしている中で、
芸を極めていく。自分の持っている芸を極めていきたいと思った時に、極め切った先に何があるのか。
宇宙を探し切った後の宇宙の外に何があるのかっていうぐらい、急にね、ポンって空虚になって、
自分が点として孤立するっていう瞬間を、なんとなくで感じたシーンがありました。
それはね、他人塾において褒められるとか、評価されるっていうところはもちろんわかりやすいけど、
全と無、因と陽の理解
自分塾としてこの芸を突き詰めていくってことは、宇宙の果てを探すと同じことだと思うんですけど、
じゃあその先に何があって、何を見ていくのか、今自分が何を見ているのかっていうところは、
なんとなくね、わかる気はしました。
なんで、自分塾でどうか他人塾でどうかっていうのは、言葉になかなかすることができない中で、
でもそれを着実に日を重ねていくごとにね、時を重ねていくごとに、何か目に見えないものが作られていると思ったので、
それが実在感っていう言葉かもしれないし、そうじゃないかもしれないけど、
もうね、すごくなんとなくわかるなーっていうこの表現がね、すごく思いましたね。
作品の評価と最後のクレーム
もうね、眠いから無理だな。もう眠い。もう眠いよ。
善であり無である。これもね、わかる。
完全なる善であることと、完全なる無であることっていう言葉はね、
大人になればなるほど、いろんなことを考えている人であればあるほど、わかる気がします。
全てにおいて、一個一個において、完全なる善と、完全なる無があると思います。
最近はね、ヨガにおいての因と要がある、裏と表があるっていうのはね、本当に最近思う。
本当にこの年になって、この二つが反しているようで一緒である。
この矛盾する二つが衝突することなく一つの空間にも同居してしまっているっていうのがわかるようになってきた気がします。
もうちょっと眠いんで終わりますけど、前半のね、歩いてる時に話したと思いますけど、
この映画がいい映画がどうかっていう評価はね、20個以上あるんですけど、
私の中ではここまで考えようって思えた作品だったってことは、そういうことなんだなって思っています。
もう一回見に行きたいっていうね、そういうモチベーションにはならないですけど、
でもね、苦しくもなく本当にね、嫌なシーンで相手の気持ちをコントロールしようってしないっていうところは、
素直にいい作品だなって思いました。
もう眠すぎるので、とりあえず覚えている限りは話して、一番自分の印象に残ったシーンは話したから。
でね、あと最後一個クレーム言うんだったら、最後人間国宝になりましたと。
きっと60代70代ぐらいの最年少で録ったみたいなこと書いてあったんですけど、
顔は特殊メイクでおじいちゃんになってたの、この主人公のところが。
それは全然いいんだけど、首がね、30代。
特にね、後ろの部分、首の後ろって年齢が出るんですよ。
でね、年齢が全くさわよめてない首の皮膚だったのが、一気にサーって冷めましたね。
もともとリップラインが綺麗だ綺麗じゃないって話は友達としてたんですけど、
何よりもね、気になったな。
首にちょっと液体乳乗せて乾かせばおじいちゃんっぽくなるのに、
なんで首前と後ろもあんなに綺麗なまま顔の特殊メイクにあげたんだろうなっていうのがね、
見ながらめちゃめちゃめちゃめちゃ気になってましたね。
あとはね、グジさんに見てもらうか。
伝わらないだろうな。
やっぱ本当にね、こんなに丁寧な高級なショートケーキをね、
作り上げられたっていうこの職人さんには本当に敬意を表したいなって素直に思いました。
小道具さんもね、舞台さんもすっごい大変だったと思うし、
とりあえずは歌舞伎の筋が入るまで1年7ヶ月くらい2人が修行してたっていうのを聴いて、
本当にね、愛がないとできないことがいっぱいだなって見ながら思ってました。
はい、もう本当に眠い。
1時40分はもう本当に眠い。
とりあえずこれをあげて、
明日の朝とてもこんなん聴けないと思うので、
まずはね、夜眠れないときにただただつらつらと流してもらえたらと思います。
久しぶりにこんなに喋ったな。
はい、ということで、1時40分だぜ。
明日金曜日、今日か、金曜日、良い週末をお過ごしください。
国宝を見て、なんとなくもやっとした、しゅねでした。
おやすみなさーい。
42:03

コメント

https://note.com/aoharu2100/n/n24bc7d5ef893 上記はこちらの記事から引用しました。

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