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私と文化人類学⑤: 卒業論文
2026-08-06 22:52

私と文化人類学⑤: 卒業論文

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こんにちは、8月6日です。
今日は久しぶりに、私と文化人類学ということで、 その⑤を声に残していきたいなと思いました。
今日はですね、私の学部のときの卒業論文、 どんなテーマに取り組んだっていうあたりを話していきたいです。
私はいろいろ断捨離しているんですけれども、 やっぱり卒業論文というのはですね、私が学生のときに頑張った成果というか、ものですので、一部だけ印刷したものを残しています。
その論文のタイトルはですね、日本からの集団移民。 副題が明治から戦前までの出稼ぎ移民についてです。
これは前回話したように、ゼミの担当の先生に日系移民の本を勧められて、
第2次世界大戦中のブラジルの日系コミュニティの中で、勝ち組負け組論争というのがあって、 殺人事件まで発展してしまったということで、
それもあったし、私自身が移民として海外に出稼ぎしたとか移住したという経験がないので、やはり自分が経験してないことの方に興味があったので、
結果的に日系移民について調べていこうということで、卒業論文の準備をちょっとちょっと始めました。
その中でも結構影響力があった。私にとって影響力があったのが、石川智則先生が書かれた本のタイトルが、
日本移民の地理学的研究ということで、しっかりとした厚めな学術書でした。
この本も読んで、日系移民をかなり包括的に知ることができました。
日系移民というのは、日本の移民というのは、そもそも明治期に始まって、最初はですね、国、日本国が主導をして海外に移民というか出稼ぎの人を送っていたんですね。
なんで国がやっていたかというと、日本国に海外の政府から出稼ぎ労働者を送ってほしい、派遣してほしいという依頼があったので、当初は国同士の外交の一つとしてのやりとりとしてあったということなんです。
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例えば、どんな国から依頼があったかというと、例えばスペイン政府からは、キューバで働く出稼ぎ労働者が欲しいとか、アメリカ政府からは、当時西海岸で鉄道建設が行われていたので、その鉄道建設の労働者だったり、あとカルフォルニアの炭鉱で働く労働者が欲しいとか、
若干ニッチではあるんですけれども、南半球のオーストラリアではですね、海に潜って真珠を取る、そういうちょっとダイバー的な労働者が欲しいということで、派遣の依頼がありました。
日経民の初期の段階で特に有名なのが、ハワイ王朝、ハワイ王国からの依頼だったんですね。
当時はまだハワイはアメリカではなく王国でして、当時の王様はですね、カラカウア王という王様がいました。
王様はですね、出稼ぎ労働者が欲しいということで、わざわざ縁のはるばる日本にまでやってきまして、日本政府に依頼をしました。
ということもあって、初期の日本からの出稼ぎ移民というのは、ハワイに行くことがまずは最初、メインとして、一番多い人数としてハワイに行ったのが多かったと。
明治18年ぐらいから明治31年ぐらいまでは国主導で、移民というか出稼ぎ労働者を海外に送っていたということなんですね。
なので一つのドライバーとしては、海外から依頼があったってこともあって、もう一つ日本にも事情があって、当時日本というのはデフレでかなり不景気だったり、農作物が不作で経済的にも大変だったっていうこともあったので、
日本で経済的に大変だっていうことが、出稼ぎをするっていう動機の一つにもなりましたと。
で、国主導の出稼ぎ移民を送り出した時期っていうのが、その間に出稼ぎ移民を送り出した都道府県のトップ4っていうのがありまして、
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広島県、山口県、熊本県、福岡県、この4つの県だけで当時出稼ぎをしていた人の96%を占めてたんですね。
私自身も福岡県出身ですし、山口にも住んだこともあってっていうことなので、とても身近に感じる県ばかり。
で、そもそもなんでこんな4つの県からたくさん出ていったんだろうなぁとか、
それ以降もですね、結構西日本から出稼ぎ、海外出稼ぎ、最終的には移民になってしまうんですけれども、
その人たちが多いのかなっていうのが私にとっての疑問でした。
で、その疑問を明らかにしていこうっていうのが私の卒業論文のテーマというか原点なんですよね。
同じ明治期には、当時に北海道でも開拓移民というものが募集されていて、
日本各地から北海道に移住をし開拓者となった人たちがいたんですけれども、
これはですね、東北とか北陸とか中部から北海道に移住した人が多かったと。
で、そもそも特に前半はなんで西日本からが多かったんだろうとか、
当初は広島山口熊本福岡が多かったのかなということをですね、
自分なりにどんどん調べていきまして、いろんな本を読んだり、
学術書的なものを読んだりっていうところをしながら論文をまとめていったのが学部時代です。
文化人類学というのは海外に行って、自分の研究対象とするコミュニティやエリアに移り住んで、
そこで行動観察をしてインタビューをしてみたいなことを話したんですけど、
さすがにですね、学部生はそういうことはしない人がほとんどですね、
みんな本を読んでそれなりにまとめるっていうところで、
学部生はそれでいいでしょうみたいなところもありましたので、
私も本だけ読んでいろいろ自分なりに調べていきましたと。
なんで西日本から行ったんだろうねって。
まあ海があるからって言ってもですね、日本は島国ですし、海外と海でつながっているという意味であれば、
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どこからだって海外に出稼ぎに行くっていうことはできたはずなんですけれども、
3つぐらい理由があるんだなと。
1つは西日本はですね、江戸時代から比較的出稼ぎする人たちが結構いたっていう歴史的な背景があるんですね。
特に初期の福岡や山口や広島や熊本っていう県の中でも、
特に移住者が多かった、出稼ぎ者が多かったっていうのは、
山だったり島だったりって言って田んぼとか畑があまりないエリア。
そういうところは江戸時代からやはり稲作だったり野菜を作ったりっていうことがなかなか大変なので、
石工って言って石の加工のそういう技術者だったり大工だったりっていう技術者として、
そういうスキルを身につけて、よそのエリアに行って出稼ぎをして戻ってくるみたいな、
そういうそもそも歴史があったっていうのが1つ。
2つ目はこの西日本における家族制度っていう点なんですね。
これって個人的には面白いなって思ったんですけど、
西日本って東日本と比べると結構家族っていうのが独立している。
社会そういう家族制度、社会制度が結構東日本に比べると緩いっていうことなんですね。
具体的に何を言うかっていうと、本家、昔は本家とか文家とかあったんですけど、
本家がそもそもあまり強くなく、文家は本家が強くないので、文家も結構自由に独立して、
独立心があるというか独立して行動ができたりとか、
あと村の規則が少ない、規則というかそんなルール的なものではないんですけれども、
村のしきたりというか決まりというか、そこら辺も西東日本に比べると強くないっていうことなんですよね。
一般的には昔江戸時代とか家族っていうのはもう長男に継がせて、
長男一人に継がせるみたいなところがあるっていうふうに言われるんですけど、
西の方ではですね、末っ子が家を継いだりだとか、あとは複数の兄弟で相続したりとか、
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もしくは均等に相続するっていうこともありましたし、女性が親主になるみたいなこともあったんですね。
なので比較的家族がその本家、村に縛られずに自由に、自由にっていうのかな、独立して行動できる環境にあったっていうこともあって、
やっぱり本家分家とか村ってなると労働者としてカウントされるんですけれども、
そこらへんが比較的独立している、自由さがある、ゆるさがあると、出稼ぎしてもその労働者が一人減ったっていうことで、問題になりにくかったっていうことなんでしょうね。
そういうことがありましたっていうのが2つ目。
3つ目っていうのが、これはこうもっと広く社会的、どちらかというと政治に関係してくるんですね。
当時、これ最初にも言ったように、国主導で出稼ぎの労働者を海外に送っていたって、圧戦していたっていうことがあるので、外交の一つなんですけれども、
当時の外務大臣というのが井上薫さんという山口県出身の方だったんですね。幕末に登場して長州藩から外務大臣にまでなられた方なんですけれども、
このご自分が大臣してまして、自分のふるさと山口から出稼ぎ移民を出したらどうかなって考えて、相談されたのが当時の三井物産の社長さんに相談したということで、
三井物産の社長さんの外務大臣の意向を受けてっていうこともあって、山口や広島あたりで出稼ぎ移民を集中的に募集をしたっていうこともあって、
で、初期ここからの移民が増えたってことなんですね。で、移民ではなくて、最初は出稼ぎだったので、出稼ぎします。何年か海外で働きます。何年間かの契約なので働きます。
帰ってきます。そうしますと海外で働いたお金っていうものを日本に帰ると、まあいいお金になったんでしょう。そうなると家に帰ってきて、故郷に帰ってきて、家を建てたりだとかできる。
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でなりますと、その初期の出稼ぎ移民の方が、その村とか町でインフルエンサーになるわけですよね。なんか海外に出稼ぎするとまあまあいい収入になるらしくて、帰ってきたら家も建てられるらしいよみたいになれば、当時はネットも何もない状況ですから、
まあそういう人の噂、近所の人の噂っていうので、じゃあ自分も行こうかっていうことで、まあ借金をするなりして海外に出稼ぎすると。どうしても人の噂なのでそんなにめちゃくちゃ広がるわけではないっていうことなので、
初期の出稼ぎ移民が行かれてた辺りから徐々に広がってはいくんですけれども、それが爆発的に広がるかっていうとそうでもないっていうことで、やはり広島、山口、福岡、熊本っていう結構一定のアリアで広がっていったっていう、この3つが大きな理由だったのでは、要因ではないんだろうかっていうことで、
私はこんな感じで論文をまとめました。この卒業論文、一つ思い出としては卒業論文、もちろん海外に行くこともなく、私はちょっと歴史的な側面から見ましたので、今行って話を聞ける人も誰もいませんし、
ただ卒業論文をまとめるときにですね、山口県の中でも初期の出稼ぎ移民が多かったのが、スウォー大島っていう、どちらかというと広島県との県境に近い島なんですけれども、そこに移民博物館、小さい移民博物館があるっていうのを調べる過程で知ったので、
確か夏休みか秋の休みだったのか、車を運転してその博物館に行った記憶がありますね、なんかこじんまりとして、そして博物館を見終わった後は島をぐるっとドライブして、
本当になんかよくある島、田畑が少なくて、やはりこういうところでは農業がなかなか発展しないっていうこともあって、出稼ぎ移民したんだなーっていうことが山口の島だったり、その後は熊本の天草も結構、
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出稼ぎ移民が多かったんですけど、熊本の天草も似たような感じですね、平地が少なくて田畑が少ないっていうところで、そんなところをこうわざわざ見に行ったっていうのが、はい、学部時代の思い出です。
で、その文化人類学的なことをしていて、今に生きているなーって思うことは、別にこれは文化人類学ではなくてもそうなんでしょうけれども、物事の原因とか要因って一つじゃないなーと、いろいろ入り組んでいるんだなーっていうことも感じます。
何か疑問に起こった時に、原因が一つわかると、あ、そうかって言って、そこで終わってしまう。もちろん原因がわかって、そこで終わってしまうと、
何かわかってしまうと、それでいいかって、何か一つクリアになったので、じゃあ次に動こうってなることもあるんですけれども、そこからもう一歩、二歩踏み込んで、他にはないのかなーとか、その背景には何があるんだろうなーというふうに、
物事を少し多面的に見るとか重層的に見るみたいな視点っていうのは大事なんだなーっていうことを、文化人類学語として学びました。
それってまさしく今のインタビュー、消費者理解のところでも、とても私には生きています。
人は一貫性がありつつ一貫性がなくて、矛盾することも多いんですね。
そういう矛盾するところに、企業としては何かヒントが隠れてるってこともあるんですよね。
例えばこの前、つい最近インタビューしたときに、何かこう化学的な匂い、それはカジマーリの商品の話をしているときに、
インタビューを受けてくださった方が、私あんまり化学的な匂いとか化学的な物質が好きじゃないんですよねって言われて、そうなんだと思って、
実際にじゃあこの人は家の中でそのお掃除もありで化学的なものを使ってないのかっていう一貫性があるのかなどうなのかなっていうのをちょっと知りたいなと思ったので、
なんかお掃除道具の目柄を聞いたんですね。
そしたら、いやいやしっかり化学的な、きっと化学的な匂いがするだろうなっていうような商品を使っていたと。
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もしそこらへんがそのインタビューで大事な鍵となるヒントとなることが得られそうだったら、そこを深掘りしていくんですけれども、
その時はそこまで求められていなかったので、求められていないことをすると時間がどんどんなくなってしまうので、深掘りはやめましたけれども、
実際に場合によってはそういう時に、いやさっきねって化学物質は嫌いだとか人工的な匂いがちょっと苦手だっておっしゃってたけれども、
そこでのお掃除にその商品を使うっていうのは何なんでしょうねっていうふうにどんどん深掘りして聞いていけるっていうこともあるなっていうふうに思います。
なので何か物事考えるとき明らかにするとき一つ回答が出たから次に進むのではなく、多面的に見る他にはないのかなっていう目線だったり視点だったりっていうのは大切にしていこうっていうふうに思っています。
はい常にできているわけではないですけど、というところでちょっと長くなりましたけど、私と文化人類学その子これにておしまいです。
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