何喋りましょうかね。
僕はしゅうさんに、しゅうさんがツイートしてたやつで、一個気になるやつがあったんだよな。
マジですか。
マナ式が気になるなって言ってた。
あれどう気になってたんだろうなと思って。
でもなんか最近、そうかと思って。
それこそケイジ君とやってる集計時代で流言三決とかのことを感想みたいに喋ろうとしてたり、
僕自身が瞑想合宿でいろいろ感じてたりすることを総合していくと、
まあ今まで考えてたこととあんま変わんないかもなみたいに言い始めてるんですけど、
僕が参加してる瞑想合宿って、たぶん定座部系みたいな。
そうですよね。
そんな感じなんですね。
まだナーカール・ジューナさんとかが現れる前から、確立されてた手法で瞑想の修行してるみたいな。
ミャンマーとかの方針?
そうですね。
ミャンマーとかタイとかなのかな。
ツイランかもそうなのかな。
その辺のやり方なんで、
僕一年前からその瞑想合宿参加して、
その言語表現で理解して体の感覚を見つめようとしてたんですよね。
それとは別で定座部仏教から大乗、密教っていう風に進んできた流言さんの表現として聞いた、
古典ラジオでの流言三決とかの中で、
マナ式のことを分かっちゃいるけどやめられないとか分かっちゃいるけどやっちゃうみたいな表現されてたから、
それがめっちゃ気になるっていう。
僕は今の世の中がだいぶやばいと思ってる口なので、
タキツコに向かう船みたいにして、
生で聞けた。
そんなもんじゃねえか。
そういう風に感じてるから、その原因が一番気になるんですよね。
マナ式がもし分かっちゃいるけどやめられないとかやっちゃうっていうことであれば、
人間がそれぞれ基本的には自分の動きを制御できてないってことだから、
それはタキツコに向かうよねみたいな感じで捉えてるから気になるっていう。
人一人の中のマナ式っていうよりも、
そういう人がいっぱいいるから、
全体としてマナ式のせいでタキツコに向かうんじゃないかなみたいな。
そういうことだったんですね。
そういうイメージが湧いてるみたいな。
しかもそれが意識できないものだっていう。
自分では制御できない。
そうですよね。
だいぶやっぱりマナ式は厄介な存在とされてるんでしょうね。
有意識っていうものが出てきてから多分その表現出てきたんだろうなって思うから、
瞑想合宿ではその表現とか一切聞かないですよ。
そうですよね。
多分ナガルジュナさんは、
ナガルジュナさんはクーの概念なのね。
その次ですね。
次の方、名前忘れましたけど、
なんとかさんって言ってた気がするけどリュウゲイさんが。
そこで、
名前出てましたね。
褒めてます。
ムジャックとかセシンとかその辺でしたっけ?
なんかそんな響きだったかもしれないですね。
なんかそれかもしれない。
だから、
でも瞑想合宿で言っていることも、
全然それに通じることを言ってるもんで、
僕が教わったのは意識・認識・感覚・反応っていう表現で言われてて、
その感覚と反応は心の癖みたいな言い方をしてるから、
言ってみればまさにそれがまなしきなんだよなって思ったら、
なんだ今まで大事だと思ってたことの別の言い方か、
みたいに最近は思い始めたっていう感じ。
多分料理とかと一緒で別に感覚として、
熱を加えたら美味しくなるみたいなことを、
温度が何度に達して何度に加熱すると、
みたいなことを意識としては分かりやすく解説してくれてるだけで、
同じものができて美味しく食べれますよってことですよね。
僕なんか感覚人間だからざっくり捉えてる意味には似たような感じかなと。
それをより解像度高く、いろんな人に伝わる表現に噛み砕いてくれてるのかなっていう。
そうですね。多分ね。
クーンが最初に出てきて、
みんなが堕落しちゃう人が出てきたみたいな話が、
もう全部クーンだったら意味ねえじゃんみたいなふうに解釈しちゃう人が出てきて、
そうじゃないよっていうのをただすために、
また違う論理を組み立てたみたいな話も聞いたことがあるんですね。
マナシキですね僕も。
気にしっていうマナシキが。
分かっちゃいるけど気にしちゃう。
マナシキの解説で読んだことがあるのが、
アラヤシキって別であるじゃないですか。
ありますね。
あっちに今までの自分の見聞きしたものとか、
判断を下したものとかって全部蓄えられていて、
その中にこれが自分であるというふうに決めつけてしまう意識。
それがマナシキなんだみたいな説明の仕方も見たことがある。
なるほど。
それもまさにそうですね。
自分ってこういう人間だからって思いたいとか、
思い込んじゃうもあると思うんですけど。
だからマナシキですね。
マナシキですね。
これが全部剥がれる、
全部ってか分からないけど、
極力剥がれていく、剥がしていくための作業が
瞑想だって僕は思ってやってますけどね。
そこはどういうロジックまではいかないまでも、
この瞑想の中では観察っていうことをおっしゃるじゃないですか。
どういうふうに教わるんですか?
これはですね、僕の表現が正しいか分からないけど、
僕が解釈していることとしてしゃべると、
さっき言った意識、認識、感覚、反応の、
まさにやっぱり感覚と反応が分かれるところが肝だと思うんですけど、
その反応っていうのが別の言い方をすると心の癖だって言う。
それの良くないものの代表が執着と嫌悪。
嫌悪か。
この良い感覚をもっと得続けたいっていうのが執着。
この悪い感覚から一刻も早く離れたいが嫌悪。
それをそうするほどに強まっていく特質があるって言ってるんですよね。
言ってるらしいんですよ、ブッダが。
ゴータマブッダさんですけどね。
で、じゃあ、執着したり嫌悪したりするほどに、
その癖がなくなるどころか強まっていく。
だけどそれを和らげる方法が一個だけあって、
それが観察することだっていう風にブッダは悟ったらしいんですよね。
自分の中に巻き起こった感情というか、反応かな?
反応、反応、そうそう。
その反応が、感覚と反応か。
感覚が反応になるまでの間を観察するってことなんですかね。
感覚と反応は別問みたいな言い方なのかな。
感覚が反応に変わるではなくて、感覚は感覚としてずっと生きてる限り起こり続けます。
それは避けようがない。
でもそれに対して反応するっていう心の癖はなくすことができるって言ってる。
自覚的になって、例えば大げさな話、殴られて怒りになるのか悲しみになるのかって分岐できたはずなのに、
毎回怒りにしちゃってるよね、あなたみたいな話なんですかね。
そうですね。
悲しみもどっちかはよくわからないですけどね。
それを観察していくことで消えていくっていう風に、メソガシクでは教わっちゃうんですけど。
教わっちゃう。
もう1年前にそれを受けて衝撃受けたのに、1年間続けてきてる中でやり方間違えてたって今回気づいたんですよ。
だから頭では分かってたはずなんですけど、その反応、心の癖の執着とか嫌悪が良くないんだっていう風に聞いて、
それを意識してやってると、やっぱりそれが出てきた時に何にもなくまっさらな観察じゃなくて、
やっぱり悪いものが出てきたって思っちゃう。
すでにもうラベル張ってんじゃんっていう感じで。
ラベルというか、嫌悪しちゃう。
出てきたことに対して。
だからまた出てきちゃったってガッカリしちゃう。
罪の意識じゃないけど、そういう、わー、もう、そっかそっかそっか。
罪じゃないけどね、やっぱり嫌ってるんですよ。そのこと自体を嫌いだって思ってる自分から全然抜け出てなくて、
それを修正しよう修正しようっていう悪循環にこの1年間ハマってたんだなっていうのに、
今回改めて全部の講話を聞いて、再認識したっていうのがありましたね。
なるほど。悪いもの、出てきたこと自体を悪いと思って、それも真っ直ぐな見方じゃないじゃんって感じだったんですよね。
実際それがブッダの説によると、そうやってただただ観察することによってその心の癖が消えていく。
だからもう何も考えずに嫌って思ってたものがなくなっていく。徐々になくなっていく。
新しい心の癖の方から順々に消えていくから、それがだんだん観察しているうちに習慣になっていたものがだんだん薄れていってなくなったとしたら、
徐々に古い心の癖が現れてくるって言うんですよ。
逆っぽいですよね。古い方から消えないんですね。
そうそう。新しいものからなんですよ。
僕は最初にそれを聞いた時にイメージしたのが、ダイエットの時の脂肪の燃焼と同じだなと思っていて、新しくついた脂肪の方から燃えるらしいんですよ。
内臓脂肪とかそういうのはなかなか…
しつこい体に染み付いた脂肪ほど最後の最後にならないと燃焼しないみたいなのと同じようなことなのかなってイメージ。
仕組みとしては。根付いている感があるんですね。
だからそれが現れるまでこの瞑想を繰り返していくみたいな感じなんで、
僕はそのやり方間違えてたっていう、ざっくりとさっきの言い方なんですけど、
それによって瞑想っていうものに対する認識も変わったところがあって、
前は僕、瞑想ってただの練習だと思ってたんですよね。
練習。
心の持ち方、心の在り方みたいなものを一人で座って、ただ訓練みたいな。
正しい型があって、それを何回もやることによりっていう。
そういう表現も僕なんかでしたことあるな。野球の素振りとか、空手の政権好きの方とかそういうのをやってるみたいなイメージだったんですよ。
あくまでも日常生活の中で人とやり取りしたりするときに怒りが出そうになるっていうの。
その本番の時に試されるみたいな感覚でいたんですけど、
ブッダのその話でいくと、もう瞑想自体が本番なんですよね。
瞑想の時に現れる心の癖は、まさに自分の心の中に染み付いている心の癖だから、
それが瞑想している最中にただ観察して反応しないっていうことが、瞑想の中でできるようになった時点で、
その心の癖自体を心の外科手術みたいな言い方をするんですけど、実際にその場で手術して取り去っていってるんだって。
毎回毎回がそういうことなんですね。
なるほどな。そうするとちょっとイメージ違いますね、確かにね。
だからもうひたすら人とやり取りしたりする時だけじゃなく、
普段瞑想している瞬間に自分の心の癖みたいなものをなるべく解像度高く見られるようになれば、
本当にそこで手術みたいな感じで心を変わっていくんだ。
癖を取り去っていけるんだっていうのを1年経ってやっと気づいたみたいな。
でもあれですね、今日バドさんとお話ししたからまたくっつけちゃうだけなんですけど、
無理してもダメだって言ってましょうね。姿勢良くしようとしても逆にそれが凝り固まっちゃって、
全然他のところがバランス悪くなってくるとか。
バドさんに毎回ちょっとずつ強制してもらうみたいなのが見えそうになるかもしれないですね。
自分でやるのが。
そうですね。バドさんのだとバドさんにやってもらうしかないけど、
瞑想は自分でやるみたいな。
そういうことか。面白いですね。
なんかその有意識だったかの話の中でも、
修辞っていう言葉ってなんか出てきたことあります?
修辞って書いて。
なんか出てきましたね。
修辞、感覚として何かが入ってきて、
幸せの風景のカレンダーで言うと、映像として入ってくる。
これを綺麗な家だなって見るか、妖怪が住んでそうな怖い場所だなって思うか、
っていうのがもうすでに多分心の癖。
それをさらに何か怖いものだとラベリングして保存するとか、
美しいものとして名前を付けて保存するみたいな風に、
いろんなものが修辞、そして荒屋敷に蓄えられていくんだみたいなことを言うんですね。
それが何かの縁とかその辺も関係するんでしょうけど、
発現してそれをまた見るからループしていくんだよみたいな。
そうですね。
自分の認識が世界に投影されて、それをまた認識して心の癖で歪めて、
それをマナー式はコントロールできないので、
たぶんその修辞として君中とか言ったかな、保存されていく、蓄えられていくこのループみたいな。
いい言葉を使いましょうとか、結局認識を嫌いな人というものが実体としているわけではなくて、
嫌いという感情を持っただけだしとかっていう風に、
意識の部分は変えられるからちょっとずつそういうところをきれいにしていくと、
見える世界まで違ってくるみたいな話を聞いたことが。
似てますよね、たぶんね。
そうですね、似てると思いますね。
結局一緒なんでしょうね。
ブッダさんが言ったことを定座部の方で体でやるんだってした人という意識の方で、
理屈で説明した人と結局一緒なんでしょうね。
たぶん大乗とか密教の方も理屈だけじゃなくて、
肉体の方も重要視してるんだと思うんですけど、
対比するときに分かりやすく見えちゃうっていうことだっていう風には今理解してるんですけど。
いやぁ、仏教面白いですね。
面白いですよね。
シスターカフェやってるんですけど、仏教好きですね。
シスターはキリスト教になるんですかね。
そうそう。
なるほど。
最初シスターになったのは何でしたっけ?
何か言ってましたっけ?理由言ってたんでしたっけ?
既存でうち別のお店もやってたので、そこに何人も女の子たち働いてるじゃないですか。
はい。
何だったら働きたいと思う?って聞いて人気があったのがシスターなだけで、
全然思い入れはないです。
面白いですよね。
でもあれ本当に面白いですよ。
完成度が高すぎるって思って。
完成度?プログラムとしてってことですか?
うん。
1年経ってもう1回受けてみて、言ってた言葉自体は、
確かにそれ1年前聞いたっていうのを1年後に気付けるって、
どんだけの完成度なんだって思ったんですよ。
1年後に来て、ちょっと違うと思うんですけど、みたいな感想にならなかったっていうのがすごいなって思って。
あのプログラム自体はずっと昔からあるものなんですかね?
っていう感じで言ってますけどね。
いろいろマイナーチェンジはしてると思うんですけど、
ご縁家さんっていう人が今の形にした、もう亡くなった方ですけど、
その人の肉性テープを聞きながらやるんですけど、
ご縁家さんの表現によると、ミャンマーで最初の形をほとんど変えずに2500年間守ってきたやり方で、
あなたたちは今やってるんですよ、みたいなことを言われますけどね。
ちょっと大げさかもしれないけど。
10日間のプログラムに落とし込まれたのは、ここ数十年くらいと思うんですかね?
10日間みたいな表現は相当昔にそういう感じだったみたいなのを聞いた気がしますね。
あくまでご縁家さんの表現ですけど、あんまり大きく変わってないっぽいですよ。
すげー。
実際その10日間やらないと、10日間にしても足りない。
僕だって1年後にやって間違いに気づくくらいだから、10日間って長いけど、
エッセンシャル版ですよね、たぶんね。ギュッと詰め込んだ胃。
10日間じゃ全然足りないんですよ、本当は。言ってることを全部理解するのには。
僕なんかまだ早い方で、7,8年とか10年経って間違いに気づいたっていう人もいるらしいんで。
人生がみんな違うから。
僕でもあの10日間プログラムのことを調べたこともあったし、
体験した人の本みたいなのもよく読んだことありますよ。
本当ですか?
なんとなくイメージついてます。
ぜひそれと一緒かとかいつか確かめに行ってください。
そうなんだよな。
冗談ですけど。冗談って言ったら半分本気ですけど。
ちょっと憧れはありますよ。
人生であそこでしかたぶん体験できないものがある気がする。
僕は今のところしてるもんで、10日間って長いけど人生レベルで言ったら一瞬なんですよ。
通ってるのと通ってないのと違うし、
僕もそうですけど、もっと早く受けたかったっていう、
そう思ってもしょうがないけどっていうのがつくけど、
そういう感想が出やすいものではあるから。
もちろん運ばれるみたいにして偶然受けやすいときにポンと受けれるっていう、
そういうのもあるんですけど。
運ばれるってなんですか?
受ける形に偶然。
導かれるみたいな。
無理やり受けようとしたときには全然受けられなくて、
でももういいやって諦めた。
店員いっぱいいっぱいでとかってこと?
店員もそうだし、自分のスケジュールとか合わないとかいろいろあるけど、
なんかいいかとか思ってたら、あれポコッと予定が空いたぞって思ったときに、
ちょうどぴったりそれが10日間に当たる。
申し込んでみたらちょうどキャンセル待ちで入れたとか、
なんかそういう運ばれるみたいな表現もよく聞くんですけどね。
なるほどね。
でも僕はもう無理やりこじ開けるようにして受けるのもめっちゃ価値あるって思ってるんでね。
2日間とか3日間のコースもあるんですけど、
別であるんですね。
でも最初にそれを受けるっていうのは絶対できないんですよ。
10日間のやつから。
10日間をくぐり抜けた人だけが、
くぐり抜けた人。
だからちゃんと理解しないと意味ないっていうのがある気がしてるんですけどね。
中途半端に曲解されても困るっていうのもあるんですよね。
僕は去年の10月に最初に申し込んだというか受けに行ったときに、
受けに行って最初の受付をやったときに、
僕の1個か2個前の人が、
急に10日間っていう風になって、
急にというか、
10日間の瞑想に入る直前に、
お近所さんからいっぱいくざものをもらっちゃったから、
それを持ってきちゃったんですよ。
で、それを寄付したいんですけどって言ったら、
受け付けられないと。
10日間をくぐり抜けた人からしか寄付を受け付けないんですよ。
そのリパサラ瞑想センターは。
そういうものなんですね。
なんか理屈あるんですかね?
僕の解釈にはなるんですけど、
何か対価を求めるようなものではないっていうのが前提としてあるので、
最初にそのご縁家さんがスリランカの人なんですけど、
インドにブッダの教えを再輸入みたいな感じで、
インドでは途絶えたらしいんですよね、その瞑想法が。
で、それを再輸入みたいな形でもう一回復活させるっていう時に、
最初、私はやり方間違えたんですよみたいなことを言ってて、
参加費は取ってなかったけど、
10日間食事を提供するから、
食事の実費だけ最初取ってたらしいんですよ。
そしたら、こんだけ払ったのにこんな食事かみたいな意見が出てきて、
やっぱりこれは逆だった。
これ僕の表現になると、
インプットが先だったからお菓子っていうアウトプットが先じゃないと、
無料で受けさせてもらったり食べさせてもらったりすると、
純粋な感謝の気持ちが出てきて、
それに対しての寄付が初めて生まれる。
だからそれをくぐり抜けた人からの寄付じゃないと意味がないみたいなことを表現されてたんで、
多分そういう意味だと思うんですけどね。
確かにお金、権利だと思っちゃうとね。
まだ受けてない人が、
それは果物だからそんなことを言う人いない気がするけど、
それがお金だったとしたら、
こんだけ寄付したんだから、
いい部屋でメッセージを受けさせてくださいとか言う人が出るかもしれないし、
実際それで寄付ダーナっていう表現するんですけど、
ダーナでずっと今回してるっぽい世界で100カ所以上のセンターがありますけど、
ダーナだけで回してるっていうのがすごいなって思ってるんですけどね。
実際そのセンターも僕が行くたんびに、
僕は生徒としては2回しか行ってなくて、
5月に奉仕者として参加しましたけど、
メンバーが毎回違うんですよ。
その奉仕者側の人たちが。
奉仕者も参加者も。
たまに1人2人再会する人いますけど、
全員メンバー違うのに回ってるっていうのがすごいなと思ってて、
だからでもその奉仕者って、
要は企業で言ったら従業員みたいな役割になるわけじゃないですか。
でも自腹でやってきて、
給料受け取らずに奉仕していくわけじゃないですか。
だからその人権費がかかんないっていうのも俗な言い方ですけど、
それもすごい発明だなみたいなことを言ってた人がいて、
それはそうだなって思ったりしますけどね。
まあでも奉仕の方に行くことによって、
その人も何か得るものがあって帰っていくってことですよね。
それはそれで修行になっているのがまたすごいなって思うんですよね。