WEBVTT

00:00:00.400 --> 00:00:03.660
水城真琴のショートショート

00:01:05.840 --> 00:01:10.120
N氏は、上司に怒鳴られた日、忘却堂へ行った。

00:01:11.540 --> 00:01:14.540
恋人に振られた夜も忘却堂へ行った。

00:01:16.040 --> 00:01:19.920
借金の特速場が届いた朝も忘却堂へ行った。

00:01:22.390 --> 00:01:25.490
店主はいつも同じ調子で迎えてくれた。

00:01:27.110 --> 00:01:30.530
年齢不詳の物腰の柔らかい人物で、

00:01:31.110 --> 00:01:35.390
椅子のすがり心地から装置を額に当てる角度まで、

00:01:35.930 --> 00:01:37.590
細やかに気を配ってくれる。

00:01:39.470 --> 00:01:42.210
痛みはございませんので、ご安心を。

00:01:44.280 --> 00:01:47.640
その一言も、いつしかN氏にとって、

00:01:48.200 --> 00:01:50.920
心を落ち着かせる呪文のようになっていた。

00:01:52.820 --> 00:01:56.880
その度に財布は膨らみ、心は軽くなった。

00:01:58.220 --> 00:02:01.780
こんな便利な店、もっと早く知りたかったよ。

00:02:03.280 --> 00:02:06.740
N氏はそう言って足しげく通うようになった。

00:02:08.060 --> 00:02:09.300
やがて気づく、

00:02:10.100 --> 00:02:15.460
嫌な記憶より平凡な記憶の方が実は高く売れるということに、

00:02:17.760 --> 00:02:22.400
今日の昼食、電車で見た景色、同僚との雑談、

00:02:23.200 --> 00:02:26.680
そんなものにも店主は驚くほどの根を付けた。

00:02:28.470 --> 00:02:31.310
ある日など、休日の広下がり、

00:02:31.710 --> 00:02:33.150
特に何をするでもなく、

00:02:33.710 --> 00:02:36.470
ベランデで過ごした30分を持ち込んだところ、

00:02:37.130 --> 00:02:38.870
これまでで最高値がついた。

00:02:40.290 --> 00:02:42.110
N氏は首をかしげながらも、

00:02:42.590 --> 00:02:47.070
その日以来、意識して何気ない一日を過ごすようになっていった。

00:02:48.430 --> 00:02:51.590
なぜです?こんなつまらない記憶に。

00:02:53.070 --> 00:02:55.810
N氏が尋ねると、店主は微笑んだ。

00:02:56.590 --> 00:03:02.410
お客様、つまらない記憶ほど実は貴重なのですよ。

00:03:03.910 --> 00:03:08.850
N氏は納得しなかったが、金になるならそれでいいと思った。

00:03:10.610 --> 00:03:13.590
売って、忘れて、また稼ぐ。

00:03:14.910 --> 00:03:18.310
そのうち何を売ったのかさえ思い出せなくなったが、

00:03:18.910 --> 00:03:20.650
それもまた好都合だった。

00:03:22.110 --> 00:03:24.410
忘れたことすら忘れられるのだから。

00:03:26.210 --> 00:03:29.930
1年後、N氏はちょっとした思惨感になっていた。

00:03:31.410 --> 00:03:36.470
忘却堂に売った記憶の量は、もはや自分でも把握できないほどだった。

00:03:38.050 --> 00:03:41.870
周囲は彼を悩みのない穏やかな人と評した。

00:03:43.230 --> 00:03:46.950
何を言われても怒らず、何を見ても驚かず、

00:03:47.830 --> 00:03:49.890
いつも泣いた顔をしていた。

00:03:51.010 --> 00:03:55.270
同僚たちはそんなN氏を人格者と呼び、

00:03:55.990 --> 00:04:00.850
部下からの相談ごともいつしか彼のもとに集まるようになっていた。

00:04:03.480 --> 00:04:06.000
ある日、後輩がN氏に尋ねた。

00:04:07.180 --> 00:04:11.080
Nさんは人生で一番幸せだった思い出は何ですか?

00:04:12.620 --> 00:04:15.120
N氏は少し考えて答えた。

00:04:16.520 --> 00:04:19.220
さあ、特にないな。

00:04:20.860 --> 00:04:24.480
後輩は笑った。謙遜だと思ったのだ。

00:04:26.440 --> 00:04:32.880
その夜、忘却堂の奥の部屋では、店主が今日の仕入れを棚に並べていた。

00:04:34.700 --> 00:04:39.860
手つきは丁寧で、大切な収穫物を扱うかのようだった。

00:04:41.340 --> 00:04:44.900
ラベルには貴重面な字でこう書かれている。

00:04:46.220 --> 00:04:50.140
N氏、34歳分、良質。

00:04:51.860 --> 00:04:55.340
棚には同じような瓶が何百も並んでいた。

00:04:57.640 --> 00:05:01.300
透明な霞のようなものがゆらゆらと揺れている。

00:05:02.880 --> 00:05:06.620
店主は瓶の一つを手に取り、愛おしそうに眺めた。

00:05:08.500 --> 00:05:12.420
彼らの故郷ではこれほど濃密な感情は取れない。

00:05:13.180 --> 00:05:18.040
人間という生き物は、痛みも喜びも惜しみなく差し出してくれる。

00:05:19.320 --> 00:05:22.440
しかも対価さえ払えば、自ら進んで。

00:05:23.800 --> 00:05:29.520
しかも記憶を差し出すたびに、また新しい記憶をけなげに積み重ねていく。

00:05:30.480 --> 00:05:32.740
まさに尽きることのない資源だった。

00:05:34.260 --> 00:05:38.160
こんなに効率のいい牧場を彼らは他に知らなかった。

00:05:39.860 --> 00:05:43.820
窓の外では、縁氏が今日も静かに歩いていた。

00:05:45.040 --> 00:05:51.780
悩みのない穏やかな顔で、空っぽの器のような穏やかな顔で。

00:05:58.840 --> 00:06:02.500
ケンジは8歳になっても一人っ子だった。

00:06:03.800 --> 00:06:09.060
友達の家には当たり前のように兄や姉、弟や妹がいる。

00:06:09.760 --> 00:06:12.760
それがケンジにはずっと羨ましかった。

00:06:14.360 --> 00:06:16.880
お父さん、僕弟が欲しい。

00:06:18.040 --> 00:06:25.140
ある晩ケンジがそう言うと、父はテーブルの引き出しから一冊の分厚いカタログを取り出した。

00:06:26.500 --> 00:06:28.620
表紙にはこう書かれている。

00:06:30.100 --> 00:06:32.680
ファミリープラス増員カタログ。

00:06:34.540 --> 00:06:36.640
え、これで弟が買えるの?

00:06:37.540 --> 00:06:40.060
ケンジは思わず声を弾ませた。

00:06:41.000 --> 00:06:44.260
買うっていうか、まあそんなようなものだ。

00:06:45.580 --> 00:06:49.600
ページを見くると様々な少年の写真が並んでいた。

00:06:51.000 --> 00:06:57.340
それぞれに性格、趣味、身長、性能が細かく記されている。

00:06:58.860 --> 00:07:04.000
瞳ひりタイプ、スポーツ万能タイプ、甘えん坊タイプ。

00:07:05.560 --> 00:07:10.160
迷いに迷ってケンジはページを何度も行ったり来たりした。

00:07:11.620 --> 00:07:15.180
父は急かすことなく隣でじっと待っていてくれた。

00:07:17.630 --> 00:07:21.710
ケンジは目を輝かせて一番気に入った一体を選んだ。

00:07:22.750 --> 00:07:26.130
にっこり笑った優しそうな顔の男の子だった。

00:07:28.110 --> 00:07:31.250
一週間後、大きな箱が家に届いた。

00:07:32.570 --> 00:07:36.470
中から出てきたのは写真とそっくりの少年だった。

00:07:41.570 --> 00:07:45.250
弟は最初からケンジのことをお兄ちゃんと呼んだ。

00:07:46.910 --> 00:07:49.130
弟は素晴らしい弟だった。

00:07:50.630 --> 00:07:54.070
ケンジの好きなゲームをいつも一緒にやりたかった。

00:07:55.470 --> 00:07:58.590
ケンジが疲れているときはそっと寄り添ってくれた。

00:07:59.850 --> 00:08:02.110
ケンカなんて一度もしなかった。

00:08:04.050 --> 00:08:08.610
夜眠れないときには隣のベッドからそっと手を伸ばしてくれた。

00:08:10.370 --> 00:08:17.090
学校で嫌なことがあった日も弟は何も聞かずにただただ黙って隣にいてくれた。

00:08:19.720 --> 00:08:22.680
ケンジは満足だった。しばらくは。

00:08:24.340 --> 00:08:28.360
だがあるとき近所の家でこんな会話を耳にした。

00:08:30.930 --> 00:08:37.530
うちの息子、最近わがままが増えてね。そろそろ交換の時期かしら。

00:08:39.210 --> 00:08:45.470
うちもこないだ初期モデルを返品したのよ。倉庫からトラックが来てね。

00:08:46.790 --> 00:08:49.390
ケンジは意味がわからず首をかしげた。

00:08:50.450 --> 00:08:57.270
交換も初期モデルも大人たちが使う言葉にしてはなんだか妙に事務的だった。

00:08:58.270 --> 00:09:05.250
母に聞いてみようとしたが何となく聞いてはいけない気がして結局口をつぐんだ。

00:09:07.170 --> 00:09:13.410
ある日曜日ケンジは弟と一緒に公園行く途中大きなトラックとすれ違った。

00:09:14.930 --> 00:09:17.810
荷台にはたくさんの空き箱が積まれている。

00:09:19.250 --> 00:09:24.050
箱には見覚えのある子供服がぐったりと詰め込まれていた。

00:09:25.430 --> 00:09:27.890
お兄ちゃんあれ何?

00:09:29.950 --> 00:09:34.150
さあケンジはなんとなくうなさわぎがした。

00:09:35.830 --> 00:09:39.410
その夜ケンジは両親の話し声で目が覚めた。

00:09:40.730 --> 00:09:44.270
寝室の扉の隙間から声が漏れてくる。

00:09:45.970 --> 00:09:50.030
そろそろケンジも9年目の見直し時期じゃないか。

00:09:51.830 --> 00:09:55.490
そうね最近口応えが増えたし。

00:09:56.930 --> 00:10:00.370
新しいカタログまた届いてたよな。

00:10:01.670 --> 00:10:07.050
あら今年のモデルは反抗期がないんですっていいわね。

00:10:09.170 --> 00:10:12.090
ケンジは布団の中でじっと動かなかった。

00:10:13.370 --> 00:10:16.630
心臓の音だけがやけに大きく聞こえた。

00:10:17.990 --> 00:10:22.310
隣では弟がいつもと変わらない寝息を立てていた。

00:10:23.750 --> 00:10:28.850
何も知らないその穏やかな寝顔をケンジはしばらく見つめていた。

00:10:30.950 --> 00:10:36.230
翌朝ケンジはいつものように起きていつものように朝ごはんを食べた。

00:10:37.750 --> 00:10:41.890
弟が隣でニコニコ笑いながらパンをかじっている。

00:10:43.250 --> 00:10:46.490
お兄ちゃん今日も一緒に遊ぼうね。

00:10:47.390 --> 00:10:47.790
うん。

00:10:49.550 --> 00:10:55.390
ケンジは答えながらテーブルの隅に置かれた分厚いカタログをちらりと見た。

00:10:56.750 --> 00:11:01.030
表紙には新しいゴーダという示す帯が巻かれている。

00:11:02.390 --> 00:11:04.750
今月号好評発売中。

00:11:06.090 --> 00:11:09.590
ケンジはそれ以上何も考えないことにした。

00:11:10.710 --> 00:11:15.990
考えたところで返品されるまでの日数が変わるわけではないのだから。

00:11:17.910 --> 00:11:23.910
窓の外では今日もどこかで大きなトラックが静かに走っていた。

00:11:28.510 --> 00:11:29.110
乗客

00:11:31.070 --> 00:11:34.990
男はこの道20年のベテランドロボだった。

00:11:36.470 --> 00:11:42.010
腕には自信がありこれまで一度も警察の世話になったことはなかった。

00:11:44.130 --> 00:11:46.910
下見をした豪邸に忍び込んだ。

00:11:48.350 --> 00:11:54.150
塀を越え窓の鍵を外し足音を殺して廊下を進む。

00:11:55.410 --> 00:11:59.010
分厚い絨毯が足音をさらに吸い込んでくれる。

00:12:00.470 --> 00:12:02.390
長年の勘がこう告げていた。

00:12:03.670 --> 00:12:05.590
ここはいい仕事になる。

00:12:06.830 --> 00:12:09.330
その予感はいつも大抵当たった。

00:12:11.190 --> 00:12:14.270
案の定寝室の奥に金庫があった。

00:12:16.280 --> 00:12:19.820
男はダイヤルに手をかけそこで拍子抜けした。

00:12:21.420 --> 00:12:23.340
鍵がかかっていなかったのだ。

00:12:26.010 --> 00:12:32.170
中にはきれいに束ねられた札束とビロードの箱に納められた宝石が並んでいる。

00:12:33.690 --> 00:12:36.390
まるで誰かが陳列してくれたかのように。

00:12:38.490 --> 00:12:39.190
妙だな。

00:12:40.290 --> 00:12:43.650
長年の勘が今度は別の警報を鳴らした。

00:12:44.650 --> 00:12:46.370
だが欲のほうが勝った。

00:12:47.730 --> 00:12:51.510
男は袋に次々と品物を詰め込んでいった。

00:12:53.380 --> 00:13:00.660
手が震えるほどの常物ばかりでこんな夜はこれまでの二十年でもそう何度もなかった。

00:13:03.030 --> 00:13:07.470
ふと金庫の脇に一枚のメモが置かれていることに気づいた。

00:13:08.770 --> 00:13:11.130
貴重面な字でこう書かれている。

00:13:12.880 --> 00:13:16.640
本日はお越しいただき誠にありがとうございます。

00:13:17.980 --> 00:13:20.720
多くのワインセラーもぜひご覧ください。

00:13:22.260 --> 00:13:23.900
男は眉を潜めた。

00:13:25.160 --> 00:13:26.880
歓迎されている。

00:13:29.030 --> 00:13:33.050
薄気味悪さを感じつつも男はワインセラーにも立ち寄った。

00:13:34.550 --> 00:13:39.650
案の定一番高級そうなボトルが扇を開けた状態で置かれていた。

00:13:41.210 --> 00:13:43.630
まるで味見しやすいように。

00:13:45.910 --> 00:13:52.790
試しに一口含んでみるとこれまで飲んだどんな酒よりも芳醇な香りが鼻を抜けた。

00:13:55.260 --> 00:14:01.540
結局その夜男はかつてない量の獲物を手に悠々と屋敷を後にした。

00:14:02.680 --> 00:14:07.600
警報も鳴らず犬も吠えずパトカーのサイレンすら聞こえなかった。

00:14:09.120 --> 00:14:11.640
今夜は本当に当たりの日だったな。

00:14:13.000 --> 00:14:15.940
男はほくほくと顔で家路に着いた。

00:14:17.200 --> 00:14:19.640
夜風がいつになく心地よかった。

00:14:21.660 --> 00:14:28.880
3日後その豪天の持ち主保険会社の重役は社内会議でこう報告していた。

00:14:30.320 --> 00:14:35.200
役員たちはモニターに映る映像を身を乗り出すように見つめていた。

00:14:36.540 --> 00:14:39.800
例の実証実験完璧に成功しました。

00:14:40.960 --> 00:14:48.040
監視カメラには侵入から禁品の選び方、逃走経路まで全てが自然な形で記録されています。

00:14:49.560 --> 00:14:50.880
部下の一人が尋ねた。

00:14:52.360 --> 00:14:56.240
本物の泥棒を使う必要本当にあったんですか。

00:14:57.660 --> 00:14:59.280
役者でもよかったのでは。

00:15:00.920 --> 00:15:04.060
素人の演技じゃあの動きは出せませんよ。

00:15:04.540 --> 00:15:07.680
プロだからこそ本物の怖さが取れる。

00:15:09.780 --> 00:15:15.980
数週間後新しい防犯システムのCMが全国のテレビで流れ始めた。

00:15:17.260 --> 00:15:24.840
画面には暗い廊下を進む男のシルエットと金庫を物色する後ろ姿が映し出されている。

00:15:27.380 --> 00:15:31.200
緊迫感のある音楽とともにナレーションが不安を煽る。

00:15:32.140 --> 00:15:35.080
あなたの家本当に安全ですか。

00:15:36.720 --> 00:15:42.820
男はその日たまたまテレビをつけていて自分の背中にビューボーイがあることに気づいた。

00:15:44.800 --> 00:15:46.880
心臓がドクンと大きく跳ねた。

00:15:48.480 --> 00:15:52.960
まさかと思いながらも画面から目が離せなかった。

00:15:54.620 --> 00:15:57.820
もちろん顔は映っていない。声も出ていない。

00:15:58.220 --> 00:16:03.760
だがあの独特の忍び足の癖だけは確かに自分のものだった。

00:16:05.080 --> 00:16:10.020
長年かけて身につけた誰にも真似できないはずの歩き方だった。

00:16:11.680 --> 00:16:15.360
男はしばらく画面を見つめたまま動けなかった。

00:16:17.020 --> 00:16:20.680
文句を言うにも警察に相談するわけにもいかない。

00:16:22.100 --> 00:16:27.260
結局その日を境に男は忍び込みの仕事をきっぱりとやめた。

00:16:28.800 --> 00:16:37.000
20年かけて積み上げてきた技術ももう誰かの宣伝映像に使われているのかと思うと急に虚しくなってしまったのだ。

00:16:38.860 --> 00:16:43.080
あの家だけは二度と近づかないと心に決めながら、

00:16:43.980 --> 00:16:48.760
せめて物意地で男はテレビを消し静かにカーテンを閉めた。

00:16:49.780 --> 00:16:57.800
長年の相棒だった黒い道具袋もその夜静かに押し入れの奥へとしまい込んだ。

00:17:02.800 --> 00:17:04.140
幸福発生装置

00:17:06.420 --> 00:17:11.180
M博士は生涯をかけて一つのことだけを研究していた。

00:17:12.740 --> 00:17:15.520
人間を完全に幸福にする方法。

00:17:16.640 --> 00:17:25.440
子供の頃貧しさゆえに家族が笑うことの少ない家庭で育ったM博士にとって切実の問いだった。

00:17:27.080 --> 00:17:30.500
同僚たちはそんなものは夢物語だと笑った。

00:17:31.580 --> 00:17:33.860
だがM博士は諦めなかった。

00:17:35.020 --> 00:17:41.440
40年間誰とも結婚せず誰とも遊ばずただ研究室にこもり続けた。

00:17:42.780 --> 00:17:45.320
そしてそれはついに完成した。

00:17:46.480 --> 00:17:53.700
長い研究生活の末M博士の目は充血しながらも確かな達成感に輝いていた。

00:17:55.320 --> 00:17:58.260
装置の名は幸福発生装置。

00:17:59.160 --> 00:18:04.160
頭にかぶるヘルメットの機械で脳に微弱な電流を流し、

00:18:04.640 --> 00:18:08.320
あらゆる不安、悲しみ、苦しみを取り除き、

00:18:08.820 --> 00:18:11.440
代わりにこの上ない多幸感で満たす。

00:18:12.380 --> 00:18:16.740
設計図には何度も書き直された跡が無数に残されていた。

00:18:18.440 --> 00:18:20.960
M博士は記者会見を開いた。

00:18:23.080 --> 00:18:26.080
これで人類からあらゆる不幸が消えます。

00:18:27.240 --> 00:18:29.620
会場はどよめきに包まれた。

00:18:30.680 --> 00:18:33.960
フラッシュが一斉にたかれ質問が飛び交った。

00:18:35.520 --> 00:18:40.200
長年の孤独な研究生活がようやく報われた瞬間だった。

00:18:42.370 --> 00:18:44.230
国はすぐに興味を示した。

00:18:45.550 --> 00:18:48.730
量産化の話が持ち上がり予算がついた。

00:18:50.290 --> 00:18:52.210
世界中のメディアが押し寄せた。

00:18:53.230 --> 00:18:56.070
博士、本当に安全なんですか?

00:18:57.430 --> 00:18:59.550
記者の一人がそう尋ねた。

00:19:01.540 --> 00:19:04.140
会場の空気が一瞬張り詰めた。

00:19:05.700 --> 00:19:09.180
M博士は少し考えて、こう答えた。

00:19:10.280 --> 00:19:14.280
安全性を証明する一番確実な方法があります。

00:19:15.980 --> 00:19:22.020
その夜、M博士は誰もいない研究室で装置を自分の頭にかぶった。

00:19:23.120 --> 00:19:28.600
40年間の孤独と苦労に、そろそろ終止符を打ってもいいだろうと思った。

00:19:30.520 --> 00:19:37.080
スイッチを入れた瞬間、M博士の顔に見たこともないような穏やかな笑みが広がった。

00:19:39.000 --> 00:19:46.340
翌朝、女子たちが研究室に来ると、M博士は椅子に座ったままニコニコと微笑んでいた。

00:19:47.980 --> 00:19:50.380
博士、結果はどうでしたか?

00:19:51.760 --> 00:19:56.080
M博士は答えなかった。ただ、笑い続けていた。

00:19:57.300 --> 00:19:57.820
博士?

00:19:58.980 --> 00:20:02.300
何を聞いてもM博士は笑うばかりだった。

00:20:03.360 --> 00:20:10.460
食事を運んでも、名前を呼んでも、肩を揺すっても、あの満ち足りた笑顔が崩れることはなかった。

00:20:11.940 --> 00:20:17.880
長年苦楽を共にしてきた女子の一人は、その様子を見て思わず涙ぐんだ。

00:20:18.820 --> 00:20:23.540
喜んでいいのか、悲しんでいいのか、自分でもわからなかった。

00:20:25.040 --> 00:20:27.060
女子たちは慌てて医師を呼んだ。

00:20:28.160 --> 00:20:31.300
医師は診察の末、こう告げた。

00:20:32.120 --> 00:20:38.420
脳波は極めて安定しています。おそらくこれ以上ないほどの幸福状態です。

00:20:39.200 --> 00:20:41.060
では、治るんですか?

00:20:42.080 --> 00:20:44.280
治すとはどういう意味でしょう。

00:20:45.140 --> 00:20:48.580
人類史上最も幸福な人間なんですよ。

00:20:50.500 --> 00:20:53.800
結局、装置の量産計画は中止になった。

00:20:55.160 --> 00:20:59.040
安全性に懸念ありという当たり障りのない理由で。

00:21:00.420 --> 00:21:05.100
あれほど熱を上げていたメディアも、潮が引くように興味を失っていった。

00:21:07.310 --> 00:21:14.090
M博士は療養施設に移され、窓際のベッドで今も静かに微笑み続けている。

00:21:15.570 --> 00:21:18.370
見舞いに来る者は年々減っていった。

00:21:19.530 --> 00:21:23.530
それでも博士の顔からは一度も笑みが消えることはなかった。

00:21:25.010 --> 00:21:32.830
カレンダーがめぐられ、季節がめぐっても、その表情だけはあの夜のまま、時が止まっていた。

00:21:35.400 --> 00:21:41.880
数年後、その施設を見学に来た若い研究員が、簡易版の装置を持ち帰った。

00:21:42.980 --> 00:21:49.760
効果を弱め、リラックス効果のある安眠グッズとして売り出すと、これが静かにヒットした。

00:21:51.100 --> 00:22:00.700
パッケージには穏やかに微笑む人物のイラストが描かれ、店頭では疲れた顔の会社員たちが次々と手に取っていった。

00:22:01.960 --> 00:22:04.360
商品にはこんなキャッチコピーが付いていた。

00:22:05.600 --> 00:22:07.180
毎日を笑顔で。

00:22:08.680 --> 00:22:12.080
開発者の名前はどこにも書かれていなかった。

00:22:13.080 --> 00:22:15.840
誰もそれを不思議に思う者はいなかった。

00:22:17.040 --> 00:22:23.180
棚に並んだそのパッケージは、今日もどこかのレジで静かに会計を待っていた。

00:22:29.510 --> 00:22:31.530
女は夏が大好きだった。

00:22:32.470 --> 00:22:35.070
毎年9月に入ると気がめいった。

00:22:35.970 --> 00:22:43.130
蝉の声が途切れ、風が涼しくなるたび、何か大切なものが終わっていくような気がしてならなかった。

00:22:44.350 --> 00:22:50.190
半袖が着られなくなる、あの季節の変わり目が女はいつも苦手だった。

00:22:52.110 --> 00:22:58.130
コートを着込む人々を横目に、まだ夏を惜しんでいるのは自分だけのような気がしていた。

00:23:00.190 --> 00:23:06.150
そんな女が見つけたのが、パーソナル真夏システムという新商品だった。

00:23:07.610 --> 00:23:15.050
小型の装置を身につけるだけで、常に体の周囲だけ心地よい真夏の気候を再現してくれるという。

00:23:16.590 --> 00:23:18.250
気温はおよそ27度。

00:23:19.350 --> 00:23:26.510
真夏の炎天下のような猛暑ではなく、日陰でそよ風が吹いているような過ごしやすい暖かさだった。

00:23:28.130 --> 00:23:32.730
紫外線は一切出さない設計らしく、日焼けの心配もない。

00:23:33.990 --> 00:23:37.390
耳元には控えめにセミの声が流れる。

00:23:39.230 --> 00:23:42.090
これさえあれば一年中夏でいられる。

00:23:43.450 --> 00:23:45.110
女は迷わず購入した。

00:23:46.410 --> 00:23:50.710
届いた小さな端末をネックレスのように首から下げるだけ。

00:23:51.750 --> 00:24:00.590
設定画面には気候をこと細かに調整できる項目が並んでいたが、女が選ぶのはいつも同じ数値だった。

00:24:02.270 --> 00:24:09.310
それだけで半径1メートルほどの空間が常にあの心地よい真夏の空気に包まれた。

00:24:11.880 --> 00:24:13.180
効果は絶大だった。

00:24:14.480 --> 00:24:19.540
真冬でも女の周りだけはふんわりと暖かい空気が漂っている。

00:24:20.540 --> 00:24:27.860
会う人ごとに、その格好で寒くないの?と驚かれ、女は誇らしい気持ちになった。

00:24:28.900 --> 00:24:37.520
半袖のワンピースにサンダルという格好で雪の街を平然と歩く自分の姿が女はどこか気に入っていた。

00:24:39.500 --> 00:24:42.500
だが次第に周囲の反応が変わっていった。

00:24:44.380 --> 00:24:47.480
なんか近くにいると変な感じがするんだよね。

00:24:48.400 --> 00:24:52.480
同僚たちは女のデスクに近づきたがらなくなった。

00:24:53.680 --> 00:24:55.080
理由ははっきりしていた。

00:24:56.660 --> 00:25:02.520
女の周辺だけ湿度が上がり、大事な書類が湿気でふにゃりと波打ってしまう。

00:25:03.560 --> 00:25:12.800
空調は女のデスク付近だけが機器が悪く、総務からはその一角だけ湿温が異常ですとたびたび注意が入った。

00:25:13.540 --> 00:25:17.980
オンライン会議中には控えめなセミの声がマイクに拾われ、

00:25:18.900 --> 00:25:22.720
今何か鳴っていませんか?と何度も聞き返された。

00:25:23.860 --> 00:25:28.780
会議室では女の隣の席だけがいつも最後まで空いていた。

00:25:30.860 --> 00:25:32.620
恋人にも距離を置かれた。

00:25:34.120 --> 00:25:41.020
一緒に寝ていると暑くて目が覚めちゃうんだよ。手を繋ぐのも正直ちょっと汗ばむし。

00:25:41.900 --> 00:25:44.720
彼はそう言って静かに去っていった。

00:25:45.960 --> 00:25:55.200
冬の楽しみだったはずの鍋やこたつでの昼寝も女の周りだけ妙に暖かいせいでどこか味気ないものとなっていた。

00:25:56.740 --> 00:26:05.340
付き合っていた頃、女の隣にいるだけでまるで一年中南国にいるようだと最初は喜んでくれていたはずだった。

00:26:06.760 --> 00:26:09.660
友人たちも少しずつ離れていった。

00:26:10.700 --> 00:26:16.300
冬に写真撮るとあなたの周りだけ服装が浮くからちょっと気まずいんだよね。

00:26:17.260 --> 00:26:21.760
みんなで冷えたドリンクを飲んでてもあなたの分だけすぐぬるくなるし。

00:26:23.100 --> 00:26:25.960
理由はみんな似たようなものだった。

00:26:27.240 --> 00:26:29.800
女は寂しさを覚えなかったわけではない。

00:26:30.580 --> 00:26:36.060
だが掃除を外すという選択肢はなぜか一度も頭に浮かばなかった。

00:26:37.990 --> 00:26:45.130
数年後、女が勤めていた会社は経営縮小によりオフィスを縮小移転した。

00:26:46.490 --> 00:26:51.450
がらんとした旧オフィスに女一人だけが最後まで残っていた。

00:26:52.870 --> 00:26:58.510
荷物をまとめる同僚たちは最後まで女に手伝いを頼むことはなかった。

00:27:00.110 --> 00:27:07.010
誰もいなくなった部屋の窓際で女はビーチチェを広げ麦わら帽子をかぶり直した。

00:27:08.430 --> 00:27:12.450
掃除から流れる蝉の声だけが静かに響いている。

00:27:14.390 --> 00:27:23.110
窓の外にはビル風が吹き荒れているはずなのにこの一角だけは変わらず穏やかな夏の空気に満ちていた。

00:27:24.670 --> 00:27:28.090
女は目を細め満足げにつぶやいた。

00:27:29.450 --> 00:27:31.730
今日もちょうどいい夏日より。

00:27:33.210 --> 00:27:36.870
窓の外では粉雪が静かに降り始めていた。

00:27:38.350 --> 00:27:45.150
誰に見せるでもない麦わら帽子の下で女は久しぶりに心の底からくつろいでいた。

00:27:46.770 --> 00:27:54.190
半袖から伸びた腕はあの頃と変わらず日に焼けることもなく白いままだった。
