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この番組では、現在放送中の大河トラマ豊臣兄弟、ロブ隊の一つ、
豊臣秀吉とその弟秀長が変わった美濃平定の歴史的な背景を、史実ベースで解説していきます。
ドラマをきっかけに、この辺りの歴史をもう一度整理してみましょう。
その1、そもそも美濃とはどんな国だった。
まず、美濃という国の位置と意味から見ていきます。
美濃は、おおむね現在の岐阜県南部から中部にあたる地域で、
東西を結ぶ街道や、木曽川ながら川といった大きな河川が通る、交通と軍事の要所でした。
戦国時代、この美濃を支配していたのが斎藤氏です。
よく知られているのは、美濃の間主と呼ばれた斎藤道さん。
油売りから身を起こして出国城を成し遂げた、という有名な逸話を持つ人物で、
近年の研究では、この壮大な国取りは道さんとその父親の荷台に渡るものだったという見方が有力になっています。
ただし、この道さんと、その殺したつとの関係は悪化し、
長良川の戦いで父子が争った結果、家中の対立は深まりました。
その余波を受け、吉達の子である斎藤達を機の時代には、
家臣団の結束が弱まり、不安定さが増していったと考えられています。
その2、なぜ織田信長と秀吉は美濃を狙ったのか、
次に、終わりの織田信長が、なぜ美濃を攻略しようとしたのかを見ていきます。
信長は、桶狭間の戦いで今川義元を破った後、
自国を終わりの北東にある美濃に強い関心を向けるようになります。
理由は大きく2つに整理できます。
1つ目は、地理的な理由です。
美濃を抑えることで、東は信濃や北陸方面、
西は大宮駅内へと軍勢を動かしやすくなり、
後に天下取りと呼ばれる動きに向けた足場として、非常に重要な位置にありました。
2つ目は、斎藤家の弱体化です。
斎藤達を機の代になると、若年の当初をめぐるか診断の不満や、
先ほど触れた内紛の後遺症などから、
斎藤家の将来性に疑問を持つ過信が増えていたと考えられています。
信長は、こうした内部事情を踏まえながら、
ただ力で押し切るだけではなく、
省略、つまり敵方の武将を味方に引き入れる働きかけを重視しました。
この省略や現地での実務の担い手の一人として当角を表したのが、
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木下藤吉郎、後の豊臣美秀吉です。
その3、秀吉の省略とその股に染みの3人。
ドラマでもよく描かれるのが、秀吉のひとたらしとしての側面です。
身の攻略の過程でも、秀吉は前線で戦うだけでなく、
敵方の武将に働きかけて寝返りを促す役目を果たしたとされています。
その象徴的なエピソードとして知られているのが巣の股の話です。
いわゆる巣の股ひとや城の物語では、
秀吉が短期間で砦を築き、身の進行の前線基地としたと語られます。
ただし、この位置や城については、
いつ誰がどのように築いたのか、資料上にはっきりしない点も多く、
秀吉主体説を伝える軍器物の影響や構成の脚色を指摘する研究もあります。
そのため、ここでは、身の攻略の前線基地として巣の股の拠点が整えられ、
その過程で秀吉が活躍したと伝えられているが、
具体的な姿は、資料によって解釈が分かれるという程度に理解しておくと良いでしょう。
もう一つ重要なのが、三島の三人衆と呼ばれる有力武将たちの動きです。
稲葉一徹、安藤守成、宇治家牧禅那は、もともと齋藤家に仕えていましたが、
やがて信長川に味方するようになり、
稲葉山代攻略に向けた大きな転機となりました。
彼らが寝返った背景には、
齋藤家の内奮や達沖政権への不信感に加え、
信長川からの働きかけ、つまり弔略があったと考えられています。
この身の方面での弔略や国境防備の整備に、
秀吉が重要な役割を担ったとする味方は有力ですが、
どの武将に対して、誰が具体的にどのように動いたかについては、
資料ごとに違いもあり、断定が難しい部分も残っています。
その4、稲葉山代の戦いと岐阜城殿下夫婦、
身の攻略のクライマックスが、
齋藤達沖が立てこもる稲葉山城をめぐる戦いです。
稲葉山城は、
瓦の中心部にそびえる要害で、
現在の岐阜城の前身にあたります。
西瓦の三人衆の寝返りなどによって、
齋藤家の求神力が低下する中、
信長は稲葉山城を攻略し、
瓦をほぼ掌握します。
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この勝利の後、
信長は稲葉山城を岐阜城と改め、
自らの本拠を瓦の小牧さんから岐阜へと移しました。
そして、この時期から使用されるようになるのが、
天下夫婦と刻まれた印盤です。
天下夫婦という言葉には、
一般的には武を持って天下の秩序を打ち立てるといった意味があると解釈されますが、
近年の研究では、武家政権による天下支配の正当化など、
いくつかの解釈が並存しています。
いずれにせよ、信長が一国の大名から、
天下を視野に入れた存在であることをアピールするスローガンとして機能した点は、
多くの研究で共通して指摘されています。
瓦は、その天下夫婦を掲げた新たな拠点として、
極めて重要な意味を持つことになりました。
その後、この時期、弟秀長は何をしていたのか。
では、大河のもう一人の主役である弟秀長は、
この身の平定の時期に、どのような立場にいたのでしょうか。
ここは、残された資料が限られている部分で、
いつ、どの戦いから兄の元に加わったのかを具体的に特定することはできません。
ただ、後年の記録や系譜、豊臣家診断の構成などから、
秀長は比較的早い時期から兄秀良に従っており、
戦場での補佐や、後方の実務、領地の管理などで力を発揮していったと考えられています。
身の平定の後、秀良が中国攻めなどを経て大大名となり、
さらに天下陣へと上り詰めていく過程で、
秀長は豊臣家のナンバー2として、
領国経営や多大名との折衝、軍勢の管理など、調整役補佐役として高く評価されました。
このような秀長の静かなナンバー2というスタイルは、
身の攻略を含む初期の戦役や、その後の各地での実務経験の中で、
徐々に形作られていったと見ることができます。
ただし、身の気にどの場面で何をしたかという具体的なエピソードは、
ドラマほどには細かく残っていない、という点は抑えておく必要があります。
では、本日はこの辺で。
この音声が、その2週目の楽しみ方の小さな手がかりになれば幸いです。
ご視聴ありがとうございました。