2021-03-10 33:00

【GMV 336】記憶はそもそも歪んでいる

思い出すよりも現実に入っていく方が救いがありうる
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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
昨日ですね、絵の描き方というものについてお話を聞いたというか、
僕が絵の描き方についてですね、何の話をどれほど聞こうと、なかなかそもそも絵を描こうという気持ち自体が
1ミリも空いてこないという、その絵が苦手なんで、何かこう描きたいという気持ちが、どこを探しても欠片もない人間なんですよ。
でもですね、大変面白いお話で、要は私たちって例えばその
何でもいいんですけれども、かなり複雑なものでもですね、何かこう頭に思い描ける、
気になっているというか、そのビジュアルですよね。
知っているような気がしていると思うんですけれども、私で言えば私の家とか、自分の家がどんな姿をしているのかって、すぐ思い浮かぶわけじゃないですか。
描けと言われると、私は特にそうかもしれないけど、おそらく私の家だとは絶対にわからないような絵になっちゃうんですよ。
人の顔なんかが一番いいですよね。 例えば、
そうですね、娘でさえ、
私の娘を見間違えるとかってないという自信があるんだけど、ということはつまり顔は知ってるんですが、
描けと言われると多分娘だとわかるようには描けない自信があります。自信自慢にも何もならないですけどね。
前に自転車描けという、マインドマップか何かの講座に間違っていたことがありまして、
なんか自転車描けって話になったんですけど、自転車だと思われるようなものにはならなかったんですよ。
ついに。タイヤは2個付いていてサドルが付いていることはわかるようなものだったんですけど、自転車めちゃくちゃ難しいなと思いました。
で、何の話をしているかというとですね、つまり私たちはですね、現実をちゃんと見てないんだと思うんです。
というお話だったんですよ。見る目が雑であると。 その方絵描く方ですし、私から見るともう絵を描く方は全員
魔法使いのように絵が上手いですけど、私は中でもこの人は絵が上手いと思っているんですが、
何にしてもですね、見る目が雑であると。 だからちゃんと見る訓練って大事だって話で、全くその通りだと思ったんですよ。
あの、この番組では出したことはあんまないと思うんですけど、福光さんっているんですね。福光しげきさん。
出したことあるかもな。とにかく彼がですね、彼漫画家なんで、まあ絵上手いと私思うんですけど、
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同じ話があったんですね。トトロの絵描けるっていう風に自分に問いかけると、もちろん描けると思って描いてみると意外とトトロにならない。
漫画家がそうならば、私が自転車描けないのは当たり前だよなと思うんですね。私あの、
昔通知表というのは小学校時代あったじゃないですか。 基本4教科はよくできるに必ずなるんですよ。音楽も含めてなるんですが。
図工のところは絶対よくできるになってくれない。特に絵が入ってくるとダメなんですね。
何を描いたかがわかるように描けないんですよ。
そのことがトラウマになっているとかいう問題ではなくて、私幼稚園の頃からすでに絵を描きたいとはほぼ思わない子供だったんですね。
お絵描きの時間とかって一般的には喜ばれるけど、私は絵を描くんなら本読んでたいというタイプで、
絵を描くんならせめて得意じゃないけど、外で体育にしてくれるぐらいな、そういうぐらい絵というのはですね、根本的にモチベーションが欠けてるんですね。
トラウマとかにならないんですよ。なんか下手だとか言われても下手だからなぁみたいに思うんですね。
というか描ける気がしませんからっていう感じなんですが。長々と話しているこれはですね、絵のトラウマの話ではなくて、
でもトラウマっていう言葉があるじゃないですか。 私あれ何なんだろうと、
しばしば思うんですね。まあいろんな、今は脳科学的なメカニズム等も
分析されてきたんで、分かっていることも出てきているんですけれども、それにしてもあれ、不思議な現象だと思うんですね。
心の傷とかって言うじゃないですか。 グッドマイブスでは蔵野圭三さんが、心は形がないものだから傷つくことはない。
これは非常にですね、
なんていうか斬新な言い方だなっていうふうに思ったんですね。最初に聞いた時は。 心の傷って普通に使うんですよ。心理学でもね。
でも心の傷とは何かっていうと、せいぜいトラウマだっていう話になってくるんですね。
トラウマってなんだって話になってくると、かなりもう微妙なものなんですよ。
おそらく、普通の仕方では記憶されていない記憶っていうような、
ごく一般的にかつ、専門用語を外して喋るとこういう言い方になるんじゃないかと思うんですよね。
それでも数通りあるんで、本当に一言で言うのは難しいですが、おそらくは体験が、
ほとんどの場合ショッキングすぎて、つまり現実にあってはならないことだというふうに心理作用が働く。
なぜなのかといえば、たぶん心というのはですね、現実とはこういうものだという、
当たりをつけた上で機能してるんですね。ほとんどの場合、日々起こることっていうのが現実ですよね。
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現実に対するイメージ、これが大いに問題があると思うんですけど、あるわけですよね。現実とはこういうものだと。
しばらく海外とかで暮らすと、特に先進国じゃない国で暮らすと、たぶん現実というイメージが大きく変わるはずなんですが、
ほとんどの日常で起こりそうにないことは起こらないということになってるんですが、起こっちゃったと。
しかもそれを体験してしまったということになると、それを普通の記憶の処理の仕方にして組み入れると、
それまでの記憶との整合性が狂ってくるので、別のやり方で記憶しようということにたぶんなる。
それがトラウマっていうものだと思うんですね。だから下手に思い出してはまずいっていう話にもなるんだと思うんですよ。
ただこういう記憶は大体において、本人の生活にいろいろ
死傷を来たす。これを心の傷と呼んでいるわけですが、つまり確かに心に傷がついている、どこかに傷がついているっていう表現では
無理があるんですよ。脳に傷がついているのかというと、それもちょっと違う気がするんですね。あくまでも記憶の仕方が特殊であるという意味であって、
ある意味ではそれはだから処理されているとも言えなくはないんだと思うんですね。あるいは処理が
不正っていうのもおかしいんですけれどもね、コンピューターじゃないんでね。
しかし通常の処理の仕方という意味では正常でないみたいな、そういう感じだと思うんですね。
そういった時によくよく考えてみると、これってコンテンツじゃないじゃないですか。
僕はこのことが大事かなと一つまず思うんですね。記憶ってコンテンツじゃないんですよ。
例えば、トトロの絵を描くにしても結局のところ問題になっているのは、私たちはついついトトロの絵を頭の中に保存してあるように思っちゃいますけど、
絵とかならば多少そういうところはあると思うんですけど、でも基本的にですね、例えば私が今喋っているこの言葉は、
文章をまず頭に思い浮かべてからそれを読むとかいうことをしているわけではないんですよ。
多分誰もそんなことはしてないと思うんですね。記憶があるから日本語を喋れるんですけれども、記憶内容そのまま辿っているわけではないですよね、決して。
でもこれは記憶を使っていることに違いはないんで、記憶ってのは機能なんだと思うんです。
泳げるとか自転車に乗れるっていうのと基本的には常に同じことで、
歴史コントがいてですね、言葉の記憶はどうなるんだ、特に単語の記憶はどうなんだって話ちょっとあるんですが、
一般的に私たちは辞書みたいに単語の記憶をどうしているっていう意味で記憶を日常生活で使うことは極めて少ないと思うんですよ。
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やっぱりどういうふうに歩くとか、どういうふうに動くとか、どんなふうに喋るとか言ったことが記憶であって、一番使っている記憶であって、
大概はその延長線にあると思うんですね、記憶というの。だから記憶ってのは機能だと思うんです。
そうするとトラウマというのは多分、機能させがたい記憶っていうようなものなんじゃないかと思います。
極めて強い体験で決して忘れられるようなものじゃないんだけど、その記憶を機能させるのはほぼ不可能だみたいな、そういうやつ。
話をちょっと戻すんですけど、というような記憶っていうのはですね、
さっきのトトロではないですが、トトロでも何でもいいんですけど、絵を描くやつなんですけれども、
極めて特殊な記憶のされ方をしているわけだから、極めて正確じゃないわけですよね。
ここがすごくポイントになってくると、僕は昨日の話を聞いて思ったんですよ。
私たちの記憶はがいして雑だったと。私が自転車の絵をまともに描けないように、実はちゃんと自転車のことなんて知らないし見てもいない。
ということはですね、
例えば、よくある話ですが、許せないことがあったと。それは軽いトラウマみたいなものですよね。
許せないことがあったと。で、そのことはよく覚えてるって僕ら言うんだけど、多分そんなことはないですよね。
これかなと昨日思ったわけです。絵をちゃんと描けないように、おそらくちゃんとその事実を思い出そうとすると、
描ききれない。描ききれないのはどうしてかというと、ちゃんと体験しなかったからだと思うんです。
これ不思議なことなんですよ。本人は少しもそう思ってないわけじゃないですか。
何か許せないことがあったと。よく覚えてると思ってるんですよ。でも僕らは日常何度も何度も見ている自分の娘の顔すらも実はよく覚えていないのに、
たった1回あっただけの、しかもその比較的ショッキングな出来事。
記憶のされ方も特殊なやり方で済まされてしまっているような記憶が、
果たして正確な記憶になり得るだろうかというと、多分決してなり得ないと思います。
そうすると、心の傷に、心の傷、うんうんはちょっと置いとくにしても、心の傷を残しそうな出来事を思い出している時は、
大体においては不正確であると思わなければいけないような気がするんですね。
ところが多分ですけれども、現に、毒親とか何でもいいんですけれども、そういう人に向かってですね、これを言うことは多分不可能ですよね。
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あなたのその毒親についての記憶は不正確です。多分話にならなくなると思うんですよ。
あの、それこそ心の傷の問題ですからね。
つまりここに議論の余地のなさと、議論の余地がいっぱいあることと同時にあると思うんですね。
例えば私がですね、富士山をちゃんと覚えてませんとか言われても、あるいは自転車の形状を正しく覚えてませんねと言われても、全然腹は立たないけれども、事実そうなんですよ。
でもこういう記憶の方が私もマシなんですね。
私にも思い出したくない記憶はないですけど、黒歴史とかって言いますよね。
ああいうものが一つもないわけではないが、そういったものを思い出そうとすればするほどですね、きっと困難を覚えるに違いないと思うんですね。
カール・グスタフ・ユングですね。
フロイドの一時弟子で途中から欠別した人ですが、
この人が記憶を意識、トラウマを意識化することによって
治療に役立つという話は、かなりこの人が推し進めた面が日本では特にあると思うんですけれども、
この理論は多分ここから来てるんだろうなと思います。
不正確なんですね。
必ずしもトラウマでなくても、例えば私たちって交通事故の証言で、よく記憶疎法を起こすっていう、これはですね、
臨床の話じゃなくて社会心理学とか認知心理学の方の話なんですけど、要するに大げさに覚えているんですね。
車はちょっとヘッドライトを壊れただけなんだけど、それを見た人はもうなんか半分ペチャンコになりましたみたいについ言っちゃうと、
そういう傾向がある記憶というのがですね、不正確なんですよ。
そして不正確になるだけの理由も多分あるんだと思うんですね。
この不正確さが私たちのその許せなさに多分直結していると思うんです。
思い出したくもないとかって言うじゃないですか。あれは本当にそうなんですよね。
思い出すとその時の嫌な気持ちが蘇ってくるし、
しばらくその気持ちと戦わなければならなくなるから、思い出したくもないわけです。
で、この次が大事だと思うんですけれども、
実は思い出してみた時にそれほどひどい目にあってませんでしたってのは本当にダメなんじゃないかと思うんですね。
それほどひどい目にあっていなかったということがもし万が一
本当だということになると。
今度はですね、これまでの自分が苦しんできたのは何だったんだという、これは大変不思議な現象なんですけれども、
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この種の展開を読むことは、臨床の本とかで読むことはとっても多いです。
つまり今まで苦しんできたと思ってたのは誤解だったらしいが、
そんなことはあり得て欲しくない、みたいなそういう心理が働くんですね。
これは
言ってみればリベンジなんですけれども、
私はこう、これを誰かが、何だったっけな、認知心理学者かな、
認知上の存得計算みたいな概念を考え出しちゃっている人がいるんですね。
これは、臨床にこういう話が持ち込まれると、良いのか悪いのか分かりませんけれども、面倒くさいことになるんじゃないかなと思うんですけれども、
要するに、要するにあれですよ、変動体と私がよく言っている、変動体が活性化しゴロシゾールが出ました。
コストがあるわけです、ここには。心拍数高めますしね、心拍数は高まるし、発汗、体温も出る。
実は体温も少し上がる等々、長らく続けば身体的ダメージもらう。
そういうコスト払ってしまったと。払ってしまったんですよ、もはや。
親のせいとか、なんでもいいんですけれども、私がスイミングのコーチに殴られたとか、そういうことによって
コストを払ってしまった。このコスト分をどうしてくれるのかと。
この話、結局同じところにいつも行き着くんですけれども、どうしようもないんですが、この算得を釣り合わせなければいけないという
認知上の思いがあるっていう理論があるんですよ。そういう思いはない方がいいだろうと思うんですけど、なぜならば
認知上のコストを常に釣り合わせなきゃならないとなったら、やっぱりあれだと思うんですよね。
復讐と戦争は避けられなくなっちゃうと思うんですよ。
嫌な目にあった分、必ず相手にも同じ分だけの嫌な目に合わせるか、あるいは相手が償うことによってこの認知コスト分の良いことをしてくれるか、どっちにしても
なんか賠償的な話になるわけじゃないですか。その賠償は
測り切れないということと、もう一つは膨大になっちゃうということと、どっちにしても多分無理があると思うんです。
これを社会的なやり方で解決をしきろうとした場合は。
で、それよりも何よりもですね、
ここに無理な言い分が本当はありまして、誤解したということになるとどっちの責任になるのかと。
この話がですね、なんかここのところ、私の番組にはまとわりついているなと思うんですけど、誤解した責任はどっちにあるのかって大事なことだと思うんですよ。
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傷つけられたという人にしてみれば、相手にどういうつもりがあろうがなかろうが、
傷つけるきっかけを作ったから相手に責任があるって話になるわけですよ。
でも、ヘッドライトしか壊れていない交通事故を見て、車半分がペシャンコになったと思い込むのが我々の脳なんですね。
そうすると、相手はもしかして何にもしてなくてもですね、何にもしてなくても人が膨大に傷つくということは起こり得ちゃうわけですよね。
これは極端な例かもしれないけど、でもないわけでは決してない話なんですね。
そうすると、相手はほとんど何もしていないが膨大に傷ついた。
その場合の責任はどっちにあるんでしょうという話をし始めると、多分解決の糸口を失うというふうに思うんです。
認知が私たちの認識の仕方ですね。
常に完璧に正確であるならば、この話それでも何とかなるかどうか疑わしいですが、それなら何とかなるかもしれませんが、
ことトラウマに関わる話ほどですね、認識が歪んでいくんですよ。
扁桃体が働いているときほど認識は歪むんですね。
しかも扁桃体が働いているときほど責任問題を追求したくもなるんですよ。
なぜなら認知コストをたくさん払ったから、その認知的な計算の話の論理に乗っかるならばですね、
いっぱい払っちゃったから、どこかで取り返さなければいけないという思いになりやすいんですね。
だけれどもこの時誰が悪かったのかについての認識は大きく歪みやすく、
しかもそれが記憶の領域に移ってくると、つまり時間が経ってくるとですね、
そのトラブルに関する記憶は極めて雑なものになるわけですね。
もともと私たちの知覚と記憶は雑なんですけれども、最初にお話しした通り、
それが扁桃体が強く活性化しているときには一段と雑になるわけです。
そうはしかも思えなくなるというオマケまでついてくるんですよ。
そう思えないんじゃないですか。
あの時のあいつがこう言ったのは、永遠に忘れることができないみたいになるんですよ。
しかもそれはすごく客観的で正確な感じを、
なんかこう、まと、客観的で正確な感じというものを備えているんですね。
でもだいたい客観的でも正確でもないっていうことがそこにあるわけで、
あの、私も思い出せる気がするんですよ。
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奥さんとか母とかに言われた、ちょっと、ちょっとって言うだけなんですよ。
これがすごくこう、嫌な感じで響いたっていうのを思い出せる気がするんですよ。
でも、果たしてそれはどの程度事実だったのか、ちょっとという言葉が出たのは間違いないですよ。
でも、それがどういう言葉の強さだったのか、
どれぐらい人を傷つけるっていうことを使うのかのものであったのか、
計り知りようがなくて、しかもそういう時ほど認知と記憶は歪んでいきやすいので、
つまり、ちゃんと駆けない自転車をさらにちゃんと駆けなくしたようなものになる。
それってつまり、もはや自転車じゃないじゃないですか。ここなんですよね。
扁桃体が活性化し、心の傷を残しているという出来事に遭遇した時の扱いにくさと、
かつそれを、その問題を厳密に追求しようとしても大体うまくいかない、おそらく原因。
で、やっぱりですね、一番いいのは、私はこう、その、なんていうのかな、
コストを払った分についての話をするならば、実はですね、
体を
いたわると。
それが最初に来てもいいかなというふうに、最近時々思うようになりました。
自分の体ですよ、いたわると。
それはつまり、傷ついたのは事実だから系に沿ってる話なんですが、
傷ついたのが事実だというのは、おそらくはホロモンバランスが変わったということについてのエネルギーコストの話をしているんですよ。
体が傷ついたかどうかまでは、ここではまだ何とも言えないです。だってコルジゾールっていうのは常に体内にあるものだし、
濃度も運動するだけで高くなるものなので、コルジゾールが出ました、賠償してくださいというのはおかしいと思うんですよ、さすがに。
コルジゾールはいつでも出ていますからね。しかもそこには波があるのが当然のものなので、
これに関しては自分で収めることが十分可能ですから、自分で収める効果はないんですね。
あともう一つここにはめんどくさい問題がありまして、めんどくさいというのか難しいですけど、コルジゾールというのは寝用によっては
身体の感覚としてあるいは認識としては報酬系として働いてしまうんですね。
だからSFクラブって世の中にあるんですよ。痛い目にあると気持ちいいんですよ。
あの、程よくないとダメですよ。種々条件が揃うということも必要です。
でもハードな運動をした後って気持ちの良さがあったりするじゃないですか。
あれ実はコルジゾールのせいであって、運動のおかげそのものというよりはコルジゾールの影響であることが大なんですね。
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だから人を怒ったり、一方違うと怒られることが癖になるんです。
コルジゾール濃度が高まった後の独特の心理的な気持ちの良さというものを条件次第では頻繁につかむことができるので、
要するにドラッグに近いんですね、これは。だからマゾヒストっていて当然でして、他にもいろんな心理規制があるんですけれども、とにかくあって当然の心理なんですよ。
これが難しさを生みますよね。心の傷を負いたいと思いかねない気候がここにないわけじゃないというですね、マイルドなものならばですよ。
こういうことも含めて考えると、コルジゾールを和らげるとか鎮静させるというのはやっぱり自分の意思でやるのが一番いいと思うんですね。
可能なことなので、極端に言うと深呼吸をするぐらいでできてしまうので、できないと困るじゃないですか。
だってちょっとハードな運動をしてしまいました。高止まりですっていうのは困るんで、当然ある程度はできるわけですよ。落ち着こうと思えば落ち着けるという話ですね。
で、これによってですね、チャラにするのがいいと思うんですよね。ことその認知コストを使いました問題に関して言えば。
なぜならば認知コストというのは何で使うか、しかもそれはすごく頻繁にどんどん使うケースが少なくないわけなので、認知コストを使った責任を常に外に追求していたんではですね、本当にキリがなくなっちゃうんですよ。
昨日お話したうるさいと全く同じ問題があるわけですね。何をどううるさいと感じるかはその人の心理的な状態にものすごく左右されるんですけれども、
うるさいものを作り出している方にどの程度意図があるかは大変疑わしいんです。私の町はよくカラスが鳴いてですね、この鳴き声がすごいうるさいっていう人もいるみたいなんですよね。
これ捉え方なんですよ。私は気づきもしないことがほとんどです。本当にこれは捉え方で、
傷ついたんだからカラスを打ち殺したいという人がいてもですね、
どうにもならないなという気もするんです。でもうるさいっていうのは非常に被害感がそこにはありますから、
やっぱり心の傷にはならないと思うんですけれども、認知コスト払いますよね、払う時には。
何かすごい静かに集中していたい時にカラスがカワカワ鳴いて邪魔をされたと。邪魔ってのはそういうものなので、認知コストを払います。
で、おそらくコロチゾール濃度も若干高まるでしょう。でもカラスに賠償請求するっていう人は多分いないと僕は思うんですよね。
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全くいないかっていうと、違うことを言い出す方もいらっしゃいますけれども、まあいないと思うんですよ。
だから自分の身体を痛まるというところから始めるしかないと思うんです。
で、このコロチゾール濃度を下げるということが、これは私は一時的に人はやることができるんだから、
そういうふうに、なんていうのかな、やるようなトレーニングみたいなものってあっていいと本当は思うんですね。
僕よく脈を取るんですけれども、Apple Watchとかでも最近取れるから取るんですけど、見てるだけで下げられます、これは。
バイオフィードバックの発想なんですけど、まさに見てるだけで下げられるんですよ。
多分これを見て下げてる時にはコロチゾール濃度も下がってるはずなんですね。
で、これを上下を自分でできるということは、ここにそんなに強い被害感を抱く理由はないと思うんですね。
認知コスト云々の話を、いちいち意識するほどのことではないと思うんですよ。
で、最初に戻るんですけど、つまり変動体モードになった時というのは、
視覚、記憶ともに雑差を増しているので、これについてですね、
コロチゾールが上がらなければ、要はいいわけなので、いいはずなんですよ、内面としてはですね。
変動体が収まれば多分いいはずなので、もうそう思えた時にはですね、
何て言うのかな、すでに現実ではなくなっているので、これを現実だと、
間違いなく紛れもなくああいうことが起きたんだということを、思わないようにすればいいんではないかと。
無理があると思うんですよ。ある種のことはね、トラウマというものはそういうことでは済まされないから。
でもですね、減らすことは絶対できるんですよ。すべてが同じレベルのトラウマってことはありえないですから。
で、思い出す回数の僕が考えるにですね、とても多い人ととても少ない人は間違いなくいるんですよ。
で、それは変動体というものの性質からして、
ある人は思い出すことが非常に多い脳になっちゃってて、かたや思い出すことがとても少ない脳になっちゃってるってことはないと僕は思うんですね。
これは思い出さない努力ということによって、ある程度思い出さないということは多分確実にできる。
思い出しても思い出しても正確にはなっていきませんから。だって時経ってますからね。
これは私がそのgoodvirusを知って以来、テクニカルに処理していくことも可能だと思って、そっちに訴えている方法の一つなんですけど、完全にテクニカルですから。
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カルチゾール濃度を下げる。その上で思い出さないようにする。変動体が変動体モードで覚えてしまった記憶は思い出さないようにする。
思い出さないようにするということは、そのような目に合わないって話ではないんですよ。
むしろそのような目に合った時には変動体モードを発動せずに、その体験を雑に見ないようにするって方がいいような気がします。
直視しに行くという。これは現実を見に行くってことなんだと思うんですね。つまり現実を見に行こうとしている時に、同時に変動体モードであったらダメだということです。
そうすると現実の見方が歪むので、変動体モードのいろんないけないことはあるんですけど、一つは何度も繰り返している通り現実の見方を歪めるということ。
もう一つ、相手を変動体モードにすぐしちゃうということ。つまり相手の現実の見方も歪むんですよ。
こうなってくるともう本当に後になってその話を正確にやるなんてことは不可能になってしまいますので、その一番手どころはでもですね、変動体モードじゃない時の話なんですよ。
私が今日最初にしたのは自転車がちゃんとかけない。つまり変動体モードでなくたって現実の認知は大いに粗雑なので、
これを粗雑なものを歪ませた上で間違いなく現実でしたと主張するのは困難になります。
この困難さの中で、この困難さの中のことに固執しているというのはですね、たぶん、
なんだろう
非現実の中に生きることになる。で、それでもいいんだと思うんですけど、すっごく情報すればですね、それでも苦しくなければいいんだと思います。
でも、非現実の中で生きていることに苦しみまであるならば、普通はあるんですけれども、変動体モードですからね。
現実に出てみるということの可能性にかけた方がいいのではないかと、最終的にはこういうことなのかなというふうに思いますね。
絵を正確に描くように、現実を正確に描写できるようなところに自分を置くと。
たぶんそうしてないときに、歪みと苦しみがあるんじゃないかというふうに思うんです。
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