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またチュッチュ渋滞?
2026-08-21 16:37

またチュッチュ渋滞?

感想

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あの、今日これを聞いてくださっているあなたにも ちょっと想像してみて欲しいんですが。
はい、何でしょう?
子供を学校に送っていくごく普通の朝の風景ですね。
車を止めた駐車場から学校の玄関までは、 歩いてほんの数分の距離のはずなんですよ。
ええ、まあすぐそこですよね、普通は。
なのに、そこを通り抜けるのに、 なんと20分もかかってしまうんです。
20分ですか。それはまたずいぶん時間がかかりますね。
そうなんですよ。
なぜかっていうと、すれ違う保護者全員と立ち止まって、 しっかりとハグをして、
右、左、右って3回ずつ頬にキスをかわさなければならないからなんです。
ああ、なるほど。
情熱的な栗から来た人たちにとっては、 ごく普通の暖かい朝の始まりというわけですね。
ええ、まさに。
でも、もしこの習慣がある日パタッとなくわってしまったら、 あなたはどう感じるでしょうか?
というところから今日はスタートしたいんです。
そうですね。
おそらく、いきなり放天下の冷蔵庫に放り込まれたような 強烈な疎外感を覚えるはずです。
周りの人たちが突然自分を拒絶しているようにすら感じるでしょうね。
今日のテーマはまさにそこなんですよ。
今回は、ある日本人の筆者が海外生活の中で経験した、
ごく日常的な挨拶をめぐる違和感について 綴ったエッセイを深掘りしていきます。
挨拶の違和感ですね。
はい。でもこれ、たらの異文化あるあるとか、 カルチャーショックの笑い話では終わらないんですよ。
もっと深いテーマが隠されていると。
そうなんです。日常の些細な不満の裏側に隠された真理とか、
さらには、帰る場所があるという私たちが普段意識すらしない セーフティーネットの存在へと、
ものすごく深さで潜っていく旅になります。
それは非常に興味深いですね。
ええ。よし、ちょっと紐解いていきましょうか。
まずは、筆者がドイツとかオランダに住んでいた頃に出会った あるアルゼンチン人女性たちの愚痴から見ていきます。
はい。資料によると、筆者が語学学校で出会ったアルゼンチン出身のソニアさんとか、
ママ友の知人たちが口を揃えて、ドイツ人あるいはこの現地の人たちは冷たいって、
すごく不満を漏らしていたというエピソードですね。
そうそうなんですよ。彼女たちはとにかく不愛想で、 挨拶もつれないって怒っているんです。
でも筆者自身はそんな風には感じていなかったんですよね。
ええ。日本人の筆者からすると、別に冷たいとは思わなかったと。
そうなんです。確かにたまに差別的な態度を取る人に遭遇することはあっても、
社会全体として冷たいという印象は全く持っていなかったんです。
他の日本人からもそんな感想は聞いたことがないと。
なるほど。それで筆者が、じゃあどんな挨拶だったらいいのって聞いてみたわけですね。
はい。そうしたら彼女たち、待ってましたとばかりにこう答えたんです。
私の国ではみんなハグしてチュッチュって3回キスをするのがマナーなのよ。
でもここではありえないわって。
つまりここで彼女たちの基準になっているのは、明確に物理的な接触の多さなんですよね。
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ええ。まさに物理的な接触です。
彼女たちにとってハグと3回のキスがない挨拶は、もはや挨拶として成立していないということですね。
私たち日本人からすればですよ、オランダ流の右左右の3回キスだってもう立派な濃厚接触じゃないですか。
確かに。日本人にとってはめちゃくちゃハードルが高いですよね。
高いですよ。でも情熱の国アルゼンチンから来た彼女たちにしてみれば、それすらも氷点下の冷たさなんです。
これってなんていうか、毎日激辛のハバネロを丸かじりしている人がいるとするじゃないですか。
はい、ハバネロですね。
その人に普通の新鮮なサラダを出して、なんだこれ味が全くないじゃないかって本気で怒られているようなものですよね。
そもそも味覚の、いやこの場合は温高さの基準値が違いすぎるんですよ。
その例えはとてももったいやすいですね。
日常的に強い刺激とか密接なコンタクトに慣れていると、それが少しでも減っただけで脳は足りないどころか異常事態だって認識してしまうんです。
異常事態ですか。でもこれって本当に心の温かさの問題なんでしょうか。
と言いますと。
いや単なる物理的なパーソナルスペースのルールの違いですよね。
それを相手の人格とかひいては国民性と勝手に結びつけて、あの人たちは冷たいって批判してしまうのはちょっと飛躍しすぎている気がするんですが。
ここで非常に興味深いのは、人間という生き物がいかに無意識のうちに自分の属する文化の物理的な距離感を精神的な距離感と同一視してしまうかというメカニズムなんです。
精神的な距離感、つまり愛情とか受け入れられているかどうかということですね。
ええそうです。私たちは幼い頃から特定の距離感やスキンシップで他者と接することで、自分はこのコミュニティに受け入れられているんだと安心するように神経系のレベルで条件付けられているんです。
なんと神経系のレベルで。
はい。ハグやキスという身体的な接触は実際にオキシトシンなどの安心感をもたらすホルモンを分泌化せますからね。
なるほど。
だからその物理的ルールが満たされない環境にポンと置かれると脳の愛情センサーが全く反応しないんです。
結果として相手に悪意がなくても脳が勝手に拒絶されているここは危険だと母役してしまうんですよね。
なるほど。脳の母役ですか。彼女たちは現地の人が冷たいって怒っていたけれど、実際には自分の愛情センサーが作動しないフォーマットで挨拶されているから常にエラーを起こして不安になっていたわけですね。
その通りです。
だからこそ先ほどの駐車場のエピソード未開に知り合いに会うたびに立ち止まってチュッチュってキスをして20分もかけて玄関にたどり着くというあの過剰なまでのスキンシップが必要不可欠だったんだ。
ええ。自分たちの部族の儀式をしっかりと行うことでここは安全だと互いに確認し合っていたんでしょうね。
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いや文化の違いの裏にある心理って本当に奥深いですね。
そうですね。
ここで幅ネロに慣れた人は大変だねって笑って追われたらただの楽しい異文化エピソードなんですが、今回の筆者の考察はここから全く違う次元へと向かっていくんです。
はい。ここからが本題と言えますね。
当然の疑問として浮かんでくるのが、じゃあなぜ彼女たちはそんなに現地の冷たさに不満があるのに自分が心地よい情熱的な母国に帰らないのかという根本的な問いなんです。
そこがこのエッセイが単なる文化比較から知性学的心理学的な深い洞察へと切り替わる重要なポイントです。
当時筆者がそのアルゼンチンママにそんなに母国がいいなら帰りたいんじゃないって聞いたところ彼女はこう漏らしたそうです。帰りたいけどでも帰れないのよと。
筆者の背景説明によると当時のアルゼンチンは政治的にも経済的にも非常に不安定で治安もかなり悪化していたという現実がありましたね。
ここでリスナーの皆さんに向けて少し断定しておきたいんですが私たちは特定の国の政治的立場を支持しているわけではなくてあくまで提供された資料にある当時の状況と筆者の視点をそのままお伝えしているだけですのでその点はご了承ください。
はいあくまで資料に基づく事実と真理の分析ですね。つまり彼女たちがドイツやオランダにいるのは単なる仲在や気楽な海外移住ではなかったということです。
物理的社会的な理由で母国に帰るという選択肢が取れない状況だったと。つまりこれってどういうことなんでしょう。彼女たちが日々口にしていたここの人たちは冷たいっていう必要な愚痴は単なる現地の挨拶文化への不満ではなかったということですよね。
ええ心理学で言う置き換えディスプレイスメントという防衛規制が働いていたと考えられます。
置き換えですか。
人間は自分でコントロールできない巨大な絶望や不安例えば船が崩壊していて帰れないとか将来が全く見えないといった現実を正面から見つめ続けることは精神的に不可能なんです。あまりにも苦しすぎますから。
確かに毎日そんな絶望と向き合っていたら心が壊れてしまいますね。
だからその行き場のない巨大なフラストレーションを身近で処理しやすい日常の些細な不満にすり替えて発散させるんです。
なるほど国が不安定で帰れないという巨大な壁の前では無力だけれどここの挨拶は冷たいとかここのルールはおかしいって文句を言うことならできるわけですね。
そうやって何とか心のバランスを保っていたということですか。
その通りです。彼女たちが求めていたのは本当にただの散会のキスだったのか。それともそのキスの裏にあった何も心配せずに暮らせたかつての日常や絶対的な安心感だったのか。
深いですね。
そう考えるとあのチュッチューという儀式は失われた故郷への強烈な講習そのものだったと言えます。
切ないですよね本当に。ただのわがままな愚痴だと思っていたものが突然帰りたくても帰れない人たちの悲鳴のように聞こえてきます。
見え方が全く変わりますよね。
そして筆者は彼女のその言葉を聞いて自分自身の立ち位置にハッと気づかされるんです。
09:00
日本という治安が良くて経済が安定している国から来た自分だからこそ純粋に外国暮らしが性に合うなとかこの異文化の摩擦すらも楽しいなと思えていたんだと。
筆者は自分の状態をある種の特権を持っていると認識したわけです。何かあっても最終的には安全な日本に帰れるという強固なセーフティーネットがある。
だからこそ異文化でのストレスが言葉の壁すらも一種のエキサイティングな挑戦として消費できる余裕があったんですよね。
機関的な気楽さですね。確かにどんなに過酷なキャンプとかバックパッカー旅行でもあと数日耐えれば温かいお風呂とふかふかのベッドがある家に帰れるって思えばその過酷さすらもエンターテイメントになりますよね。
ええ、帰る場所があるからこその余裕です。
でもその帰る場所が消滅して永遠にその過酷な環境に取り残されるとしたら話は全く変わってきます。
終わりの見えない異国の生活は冒険ではなくてサバイバルになってしまうんですよね。
この帰れないという状況がどれほど人の心を削るのか、筆者は現在直面している別のケースを通じてさらに深く実感することになります。
今度は現在の話ですね。
はい。筆者は現在日本国内の日本語学校で働いているんですが、そこにはミャンマーから来た留学生たちがたくさんいるんです。
彼女の教室にいるミャンマーの学生たちですね。
彼らの置かれている状況はかつてのアルゼンチン人女性たちの状況と重なりつつも、さらに現在進行形の深刻な現実を突きつけてきます。
エッセイの中で筆者は彼らの切実な声を紹介しているんです。
ほとんどのミャンマー人学生たちが国が恋しいと口にして、戦争が終わって国が落ち着いたら国に帰りたいって願っていると。
はい。
ここでも再度お伝えしますが、ミャンマーの情勢というデリケートなトピックについても私たちは完全に中立の立場であり、資料に記載された事実と学生の心情を紹介しているだけです。
その点は重要ですね。彼らにとって日本での生活はキャリアアップのための前向きな留学というより、母国の紛争が収まるのを待つための終わりの見えない待機期間になっているんです。
そうなんですよ。同じ留学生という括りであっても、数年後に母国に帰って就職するという前提で学んでいる学生と、今は絶対帰れない、あるいはいつ安全に帰れるようになるか全く分からないという学生とでは全然違いますよね。
ええ。同じ教室で同じ日本語を学んでいても、抱えている精神的な思いやつや、見えている世界の色が全く違うはずです。
ここからが本当に面白いところなんですが、私たちはよく海外生活とかグローバルな視野という言葉をポジティブで輝かしいものとして使いがちですよね。
そうですね。成長の機会として語られることが多いです。
でもその背後に、いざとなったら戻れる安全な母国というセーフティーネットが広がっているか、それともとこなしの暗闇しかないかで、その意味合いは180度変わってしまうんです。
全くその通りです。
筆者は目の前のミャンマーの学生たちの不安そうな横顔を見つめながら、かつてドイツで帰れないとこぼしていたアルジェンチン人のままの心情を時を越えて真に理解するんですよ。
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これをより大きな視点で捉え直すと、私たちが普段当たり前のように享受している日常的な楽しさとか異文化への寛容さ、あるいは新しいことにチャレンジする勇気というのは、実は個人の性格や能力だけの問題ではないということが見えてきます。
と言いますと?
それは、いつでも安全な日常に逃げ返ることができるという、無意識の安心感の上に成り立っている極めてむろいものだということです。
なるほど。サーカスの綱渡りと同じですよね。下に巨大で丈夫な安全ネットが張ってあるからこそ、私たちは綱の上でジャンプしたり、エラを手で振ったりする余裕を持てるわけです。
ええ、ネットがあるからこそのパフォーマンス。
でも、もしそのネットが突然取り払われたらどうなるか。一歩進むことすら命懸けの恐怖になって、綱の上で吹かれることすら恨めしくなりますよね。アルゼンチンのママたちにとっての冷たい挨拶は、まさにネットのない綱の上で吹く冷たい恐怖だったのかもしれないです。
自分が根の仕草であること、安心できる場所から切り離されていることを挨拶の旅に突きつけられていたわけですね。異文化の摩擦を受け入れるには、まず自分自身の足元が安全であるという確証が必要不可欠なんです。
本当にそうですね。さて、この深いテーマを巡る旅も終わりに近づいてきました。エッセイの結末は少しだけ心が温かくなる希望のあるエピソードで締めくくられているんですよ。
どんなエピソードでしょうか。
フィッシャーの長男からの情報によると、なんとあのアルゼンチンのママ友は、長い年月を経て念願叶い、今は母国アルゼンチンに戻って住んでいるそうなんです。
おお、それは素晴らしいですね。長いサバイバル期間を経て、ついにセーフティーネットのある場所に戻ることができたんですね。
ええ、フィッシャーはこう想像しているんです。今頃彼女は、お孫さんを迎えに行くアルゼンチンの学校の玄関で、またしても知り合いの保護者に次々と会ってしまって、玄関にたどり着けないほど思う存分チューチューと、情熱的な挨拶を交わしているに違いないと。
目に浮かぶようですね。彼女の脳の愛情センサーは今や完璧に機能して、自分がコミュニティに受け入れられているという絶対的な安心感の中で、ようやく深呼吸できているはずです。
本当によかったですよね。そしてフィッシャーはこんな言葉でエッセイを締めくくっています。
帰れる場所がある、帰れる時が来る、それはなんて贅沢で幸せなことなのだろうと。
贅沢で幸せなことですか?
はい。毎日当たり前のように家を出て、当たり前のように家に帰る。その帰れる場所が安全に保たれているということが、どれほどの特権であり奇跡的なバランスの上に成り立っているか。
今日この話を聞いているあなたも、ご自身の帰る場所について新しい視点を持てたのではないでしょうか。
普段は空気のように存在していて、誰もそのありがたみに気づかないんですよね。でも、それが失われた時のことを想像するだけで、私たちがどれほどの贅沢を享受しているかがわかります。
15:09
ええ、本当に。でもここで綺麗に終わらないのがこの深掘りセッションの醍醐味ですよね。
はい、そうですね。
最後に、私からではなく専門家の視点から聞いてくださっているあなた自身の思考をもう一歩先へ進めるための問いがあります。
最後に、これは一つの重要な問いを投げかけています。私たちが帰りたいと熱望するそのふるさとや居場所は、果たして地球上の物理的な場所のことなのでしょうか。
物理的な場所ではないかもしれないと。
ええ。それとも、自分が心地よく無条件に愛されていたと感じる過去のある時点の記憶に過ぎないのでしょうか。
いざ長い年月を経て故郷に帰った時、そこはもう自分の知っている温かい場所ではなく、人も町も、そして自分自身も変わってしまっているかもしれない。
確かに。時間は止まっていませんからね。
私たちが本当に求めている、絶対に揺るがない帰る場所とは一体何なのか。それは外の世界にあるのか、それとも自分自身の心の中にしか気づけないものなのか。
答えのない問いですが、ぜひあなた自身の心の中でじっくりと深掘りしてみてください。
今日は、挨拶のキスの回数というユーモラスな入り口から、私たちの心の根底にある居場所とセーフティーネットの感覚まで旅をしてきました。
今回の深掘りセッションにご参加いただき、本当にありがとうございました。
また次回、新しい世界を一緒にひも解いていきましょうか。
それでは。
16:37

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