ポッドキャストとの出会いと宗教への関心
それは、面白いのかなーっていう話なんですけど。 今のところ縮めて言うとね、あの
えーっと、TOKUBOOKSさんが、縁で知り合った サンタクさんね、に教えてもらったポッドキャスト、やはり毎朝聞いてもるんですよ。
古典ラジオさん。 一方で、ご近所繋がりの、野寺さん。この間、夜哲学夜カフェのファシリテーターだった。
ナオミさんが、宗教家の方ね、って言っていいのかな。なんて言っていいのかな。どういう紹介がいいのかよくわかんないんだけど。
まあでも、そういう方のポッドキャストをやっていて、 あのね、すごいエネルギーがあるやつだったから、2回ぐらい途中であれして、3回目ぐらいで、あのやっと聞いたみたいなね。
あの感じなんですけど、あのたまたまその 本当のたまたまなことがあって、たまたまっていうのもたまたまでもないんだよね。きっとね。
たまたまと言いつつ、何か意識的にとはでは言わないんだけど、何か選び取ってるみたいなところが、行動として何かそこに執念するような何かをしてるんだと思うんだけど。
宗教に対する個人的なスタンス
まあでもまあ一応たまたまと言います。たまたま、あの 宗教。これあのね、宗教、僕宗教全く信じてなくて、
あの 信じてないんですけど、
ただ勉強はよくしたい。どういうことを言ってんだろうっていうのは、興味がある状態で、あの
興味はあるんですよ。 えっとね、
あの本当に、本当に真面目にわかんなくて、これ書いたっけ?言ったことあるっけ? あの
本棚とかにもね、一部、特定のね、特定のある宗教のものについて、これは一体何なのかっていう本を、かなり若い時にね、本当に気になったから買って、でもそれ並べてるとまるでその宗教のファンみたいな感じに思われても嫌だから、思われても嫌だからっていうのもまあ失礼なんだけど、まあそれはちょっと気になったんで、
あの、分かりやすく特定の何かに偏るっていう形になるんじゃないかと思ったのでね。
なんか大ピラにするもんでもないんだけど、なんか、あの、それが棚に並んでるとなんか微妙だなと思って。
誰が見るわけでもないんだけど、あの、なんか気になってたんだけど。 まあでも、えっと、そういうあれ、なんかおかしな恥ずかしさみたいなのありつつも、気になっていたことは確かで、
それはずっとそうなんですよ。で、その特定の宗教とかに限らずね。で、何かに加担しようと思ったことは一切ないの。
むしろ、加担し、なんか、うわ、勧誘だ、みたいなのは、あの、意識的に、あの、お断りしていたし、まあそれはそうなんだけど。
うーん、そうね、えっとね、基本的には、これ、まったくそういうことを勉強しないまま、あの、あれなんだよ、大変失礼な話なんだけど。
例えば、天才屋投沢教授の生活っていう漫画があって、僕の数少ない、あの、好きな漫画なんですけど、漫画本でちゃんと読んでないから。
漫画が嫌いってわけじゃないんだけど、あの、何だろうな、数が少ないんですよ、読んでる漫画の。あの本に比べても特に。
えっとね、えっとその中に、えっともう、なんか宗教にね、信じ、宗教信じるんだったかな?
なんかそれ、奥さんかなんかが宗教にのめり込んでいくのかな?信仰宗教か怪しげなやつに。
それはあの、徹底的に怪しげなやつっていう書かれ方をされるんだけど。
えっと、それから引っ張り出すためになんかいろいろあって、あの、俺を信じろよ、みたいな。
いや、俺を信じろ、だから俺教だ、みたいなこと言って、なんか、あの、引き戻していくみたいなお話が一つあるんですけど。
えっとね、なんか、それちょっと分かって、別にあの、本当は、本当は信じるものは外側にあるんじゃなくて、自分の内側に作りたいなって思うのよ。
自分が体現できないものがあるとしても、理想みたいなものがあって、それは、その誰かが言ってるから、この宗教によってこういうことが良いとされているからとかじゃなくて、自分の中にそれを持っておきたいの。
っていうのが基本。これは多分、それが多分根本だと思う。
内なる理想と外なる理想の葛藤
ただ、あのー、んー、それってさ、なんか、ともすればすごい独りよがりなこと言うじゃないですか。
だって自分が信じるものを自分で目指すんだから、自分で能人でもなっちゃうじゃん。もちろんそうならないように一生懸命勉強するし、一生懸命努力するし、一生懸命いろんな人と関わるんだよ。
だけど最終的には、そこであちこち行ってフラフラするんじゃなくて、自分の中に、だからこそ自分の中に置いておきたいっていうのがあるんだけど、一方で、なんか、危うさも感じるわけよ。
そうは言っても結局自分じゃんって。自分のあれによって、自分本位じゃんっていう。もう本当に、それこそ言葉通り自分本位でしかないじゃないかと。どういうふうにやったとしてもね。だって自分なんだから。
と考えたときに、やっぱり外側に、誰でもなくていいんだよ。誰のものでもない、みんなのものでもいいし、なんか全然違うものでもいいんだけど、とにかく自分の外側にその理想的なものを想定して。
簡単に言うと、空にあるおテント様みたいな。いつもそこにあるけど誰も手が届かないけど確かにそれはそこにあるみたいな。そういった意味でのおテント様ね。太陽っていう物理的な捉えるっていうよりはおテント様っていうのが良さそうな気がする。
で、それを言うものを置いて、それに目指していきましょう。それに向かっていこう。それに恥じない生き方をしよう。というのが結局は健全なのかと思いつつも、そっちはそっちで、なんか外だからさ。
で、それをさ、どのように思うかは結局、ここでまた戻っちゃうんだけど、外に置いたところでなのよ。結局それを自分がどう思うかってところに戻ってきちゃうんだよ。
いくら自分の外に置いてあって自分のものじゃないとしても、それを自分がどう思うかどう認識するか、それを受け入れるかどうかみたいなのが、逆にそれはそっちで気になってきちゃう。
結局自分の認識次第といえば認識次第だし、外に置いたら置いたで外でいいのかよっていう風には思わないかもね。なんかもうすごいね、いろいろずれた話もしてると思うんだけど、
なんかね、なんだろうな、どうしたもんかなって思うの、その辺から。
仏教の「空」と「関係性」の理解
全然だから、具体的に今日すごく勉強になってんだけど、仏教のこととか宗教のこととかをいろいろ聞いてね。一部だよ、全然。
その人たちも、自分たちはこういう立場なんで別にオソドックスな紹介するわけじゃないしみたいなことも言って、言いながら説明してくれてるから、いいし、本当にもっと知ろうとしたり勉強すると思えばきりがないと思うし、
そもそもそれの段階としても、今聞いてるものとしてもすごい途中だから全然まだ途上なんですけど、
なんか今んとこね、今んとこ思ってんのがね、だいたいふんふんって聞くんだけど、あのね、なんつったらいいのかな、納得いかないとこがあるんだよ、単純に言うと。
単純に言うと、あ、うーん、そう、仏教の話が主にな、途中の話。これはね、ノートとかにも昔書いたかもわかんないんだけど、なんか、
自然な流れがあるからそこの悠久の流れみたいなのがあって、そこからすれば我々はちっぽけな存在だみたいなことが書かれてる文章があって、それについてあなたはどう思うかみたいなの、すごいなんかもう曖昧な記憶だし、
短くしちゃってるからもう適当だけど、まあそういうのがあって、で、それに、いやそうかもしんないし、確かにそうだと思う。それは素晴らしいもんだし、雄大だし、人間がどうこうできるもんじゃなくてっていうのが大事だと思うしそうだと思うんだけど、でも自分はここにいるので、いくらどんなにちっぽけだろうが、とにかく自分はこうやって頑張って過ごして生きていくのし、そうするので、
だからその中で、まあそういうことがあったとしても、あの悠久な流れの中ではちっぽけだよね、なんて思いたくなくて、あの一生懸命頑張るから、その悠久な流れとかなんとか知らないけど、俺は俺で頑張るし、みたいな、そういうことを書いたんですよ。小論文みたいな問題の中でね、それをめっちゃ覚えてるの。
で、なんかね、たぶんそれと似たようなことなんだなと思ったんだけど、なんかあの空みたいな、仏教の中の空みたいなことを今日頑張って解説してくれてたんですよ。今日やってたわけじゃないけど、今日僕がその解説してくれてたの一部を走りながら例によって聞いてたんですよ。
で、確かにそうだなと思うんだけど、何か実体がある、これがあるっていうふうに思うと、それが固定されるから、それがあるないじゃなくて、あるのはあるでいいんだけど、それは、それがあると思うものと自分との関係性を見なさいと。
ただあるんじゃなくて、確かにお互いにあるんだけど、それを、それの関係性で見なさいと。もうあるものあるものとしてやっちゃうと、もう固定されちゃうから、それを、そういうものがあって、それを自分はこういうふうに認識していて、で、それをこういうふうに思っている自分がいるっていうふうに見ましょうと。
だから、自分の認識次第によっては変わるし、相手も自分が思っているその相手だから、それがもう固定化されている、そこにある存在、もう半永久的に物理的にそこにある存在じゃなくて、あっていいんだけど、あっていいんだけど、それはもうずっと永続的に変わっていくよと。
その関係性あるというよりは、地球と太陽の関係みたいなものよ、もうずっと変わっていくじゃん、ここ一刻と。で、厳密に言うとそれさ、1年後には全く同じ場所じゃないじゃん。ちょっとずつずれていくわけよ。
っていうようなことで理解してるんだけど、あるんだけど、それは常にその関係性において捉えなさいっていうようなことなの。ごめん、なんかうまくいかないけど、古典ラジオの仏教の話を聞いてください。
で、まあそうだなと思うの。だからあるっていうことも否定されないし、ただそのあると思っていることはその瞬間のそのことであって、それはまたいくらでも変わります。瞬間的に変わりますよ。
あることも否定しないし、でもそれは自分の認識とか関係性においてのことだよっていうことを言ってて、そうだなって思うのよ。そうだなって思うの。
唯一無二の「絶対」を求める心
めっちゃ俗っぽい話。例えばさ、絶対これだけはもう絶対唯一譲れない、これだけはもう確かみたいなものがあるじゃないですか。で、それがあるから大事なんだけど、それに囚われて自分はこういう人間だとか、あれはこうだからとかっていうことを別に、
実は固定化しなくても、固定化することもできるし、しないこともできるんだよっていうことを言ってて、まあそうなんだけどさ。
例えば自分だったら42年間生きてて、その上でこれはっていうのがあるじゃないですか。で、一方でこれはもうずっと永遠にこうしておきたい、こういうふうにしておきたい、これはもう絶対だっていう気持ちあるでしょ。
わかりやすい例で、例でとして正しいのかわかんないけど、好きな人大好きな人いるときに、一緒一緒にいたいって思うじゃない。ずっと永遠に大好きだよとかって思うし、そう信じて疑わないんじゃない。
ここが微妙なとこなんだけど、今回の納得いかないところのそこのところにちょっと入っていくんだけど、残念ながら、さっきまでその解説で言ってたように、それも別にそう思うこともできるけど、
そう思わないこともできるっていうか、関係性だから、それは絶対なんだっていうことで苦しむ必要ないんだぜっていうのあるじゃない。で、実際にさ、永遠かどうかは怪しいわけだよ。
過去の自分の恋愛を見てもそうでしょ。周りを見てもそうじゃない。だからそうだなと思うんだけど、恋愛じゃなくてもなんでも良くなるんだけど、あってもいいって言ってくれてるから、それを信じてこれこそがっていうふうなのがもちろんあっていいんだけど、なくてもいいとも言うわけじゃない。
自分の認識次第だよっていうか、その関係性においてだからちょっこくいくと変わるし、で、それもそうなんだよ。まあそうだよ。そうだし、俺らもそうだしね。なんだけど、なんか納得いかねえんだよ。
じゃあ、あの時、本気でこれはもう本気だな、自分の気持ちは本気だぞ、例えば思った自分があの時いて、それは確かに今変わってるかもしれないし、継続してないかもしれないけど、で、関係性も変わっちゃって、いろいろな考え方や気持ちも変わってるかもしれない。
けども、その時にこれは本当だ、こういうこと絶対そうだっていうふうに思った気持ちは、その一瞬においてだけあったもので、その時の普遍のものじゃないんだよ、普遍って思い過ぎなくていいんだよっていう程度のものだったのかって思っちゃうのよ。
要は、あってほしいわけ。し、結局のところは、これが結局自分の一番最初のところに戻るんだけど、自分の中にそれを信じるものを置いておきたいわけよ。自分の中にじゃなくてもいいんだな、最初に戻るって言ったけど。
確かにそうだよ、変わるし、永遠のものなんかないんだけど、変わっちゃうんだよ。刻一刻と変わるし、自分の認識も変わるから変わるんだけど、それでも変わんなくてこれが絶対大事なんだっていうものがあると思いたくない?ちょっと。
そうしちゃったら苦の始まりかもしれませんよ。よくわかんない囚われの始まりかもしれませんよ。でも囚われの始まりかもしれなくても、それでもこれこそとっても大事なものなんだ、ずっと大事にしていくんだ、これが絶対いいものだっていうことを、
盲目的にでも信じられる、それがもうどういう風な、全然変わります、あなたの認識次第です、妄想です、っていうのもあった上で、それも全部あった上で、それでも変えたくない、変わりたくない、大事にしたいっていうのがあるっていうものを見つけたくない?
それも変わっていくんでしょうよ。それもそうなのかもしれないけど、どっちもあること否定しないけど、それだけじゃなくてもいいんだよっていうことを超えた、やっぱりこれ大事だよねっていうのを見つけたくない?すごいちょっとよくわかんないこと言ってるけど、何周してるんだって話だけど。
今これが自分がすごく大事だな、大好きだなとかっていうことを思っていることも、もちろんそう思っていいけど、それはその瞬間的において今そう思ってるだけなんだよって言われて納得する?納得するのか?
いや納得はできる、頭の上では。でも失礼して泣いてる人にさ、いやそれは今言っときの、いやもうアドバイス、そういうのはあり得るし、俺もそういうこと言ったことあるよ。でも自分でも言われたことあるけどさ、納得できないよね。
それは何か、そういうこともあってよかったって消化すればいいものなのかね。狭くて錯覚なのかもしれないけど、何か貫かれるものもたまにあるような気がするじゃない?他のものを見ていると。
いや別にそれじゃなくてもいいんだよ。自分のそれでいいんだと思うんだし、いいんだけど、何かそれしかないって言ったら落ち着けになっちゃうしね、それをどうするとかっていろいろ人それぞれだってのはあるんだけど、人それぞれなんだけど、でも自分の中ではもう人それぞれだって言ってる場合じゃなくて、これ大事って思うことを見つけたくないから。
葛藤と自己認識
でも思っていて、今のところね、ちょっとお勉強というか、本当に聞きかじっただけですしね。まだわかんないし、これからそれについての捉え方とかそういうのがあるのかもしれないんだけど、今はそんなことを思う。わがままだね、自分言ってて。めっちゃわがままなこと言ってる。
相対化したい、それぞれに大事なものがあるっていうのはそうなんだよ。それはもう確実にそうなんだけど。
まあこの辺が心が広くなれないゆえなんでしょうね、自分のね。わけわかんないこと喋り始めちゃいますから、もうこの辺にしますけどね。
まあいいや、今日はちょっとまたいつもと経路の違う仕事をやるので、頑張りましょうと。
それが終われば、明日やれば、明日の仕事すれば金曜日はね、お休みですから、また面白い日になると思いますんでね。
まあとりあえずそのためにも今日頑張んなくちゃなっていう感じね。頑張んなくちゃいけないんだけど、頑張ってもいいし頑張らなくてもいいし、頑張り方だっていろいろあるし、それも上でどうやってもいいし、それが関係性だし瞬間的に変わっていくし、
今こう思ったら大事だって思うのに固定されちゃうと、固執しちゃうと逆に苦しくなるし、だから固執しなくてもいいし、っていうのを超えてやっぱり大事な固執という、あえて言うけど、固執すべきものがあったらある方が幸せなんじゃないか。
少なくともあった方がいい、でもそれはなくてもいいよねって思いながらあったらいいとか思ってるのはなんかずるい感じするみたいな感じです、今はね。はい、おはようございました。