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#57 「通過点でしかない」▼阪神大震災30年。神戸の地で考えた地震防災のこれから▲
2025-01-18 59:49

#57 「通過点でしかない」▼阪神大震災30年。神戸の地で考えた地震防災のこれから▲

2025年1月17日、阪神大震災から30年。あの日を経験した人が少なくなる中で、記憶をどう伝えていくか。岐阜から神戸市を訪れた全国の災害現場で支援に当たる認定NPO法人レスキューストックヤード代表理事で住職の栗田暢之さんに、これからの防災や支援の在り方を聞きました。

【出演】坂井萌香(報道部)、山田俊介(同)

【関連記事】◆阪神大震災30年、鎮魂の灯と継承の誓い 教訓を若い世代へ、寄り添う心を伝え続ける(→https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/491078

◆防災の誓い 次代へ 支援の在り方探る 神戸市 団体代表らシンポ(→https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/491074

◆阪神大震災30年 ぎふ つなぐ教訓(上) 神戸伝えた「安心」 元FMラジオ局員 山本索さん(→https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/489580

◆阪神大震災30年 ぎふ つなぐ教訓(中) 過酷未知の災害救援 関警察署長で元中部管区機動隊員 中井敏克さん(→https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/490158

◆阪神大震災30年 ぎふ つなぐ教訓(下) ニーズ分からず手探り 大学生当時、現地入りした 宮嶋智也さん(→https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/490603

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00:00
おはようございます。
おはようございます。
あ、もう始まってんの?
始まってます。
朝の…
朝の5時5分です。
5時5分。5時回りました。
神戸におります。
なんでっていうね。旅行じゃないですよ。
取材でね。
取材で神戸に来ましたね。
阪神淡路大震災から30年ということで。
あと30分後ぐらい、どうですか?
30分、40分後ぐらいにはもう発災の時間になりますけど。
そうですね。
寒いです?大丈夫ですか?
なんか思ったよりは、思ったよりはね。
大丈夫ですか?
ただね、この時間にこうね、突然あんな大きな揺れが襲ってさ。
そうですね。
気の向きのまま逃げないといけなかった人がたくさんいると思うとね。
それは辛かっただろうなと思いますよね。
私も2年ぶりぐらいの神戸ですけど。
かつてホームタウンだったんですからね、神戸。
まさかこんなに住んでたところのそばで逆から来ることになるとは思わなかったんですけど。
いや、ちょっと連載も組みまして。
1.17に合わせてね、連載も3回連載やって、
当日を迎えに来ているということなんですけどね。
ちょっと岐阜の人にはね、なかなかゆかりのないお話だったりすると思うんですけど、
ちょっとこれを機にね、なんか。
自分ごとというかね。
どうしてもやっぱり距離がある分、あんまり身近じゃない感じもするかもしれないですけど、
ただ当時ね、岐阜も揺れてますからね、神戸3とか神戸4とか。
揺れてましたからね。
朝びっくりして落ちたっていうね、記憶がある方も少なくないんじゃないかなと思うんですけど。
ちょっと皆さんにも知ってほしいなと思って連載組みまして、
ちょっと今日は私たちが代わりにと言っちゃうんですけど、岐阜から神戸に来ましたけど。
まあ、ちょっと私手がね、今寒いなって感じてるくらいで。
だんだんね、手が。
そうですよね、冷たくなってきますよね。
これね、時間経つ寒いっすよ。
寒いね。
私はレッドブル飲みながら喋ってますけど、
レッドブルの缶がどんどん冷えていく。
指先が手のひらが冷えてきてますけど。
一旦ね、私たちこの5時46分が地震起きた時間になるんですけど、
一旦これは、この時間にはちょっとね、
今日の明日の紙面か、18日の紙面で登場する方の取材なので、
竹道路が建ってるNHKで。
そうそう、皆さんがよくイメージされるあそこではなくて、
その岐阜の方が今日ね。
そうです。兵庫区の方に来るので、一緒にそこで手を合わせて取材して、
03:04
その後ちょっと東園地の方に行こうかなと思ってますので、
ちょっとね、現場の状況を伝えていけたらいいなと思ってます。
神戸の風を吹かせつつ、ちょっとね、今日は、
神戸って実はどうしても我々ゴードって呼んじゃうんですけど、
私自身でゴード帳っていうのがあるんですよ。
ありますよね。
今日はゴードではなく神戸からお届け。
神戸からお届けしていきます。
収録してまいりますので。
番外編ですね。
でもちゃんとノンブルは一つずつというかね。
そうですね。
いつもの流れに沿って。
行きましょうか。朝5時、今5時10分になりましたんで、
一旦ちょっと寒いんで一旦切ります。
じゃあまた現場から。
現地に向かいましょう。
はい、行きましょう。
ちょっと今回のことについて補足させていただきたいんですけれども、
ちょっと伝えていただきたいんですけれども、
名古屋にありますNPO法人のレスキューストックヤードの代表理事の栗田さん、
栗田信之さんをちょっと追いかけてと言いますか。
栗田信之さんは岐阜県水戸市の方ですね。
お寺の住職をされていて、震災当時は愛知県名古屋市にあります東宝大学で、
大学の学生課の事務職員として働いていたんですね。
だから地震が起きた当時神戸にいたわけではない方なんですけれども、
学生から僕たちも応援に行きたいと支援しに行きたい、ボランティアに行きたいという声を
栗田さん受けて大学側といっぱい協議をして、
震災発生から3週間後に現地入りをします、学生と一緒に。
この学生というのが延べ1500人に上るんですよ、ボランティアに行った学生が東宝大から。
すごい数を栗田さんは率いたというので、栗田さんこの阪神淡路大震災をきっかけにですね、
大学職員を辞めまして、ボランティアのレスキューストックヤードを作ったということです。
毎年、コロナの時はちょっと飛んでる年もあるというふうにおっしゃってたんですけど、
毎年神戸市兵庫区の被災地NGO、共同センターにお経を唱えて皆さんでツイートをするということをされております。
06:02
今も東遊園地に訪れたりとかっていうのを、毎年レスキューストックヤードのスタッフを連れてきているという方です。
今は2週間に一度、野党半島にも行かれてまして、野党の地震にもものすごく支援の手を差し伸べているという方ですね。
すごく熱い方なんですけどね。
直接お話を伺ってみて、本当にそのパワーに圧倒されるというよりは、本当に心強いというかね。
そうですね。こうやって頑張っている人がいるんだっていう、何かこう圧倒されるというか巻き込まれていく感じがありました。私としては。
本当に困った時に、こういう方に支えていただけるのって本当にね、力になるんだろうなっていうのが伝わってくる方でしたね。
口数は決してすごく多い方ではなくて、考えながら絞り出すようなお話をされるんですけども、山本さんが取材したシンポジウムの召会もされてましたけど、上手ですよね。お話もすごく上手な方で。
今回はね、その栗田さんに同行取材と言いますかね、ついて行って。
ついてきましたね。
というところで、回しっぱなしにしていたレコーダーをかいつまんで。
ちょっと皆さんにも栗田さんの生の声を聞いていただけるといいなと思います。
そういうところを冒頭に説明できればよかったですが、朝のご時代、ごめんなさい。
頭が。
なかなか起きるので。
ちょっと緊張もしてましたよね。
そう、ちょっとね。
どういう感じかなっていうのが、雰囲気として分からないとドキドキするというか。
回しっぱなしにはしていたんですけど、なかなか音だけでは伝わりづらいところもあるかなというところで。
ちょっと説明をさせて。
最初はNGOの情報センターでの木刀の様子であったりですとか、センターの代表の方のご挨拶であったりですとか。
栗田さんにもお話を伺って、一緒に東遊園地にもついてきていただいて、そこでもまたちょっとお話を伺ったりしていまして、
というようなところをお聞きいただけたらなと思いまして、今回は作っております。
はい、ではお聞きください。
どうぞ。
はい。
10:28
すいません、朝早くからありがとうございます。
被災地への情報センターの森間サーベス。
まずちょっと私の方から一言ご挨拶させていただいて、その後栗田さんにお話を挙げていただこうかなと思います。
寒いですので、もし寒いという方は中に入っていただいても構いませんので。
今日はですね、震災から30年ということで、たくさんの方に集まっていただきまして、
30年前は私は広島に住んでおりまして、6歳でしたので、全然震災の記憶もないんですけれども、
30年のこの1月17日に向けてですね、さまざまいろんな報道等もありまして、
非常に感じるのはですね、やっぱり30年間というと非常に長いように思いますけれども、
やっぱり一人一人にとってはその時間の流れというのは全く違うんだなというのを非常に感じています。
昨日のことのように感じているような方もいらっしゃれば、長い道のりだったというふうに感じておられる方もいらっしゃると思います。
私もそうですけれども、昨日は若者たちがですね、震災の30年の震災どう考えるかというような、
12:08
そういったイベントも行われておりまして、
その経験しない人たちがどうつないでいくかというのも新しいテーマになっている。
これは20年の時にも考えていたことですけれども、そこからまた10年経ってまた世代が変わっているのかなというふうに思います。
その一人一人の時間が違うというところをですね、どうやってその経験しない私たちも感じ取っていくかというのをすごく考えないといけないなというふうに思っておりますし、
若い人たち含めてですね、自分たちが震災をもう一度語れるというかですね、
経験をしていないけれども、何か震災を機にいろんなことを考えていくということが大事だろうなというふうに感じております。
30年経ちましたけれども、一つの区切りというふうに感じる方もいらっしゃれば、毎年の変わらずという方もいらっしゃると思いますけれども、
何か一つの30年という、あまりそれに意味はないんですけれども、こうしてたくさんの方に来ていただいて、また思いを馳せるという機会になったのかなというふうに思いますので、
まだ様々ですね、いろんな災害が現在進行形で起きておりますけれども、その皆様と一緒にですね、歩んでいけるように、震災30年からまた一歩踏み出せるようにですね、
活動もしていきたいと思いますので、引き続き皆さんご協力いただければと思います。ではどうもありがとうございました。
ありがとうございました。
15:00
おはようございました。
動画でちょっと聞いておりますけれども、30年を迎えましたけれども、一人の積極の決め方を聞いてもいいですか。
通過点に過ぎないってありますよね。30年だからっていうのは特になくて、また今年も1.1倍は来たなと。
むしろその間、いろんな災害があって、毎年起こっていますけれども、工具で学んだことを我々は活かしてくれているのかなという、
そういう自身の反省の日でもありますよね。立ち返りを聞いていると。私の原点はもうここなんで。
先ほど代表のよりまささんもおっしゃっていましたけれども、だんだん知らない、直接体験していない方が増えていきますし、
今年も30年限界説みたいなことも言われたりする中で、ここからまたより伝えていくというところが難しくなっていくのかなと思うんですけれども、
これからについてどういうふうに考えていますか。
あんまり悲観はしなくて、しょうがない部分があるんですよ、記憶というか。体験しないとわからないというか、どうしようもないじゃないですか。
だけど、今日も若者多いなと。
ちょっと間違えて言ってますけど、その人たちが一夜から若者が出てくる試合ですから、
競技になって、実際何があったのかということで、誰が試合に来られたかということも、その時の若者がちゃんと考えてやるはずですから、
あんまりこう、自然の行為というか、戦争って同じですよね。
義武県で納備地震の恐怖が来てるかどうか、限界があるじゃないですか。
しょうがないですよね。そこに抗ってもしょうがないと思っていて、
でも、日本は栽培大国なので、その度にその度に気づく若者がそれぞれの感性でいろいろやっていくというのが繋がりなのかなと思います。
18:04
われわれも、私は被災地ではないので、支援者の立場として学生に連れ入るということで、
その恐怖を私が感じたことは、私が生きているから伝えたいなと。その役割だと思っています。
確かにいい時代にはなっているというか、いろんなものがウェブ上でアーカイブ化されていたりとか、
いろんなものがPDFでまとまっていたりだとか、たどろうと思えば結構たどれたりするという、
ありがたい時代にはなってきているというところで、これからの世代にそういう部分が期待されているということですよね。
思いがあれば結構いろんな情報にアクセスしていけるというところでは、いい時代になっていて、
そうした若者たちの思いに期待するというところがあるわけですよね。
その当時は阪神大震災があった。私の大切な彼らもその時に一生懸命考えていた。
同じことはやっぱり言えませんからね。次の世代の人たちが自分たちで考えて、何が大事かそこを教えなければ。
港の栗田さんがすべてこうしなさい、あしなさいと言ったわけじゃなくて、
ほんと学生主体で、本当に自分たちでこうしたらええんちゃうかと考えながらやったというのを聞いて、
あの時ってボランティアって結構まだ浸透しなかったんですよね。
結構手探りでね、いろんなことを何が必要かっていう。
今日の宮島さんにも書いてるんですけど、
宮島さんも手探りだったんですけど、
若い人の純粋な気持ちとか柔軟な脳みそがものすごい振る回転して、
なんか想像しなかったなみたいなことをやっぱりするんですよね。
これから先も若い人がどんどん栗田さんの思いとか、
いろんなそういうボランティアの方の思いを伝えて、
午前7時15分、東遊園地に来ました。
21:16
障がい者の藤田君がね、いつもこれね、
あ、そうですね。
いちいちなのか、そうそう。
お父さんってね、おっしゃってましたよね。
お父さんって言って、彼が毎年、彼も毎年、向こう側の子ですけど、
え、そうですよ。
あれですか。
そうそう。
彼が総役割で、みんなでお前にしてというのがそのパターンになってきたので、
11年目からね。
そうですね。
だからあそこには、どちらかというと地元で被災した方っていうよりは、
全国から駆けつけた、あの当時、
支援者の集まりですよね。
支援者の集まりですよね。
あのカウントダウンが始まると、なんかドキドキしますよね。
これで入れたのかっていうのが、やっぱり、何年経っても。
めちゃめちゃでしたから、街の中が。
ちょっとこの30年経って、
旅行した神戸を見て、何か思うこととかあります?
うーん、そうね。
まあ、どこかに悲しみが隠れてますよね。
綺麗になった、一見外から見えない、
あのたった30年前の出来事なんで、
命が失われたっていうのも、忘れられるもんじゃないんだね。
この日をね、辛い思いで迎えてらっしゃる方もいるし、
なんかやっぱり被災者の方の話聞くと、
1.17の報道を見たり、そういうのが近づいてくると、
心がざわつくとね、落ち着かなくなるとか、
そういうのよく聞きますけど、
3.11でもね、野田半藤氏と今年も同じでしたけど、
なんとなく落ち着かなくなるって言って、
忘れたいと、忘れちゃいけないの様でね、ずっと。
そういうのは見えないじゃないですか、復興した町からは。
どこかがやっぱりね、そっとしておいてっていう声だとかね、
ひょっとしたら助けてって声が生まれてるかもしれないですよね。
当時のね、もう被災してぐちゃぐちゃだった町の面影ってもう本当になくって、
なんかもうこう、頑張って残したっていう遺跡みたいなの自体はあるんだけど、
もうそういうのって、言ったら後方もなくて、
24:03
本当にここがぐちゃぐちゃになって、人がこんなに亡くなっちゃってっていうのが、
確かに想像つかないんだけど、何年経っても苦しみの中に生きてる人はいるよねっていうので。
フラッシュバックしますよね、やっぱりね。
この時間なんかまさにね、来たばっかりで混乱していて、
どうしていいかわからなくて、気の利きのまま出て来られて、
不安の最中だった時間帯になるわけですよね。
確かにそうですよね。
なんか当時と、きっとサムさんの種類もまた違ったんだと思うんだけど、
なんかこの日にこう、神戸にいることの意味みたいなのは、
そういうことも含めて、大事なことを学生が教えてくれましたよね。
学生と出会わなかったら、私はここにいないはずですから。
そうですね。
それは一人一人の震災があるというか、
一人一人の思い出あったり、
一人一人で状況が全く違うよねっていうところを、やっぱり反省を応じて気づかされた。
被災者とか被災地に一個にされがちじゃないですか、被災地の公明とか、
福島もそうですけど、そうじゃないんだよっていう、
一人一人の人生があったし、一人一人の思いがあるよねっていうところを学生からは。
丁寧に一人一人の声を聞いたっていうのが、学生が私を教えてくれた最大のことであるし。
復旧とか復興って全体のことをおっしゃってたじゃないですか。
まだまだボランティアですから、目の前の困った人に手を差し伸べられなければ、
全体のことばっかり見たらしょうがないですよね。
本当に自分の目の前にいる人をどうしていくのかと思ったら、
困ってるって言ったって、向こうも我々なんかで家族の要求はしないわけで、
家直してくれとかいうわけじゃない。
そういう気持ちがあったとしても、言わないっていうか、それできないってことがあったよね。
でもその中でできることはたくさんあって、やっぱり小さなところはたくさんありますね。
結局そばにいるだけでもいい感じしますでしょ。
誰かがそばにいてくれるとか、ちょっと話し相手になるとかね。
そういうのは誰にもできることを当たり前のように学生たちはやってましたから。
なかなか助けてほしいとか、これに困ってるっていうのが言えずにいる状態の方っていうのもいらっしゃる中で、
27:06
どうしてもどういう支えが必要かっていうのが見えづらかったりする部分もあるんですけど、
そういう時っていうのはまずはそばにいるだけで寄り添うところからっていう感じでアプローチをしているってことですかね。
結局、地域が大事だとかいろいろ言うんですけど、地域が近すぎるといろいろ言えないこともあるんですよね。
よそ者の方がね、しかも若者ですから、よく話をしていただきましたよね。
選択もないというか、純粋に助けて力になりたいと思っているっていうのが、学生だから使うとかも面白いです。
普段のつながりが、地域のつながりがいざという時に支えになるみたいなことも言われますけど、
なかなかそれだけでも難しい。アプローチがなかなか届かない部分もあるということですよね。
よそ者だからこそまた支えがあると思いますよ。
とにかく誰かに言いたくてしょうがない人たちって見たらね、すんごいおしゃべりしますよ。
そうなんですよね。実は抱えてるんだけど、それを放出するタイミングがなくてずっと抱えっぱなしになってるっていう方っていらっしゃるわけですよね。
確かに。
栗田さんとしては、お寺の住職と、当時だったら大学の職員になったじゃないですか。
震災が起きて、学生と一緒にボランティアに行きまして、それで人生がすごく変わってきましたよね。
すごく良い方向に自分としては変わったっていうのを今では言えるんですか。
それは分かってないですよね。
そうですか。
分かんないですよね。
なんかあれですか、震災が起きないことの方がもちろんいいんだけど、良かったとはなかなか言えないですね。
いや、後悔はしないし、自分が決めてきたことですから後悔してもしょうがないというのはありますけど、
それが良かったのかどうかっていうのが、なかなか自分では判断できない。
判断できない。
違う人生もあったんだろうけど。
30:00
でも一旦決めたところから立ち戻るかもしれないから、これからもチャレンジは続きますけどね。
1.17の後、東日本大震災があり、半島地震がありで、今後もどこでやってくるか分からないという中で、
なかなか危機意識というか身近に自分ごととして捉えるというのがなかなか難しい。
それを伝えるのに苦労されているボランティアの方って全国に見えると思うんですけど、
どうすると身に迫って心構えを持たなきゃいけないのか。
それができればノーベル賞といっつも言ってますけどね。
そうか。
そのぐらい難しいということなんですよね。
毎年どうやってHKでガンガン放送して、ガンガン新聞出しても結局、
他人のことですよね。
そうですよね。
じゃあ岐阜新聞開けたらこんなちっちゃいですよね。こんなのとか。
それをわが言と捉える。
どこか遠いところで起きていることをわが言と捉えるというのもやはり、それができたらノーベル賞。
それぐらい難しい。
難しいですよ。
だいたい正常化の偏見とか言って、自分は大丈夫だろうと思ってしまうような特性があるみたいですね。
特に岐阜だったり愛知だったりとかって、ずっと大きなものは起きていない。
幸いにして大きな被害を受けずに災害で苦しむということはないまま来ていって、
ただ一方でずっと南海トラフの危険性だったり、古くは東海地震があるよというふうにずっと言われてきた地域で、
いろいろ気をつけてねというサインが出ているんですけど、
なかなか具体的な行動に寄せているかというと、そうじゃない方が特に多いエリアかなとは思うんですけど。
だって大震災だって金がかかるし。
そうなんですよね。
そうなんですよね。
そんなに金がかかることはない。
だけど、例えば阪神はもう来るなんてことは知らなかったというか、知らされていなかったんですけど。
来ない来ないって言われてましたよね。
関西に知らないって言われてた。
普通に不意打ちみたいな形だったんですもんね。
関西の方では大丈夫だろうって言われてて。
もう大丈夫だろうって言われてて。
だけど南海トラフがもう来ますよって。
だから言われてるので、言われてるのでやらないっていうことは、
自分自身でちゃんとしたほうがいいなっていうのは考えておかないといけないですよね。
プラス、せめて子どもが寝ている前に炭素が置かないとか、
自分ではやっぱり対策できない、
そういう人たちのために親があるいは家族があるいは地域の人が協力をして、
33:04
そういう環境にそもそも置かないということを、
誰かのためならできるんですよね、人って。
自分の命と言えば、この子が助かるために私が頑張らないといけないということはできると思うんですよ。
子どもが寝ている前に炭素を置いておいたら殺人行為ですかね。
そうですよね。
来るってわかってるんだもん。
そうそう。
炭素を込めるのは難しいかもしれないけど、そこに炭素がなければいいわけです。
だから私の子どもの部屋にもそういうのをいっそ置いてないですよ。
だから、大事な人の命を守るために今できることをやっていこうというメッセージだと思いますけどね。
そうしたら繋がっていきますよね。
まず身近な人を守ろう。
それが家族だったりとか、それが地域の人だったりとかでだんだん広がっていくところもあるかもしれない。
まずその一歩目はすぐ近くにいる人を思うというところがありますね。
で、そのうち子どもが大きくなれば、じゃあお父さんとお母さん、おじいちゃんおばあちゃんが大事だから来て、
炭素をまわりに狙うようにしてねっていうのがあるかもしれないですよ、まわりまわってね。
守ってもらえたっていう政権、誰かを守ることにまた繋がっていく感じがしますよね。
6,434人の方が亡くなったので、その思いはね、やっぱりこの1.17は思いですよね。
今ちょっと帰りの道で、道というか車を走らせております。
名神高速道路、坂井さんが運転しております。
心配。
どうでした?緊張。
えー、まあなんかねー。
意外に趣味に立ち寄ってまいりましたが。
本当ですね。
でもやっぱり30年っていうところは大きかったかなと思ってて、
これが、まあなかなかその他県の話ではあるから、やっぱり岐阜で取り上げる意味みたいなものを。
そうですね。
だからね、3回連載で、締めに合わせてやって。
そう、私は、どうでしょう、約2年くらい前までは、神戸の新聞社にいまして、
もうそこまで言うとなんかネタバレてるけど。
36:02
言っちゃっていいじゃないですか。
いいかな、神戸新聞という新聞社におりまして、
で、警察担当を1年やり、2年目からは写真部に行きました。
で、その中で阪神淡路大震災の取材っていうのは、もう総力を挙げてやる、本当に特別な取材でして、
入社前の段階で1回行くんですよ、東遊園地。
よくNHKで竹道路をね、1.17の形を作ったりとか、いろんなその年ごとの言葉にかたどったりとかしている。
そうですね。
私は長野県の出身なんで、だから95年にはまだ生まれてもないし、
やっぱり阪神高速が倒れてしまっている映像とかっていうのは、
やっぱり1月17日が近づく度にテレビでやってたり、社会の資料集に載ってたりとかっていうので見てはいったんですけど、
まさかなんか、自分がそれを取材することになるとは思ってなくて、
初めて行った時はやっぱ衝撃でしたよ。
なんか、東遊園地の空間が独特な空間で。
そうですね。東遊園地に今回森田さんと一緒に行きましたけど。
あそこはなんか、いる人なんでしょうかね。
当時の雰囲気を感じるような気がするんですよ。
へぇー。
なんだろうな。
いつがれ、いつがれって来てる。
そうそう、来てるって。
今ね、感じましたよね、確かに。
でもやっぱり神戸市ですけど、町の中に5時46分の段階では発祭の時間ですね。
神戸市内各地で追悼式が行われてたりもするんですよ。
その人たちも、それが終わるとまた日常に戻って、
だけどそういう雰囲気を持った町だなと思いますね。
今日は日常は日常なんだけど特別な日っていうのは、
多分みんなあると思いますね。
そうです。私もだから、遺族取材もほんと少なかったんですけど。
3年しかいなかったので。
少なかったんですけど、
リフに来て、何かこう、震災?
39:00
なんかこう、全くもう、あれじゃないですか、
違うところで地震が起きて、危機感とかってなんか、
怖いなってその時って思うんですけど、
もうなんか、そんなこともあったねぐらいになっちゃうんですよね、周りの県とか。
本当に当事者じゃないと。
それって、今南海トラフがくるくるって言われてる岐阜県、
ないしはその周りの県、近隣の人たちは、
もうあんまりあれなんですよね。
悠長にしてられないんだよっていうのも、それもあるし、
私が神戸にいた、私がもう取材し、
反省アワジを取材した、何か一つの使命かなと思って、
今回ちょっと連載を3回組んだんですけど、
ちょっとしゅつけさんにもご協力いただきまして。
いやでもなんかね、そこにすごく共感したっていうか。
本当ですか。
仕事場が変わってもその思いを携えた場。
それをまた新しい場所でも大事にして、
何らか形にしようとするっていうところがあって。
褒めていただいてありがとうございます。
本当そうです。
なんかそういうので、神戸に恩返しかできるかなと思ったんですね。
なんかね、いろいろ感慨深いですけど、
あそこで私が感じたこと、
これは私が、毎年ちょっと神戸に行きたいかもしれないですけど、
それでもやっぱりずっと現地で取材をした身としては、
当時はいなかったものの東園地に行ってとか、
ということをした身としては、きっとそれは神戸を離れても、
続けなきゃいけないなというか、何か使命的なものを感じたし、
それをやることで、
社会人1年生の私を育ててくれた神戸に恩返しができるかなと思って。
だからね、絶対ひと言ではないし、
30年も前になると、
いろんなものが、距離があるところほどいろんな記憶がどんどん薄れていくし、
帰りに見るタイミングも、ちょうど今回30年って、
節目だったからこそ、いろんなニュースとかで触れたりされた方もいたとは思うんですけど、
なかなかそれをきっかけにして当事者意識を持てるかっていうと、
それはやっぱり栗田さんもおっしゃってましたけど、
それができればノーベル賞だって言ってましたよね。
それぐらい難しいことだし。
42:02
私も、自分が神戸に住んだからそう思ったと思うんですよ。
そうだよね。
逆にもう全然住んでないとかだったら、
私は多分今のような考えはなかったと思います。
被災地とか。
ホームダウンにしたからこそみたいなところはあったんだとは思うんだけども、
それをそのまま携えて岐阜にやってきてくれてるっていうのが、
私はツキブコさんにされるものがあって。
よかった。嬉しいですね。
いろんな記憶をたどって、
今回私、被災の1回目で山本素子さんっていう方を紹介しましたけど、
ずっとひともので1回その方を取り上げたことが、
活で取材させていただいたことがあって、
名古屋に勤めている、頑張っている人の方を紹介するみたいなコーナーで取り上げたんですけど、
美術館で仕事されている方だったんですけど、
美術館の仕事も面白かったんですけど、
それ以上に神戸に被災された時のお話っていうのがすごくやっぱり印象に残っていて、
なかなかちょっとしたコーナーというか、
人数もかなり制約されるひともの1コーナーだったので、
その部分があんまり書ききれないままになってしまってたので、
ずっと心残りだったんだよなっていうことを、
今回のタイミングで久しぶりに思い出して、
改めて連絡取ってみたら、メールが返ってきて。
よかったです。ぜひ私も聞きたいなと思ってた方だった。
一緒に行ったんですよね、ご自宅まで。
カニ市でしたね。
カニ市のご自宅に伺って、
あの方と出会ったのもたまたまでね、
美術館関係の学芸員の方とかが集まるシャークラフトの懇親会みたいなところで、
美術館の方と名刺をたまたま交わして、
岐阜県に有関係のある方を紹介してくださいって頼んでおいて、
たまたま紹介していただいたのがその山本さんという方で、
だからなかなかつながることができなかった方だったと思うんですけど、
縁があってこうやってつながって、
また改めてその通りに伝えできる機会だったので、
もう一気に100行くらい書いて。
盛り盛り書きましたね。
盛り盛り書きましたけど。
でもなんか山本さん被災した人の言葉って、
いろいろ気づかされることが多いんですよね。
私たち基本想像することしかできないんですよ。
45:03
あの時怖かっただろうな寒かっただろうなとか。
だけど経験した人の話ってそうなんだっていう、
想像やっぱり覆されることってすごく多くて。
その場にいたからこそ、
発災直後の街の様子っていうのがあったりだとか、
都会のノイズが全て消えてしまって、
すごく辺りが静かだったっていうのが、
君らぐらいで行列な記憶として残ってるっていうのは、
直接伺うことで我々も体感できるし。
そうですね。
なんかきっと五感で感じたもの、音。
だから私神戸の時に取材した遺族も全く同じこと言ってたのが、
音なんですよ街の音。
あれなんか、じゃあ災害が起きましたってなった時、
私はサイレンの音が鳴って、
何かが崩れる音がしたりとか、
人の叫び声とか、
なんかそういうものを想像してたんですけど、
本当に街が一回失われるというか、
音がなくなるっていうんですよね。
それは私が神戸の時に出会った遺族の方も言ってました。
お父さん亡くされた方だったんですけど、
街が静かだったのって言ってたのが、
本当に印象的だったんですよ。
え、静かなんだと思って。
それはその方が語ってくださった方からこそ伝わってきたことですし、
なかなかお話になるのも辛いことだとは思うんですよ。
今回そうやって東遊園地におられてた方も、
傷が30年経ったからといって、
癒えていることばかりじゃないはずで。
本当にいろんな人がいますよね。
きっと乗り越えた方もいれば、
もう忘れたいっていう人もいれば、
忘れないよって思ってる人もいれば、
乗り越えられてない、
まだ深い傷を負ってる方もいれば、
本当にそれぞれだと思うんですよね。
なんかね、本当、
普段想像できてなかったなーっていう。
こうやって現地にね、
節目に立ってもね、
忘れるっていう。
またね、ますますどう伝えていくかっていうのが、
難しくなっていくんでしょうし。
もうだいぶその30年前の記憶が、
曖昧になってきてしまってる方も結構いて、
あのなんていうのかな、
あれってどうだったっけってこう、
ただ人の記憶って永遠じゃないというか、
っていうのは今日ちょっと栗田さんが言ってたんですけど。
48:02
だから、そうなんですよ。
やっぱり次の世代に繋いでいかないと、
どこかで消えてしまうかもしれないので、
その意味でやっぱり栗田さんはね、
通過点っていう言葉を使ってたんじゃないかなって思うんですよね。
あと若い人を信じるって言ってて。
でもその言葉はちょっと嬉しかったですよね。
戦争も同じですよね。
だからどんどん経験してない人、体験してない人が、
やっぱり平和を誓っていかないといけなくなってきますよね。
やはり経験した方と、やっぱり重みは違うかもしれないんだけど、
こういうことがあってねって。
当時の神戸ってこうだったんだよねとか、
当時の日本はこうだったんだよねっていう話が、
少なくともきちんと記録に残って、
私たちの記事も含めてきちんと残っていってくれると、
やっぱり栗田さんもね、きっとそれを望んでると思うし。
およそ1キロ先、工事のため途半車線規制中です。
はい、わかりました。
私たちは不安がってるだけじゃダメなのか、
私は何年もある。
そうなんですよね。
もう明日は我が身というか、
だから同じ時間をね、いろんな人が持ってもらえるように、
いろんな人の話を聞いて、
それを広く伝えるっていう仕事をしてると思うし。
そうですね。
だから本当ね、その仕事をしてる一人としても、
きっかけにしたいなと。
よかったです。
3周年で節目に思いの中を踏んだっていう経験をね、
本当にして。
私もよかったです。
ちょっとここ2年だから岐阜にいたので、
行ってないですよね、現地には。
なかなかね、そんなに近くもないし。
そうですよね。
なかなか岐阜に着かないなーみたいな感じに思ってますけど。
でも本当に。
時間が思ったより長いんですよね。
長いですよね。
またトラックが多くて。
多くてね。
私はすごく神戸好きで、人も好きなんですけど、
神戸の人柄とか関西の人柄に触れて、
私自身もすごく楽しかったし。
51:01
今日も実は行ってきたんですよね、神戸新聞。
そこさ、掘り下げていいんですかね。
ちょっと分からなくて振らなかったんだけど。
もういいんじゃないですか。
いいよね。
ちょっとご挨拶に行ってきました。
迎え入れてくれてですね、部長が。
本当に温かく。
私辞めた人間ですからね、会社。
そうなんですよ、でもすごい温かく迎え入れてくださって。
ちょっと今日はね、やはり1月17日だったので、
一緒にいろいろ教えてくださった先輩とかがいなくて、
本当に部長とか、前の部長とか、
あとデスクとかが多かったんですけど。
絶対お忙しい日じゃないですかね。
超忙しい日なのに、お話聞いてくださったり、
いろいろ聞かせてくださって。
本当にありがとうございました。
本当にありがとうございました。また来ます。
ちょっと来てる時に言ってよとか言われて、すみません。
韓国圏は結構ありますもんね、校舎だったりとか。
そうですね、専門も夏もあるし、男子機も踏ん張ってくれたらいっぱいあるし。
赤市でやってますよね。
地方市ってどうしても岐阜は岐阜、神戸は神戸みたいな、
兵庫は兵庫みたいな感じの、どうしても地域密着みたいなところがあるから、
なかなかホームレスの連載もそうでしたけど、
名古屋行くとかね、他県にあんまり出ていくっていうことが、
全然少ないと思うんですけど、
許してくれたなと思いますよ。私はそれが嬉しかったです。
確かに地方市としては、どこよりもその地方のことを知っているよ、伝えているよって、
媒体でありたいなって。
岐阜新聞だったら岐阜のことは岐阜新聞でありたいと思ってますけど、
一方で岐阜だけを見ていてもわからないことも中にはあったりしていて、
そうですね。
ホームレスのこともそうだったけれど、災害報道もそうかもしれなくて、
他の地域で住む人々が経験したことに学んで、
持ち帰ってくることで、それを咀嚼して、
うちの地域にあった、今回のことで言えば支援の形だったり、
対策の取り方ってのはどういうことなんだろうって考えていくみたいな。
なかなかその地域の中だけで取材を完結させようと思うのが難しくなったりするわけですよね。
54:03
だから神戸の復興とか、神戸の被害とかっていうものは、
きっと東日本ともノートとも違うじゃないですか。
なんだけど、きっと支援とかのつながりで絶対に学びになっている、教訓になっている部分って絶対あるじゃないですか。
そういうものを広く、岐阜は下にも被災地になるかもしれないじゃないですか。
そういうときに、やはり神戸はどうだったのとか、
そういうことを新聞で報じるっていうことも意味があるかなと思って、
今回ちょっと勇気を出したんですけど。
振り絞ってよかったよね。
よかったですね。
18日付けの紙面だったね。
その福田さんの人物みたいな感じでね。
あと社会面、坂井さんが書いてますけど、
その言葉がね、一つ一つ伝わるような、
書き方で伝えてますし、
一緒に残る言葉がね。
だから、ちょっと嬉しいじゃないですけど、
あんなに防災が進んだりしている神戸というところで、
岐阜の方がね、シンポジウムをやって、司会やってるんですよ。
そうなんだ。
そうなんですよ。すごいことですよね。
主催は内閣府だよ。
そうですよ。
内閣府主催のシンポジウムの司会は岐阜の人がやってるんですよ。
水星の方ですかね。
そうですそうです。
ぜひ私が福田さんの人物を書いてる、
その反対側で塩助さんが書いてくださった、
そのシンポジウムの内容が載っておりますので。
シンポジウムをまとめるのが若干大変でしたけど。
大変でしたね。
すごい勉強になったなと思って。
これまでのシンポジウムのタイトルがね、
防災とボランティアの集いということで、
阪神淡路大震災が1995年というのは、
災害ボランティア元年というふうにね、
位置づけられていると。
というのもやっぱり阪神淡路大震災をきっかけにして、
災害支援しなきゃという気持ちがすっごく高まって、
そこがボランティア活動の始まりになってるよ、
というような位置づけがあったりするわけですよね。
で、その後も大きな災害が続いて、
地震化していって、火発化していって、
という中で災害ボランティア方たちが
57:01
これからどうあるべきなのか、みたいなことを
いろんな方が進展されているような立場の方が
登壇して語り合うというような趣旨のものだったわけですよね。
やっぱり30年という年を迎えてね、
きっと思うこともたくさん、支援側にもあって。
やっぱりね、都藩と地震もそうですけど、
避難所生活が長期化する中で、
避難される方それぞれが抱えている課題って、
それぞれにあって、その方その方にあった
支援をしていこうと思うと、
もうちょっと支援者側、そのボランティア団体、
個人側でどうやったらその人に合うような
支援ができるのかっていうのを自然に調整したりとか、
仕組みで整えられる部分もちょっとあるよね、
みたいな課題をお話ししていたりだとか。
ボランティア元年に比べれば、
いろんな仕組みが整っては来たんだけど、
まだ全然十分ではないよっていう。
そうそうですね。
これからお見せいただくしかない。
いっぱいありましたね。
これを機に防災バックを見直してもらうとか、
ご家族と地震とか防災に関して話してもらうとか、
そんな小さなことって思われるかもしれないけど、
そういうことから始めていってもらえると
いいかなと思いますね。
私たちの記事を読んで誰かが
あ、やらなって思ってくれたら
もうそれだけで大収穫というか
十分かななんて思ったりしますね。
どちらもどんどんそれを促していくというか、
もちろん県民の一人として備えていく、
自分自身をまず守れるようにしていくということも
もちろんなんですけど、
その大事さというのを
いろんな人が身をもって感じてもらって
感じるじゃないか。
いろんな人が感じていただいて
具体的な行動に移していく機会が作れるような
そうでありたいですね、私たちも。
そういう仕事がしたいなと思います。
またぜひご意見ご感想お待ちしてます。
ぜひお聞かせください。
ここまでお届けしてまいりましたのは
テレビ新聞社報道部の山田俊介と
坂井萌花でした。
59:49

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