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人は誰かに「元気」をもらい、その喜びを培養する 
2026-06-19 25:13

人は誰かに「元気」をもらい、その喜びを培養する 

「元気」の語源的考察と、スピノザの感情論を絡めてお話してみました。

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サマリー

本エピソードでは、「元気」という言葉の語源を辿り、その意味が病気の回復から「みなぎる力」へと変化してきた経緯を解説します。特に、終戦後に「気」の漢字が「米」から「締」に変わった歴史的背景に触れ、文化的な抑圧の可能性を示唆します。さらに、哲学者スピノザの感情論を援用し、大谷翔平選手の活躍やお笑いなど、他者の喜びを模倣することで自身の「元気」を培養するメカニズムを考察します。最終的に、悲しみと喜びのバランスの中で、受動的な模倣からでも喜びを増やし、心の培養に繋げることが重要であると結論づけています。

自己紹介とテーマの導入
Guttiと申します。
普段はノートで、私が好きな17世紀の哲学者であるバルフ・デ・スピノザとか、 今、日本を代表する哲学者のイリフジ・モトヨシ先生とかですね、
そういった哲学についての考察、あるいはテキスト研究みたいな形で、 記事をいろいろ書かせていただいてもらっております。
たまには音声みたいなものもやりたいなと思って、ちょっとこのポッドキャストにトライアルしておりますが、
本来であれば、ポッドキャスト用のテーマを決めて、それでおしゃべりとかできればいいなぁなんて思ってたんですけど、
なかなか何を話そうかってなった時、結構難しかったりしますので、
今日はですね、自分が過去に書いたノートの記事をベースに、スピノザ哲学の一部について話したいなと思っております。
過去の2年前ぐらいに書いた記事で、
人は誰かに元気をもらい、その喜びを培養するという記事を書かせてもらいました。
元気スピノザって検索してもらうと、上位の方に私の記事が出てくるかと思いますので、
関心のある方はぜひ記事の方も見ていただければなと思っております。
元気っていうのは、みなぎる力、元気の元気ですね。
これを、人は誰かに元気をもらい、その喜びを自分の身体の中に培養しているんだ、
そういう話をスピノザをベースに書かせていただきました。
「元気」をもらう現象の具体例
この記事を書くきっかけはですね、
これはメジャーリーガーの大谷翔平選手、この存在ですね。
今も大活躍しておりますけれども、
昨年とか、それから一昨年というのは本当にすごくて、
実際は毎日ではないんですけど、それぐらいのペースでホームランを打っていて、
そのニュースを聞くたびに、僕めちゃくちゃ野球好きってわけでもないんですけど、
そういう大谷翔平がホームランを打ったっていうニュースを聞くたびに、
その日一日はなぜか元気になれて仕事ができるなんていうことが、
いつの間にか結構ルーティンになってたりします。
なので、今は党首として活躍していますので、ホームランのペースは若干下がってはいるものの、
やっぱり大谷がホームランを打つとやっぱり嬉しいですよね。
これで大谷のホームランのニュースで朝目覚めるっていうのは、
結構私だけじゃなくて、色々社会人としてそれが習慣になってますっていう人結構いるんじゃないかななんて思っております。
もちろん野球に限ったことではないですね。
私なんかで行くと格闘技とかボクシングとか好きだったりしますので、
そういう悲喜にしている格闘家の活躍とか、格闘家が勝ったりっていうときは、
自分は格闘技とか全くできませんけど、自分のことのように喜んだり、元気だったり勇気だったりをもらったりということがあります。
これは別にスポーツに限らず、例えばミュージシャンだったり、あるいはお笑いだったり、
あるいは他の芸術作品だったり漫画だったりっていうのは全然あると思いますし、
こういうアウトプットだけじゃなくて、友人との関係、ペットの関係、そういった関係性の中で元気をもらい、
自分の心の培養にしているなんてことはあるんじゃないかなというふうに思っております。
「元気」という言葉の語源と漢字の変遷
この元気っていう字の語源というところを調べてみたいなと思って、
辞書レベルですけど、そういうところから始めたときにですね、
この元気、意味は心身の活動の源となる力、体の調子が良く健康であること、またその様、
あるいは天地の天地、天上と地上の天地の間にあって万物生成の根本となる正気という説明もございます。
この元気の言葉の由来を調べてみるとですね、もともとはこの元の元、今この元っていうのは始め、元、元って形で書きますよね。
昔は減るに気、減少の元、減るの方の元気と書いて、病気の勢いが衰えて回復に向かうことを指していたそうです。
これが近世に入ると経験の元になって、経験の元、主言の元とか、体験の元ですね。
に気って書いて、これを元気、治療などの効果が現れ気分が良くなることを意味していたそうです。
なので、もともとの意味をたどっていくと、病気などで身体が弱っている受動的な状況から濃度的なものへとベクトルが向かうことを元気と言っていたみたいなんですよね。
もうちょっとだけ調べてみると、これは他の方がネット記事にもしていますけど、
この気っていう字、気力の気、他にも気力の気だったり、陽気、何でも気って出てきますよね。熱気、人気、あるいは気分、気圧っていうこの気っていう字なんですけど、
1945年、日本が敗戦する前までは、気っていうところの締めっていうところの字は、もともと米という字を当てていた、難しい方の気です。米って書く方の気っていう感じを使用していたようなんですね。
これが、終戦後に今のような気っていう形に変換されたっていうことらしいです。
なんでもともとはこの気っていうのは米だったかっていうと、気構えに米って書く字だったかっていうと、米っていうのは文字の形通り発泡に広がるっていう意味を持っていて、まさに気ですね。
エネルギーが発泡に広がるっていう意味合いがあった。なおかつ日本は米の文化っていうところで、米に秘められたエネルギーという意味を気という字に込めていたんだというふうに考えられています。
ところが終戦後にこの気という字は締めという文字、今の締めという文字に変換されてしまいました。されてしまいましたというのは、GHQの統治がどうも関わっているようですね。
どこまで本当かっていうのはもうちょっと調べなきゃいけないんですけど、この締めるっていうのはまさに締め切りの締めっていう字にも意味にもなっていると思うんですけど、これはむしろ気を外に出さない、エネルギーを外に出さない、締めるっていう意味での気の字になってしまっているんです。
これは何を意味するんだろうかというところは、非常にちょっと哲学的、哲学的というか歴史的にも面白いんじゃないかなと思うので、それが何かというと、この終戦後のアメリカ占領下にあって、GHQ統治の下では日本の我々の国民食である米から小麦に変えていく。
パン食やパスタが増えたってことと相関性があるんじゃないかっていうのが指摘されています。
なので、GHQの狙いとしては、日本国民の米をですね、この習慣を小麦にしたかった。そこにはもちろん経済的な、アメリカから輸入させてですね、パンをとにかく買わせる、食わせるということを根付かせたかったと思うんですけど、
もちろん今はパン食、パスタ、当然根付いてはいますけど、やっぱり米には勝てないですよね。日本人といえばやはり米だなというところで。
このような背景を知るとですね、この元気っていう字がもともと米だったものが締めになってしまったってことは、この日本人の米から出るエネルギーをですね、外に出ないものとして抑え込んでいる。封じ込めているんじゃないかっていう意味合いも見えてきてですね。
これはアメリカによる統治の見えない文化的な抑圧を我々はその背後に知るべきなのかもしれないなと。ここについて詳しくは申しませんけれども、そういう漢字の変遷をたどっていくと、そういう歴史的背景があるというような事例でございました。
「気」の概念の普遍性とスピノザ哲学への回帰
この機の概念はですね、もうちょっと本格的に調べると、中国思想においても重要視されてますし、西洋においてもですね、英語でいくとAURA、ラテン語でいくとSPIRITUS、ギリシア語でいくとPUSHKEとかですね。
ヘブライ語でいくとLUAHAみたいな形で、あるいはエーテルっていうような言葉もありましたけど、そういったものとも比較できるんじゃないかなというので、この機っていうのは非常に面白い地だな、意味があるんだなっていうところを感じております。
これを延々と話してしまうと壮大になってしまいますので、ここでスピノさんの話に戻しますとですね、先ほど冒頭に戻りますと、我々って他者が活躍していたり、何かを成し遂げている姿を見て心を動かされますよね。
もちろんその中には妬みであるとか憎しみであったりって感情も人によっては嫉妬って感情も生まれてしまうんですけど、基本的に自分よりすごい存在の方の活躍であったりとかいう形ですと、元気をもらったり勇気をもらったりすると。
これスピノザ哲学をここで演用すると、スピノザの概念である感情の模倣、我々は感情を模倣するんだっていう概念がスピノザにはあるんですが、これで説明できるんじゃないかなというふうに思っています。
スピノザの感情論と模倣による喜びの発生
スピノザにおいて感情というのは、自然の必然性と力から生じるものであって、我々の身体の現れとして喜びや悲しみ、欲望といった形で現れます。
これをスピノザは3種の感情という形で、基本的に感情というのはこの3つの形で説明できるんだということを言っていますけれども、我々生まれてくるときの赤ちゃんの例から見ても、やっぱり人って他者を模倣する生き物なんだなというのは、赤ちゃんが母親の子を喋ることとか、母親が笑ったら自分も笑うみたいな形で、
まさに母親、他者を鏡として他者の感情、他者の言葉というのを模倣する生き物だなというのは、我々経験値として、経験則としてあるんじゃないかなと思いまして、この元気をもらうという現象もこの模倣によって説明がつくんじゃないかなというふうに思っております。
スピノザが言うにはですね、人は自分に似ている存在、自分が愛着を持った存在に関しての喜びは、自分の喜びとなるようにできるだけ自分の目の前にあるものとして欲するみたいなことを言っているんですね。
興味ある方はこれ、エチカというスピノザで一番メジャーな本の第三部、第四部とかその辺りの感情論において書かれていったりもしますので、興味ある方はエチカも読んでほしいんですけど、
そういう自分に似た存在の喜びというのは、なるべく自分の目の前にあるものとして欲する。しかし、それが叶わなかった場合の楽さも大きいということなんですね。その場合は、それは悲しみとして表現されるであろうということです。
例えば、自分が推している選手の負けとか、そういったものは想像したくないんですよね。選手の負けはまるで自分の負けのように、人は落ち込んでしまう、悲しんでしまうということは日常でよくあるんじゃないかなと。
あるいは、こういう話もよく聞いたりします。例えば、気を落として病気になってしまっている状態の時に、テレビのお笑いを見ることで元気になるという話をよく聞きますよね。これ、もちろん心理学的にもストレスの軽減効果というところの関連性はもちろん今言われています。科学的にも医学的にも。
これもやっぱり感情の魔法の最たる例なんじゃないかなというふうに私の場合は感じるわけです。自然とお笑い芸人のお笑いだったり、観客の声とかの誘い笑いではないんですけど、そういったものに触れることによって自分の身体も自然と笑ってしまう。
それが喜びの感情だということに我々は後から気づくわけですよね。身体的反応が先にあって。スピノザ的に言うと身体的な喜びの感情、喜びの力がみなぎるという表れは並行して喜びの感情が表れているということでもあるんですけども。
まさにそういったことは日常的にも経験しているというわけです。
「元気」とスピノザのコナトス概念
そこで何が言いたいかというと、こうして考えると元気という言葉、文字。
かつては病気の勢いが衰えて回復に向かうことというニュアンスが強かった。
受動的な状態から能動的な状況に向かっていくことというニュアンスがありましたというところで、結構この元気という言葉はスピノザのコナトスと呼ばれる概念。
日本語で訳すと努力、維持する、勤める、力を自分があろうとすること、そういったものをスピノザはコナトスという概念を使っているんですけど、このコナトスを想起させるものがあるなというふうに私なんかは思ったりします。
スピノザはまさにコナトスの上昇・減少とか、それに応じて上昇すれば喜びの感情だし、減少すれば悲しみの感情だしということで、コナトスという概念を用いて人間の身体及び感情というところのメカニズムをエチカでは説明したりしています。
これ何が言いたいかというとですね、人は社会的な生活を送っている間は思わずと自動的な存在であるということですね。
人間は自らが自由で外部規定を受けず、身体的束縛も一切なく自由であるということは、これはスピノザ哲学的にはありえません。
これは必ず外部環境、例えば空気を吸わなきゃいけないとか、水を飲まなきゃいけない、食べ物を食べなきゃいけない、人と触れ合っていかない、触れ合っていなければいけない、これ全部外部環境です。
こういった外部の要因によって規定された上で事故というものはありますので、我々の身体というのは身体的にも精神的にも間違いなく自動的な状態にあるというところ。
ただ、この自動的な状態をいかに能動的なものに変えていくか、それを切り替えていくか、切り替わった場合、それは能動と呼ばれるよねというようなところがスピノザ哲学のポイントだったりしますけれども、
能動的感情への移行と喜びの見出し方
これね、ちょっと難しいんですけど、スピノザって自動的な感情から能動的な感情への移行の話って、理論的には説明するんですけど、どうやったらそれがなるかというのはそこまで具体的には書いてないんですよね。
だからその外部の原因を従前によく知ること、とにかく認識をするということがまずは自動的認識から能動的認識に移行するスイッチングだみたいなことは書かれてたりするんですけど、じゃあそれ具体的に何だったときにあんまりよくわからなかったりはします。
ただ、このエチカの中でスピノザが説明しているものの一つとして、そういう喜びを得るために、賢者というのは、例えば釣りを楽しんだり、演劇を楽しんだり、詩を楽しんだり、文学を楽しんだり、
賢者というのは自分自身を楽しませるために様々な喜びを自分自身で見出すだろうみたいなことも言っていたりして、
要するに悲しみの感情を打ち消すためには、もっと強い強力な何かが必要なんですけど、そういう強力な何かというものは、やっぱり自分自身で何か楽しめるものを見つけるとか、
自分自身が本当に心の底から楽しめる活動を行っているとか、そういったものが必要になってくるんだなというところで、ただそれが今の時代、積極的にそれを自分の中でやっていくというものが難しかったりはするんじゃないかなと思います。
模倣による喜びの培養と感情のバランス
ただこの無法の概念というものを使うと、仮に最初の受け取りが、仮に受動的であったとしても、大谷翔平から元気をもらうとか、お笑い芸人から元気をもらうというのは受動的ではあるかもしれないんですが、
その受動的なものを浴びまくっていれば、それが喜びのものであればあるほど、逆に能動性に自然に切り替わっていく。いつの間にか自分の中で喜びの感情の方が増しているみたいなことが、そういう転換があり得るんじゃないかなと思っておりまして。
なので、何が言いたいかというと、人間って悲しみと喜びって両方抱えているものだと思います。悲しみ全てを打ち消して喜びで満ちている精神、喜びで満ちている心なんていうのは、よっぽどの達人、先人じゃなければないと思うんですよね。
はっきり言って、悲しみというのは怒りとか憎しみとかそういったものもそうですが、そういった感情というのは人間には絶対ある。
だから、スピノザが言いたいのは、悲しみから喜びへの完全な意向を目指せという話ではなくて、もともと心の中にある感情と喜びのバランス、割合、度合いというものを、いかに喜びの方を増やしていくか。
喜びの方が増えれば増えていくほど、この感情はやがて悲しみの方を彫刻していくだろうみたいな、そんな感じだと思うんですよね。
なので、喜びの感情の増やし方は、何も能動的なもの、自分の積極的な姿勢だけじゃなくて、自動的なものでもいいから、まずは模倣して笑うこと、模倣して喜ぶこと。
こういったささやかな行為、ささやかな自動的な喜びというものを少しずつ少しずつ増やしていく。それによって、いつの間にか心の中にその喜びの感情が培養されていく、その割合が増えていく。
そんな感情のメカニズムをスピノザは言っているんじゃなかろうか、明確には言っていないんですけど、そういうふうに捉えた方が、実践的、生産的なんじゃないかなと、私なんかは考えるわけです。
なので、元気を貯める、これが自分から作る元気というわけではなくて、自動的なものでも構いませんので、そういう元気をもらってそれを喜びの感情として培養していくということが極めて重要なんじゃないかということを、この元気という言葉とスピノザの感情論を結びつけて記事なんかを書かせていただきました。
まとめと結び
すみません、ものすごく長くなってしまいましたので、この辺で打ち切りたいと思います。
次回またよろしくお願いいたします。
25:13

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