00:15
お疲れ様です、たくです。
そして、更新お待たせしておりました。
あのー、多分エンディング、僕今本編撮って、エンディング撮って、最後にこのオープニング撮ってる段階なんですけれども、
えーとですね、まああの、多分前回とかね、前々回とかでもね、結構喋ってたんで、
まあね、早いうちに更新するみたいなこと言ってね、気がついたらね、だいぶ経ってるんですよね。
というのもね、これからね、喋るこのプレイステーションの回が非常に手こずりました、僕の中では。
サタンの回も結構手こずったんですよ。手こずってどっちもね、完璧かって言ったら全然完璧じゃないし、うすっぺらいんですけども、
まあなんかね、体調悪かったり仕事忙しかったり、なんかゲームしてたりしなかったり、これ撮ったり、撮ったけどやっぱりなって思って作り直したりとかね、
いろいろ悶々としながらやってたら、気がついたらね、2週間ぐらいかかってましたね。2週間以上かかってんのかな。
セガサタンのやつができたのが1月3日とか4日とか、あの辺だったと思うんで、ずいぶん時間かけてやったと思うんですよ。
うすっぺらいくせしてね、結構かかってたと思うんですよ。
やっぱりでもね、それぐらいもうプレイステーションの方はやっぱり情報量が多かったかなっていうのもあるんですよね。
で、情報量は多かったというより、サタンに比べてもやっぱり結構表に出てきてる話も多かったりするんで、
まあね、どれをピックアップしてどれをピックアップしないかとかね、いろいろ考えたらこんな感じになっちゃって、お待たせしておりました。
そんなこんなでね、これからセガサタンじゃなかった、プレイステーションの回をね、ちょっとここから始めたいと思います。
長々とこの後続きますけども、よろしくお願いします。聞いてください。
はい、ということでね、プレイステーションの回をやっていこうかと思うんですけれども、
03:01
プレイステーションだとね、結構僕、サタンのね、この前に話してたサタンの回でもちょっと喋ってると思うんですけれども、
これに関してはね、発売日にね、ちゃんと買ってるんですよ。
1994年12月3日と、型番はね、初期の型番はSCP-H1000、価格は39,800円と。
僕がね、後にも先にも発売日に欲しいって思ったゲームの中でもですね、初めてじゃないかなと思って。
スーパーファミコンとかはですね、発売日に予約なんかしなかったんですけれども、当然買えなかったんですけども、
そういうこともあってですね、このプレイステーションは欲しいなと思ってたんで、
当時ね、1ヶ月以上前かな、当時住んでた家の近所にね、
ゲーム結構手厚めにアトリア使ってるおもちゃ屋があったんですけれども、
確かね、豚やぎょうとかもやってたと思うんですけれども、そのおもちゃ屋さんは、
そこを僕結構常連で、プレイステーション、今度出るプレイステーション予約してるの?って、
予約してくれないか?って、俺の分予約してくれよって言ったら、えーって言われましたからね。
早すぎんじゃない?とか言われながら、いや予約なんかしなくても大丈夫だって、買えるから当日、みたいなことを最初言われたんですよ。
多分ね、10月とかね、10月の中旬か終わりぐらいだったと思うんですよ。
なんですけれども、いやもうちょっとこれは分からんと。
どれぐらい出るのかも分からないですよね、当時ね。
本体の生産台数とかも分からないし、僕の中ではですね、当時どうでしょう?
3DO、サターン、プレイステーション、あとネオジオCDとかね、あとPCFXとかね、
いわゆるこの年結構なんだかんだで出てるんですよ、ゲームハードが。
で、本命と噂されてるのがやっぱりサターンとこのプレイステーションのどっちかだろうって言われてる中でも、
セガサターンはね、セガなんで、すでにメガドライブだったりとかマスターシステムとかっていうこともあって、
前のゲームハードの実績があるから、再販とかね、すぐに動くんじゃないかなって思ってたんですけども、
ことソニーに関してはその辺がちょっと分かりづらかったんですよね。
っていうのもあって、予約しました。予約してまで買った覚えがあります。
で、発売日になって、普通に買いに行ったんですよ。朝からってわけではなかったんですけども、
06:06
店が開いてからちょっとしてからかな、買いに行きました。
そしたらね、店の人に言われましたもん。
言ってた通り、その後予約がバンバン来たし、もう当日売りの分がないのよ、みたいな感じでね、本体はね。
もうないのよ、実はって言われて。
よかったね、予約しといてなんてね、言われましたけども、
僕はね、今でも覚えてるんですけどね、
やっぱもう学生でね、新聞配達のバイトしてたんですよ。
長友館配って。
なんで、そんな中からね、一人暮らししてたもんで、死がない貧乏学生ではあったんですけども、
この時のために金を貯めて、39,800円。
プラスソフトはもう一本のみですよ、買えたのは。
リッチレーサー、そしてメモリーカード。
さらにはなぜかよくわからんけど、コントローラーをもう一個買ってたんですよ。
当時ね、付き合ってた彼女ね、後の奥さんになるリエネさんにもね、させてあげようと。
マリオカートみたいに対戦とかできるんじゃないのかな、とか思いながらね、買ってね。
結局合計金額はね、5万円を超えてましたからね。
5万5千円くらいしたんじゃないのかな、もっとしたかな、覚えてないですけどね。
6万円近く出したのを覚えてますね。
でですね、帰ってプレイしたらですね、通行はいらなかったという。
通行をね、使うことになるのはその後のね、これ12月3日なんですけども、
約1ヶ月近く後の東神殿ね。
あれが出た頃にやっと役に立つっていうね。
まぁそんなんでしたね。
でまぁね、この12月3日にプレイステーションを買ってですね、
もうひたすらリッチレーサーをやってましたね。
他にもね、何本か同時発売のタイトルはあったんですけども、
まぁそこにね、手を出せるほどの余裕がなくて、
まぁ他のファミコンだったりとかもね、
スーパーファミコンのソフトも買ってたりとかもしてたとは思うんですよね。
で、あとですね、何してたのかな、
他にもパソコンとか、パソコンMacを当時持ってたのかな、この当時は。
多分その辺もあって、そっちの支払いだとかね、
余裕がなかったのかもしれませんけど、
まぁでも、プレイステーションはね、買って後悔しなかったですし、
ひたすらリッチレーサーをね、
95年1月1日だったかな、発売するのは、
何でしたっけ、あの、東神殿。
1月1日とか1月3日とかちょっとね、
今詳細なデータがないんですけども、
多分そんな感じですよね。
09:01
まぁそれぐらいの時期までずっとひたすらやってましたね。
でまぁ、プレイステーションって言うとね、
まぁ最終的にはね、
この当時のね、いわゆる次世代ハードと呼ばれたハードとしてはですね、
大成功を収めるわけなんですけれども、
まぁね、最終的に今思うとっていうところは後々話すにしても、
買った当初はね、
まぁ僕の中では、当時ナムコがね、
ゲームセンター、アーケードでですね、
まぁ、エアーコンバット、リッジレーサーとかね、
まぁそういうのも出してたりとか、
結構いろいろ、なんかナムコのアーケードゲーム、
セガのアーケードゲームっていうのが、
結構注目されてた時期ね、
格闘技ゲームに関してはどちらかというと、
カプコンとSNKではあるんですけれども、
それ以外に関しては、
このナムコはナムコで、セガはセガでっていう独自のね、
まぁ、ゲームいろいろ出してて、
まぁその一つであるナムコがね、
このプレイステーションでいろいろと出してくれるっていうことが、
やっぱり、格役されてたところもあってですね、
このプレイステーションには、
すごい期待して、
まぁリッジレーサーね、発売、ローンチのね、
これ買うんですけども、
今見ると、俺頑張ってたなぁと思うのは、
頑張ってたなって別に俺だけじゃないんですけど、
12月3日に発売されたタイトルで、
そして94年の、これ12月3日から94年、
まぁその後もね、出るんですけども、
3日に出たのがですね、
クライム・クラッカーズ、リッジレーサー、
A列車で行こう4エボリューション、
あと、マージャンステーションっていう3電子が出してるやつですね、
あと熱血親子っていうテクノソフトの、
これなんかベルトスクロールアクションかなんかだったのかな、
あとタマっていうね、タマっていうんですかね、
なんかタイムワーナーインタラクティブ出してる、
あとマージャン悟空、天竺っていうね、
これは、あの、エレクトロニックアーツビクターっていうね、
エレクトロニックアーツがまだビクターと組んでた頃ですね、
確かこれ、エレクトロニックアーツビクターは、
メガドライブとかね、そっちでも出してたんですけどもね、
確かこの後エレクトロニックアーツはスクエアと組んだりとかしてて、
今はね、エレクトロニックアーツってどうなってるの、まだスクエアのままなのかな、
で、あと12月3日はこの極上パロディウスだ、
デラックスパックっていうね、
このアーケード辞込みな人からするとどうなんでしょう、
リッジレーサーか極上パロディウスぐらいしかなかったのかな、
で、その後もですね、
12:00
なんだこれ、結構ね、どうなんでしょう、
年内はね、どちらかというとマルチメディアブームみたいなのに乗っかったようなソフトとかですね、
あとアスキーがこの頃はゲームリリースしてたんですよね、
22日にはカキノキ将棋出してますし、ポリグラムからはツインゴッデスっていうね、
これ確か実写撮り込みで、
いわゆる今風で言うとコスプレみたいな格好したお姉さんとかが出てくるオリジナルの、
家庭用オリジナルの対戦格闘技ゲームだったと思いますね、
でもちょっと注目すべきは、
そうですね、12月16日にはですね、フロムソフトウェアからね、キングスフィールドが出てたんですね、
94年、まあローンチっていうほど、ニアローンチぐらいなんですけども、
早い段階でフロムさんがね、出してたんですよね、
ただこのフロムソフトウェアさんっていうのもプレイステーションから登場したメーカーっていう印象が、
まあ実際そうだったとは思うんですけども、
得体が知れないソフトメーカーだったなっていう当時の印象はね、
急遽出てきたっていうメーカー、特にプレイステーションに関しては、
そういうメーカーが別にこのフロムソフトウェアだけじゃないんですけれども、
それまではもしかしたら下請けかなんかをやってたのかもしれないんですけども、
急にね、自社ブランドで出すんですけども、
そのブランド名、社名を全く認知、僕みたいな一般の素人が認知できないようなソフトメーカーから出てるっていうことで、
僕なんかは結構そのブランドイメージ先行型みたいな選択肢を取りやすいもんで、
そうなんですね、キングスフィールドに関してもですね、
フロムソフトウェア自体がちょっと得体が当時は知れなかった会社だったんで、
まあ手を出さなかったんですよね。
で、まあ他の新しいもの好きみたいな友人連中がこれを買って、
いや面白いぞこれはっていう話をして、
まあそれでじわじわとなんか僕も知るようになったかなっていう作品ですね。
でですね、そして1月1日には先ほども言ったように東神殿とかね、
で、27日には、1月ね、95年1月27日にはキリークザブラッドが出たりとか、
同じくね、ライデンプロジェクトとかも出てますね。
そうなんですよ、でこれね、結構今、
Wikipediaさんにあるソフト一覧のね、94年5年あたりを見てるんですけど、
15:01
やっぱりなかなかね、当初は結構厳しかったと思います。
毎月何かゲームを買うっていうわけにもいかないぐらいに。
そうですね、僕もね、多分ね、東神殿買った後にですね、
キリークザブラッド買って、まあ1月はね、2本買ってるのかな。
ですけど、27日のサイバースレッドは僕買ってないですもんね。
キリークザブラッド買ってるのにサイバースレッド、ナムコなんですけどね、
買わなかったっていうのは、結局このサイバースレッドはね、非常に面白かったんですけど、
アーケードでやるからこそ面白かったりするんで、
画面分割とかではちょっとやるのはね、
しんどそうかなと思ったんでやらなかったんですよね。
で、あとですね、この辺はもう1月とか以降はですね、
特に後ろ髪引かれるほどでもなかったのは、
アイドルジャンシー数値いっぱいリミテッドっていうのもJARECOから出てますけど、
これもね、僕3月に出てますけど、3月なんだもん。
1月のね、27日に出た後ですね、恐ろしいのはですね、
2月にはね、2月3日にジグソーワールドっていうね、
これ日本一ソフトウェアさんがね、出してるソフト。
この1本でね、2月を乗り切れっていう状態になってるんですね。
すごいですね、この時代ね。
次がですね、この2月3日の後がですね、
プレイステーションのソフトはですね、3月24日まで出ないんですよね。
もう今の家庭用ゲーム機、コンシューマーゲーム機でも、
ここまで間開くことってなかなかですよね。
っていうことは、この年どうなんだろう、
28日あったとして、25と24、49日間もゲームソフトが出なかったってことですよね。
約7週間ですよね。7週間ゲームが出なかったってことですから、
すごい時代ですよね。
3月24日のね、アイドルジャンシースーチーパイ、
僕マージャンもちょっとわかんないですし、
当時やってなかったかなと思いながらもね。
なんか有名なのは知ってますけどね。
3月31日に鉄拳、これね、買ったんですよ。
アーケードでもね、そんなに見栄えが良くなかったというか、
結構ギトッとしたグラフィックでね。
でもね、家庭用ゲーム機でこれができるって考えると、
まだ当時僕はサター持ってなかったですし、
バーチャファイターに比べるとね、テクスチャー張ってる分のね。
あとこの当時ってのは、何て言うんでしょうね。
手付けって言うんですかね。
手付けで動かすみたいなね、要はムービーですね。
18:02
今で言うと、粘土を一コマ一コマ動かして撮るみたいな感じで、
今だったらもうCG、3Dグラフィックって多分モーションキャプチャーで演技させて、
それに3Dグラフィックをかぶせるみたいなやり方なんですけども、
当時はね、一コマ一コマ、タイムラインに合わせてグラフィックを少しずつ動かして、
本当に模型を動かすような感じで、確か3Dグラフィックのモーションって作ってたと思うんですよね、この当時は。
各キャラでラスボスまでクリアすると、ちょっとしたムービーが見れるんですけど、
それが結構ご褒美的にあったりとかで、この鉄拳っていうのは結構ハマってやってましたね、僕はね。
バーチャとは違うんですけど、これはこれで、だからそうやってご褒美目当てにやってると、
これはこれで面白いなと思ってやってたのを覚えてますね。
その後もですね、どうでしょう、僕今ね、ソフト一覧をね、95年のを見てるんですけど、
6月23日に出た機動戦士ガンダムっていうね、これバンダイが出してるんですけど、
なんて言えばいいかな、今で言うとファーストパーソンの一人称視点でやるガンダムみたいな感じでね。
でも当時これでもすごいなって思いましたね。
この翌週にはですね、エースコンバットが出てるんですけど、僕どっちも買ってるってことはね、
この機動戦士ガンダム、しかもクリアしたのを覚えてますし、
なんかね、3日ぐらいでクリアしちゃったんじゃないかな、
ハマってというよりステージ数が少なかったのか、コツさえ掴めてたらパタパタいけたのかなという感じでね。
で、エースコンバットも結構僕楽しんでやって、このシリーズをね、結局なんだかんだ言ってやってるんですよね。
その後もね、2も3もね。4もやってるな、まあまあいいんですけど。
でね、びっくりするのがですね、12月の16日かな、さっき言ってたのに出てたキングスフィールドね。
たった半年でですね、約半年、7ヶ月かな、続編が出てるんですね。
7月21日にはですね、キングスフィールド2っていうのがですね、フロムからまた出てますね。
すごいですね。ファミコンのドラクエみたいなスピードで出してますね。
やっぱりこの頃からそういう意味では、その実力集団というかね、そんな感じがあったんでしょうね。
なんかね、だからこの2が出る頃にはもう僕も確かに、
方々でキングスフィールドの評判は聞いてまして、もうここまで来たら2から買うみたいなね、やつがいましたね。何人かいましたね。
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あとね、初期のプレイステーションで、僕はね実はやってないんですよ。やってないんですけど、同じくね、キングスフィールドと同じように、
すごいこの95年、象徴するのかなと思って、今ね、見たんですけども、見てて、
思い出した、懐かしいなと思ったのがですね、ボクサーズロードっていうね、ゲームがあったんですよ。
これ簡単に言うとボクサーの、ボクサー、プロボクサーなのかな、ボクシングのね、シミュレーションというかな。
なんですけどなんか、結構食べ物だったりトレーニングだったりとかをね、気を使ってやることによって、その強さが変わるのかな。
すいませんね、僕もね、ざっくりしたんですけども、っていう内容なんですけど、今見たら、
オリジナルの選手を作成育成するシミュレーションゲーム的な要素と、実際の試合でのアクションゲーム要素があると。
グラフィックがフルポリゴンで描かれており、特に選手の食事までポリゴンで描かれていることが斬新で、よくゲーム雑誌に取り上げられてたっていうことでですね。
なんか僕もね、当時まだ3Dグラフィックをね、だからプレイステーションで出てきたばっかりなのに、
食べ物までポリゴンで出てるっていうことで、結構話題になってましたね。
なんか周りでもやってる人間結構多かったかなと思って、なんかね、懐かしいタイトルを今見ちゃったなと思ってね。
こうやって95年とかはまだね、このWikipediaさんの販売ソフトを一覧でね、こう見て、
記憶にあるなーとかね、思い出深いなーっていうタイトルはぼちぼちあるし、しゃべれるんですけどもね、
たぶんね、これね、この先はね、たぶんやれないと思うんですよね。
なぜなら、もう結構買ってくるもんなーって思いながらね。
そうですね、あと目立ったタイトルで言うと、やっぱり10月13日、95年10月13日に発売されたトキメキメモリアルね、
Forever with youですね。これ僕も発売日に買いましたよ。
このPCエンジン版がね、そもそも有名だったのと、周りもね、そういう、
僕専門学校に行ってた時にあからさまにやっぱり女の子のキャラが活躍するアニメとかね、
ゲームが好きそうなちょっとね、そういう子たちもいれば、
どっちかというと僕はそういうグループとは違う、ちょっと後派な方に入ってたんで、
ですけどそういう後派な方の帰りにアーケード、アーケードというかゲームセンターでバーチャーとかね、やるような連中たちと一緒につるんでたんですけど、
それでもこれ言ってましたからね、トキメモは買うみたいなことを言ってるやつが何人もいたんで、
24:05
そんなになのかみたいな感じで、じゃあ僕も買ったんですけれども、
まあね、これね、トキメモがね、僕ちょっとね、
まあなんか当時ね、これファンの方にはもう本当に失礼なんですけども、
なんかちょっとね、今だったらすごいやって、もう一回再度やりたいなと思うんですけど、
当時はね、やっぱり僕が尖ってたところもあってですね、
自分で告れねえのかよみたいな感じでね、なんかその相手から告られるのをね、待ってるとかね、
寝回しとかなんかやるのがなんかどうにも肌に合わなくてですね、
結構早い段階で音を上げて、そうですね、でこの頃になるとね、
僕ね、当時一人暮らししてたところからカミさんとね、リエネイサンと同棲するようになったんでしょうね、
確かこの1、2ヶ月くらい前から、でもう俺やんねえからやる?君みたいな感じで、
カミさんにさせたら結構ね、リエネイサンこれだいぶハマってやってましたね、
なんか面白いって言っててね、まあだから僕のね、
なんて言うんですかね、ゲームに対する見聞の狭さというか、
それ今にして思うとね、すごいそういうのがあったかなと思って、
で彼女の方がやっぱりそういう意味では、このジャンルっていうそのいわゆる、
なんて言うんですかね、僕と違って自分の好きなジャンルっていうのはまだ決まってないというか、
まあこだわりがなかったんでしょうね、それが良かったのかなと思って、
確かね彼女はその後もいわゆるギャル芸と呼ばれるもんだったりとか、
いくつかずっと手出してましたね、確かねサターンで出てきたエロ芸って言うんですかね、
野々村病院とかも彼女買ってますし、
まあね時メモで言うと、ガールズサイドとかそんなもん全部やってるのかな、
全部って言うと語弊があるか、この前出た最新作は絵が気に入らないからって言ってやってなかったりするみたいなんですけれども、
まあそんなこんなでね、いろいろとゲームね、一本一本思い出のあるやつを喋ってしまうのもどうかなとは思うんですけれども、
やっぱりね、まあこの後もね、全部見ていってもいいんでしょうけどもソフトをね、
まあでもまあちょっとね、95年ちょこっと見ただけで総括するのもどうかと思うんですけれども、
まあやっぱりプレイステーションのソフトっていうのを今にしてね、思い返すと、
27:00
全体的にソフト単体でね、今後僕が喋れる機会があれば喋っていきたいなと思うんですけれども、
やっぱり最終的にどういうイメージだったかプレイステ1に対してはって思うと、
僕のゲームライフの中では、ナムコとスクウェア、後にねスクウェア参入してきますけど、
このイメージが強かったりとか、あとはそうですね、やっぱフロムソフトウェアは僕はアーマードコアで知ってですね、
まあもちろんその前にもね、キングスフィールドちょっとやらせてもらったんですけれども、
ちょっとね、当時はちょっと肌に合わないというか難しすぎるなと思ってね、やらなかったんですけど、
まあでもそのサターンに比べると、ジャンルのバリエーションが僕にとっても広かったかなと思うのがプレイステーションだったりもしますし、
あとはやっぱりそのスクウェアがね、そのデジキューブっていうね、販売手法、販売チャンネルを作ったっていうことで、
画前ね、だいぶ様々なジャンルにも手を出してたっていうのもあってですね、
スクウェアの作品とか、あとはやっぱりそしてナムコのね、アーケードからの移植、
でもそのままの移植じゃないんですよ、家庭用に調整しましたっていうので、
アーケードである程度やった後、家庭用買うとね、そのまんまのアーケード、そのまんまベタ移植したっていう以上の楽しみをやってくれたっていうことで、
本当にナムコはね、こんな言い方失礼なのかな、
でも僕にとってのナムコって、やっぱりファミコンの時代のナムコってすごいかっこよかったし輝いてたんですけれども、
ちょっとスーパーファミコンぐらいになるとちょっとね、輝きが一瞬失われた時期があったんですけども、
このプレイステーションでね、再度ね、いわゆるナムコの黄金期みたいなのがね、体感できた時期で、
非常にそれは楽しませてもらえてたかなと思ってるんですね。
ナムコのプレイステーションのタイトルっていうのは、そうですね、僕で言うとリッチ、リッチレボリューション、レイジレーサー、R4、どれも大好きですしね、
まあ前、レイジレーサーがすごい今でも好きなんだっていう話もしたと思いますし、
で鉄拳も鉄拳、鉄拳2、鉄拳3とやっていきましたし、あと結構後にね、シリーズの名前が変わっちゃうんですけれども、
プレイステーションではソウルエッジっていうタイトルが出ててね、後にソウルキャリバーになっちゃうんですけどもね、
僕はこのソウルエッジがすごい好きで、ちょっとね雑なところもあるとは思うんですけれども、
30:01
エンディングでね、特定の操作だったり、ちょっと分岐するんですよね。
これは格闘技ゲームとしてはなかった作品だなぁと思って、そこもね、込みで随分と楽しましてもらった格闘技ゲームっていうのかな、だったと思いますね。
他にね、トバルだったりとか武士道ブレードだったりとか、スクエアもスクエアでやってくれてたし、
あとカプコンはね、ストリートファイターEXね、僕結構これもね、好きでね。
これサターンでは出てなかったんですね、やっぱり。
で、これも結構だから、その後もね、たまにやってたんですよね、プレイステ2が出てからでもプレイステ2でもちょっとやるっていう、
手触りがね非常に良くてですね、長らくやってたゲームだったりしましたね。
そんな感じかな、プレイステのソフトに関しては、いろいろとね。
ファイナルファンタジーとかドラクエとかね、他にも、あとファイナルファンタジータクティクスとか、
結構いろいろなゲームについて喋ればそれなりに時間は取れるんですけど、ちょっと喋りすぎるとなぁと思うんでね。
ここらでね、そういう思い出とかはね、ソフトの思い出はここらで一旦やめようかと思います。
ではですね、ここでプレイステーションの開発の経緯的なことを話していこうかなと思うんですけど、
まぁでもどうなんでしょうね。僕が調べた感じっていうのも、結局他のところとかでもよく聞かれる話だったりはしますし、
どうでしょう、結構ざっくり端折ってる感じもするんで、
まぁまぁまぁ良かったら聞いてくださいぐらいのレベルの話になっちゃうんですけどもね。
そもそもはNintendoのスーパーファミコンCD-ROMアダプターとして開発がスタートしたというのは、
まぁ昨今ではもう有名な話なんじゃないでしょうかね。
先導役はですね、くたらぎけんさん。
実はこのプレイステーションね、ニンテンドーとソニーが一度は手を組んで、
スーファミ用の拡張機器として開発がスタートするわけですが、
そもそもソニーとニンテンドーの付き合いというのは、これよりも以前からあり、
スーパーファミコンに搭載されているPCM音源のチップっていうのがあるんですけども、
それを提供していたのがソニーだったんですね。
その仕掛け人こそがこのくたらぎけんさんだったんですよね。
このくたらぎけんさん、ざっくり説明するとですね、
ソニーの中では早い段階からデジタル技術やデジタルな分野が将来当たり前になると、
ソニーでね、議論を展開していたんですが、
1975年入社の方なんですね。
33:01
そこから80年代と、
ソニーはテレビ開発ではトリニトロンというブラウン管技術でヒットを飛ばし、
ウォークマンなどのカセットテープ、
あとビデオの企画で言うとベータなど、
アナログが前世の時代だった時にデジタルを標榜していたということもあってですね、
社内政治と敵というんですかね。
社内ではね、実は煙たがられていたというかね、
当時まだ理解されにくい分野だったというのがデジタルだったんですよね。
そういうこともあって、随分とご苦労された時期もあったみたいなんですよね。
そんなくたらぎさんがですね、
任天堂にスーファミの音源チップ事業でね、
供給で成功を収めるんですよね。
次なる作として任天堂に提案し了承され、
開発がスタートしたのがスーファミに接続して使用するCD-ROMドライブだったんですよね。
その名もプレイステーション。
しかしね、皆さんもご存知の通り、
これが世に出ることはなかったわけですが、
その経緯は結構長いんですが、
かなりね、ざっくりな説明で言うとですね、
このスーファミ用CD-ROMドライブであるプレイステーションを
任天堂は一旦は開発を許可したし、
契約書も締結したんですよね。
その際、両社の契約書にサインをしたのは、
任天堂は山内博社長、
そしてソニーは当時のソニー社長である大賀範雄さんだったんですよね。
しかしね、後々この時の契約書が発端となって、
この契約というかね、
ソニーがスーファミ用のCD-ROMドライブを開発するという計画はなくなるんですよね。
この時、締結された契約書を見たある人物がね、
山内社長にマッタをかけたんですよね。
この契約書に書かれていた内容というのがですね、
CD-ROMソフトのロイヤリティはソニー側に入るというものだったんですね。
なおね、SFC、スーパーファミコンはロムカセット方式だったこともあり、
それまでのロムカセットはどのメーカーに限らずですね、
販売価格から一定のロイヤリティを任天堂に収めていたんですね。
さらに今、スーパーファミコンでは製造も一定に任天堂がやっていたのでですね、
任天堂としては自社のソフトやハードの売り上げに加えて、
このサードパーティーからの製造コストとロイヤリティという副収入もね、
任天堂の売り上げを支える大きな財源であったわけですが、
CD-ROMドライブ専用ソフトでは、おそらくソフトの生産もソニーで行い、
ロイヤリティもソニーが得るということになる契約書だったと思うんですよね。
なんでね、こんな大事な情報をね、任天堂サイドもチェックしたり、
ソニーと接班するなどのね、ロイヤリティは接班するなどの話し合いをしなかったのかというとですね、
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実は当時、任天堂社内ではですね、CD-ROM自体にですね、
消極的というか懐疑的だったみたいなんですよね。
そんなに売れないし普及しないと考えていたみたいなんですよね。
くたらぎさんも何度か交渉の末にやっと任天堂から了承を得ていたみたいで、
そもそも任天堂としてはちょっと積極的じゃなかったというかね、
そんなに言うのならみたいなぐらいのレベルだったみたいですね。
まあね、今となってはちょっと信じられない話かもしれませんけどもね、
実はこのくたらぎけいさんがね、任天堂に提案して任天堂が了承したというのもね、
89年頃なんですね、1989年頃なんですよ。
そして開発がスタートしたというのもね、この同じ89年の10月ということでですね、
翌1990年1月1日にはですね、
ソニーの大賀之両社長と任天堂の山内博社長との間で、
両社の締結を確認する合意文書が作られたということになっているんですが、
ちょっとね、視点を外に向けてみるとですね、
1988年、この任天堂とソニーが開発の契約を締結したこの90年1月1日から
遡ること2年前ですね。
この1988年に家庭用のコンシューマーゲーム機、
初のね、CD-ROMドライブとなるPCエンジンのCD-ROM-ROMが発売されるんですね。
でですね、この先ほど言ったね、ソニーと任天堂の契約の1年後ですね、
実際にはですね、約2年近く後なんですけども、
91年の12月にですね、メガドライブ用のCD-ROMドライブ、メガCDが発売されるんですね。
つまりはですね、この任天堂の山内社長とね、
ソニーの大賀範雄社長が契約した頃っていうのが、
正直PCエンジンのCD-ROMぐらいしかデータがない時代だったんですよね、
ゲーム機としてはですね。
というところで、次CD-ROMドライブ、メディアが来るって言われてもですね、
やっぱりなかなかまだまだロムカセットでいけると感じてたっていうのもね、
任天堂側はそういうふうにちょっと思ってたところもあったんだろうなぁと思うんですよね。
現にこの合意された文章が出た頃っていうのはね、
スーパーファミコンのライバルにあたるもう一つ、
メガドライブはまだまだロムカートリッジで全然やってたわけですし、
つまりはですね、やっぱりこの締結した頃っていうのは1990年っていうのはですね、
まだまだCD-ROMメディアが主流どころか、
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ゲームのメディアとしていけるかどうかっていうのも非常に分かりづらい時期だったわけですよね。
任天堂の読みが甘かったというところも理解できるかなといったところはあるんですけれども、
ただ当時ね、僕も普通にね、
PCエンジンのCD-ROMというのはね、
この1988年に出た当初にすぐには飛びつかなかったですし、
飛びつけませんでした。
確かね、5万9800円ぐらいしたと思うんですよ。
CD-ROMドライブ、PCエンジンのこのCD-ROMっていう拡張機器だけですよ。
本体は2万4800円するんですよ。
つまりは、この当時PCエンジンでCD-ROMをやろうと思うと、
2万約5千円の本体に加えて6万円の周辺機器をつけるっていうね、
約8万5千円かかるわけですよね。
ということもあってですね、
このPCエンジンのCD-ROMっていうのが、
現実的なハードではなかったっていうのは、
たぶんね、任天堂側だったりとか、
もちろんね、セガにしたってそれは思ってたと思うんですよね。
現にこの3年後に出てるメガCDですら、
確か4万9800円とか4万4800円とか、
それぐらいの価格だったんですよね。
周辺機器としてですよ、出た時でも。
ということで、やっぱりね、
ファミコンの本体に加えてファミコンのディスクシステムっていうのが、
もうほぼ同じような値段だったんですよね。
1万5千円だったと思うんですよね、ディスクシステムは。
ファミコンは1万4800円でしたけども、
それに加えてもやっぱりちょっと高いハードっていうことはですね、
基本的に当時のスーパーファミコンにしても、
やっぱりまだまだ子供向けというところは外せなかったと思うんですよね。
要はターゲットがね。
にしてはちょっと高額なハードということもあるし、
1990年代初頭でそれだけのハードをね、値段をするハードをみんなが買うかっていうと、
ちょっとそれは任天堂も懐疑的になるかなとはね、
ちょっと思っちゃうんですよね。
ちょっと別に任天堂の肩を持つわけでもないんですけども、
ただやっぱり市場というか、狙ってるマーケットが当時任天堂っていうのは、
やっぱりどうしてもファミコンなんて言葉があるようにね、
やっぱりどうしても10代というか10代にも満たない子供から10代前半の子供に絞ったようなマーケットというか、
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ターゲットだったというところもあってね、なかなか難しかったと思うんですよね。
それは懐疑的にもなるし、売れないだろうなと思いながら、
ソニーさんが言うなら、みたいな感じで多分ね、サインしちゃったと思うんですよね。
ただね、そんな中、この一度は合意したソニーとの計画にね、
マッタをかけてですね、任天堂の山内社長に進言した人物がいたんですよね。
ちょっと気になりませんか。
ある意味ね、この人物が後のゲーム業界の歴史を動かしたとも言えますよね。
少なくともこの時のソニーと任天堂の契約、CD-ROMドライブ発売にこの人がマッタをかけたことで、
ソニーはね、後に独自でプレイステーションというハードを出すわけで、
日本国内、そしてシテはね、全世界のゲーム産業に歴史的な変化点を作った人物とも言えると思うんですよね。
この山内社長に進言した人物っていうのはですね、
荒川実さんという方でですね、実は山内博社長の娘婿でもあるんですよね。
ここまで聞くと、なんだよ、あの任天堂の社長も結局身内には弱いのかよ、なんて思われそうなんですけれども、
組長の相性でもおなじみの山内社長は、実は何よりも身内同士の慣れ合いでビジネスが成功するなんて思わない人物で、
かつて自身が任天堂の社長に就任した際には、片っ端から任天堂社内にいた他の身内をクビにしていったという話があるほどですから、
まあ娘婿だからということでね、この荒川さんの意見を聞き入れたわけではないんですよね。
この荒川さん、そもそも実は別の商社にいた時にですね、ご結婚されてですね、
その後山内社長の誘いでですね、任天堂のアメリカ法人ですね、
それを設立してですね、初代社長として1980年から2002年までの約22年間、社長として在籍していたんですよね。
ついでに話すというのもね、この荒川実さんという方はね、あまりにすごい方だったりするんですけども、
ついでで話していいもんかどうかぐらいの方なんですよ、実は。
あまりね、日本ではどうなんでしょうね、知られてないかもしれないんですけれども、
例えば山内博社長であったりとか宮本茂さんだったりとかっていうね、
任天堂の社長さんだったりクリエイターさんだったりっていうのは意外と脚光を浴びやすいんですけど、
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この荒川実さんっていうのもなかなかの方で、実は世界的に見るとですね、
この方がいたから今のアメリカとか世界のゲーム市場が形成されたのかもしれないっていうぐらいの方なんですけれども、
ちょっとその方の話をするとですね、この荒川さん実はアメリカでね、
その一から任天堂オブアメリカを立ち上げた方で、当初は秘書も雇えずですね、
山内社長の娘である奥さんを秘書に、そして総勢6人でね、その任天堂オブアメリカっていうのをスタートしたんですよね。
ちなみにどうやらその6人のうち、自分と奥さんを含めての6人ですよ。
で、中にはね、任天堂のゲームの基盤をね、
転売していたトラックの運転手みたいなおっちゃん2人もね、この6人の中に含まれているっていうから、結構だいぶすごい小規模からスタートしたんですよね。
でですね、この6人からスタートした任天堂オブアメリカではあるんですけれども、
ドンキーコングのアーケード版をね、全米でヒットさせるんですよね。
さらにはですね、85年にはですね、すでに数年前に起きた当たりショックによって崩壊したアメリカのコンピューターゲームビジネスをね、再建した方でもあるんですよね。
ちなみにちょっとね、前に戻って話すとですね、
ドンキーコングのファミコン版とかが有名なのかもしれないんですけど、
アメリカではですね、アーケード版のドンキーコングっていうのは日本のアーケード版のドンキーコング以上に売れましてですね、
簡単に言うとですね、アーケードゲームっていうのは日本だとゲームセンターとかなんですけども、
あっちはね、ゲームセンターっていう文化がまだ根付く前だったんで、
例えば飲食店の軒先だったりとか、歯医者の待合室に置かれたりとかね、
いろんなところに、いろんなロケーションに置かれるようになってですね、
このドンキーコング、ファミコンが出る以前の話ですよ。
ドンキーコングはね、子供たちが見るアニメ番組にまでね、なるほどの人気っぷりだったんですよね。
ドンキーコンググッズっていうのがね、キャラクターグッズも結構出てたみたいで、
アメリカではそれなりにね、80年代のね、初期のね、象徴としていまだに言われる作品なんですよね。
そのドンキーコングのね、一大ヒットにひどく勝ったのがこの荒川実さんでですね、
その後にですね、85年に任天堂のファミリーコンピューターをね、アメリカでも売るんですよね。
任天堂エンターテインメントシステムですね。NESっていうやつですよね。
これに関してもですね、その数年前にですね、アタリっていう別のテレビゲームがね、
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アタリショックっていうね、いわゆる蘇生乱造のソフトがバンバン出てきてしまったがためにですね、
市場はね、アタリっていうヒットゲーム機になったんですけれども、
そのソフトがどれもこれもクソゲーだっていうことでですね、
最終的にはもう、ユーザーですね、お客さんがそっぽ向いちゃったんですよね。
で、在庫はどんどん増えていく店であったりとかね、そういうこともあってですね、
アタリショックと呼ばれるゲーム機市場、ゲームソフト市場がね、
コンシューマー用、家庭用ゲーム機市場っていうのが崩壊しちゃったんですよね。
で、言ってしまえば、いわゆるアメリカでは家庭用ゲーム機、テレビゲーム、ビデオゲームっていうのは、
アタリショックっていうのが起きちゃってるっていうことで、
そんなのはもう過去の話だと、古い話だと言って、
バカにされてたにもかかわらず、この方はね、丁寧に丁寧に販売店を口説き落としてですね、
もう売れなかったら返品していいよと、全額うちが持つからぐらいのね、
要はファミコンに対してすごい自信を持ってね、セールスをかけていったんですね、販売店に対して。
で、まあもちろんね、売れなかったら返品していいよって言って、
売れなかったわけではなくて、アメリカでも一大センセーションを起こすわけですよね、
このNESね、ニンテンドーエンターテイメントシステムっていうのはね。
つまりはですね、アメリカではね、全米ではね、
簡単に言うと、ゲーム産業をね、
一からどころか当時マイナスイメージだったところから作り上げた、
全米ゲーム産業の功労者でもあるんですよね。
それだけの実績を持ってる人がですね、アメリカでのね、
当時PC業界ではですね、CD-ROMメディアがね、やっとあのパソコンの新たなメディアとしてね、
躍進し始めてきてたわけですよね。
これがね、このまま家庭用ゲーム機の新たなメディアになるっていうのは時間の問題だと思ったっていうこともあって、
そのことをですね、山内社長にね、提言したんですよね。
そうするとソニーとの契約っていうのが、
ニンテンドーにとっては非常に不利になるということも山内社長に提言したっていうことでですね、
それが元でニンテンドーとソニーのこのプレイステーションね、
いわゆるCD-ROM、外付けCD-ROMドライブのね、契約っていうのは結局のところ白紙に戻っちゃったんですよね。
ちなみに面と向かってニンテンドーの社長とかニンテンドー側はソニーに対してね、
もうこの契約は破棄だって言わなかったんですけれども、
そこにはフィリップスっていう別の会社もね、関わってくるっていうかね、
関わってくるというよりは巻き込まれたぐらいの勢いなんですけどもね。
まあその辺はね、詳しくはちょっと今回は話さないんですけどもね。
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まあね、なんかプレイステーションの話なのに気がつくとニンテンドー側の話になってるんで、
ちょっと目線をね、ソニーサイドに戻しましょうか。
まあそういうこともあってですね、ニンテンドーは開発、共同開発を一旦破棄してしまうということで、
まあそれでね、すんなり引き下がらなかったのがソニー側というか、
まあこのね、くたらぎけんさんですよね。
もうソニー側としてはですね、このゲームプロジェクトはね、
どっちかというとね、閉じようとすら考えていたみたいなんですけれども、
1992年6月24日、だからこの合意文書がなされてからですね、
2年、約2年半ぐらいですかね、経ってですね、
まあ召集されたね、ソニーで召集された経営会議でね、
多くの役員がね、もう結局このソニーとニンテンドーね、
まあニンテンドーのああいう仕打ちというか、あの策でね、
もう結局無駄になったからもうこのままゲーム機事業っていうのは、
もうやめたほうがいいんじゃないか。
まあゲーム機事業というよりは、当時はゲーム事業っていうふうに言われてたんですよね。
いわゆるスーパーファミコンの音源用チップの供給に始まって、
その先のCD-ROMドライブ開発っていうのがね、
まあトンザしかかってたもんで、
まあこれではダメだということでですね、
多くの役員がもう撤退したほうがいいんじゃないかっていうのをね、
言おうとしてたんですよね、経営会議で。
その会議にはですね、
ソニーのね、社長である大賀典夫さん以外にもですね、
経営説明のためにですね、会議に参加した古田ラギさんもね、
参加してたんですけれども、
言うんですよね、皆さんに。
特に社長に向かってね。
我々は本当にこのまま引き下がっていいんですかと。
ソニーは一生笑い者ですよってね、食ってかかってね。
当時すでに実はですね、この古田ラギさんは水面下でですね、
スタンドアローナ、まあいわゆる外付け、
スーパーミの外付け拡張ハードではなくて、
単体で動くゲーム機、
つまり、自分たちがプラットフォームホルダーになろうということで、
実は試作のプレイステーション開発を水面下でやってたみたいなんですよね。
でまあここで社長や他の役員たちに葉っぱをかけるわけですよ。
このままですと笑い者ですよと。
なんで笑い者なのかというと、
この任天堂のやりとり以外にもですね、
実はソニーというのはですね、
過去にMSXと呼ばれるね、
これMSX自体はソニーの企画でもなんでもないんですけども、
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いわゆるホビーパソコンと呼ばれるね、
ここに参入してた時期があるんですけども、
まあそれもね実は途中で撤退してるということで、
このまま撤退しちゃうとですね、
結局ソニーはまたも撤退したみたいな感じでっていうことも、
まあこのね二重の意味で多分言ったんじゃないのかなと思うんですね。
まあだからそれで一生笑い者ですよと、
食ってかかったみたいなんですよね。
まあ最終的にはですね、
まあ大賀社長がですね、
まあそんなに言うならやってみろよと叫んでね、
まあDo Itってね、
声を張り上げて机を叩いたらしいんですよね。
まあこれがね、ソニーの歴史にね、
今もなお残ってるらしいんですけど、
Do It会議っていう名前でね、
まあ言われてるらしいですけどもね。
まあこれがですね、
あのプレイステーションがね、
単独のゲームハードとして開発にね、
切り替わるというね、
まあ歴史だったりするんですよね。
まあちなみにこの後もですね、
このプレイステーションの開発に関してはですね、
まあコントローラーであったりいろいろな部分で、
やっぱり苦労もあったみたいなんですけれども、
まあこの辺はね、あんまり多くは語らなくてもいいかなと思うんですけれども、
まあね、そしてこれ発売されて大ヒットするわけですよけどもね、
結構ざっくり、今ざっくり言いましたね、
だいぶ大事なところをね。
ただね、これだけは言っとこうかなと思うのはですね、
このくたらぎさんはね、
最初の、最初というかだいぶ前にも説明というかお話ししたんですけれども、
アナログ時代にデジタルを標榜してたわけですけれども、
まあやっぱりそういう意味で先見の目があった方だったんで、
結局ね何を言いたいかというと、
このプレイステーションの開発においても、
開発当初からいわゆる価格争いとか、
まあいわゆる販売価格どっちが安いかっていうので、
ライバル期を蹴落とそうということでですね、
大量生産によってですね、時代というか時間が進むと、
まあ基板であったりとかCPUとか半導体のね、
合理化がされるだろうと、
そこによってコストがだいぶ軽くなってきた時に、
まあ価格で他をね圧倒できるっていうのを、
当初から多分設計思想の中に入っていたみたいなんですよね。
まあその辺はね、やっぱりこのくたらぎさんの先見の目があって、
事実これがね、後々セガを苦しめるわけだったりするわけでね、
セガサターンをね。
まあこの辺はやっぱりこのくたらぎさんというのはすごいなと思います。
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ちなみにここで実績を挙げたこのくたらぎけんさんはですね、
まあこのソニーコンピューターエンターテインメントのね、
社長にまでなってですね、
後にですね、ソニー本体の副社長にまで確かなったと思うんですよね。
ただですね、この頃になるとですね、
副社長になったのはいいんですけど、
まあいろいろとあってですね、
その後まあ、隕石辞任というとちょっと言葉悪いですけど、
まあちょっとね、責任を取って結局、
そのポストも数年で開け渡すことになっちゃうんですけどね、
まあまあそこはいいですかね。
あとちょっとね、喋っておきたいかなと思うので言うと、
まあちょっとそうですね、流通関係かな。
ソニーがプレイステーションで書いたものというと、
まあそれまでのね、2Dグラフィックから、
3Dグラフィックメインのゲーム系と変貌させたということ以外にもですね、
メディアをロムカートレッジ方式からCD-ROMへと変えたということが挙げられますよね。
しかもすでに発売されていたPCエンジンやメガドライブと違い、
まあプレイステーションはCD-ROM一択であったりするわけですよ。
そしてね、もう一つそこで変えたと言えるのがですね、流通方式ですね。
それまでのゲームソフトの流通というのはですね、
小売店とメーカーの間に問屋が少なくとも2つ以上存在していたんですよね。
それをソニーはですね、
ソニーと小売店との直接発注のやり取りをする方式で小売店に下ろすようにしたんですよ。
これによってね、単純に中間マージンがカットされるということで、
ユーザーにとってはハードとソフトの価格の面で恩恵がありますよね。
逆にね、それならなぜそれまでの任天堂やセガはこの方式を取らなかったのかということにもなりますが、
まずね、順を追って説明すると、
ファミコンが登場した1983年当時というのはですね、
ゲームの流通もおもちゃの流通もね、まだまだとても未成熟な状況だったんですよね。
今のようにね、大量の仕入れを行える単一の販売チェーンもそんなに多くなかったと思うんですね。
多くなかったというよりは、いわゆる代営とかですね、百貨店系っていうんですかね、
ああいう大手だけだったと思うんですよね。
だから本当にファミコン当初ぐらいだとですね、
まだまだ夫婦でやっているおもちゃが多かった時代って言えるかと思うんですよね。
その後ね、日本全国にはファミコン、スーパーファミコンをね、取り扱う販売店がね、
まあ少なくとも2万5千点以上に膨れ上がったと言われているんですよね。
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簡単に言うとですね、
任天堂が製造するハードやソフトというのはですね、
ケース単位で、まあわかりやすく言えばね、かなりの大量生産ですよね。
ですが各販売店にしてみたらですね、
任天堂が最低でも下ろしてあげていいというソフトの最低発注数っていうのは、
多分数千から数万本レベル。
まあこれをね、いわゆるね、
一個人のね、それくらい夫婦でやっているようなね、
おもちゃで捌けるわけないじゃないですか。
もっと言うと、やっぱり街の小さなおもちゃ屋さんとかで取り扱われていることが
まだまだ多かったと思うんですよね、ファミコンとかですと。
まあそれを可能にしたのがですね、
いわゆるトン屋と呼ばれるシステムなんですよね。
まあ例えて話をするとですね、
任天堂はですね、初心会というね、
複数のトン屋から構成された団体にしか商品を下ろさないんですよね。
まあそこにはね、その初心会に所属するトン屋ではですね、
トン屋ごとにですね、大きな数の本数を下ろすんですよ。
仮にね、任天堂が100万本そのソフトをね、製作したとして、
この初心会のトン屋が5社あったとしましょうかね。
そうすると均等に割り振りすると、各トン屋20万本ずつですよね。
これがいわゆる一時どん屋ということになります。
で、ここからですね、もう少し細かく刻んでいくわけですよね。
例えば初心会のトン屋Aとしましょうか。
Aというトン屋のね、参加にね、A-1というトン屋があったとしましょうか。
まあそこはね、20万本仕入れたAというトン屋のね、参加にある別のトン屋だとしましょう。
これは1万本なら捌けると。
20万本から1万本ぐらいだったらうちは行けますよというわけですよ。
で、同じそのAというところのね、別のグループだ、グループというかトン屋さんだったりすると、
うちだったら5,000本はいけますよ、みたいな感じで枝分かれしていくわけですよね。
まあこの段階がね、いわゆる二次どん屋ですね。
この1万本だったり5,000本だったりをね、発注する別のトン屋というのがですね、
まあこのね、二次どん屋にはね、二次どん屋2話というか、二次どん屋というのがですね、
とある地域で1,000店舗ぐらいの販売店をカバーする、まあトン屋だったりすると、
まあだんだんね、細かく出荷できるようになりますよね。
実際にはさらに販売力のある店舗というよりは、
まあどんなに頑張っても3本から5本ぐらいしか販売できないね、店舗というのも当時はあったんで、
そういうところに対応したね、少量の出荷にもこの二次どん屋が対応したり、
またそういうことをする三次どん屋もいたと思うんですよね。
こうなってくるとですね、まずソフト開発メーカーからニンテンドー、
そこから各トン屋を通してね、販売店、そしてユーザーの手元に届くまでに、
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まあ結構ありますよね。
そして消費者の手に届くまでに、各場所場所でマージンが発生するわけですから、
価格が上がるっていうのもね、まあ頷けるというものですよね。
そしてこの販売方法はいくつかの問題点もあるんですよね、実は。
まずね、メーカー側やソフトを生産したニンテンドーですら、実際問題、
消費者のもとに作ったソフトの何パーセントが届いているかというのがね、
把握しづらいということなんですよね。
さらにね、出荷したソフトがどれだけ小売店で売れたのかが掴みにくいということはですね、
増産とか再生産するかどうかの判断が遅くなるんですよね。
さらにプレステ以前はですね、メインのメディアがですね、ロムカートリッジということで半導体をね、
生産者、つまりファミコンやスーファミならニンテンドーがね、
半導体の調達にですね、適正な市場価格のタイミングで購入していたとなると、
再生産に時間を要することになってしまうんですよね。
実際スーファミの頃にはですね、再生産に3ヶ月程度かかると言われてたみたいですね。
こうなってくるとですね、小売店とかトン屋もですね、
発注に関してはかなりシビアに考えないと、
気がついたら売れないと思っていたタイトルが人気で、自分の店には在庫がなくて、
他にお客さんを取られるとかですね、
逆に売れると思って大量に発注したソフトが全く売れずに価格を下げてね、
処分せざるを得ないというね、極めて陶器的なビジネス構造とも言えるんですよね、
このゲームの販売というのは。
このね、陶器的なゲームの仕入れを改善したっていうのが、
ソニーの販売方式だったんですよね。
まず生産に関してはですね、
親会社であるソニーミュージックのCD生産工場を使用することで、
生産時間の短縮を可能にします。
実際問題はですね、
僕が聞いたすごい、これ噂でいいかな、
マスターロームという完成したロームを入れたら、
発売日の1週間前だったみたいなね、
要は発売1週間前に入れてもそこからね、
再生産というか生産して、
1週間後にはユーザーの手元に届くというね、
それぐらい結構タイトなスケジューリングでも行けたっていう話は何度か聞いたことがあるんですよね。
CDの生産というよりは、
実はCD自体は中3日とかで作れるとかね、
実際ソニーは公式ではね、
中3日から長くても1週間以内に再生産もできますよということで、
非常に短い期間で製造できるようにしたんですよね。
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さらにはですね、ここからはソニーは物流に関しては問屋を一切通さない、
販売店との直接取引を行えるようにしたんですね。
この部分も実はですね、
ソニーミュージック仕込みのね、
親会社のソニーミュージック仕込みのノウハウが生かされているんですよね。
さらに全国の各店舗から受け入れた注文を配送するための物流手段もですね、
ソニーは自前ですでに音楽CDの物流を持っていて、
それを活用するということでね、
実はゲーム業界にはですね、
当時新規参入ではあったものをですね、
すでに構築していた多部門での物流システムをそっくりそのまま転用できたからこそ、
ビジネスとしては成功できたんだと思うんですよね。
実際ね、すでに生産してパッケージングした商品を配送するまでのシステムができているということは、
ソニーサイドがプレイステーション事業で新たに開拓しなくちゃならなかったということは何かというと、
販売店を探すというところだけだったと思うんですよね。
もちろん物流に関する細々としたことはですね、
音楽CDとは変わってくることはあったとしてもですね、
一からそれらを作っていたということを考えると、だいぶ負担も小さかったんじゃないのかなと思うんですよね。
あとはですね、それまで音楽CDを取り扱っていた、
注文を受け付ける部署というのが多分あったと思うんですけども、
これがですね、新たに事業拡大としてね、
プレイステの取扱店舗、当初は確か5000店舗からのスタートだったみたいなんですけれども、
これらのやり取りをするために増員増強とかしていたんでしょうかね。
その辺が多分大変だったかなと思うんですよね。
まあね、僕がここでソニーミュージックの物流システムがあった頃こそ容易にできたみたいなことを言ってしまっているんですけれども、
多分実際はいろいろと大変だったところもあると思うんですが、
それでもね、1店舗がメーカーと直接やり取りしてね、
自分たちの希望する数を仕入れさせてもらえるという物流システムは、
ゲームとかですね、玩具業界にとってはね、画期的だったと思うんですよね。
ちょっとね、話が横道に反れちゃうんですけれども、
僕自身がね、現在大手コンビニチェーンの物流の末端にいるわけなんですけれども、
物流をあまり知らない方でもね、物流センターなんて言葉を聞いたことはないですかね。
これはね、それぞれどこまでやっているかっていうのはね、各ジャンルとか分野によってバラバラなんですけれども、
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例えばコンビニ、僕がね、見おいているコンビニとかだと、
そうしてね、全国に大手ブランド、大手のコンビニチェーンだったらですね、
全国に100前後の配送拠点があると思われるんですね。
そこで何をしているかっていうとですね、
僕の配送するジャンルで言えばね、
例えばとあるおにぎりをね、ある店では10個、でも別の店はそんなに売れないから5個発注されていると。
それらをね、工場から大量に届いたおにぎりをね、
店舗の発注数に合わせて仕分けて出荷できる状態にするんですよね。
仕分けられたものを僕ら配送ドライバーが指定された店舗に届けるというのが物流センターの仕組みなんですよね。
これがね、だからアイテム数っていう、うちらでは言うんですけど、
商品の数ですよね、ジャンルだったりとかね。
これも結構な数あるんで、その捌く人間っていうんですかね、
まあ機械でもいいんですけど、これが結構大変だとは思うんですよね。
で、これは別にコンビニだけじゃなくて、
例えば大手の販売チェーンっていうんですかね、
例えば最近だと、いわゆるドラッグストアだったりとか、
ドンキホーテみたいなね、ああいうディスカウントチェーン、
全国にあるとか、チェーン展開、多店舗展開してるところだったら、
例えばイオンだったりとかだったら、こういうのがあると思うんですね。
で、そういう物流センターには工場から直接物が入ってきてるはずなんですよね、
その製造元っていうんですかね。
そこで物流センターにバンバンバンバン掘り込んで、
そこから各店舗はね、
例えば1箱に50個入っている商品だから、
普通だったらね、個人経営の店だったらそれ50個1ケースだったら、
その1ケース対、絶対50個捌かなくちゃいけないんですけれども、
いや、うちはもう頑張って10個しか捌けないから、
10個だけくださいっていうのに対応できるっていうのが、
この物流センターだったりするんですよね。
でもね、これ結構ね、多分その、
間に入ってね、いわゆる僕らだとピッキングとか言ってるのかな、
そういう作業をする人間がいたりとね、
これね、意外とね、
仕分け作業っていうのがね、
人海戦術だったりとかですね、
機械化されていたりというのはね、
各分野によって様々だったと思うんですけども、
メーカーと小売が直接やり取りするというのはですね、
間の工程がだいぶなくなっているということでね、
コストカットにはつながるんですけれどもね、
出荷元はかなり大変だっていうことが言いたかったんですよね。
ソニーの場合もね、音楽CDで実績があったとはいえ、
物流にとってはね、大幅な事業拡大だったような気がするんですよね。
だからこそね、今となって改めて考えてみるとですね、
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このプレイステーションの行った物流改革ってよく言われるんですけども、
当時ね、ソニーからしても本当に負けられないし、
排水の陣で挑んでいたんだなぁってね、
ちょっと今回いろいろと考えていてね、気づかされましたね。
あとですね、僕がですね、プレイステーションのヒットの要因に
挙げてもいいかなと思うことの一つにですね、
やっぱり広告戦略っていうんですかね、
プレイステーションの広告展開もね、非常に上手かったんですよね。
プレイステージンエリアが他のね、
ハード、サターンにしても64にしてもそうなんですけども、
抜きに出た要因の一つにね、
この広告展開の巧みさっていうのがね、
あったと僕はね、挙げたいと思うんですよね。
今回ね、いろいろとちょっと調べる中でですね、
当時プレイステーションの広告展開に関わっていた方のブログを見つけて
読んでみるとね、なるほどなぁというのがいくつもわかったので、
まあ、しゃべっていこうと思うんですけれども、
まずね、当時SCEのね、宣伝部自体のプラットフォームホルダーとしての役割っていうのをね、
まあ、的確に理解していたみたいで、
当時のね、流行りのタレントとかキャラに頼らない、
ゲームファンの取り込みを考えていたみたいなんですよね。
で、プレイステーションの広告展開に携わった広告代理店っていうのはですね、
大手白報堂なんですけれども、
この白報堂が当時広告でこだわったのがね、
主に3点あったそうなんですよね。
一つはね、約束。
これはね、当初のプレイステーションのキャッチコピーで
全てのゲームはここに集まるというスローガンを掲げて、
ハードやね、ソニーコンピューターエンターテイメントで
SCEの進むべき道をね、広告上でもね、
差し示してね、視聴者にも訴えかけた展開をやっていくわけですね。
結果ね、FFやドラクエなどを含める多くのヒットタイトルや
メーカーをね、プレステ陣営に取り込むことに成功しているわけですよね。
二つ目がね、家族や非ゲーマーのプレイシーンを積極的に取り込むこと。
これはね、結構皆さんも覚えてるんじゃないですかね。
これはもう、当時のプレイステーションのCMを見た方だったらね、
一つや二つくらいはね、覚えてるんじゃないですかね。
例えばですね、バスに乗ってね、帰宅途中の中年のサラリーマンの男性がね、
プレイステーションのソフトを買って喜んでるんですよ。
で、バスの中でね、プレイステーションっていう、いわゆるショッパーっていうんですかね、
プレイステのロゴが入った袋ですよね。
1:15:00
ビニール製の袋から取り出してソフトをね、
バナナの皮むきのね、あれでシュリンクされてるはずなんですけど、
あれをね、ペロペロって開けてですね、中の説明書を読んでいくんですよね。
で、遠くの方でね、小声でひそひそ話が聞こえるんですよ。
で、それがどうやらこのおじさんっていうんですかね、この中年男性のね、
と同じ会社にいる人っぽくてですね。
で、課長、あれプレイステのゲーム買ったんじゃないの?
喜んでるよ、みたいな感じでね、遠くでひそひそ話すっていうだけのね、
本当に、なんか別にプレイステのソフトを買ったかはないわ、別にしても、
なんかそういうシーンって確かにあるよなぁと思いながらね、見てたんですけどね。
あとですね、これもね、まあ面白かったかなと思うのは、
親に買ってもらった直後にね、あのプレイステーション本体をね、
あの店員からのね、お包みしましょうかっていうね、問いを断る少年がいるんですよね。
あのレジの前でね、いや結構ですと。
もう、あの袋になんか入れていただかなくて結構ですと。
で、その後ね、帰宅途中もね、プレイステ本体をね、
親にも持ってもらうことなく自分の手でしっかり持ってね、歩きながら帰るんですよ。
そうすると、まあ道すがらね、あの公園とかの前を通ったりするとね、
通りすがりの人がね、みんな旋風の眼差しで、
そのプレイステ本体を持っている少年にね、一瞬目を向けるんですよ。
で、それをね、まじまじとね、こう、あのその少年はね、
まあ言うたらもう見せびらかしなんですよね。
あの、プレイステ買ったぜ俺はっていうね、こう、えつに浸ってるっていうね、
まあそんなんであったりとかですね。
あとどうだったかな。
結構ね、あの、いくつもあるんですよね。
例えばマンション、アパートのね、あの、
家主に対しての経営セミナー会場でね、
エアコンで家賃、なんだろうね、家賃2万円アップです。
この部屋に何の変哲もない部屋にエアコンつけるだけで家賃2万円アップです。
みたいなね、感じで。
コンサル風の男性が説明してるんですよね。
で、追い討ちのように、あの、また言うわけですよ。
さらにここで全室、プレステ完備で、
完備でって言った後にあのおばあさんって言うんですかね、
あの年配の女性のその家主さんなんですかね、たちが。
完備でどうなるのかなみたいな感じで、
完備でって言った後に、
あのセミナーの講師がね、言うんですよ。
入れ食いですって言ってね。
まあそんなことはないと思うんですけど、
でもなんかそれに近いことってあるよなーみたいなね。
ケーブルテレビ入れたらあの、
まあいっぱいお客さんが、お客さんというかあのね、
借り主が来てくれるよみたいな感じの説明なんでしょうけど、
なんかシーンとしてはなんか、
分からでないなーみたいなね。
あとですね、これもちょっと、あの僕、
1:18:01
ちょっとこの前ね、そのCMの動画見てて、
あの、まあ見てね、笑っちゃったんですけれども、
まあ季節は冬でですね、
ちょっとお金持ちの家みたいな感じで、
ちょっとおっきめの家なのかな、
内側からね、
ちょっと風がね、小枯らしというかね、
感じの風が吹いてる中で、
ちょっと庭に植えてる木を見てね、
まあ枯葉がね、落ちるか落ちないかみたいなね、
冬のその庭に植えてる木を見ながらね、
その女の人、おそらく奥さんとかね、
その若い女性ではないんでしょうね、
30代後半から40代ぐらいの方なんですけども、
まあその女性がね、
まあナレーション対応でね、
冬だってみずみずしい、
私で痛いんですっていうね、
なんかあの、なんて言うんですかね、
ハンドクリームとかね、
スキンケアのCMとかに、
使われそうなナレーションですよね。
冬だってみずみずしい、
私で痛いんです。
だから私はプレイステーションって言うんですよね。
その後にあの、
なんて言うんですかね、
すごい水滴の上、
水滴っていうか水面の上にね、
水滴がポトンって落ちるみたいな、
よくスキンケアのCMとかね、
化粧品のCMでよくあるあれですよね、
そこにプレステラピーって書いてあってね、
もうこれ完全にプレステのね、
告知で、
やってるCMなんですけど、
全然関係ないですよね、
ゲーム機とはね、
多分あのキャッチコピー、
冬だってみずみずしい、
私で痛いっていうのは多分、
普通の一般の女性とか主婦層には一瞬、
興味を引く内容だったりすると思うんですよね。
でまぁ最後にね、
これもね、
秀逸だなぁと思ったのは、
キャッチコピーがね、
ママだってママだって言ってて、
プレイステーションっていうロゴが出るんですよね。
今ね、話した以外にも、
まぁ多くのパターンがあると思うので、
まぁ興味のある方はね、
YouTubeあたりをね、
探すと見れると思います。
個人的には、
僕はまぁ今見ても、
非常に優秀なCMだと思ってるんですよね、
このプレイステーションのCM群というのは。
で、まぁこのね、
プレステがね、
この家族や非ゲーマーを取り込むための
巧みなCMや広告展開をして、
大成功を収めたわけなんですけども、
これは僕自身も以前から思っていたんですが、
今回ね、
この白鳳堂の方もブログでおっしゃられてるんですけれども、
このプレステの広告展開の成功体験からですね、
他のゲーム会社も結構模倣してるんですよね、
真似してるんですよね。
中でも現在に至るまで、
その手法をね、
使い続けているなぁと思うのが、
まぁ任天堂なんですよね。
まぁこのね、白鳳堂の方もね、
自分たちが作った広告展開を真似てる中でも、
最も優秀な生徒は任天堂だとおっしゃるほどにね、
現在の任天堂のCMの上手さのルーツっていうのは、
1:21:02
実はこの初代プレイステーションのCMだったりするんですよね。
まぁちょっとね、2点目の説明が長くなりましたけども、
最後のね、この白鳳堂の方がね、
広告展開でこだわった3点の、
まぁ最後3点目っていうのがですね、
ブランド人格っておっしゃってたんですね。
ブランド人格っていう感じになりますよね。
ブランド人格って何?みたいな。
ブランドと人格って別物じゃないですか。
ちょっとね、思い出して欲しいんですけれども、
初代のプレイステーションね、
実はソニーというブランドのゲーム機ではあるんですが、
他のソニー製の製品に比べて、
まぁソニー感っていうんですかね。
CMの中でね、ちょっと薄くなかったですかね。
例えばウォークマンとかね、
あのAV機器ですよね。
ああいうものに比べても結構、
弱かったような気がするんですよね。
まぁこれはね、実は白鳳堂の方が言うにはですね、
任天堂とかセガのゲーム機はあくまで、
物でしかないっていうね。
物として広告してるんですよね。
だけれどもプレステはそれ自体を、
人格とか目的意識を持ったキャラクターとして
捉えてたみたいなんですよね。
だからユーザーに企業というよりも仲間として話すような
フレンドリーでやんちゃな人格を作り上げてたみたいなんですよね。
例えばね、行くぜ100万台とかね。
あえて行くぜってあたりですよね。
ビックリマークつけててね。
行くぜっていうね。
まぁその辺ね、どっちかっていうと見てる人にも
ちょっと手伝えようぐらいのノリでね。
行くぜって言ってるあたりが。
僕もね、当時なかなか口骨だったなぁと思いながら見てたんですけどね。
上手いことやってるなぁと思ってね。
あと、僕が一番これを知って納得したのがですね、
当時CMの最後にね、
プレイステーションのロゴマークと一緒に
ちょっとしたキャッチが出てたと思うんですよね。
それこそさっきの行くぜ100万台も最後にもね、
プレイステーションって言った時に上にね、ポツッと出てるんですけどもね。
その僕がね、やっぱりすごい覚えてるのは、
そのCM最後にね、プレイステーションのロゴの上にですね、
プレステって言うなぁって書いてあるんですよね。
で、その下にはプレイステーションって書いてあるんですよね。
まさにプレイステーションっていう人格だよなぁって。
ちょっとね、この人格って言われた時に、
このプレステって言うなぁっていうキャッチコピーをすごい思い出してですね。
まあ確かに、当時なんか普通のヒットゲームというか、
ゲーム機っていう印象が薄い広告展開というか、
1:24:02
キャッチコピーをあえてつけてたよなぁっていうね。
それは、そうか、プレイステーションっていうのがね、
一人の人格としてね、
でもブランドっていうのも損なわないようにということで、
その辺を意識してたんだなぁっていう感じでね。
でもあれをね、プレステって言うなぁっていうキャッチコピーを見た時ね、
僕は結構当時のことを覚えてて、
まあプレステが勝ったんだなぁって考え深くなったのを覚えてますね。
まあなんか、知名度のある雑誌の表紙に、
モデルがポーズをとって、
まあ写ってるんだけども雑誌のロゴがね、
モデルの頭の後ろにあって、
雑誌名がちゃんと見えてないみたいなね、
王者の余裕みたいなのを感じちゃったんですよね。
プレステって言うなぁっていうあたりね。
もうみんなプレステプレステって言うからっていうね。
それぐらいだから普及してるっていうことの裏返しなんでしょうけどもね。
それ以外にもですね、
このソニー陣営、だからプレイステーションはですね、
結構テレビでCMを打つにあたって、
定期的にね、キャッチコピーと言うんですかね、
それを変えていたのも特徴的かなぁと思ってですね。
例えばね、先ほど言った行くぜ100万台とかね。
100万台目前になった時に言ってたりとかですね。
あとすごいことになってきたっていうね。
これは国内で発売されたプレイステーションタイトルが
200タイトルを超えた時点で言ったりとかですね。
他にもね、さっきの行くぜ100万台じゃなくて、
今度は行くぜ200万台とかね。
あとサービス満点とかね。
あとご褒美にとかね。
あと暮らし生き生きとか。
ゲーム一筋とかね。
その都度CMを打つにあたってですね、
キャッチコピーを変えてくるんですよね。
この辺もやっぱり非常に巧みだなぁと僕は思ってて。
そういう意味でね、僕当時ちょっとその、
仕事の関係で広告関係なんかをちょっとやってたもんで、
結構非常にこのプレイステーションの広告の巧みさっていうのは、
全然僕はジャンルは違うんですけども、
非常に勉強になったなぁと思いますね。
やっぱ上手いなぁっていうのは見てて。
事実やっぱりその、
それまでね、
ゲームっていうのをやっぱりちょっとあまり意識することのなかったような人に、
やっぱりすごい広告の上手さがあってか、
今までゲームなんかしてこなかったような、
当時会社の同僚や上司、部下がですね、
結構やっぱりプレイステーションっていうのをね、
買うようになったりとか、
買うときに何を買ったらいいかとか相談を受けたのもね、
やっぱりこのCMのおかげだったんだろうなぁと思いますね。
1:27:01
言ってしまえばね、
サターンっていうのがこの当時やっぱり、
同時期に出てるんですけれども、
やっぱりサターンっていう言葉を、
いわゆる非ゲーマーと呼ぶんですかね、
そういう人からはあまり聞かないんですよ。
バーチャファイターがあるって言ってて、
バーチャファイターは知ってる上司や部下もね、
男性だったらいるんですけども、
意外とね、バーチャだけだろうみたいな話になっちゃって、
終わっちゃって、やっぱりプレステみたいな感じでね。
そうなんですよね、やっぱりこれはね、
広告の巧みさがやっぱりすごいあったと思うんですよね。
事実ね、僕その出版の仕事に携わってたときに、
会社の総勢何人くらいいたのかな、
80人くらいはいたと思うんですけども、少なくとも。
サターンを持ってるのは僕と、
もう一人か二人くらいしかいませんでしたからね、結局ね。
やっぱり特に営業関係とかやってるね、
日頃あまりゲームしないような人間とかも、
気がついたらプレステだけは持ってたみたいな人多かったですね。
ちょっとね、プレイステーションを語る上で、
僕としてはやっぱり外せないっていうことで、
ちょっとね、この広告についてもね、
ちょっと喋ってみました。
結構長々と喋っちゃいましたね。
それではね、エンディングに行きたいと思います。
ありがとうございます。
はい、というわけでね、
結構長々と喋ってたかなと思うんですよね。
本編部分だけで1時間超えてるんですけども、
結構ね、途中まではね、
資料みたいなの作ってたんですけども、
やっぱね、さすがだなと思ったのは、
やっぱり近年の、やっぱりここどうでしょう。
それこそね、プレイステーション、確かもう30年かな。
30年、31年目かな。
ということで、
この近年、ここ30年のソニーの中でもっとも成長した部門だったとは思うんですよね。
ソニーを代表するブランドの一つにしたんじゃないのかなと思うんですよね。
ブランドにしたというか、ブランドになったと思うんですよね。
で、やっぱりソニーといえばプレイステーションみたいなイメージが、
ここ30年でやっぱ定着しちゃったとは思うんですよね。
というのもまあね、
あの、くしくもソニーがプレイステーションでブイブイ言わせてる裏では、
1:30:03
以前ね、あの会社でどうしてるみたいな会でね、
パイオニアLDCさんの会をとってたと思うんですけど、
おそらくね、あのパイオニアLDCがダメになったっていうところには、
やっぱり母体のね、いわゆるオーディオ関係の本業の方も立ち行かなくなったっていうところで、
やっぱり90年中盤からやっぱり2000年初頭にかけて、
家電業界ってやっぱりオーディオ機器、いわゆるAV機器と呼ばれるものがどんどん衰退というわけではないんですけれども、
やっぱりちょっとね、それまでに比べるとやっぱり鈍化していったんじゃないのかなと思うんですよね。
やっぱりそれはバブルが弾けたっていうこともあったでしょうし、
そこにね、ソニーもやっぱり霊に漏れずっていうところはあったと思うんですよね。
そんな中、やっぱりソニーは他のね、家電メーカー、オーディオ機器メーカーとは違って、
PlayStationっていうね、新たな収入源を得たことで、やっぱり飛躍的に会社の規模は大きくなったと思いますし、
もちろんプレステだけが伸びたとは言わないですけれども、
でもやっぱりね、ソニーっていうのが、今現在もね、ソニーがあるっていうことで考えると、
やっぱりそれは、もちろんコンテンツ事業ね、音楽であったり映画であったりとか、
もちろんそのコンテンツ事業の中にはゲームだってあったと思うんですけれども、
ゲーム機事業ね、ハードウェアの方だってすごい業績を上げたっていうところで、
やっぱりこれはやっぱりね、94年のPlayStation発売以降、
やっぱりソニーっていう会社をね、すごい成長させる起爆剤になってたとは思うんですよね。
まあそういうこともあってですね、ソニーのこのプレステに関する偽ってのは、
調べ始めると結構いろんな角度からいっぱい見えてきますし、
喋ろうと思えば何だって喋れるのかなっていうぐらい情報もそこそこ多くてですね、
まあね、あれも喋ればよかった、これも喋ればよかったみたいなのは今でもちょっとね、思うところもあるんですけどね。
まあなんとかね、荒川みのるさんっていう任天堂のね、この方とのやりとり、
この方がいわゆるPlayStation誕生のきっかけを作った超本人じゃないのかなっていうこともね、
ちょっと僕、触れてますけどもちろん任天堂の方ですから、
全然本人は思惑でPlayStationができたとは思ってないでしょうし、
でもこの人がね、山内博社長に進言しなかったらね、
1:33:04
今頃はスーパーファミコンのCD-ROMドライブとして出てたら、
また違った、全然違った未来があったと思いますし、
まあソニーっていう会社がその後どうなってたとかっていうのはね、まあわかんないですし、
でもソニーはね、やっぱ上手いなと思ったのは、
プレイステーションが出て、次世代をプレステ2って歌った時に、やっぱあれも僕感心しました、本当に感心しました。
当時ね、ゲーム機とかハードで2って言うのってやっぱりなかったんでしょうね、どうでしょうね。
プレステ2よりも先に2って言えたのって何なんでしょう、カローラ2ぐらいなんですかね。
そんなレベルだったと思うんですけど、何々2って言うとどうしてもゲームとか、
いわゆるコンテンツの方に続編という意味で2っていうのをつけるのはあるんですけれども、
例えばファミコンの次はスーパーファミコンとかね、
スーパーファミコンの次だって任天堂64って言ってますし、
セガもね、マスターシステムとかマーク3とか言ってたらメガドライブ、そしてサターンってやっぱり関連性がないですよね。
もちろんね、セガとかと違うのは、プレイステーションとプレイステーション2っていうのは互換性を持ってたっていうところがあるんですけれども、
とはいえやっぱり後継機ですよってね、分かりやすかったと思うんですよね。
で、この回でこの話を言うのが、せっかくのプレステの回で言うのが、
どうなのかなって思うんで、あんまりちょっと触れたくはないんですけども、
これ今撮ってるのが1月の24日なんですよね、2025年のね。
だからもうお分かりの方も多いと思いますし、皆さんもご存知だと思うんですけれども、
あの任天堂のスイッチの後継機が、スイッチ2っていう名前でね、スイッチ2ですからね。
任天堂もついにね、そういう2って付けちゃうんだみたいなね。
でも一番分かりやすいとは思うんですよね、その方が、後継機という意味合いではね。
それをいち早くやったっていうのではやっぱり、プレイステーション、ソニーはやっぱりプレステ2って、
ゲームのことをあんまり詳しく知らないけどプレステを持ってたとか、
プレステの次の機種を買おうとしてる人にとっては、やっぱこれ以上分かりやすい記号はないよなって、
当時本当に僕も唸りました。
プレステ2はプレステ2でまた、オリを見て喋っていければなぁと思うんですよね。
プレステ2とか3とかね、いろいろあると思うんでね、その辺の話もやっぱりできればと思うんですけど、
1:36:05
ちょっとね、1だけで結構いろいろ喋っちゃったんでね。
で、プレステ1っていうと他にもゲームハードが発売されて、
時間が経つと安くなるっていうね、認識を植え付けたのもこの初代プレイステーションだったと思うんですよね。
いやもちろん他のね、ハードでもそれに近いことはやってたんですよ。
例えばPCエンジンで言えばPCエンジンとCDロムロムっていうのがそれぞれ別々に出たんですけども、
DUOっていう名前でね、若干安くなったとか、その後もっと安い廉価版が後々DUORっていうのが出たとか、
メガドライブで言えばメガドライブとメガCDっていうのが出たけども、
その後メガドライブ2、メガCD2って出たりとか、あとワンダーメガっていうのが出たとか、
ただそんな定期的に値段がどんどん下がっていったわけじゃなくて、
何よりもプレイステーションっていうのは形は全く一緒だったんですよね。
PS1っていう最高発のね、一番末期に出たハードは別としてプレステ1のね、
プレステ1というか初代プレイステーションの企画で別ハードは出ましたけど一番最後には。
ただパッと見よそれまではね、型番変わっていっていろいろ内部構造とか、
いわゆる今で言うとチップシュリンクって呼ばれるね、合理化とか縮小化とかね、
いろいろされて開発コスト、製造コストが下がったっていうところで値段が少しずつ少しずつ下がっていく。
そうすると本体を買おうか悩んでた人たちの買いやすい価格にどんどん下がってきたっていうことでね、
そういうどうなんでしょう、その後しばらくね、皆さんが発売日にはね、
本体の最初の発売日には買わないけどもそのうちマッテリ安くなるんじゃねえかみたいなね、
ああいう認識を植え付けたのはまごうことなくプレステ初代だったとは思うんですよね。
まあこの常識をね、覆したのがね、皮肉なことに現在ね、
プレイステーションの最新ハードとも言うべきプレイステーション5で、
僕が買った時には5万5千円税込で5万5千円かな、なんかそれぐらいしたのかなと思うんですけども、
今や8万ぐらいになってますもんね。だから時間経つと値段上がるんだみたいなね。
まあこれにはね、別のいろいろな円安だったりとか、
まああの半導体のね価格がやっぱり高騰してるとかいろんな理由があったりとか、
1:39:01
いわゆるPS1の頃、PS2の頃とかではできたチップシュリンクっていうことが
もうできにくくなってきてるっていうね、いろんな事情があるんですけどもね。
まあただね、いわゆるそういうことを詳しくは知らない一消費者からすると、
今まで待ってたら値段下がってたのが、待ってると余計に値段上がるんだみたいなね。
常識的に考えてたことが根底から覆されたっていうのがプレイステ5だったりするんですけどね。
まあそういうこともね、考えると非常になんか皮肉で考え深いなぁと思ったりするんですけどもね。
で、まあね、僕の考えとしては、そのプレステ1の頃、プレステ2の頃っていうのは、
僕が特に本当にプレイステーションっていうハードが非常に良かったかなって、
良いハードだったなーって思ってたんですけれども、やっぱり今はプレステ5っていうのが、
ちょっと帰路に立たされてるような気はするんですよね。
プレイステーションっていう頃、初代から続いた、いわゆる末置き機のソニーが出してるゲームハードっていうところで、
すごい帰路に立たされてて、このまま行くのか、それとも買えるのか、
なんかいろいろと不死身に来てるような気はするんですよね。
まあそういう意味でね、やっぱりまさか任天堂に勝ってたはずだったのにね、
その後、やっぱり任天堂に主位を抜かれるとかね、いろいろそういうのもね、
昨今ではあったりもしましたし、やっぱりプレイステーションっていう一つのハード、
終焉とまではまだ言わないですけれども、やっぱりちょっと変わり目に来てるんだろうなーっていうのをね、
やっぱりすごい旗から見てると実感できます。
で、あの当時ね、プレステ1の当時にはやっぱり思いもしなかった、
パソコンでゲームをやる環境っていうのがここまである程度ね、認知されて、
日本国内でも広がっているっていうのもやっぱりちょっとまたね、時代は変わったなとも思いますし、
まあでもただね、今回喋ったプレステ1の頃っていうのは本当に非常に良かった、いい時代だったかなと思います。
で、ソニー自身もやっぱり高発だったりとかっていうこともあって、
ちょっと今回は喋ってないんですけども、ゲームやろうぜっていうね、プロジェクトで新人ゲームクリエイターを発掘するとかね、
やっぱりその広くね、自分のところで出したハードにソフトを供給してくれるクリエイターを広く募集してたっていうのもね、
1:42:02
あの頃の、だからこそそれまでのね、セガとか任天堂とは違う角度のゲームっていうのが数多く出てたと思うんですよね。
そういう意味でやっぱり思い出深いハードだったような気はします。
プレイステーションに関してもね、初代のプレイステーションに関しては特に。
まあそんな感じでね、まあ喋ってるとね、いろいろとね、まだまだ喋り足りないところも出てくるのかな、ソフト一本一本とかね。
一本一本は言い過ぎですけど、僕が買ったソフトとかでもやっぱりね、いろいろまだ喋れてないものとかもいっぱいあるんですよね。
思い出しただけでね、例えばワイルドアームズだったりとか、まあソニーのね、ファーストパーティーっていうんですかね、今風に言えば。
まあソニーブランドで出してた、ソニーが自社で作ってたわけではないんですけども。
ソニーが、まあソニー名義で出してたソフトっていうのもいくつもね、当時もありましたし。
あれもやっぱりプレイステ1とか2の頃っていうのはまだまだバラエティーに富んでて、やっぱり今ほど開発コストがすごいね、上がってなかったし。
今ほどあのGもまだプレイステ1プレイステ2の頃っていうのはまだ少ない人数で行けたっていうところがあったからやっぱりあれだけね、バラエティーに富んだね、ゲームが出せたんじゃないのかなと思うんですよね。
やっぱりそれはちょっと今とは違ってあの頃がいい時代だったかなとね。
まあおっちゃん的な感覚で言ったら、やっぱり今でも思いますよね。
まあそんなこんなでね、プレイステのことをだらだら喋っておりますけども。
意外とね、だから僕の家未だにまだプレイステね、ソフト結構残ってたりはするんですよ。
処分っていうかね、ちょっともう売却したりした部分も当時あったんですけども、それでもやっぱりね、ちょくちょくまた買い漁っちゃうんですよね。
ただね、本体が潰れちゃってるみたいなんで、またもう一回買うかなとかね、ちょっと中古でどっかで本体買うかどうかちょっと悩んでるところではあるんですけどね。
いや本当にね、もうなんとかソニーさんね、どうしよう、バカバカしいと思いますけどどうでしょうかね。
過去のハードをもう一回なんか作りませんかみたいな、ちょっとね、1から3ぐらいまでが動くコンパチプレイステみたいなのを一回出しませんかみたいなことをちょっと思ったりはしますよね。
まあね、それ向けのソフトをね、どっかのインディーでもなんでもいいんですけども、もう出すっていう作戦も出てくるでしょうしね、プロジェクトとかもね。
なんか新しいものだけがいいもんだみたいな考え方で、ちょっとまだソニーとかってまだまだ昔からある日本の大量消費みたいなちょっと癖がまだ残ってるんで、
1:45:08
そろそろちょっと過去を振り返って一回ハードもね、ちょっと作り直すっていうのもどうかなとは思ったりはするんですけどもね。
まあでもソニーコンピューターエンターテイメントっていう会社も今やなくなって、もうソニーもアメリカの企業になっちゃいましたしね、このゲームの会社はね。
まあそういう意味ではやっぱりちょっとあの当時の広告のことを僕ちょっと話してましたけど、やっぱりああいうのもなくなってちょっと寂しかったりはするなーって思いながらね、ちょっと今回喋ってみましたと。
まあね、まだまだ喋り足りないんですけども、まあちょっと今回はね、ぼちぼちここらで終わろうと思います。
というかね、この回で喋るべきかどうかはわかんないですけど、この前にね、喋って、もう今は多分アップされてると思うんですよ、この回が上がってるぐらいだから。
あのー、サターンの怪物に至ってはもうだいぶ前に撮ってるんですよ。だいぶ前に撮ってるんですよ。1月3日とかに撮り終えたと思うんですけどもね。
そうなんですよ、このプレステの回がね、なかなか上手いことね、まあ僕が撮れたり撮れなかったり、作り直したりとかいろいろあってですね。
まあね、こんなに経っちゃってからっていうことでね、ちょっとうちの番組の更新もちょっと止まってたのが1週間、2週間ぐらい止まってたかとは思うんですけどもね。
そんな感じでね、ちょっととりあえずはこれもアップして、また皆さんからなんかいろいろ反響いただいたりとかできればね、そういうのでまた、
なんかね、ちょっとおしゃべりできればなぁと思います。
ちょっとね、他にもいっぱいあったと思うんですよ。
それこそ、しゃべっといたほうがよかったよなぁ、もっとフロムのこととかね。
スクエアとナムコのことは言ってるけど、多分それ以外だっていろんな会社が出してたはずなんで、もうちょっとそこもね、もうちょっとね、しゃべれればよかったかなとか、後悔はね、非常にあるんですよね。
やっぱりそれぐらいね、今回はね、サターンにしてもそうですし、このプレイステーションにしてもそうなんですけども、やっぱりデカかったと思います。
1回で終わろうとしてた各ね、それぞれのハードを1回ずつで終わろうとしてたところがそもそもの間違いだったかなっていう感じでね、非常に反省しております。
だからまたね、なんかね、今度はハードと言わずソフトのことに関してもね、ちょっとしゃべれる機会をまた作れればなぁと思ったりしています。
1:48:04
まぁね、そんな感じで本日はね、もうぼちぼち終わろうかと思います。
またなんかね、ご意見とか、なんかいろいろあったら、ハッシュタグしゃべろくだったりとか、あのメールアドレスとかね、概要欄とかにあると思うんで、あのそこからお便りいただければと思います。
では本日も長々と聞いていただいてありがとうございました。
それでは、さよなら。おやすみなさい。