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川を捻じ曲げた松山城の執念|城づくりはなぜ地形そのものに手を入れるほどの構想になったのかを読み解く
2026-04-12 21:09

川を捻じ曲げた松山城の執念|城づくりはなぜ地形そのものに手を入れるほどの構想になったのかを読み解く

今回は、「川を捻じ曲げた松山城の執念」という印象的なテーマから、松山城という城が、ただ高台に築かれた防御拠点ではなく、周囲の地形や水の流れまでも視野に入れて構想された存在として、どれほど強い意思のもとに形作られていたのかを整理した音声回です。

城というと、まず石垣や天守、堀、門といった目に見える構造に注目しがちです。けれど実際の城づくりは、それだけで完結するものではありません。どこに築くのか、周辺の道や川をどう扱うのか、城下町とどう接続するのか、攻めにくく守りやすい地形をどう作るのか。そうした広い視点を含めてはじめて、ひとつの城は“機能する都市装置”として成立します。その意味で、「川を捻じ曲げた」という表現はとても象徴的です。これは単なる土木技術の話ではなく、地形そのものを自分たちの構想に従わせようとする強い意思を感じさせます。

この音声ではまず、「執念」という言葉がなぜ松山城に似合うのかを見つめています。城づくりには当然、軍事的な必要性や政治的な理由があります。しかし、それだけでなく、そこには築城者や支配者の理想、権威、そしてこの土地をどう支配し、どう守り、どう見せたいのかという強い意志も込められます。とりわけ、自然の地形にただ従うのではなく、必要ならそれを変えてしまうほどの構想があるとき、そこには単なる実務を超えた“執念”のようなものが立ち上がってきます。

川は本来、人の都合だけでは簡単に動かせない存在です。流れがあり、土地の起伏に沿い、時には人間の想定を超えて暴れます。その川を捻じ曲げるという発想には、相当な覚悟と計画性が必要です。なぜそこまでしなければならなかったのか。この回では、その背景にあるのが、単に便利にしたいという程度の話ではなく、城と町を一体で設計し、防御・統治・象徴性をまとめて成立させようとする強烈な構想力だったのではないか、という視点から整理しています。

また、城は単独で立つ建物ではなく、周辺環境と一体で意味を持つ存在です。山の上にあるから強い、堀があるから守れる、という単純な話ではなく、川の流れ、道路の位置、城下町の広がり、敵が近づく導線、物資の流通、人の移動。そうしたものの全体設計の中に城の本質があります。だからこそ、川の流路を変えるという行為は、城そのものの一部をつくることとほとんど同じ意味を持ちます。見えにくいけれど、もっとも根本的な部分に手を入れているとも言えます。

この音声では、「川を捻じ曲げた」という表現の中にある、自然に対してまで及ぶ統治の意思にも触れています。城づくりとは、敵から守るためだけでなく、その土地を支配し、秩序立て、自分たちの意図した空間に作り替える行為でもあります。自然のままの地形を受け入れるのではなく、自らに都合のよいかたちへ変えていく。その発想は、戦国から近世へ移る城づくりのダイナミズムを感じさせますし、同時に、人間が権力を持つときにどこまで空間を作り替えようとするのかという問いにもつながっていきます。

さらに、このテーマが面白いのは、「執念」という言葉が単なる熱意以上のものを含んでいるところです。熱意なら一時的なものでも成り立ちますが、川を動かすような構想には、長期的な視野、労力の集中、資源の投入、そして“そこまでしてでも実現したい形”へのこだわりが必要です。つまり執念とは、感情の強さというより、構想を現実に押し通す持続力でもあります。松山城にまつわるこのテーマは、その持続力が地形のレベルにまで及んでいたことを想像させる点で、非常に印象的です。

この回ではまた、松山城を単に歴史的建造物として眺めるのではなく、見えているものの背後にどんな見えない工夫が積み重なっているのかという視点でも整理しています。城を訪れると、どうしても現存する建物や石垣の迫力に目が向きます。けれど本当に大きな工夫は、地形の選び方、導線の作り方、水の扱い方といった、ぱっと見ではわかりにくい部分に潜んでいることがあります。「川を捻じ曲げた」という言葉は、まさにその“見えにくい大仕事”を象徴しているように感じられます。

また、このテーマは、城をつくるという行為がどれほど総合的な営みだったかを考える入口にもなります。建築、軍事、都市設計、土木、水利、政治、権威の演出。そのすべてが一つに重なって、ようやく城は成立します。だから松山城の話を通して見えてくるのは、単なる一城の話ではなく、近世の権力が空間そのものをどう設計しようとしていたのかという、より大きな視点でもあります。

この番組は、個人的に気になったテーマを整理したり、あとから聞き返しやすい形で残したりするために、NotebookLMでまとめた内容をもとに音声化している試験運用中のメモ番組です。
今回も、史実や細かな構造をただ並べるというよりは、「川を捻じ曲げた」という言葉にどんな意味が込められているのか、松山城の執念とは何を指しているのかを、自分なりに整理して残すことを意識しています。

そのため、この回は松山城に興味がある方はもちろん、城づくりが単なる建築ではなく地形そのものを巻き込んだ構想だったことを感じたい方、歴史の中にある土木的・都市設計的なおもしろさを味わいたい方にも、聞き流し用の音声メモとして楽しんでいただける内容です。

城は石垣や天守だけでできているわけではありません。ときには川の流れさえも、その城の一部として組み替えられていきます。松山城の執念とは、まさにそうした“自然ごと設計しようとする意志”のことなのかもしれません。この音声が、城を見る視点を少し深くするきっかけになれば嬉しいです。

※この音声は、個人的に整理したメモや要点をもとに構成しています。
※読み上げの都合上、一部の発音や言い回しが不自然に聞こえる場合があります。
※内容には個人的な整理や視点が含まれます。
※日本語版・英語版は、それぞれ独立した音声として掲載する想定です。


感想

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お聞きのあなたにちょっと想像してみて欲しいんですが、歴史的な建築別、例えば山の上にそび立つ雄大なお城を思い浮かべる時って、どんな光景をイメージしますか?
そうですね、普通は険しい山とか川といった自然の要害を巧みに利用して自然と調和するように建てられた美しい姿みたいなものをイメージしますよね。
ええ、まさに地形に寄り添うように設計されているというか、私たちは無意識のうちに人間が自然の形に合わせて建物を置いたんだって考えがちなんですよね。
はい、それが一般的なお城の見方だと思います。
でももしですよ、もしそのお城の足元にある自然の地形が、実はお城を建てるために人間の手によって力づくで捻じ曲げられたものだとしたら、どうでしょう?
山の形を丸ごと変えてアローコとか川の流れそのものを別の場所へ強制的に引っ越しさせてしまったとしたら。
いやー、それはもう単なる建築の領域を越えちゃってますよね。地球科学的な規模の環境改変というか、現代の視点から見ても途方もない大プロジェクトと言っていいと思います。
というわけで、今回私たちが深く掘り下げていくテーマは愛媛県にある名城、松山城です。
今日はですね、歴史研究論文とか城郭の建築学的解説、あとは地元に伝わる言い伝えや詳細な資料など多角的な資料の束をどっさり持ち込んでいます。
なかなか読み応えのある資料ばかりですよね。
ええ、というのも今回ひも解いていくのは、ただの美しいお城の解説じゃないんですよ。
中学生でもワクワクするような一人の戦国武将の決断と、ある天才エンジニアによる地形そのものを改造するという経典同士の大プロジェクト、その実態を探っていきたいと思うんです。
非常にエキサイティングなテーマですね。松山城の本当のすごさって、今私たちが見上げている天守や石垣だけじゃなくて、その足元に隠された壮大なストーリーと人間の執念みたいなところにありますからね。
そうなんです。そこでまず根本的な疑問から入らせてください。そもそもなんであんな山のてっぺんにゼロから巨大な城を建てようと思ったんでしょうか。物語の始まりは1602年、関ヶ原の戦いで大きな手柄を立てて20万石の大名に出世した加藤義明という武将の決断から始まりますよね。
はい、加藤義明ですね。彼はもともと海に近い政城城、現在の松山城にある城に住んでいたんです。水軍のトップとしても活躍した彼にとって、海に近いっていうのは戦術的な利点も大きかったんですが、同時に日々の暮らしにおいて結構大きな弱点も抱えていたんですよ。
弱点ですか。水軍のトップなら海沿いなんてこれ以上ない最高の立地じゃないですか。
それがですね、資料に残る当時の記録を紐解くと、なかなか切実な悩みが書かれているんです。強い日清で砂ぼこりが舞い上がって、高波が打ち寄せてやかましいと。
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え、花の音がうるさいからですか。いやいやそんな理由で?
本当なんです。それに加えて砂丘の上に立っていたため、地盤が緩くて地震にも非常に弱かったそうなんです。その上20万石という大出世を果たしたことで、抱える火神の数も激増しまして、元の城では物事的に手狭くなってしまっていたんですよね。
なるほど。なんかそれってすごく現代的というか人間臭い悩みですよね。海沿いの家が塩深さや砂ぼこりで刻むし、夜は波の音がうるさくて眠れないと。おまけに家族、つまり火神も増えて今の家じゃ手狭になっちゃったから、いっそ内陸の見晴らしの良い場所に広大なタワーマンションでも建てて引っ越そうぜみたいな。そんなモチベーションに近い気がしました。
タワーマンションへの引っ越しですか。まさにその表現がしっくりくるかもしれないですね。そこで彼は新しい拠点を求めて両内をくまなく探し回るわけです。そして目をつけたのが道後平野のど真ん中にぽっかりと浮かぶ標高132メートルの独立丘陵でした。
こっかり浮かぶ山。
ええ、当時は勝山と呼ばれていましたが、ここを新居の地に決定したんです。そして1602年から築城が開始されまして、翌年この地を公式に松山と命名しました。
よし、再当無立地を見つけた。タワーマン建設開始だと言いたいところですが、ここでとんでもない問題が立ち上がるんですよね。資料を読んでいて私が一番驚いたのがここなんですが、新しい土地である松山の足元には致命的な役点があったと。
そうなんですよ。松山の足元、ちょうど城下町を作る予定だった平地には、奥道後の渓谷から流れだだる湯山川、つまり現在の石手川が流れていました。
川があったんですね。
はい。しかもこの川は当時、暴れ川として知られていまして、雨が降るたびにぐにゃぐにゃと蛇行して氾濫し、町の予定地をあっという間に水すさしにしてしまう超危険地帯だったんです。
うわあ、それはきつい。せっかく見晴らしの良い山を見つけても、一歩下りたら足元が泥沼じゃ、巨大な城下町なんて作れるわけないですよね。
そこで登場するのが加藤康明の右腕であり、伏瀬宝鏡に認じられた足立修信という人物ですね。彼がちょっと信じられないようなアイディアを出すと。
ええ。普通、川が氾濫するなら高い暖房を作って水を抑え込もうって考えますよね。でも足立修信は違いました。川の氾濫を防ぐのが難しいなら、川の流れそのものを別の場所にねじ曲げてしまえばいいと考えたんです。
いやいや、ちょっと待ってくださいよ。川を丸ごと別の場所に動かして、あの、重機もショベルカーもダイナマイトすら影も形もない400年前の話ですよね。足立修信を美化するためのちょっともった恒星の伝説とかじゃないんですか。
物理的にどうやったんですか。
これが伝説ではなくて紛れもない史実なんですよ。しかもただ土を掘るだけでは済みませんでした。彼らが川のルートを変えようとした先には、なんと強固な岩盤が立ちふさがっていたんです。
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岩盤ですか。スコップじゃどうにもならないですよね。
そこでその岩盤を突破するために、修信たちは加熱砲という驚くべきテクノロジーを使いました。
加熱砲ですか。初めて聞きました。
巨大な岩盤の上に大量の薪を積んで激しく燃やし続けるんです。そして岩が極限まで熱されて真っ赤になったところに。
あ、そこに冷たい水を一気にかけるんですね。
その通りです。熱された岩に平水をかけて、急激な温度差によって生じる熱衝撃を利用するんです。
なるほど。熱いガラスのコップに冷たい水を入れるとピキッと割れる。あの熱膨張と収縮の原理ですね。それを巨大な岩盤でだったと。
ええ。そうやって分厚い岩に亀裂を入れて、ひび割れたところをのみや筒で砕いていくんです。膨大な時間と、それこそ気の遠くなるような人力の連続ですよね。
そうやって岩を切りくるし、石手川の流れを南西へと強制的に変えてしまったんです。
ダイナマイトの代わりに火と水を使ったってことですよね。アクロバティックすぎますね、本当に。
でも、その途方もない労力をかけて川を動かしたことで、松山には劇的な変化が起きたわけですよね。
はい。大きく4つの革命的なメリットが生まれました。1つ目はもちろん、洪水の脅威がなくなり、安全な浄化町を作るための高台で乾燥した土地が確保できたこと。
まずは安全な土地ですね。
2つ目は、もともと川が流れていて湿地帯が開墾可能になったことです。そこに新田が作られ、なんと10万石もの産米を新たに生み出しました。
10万石?一気に経済効果が跳ね上がってますね。
そして3つ目は、新しく付け替えた石手川のルートが松山城の南側を守る天然の巨大な堀として完璧に機能したこと。
最後に4つ目として、農業用水や物資を運ぶ水運のネットワークが広大に整備されたことです。
いやー、ちょっと鳥肌が立ちました。
つまり、足立修主は、ただお城という箱の土台を作っただけじゃないんですね。
自然の脅威を排除して安全を確保し、農業の生産力を爆発的に上げて経済を潤し、さらに軍事的な防御力まで高めてしまったと。
現代の都市計画のプロデューサーでも、ここまで完璧なデザイン志向を持った人はなかなかいませんよ。
まさにその通りだと思います。
川を動かすという治水事業と城を作るという築城事業が別物のものじゃなくて、完全に一つの大きなグランドデザインとしてシナジーを生み出していたんですね。
なるほど。そしてこの完璧な土台、城下の基盤が整ったからこそ、いよいよ最強の防衛システムを持つ松山城の建設が本格化するわけですね。
さあ、乾燥した最高の土地ができた。ここからが中学生の心も足つかみにするようなお城の軍事的な仕掛け、つまりどうやって敵をぶったおすかという話ですよね。
ええ、ワクワクする部分ですね。
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資料を見ると松山城の防御力ってちょっと蒸気を逸していますよね。まずは連立式天守という構造。これ何がそんなにすごいんですか。
連立式天守というのは、大天守、小天守、そして複数の鎧が綿鎧と呼ばれる廊下でぐるりとつながっていて、中庭を囲む四角い陣形を作っている構造なんです。
現存する十二天守の中では松山城と姫路城にしか見られない究極の防衛陣形と言われていますね。
ということは、もし私が敵兵だとして、なんとか死に物狂いでその中庭まで突破したとしますよね。やったぞ、これで天守に乗り込めると思った瞬間、どうなるんですか。
その瞬間、四四方を囲むすべての建物から同時に狙い撃ちにされます。
うわあ、最悪ですね。
四四方八方からの十字砲火を浴びることになるんです。一箇所を突破しても、今度は高所から一斉に包囲攻撃される、文字通りの逃げ放しのキルゾーンなんですよ。
えげつないですね。さらに私が気になったのが、のぼり石垣という謎の壁です。
山の麓から山頂に向かって斜面を這い上がるように二本の長い石垣が作られているんですよね。
これも日本で松山城と彦根城にしか残っていないそうですが、なんでわざわざ斜面を縦に石垣を作るんですか。
普通、敵を防ぐなら山の周囲をぐるりと横に囲む壁じゃないんですか。
そこが山城の戦術の非常に面白いところなんです。山を攻め上がる敵兵というのは、まっすぐ斜面を登るだけでなく、必ず山の斜面を横方向に移動して、守備側の側面や背後を突こうと回り込んでくるんです。
ああ、なるほど。正面突破じゃなくて回り込まれるのが一番怖いわけですね。
そうです。そこで、斜面を縦に分断する登り石垣の出番です。敵が横に移動しようとしても、この巨大な壁にぶつかって進めない。
結果として、敵は壁と壁の間に追い込まれて、そこを上から狙い撃ちされる仕組みなんです。
実によく考えられてますね。
ええ、これは加藤ヤシヤキたちが豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、現地で築いたヤシローでの実戦経験がダイレクトに活用された、非常に実戦的な防備手法なんですよ。
現場におる生々しい実戦経験がこの斜面の壁に詰まっているんですね。そしてもう一つ、私が一番興奮したトラップがあるんです。
遠無門と陰門のコンボ。これお聞きのあなたにもぜひ想像してほしいんですが、一体どういう仕掛けなんですか?
本丸に向かうルートの途中に、まず遠無門という名前の通り扉のない門が現れるんです。門の枠はあるのに閉める扉がない。
すると敵兵は、「お、ここは無防備だ。簡単に通れるぞ。」と油断して、一気にそこになだれ込むわけです。
はい、私なら絶対になだれ込みますね。ラッキーって思いながら。
ところが、その遠無門を抜けた直後、今度は巨大で極めて堅固な筒井門という本命の門が立ちふさがっているんです。
12:01
敵は完全に足止めを食らって、「クソ、開けろー。」と門を叩いて厄機になります。
前は開かない門、後ろからは味方がどんどん押し寄せてきて身動きが取れない状態ですよね。
その通りです。そして敵が筒井門に首付けになっているその隙に、実は筒井門のすぐ横の石垣の陰にもう一つの見えない門、隠門が存在しているんです。
そこから守備兵がこっそり飛び出してきて、行き場を失っている敵の背後から一斉に奇襲をかけるんです。
やっぱりえげつない。これまるでRPGゲームであんなところに無防備な宝箱があるぞって近づいてあげようとした瞬間、後ろから天井に張り付いていたモンスターが来るトラップと同じじゃないですか。
人間の隙があったら飛び込んじゃうっていう心理を完全に読み切った設計ですよね。
ええ。人間の心理的な錯覚を見事に利用しています。
松山城には、現存する重要文化財が21棟もありまして、
日本で唯一、現存する暴露型二重野炉である矢野原鎧炉など、建築史上の奇跡ともいえる意向がひしめいています。
ただ、こうした強固な要塞は武将たちだけで作れたわけではないんです。
というと、
築城の際には、おたたと呼ばれる松前周辺の女性たちが、
普段海産物を運ぶ桶に魚の代わりに石を乗せて運び、工事に協力したという地元ならではの暖かい逸話も残されているんですよ。
戦の天才たちと地元の人々の協力の結晶なんですね。
さて、ここまで完璧な要塞について話してきましたが、物語はここで一つの転換点を迎えます。
実は、1602年に加藤八木型が建てた当初の姿と、私たちが今見ている松山城の姿って違うんですよね。
はい、そうなんです。
当初、加藤八木型が築いたのは、実戦を想定した巨大な五重の大天守だったとされています。
しかし、その後の1642年、松平帝豪の時代に、わざわざ三重に縮小して改築されているんです。
えっ、せっかくの巨大な五重の天守を、なんでわざわざ小さくしちゃったんですか。
見栄えが悪くなるし、権力の象徴なんだから、武士としては何としても五重を維持したかったんじゃないですか。
もちろん維持したかったはずですが、現実的な地盤問題がそれを許しませんでした。
先ほど、山頂を削って平地にしたと言いましたが、実は元の地形にあった谷や池を人工的に土で埋め立たた部分も多かったんです。
そこに、巨大な五重の天守の重さが加わり、地盤が耐え切れず、建物が傾いてしまったと考えられています。
ああ、なるほど。山頂のテラスカという大規模な環境改変のツケがここで回ってきたわけですね。
ええ。しかし彼らは見栄えを張って倒壊するリスクを放置するのではなく、三重にスケールダウンさせてでも構造的な安定を優先させました。
これは非常に合理的なリスクマネジメントだと言えます。
面白いですね。でも悲劇はそれで終わらないんですよね。
はい。1780年の元旦、運の悪いことに雷雷によって天守を含む本丸の主要な建物が全焼してしまうんです。
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そしてそこからなんと70年もの歳月をかけて1854年、安成元年にようやく再建されたのが現在の私たちが目にしている姿なんです。
ちょっと待ってください。1854年って、あのペリーの黒船が航海した直後ですよね。
もう江戸時代の終わり、武士の時代が幕を閉じようとしている激動のタイミングですよ。
普通、地盤が弱くて建物が傾いた上に雷で全部燃えてしまったら、ここは縁起が悪いから別の場所に建て直そうって思いませんか?
確かにそう思うのが自然かもしれないですね。
百歩譲って再建するにしても、大砲が飛び交うような時代に、なんでわざわざ70年もかけて時代遅れの木造の城を莫大な借金をしてまで同じ場所に復活させることにこだわったんでしょうか。
私にはただの意地にしか見えないんですけど。
その疑問は最もですね。
軍事的な合理性だけで考えれば、別の場所に大砲の撃ち合いに備えた台場でも作った方が良かったかもしれません。
しかし松山城はすでに単なる軍事施設ではなくなっていたんです。
というとどういうことですか?
足立春心が川を動かし、心血を注いで整備した松山の城下町の、まさにへそであり中心だったんですよ。
周囲の川の流れも、街道の配置も、町の区画も、すべてはこの城山を中心に設計されていました。
ああ、なるほど。城を移すということは、町の根本的なシステムを崩すことを意味するんですね?
その通りです。そして何より、審判である松平家にとってこの城は徳川の遺身を西国に示すシンボルであり、
領民にとっては自分たちの町の誇り、アイデンティティそのものだったんです。
アイデンティティですか?なんかそれ、パリのノトルダム大聖堂が燃えた時、フランスの人々が何としても再建しようとしたのと同じですね。
ただの建物じゃなくて、自分たちは何者かという精神的な支柱だったんだ。
まさにその感覚です。だからこそ、激動の時代にあって財政難に苦しみながらも、
70年という途方もない時間をかけて、あえて過去の桃山文化の様式を完全再現した本格的な城下を竣工させたんです。
これは江戸時代最後の城下建築と言われ、当時の人々の執念の結晶と言えますね。
執念の結晶、本当にそうですね。
ちなみに70年経って技術も進化していまして、初期の加藤義明時代の石垣は、自然紙を叩いて積む愚骨な打根節なんですが、
再建された本丸周辺の石垣は、石を成功に四角く加工して隙間なく密着させる切り込み節が使われていて、
時代ごとの石垣の表情の違いも大きな見どころなんですよ。
いやぁ、歴史の積み重ねが石の積み方一つにも現れているわけですね。
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さて、これまで松山城の歴史を追ってきましたが、この物語は現代の私たちに何を教えてくれるんでしょうか?
最も大きな教訓は、やはり人間と自然との向き合い方だと思います。
かつて人々は暴れ川にただ翻弄されるしかありませんでした。
しかし足立重心は、自然とただ共生するのではなく、高度な土木技術を用いてそれを制御し、脅威を豊かさや安全の基盤へと変換しました。
自然をコントロールする側に回ったと?
ええ。武力による防衛だけでなく、治水や開墾といった農業や経済を一体化させた街を作った、持続可能な都市形成のモデルケースといえますね。
それに、50から30への改築の決断もありましたよね。
はい。地盤の良さという現実のリスクを直視し、見栄や過去の栄光に執着せず、柔軟にスケールダウンしてでも持続可能性を優先させました。
これは現代のプロジェクトマネージメントにも通じる見事な判断です。
過去の遺産って、ただの古い建物じゃなくて、気候変動による災害対策とか、持続可能な街づくりに向き合う現代の私たちへの強烈なメッセージなんですね。見え方が完全に変わりました。
まさに。過去の遺産は、未来を生きるためのヒントの宝庫なんです。
いやー、あっという間に時間が来てしまいました。今回の深掘り、いかがだったでしょうか。
加藤やみやきの壮大なビジョンによる決断、足立重心の川を動かすほどの圧倒的な知恵、そして、ただ見重なる困難や火災にもめげず、70年かけて再建を成し遂げた人々の執念、それだが何層にも積み重なって、今の美しい姿があるんですね。
本当にその通りですね。
リスナーの皆さんが次に道後や松山を訪れる際は、立派な天使を見上げるだけでなく、ぜひ足元を流れる石手川や、谷を埋めた後に掘られた深さ44メートルもの深い井戸、そして石垣の積み方の違いにも注目してみてほしいと思います。
地形そのものに刻まれた人々の格闘の歴史を、きっと肌で感じていただけるはずです。
では最後に、少しゾッとするような、でも非常に重要な事実をお伝えして終わりたいと思います。
南高不落を誇り、400年以上松山の街を見守ってきたこの壮大な城郭ですが、先ほどお話しした通り、本丸の基盤は谷や池を埋め立てた人工的なものです。
実は、つい最近、令和の時代に入っても、大雨によって石垣下の斜面が崩落する土砂崩れが発生しているんです。
ええ、そうなんですよね。重要文化財であるがゆえに、復旧や補強のプロセスにも非常に繊細な判断と時間が求められます。
その間に、自然の力によって崩落が起きてしまったという厳しい現実があります。
私たちが永遠にそこにあると思い込んでいる歴史的な遺産も、実は人間の手で力づくでねじ曲げられた自然と、常にギリギリのバランスの上で保たれているだけだとしたら、
私たちはこの美しくもむろい遺産を未来へどうやって守り継いでいくべきなのでしょうか。
オープニングでお話ししたねじ曲げられた自然、そのツケとどう向き合い、どう維持していくかは、現代を生きる私たち全員への宿題かもしれませんね。
21:06
それでは、また次回の深掘りでお会いしましょう。
21:09

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