ああ、確かにそう感じるのも無理はありません。
なぜ今の時代の、しかも大人たちがわざわざこの重さに引き付けられているんでしょうか。現実逃避の円溜めが溢れている時代なのに不思議ですよね。
非常に鋭い視点ですね。実はレビューデータを分析すると、視聴者が引き付けられているのは悲惨さそのものではないことがわかります。
悲惨さじゃないとすると何なんでしょう。
彼らが熱狂しているのは、極限状態に置かれても決して失われない人間の尊厳とレジリエンス、つまり回復力なんです。
レジリエンスですか、なるほど。
このシリーズの根底にあるのは、子供を大人の保護下にいる、ただ守られるべき弱い存在として描かない、そういうかっこたる哲学なんですよ。
ああ、だから子供扱いしていないってことですね。
そうなんです。理不尽で過酷な社会構造の中に放り込まれても、もがき、連体し、自分の頭で考えて生き抜く主体として子供を描いているんです。
現代の視聴者は、先が見えない過酷な現代社会を生きる自分たちの姿を、ロミオやペリーヌの主体性に重ね合わせているんですよね。
ああ、なるほど。だから単なるおとぎ話ではなくて、現代のビジネスパーソンとか大人の心にも深く刺さるんですね。
その通りです。
となると、常に根強い人気を誇るフランダースの犬の評価も変わってきますよね。
あれって、かわいそうなネロが死んでしまう、とにかく泣けるお話というイメージが強いですが。
資料にある当時の制作メモとか脚本の糸を見ると、単なるモナミド長代を狙ったものではないことがはっきりとわかりますよ。
え、そうなんですか?
ええ。ネロはどんなに低い周知を受けても、放課のぬれぐれいを着せられて村を追われても、決して人を恨まなかったんです。
確かに。自分がどれだけ絶望的な状況にいても、心を真っ黒に染めることはなかったですね。
そうです。視聴者が涙するのは、死んでしまってかわいそうだからではないんです。
彼が最後まで、純粋な心という倫理観を手放さなかった。その精神の高さに対する圧倒的な異形の念なんですよ。
異形の念。大人が見てもハッとさせられるような、倫理の究極の形がそこには描かれているんですね。
え、まさにそういうことです。
その、絶望的な状況でも折れない、という部分で、各作品の主人公たちの行動を比較した資料があるんですけど、これが本当に面白いんですよ。
世界が理不尽で残酷なら、普通は心が壊れてしまうじゃないですか。
そうですね。普通なら耐えられません。
でも彼らは折れない。しかも、その困難への立ち向かい方が、主人公によって全く違うんですよね。
主人公たちの精神的な成長物語としての側面ですね。時代とともに、実に多様なアプローチが描かれていますよ。
ええ、例えば高校女性ら、裕福な礼状から一転して屋根裏部屋で過酷な労働と、院室内占めを強いられますよね。普通なら心がポキッと折れるところですが。
彼女は違いましたね。
はい。彼女は、もし私が王女様なら、こんな時どう振る舞うか、という想像力を働かせるんですよ。
現実の物理的な状況はコントロールできなくても、自分の内面、つまり気高さや誇りは誰にも奪えない、そういう戦い方ですね。
そう、いうなれば、聖羅は誇りという名の鎧を身にまとって、院室な暴力から心を守り抜いたわけです。
でも一方で、全く違う戦い方をするのが、愛少女ポリアンナ物語の主人公です。
ああ、ポリアンナの良かった探しですね。
はい。あれって、昔はどんな時でもポジティブな、お花畑な楽観主義だと思ってたんですけど、資料の分析を読むと、とんでもない誤解でしたね。
ええ。ポリアンナの行動を心理学的なアプローチで紐解くと、あれは極めてしたたかな戦術であることがわかりますよ。
したたかな戦術。
はい。父を亡くし、孤独で絶望的な状況の中で、彼女は良かった探しというゲームを自分に課すんです。
これはつまり、悲劇の中からあえてプラスの要素を見つけ出すことで、世界に対する自分の認知を書き換えているんですよね。
ただの現実逃避じゃないんですね。
全然違います。絶望に飲み込まれそうな状況下で、自らの視点を変えることによって、自分の感情のコントロールを取り戻すためのサバイバル術なんです。
現代の認知行動療法にも通じる、非常に高度な防衛メカニズムと言えますよ。
面白いですね。セイラが誇りの鎧を着ているなら、ポリアンナは良かった探しという虫眼鏡を使って、世界の見え方そのものを変えてしまっている。
じゃあ、トム・ソーヤの冒険のトムはどうなるんでしょう。彼は絶え忍ぶどころか。
トムに至っては、そもそも社会の箱の中で絶え忍ぶことを放棄していますよね。
はい。枠に収まっていませんよね。
大人たちが押し付けるルールや理不尽さに対して、無邪気な反抗と野生みあふれる行動力で、枠そのものを飛び出して世界を切りたかえてしまうんです。
なるほど。さらに、私の足長おじさんのジュディになると、また少し経路が変わりますよね。
個人育ちの彼女は、未知の後援者の支援を受けながら大学へ進学します。
ええ、新しいフェーズに入りますね。
そこで描かれるのは、与えられた環境を飛び出すだけでなく、知性を身につけ、精神的にもそして経済的にも自立していくというプロセスです。
そうですね。時代が進むにつれて、主人公たちが手にする武器が、精神論からより現実的、社会的な自立へとシフトしているのがわかります。
なるほどな。つまり、これら一連の作品群は子どもたちに向けて様々な心のサバイバルキットを提示していたんですね。
ええ、まさにサバイバルキットです。
この鎧を着てみなさいとか、この虫眼鏡を使ってみなさい。いっそ箱から逃げ出してもいいんだよって。
懐かしい響きですね。
ここでムーミンやアルプスの少女ハイジといった金字塔が生まれました。
その後、1979年の赤毛の杏の放送時に、正式に世界名作劇場という冠が定着します。
スポンサーの変遷を経ながらも、数十年にわたり日曜夜の顔として君臨しましたね。
日本のテレビ史における一つの巨大なインフラですよね。
ここで突起すべきは海外への輸出、いわゆる逆輸入現象です。
ヨーロッパなどの自動文学を日本独自の徹底したリアリズムとレイアウトシステムでアリメ化し、
それがイタリアやスペイン、フィリピンなど世界中で放送されました。
へえ、世界中で?
結果として、現地の子供たちにとって、これが私たちのスタンダードな物語だと受け入れられたんです。
日本初のソフトパワーのまさに先駆けと言える現象でしたね。
原作の国の人たちが日本で作られたアニメを見て、これが私たちの国の物語だと熱狂するってとんでもないことですよね。
でも資料を読むと必ずしも全てがスムーズに受け入れられたわけではないようで、文化的な摩擦も起きていますね。
はい。代表的なのが先ほども触れたフランダースの犬です。
この作品、本国ベルギーでは長らく評価が分かれていました。
結末が悲惨すぎるとか、そもそもベルギー人はあんなに冷酷に子供を追い詰めないと文芸を醸したんです。
日本では清らかな魂の救済として涙を流して絶賛されたのに、本国では残酷な物語として経費された。
同じ作品を見ているのに、文化によってこれほどまでに受け取り方が違うんですね。
宗教観や姿勢観の違いが浮き彫りになった非常に興味深い事例ですよ。
そして現実社会への影響という点でどうしても触れておかなければならないのが、荒井熊ラスカルが引き起こした現象です。
ああ、手元にある当時の資料と現代の環境省のデータですね。
これ、アニメの影響力がいかに凄まじいかを物語るちょっと恐ろしい事例です。
ええ、もちろん私たちやこの資料はアニメの制作者に生態系の問題の責任を問うているわけではありません。
ただ、歴史的な事実として非常に示唆に富んでいます。
はい。
本来、荒井熊ラスカルという作品は可愛い動物との触れ合いを描く物語ではありません。
野生動物と人間が共存することの難しさ、そして最終的にラスカルを森へ帰すという痛みを伴う自立と別れを描いた非常に成熟したテーマの作品でした。
でも、あのレイアウトシステムや緻密な作画によって描かれたラスカルがあまりにも魅力的で生き生きとしすぎていたんですよね。
その結果どうなったか。
アニメの大ヒットにより、現実の日本で荒井熊をペットとして飼いたいという需要が爆発的に急増してしまったんです。
北米から大量の荒井熊が輸入されました。