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2022-01-30 09:58

2022.01.30 【背番号12は韋駄天ナンバー】

#プロ野球 #スタエフ野球部
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はいどうも、zaboのフリースインガー。3連当目でございます。一つお付き合いのほどよろしくお願いしたいとかように思う次第でございます。
はいこの番組zaboのフリースインガーは野球好きなzaboがカジュアルに野球を語る番組でございます。
2021年日本一になったヤクルトの話、そしてプロ野球選手のセカンドキャリアについての話に続いて、今度はOBの話をしてみたいと思います。
ソースは週刊ベースボールオンライン、1月2日日曜日朝11時の配信でございました。
背番号物語南海広瀬&巨人柴田、背番号12東類王発祥の地、イダテンたちが12で類官を駆け回った時代といった記事なんです。
僕ですよ、先日ツイッターで5年前にfacebookでこんな写真を出したそうですわつってツイッターでつぶやいた記事がですね、
図書館で借りた本を5冊並べて写真撮ってそれをアップしたやつなんですけども、
これが2000本あんだ先週の反省を描いた漫画本なんですね。
長島茂雄、大定晴、柴田勲、堀内恒雄、それから金田正一と巨人のOBだけを借りてきてその写真を撮ったんですけどね。
そのツイッターを見た方がですね、柴田って背番号何番だったっけって言ったから僕7番ですねって教えたんですけども、
7番になる前は12番だったんですね柴田選手ね。そんな記事が出てきたのでこれをご紹介と言ったところでございます。
1年は12ヶ月、午前と午後も12時間ずつで、他にも十二支など小読と縁が深いだけでなく、
12進法や12のものをまとめて出すという数字になるなど、やたら日常生活に登場するのが12という数字だと。
プロ野球の背番号では投手ナンバーである10番台の一つながら保守が多い傾向を持つナンバー。
ただエースの系譜としては11や18に保守ナンバーとしても22や27に圧倒されている印象があるのも事実であると。
身近な数字ながらもプロ野球の背番号としては不遇ともいえる12だが、最も特徴的なのはいだてんが多かったことだろうと。
特に1960年代を中心に複数チームで快速を誇る高打者を要していた。
草分け的な存在は中日の岡崎博二。中日が初のリーグ優勝、日本一を飾った1954年シーズン途中に入団して、
60年オフに阪急へ移籍するまで12位で過ごした岡島。
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岡島は58年から2年連続で通るように、岡島とのトレードで阪急から移籍した川野朝輝も56年から2年連続で通るようとなったいだてんで、
投手ナンバーの11をつけていた変わり種だったが、岡島から中日の12位を継承して62年に通るようとなり、プロ野球で最初の両リーグ通るようとなっている。
そして岡島と川野のトレードが成立した60年オフ、新たに12位を背負ったいだてんが誕生した。
広瀬、広瀬これなんて読むんだろうな、吉典、広瀬吉典だ。
広瀬吉典のサバンゴ編歴、サバンゴ57、南海、1955年から60年、そして12位は1961年から79年といった歴でございます。
広瀬は南海のテストを受けて投手として55年に入団、すぐに肘を壊したことで志願して打者に転向。
2年目の56年にデビューから7あざさき連続アンダーの離れ技を演じて、翌57年にショートの定位置をつかんだ。
この時つけていたのは57、プロ入りから60年までを過ごしたサバンゴで12の印象が強い広瀬だが、自身は57の方に愛着があり、車のナンバーも57にしていたという。
ただ投入量は12、1年目の61年が最初の最初、以降5年連続の体感で、翌62年から外野に回ったこともプラスに働き、
打率4割にも迫った64年は自己最多の72投入を決めている。広瀬の持ち味は数よりも堅実さ。
この64年には31連続投入成功もあり通算596投入もさることながら通算投入成功率8割に無休輪という数字は白尾と言えるだろう。
白い眉って書いてある。すごいってことでしょ?難しい言葉使うな。
広瀬が外野に転じた62年、セリーグでも12のいだてんが産声を上げた。
ただまだ出社ではなくやはり投手。
法聖2校のエースとして甲子園を沸かせ、投手として巨人へ入団した柴田勲である。
広瀬と異なり、プロ1年目から12位を背負って開幕に2戦目の先発マンを託されるなどを期待を受けた柴田だったが、
白星のないままシーズン途中に投手として挫折。
まず内野に転向して2年目の63年からは広瀬と同じ外野に終わったやはり広瀬と同じく右バッターだった柴田だが、
出社に転向すると同時にスイッチヒッターにも挑戦。
これでレギュラーに定着して66年に46投入で初の投入用に輝いた。
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翌67年にはトレードマークの赤い手袋をつけて自己最多の70投入で2年連続の退館。
つまり61年から65年まではパリリーグで広瀬、66年から67年まではセリーグで柴田が投入用となり、
7年連続で柴田52が連続投入用となっていたということになると。
このうち62年は河野と広瀬が両リーグでセバンゴ12の投入用となっているから、
セバンゴ12は伊達園を象徴するセバンゴだったのだ。
ただ69年を最後に柴田が7に変更。
セバンゴ12で3度の投入用となった柴田はセバンゴ7でも同じく3度の退館。
半球で福本もセバンゴ7で1年目の72年にシーズン106投入を決めて、
セバンゴ7が新たな伊達園の象徴となっていった。
シーズン106投入ってなんやねんですよね。
柴田のセバンゴの編歴がありますね。
巨人時代、1962年から69年までの7年間12、
それから1970年から81年、11年間セバンゴ7で投入しました。
セバンゴ12が伊達園ナンバーの座をセバンゴ7に譲ったのは
60年代の前半は投入が正式なタイトルではなかったこともあったかもしれない。
64年に広瀬が活躍したことは表彰の契機となったとも言われ、
いわば投入の発祥の地でもあるセバンゴ12。
21世紀に鈴木孝寛が柴田の後継者となったこともあったが、
伊達園の印象が希薄になっているのは少し寂しいといった記事でございますね。
セバンゴ12か、中々注目しづらい数字を持ってきましたですね。
柴田、福本豊、投入セバンゴ7でした。
セバンゴ7で思い浮かべる伊達園で言うと松井和もそうかな、
石毛なんかも足はスピードがあったような印象が何となくありますよね。
巨人で言うと、巨人はあまり走るチームじゃないけど、
松本なんて言うね、青稲妻なんて言われた選手がいましたけど、これは2でしたね。
セバンゴ12で、あ、伊達園系か。
ピンとこんな、ピンとこんですね。
柴田、広瀬と言われてもピンときませんが、
鈴木孝弘はわかりますよね。
なるほどね。
そういったセバンゴ12の歴史があるそうでございました。
はい、いったお話でございました。
本日3本目のザボンのフリースイングは以上としたいかなというふうに思っております。
お時間でございます。
私ザボンさんのFBのほかに、ポテトキャス番組、ベースボールカフェ、キャンチュース、
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ひとつよろしくお願いしますと。
はい、言ったところでございまして、
もう今日は打ち止めです。フリースインガーね。
はい、どうもありがとうございました。またお目見にかかりましょう。
バイチャ
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