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こんにちは、番組ナビゲーターの伊藤由美子です。
伊藤由美子のCozy Spaceへようこそ。
Cozy Spaceとは、日本語に訳すと、居心地の良い場という意味になります。
この番組では、居心地の良い場とは何かということをテーマに、
あなたらしくいられるちょうどいい場所を見つけるためのラジオ番組です。
毎回素敵な方々にインタビューさせていただき、
ついつい夢中になってしまうことや、個性を活かして自由に生きること、
そして、日々気持ちよくいられるヒントなどをお伝えしていけたらと思っています。
伊藤由美子のCozy Space第140回。
2023年6月のゲストは、シンガーソングライターの尾山拓司さんです。
4月16日にこの番組の公開収録、尾山拓司トーク&ライブを開催いたしました。
その公開収録前に、尾山さんには私からのインタビューを受けていただきましたので、
そのインタビューを140回から142回まで3回に分けてお届けします。
尾山拓司さんのデビューまでの創作活動
インタビューの1回目は、尾山さんがメジャーデビューするまで、
そして曲を作る創作活動の話などをしていただいています。
では早速、尾山拓司さんのお話をお聞きください。
今日は、シンガーソングライターの尾山拓司さんにお越しいただきました。
よろしくお願いします。
ということで、尾山さんの私、去年2022年の4月に東京のライブに行った時に、
尾山さんに、ポッドキャストの番組をやっているので、インタビューを受けてくださいって言ったと思うんですよね。
その時に、いいですよって言っていただいたので、
そこから1年、1年後の今日、約束を果たしていただいたってことですね。
よろしくお願いします。
ということで、シンガーソングライターということで、全く私業界の人間じゃないので、
分からないので、本当にシンプルな質問をしていくと思うんですけど。
お願いします。
尾山さんって、デビューが1983年ですよね。
その時から、自分で作詞作曲されて、歌も自分で歌ってっていう活動をされていると思うんですけど、
創作活動の源って、どこから湧き上がってくるんです?尾山さんって。
何かしら、自分を表現したいっていう気持ちは、みんな大抵の人は持っていると思うんですよ。
自分で何ができるかとか、自分にふさわしい仕事は何だろうとか。
そんな中で、僕が手にした方法が音楽だったっていうのがまず第一。
出発、スタート地点なんですよ。
最初だから、中学ぐらいの時から作り始めて、最初は身を見真似てやってたんですけど。
完全に独学ってことですよね。
単純に楽しいからやってたんですけど、もしかしたらこれでもうちょっと上手く自分を表現できるんじゃないかとか、
そういうことを思い始めて、だんだん歳を重ねていくうちに、
何かこれしかないなっていう思いが強くなってきたんですね。
これだって思ったっていうのは、いくつぐらいの話なんです?
20歳を超えた頃かな。
そうなんですか?その時は大学行かれてたんですか?
大学行って、結構ギター振り回してチャラチャラ音楽やってたんですよ。
振り回して?チャラチャラ音楽?
マイクスタンド振り回したりとかしたんですけど、モテたいしみたいなのもあったんですけど、
それだけじゃつまんないなっていう、もっと音楽にはたくさんの可能性があるだろうなっていうのを思い始めて、
それで自分のオリジナルだけをやるバンドを作って、
その頃からですね、やっぱりこれで何とかやっていきたいなって思いました。
プロとしてやっていきたいなって。
でもやっぱり最初は半信半疑というか、本当にできるんだろうか自分にっていうのもあって、
特に田舎の田舎暮らしでしたからね、熊本だったので、周りのみんながまた一人と後世を押し始めて、
バンドマンとかが、
なんか就職しちゃうってことですか?
そうですよ。就職したり、うちの実家を継いだりなんて言って、どんどんなっていく中で、
俺こんなことしてていいんだろうかって思い始めたんだけども、
でもやっぱりこれしかないなっていう気持ちの方が強かったので、
やり続けていくうちに、幸運なことにプロになる道が開けたってことですね。
そのあたり、さっき言った20歳過ぎてから、ちょっとこれかなって思って、
デビューしたのが25歳ですよね。
その間でどうされてたんです?
言ってません。いろいろ。
そうなんですか。働きながらバンドやってとかっていう感じですか?
働くっていうのはなかったし、バイトももちろんしてましたけど、
音楽だけで一本で食うっていうところも一気にいかなかったので、
何としてプロになりたいなっていう気持ちだけでずっと暮らしてましたね。
それはまだ熊本にいらっしゃるんですよね?
そうです。
デビューする半年前に東京に住居するんですよね?
そう。83年の3月にデビューしたんですけども、
前年の6月に何の当てもないまま東京に出て行って、
放送局とかに行ってデモティック聴いてもらったりとかしたんですけど、
上京して1ヶ月で電話がかかってきて、
あるシスタクセーションの事務所の社長が
君の歌に興味を持ってるから会いに行こうって言って、
あるレコード会社のディレクターさんから連絡をもらって、
それで会いに行って、君をうちでプロデュースしたいんだけどどう?って言われて、
だから上京して1ヶ月で決まっちゃったんで。
それ早いですよね。
こんな事ないと思ってますよね。
当分はバイトでもしながら、東京で音楽の道を探ろうっていうぐらいのつもりだったので。
つもりだった矢先、そういう話が来たってことなんですよね。
びっくりしました。
で、翌年の3月にはもうデビューしちゃったので、
1年足らずでデビューしちゃったんですよね。
だからそれは相当ラッキーだったと思いますよ。
すごい数のところ回ったわけではないんですか?
回ったわけでもないです。
そうなんですね。
デビューするまでの半年間に、
尾山拓司さんのデビュー曲とその後の曲
ファーストアルバムの曲を結構作ったんですよね。
そう、プロデュースやってくれてる人に歌を聴いてもらったんですよ。
4曲以上のデモテープを作ってて、
その中の一曲がデビュー曲になるんですけど、
それ以外の曲も聴かせてくれって言われて、
いっぱい聴かせたんですよ。
全部ダメだって言われて。
結構それはショックでしたね。
だからもうずっと200曲ぐらいも作ってた。
デビューする前に200曲あったんですか?
そうですね。
それが全部ダメって。
一番自信のある曲を聴かせたんだけどダメって言われて。
とにかく先に先行シングルを出すんで、
B面の曲を作れって言って。
当時シングル版でしたから。
B面の曲をすぐ作れって言って。
それができないとお前の明日はないぞって言われて。
必死になってその夜、その晩にも一晩でB面の曲作ったんですよ。
そうなんですか?
西からの頼りって曲なんですけど、
西からの頼り。
西からの頼りなんですか?
ファーストアルバムの最後に入って。
それを作って、先にシングルを出すっていうところから活動が始まったんですね。
で、そこの後もうとにかく必死になって曲を作りましたね。
だからファーストアルバムに入っている曲で、
小山本時代に作ったのは最初のシングル1曲だけですね。
フィルムガールだけなんですね。
あとは全部東京に出てきてから。
本当に必死でした、その頃は。
ファーストアルバムの1曲目の、長いタイトルのごめんなさい。
長いタイトルのっていうの終わっちゃってる。
覚えて。
そうです。
そうですって聞いてる人が多分、小山さんのファンの方。
72nd Street NYNY 10023って言ってます。
なんでそんな長くつけちゃったの?
これは当時ニューヨークでジョン・レノンが住んだタコタアパートメントの住所をそのまま曲のタイトルにしちゃったんですよ。
そういうことなんですよね。
あの曲の最初のフレーズって、なかなかあの詩書くってことは私できないと思うんですよ。
あんた地下鉄の匂いがするって。
あんた地下鉄の匂いがするって、そういう発想なくないです?
なんででしょうね。
だってそれ聞きたかったんですよ。
あんた地下鉄の匂いがするってあんまり日本語として表現しなくないですか?
そうかもしれないですね。
だからどうしてそういう歌詞になったのかなって思って。
どうしてでしょうね。
普通に降りてきて出た言葉なんですか?
そうですね。あの曲はそんなに時間かからずあっという間にできましたね。
あっという間に?
さっき1日でできたっていう西からの便りもそうですけど、それも1日とかでできちゃったんですか?
1日か数日はかったと思うけれども、最後にたどり着くまでにね。
でも大体のアウトラインはもう一周でできましたね。
それ何かこう振って湧いてくるような感じなんですか?
たまにあるんですよ、そういうこと。
たまになんですか?
他の曲で振ってパッとできたやつってあるんですか?
ありますよ、いっぱい。
いっぱいあるけど、たまにです。
あとはもう宿泊してます。
宿泊するんですか?
曲のテーマっていうのは最初に前に降りてくるんで、
そのテーマがあってそのテーマをどう料理するかとか、
そのテーマに沿ったどんなシーンを描くかとか、
どんな言葉を使うかとか、
一人称にするか三人称にするかとか、
そういうことを考えながらだんだん形が出来上がっていくっていう感じですね。
最初にテーマなんですね。
テーマか、あるいは風景ですね。
イメージ力ですよね、それって。
そうですね。
そっから色々言葉を探していくって感じじゃないですか。
言葉もだから、迷い売りって言うとちょっとかっこよすぎるんだけど、
やっぱり探して見つけるって感じなのかな。
それって作詞と作曲とあって両方されるじゃないですか。
曲からが先かって、それも色々なんですか?
色々ですね。詞からできることもあれば、
メロディーが先に出てくることもあるし、
メロディーが先に出てきた時は、
そのメロディーがどんな世界を描いてくれるのかを
自分で探すって感じですね。
それって言うのは、場所としては大体どういうところが多いんですか?
家の中とか、外とか色々。
いや、どこでもそういう場所が多いですね。
問わず、自分の中で何か降って降りてきたものがあったら
何か書き留めたりとかするって感じですか。
逃がさないぞと思って必死でもう急いで書きますね。
詩とかだったらそれで行きますよね。
曲だったらどうするんですか?
何かにレコーダーとか入れるんですか?
自分でファーッと歌ってみて、
こんな感じかなって思ったらもう数録をして。
そうなんですね。さっき言われたデビューする前の
NGが出ちゃったっていう曲の感じと
デビューしたからの実際皆さんに聴いていただけるっていう
曲との何か違いって自分の中であるなと思います?
今考えると爪が甘かったみたいなことを感じますね。
もうちょっと曲として成立させるための
曲の存在そのものが少し薄かった感じがしますね。
昔の曲をね。
もっとさっき言ったテーマが明確になったっていう感じなんですかね。
そうですね。
デビューした後の曲は。
曲作りと創作活動
主人公の考えていることがはっきり見えてきたっていうのかな。
ある主人公が浮かんだとするならば
その主人公が伝えたいことがはっきり見えたっていうのかな。
そうすると言葉もはっきり見えてくるし
そういうことですね。
すべてイメージしていって
その世界を作り上げていくっていうことなんですね。
そういった曲作りで創作活動って
どんどん作っていくと
私建築士だから
例えば家作りでプランを作るときに
あんまりそればっかりずっとやってて忙しくしてると
自分の中で枯渇するっていう感覚があるんですよ。
自分の中からどんどん出していっちゃうと
何かインプットしないと
アウトプットばっかりしてると
どんどん出しちゃうっていうことって
自分の中であったんですよ。
そういったことって感覚としてありました?
ありますよ。
やっぱりインプットとアウトプットのバランスを取っていかないと
アウトプットずっとしてるとやっぱりカラカラになりますよね。
そうですよね。
そのアウトプットして
その後何かで補給しなきゃいけないじゃないですか。
自分の中に。
インプットとアウトプットのバランス
それって大山さんでいくと
どういったものがそれに当たるんです?
やっぱり外を歩いたりとか
外を歩いたりのインプット
具体的なインプットが多いですね。
そういった他の創作されたものからとか
何かエネルギーもらうっていう感じですかね。
音楽そのものからインプットされることはそんなにないですね。
自分と同業者っていうか同じものだから
同じものをそれをそのままインプットすると
同じものになっちゃうから結局は。
だからそうじゃない世界のジャンルのものから
インプットすることが多いですね。
最近これは良いインプットだったなって思うのってあります?
やっぱり本読んだり映画見たりっていうのが一番多いかな。
あとはたまに海外に行って
曲作りしたりする時の初めて見る風景とか
そういうのからもいろんな刺激を受けますね。
あと私ちょっと聞きたかったのが
作詞作曲を大山さんがして自分で歌う時と
あと数曲でしょうけど
他の方が大山さんと共作とか
大山さんに向けて作ったことあるっけな。
共作は何回かあります。
共作はありますよね。
その曲と自分の中の曲に対しての解釈の違いとか何かあるんですか?
例えば僕はどっちかというと詩をメインに考えるので
逆のことをしたくなって
高橋けんっていう知り合いのスインガーに
プロデューサーでもあるんだけども
僕はメロディーを書いて彼に詩を書いてくれって一回依頼したんですよ。
2曲一緒に共作したことがあって
そうすると自分が思ってたのと全く言葉の使い方も違う
全く異なる表現での作品になって
逆にすごく刺激を受けましたね。
アプローチの仕方とかが違うんですかね。
全然違いますね。
けんさん、この前ラジオ番組、私の番組に出てくれましたけど
ジオラマという品になってたんですかね。
その2曲を今度収録したアルバムを出すらしいですね。
そうですね、言ってました。
私の番組でも言ってましたよ。
もうレコーディングしたって言ってました。
私はジオラマって曲大好きなんですけどね。
作詞作曲じゃなくてアレンジの世界ってあるじゃないですか。
編曲とかってされます?
僕は基本的にはしないです。
それは割と委ねることが多いですね。
他の方に?アレンジャーの方に?
だいたいそうですね。
か、今自分のパーソナルバンドがあるので
ライブをやるために
そのバンドの内容とアレンジを決めていって
ライブでまずやってみて
それをそのままレコーディングしたことはありますね。
そうなんですね。
基本的にはプロデューサーっていう人を立てて
けんさんと1枚作ったこともあるし
あと河村ひろし君っていう
ジンガーコンポーザーと前回のアルバムも一緒に作ったし
その時は割と彼に言われることが多かったですね。
でもやっぱり期待通りのサウンドっていうのかな
もちろん作り始める前に
いろんなことをお互いに話し合って
こんな感じの世界にしたいなっていうことを
ちゃんと伝えた上での話なんですよね。
そうするとやっぱり
もちろんまず彼と組む前に
彼と何度も一緒に音楽をやったりライブをやったりして
それでこの男とだったら
きっといいものが作れるだろうっていうのが
あった上での話ですよね。
そのあたりとても大事ですよね。
共作とアレンジの違い
とても大事ですね。
通じ合う何かがないと
同じものって目指して作れないんですよね。
そうですね。
オアマさんって今も年間50本とか
ライブやられてると思うんですけど
若い時からずっとやっぱり
ライブずっとされてるじゃないですか。
若い時っていつか
若い時かわからないけど
長くやったらだんだんわからない
そこで決めるのも変だなと思ったんですけど
以前と今、現在と
ライブやってて
何か自分の中で進化したものってあるなと
思いますね。
お客さんに伝える方法が
昔よりは
小山拓司さんにご登場していただきました。
ここでインタビューの中で話に出ていた
小山拓司さんが作詞作曲された曲
One West Seventy Two Three N.Y.N.Y. One World Two Three
そして西からの頼りのライブ音源をお届けします。
どうぞ。
あんたしか鉄の匂いがする
君はホイールの匂いがするよ
裏切られて二晩ずつ泣いた後
二人はこんな風に始まったんだ
最初に二人はベッドで愛を持ち寄り
叩く手を繋いで日陰棒を飛び出した
女は上手にダンスを踊った
男は上手にブルースを歌った
駅前で演説を三十分聞いた後
お金箱を持った女をからがった
郷外で紙飛行機を飛ばして
ネックレスを売り払い食事を済ませた
二人ならきっと上手くやっていけるよ
何一つ二人を止めることなんかなかった
急になり大きなネオンに差し掛かった時
二つの影はたくさんの靴に踏まれた
モザイクのような星空を見上げて
破れたポケットから小銭をこぼした
俺たちをどこかへくわえてくれないか
だけどそれから夜は花火のようにはじけた
壁のポスターは警官に剥がされ
信号は赤の点滅を続けた
二人ならきっと上手くやっていけるよ
何一つ二人を止めることなんかなかった
夜が明けてすっかり受け込んだ体で
ダコタへたどり着いた二人は
朝日に静かに洗い流された
錆びついた時計は新しい時を刻み続けてる
二人ならきっと上手くやっていけるよ
何一つ二人を止めることなんかなかった
夢に囲まれた田舎町に生まれた
ここではみんな二十歳で髪を切る
だけど土曜の夜は裏通りの橋口で
男たちが街を出る計画を練っている
この街では誰もが東を目指している
街に流れるヒットソング
テレビから流れるニュース
与えられたものだけでこの街は救られてる
だから男たちは夢の中外人たちの
東からの手招きに心を引きずられる
この街では誰もが東を目指している
出ていかなければ弱虫と呼ばれ
帰ってくれば負けると笑われる
誰もが自分を選ばれたものと信じ
闇雲に走り出しては必ず痛い目に浴ぶ
だけどいつの日か出て行くことを夢見て
月曜の朝には満員電車に乗り込む
この街では誰もが東を目指している
出ていかなければ弱虫と呼ばれ
帰ってくれば負けると笑われる
この街では誰もが東を目指している
この街では誰もが東を目指している
この街では誰もが東を目指している
この街では誰もが東を目指している
この街では誰もが東を目指している
この街では誰もが東を目指している
この番組は音楽事務所ロイスタープロダクションの提供でお送りしました。
それでは次回もお楽しみに。伊藤由美子でした。