Mika Ueno
XCrossing、英語でスクランブル交差点を意味します。
趣味も世代も、住んできた町も違う3人が、スクランブル交差点で出会うように、様々な話題を聞かせる、おしゃべりの交差点です。
今日のXCrossingであなたが出会うのは、どんな話題でしょう?
Takuya Oikawa
おはようございます。東京でいろいろやっております。及川です。
Nobuhiro Seki
こんにちは。ニューヨークからお届けしております。スタートアップの投資等をしている関信浩です。ちょっと喉が痛いです。
Mika Ueno
こんにちは。上野美香です。健康体でございます。マーケティングとプロダクトマネジメントの支援をやっているフリーランスです。
今日は、先週の回が1周年ということでですね、
Takuya Oikawa
めでたい。
Mika Ueno
めでたい。丸1年経って2年目に第一歩を踏み出す回。
アンケートでいただいたコメントに基づいて、関さんの生い立ち的なところ、プロフィール的なところを取り上げたいなと思います。
Nobuhiro Seki
よろしくお願いします。
Mika Ueno
と言ってもすごくいっぱいあると思うんですけど、どの辺から行こうかな。
でも関さんは知っている人も知らない人も多いと思うので、どういう経歴なのかみたいな、最近のお仕事、社会に出てからみたいなお話、まず聞くのはどうでしょうかね。
Nobuhiro Seki
社会人になってからですね。実は私は大学で二留してまして、大学に行っている間に同級生がどんどん就職していくというのを見てですね。
Mika Ueno
二留ね。
Nobuhiro Seki
二留です。なので大学3年生の時に同級生が社会人になると。大学2年の時に実はみんなが就職活動していたんですけれども、その時はいわゆるバブル最後の就職リクルーティングで、みんな拘束されたりですね。
いきなり銀座から電話がかかってきて、今みんなで寿司を食べておごってもらっているんですけど、こないいみたいなことを言われるみたいな、映画でしか見られないような光景ということですね。
でもその時学生だったので暇なんですよね。二留もしているので、やることもないから本当に電話かかってきて、銀座まで行ったりとかしてましたけど。
みんなが就職したって自分だけ残されて、さてみんなにどうやったら追いつくだろうみたいな。そんな感じで実は社会人になってから自分の名前とかで仕事をできる職業をしたいっていうのを考えていて、それで実はマスコミとか戦略コンサルとかそういったところを目指していた1993年ですね。
Mika Ueno
自分の名前でっていうのは、マスコミだと記者とか、アンカーみたいな名前が出るみたいなそういうことですか。
Nobuhiro Seki
名前が出るかどうかって新聞とかってほとんど出ないんですね。そこまで深く考えたかっていうと実はそうでもない。
そんなことは詳しく知らないよね。取材に行ったりすると、最近だとむしろネガティブな面も多いんですけど、記者会見されて質問するとかって別に会社の誰かから言われてこの質問してこいって言われてするわけでもないし、自分個人としての質問力とか、要するにこの人じゃないとできない質問とかって絶対あるはずなんで。
そういう意味で言うと、例えば上司にこれやってください、はーいとかっていうことは全くなくて、実際にいろんな職場がそうかどうかって全くわかんないんですけど、それっていうのを人に差別されずに自分でやるみたいな。
自分でやることによって早く社会人として成長できるんじゃないかというふうにその時は思ってたっていう。
実際にその時は、僕の同級生がバブルで一人予算5万とかいって、夜飲み食いしてタクシーで帰ったときから、たった2年でえらい変わりまして、就職活動の会社案内とかってやるんですけど、会社案内の申込書とかを送ると、往復の交通費は自己負担ですって書いてあるんですけど、
つまり、ちょっと数年前までは全部そういうのも交通費も支給みたいな、そういうのが当たり前だったっていう時代があって、知り合いとかで北海道に住んでるんだけど、東京の会社で面接をするみたいな。
Nobuhiro Seki
で、そうすると往復の飛行機代が出ます。3社やると3社分出るみたいな。だから、東京に行って話をするたびに10万円浮きました、10万円儲かりましたみたいなことを言ってる人がいるっていう。そういうのが僕らの2年前だったんですけど、僕の時は、行き帰りのJRの交通費も自分出すんですよって書いてあるぐらい。
これはすごい相当。
Mika Ueno
2年でそんな違うんだ。
Nobuhiro Seki
知らない人から見ると当たり前じゃないですか。でも、北海道で2年見てて、もしかしたら大学に行って、自由活動したけど大学に行ってもう1回見てる人は違うかもしれない。同じこと見てるかもしれないですけど、あんまりそういう人っていないんで、そういう意味で言うとなかなかそういう差に気づくっていうことはあんまりないと思うんですけど。人事部の人はもちろんそういうふうに意識してやってると思うんですけど、受けてる側でそういう人はあんまりいないと思うんで。
なるほど。世の中ってこういう個人の能力では抜きさせられないマクロの波みたいなのがあるんだなって感じなかったりしてたんですけど、そんなことがあったのは就職活動ですね。
就職活動をして、いろいろ紆余曲折あって、マスコミは新聞系の出版社に入って、他にもいくつか内定も出たんですけど、その年はとにかく内定が全然出ないっていうので有名で、
僕の同級生とかでも7月になっても内定出ない人結構いたみたいな、だったんですね。氷河期の初めみたいな感じだったかなと思うんですね。
それでも入って、とにかくがむしゃらに追いつかなきゃいけないっていう、そういう意識はずっと社会人入ってから持ってたんで、編集部に配属されて、研修が3週間あって、
7月の23日か何かに配属されたんですけど、その中で自分が考えたのは、とりあえず3年目ぐらいの人よりもいい記事をいっぱい書こうみたいな、そういうちょっと感じ悪い新人でした。
だからもう自分の中でターゲットはその人たちよりも編集会議とかでいい企画を出して、その人たちよりもいい記事を書いて、その記者としていい評価を得るみたいな、そんなことを考えておりました。
で、そういうようなギラギラしてるっていうか、なんとかしなきゃいけないっていう中で、実は2週間ぐらい前にブログ書いたんですけど、ジョン・スカリーと走った話っていう。
Mika Ueno
ジョン・スカリーとは。
Nobuhiro Seki
ジョン・スカリーとはですね、Appleという会社があって、スティーブ・ジョブスとスティーブ・ウォズニアックが設立したと言われていて、ジョン・スカリーはスティーブ・ジョブスがペプシコというアメリカの清涼飲料水の社長をしていたジョン・スカリーっていう人を引き抜いて、AppleのCEOにした。
もともとはスティーブ・ジョブスがたぶん、その時はCEOだったと思うんですけど、自分だけではやっぱり大企業にしていくという中では限界があると思ったのか、いいマーケティングのプロをハイヤーしようということで、ジョン・スカリーっていうのを引き抜いて、自らくどいて自分の会社のCEOにしたという、そういう人ですね。
で、Appleに入って最初は三ヶ月だったらしいんですけど、だんだんいろいろ対立があって、最後はスティーブ・ジョブスはジョン・スカリーを率いる取締役会で解任されて、Appleを去らなきゃいけなくなるっていう、そういう時のCEOなんで。
Takuya Oikawa
あれですよね。一生砂糖水を売っていくんですか? ってくどいたんですよね。
Nobuhiro Seki
そうですね。ペプシ、ペプシコでセ清涼飲料水っていって砂糖水ですね。で、その後ジョン・スカリー、CEO時代になってスティーブ・ジョブスいなくなった後っていうのも、その後、いわゆる携帯電話、PDAで当時してたのかな、ニュートンでしたっけ。
Takuya Oikawa
ニュートンですね。あ、ニュートンの前かも。ナレッジナビゲーターとかってのもなかったでしたっけ。まあでもニュートンかな、たぶんニュートンですね。
Nobuhiro Seki
で、なんかそういうのやってたんだけど、あんまりうまくいかなくて、たしかに93年か何かにApple辞めてる。で、なんでかって言うと94年の4月に社会人になってるんですけど、その前の年に辞めていて、で、僕がちょうど社会人に入って1、2ヶ月の時は、Apple辞めた後、Apple辞めた時に結構お金ももらっていて、
それでいろんなアドバイザーをするみたいな感じでプラプラしてたかな。プラプラしてないですけど、たしかいくつか会社も引き受けてたと思うんですけど、で、その時にちょうど話に戻すと、僕がギラギラしてる時にですね、なんかこう記事を書かなきゃいけない。
で、当時、アメリカではパソコン通信っていうのがすごい結構流行っていて、これから大きな技術になると。その時にアメリカで当時1位になったのか、すごい勢いで1位になったのがアメリカオンラインっていう会社があって、そのアメリカオンラインがどうも日本に進出するらしいっていう噂を聞きました。
それは、もちろん全体としてそういうのがいつかあるだろうっていうのは、みんな知識の中にあるんですけど、どうもそろそろ来るらしいっていう噂を聞いて、で、編集部の人とか隣の編集部とかいろんな人にこう声、あと外部の人とかに声かけまくっていたら、どうもスティーブケースっていうAOLのアメリカオンラインの創業者で、司業だったんですけど、なんかお忍びで来てるらしいと日本に。
で、その提携先を探してる日本に進出にあたってっていう情報を聞いて、で、さらにずっといろいろこう聞いていると、これ全部同じ日の話なんですけど、聞いていると、どうもアドバイザーとして、アップル、元アップルのジョン・スカリーを採用していて、ジョン・スカリーと一緒に来てるらしいっていう情報が夕方ぐらいになってわかったんですね。
その後も編集部の中でデスクとかと話をしていたら、ちょうどそのデスクがちょっと前にニューヨークに駐在したときに、アップル時代にジョン・スカリーにインタビューしたんだけど、彼はどこの国に行っても必ず朝5時に起きてジョギングをするんだと、そう言ってたと。
それはどこの国に行ってもそうなんです。実際、その後最近になってジョン・スカリーの名前でジョギングで調べたら、ジョギングをしているところが写真として残っていて、それ自身が何か雑誌の特集が何かなってるんですね。
そういう写真も出てきて、それぐらい有名だったんです、毎日ジョギングするのに。僕はそんなこと知らないですけど、とにかく朝5時にやると。じゃあ明日の朝5時にとにかくジョギングするとこ捕まえようと。
その後色々調べたら、アップル時代は来るときはいつもホテルオークラのバスだということがわかりまして、そうか、じゃあホテルオークラの前に朝4時半ぐらいから張っていればジョギングしようとしているジョン・スカリーが会えるに違いないと。
と言ってもうちょっといてもたっといれなくなって、すぐ9時ぐらいにもう家に帰ってですね、次の日朝3時に起きて、新聞社とかだと社用車とかってなるんですけど、雑誌じゃなくてそういうのなくて、3時だと電車も動いてないんで自分の自家用車を出しまして、当時まだ運転してたんで、
Mika Ueno
結構早めだったんですか?
Nobuhiro Seki
いや多分。
Mika Ueno
ペースは?
Nobuhiro Seki
ペースはそんなに早くないと思いますよ。
ただこっちはスーツ着て革靴走ってるから。
だからもうすねとか痛くなってきちゃって、途中で。
革靴って結構普通に着地できないんで、すねが痛くなってきてと思ってたんですけど、
ずっと走ってたら最後、東京に住んでる人は分かると思うんですけど、
桜田通りっていうのがすごい片側、5車線くらいあるすごいでかい港区にある通りなんですけど、
そこに入ってずっと坂を降りてですね。
最後、何故か右側を走ってたんですけど、
ホテルは左側のところから細い道を上がっていくとホテルだったんですね。
上がっていくところまでずっと右側で、太い道の右側を走っていて、
左を曲がろうと思ったらすごい太い道だから、歩行者用の信号がずっと赤だったんですね。
別に車走ってるわけないんだけど、車道がずっと青でした。
その時、後ろからもう300メーター、400メーターくらい離れてたと思うんですけど、
止まってるわけですよ、右の前の方で。
もうそこから300メーターくらいでホテルオープンしたんです。
300メーターくらいでホテルオープンなんで、
これは最後の力を振り絞って斜めに走って横断歩道の反対側に行くしかない。
とにかく信号が、車道の信号が青のうちに描いてないってことでしょ。
6車線、片側5車線くらいのところをもう車道をスーツで横切ってですね、
斜めに走って横断歩道の前まで行って、もう汗だく息切れしてるんですけど、
ちょうど交差点の向かいあった形になったんですよ、ジョン・スカリー。
ジョン・スカリーさん向こうにいるんですけど、向こうから歩いてね、
僕ももう息絶え絶えになりながら歩いてって、
Are you Mr. John Sculley? って聞いたんですけど、そしたらYesって言われて、
で、そこからなんかこう追っかけてきたら、なんだかわかんないかなっていう話をしてくれて、
すごいビジネスマンだから、そこからあとすごいフレンドリーにしてくれて、
歩きながらずっと、息も絶え絶えで、
Mika Ueno
ぜーはーしてますよね。
Nobuhiro Seki
ぜーはーしてますよね。
多分ね、30分以上走ったと思うんですよね。
Mika Ueno
30分?スーツで革靴で?
Nobuhiro Seki
で、そのままずっとホテルに行ったら、別れ際に、
実は8時からブレックファーストの、パワーブレックファーストみたいなやつがあって、
人も呼んでるから、そこに来なさいと。
ただ、来る時には一度家に帰ってシャワー浴びてスーツを着替えてから置いてねって。
言われたんですよ。
そういう時でも気が回るすごい人なんだなと思って、
そのドロドロの状況で自分の車に戻って、一回家まで帰って、
シャワー浴びてスーツ着替えて、今度は電車でホテルオークラ行ったんですよ。
来たら朝7時45分くらいかな。
ちょうど着くぐらいに行ったら、実はホテルオークラの2台ぐらい黒乗りの車が着いていて、
新聞社の旗がナビでパタパタパタって。
実際に言われた部屋に行ってみたら、既に日本の新聞社の記者2人来てるんですよ。
もともと新聞社の記者には、そういう説明会をしようと思っていて、
Nobuhiro Seki
ブレックファーストのミーティングを設定してました。
そこに僕の席が1個用意されていて、ギリギリになって。
だから3人、要は新聞社2人と、多分2人とも僕より10上ぐらいのキャップよりちょっと手前ぐらいの人だな。
多分それって、スティーブ・ジョブズさん日本に来るの初めてですみたいな感じで、
ジョン・スカリーにどうしたらいいかって言ったら、じゃあ新聞社呼んでやるよって多分言われたんでしょうね。
呼んで、記者会見とか記者会見じゃなくて、内々のミーティングをセットアップしたんですけど、
そこに呼んでもらったと。
で、座ったらスティーブ・ケースがいてですね。
スティーブ・ケースがアメリカオンラインについてのプレゼンを始めたわけですよ。
記者3人と、スティーブ・ケースと。
で、後ろの方にちょっと離れて、ジョン・スカリーンさんですけど。
で、ずっとスティーブ・ケースさんがAOLについて話をずっとしてたんですけど、
その時にずっと聞いてたら15分ぐらいしたからかな。
突然なんかジョン・スカリーさんが後ろの方にスーッと寄ってきて、名刺をくれたんですよ。
スーッと。
そしたら名刺に手書きで、関さんIt's a pleasure to meet youとか書いてあって。
Mika Ueno
ほんと?
Nobuhiro Seki
うん。って書いてくれたんですよ。
まだ説明中だから無言でニヤって、私にニコッと笑ってくれて。
でもそれで基本的にはその、取材終わって、どうもありがとうございましたって感じだったんですけど。
Mika Ueno
Seki-sanって書いてくれたのは、関さんは自己紹介とかしてたんですか?
名刺渡してたんですか?それでちゃんと名前渡したんですか?
Nobuhiro Seki
そうそう、あの時です。
Mika Ueno
横断歩道の時?
Nobuhiro Seki
横断歩道、別れる前に当然名刺渡してるんで。
名刺渡してるんで。
名刺はもうとにかく渡さないと。
Mika Ueno
めちゃめちゃ印象深いでしょうね、それはね。
Nobuhiro Seki
ちょっと怖かったと思いますよ、絶対。
Takuya Oikawa
関さんその名刺まだ残ってるんですか?
Nobuhiro Seki
多分どっかにあると思います。実家とかにあると思いますけどね。
Takuya Oikawa
宝物じゃないですか。
Mika Ueno
宝物ですよ。
Nobuhiro Seki
その時ジョン・スカリーは、兄弟立ち上げたスカリーブラザーズって書いてあったかしらも、何もなくて名前だけかもしれないですけど。
なんかそんなすごい結構分厚いエンボスの名刺だったっていうのはよく覚えてますよね。
そんなことをやったりとか、あと当時はネットスケープがちょうど創業したばっかりで、やっぱり同じパターンで、
マーク・アンドリーセンと当時大学卒業したばっかりで、
それとあと当時シリコン・グラフィックスの創業者で会長だった。
ネットスケープの創業者。
Takuya Oikawa
何だっけ、名前出てこない。
Mika Ueno
マーク・アンドリーセン、ジェームス・クラーク。
Takuya Oikawa
もう一つの方です、もう一人の方です。
Mika Ueno
ジェームス・クラーク?
Nobuhiro Seki
そうそうジェームス・クラークですね。
ジム・クラーク、ジム・クラーク。
ジェームス・クラークさん。
この人は確かスタンフォードからシリコン・グラフィックスっていうのを創業して、
ネットスケープ作る時にはシリコン・グラフィックス直前に辞めていて、
マーク・アンドリーセンは当時イリノ大学っていう、
シカゴから南に300キロぐらい離れてるかな、
ところの大学で、
当時はNCSAモザイクっていうのを開発してたんですけど、
そこから彼をマーク・アンドリーセンを引いて、
一緒にジム・クラークが会社作ろうと言って、
1994年4月に当時モザイクコミュニケーションという名前で作って、
その後モザイクという名前がちょっとまずいということで、
ネットスケープという名前に変えたんですけど、
やっぱりその時もすごい似たパターンですね。
ジム・クラークさんってシリコン・グラフィックス時代に
日本に来てるから日本のことをよく知ってて、
ネットスケープの日本展開っていうのをやっぱり探しに来てるらしい。
またそれもゲットして、
その時はどうもいろんな人の話を聞いたら、
ほとんど出題の時間とか長そうなんだけど、
どうも築地にある電通から大手町にある日系に移動するらしいということを
情報を聞いてですね、電通の入り口で待ってたんですね。
電通の入り口で待ってて、
その時はジム・クラークについてる日系人の人がいたんで、
その人に事前にちょっと聞いといたんで、
入り口で待ってるんで移動中にタクシーに同乗させてくれと。
多分15分ぐらいですから、15分でインタビューするからって言って、
乗ったんですけど。
逆だ、逆だったかな。
大手町から築地かもしれない。
乗って、後ろの席にジム・クラークと2人にしてもらって、
ずっとそこでインタビューしてたんですけど、
運転手さんが築地の電通に行くはずなのに、
電通ってだけ言ったんで、
当時は電通ってもっと先の聖路加タワーっていう聖路加病院の先に