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社長に聞くin WizBiz
本日の社長に聞くin WizBizは、株式会社フレアス代表取締役 佐野上社長様でいらっしゃいます。
まずは、経歴の方をご紹介させていただきます。
1969年生まれ、山梨県ご出身でいらっしゃいます。
国立大学外国学部卒業後、北京中央大学留学、新旧マッサージ師となられます。
その後、東京いかしか大学、大学院をご卒業終了。
その後、フレアスさんを創業し、2019年3月には東商マザーズに上場していらっしゃいます。
上場器用の社長様でいらっしゃいます。
佐野上社長様、本日はよろしくお願い申し上げます。
よろしくお願いします。
まず最初のご質問なんですが、ご出身は山梨ということで、小学校・中学校時代、どんなお子さんでいらっしゃいましたでしょうか。
出身は山梨県、今でも住民票は山梨県に置いてあるんですけれども、小学校の頃は非常に心の繊細で優しい子供だったものですから、
引っ込み事案で、全然外交的ではなくて、本が友達みたいな、かぎあえたごく数人の友達と、
あとは本がずっと読んでいるような、内向的な子供だったんですね。
大人になってから社長になったというと、同級生はみんなびっくりしまして、
お前が社長になったのか、しかも上場したのかということで、大変びっくりされたんですけれども、
今とは全く正反対のような性格でしたね。
その頃読んだ本で、思い出の本はあられますか。
ドリトル先生、長靴下のピップとか、海底にまんまえとか、子供向けの冒険小説が大好きでね、
それで想像力を広げてワクワクしていたというのも、
もしかすると今の仕事に役立ったかもしれませんね。妄想力と言いますかね。
なるほど。ありがとうございます。
高校も山梨県内の高校でいらっしゃいますか。
高校も山梨県内なんですけど、私は高校はあまり行っておりませんで、
いわゆる不登校とかニートってそんな状況だったんですよ。
小学校時代、先ほど言ったような繊細な子供だったものですから、
自分で勝手に病気になってました。どんな病気かというと、
重症化炎なんですね。小学生なのにストレスが多くてですね、重症化炎になっちゃった。
ただ何十年も前の話ですから、病院に行っても発見されなかったんですよ。
2年くらいお腹痛い痛い、激痛でうずくまるくらい痛い発作が
日に4,5回あったんですけども、ある日トイレに行ったら、
悲態な話で恐縮なんですけども、大便が真っ黒でした。
下血と言いますよね。胃から出血して、便に混じって。
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それを見て、僕の母親もびっくりして病院に行ったら、
手遅れで胃のがぐちゃぐちゃになってましたね。
手術だったんですよ。入院して、みぞ落ちからへその横まで大きな回復手術をやって。
中学生の時はそんな大きな手術をやったものですが、体調優れず、
もともと愛好って言ってね、人と接するのも苦手だったので、
高校は行かずに冒頭してたというのが、高校時代のあんまりパッとしない思い出なんですね。
なるほど。今のお元気な姿からは想像つかない感じでらっしゃるんですね。
9歳でお腹が痛くなったんですが、9歳から手術を経て19歳くらいまで、
10年間は本当に体調が悪いし、お腹が痛いし、
頭の中もマイナスになってしまうというか、暗くなってしまうという、
私は暗黒の10年間は子供時代だったんですね。
その後、北陸大学の外国学部を卒業ということは、
北陸大学にご入学されていらっしゃるということなんだと思うんですけども、
きっかけが何かあった北陸大学に行かれることになったんですか?
これはですね、高校を復興を受けて何とか卒業をさせていただいたという感じなんですけども、
何もしなくてボーッとしてたんですよ。ニートやってたんですけども、
他人の先生が偉い先生でしてね、1年ぐらい経ったら僕のとこやってきて、
お前もそんなボーッとしたら困るだろうと、
いけそうな大学を探してやるかと言うと、ちょっと僕は失礼なんですけども、
何とか推薦で入れと言ってですね、入れさせていただいたんですね。
入ったところがたまたま中国語学部というところで、
それで中国に行ってからちょっと僕の運命がガラッと変わったという天気にもなりました。
北陸大学ってことは金沢のほうですか?
そうなんですよ。行ったことのない地だったんですけどね。金沢に行きまして、
金沢で大正12年経った一軒家の応接間を借りてですね、周り家賃は1万9千円、
共同トイレ、風呂なし、そこで一人暮らしを初めてスタートしたというのが金沢の地ですね。
何かこの一人暮らしで不安とかはあられなかったんですか?
いや不安だらけですよ。ニードですからね、引きこもりで。
金沢に一人行ったって友達も、もともと友達じゃなかったんですけども、
友達なんかもいませんでね。大学行って中国語を勉強するんですけども、
中国語しか喋れない。友達がいないもんですから、
日本語を一切喋らず一日過ごすっていうそんな日だったですね。
何か本当に今から想像がつかない感じなんですけど、
大学時代も勉強はしてたけど、お友達少ない感じでいらっしゃったんですか?
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大学1年まではですね。天気が2年生の時に訪れたんですよ。
どんな天気でいらっしゃったんでしょうか?
それは大学でですね、学校の行事で中国に短期留学に行くんですね。
中国に北京ってところに行ったんですが、
まだ天安門事件のすぐ後ぐらいで、今のような経済発展している中国じゃないんですよ。
自転車がたくさんありましてね、経済的に発展してないような中国。
そうすると、私単なる大学生だったんですけども、
日本人というだけでですね、モテたんですよ。
人生初めて来やがらされてモテましてね、
それが嬉しくて、日本はなんかどうも自分は行きづらいけど、
中国は楽しいと。
短期留学じゃなくて本格的に留学しようということで、
不純な動機で中国行きを決めたんですね。
大学2年の時に短期留学で行こうと思って、
本当に行ったのは国立大学を卒業後に行く感じなんですか?
短期留学帰ってしばらくして、休学をして中国の大学に行ったと。
そこで中国で北京師範大学という教育大学に行ったんですけども、
語学留学の方々はですね、自分は胃腸が悪いもんですから、
どうにも胃腸の調子の悪さは日本では治んなかったと。
せっかく中国に来たんだから、向こうで漢方を受けようということで、漢方治療を受けたんですよ。
そしたらですね、10年間痛くて痛くて調子が悪かった女の子がですね、元気になったんですよ。
漢方の先生に、先生何やったんですかって言ったら、いや、これが当時私19歳でしたから、
19歳としての普通の体調なんだと。
あなたは体調を崩したのを漢方で元に戻っただけなんだよって言われたんですね。
これは素晴らしい。俺本当に10年間苦しんだので、
この漢方薬とかね、あと気候とかハリキューやってもらいましたけども、
陶油薬で治ったの、本当にありがたいと。
僕は工学予約じゃなくて、この漢方予約を日本に持ち帰ろうということで、
今のお仕事にひも付く一歩を踏み出したのがその時です。
なるほど。
そうしたら師範大学か別の大学に移られる感じなんですか?
そうです。北京中医薬大学って漢方の大学がありましてね、そこに編入しました。
そこで新旧マッサージ師となられたということなんですが、
そっちを目指そうというのは、漢方の方の勉強じゃなくて
マッサージになった理由は何かあられるんですか?
最初中国では漢方、新旧両方全般勉強するんですよね。
ところが中国はお医者さん、ドクターの免許があるんですよ、漢方医になると。
でも5年間かかるんですが、
5年免許取っても日本では使えないということは入ってから分かったんですよ。
じゃあ日本で会いたいので、日本に帰ってきて東洋薬をやろう。
日本に帰ってきていろいろ学校を探したんですけれども、
なかなか東洋薬系のところがなかったんですよね。
一番近いのはハリキューマッサージだったんですよ。
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ここであれば僕の望んでいる東洋薬を学べるということで、
熱海にある東海寮学院という専門学校に入り直しました。
そして3年間出て卒業して新旧マッサージになったんです。
その後、東京イカシラ大学の大学院にも行かれていらっしゃるんですが、
これは経営者になってからですね。
経営者になってからまだまだ学びが足りないと思って、
社会人大学院という形で夜間働いていました。
なるほど。じゃあまずマッサージになったのが一番最初みたいな感じですか。
そうです。
一番最初の創業はそのままマッサージしていらっしゃるんですか。
そうですね。マッサージになったはいいんですけれども、
当時もう20年も30年も前の話なんですけれども、
ハリキューマッサージという資格、骨格資格なんですよ。
マッサージというのは骨格資格でないとできないんですけれども、
当時はなかなか食っていくのは難しいというか厳しかったんですね。
実際に僕も最初に就職したのは石骨医なんですけれども、
1日40人ぐらいマッサージをして給料は10万円だったんですよ。
社会保障無しと。手が腫れるほどもんでこれだと。
3ヶ月経って正社員になったんですけれども、正社員になっても13万円なんです。
ほらもうこの資格はちょっと厳しいんじゃないかと。
やっぱり中国に戻った方がいいんじゃないかということでね、
だいぶ迷いましたけれども。
でも日本で東洋役を広げるという夢があるんだから、
何度か踏ん張ろうって使われるんであれば夢は実現できない。
苦しいけれども自分で始めてしまおうということで、
2000年に自分で開業したんですね。
なるほど。2000年から19年後に東洋マザーが上場ということになられるんだと思うんですけれども、
約20年ぐらいかかったと思うんですけれども、
当初創業時に上場を目指そうになるということはお考えになったんですか?
全く思ってないですよね。
石骨院で働いていてね、給料は13万円だったと思うんですけれども貯金はゼロだったんです。
ゼロで創業をする。どうやって創業したかというと、
実家の応接間を事務所にしたんですよ。
なぜか応接間に縁があるんですけれども、
実家の応接間を事務所にガーリーしてですね、
そこをオフィスとして僕と弟を引き入れて、弟アシスタント。
それで二人でゼロから立ち上げたということで、
上場が何かすら知りませんでしたからね。
とにかく食えないように、とにかく明日食えるようにということで
無我夢中でやったというのは20年前です。
なるほど。上場意識したのは何年前ぐらいでらっしゃるんですか?
最初に意識したのは10年ぐらい後ですよね。
仕事を始めてから本当に調子が良く、ニーズも高かったのでワーッと伸びてきたんですけれども、
全国展開をしようということを思ったんですね。
まだまだこのサービスは全国に広まっていないので、
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高齢者を支える仕事なんで困っている方もいらっしゃるだろうと。
であれば山梨県だけでやるんじゃなくて、全国に広げようと。
でも応接間が会社ですとね、
ディレクションも来ないし誰もなかなか人が来てくれないと。
ということで、全国展開するにはどうしたらいいかということで考えて、
横浜のランドマークタワーというのがありますよね。
ランドマークタワーって夢だよなと。
あそこに入ったら人がたくさん来てくれるんじゃないかと。
全国展開できるんじゃないかということでランドマークタワーに入ったんですよ。
そうしたら本当に人がたくさん来てですね、
ワーッと全国展開の可能性がどんどん増えていったと。
その時に上昇してきましたね。
これいけるんじゃないかなと思いました。
その年の事業所数はどれくらいだったんでしょうか。
創業して5年後にランドマークタワーに入りまして、
そこから5年間、創業10年目まで行ったんですけれども、
ランドマークに入った時には5店舗、
10年後には20店舗になってましたね。
それくらいの順調に伸びていらっしゃったのは何か理由はあられるんでしょうか。
一つはですね、タイミングが良かったと思います。
僕が始めた20年前は介護保険がスタートしたんですよね。
介護保険がスタートということは、
我々の利用者が病院から在宅、居宅にですね、
どんどんどんどん出てくる、そういうタイミングだったんですよ。
マーケットは開けたんですね。
マーケット開けた、黎明期に事業を始めたというのは一番多かったと思います。
あともう一つはスピード感ですね。
創業して数年間本当に休みゼロ、
正月も僕真っ最初にやってましたしね。
13店舗くらいまで自分一人で立ち上げたんですけど、
年間出張250日なんですよ。
今日は福岡、明日は沖縄、そして北海道行って自分で立ち上げて、
そしてまた福岡に見に行くみたいなことをやっているとですね、
朝目が覚めるとどこに寝ているかわからない状況ですね。
ずっと続けたんですね。
そういう、今お部屋は無茶苦茶な働き方っていうのは情熱ですからね。
タイミングの良さと熱意のものがうまくカサッと合わさったら
ゆーっと成長していたと、こんな風に感じています。
なるほど、ありがとうございます。
経営者を応援する。社長の孤独力、番外編。
本日の社長の孤独、番外編は8章6項、主体に会社のお金を応用された。
応用されたのは社長の責任と心得るということで、
前回も不正のブラック企業の話をしました。
やっぱり不正をする社員っていうのは出てくるもんですね。
でもそれって誰が起こしているかというと、
私からすると社長がさせているというふうに私は思っています。
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よって私の会社も前回も言いましたが、不正を起こった社員に対しては
私がさせたんだということで、私自身が反省をしたことがございました。
よって会社のお金を応用した。それは社長の責任だとまず思うべきだと思います。
ですので、まず最初に応用されないように、前回もお話ししましたが、
仕組みを作るべきだと思います。
かつ、それが発見できる仕組みを作ったほうがいいですね。
よく私なんかは管理部にうちの社員たちのことをウォッチさせています。
それは健康管理とか、気分が乗らないみたいなですね。
うつ病管理って言うんでしょうかね。
そういうことをさせるために、社員の幸せのためにそういうことをしているんですが、
そういうことをしていると、逆に言えば不正なんかを見抜けるときがございます。
逆に言えば日報なんかを書くと、不正が見抜けることがございます。
私どもの社員で不正したときには、日報がおかしかったので、
うちの取締役に、ちょっとあいつおかしいから、ちょっと様子を見てって言ったら、
翌日、電話がかかってきまして、不正が発覚しました。
日報になんか変なこと書いてたんですね。
そういう意味では、そういう情報がつかめる状況を作るということも、
大変重要なんじゃないかと思います。
もちろん、根本的には社長さんが嫌われてたり、
社長さんが、何でしょう、尊敬ができない人であるために
応料される可能性率は、かなり高いんじゃないかと思います。
そういう意味では、社長自身の姿勢を直さなきゃいけないというのは、
前回とお話と一緒ですが、直すべきだと思います。
一方で、仕組みというのも必要なんだということも、
よくよくお考えいただければいいんじゃないかなと思います。
そんなことを考えながら、仕組み、マネジメントシステムなどを組んでいって、
応料されないような会社を作っていただけば、というふうに思っております。
本日の社長の孤独区番外編はここまで。また来週。
本日も社長にインウィズビスをお聞きくださり、誠にありがとうございました。
この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。
これまでにたくさんの生光社長、生光経営者のインタビューをお届けしてまいりました。
この内容はすべてテキスト化いたしまして、
私どもウィズビスが運営するウェブサイト、経営ノートでも閲覧いただけるようにしております。
音声だけでなく、文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、
皆さんの会社系に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、
サイトの方にもさせていただいています。
ぜひネット検索で、経営ノートスペース社長インタビューと入力いただき、
経営ノートのサイトをご覧になっていただければ、というふうに思っております。
本日の社長の孤独区インウィズビスはここまで。また来週。