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2024-01-31 22:15

第367回 木下潤氏(株式会社Cuymler代表取締役)【前編】

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今回は、株式会社Cuymlerの木下潤氏にお越し頂きました。

2007年からM&A業界に関わり、2013年に株式会社Cuymlerを創業。
経営者の事業へのこだわりを明確にすることで、後悔の無い事業承継を実現する『こだわりM&A』を事業の軸にするお姿から、経営のヒントが得られます。ぜひ、インタビューをお聞きください。

なお、過去にこの番組で配信した内容は、経営者インタビューメディア「経営ノート」にも掲載しています。ぜひこちらもご覧ください。

■経営者インタビューメディア「経営ノート」
https://keiei-note.com/

■WizBiz社長塾
https://www.youtube.com/channel/UC16VkcI4PaUISDD4UL7pFvQ




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社長に聞く!in WizBiz
本日の社長に聞く!in WizBizは、株式会社Cuymler代表取締役 木下潤さまでいらっしゃいます。
まずは、経歴のほうをご紹介させていただきます。
神奈川県ご出身、2002年3月に京都大学農学部卒業。
その後、財務コンサルティング会社に御就職。
その後、マンデイ事業会社に行って、マンデイアドバイザリー業務に従事。
その後、現在のCuymler社を創業、設立。
そして、その後、パーソナルトレーニングジムも共同設立。
そして、今現在はこだわりのM&A塾の塾頭に御就任して、日々活躍をされていらっしゃいます。
木下社長さまでいらっしゃいます。
本日はよろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
まずは最初のご質問ですが、ご出身は神奈川ということで、小学校時代はどんな少年でいらっしゃいましたでしょうか。
はい、小学校の頃からまず思い出すのは、ずっと野球を高校までやっていたので、
小学校2年生からずっとやっていたので、まず野球を一生懸命やっていたかなと。
あとは、いわゆる小学校のときは優等生な感じだったんでしょうね。
なので、先生とかからも比較的卑怯をされるといいますか、
そんな感じの良い子だったのかなと思ったりするんですけれども、そんな小学校時代だったかなと思いますね。
学級委員とかやっていたんですか。
そうですね、学級委員とかをやっていましたかね、そうですね。
あとは、何かの委員会の委員長とかっていうのを5年生も6年生もやっているみたいな。
しかも先生が木下くんやってねとかって言うような、そんな類のお子さんだったかもしれません。
やっぱり京都大学に行く方は最初から違う、そういう話でいらっしゃいますね。
中学校時代はどんなふうに過ごしたかと思いますか。
そうですね、だから小学校のときのがあったので、中学校に入ったときに申し送りがあるんですよね、小学校から中学校って。
中学校は松本って当時13クラスあって、480人強くらいいるようなめちゃくちゃ大きな中学校だったんですが、
そこで1年生のときにまさに先ほどの話です。
学級委員に小学校の先生が推薦されていたみたいで、先生からそんな話はあるからとにかく最初の学級委員やってくれと言われて。
さらに学級委員の委員会になったときに、学級委員全体の委員長になったんですね。
結構大きな中学校だったので、委員会っていくつもあったんですけど、風景委員とか保健委員とかそういうのがあったんですけども、
学級委員だけは1年生からその委員長の中に入って、学校の運営とまでいかないんですけども、
そんなのを学校総会みたいなのを参加したりとかいう感じで、当時からある意味悪目立ちじゃないですけども、
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するような。そしてそれ1年生のときやっちゃったものですから、1年生も2年生も3年生もずっと期待されて、
結局辞めることができずに、ずっと3年間学級委員長をやり続けたっていうのが一番多分あれですね。
中学校で一番ずっと3年間、良くも悪くも有名だった、そういう中学生活を送っていたかもしれません。
なるほど。じゃあ成績もよろしかったんですか?
成績確かに良かったかもしれないですけども、それ以上にとにかく有名で、1校下も2校下も1校より2校上もみんな知っていて、
その後高校とか行くと、あの時の木下さんですねって言われて、意外とそういう繋がりでは面白い体験をしていたかなと思うんですけども、
結構、またもや真面目に過ごした中学生活だったかもしれないですね。
なるほど。ありがとうございます。高校は神奈川県内の高校ですか?
そうですね。神奈川県内の県立高校。当時は学区があったので、その学区の一番良い高校にまたもや行きまして、
で、横浜みどりが丘という古い高校でしたよ。で、その学校に行ったんですが、ここでまた野球が入るんですが、
古い学校だったので、野球部がすっごい古い体質で、朝5時に始発で行き、終電で帰るみたいな、そういう部活だったので、
もうその瞬間からそこまでは正直、確かに優等生、学級委員長みたいなところから、もう学校の一番勉強しないグループに行くみたいな、
で、結構野球部何してるかわからないよね、野球部でいつも一緒いて気持ち悪いよねみたいな感じの方の集団に突然移るみたいな、そういう感じの、高校は完全に野球一職でしたね。
ポジションはどちらやってらっしゃったんですか?
ポジションは、小学校5年生からずっとキャッチャーをやってまして、高校もずっとキャッチャー以外、だからできるスポーツはって言われると、私野球とは言わずにキャッチャーっていうぐらいに、キャッチャー一筋でございます。
じゃあ肩はすごく良かったんですか?
肩は本当に良くて、高校の時も練習試合とかしてても、あのキャッチャー肩強いねって、肩強いねだけは言われるっていう、それぐらいに本当に強くて。
でも学級委員長からやってたんで、頭もよろしいじゃないですか。
これがまた、高校がとにかく歴史の古い学校だったので、野球部もOBとかが全然強くなかったんですよ。
強くなかったにも関わらずOBとかいろいろ来るわけですよ。
その時に、中学まで野球何考えてやってたの?っていう風にOBに言われるぐらいに、なんでこの16歳、7歳の学生に、40何歳の40歳50歳のOBが、ここまで辛辣なこと言うんだろう?っていうぐらいに、ほんと何も考えてないよねとかって言われるような最初キャッチャーだったんですけども。
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そんなところからあれでしたね。
ちょっと想像つかないんですが。
いやいやいや。
その後、京都大学にお進みになっていらっしゃるんですが、京都大学農学部を選んだ理由というのは何かございましたでしょうか。
えっとですね、すごいしょうもない理由で言うと、とにかく生物っていう教科が得意だったんですよ。
で、生物っていう教科が得意で、それで全部選んでたので、例えば東京理科大の生物で受けれるところとか、あと北海道大学も生物で受けてるところとか農学部があったので、そんな感じの選び方をしている中で、
それでも中学の時の先生が、すごく影響を受けた地理の先生が、京都の学生生活面白かったよって話を聞いてて、それがすごい残ってて、
で、京都に行ってみたいなと。あと仮に関西米の憧れみたいな謎のね、関東市のあれがありまして、それもあったので。
で、その京都大学の農学部って実は、今は実はかなりいいんですけども、当時は京都大学の盲聴と言われるぐらいに、当時昔はですね、京都大学ってアミフト部が強かったので、アミフト部の皆さんはほとんど農学部に入ってくると。
だからちょっとだけ入りやすかったっていうのもあって、それもあってですね、そんな色々な、あとは京都大学の理系でも国語があったりしたんですね。
理系のくせに得意な国語があったりしたので、生物と国語が使えるところみたいな、そんな理由で、そういうどちらかというと、こういう強化があるからみたいな感じのところで選んだのがあったかもしれないですね。
そうは言っても京都大学の面積でいらっしゃると思いますけども、京都大学っていうのの大学時代の過ごし方はどんなことなかったんでしょうか。
そうですね、もうこれまた、私浪人2年してるんですが、結局高校の時も全然違うことをやり、で2年浪人するってことは、別にバイトとかそんなしてたわけじゃないんですけど、
新聞配達とかもやってましたが、のんびりのんびりになっちゃってたわけですね。
大学入ってからも結構みんなよく勉強してる方とかいたんですが、その流れの踏襲しまして、授業も出席率2割ぐらいみたいな感じで、とにかく京都っていう街を楽しみながらのんびりと過ごしてたかなっていうのは。
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バイトとかはされなかったんですか。
バイトも8つぐらい経験してて、その中でも特にまたお玉使わないのが好きなんですかね。
引っ越しのアルバイトなんていうのは京都にいた間ずっとやってて、なので京都とか滋賀とか大阪とかの場所にはすごい未だに詳しいんですけども、そういうバイトやったりとか。
あとは住み込みの塾のアルバイトを和歌山の南の方に行ったりとか、ちょっとそんな変わったことばっかりやっててですね。
で、また何で研究してたんですかとか言われると、何だろうって言いたくなるぐらいですね。
本当に何のために行ったんだっていうですね。そんな感じの学生生活でしたね。
京都大学の大学卒業が2002年なんですが、その後は大学院とかに住まれたんですか。
そうなんです。実は大学院に進んで、大学院の1年目の後半ぐらいの頃に、大学の時の話でいくと、今もカイメラという会社は創業の時に一緒に手伝ってもらった大学時代からの友人がいるんですけども、
とにかくその彼が面白い人間で、大学に行った時に1週間ぐらいで知り合ったんですが、京都大学も爪が引っかかったような感じで入っていると思ってたんですが、
やっぱり周りに賢い人いっぱいいるんだろうなと思ったら、最初に仲良くなった友達がその彼で本当に賢くて、賢いってこうだよなって思うような、そういう理想像というか想像した形のままの人間がいましてですね。
その彼が面白かったので、その彼と過ごす時間ってすごく長かったんですね。
だからその彼から影響を受けることはものすごく大きくて、そういった中で彼なんかは学生の頃から別の友人と一緒に起業したりとかしていて、そういうのを横目で見てたら、そういう世界って面白いなって思ってしまいまして、
大学院まで行ったんですが、その時に経営とか財務とかそういう世界の方に行きたいなって強く思ってしまったので、大学院の1年目ぐらいの頃にフェードアウトしちゃってですね。
ただそんな状況で出たとしても何もできるものではないので、最初の頃は人の手伝いしたりとか、たまたま引っかかったというか拾ってもらったような財務コンサルのところでちょっとお手伝いをしたりとかっていうような、
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本当にその瞬間から過去のものっていうのは何も生かすことができずにですね、ほぼゼロからスタートするみたいな、ただとにかくそういう経営とか本当に自分の力で生きていくみたいな方面ですかね、
そういう方にまたゆっくりとといいますか、本当に泥臭く自分のステップでですね、スタートをしたというような、そんな感じのが大学卒業した後の数年間でしたね。
大学院はちょっと行ったけど、すぐ辞められた感じですかね。
そうですね、席だけ置いておくといろいろいいことがあったので、席だけはしばらく置いて、ずっと休学をして休学ができないタイミングで、すいませんって教授に頭を下げて辞めたような感じでしたね。
その間は財務コンサルティング会社さんに入る前はどんなことがあったんですか。
さっき財務って話をしたのであれだったんですが、実はちょっとだけ、つっても1年ちょっとぐらいですけども、会計士の勉強をしたりしたんですね。
ただその時も当然自分でバイトをしたりしながら、いろんな勉強ってことではないですけども、バイトもしたり、人の手伝いしたりとか、そういうことをしながら会計士の勉強をしていたんですけども、
結局まだ受からないわけです、これね。
よく兄弟だからとか言われますけど、逆に会計士になった方から聞くと、兄弟の連中は意味まで考えすぎて、覚えるだけで意味を覚えようとしないから、結構落ちるんだよねって話をしたんですが、
まさにその通りでいろいろ考えて、結局全然テストに受からずにみたいな感じ。
そういうのを1年ちょっとぐらいやってて、その後にさすがに二郎もしてるし、これダメだなっていうことで仕事を始めたみたいな、そんな感じの経歴でしたね。
なるほど。一番最初だったらアイムコンサルの会社さんですか。
そうですね。
そこを選んだ理由はどんな感じでいらっしゃったんですか。
いや、たまたまバイオ関係の投資をお手伝いしようとしてたんですね。
ある法人さんがいらっしゃって、当時学校法人だったのかな。
学校法人さんがその頃ってちょうど投資ができるようになるタイミングで、そこのコンサルとかをしてたんですけども、そこがバイオ系の投資をしてみたいっていう話で、
それのデューディリジェンスのお手伝いっていうのを、かつてお手伝いです。
自分で何かDC引いてとかっていうんじゃなくて、本当にお手伝いっていう形でスタートをして、
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あと、例えば会社の立ち上げとかなんていうのをやってたんで、そういうのもちょっと手伝ったりとかして、
実際にその子会社の社長みたいなことをやって、そこでコンビニを運営してみようみたいな、
その事業計画書いてとか、どうやって設立するのとかっていうのをギリギリまでやったりとかっていうのをやってるような、
結構実務的な部分っていうのを手伝ったりしてたんですね。
その時に、特にデューディリとかやってたような投資のお手伝いみたいなところですね、
そっちの方っていうのはやっぱり会計士の勉強したこともありますし、あと経営に近いなっていうところもあって、
それだったので、であるならば本格的に、その当時までずっと関西、京都にいたものですから、東京に戻ってやろうかなというふうに思って、
東京の方がやっぱり数も機会も多いですし、実際にそういう会社さんも多いですから、そんな経歴だったんですけど、
なんか紛れ込めるかもなと思ってですね。
そしたらちょうどそのタイミングが、今大手のM&Aの会社さんとかが最初に上場したりとか、
本当最初のM&Aアドバイザリー会社のブームだった時だったので、本当にうまく滑り込めて、
そこで本格的なM&Aアドバイザーとしての業務をスタートするという。
なんかちょっと行き当たりばったりだというような気もするんですが、やってやってという中で、
本当にそういう意味では、農学部というのは勉強の幅が広いんですね。
ミニユニバーシティと言われたりするようなぐらいに、生物学も学べば、それから工学も学べば、
それから経済学も、政治とかもいろんなことを学ぶ、本当にちょっと深く広く学ぶみたいなところがあって、
一応そんなところが一通り頭にある中で、そういういろんな知識がある程度あって、
かつ会計士の勉強もしたりとかして、財務を一応見れるかなみたいなところ。
あとは飛び込む力みたいなところでいくと、M&Aのアドバイザーってどうやらぴったりだったので、
そんないろんなものがちょうどうまく絡み合って、M&Aの会社に滑り込んだみたいなのが、
今のミニシティにつながってくるきっかけになっています。
なるほど。そのM&Aの会社さんというのは思い出なんてございませんでしょうか。
そうですね。それでいくと、ここまでも常に野球を始めた時もそうですし、
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それからさっき言った中学校の学勤とかでもものすごい恥ずかしい大失敗をしているんですけれども、
高校野球なんかもさっき言ったようにケチョンケチョン言われて、
最後は神奈川でも第2シードぐらいまで行って、そこでちゃんとしたキャッチをやっていたので、
あれだったんですが、いつもスタートの時というのがものすごい失敗をして、
もうやめろよみたいなことをずっと言われるのがあれだったんですが、
ここもまた一緒で覚えていることは、とにかく会社に入って何年目だったかな、
3年目の、忘れもしれない9月の4日なんですが、
その時に3年目まで何とかで待っていたんですが、
9月の4日に社長と副社長に呼ばれて、基本首だからねって言われるっていうね。
基本じゃないんです。首だからねって言われたんです。
脅しとかじゃないよって。原則首だからって言われて。
最後はあんまり目をかけるつもりもないし、みたいなことを言われて、
あ、終わったなと。そこまでも結局いつも通りの感じで、
うまく一生懸命やっているつもりではいたんですが、
繋がらなくていろんなものが、本当にバラバラなことばかりあって、
首だからねって一番よく覚えていますね、そのタイミングで。
でもその3ヶ月後に社長賞取れちゃったんですよ。
ちょうど、いつもだいたい似ているんですが、
最初できないうちというのは、とにかく繋がっていない。
知識とか経験とかそういったものが繋がっていなくて、
それでも頑張っていると、突然繋がるタイミングが来るっていうのが
これまでの人生の結構パターンでして。
その時も繋がってしまったら、その3ヶ月で結構M&Aの案件が積み上がっちゃいまして。
すぐにできるようになったわけじゃないんですが、
その積み上がりのペースとかを見ていた社長が、
3ヶ月前にクビって言ったけど、期待を込めて、
来年できないかもしれないけどと言われて、社長賞をもらうみたいな。
このV字回復のところって、まず一番覚えているところかもしれませんね。
なるほど。
ひのひさん社長はプレッシャーをかけた方がいい感じじゃないですか。
おっしゃる通りなんです、実は。
おっしゃる通りです。
本日も社長に聞くインウィズビズをお聞きくださり誠にありがとうございました。
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この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。
これまでにたくさんの生光社長、生光経営者のインタビューをお届けしてまいりました。
この内容はすべてテキスト化いたしまして、
私どもウィズビズが運営するウェブサイト、経営ノートでも閲覧いただけるようにしております。
音声だけでなく、文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、
皆様の会社系に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、
サイトの方にもさせていただいています。
ぜひネット検索で経営ノートスペース社長インタビューと入力いただき、
経営ノートのサイトをご覧になっていただければというふうに思っております。
本日の社長に聞くインウィズビズはここまで。また来週。
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