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認知症母介護殺人事件 第4話
一時のニュースです。
昨夜未明、国道沿いの住宅街の一角から火が出ていると、近隣の住民から百刀斑通報があり、
消防が駆けつけ、火はおよそ2時間後に消し止められましたが、木造2階建ての店舗兼住居を全焼する火事がありました。
火元は1階の店舗部分と見られていますが、この家の住人と連絡が取れておらず、
引き続き警察と消防が詳しい出火原因を調べると…
一度坂道を転がった卵は、もう二度と親元には帰れない。
自らの意思に反して徐々にスピードを増し、ぐるぐると回転してやがて殻にひびが入る。
きっかけは何でもいい。小さな小石やわずかな傾斜の歪みで、糸も簡単に割れてしまう。
人間の感情とは、そういうものなのかもしれない。
一緒に死んでくれるんですよね。
深々と下げた彼女の頭が上がるのを待ってから、私はもう一度確認するように尋ねた。
彼女とこうして向かい合うのは初めてだった。
細い顎に筋の通った鼻。化粧っけはないが、鏡越しでなくても彼女の肌は透き通っていた。
私でいいんですか?
え?
本当に私で…
確認したつもりが逆に聞き返されてしまい、私は一瞬返答に詰まった。
も、もちろん…
無理しないでください。
いや、無理なんかしていません。僕は本当に…
さっき、私が死にたいなんて言ったから…
違います。いや、確かにそれもあるかもしれません。
でもそれだけじゃない。僕は、僕はずっと死に場所を探していたんです。
そこにあなたが現れた。だから…
03:03
彼女は私の声を遮るように背を向けると、おもむろにサイドテーブルの上のハサミを手に取った。
それはさっきまで私の髪の毛を切っていた銀色に光り輝く左利きのハサミだった。
わかりました。
そう言うと彼女は持ち手の方を私に向け、私の胸元に差し出した。
私は黙ったまま、彼女が差し出したハサミを受け取った。
想像していたよりもずっしりと重く、鋭利な刃物そのものだった。
ただわずかではあるが、さっきまで使っていた彼女のぬくもりが残っていた。
ここには、お薬やロープなんかありません。これぐらいしか…
やがて彼女は静かに目を閉じた。
ぼんやりと照らされた蛍光灯の下で、ハサミを持つ私の手が小刻みに震え出した。
私は左利き用のハサミを握りしめたまま、じっと彼女を見つめていた。
怖いですよね。
え?
目を閉じたままの彼女が絞り出すように。
死ぬのも…
生きるのも…
はい。
私も…
怖いです。
突然鏡越しに見た彼女の顔を思い出した。
悲しみよりも深く、逃れられない苦しみを抱えたまま断崖絶壁の淵に立った時のようなあの顔。
あの表情。
どこかで、私の頭の中で写真をスワイプするようにこれまでの景色が次々と浮かんでは横に流れていく。
これだ。
頭の中があの時の情景をはっきりと映し出す。
母とはもう何ヶ月もまともに口を聞いていなかった。
06:06
話しかけたところでまともな返事が返ってくるわけもなく、そんな期待ももうとうになくしていた。
2DKの木造アパートで着替えと食事、拝節、そして二日に一度の風呂。
人として最低限の生活を維持するだけで私は精一杯だった。
わずかな手当と日に日に少なくなっていく蓄えに怯えながら、出口の見えないトンネルの中をただよろよろと歩くほうがなかった。
あの日。
雨が数日続いた後のある晴れた日の夕方。
いくらか肌艶がよく見え、機嫌も悪くなさそうに感じた私は母の髪を整えることにした。
世間の風潮を見る限り、当分外出はできそうもなかったし、わざわざ家に来てもらって誰かに整えてもらうほどの余裕もない。
白髪だらけの母の髪は何ヶ月もほったらかしだったせいで、後ろで優に結べるまで伸びていた。
風呂場の前に新聞紙を敷き、服を脱がせた母を座らせ、肩に手拭いをかけた。
母はしばらく目の前の鏡に映る自分の姿をぼーっと眺めていたが、やがてあの作り話を話し始めた。
常連の口癖や髪質、シャンプーの仕方に至るまで、まるで昨日のことのように饒舌だった。
私は黙って手を動かしていた。
いや、あえて耳に入らないように意識していたと思う。
母は時折、私を誰かと勘違いして話しかけてくる。
そのはしゃぎっぷりが余計に私を苛立たせた。
そして、ふと乱雑に切り落とした前髪に母はイチャモンをつけ始めた。
私は母の顔も見ずにつぶやいた。
だったら自分でやれよ。
これまでに遊びでも誰かの髪の毛を切ったことなどない。
遠い昔、母が利用者をやっていたと聞いてからも、髪を切ることに何の興味も持たなかった。
ましてや、切る順番やその方法など、私には皆目見当もつかない。
ただ、みそぼらしく伸びた母の髪の毛を切り落してしまいたかった。
09:05
それなのに、それだけなのに、母は気勢を上げながら私を罵り、罵倒し続けた。
気がつくと私は馬乗りになって母の首を押さえつけていた。
その時、母の口元がわずかに動いたような気がした。
何か言おうとしたのかもしれない。
しかし、一度転がり始めた私の感情は決して止まることはなかった。
その最後の母の顔。
悲しみよりも深く、逃れられない苦しみを抱えたその顔が、
私の頭の中で浮かんでは消え、浮かんでは消えていた。
怖かったんです。生きるのも、死ぬのも。
私は崩れるように床に膝をつき、目の前の彼女の足にただしがみついていた。
どれほどの時間がたったのか、私はぐったりと床に座り込んでいた。
そのすぐそばで、彼女も同じように座ったまま、ただぼんやりと宙を眺めていた。
誰にも気づかれないって寂しいですよね。
え?
死んだら、気づいてもらえますかね?
私には答えられなかった。
ずっと思ってました。消えてしまったらどんなに楽だろうって。
12:00
狭い店内を眺めながら、彼女は続けた。
ここが、私のすべてだったんです。
私、小さい頃に父を亡くしたんで、あんまり思い出がないんですけど。
あの人と出会った時、同じ匂いがしたんです。
昔の、古臭いんだけど、ほんのり甘くて、懐かしい匂い。
それ…
椿油。髪だけじゃなくて、肌にもいいんです。
父は町工場の作業員で。
ぼんやりと口を開けたまま、彼女を見つめている私の横から、ほんのりとあの懐かしい香りがする。
ずっとわからなかったんです。
でも、いなくなる理由なんて、誰にもわからないですよね。
彼女の頬、涙が伝っていた。
雨、止みましたね。
そう言うと、彼女は裸けたスカートの裾を直しながら、おもむろに立ち上がり、カーテンの隙間から外の様子を眺めた。
きっとまだ、間に合いますよ。
え?
お泊りになるところ。市内まで出れば、まだどこか…
一緒に…
彼女にその言葉が届くよりも前に、私は立ち上がっていた。
一緒に…行きませんか?
私は…
彼女は小さく首を横に振った。
そして再び窓の外に目を向けた。
目線の先には雨に濡れたサインポールが佇んでいた。
でも嬉しかったです。気づいてもらえて。
私は床に転がったハサミを拾い、彼女に差し出した。
これ…
15:01
もし良ければ差し上げます。
え?
どうせここに置いておいても使いませんし。
いや、でも…
私にはもう必要ないので。
そう言うと彼女は私の横をすり抜け、店の奥ののれんに手を掛けた。
あの…またお願いできませんか?
え?
またいつか…髪が伸びたら、整えてもらえませんか?
私でよろしければ…
出演 石曽ネ夕夜
塩ゆまゆみ
なすほのか
脚本・演出 石曽ネ夕夜
制作 ピトパでお送りしました。