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2022-04-17 28:27

「イエス様は今の復活であり命です」2022年4月17日(日)メッセージ

東京ぶどうの木教会 2022年4月17日(日)主日礼拝のメッセージです。 牧師:アブラハム黄

ヨハネ-27 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

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今日は、イエスは今の復活であり、命であるという対応をもって、メッセージを分かち合いたいと思います。
キリスト教は命の宗教です。
キリスト教に命があるということは、私たちが死んだ後、復活して天国で永遠に生きるという意味もあるんですけど、
現在的に人生のどんな問題があるとしても、復活の命の力によって生かされる、救われるという意味も含まれています。
この現在的な復活、ここに私たちの人生のたくさんの多くの問題を解決する鍵があります。
皆さん、キリスト教で命と言うんですけど、命は何ですか?
イエス様はこう言われます。ヨハネ14章6節です。イエスは言われた、私は道であり、私は真理であり、私は命であると言われます。
またヨハネ11章25節には、イエスは言われた、私は復活であり、私は命であると言われます。
ですから私を信じる者は、死んでも生きると言います。命はイエスキリストです。
ですからイエス様を信じて、イエス様を受け入れて過ごすなら、その人に命があるのです。
ところが信じるんだと言いながら、信仰告白まで立派にやりながら、今命を味わっていなければ少し問題があるのではないでしょうか。
命は死んだ後味わうことではありません。
イエス様は、今ここで私たちは、復活の命を味わうことができることを願っておられるのです。
ですから今日は復活の日のメッセージとして、今私たちが復活の命を味わうためにはどうすればいいのかということを分かち合いたいと思います。
これがなぜ大事なのか、今復活の命を味わうとき、生きている教会になります。
また信徒たちも信仰の本当の味を味わうことができるし、またそれを示してあげることによって、世の中の多くの人々をキリストに導くことができるからです。
ところが今キリスト教で一番大きな問題、私は一番大きな問題だと思います。
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これは復活の命を味わうことができていないということです。
ですから他の宗教も宗教と少しも違いがないということを今考えていることです。
僕先生たちが宗教多言論をやっている先生がいます。
キリスト教を信じてみたら、命がない他の宗教と少しも違いがなかったということです。
ですから全ての宗教が全部同じだと思っていることが宗教多言論です。
しかしそうではありません。イエス様が十字架を背負って復活された理由は、
私たちに今も復活の命によって生きるようにするためです。
今日は私たちがどうすれば今復活の命で生きることができるか、それを分かち合って、
今年はこの命を教会の皆さんが味わうことができる、経験することができる、私たちの教会になれればと思います。
まずはじめに、ヨアネの福音書第1章のナザロの事件を私たちは分かち合いたいと思います。
エルサレム近郊のベタニアという村に、父親母両親がおられない兄弟姉妹だけで生きる家族がいました。
ナザロ、マルタ、マリアの家族でした。
イエス様はご両親がおられないその兄弟姉妹を愛しておられて、
エルサレムに行かれるとその家に泊まるほど親しい関係性を持っていました。
ところがその家庭の柱のような存在、お兄さんであるナザロがある日病気にかかりました。
既読になりました。だから彼女たちはイエス様に助けを求めるんです。
ちょうどその時イエス様はエルサレムにおられたんです。
ところがイエス様は彼たちの話を聞いて行かないんです。
そして死んでから4日にだってそこに行かれるんです。
なぜイエス様はそうされるんですか。愛されるでしょう。すぐ行かなきゃいけないでしょう。
イエス様は完全に死んだということを確かめてから行こうとされたんじゃないかと思います。
ユダヤ人は死んだ人は3日くらいは3日の間は再び生き返ることができるんだという迷信を持っていました。
だから人間的な考え方もすべて不可能ができる、その4日後イエス様が行かれたのではないかと思います。
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4日後になってナザロの家に着いた時、愛する姉妹たちが迎えに出てこう言います。
マルタがヨワネ11章21節
主よもしここにいて下さいましたら私の兄弟は死ななかったでしょうに。
またマリアも11章32節にイエス様の足元に比例をして、主よもしここにいて下さいましたら私の兄弟は死ななかったでしょうにと言いました。
その2人の姉妹はイエス様を今恨んでいるところであります。
イエス様が早く来られたら生かされることもできたのに、イエス様が遅く来られたので死んでしまいました。
だからすべての可能性がなくなった、消えてしまったということです。
すべての可能性がなくなったから彼女たちはどうしようとして泣いているところでした。
彼女たちにイエス様はこう言われます。
11章23節です。あなたの兄弟は復活すると言います。
25節には私は復活であり命である。私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も決して死ぬことはない。
このことを信じるかと言ったらこの話を聞いて信じますと言います。
また立派に信仰告白もします。そうしながらも現在的な復活は信じないんです。
それで35節を見ますと聖書に珍しい記録があります。イエス様が涙を流されたと言います。
イエス様はなぜ涙を流されたんですか。彼女たちがかわいそうだからですか。
私はそう思いません。イエス様は復活であり命だと言っているのに一番愛する親しかった彼女たちさえもそのイエス様を信じてくれない。
現在的な復活を信じてくれない。不信仰を気の毒だと思ってから泣いているのではないかと思います。
また死の勢力を持って人々を絶望と悲しみに追い込んでいるこのサタンに対する怒りの涙ではないかと思います。
ここで大事なのはなぜイエス様が死んだ後4日になって怒れたのかということです。
イエス様は絶対善です。この意味は彼らにもっと大きな信仰を与えるためにイエス様がわざわざそうされたんです。
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問題はなぜマルタは将来的な復活は信じるのに今この場ですぐ生かしてくださるのは信じなかったのか。
皆さん今もできないのに将来私たちが復活するということを皆さん信じますか。
信じるんだということも皆さんこの言葉にならないんじゃないですか。今できないのに将来できるとどうしてこれができると思いますか。
このようなマルタの今の信仰状態は今私たちの信仰状態ではないかと思います。
イエス様は彼らに現在的な復活を体験させるために死んで4日になったことをわかってその時行かれたのです。
ではイエス様は死んだなぜろうどのように生かされましたか。
悲しむ人々を思う行き通りを覚えながらイエス様は39節にその意思を取り除けなさいと言います。
そして神様に祈ります41節42節 神様いつも私の祈りを聞いてくださって感謝します。
今日も私の祈りを聞いてくださると信じます。この周りの方たちを見てください。
この立ちに信仰を与えるためにまた私が神様から使わされたものだということを信じさせるために神様ここで働いてくださいと言いながら
43節になぜろうよ出てきなさいと言われます。
そうしたら 死んで4日になって臭い匂いが出るその
お墓の中から 手と足に布で巻かれたままになぜろうが出てきました。
包帯でぐるぐるぐると回っているこの状態のままに なぜろうがお墓から出てきました。
奇跡が起こりました。復活なんです。 ここでなぜろうの復活とイエス様の復活の異なる点を皆さんご存知でしょう。
なぜろうは復活したんですけどまた死にました。 しかしイエス様は一度復活されて永遠に生きておられます。
これを日本語では生き返るまた蘇るということを単語で区別することがわかります。
その当時はイエス様が体を持ってこの世で生きておられたので 自ら身言葉を持ってなぜろうよ出てきなさい
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宣言して奇跡を起こすことができました。 今イエス様は体を持ってこの世におられることはありません。
だったら昔のように今も生きておられるイエス様はどのように働くのでしょうか。 身言葉と精霊の昭和によって今も現在的な復活を起こすことができるのです。
ここで大事なのは今私たちが復活の命によって生きるためにはどうすればいいのか また身言葉と精霊によって生かすということはどんな意味なのか
今日それを一緒に考えてみたいと思います。 そのためには何よりまず命であるイエス様を身言葉を通してわからなければなりません。
なぜ十字架で死んでくださったのか なぜ復活されたのかそれを知って信じなければいけません。
それが基本の基本なんです。 イザヤ五十三章五節二句を言います。
彼が差し貫かれたのは私たちの背きのためであり、 彼が打ち砕かれたのは私たちの刀のためであった。
彼が受けた懲らしみによって私たちに平和が与えられ、 彼が受けた傷によって私たちは癒された。
十字架をなぜ背負ったのか私たちを救うためだということです。 またローマ章四章二十五節にはイエスは私たちの罪のために死に渡され、
私たちを寄居されるために復活された。 なぜイエス様は十字架と復活されたのかが書かれています。
またヨハネ五章二十四節にははっきり言っておこう。 私の言葉を聞いて私をお使わしになった方を信じる者は永遠の命を得、
また裁かれることなく死から命へと移っていると言います。
結局十字架と復活を信じる人は 人に命を与えるためにイエス様はそうされたんです。
信じるなら死から命に移されている。 だからその人は死んだ状態ではなく命の状態で生きるようにしてくださったということです。
ではこれから大事なのはこの命復活の命がどのように現れるのか またいつ現れるのかとこれです。
ここに対する神様の計画を知らなければいけません。 私はこれが一番大事だと思います。
このために精霊様を通して神様の見声を聞かなければなりません。 見声を聞いてそして信じて使えるんです。
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今日ナゾロに対してはイエス様が病気にかかり気毒だという話を聞かれてこう言われます。
ヨワネ11章4節 今日一番大事な聖書はこれです。
イエスはそれを聞いて言われた。 その病気は死で終わるものではない。 神の栄光のためである。
神の子がそれによって栄光を受けるのであろうと言います。 ナゾロが病気になってまた死んだのは
神の栄光を表すために病気になってまた死んだということです。
このナゾロのところにイエス様が行かれて彼を生き返らせます。 それを通して神様が栄光を受けられイエス様を信じるようになり
全ての人に神のグッドニュースが広がっていく そのことを目的としてナゾロが病気になりナゾロが死んだということです。
このことをイエス様は既に神様との交わりの中で聞いてわかっておられたんです。 そしてナゾロに対してどのように使えるべきか
4日待っててそして向こうに行ってナゾロを生き返らせたのです。 皆さん私たちは勘違いすることがあります。これは
聖書に書いてあるから今もできるぞ 信じますと言いながら自分勝手に
信じて働くことです。これは無鉄砲な信仰です。 私たちは無鉄砲な信仰をすることではありません。
霊魔の言葉霊魔の言葉って今ナオワダ 今くださる神様の御声ということです。
今くださる神の御声を聞いて従うことが大事なんです。 神様はこの人を今生かされるか
神様はこの人を今癒されるか 神の計画と神の時
神の時を聞かなければなりません。 ですから私たちの信仰は神様との親しい関係の中で神の御声を聞いて
従うことだと私たちは今まで学んできたのではありませんか。 ではこのように神の御声を聞いたらそれを信じて
実行するんです。 神様はすべてを持っておられるんですけど一つ持ってないことは体持ってません。
だから神様の御声を聞いて誰かが行かなきゃいけないし 誰かが口で語らなきゃいけないし誰かが手を持って触らなきゃいけない
そのような人が必要だけなんです。 私たち神様の御声を聞いて従うとき神様が私たちを通して
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復活の命で働かれてその人を生かされ 神ご自身を示してくださり栄光を受けられるようになります。
そのことによって周りの大勢の人々に大きな有益を与えることができるんです。 ここで大事なのは神の身群を知って人々を使えることができるような
神と人の間の仲介者が必要です。 エピソード2章10節で言いますとこのような良い技をするために神様が恵みによって私たちをあらかじめ救われたと書いてあります。
もっと大事なのは神の身群神の時間をわかって人々に使えることができる 下部がここにいるのか
神の計画神の時間神の身群を知らないのに自分勝手に聖書に書いてあるんだと思って今も できると思っている人このような人じゃなくて
今神の霊魔の声を言葉を聞いて今神様の願っておられる働きを行うことができる人
イエス様が来られてそれを私たちに模範として示してくださったんです みなさんにもっと詳しく分かち合うために今私たちにあった事例を
皆さんと分かち合いたいと思います 私たちの教会にあったある姉妹の事件です
マンションの何階ですかちょっと上から下の地面に
上のところから地面に落ちて そしてもう死にかかっている姉妹でした
病院で この姉妹は葬儀を準備してください葬式を準備してくださいって言うから
その母親が葬儀を頼むために近くにいる私たちの教会に来ました その時私はその話を聞いて
祈りますまず祈ってみましょうって言いました 私が祈りながら私はなんとなく神様から御声を聞かれたような気がした
この姉妹は死の人ではありません 生かされます私はそのような確信がありますとその母親に言いました
そして伝道師さんが毎日病院に行って彼女の波に手を置いて祈ってあげました 少し少し状況が良くなった時には信仰のお話をしながら
彼女に使いました 私は男性だというかまあ私は嫌われるものかとわかりませんけど彼女は私が
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黒のあんまり好きじゃなかったので私はなかなかいけませんでした しかし伝道師さんは最後まで毎日行って彼女のために祈り
また見言葉を与えそして彼女は結局癒されました
今はもう完全だと言いましょうか癒されて母親として今子育てをしているところであります
その姉妹を通して私たちは人を生かす復活の命を私たちは学んだんです
それでその証が私たちは教会だけではなく周りの教会の証としていろいろ
証することができました もう一つの事例です
最近ある姉妹が乳がんにかかったと私が聞きました そして私は彼女のために祈りながら
気の毒だと思ってカカオ特で連絡をしました そしたら彼女が私にこのような告白をカカオ特で教えてくださいました
私ががんにかかったことに心配なさらないでください 全て主の身棟の中にあると信じます
初めは理解ができなくてたびたび主に問いかけました ところが主はこう言いました
がんがあなたに最高のお土産だと言われたんです その見込みを聞かせてくださったということですね
また感によって主をもともと呼び求めることができて感謝しています カカオ特がありました
素晴らしいなと私は思いました 手術するその前日私はもう一度カカオ特をしました
そしたら彼女をこう言うんですがんを通して神様の恵みをたくさん悟るようになって 今は感謝が満ちあおれています
明日私が手術する時にお医者さんの手が その瞬間は主の手に変わるでしょう
と言うんですね がんによって萎縮されるんじゃなくて
むしろ信仰によって満たされていました 皆さんこのような姿を見ますと彼女にイエス様が復活の命をもって
その中で働いておられることを感じられませんか 私は彼女を慰めるためにやったんですけど
むしろ私は彼女にゆえに恵まれました そうしながらその次の日手術に臨みました
手術が無事終わったと私はお話を聞きました 私はそのことは復活の命が働いたことを感謝しました
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これからはこういう症がないように また他の部分に転移されることがないように祈らなければいけないと思いますけど
私が信じるのは彼女はがんによってむしろ 大きな信仰を持つ人になったということです
これからいろいろな人ががんにかかって心配するでしょう その時彼女は私は信仰によって癒されましたという
証をすることができるし それを通してイエスキリストこの力ある福音を述べ伝えることができると信じます
皆さん復活の命はこのように働くようになるんです イエス様は神の御胸
神の時神の御声を聞いてナザロに仕えることによって 死んだナザロが生き返られました
それを通してナザロのおかげで大勢の人々が信仰を持つようになりましたように 今私たちも神の御声を聞いて仕えることによって
実際復活の命が働く印がいろいろ現れることになったら 周りの方々にイエスキリストを証することができるし
また私たちもいろいろな問題を抱えている方たちを奉仕する 使えることができると信じます
結論を申し上げます キリスト教は命の宗教です
他宗教が真似ができないのが復活ということです これが命があるという証拠です
ところがその復活の命は死んだ後現れることではなく 今も現れなければなりません
そうする時今人々を救い癒し信仰に導くことができます
私たちはマルトのように将来は行うことを信じます しかし今は
分かりませんという 将来の話ばっかりするのことではなく
今できることを信じて 今できるためにどうすればいいのか
神様の計画 神様の時
それを見越えを聞いて信じて それで私たちが使えることができればと思います
イエス様が一番愛されたマルタ マリアにこのような信仰を与えるために
4日後彼ら彼女たちに訪ねたように 今日神様は私たちにもそのような信仰を
植えようと思って私たちに声をかけてくださいます
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ヨハネ11章25節26節 イエスは言われた私は復活であり命である
私を信じる者は死んでも生きる 生きていて私を信じる者は誰も決して死ぬことはない
これを信じるのかと言います イエス様は私たちに復活の信仰を与えてくださいますように
そしてこの復活の信仰をもって大勢の人々 日本の大勢の人々を助け生かし
癒すことができる私たちの教会になりますように ぜひとも祈っていきたいと思います
お祈り出します 主よイエス様は復活であり命であり今も信じる人々たちの心におられ
今も復活の命をもって働くことができる お方たちのことを教えてもらいました
私たちは復活は死んだ後あるんだと思って考えたことを悔い改めます
私たちはこれから現在的な復活を信じて 周りの方々いろいろな問題をかけてくれる方々を生かす私たちにならせてください
イエス様の皆を通してお祈り致します アーメン
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