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2022-07-18 29:53

「皆を愛する人になる為には」2022年7月17日(日)メッセージ

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東京ぶどうの木教会 2022年7月17日(日)主日礼拝のメッセージです。 牧師:アブラハム黄

ルカ  だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。

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今日は、みんなを愛する人になるためにはどうすればいいのかという対応をもって メッセージを分かち合いたいと思います。
みなさん、人生をどうすれば幸せになるんですか?
人生、幸せになる道は愛すればできます。 お互いに愛すれば人生は幸せになります。
ですから、みんなが愛を求めて、今非常に渇いた状態で、 愛したい、愛したい、愛はどこにあるのか、いろいろ探しているところであります。
ところが、いったい 私たちが求めて探しているこの愛は、どこにあるんでしょうか?
どこから来るのでしょうか? 使徒ヨハネは、イエス様の十二使徒の中で一番長く
純恵されないで長く過ごされた人です。 使徒ヨハネは、ヨハネの福音書、ヨハネ第一の手紙、第二の手紙、第三の手紙、
またヨハネの目記録まで書かれた、本当に素晴らしい使徒ですね。
一節で、使徒ヨハネはメッセージをするときに
彼はこうしたそうです。 兄弟みなさん、お互いに愛し合いましょう。
として、しばらく静かにして、そしてまた、
お互いに愛し合いましょう、と言ったそうです。 また次の週、またメッセージをするときに、
兄弟みなさん、愛し合いましょう、と言ったそうです。
聖書をたくさん書かれた、もう誰よりイエス様をよく知っている、信仰のレベルが一番高い、
使徒ヨハネが、立派なメッセージをするんじゃないかと、皆さん思うかもしれませんけど、
彼はいつも、みなさん愛し合いましょう、というメッセージをされたそうです。
なぜそうしたんでしょう? もちろん使徒ヨハネは愛の使徒ですね。
しかし、ヨハネがこんなに深くこの愛を求めた、メッセージをした理由は、
愛するなら幸せになるはずなのに、お互いに愛ができないから、そのような説教を続けたんじゃないかと思います。
今日は、どうすればみんなを愛する私たちになれるか、
それが一番幸せの道なのに、という考えを用いて、私たちはメッセージを分かち合いたいと思います。
神様は私たちに、命と幸せ、祝福を与えることを願われて、
聖書全体を通して、二つのことを教えてくださいました。
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それが第一の今しめ、第二の今しめです。 聖書全体は、立法の全体は、この二つの今しめを教えるためです。
第一の今しめは、神を愛しなさい。 第二の今しめは、隣人を愛しなさい。お互いに愛しなさいということです。
新明記でもこう言っています。新明記30章の15、16節。
みよう、私は今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。
私が今日命じたとおり、あなたの神、死を愛し、その道に従って歩み、その今しめを守るならば、
あなた方は命を得、かつ増える。あなた方は祝福されると言いました。
ここで、命をいただく秘訣は、神を愛すること、今しめを守ることです。
これはどんな今しめですか。これは第一の今しめ、第二の今しめではないかと思います。
神を愛し、今しめを守るなら、私たちは命を得、幸せになります。
ところが、これはもともと私たちにすべてあったことでした。
創世記2章を見ていますと、そこには人間と神様との間の愛があり、人と人との間に愛がありました。
人と人との間に、あなたは私の骨の骨、私の肉の肉と言われるほど、愛が豊かにありました。
その時は、創世記2章9節を見ますと、主なる神は、未老からに好ましく、食べるのに良いもの、
また命のき、善悪の知識のき、それを豊かに私たちに与えてくださいました。
エデンの祖の家庭を通して、その中で幸せと祝福を豊かに満たしてくださいました。
ところが、創世記3章以来、人間は罪を犯して、自己中心的に変わりました。
この一つが変わったんですけど、全世界は地獄のようになりました。
すなわち、神中心的であった人が、自己中心的に変わったのに、世の中が地獄になったんです。
ところが、地獄のようなこの世の中で、いつ幸せと祝福がある世界に変わるのか、
私たちが愛する時だけ、自己中心ではなく他人中心に変わります。
ですから、愛が大事なんです。
皆さん、愛するなら、私より愛する相手のために何でもしてあげたいという気持ちになるでしょう。
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だから、愛する時だけは、自己中心ではなく他人中心、他の人を中心に変わるんです。
私たちが、善悪の知識の木の実を食べて、それから人間はいろいろ変わるんですけど、
神の御言葉、今しめに対する態度が変わりました。
第一の今しめ、神を愛しなさい。それも、自分の都合が良い時は、神を愛します。
その以外は、なかなかできません。
第二の今しめ、隣人を愛すること。それも、自分の都合が良ければ、隣人を愛するんですけど、それもなかなかできません。
なぜなら、私たちは、自己中心だからです。
第一の今しめも、自分が必要な時だけ、神様愛しますと言います。
第二の今しめは、他の人が私にうまくやってくれれば、愛してるよと言います。
都合が悪ければ、第一も第二の今しめも無視します。
皆さんはどうですか?皆さんの家族に対する、この皆さんのこの態度。
いつも親切で、いつも優しく、家族を皆さんに使えますか?
私は息子がいますけど、息子に対する私の態度は、なんとかいつも、なんとか言葉遣いが良くないし、感触を起こるような状態だそうです。
私も知らなかったんだけど、いつか息子が私に対する態度が悪くなりました。
お前、父にこんな無礼なことを言うのかって言ったら、パパはいつも私にこう言うんじゃないですかって言って。
え、私がこう言った?わからなかったんです。
わからないまま、私の自分の都合のままに、なんとか接してしまったんですけど、
そのことであって、息子は今まで色々考えた、それでやったんでしょう。
私たちが一番愛することをしやすい、自分の子供さえもうまくできない、愛ができない。
このような私たちが誰を愛することができるんでしょうか。
皆さん、愛するなら幸せになることはわかってますよ。
神を愛するなら、神様が全ての祝福と幸せを与えてくださることを知っています。
ところが、なかなかうまくできません。
隣人を愛する、隣人の中で一番近い人はどなたですか。私の妻です。
私に妻をうまく愛してあげるなら、いいことをよく知っています。
しかし、うまくできません。疲れるなら、腹が立つなら、無闇に接してしまう。
だから、いつもトラブルがあり、関係が良くないんですね。
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自己中心的な人は、自分の都合が良ければ愛します。
しかし、ほとんどの時、愛することができなくて、
神様との関係もダメになり、隣人との関係もダメになっているのではないでしょうか。
もし、今、関係が良い状態だとするなら、
今、向こうの川から私をうまくやってくれるから良いことで、
それもいつ変わるかわからない私たちはないでしょうか。
神様との関係が良くない、悪くなる理由は、
神の御言葉に従わないからです。
また、神様よりもっと愛する他のものがあるからです。
これによって、神様との私たちの関係、人々との私たちの関係、
それが今、全部ダメになっていることではないでしょうか。
第一今しめ、第二の今しめを実践することができないから、
私たちの中で命がないことではないでしょうか。
命がない私たち、だからいつも渇きがあります。
欠乏ということがあります。虚しいことがあります。
病があり、戦いがあります。
ですから、みんなが辛い人生を過ごしています。
命である神様から離れることは、枝が木から離れることと同じで、
魚が水から離れることと同じです。
結局、渇き、苦しみ、死いうことが残っているんです。
神様は、どうしても愛ができない私たちを生かし、
命を与えてくださるために、イエス・キリストを送ってくださいました。
イエス様はこう言いました。
私は道であり、真理であり、命である。
私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。
イエス様は道です。イエス様は真理です。イエス様は命です。
イエス様は私たちを救うために、命を与えるために、
私たちの罪を全部背負って、十字架で死んでくださった神様です。
ですから、イエス様は私を信じて、救われ、救いをいただきなさい。
私を通して神に出会い、命をいただきなさい。
また、真理を正しく知って、私が示す道に歩みなさい、いつも言われています。
パウルは、自分自身がイエスを信じる人を迫害し、福音を妨げたのにもかかわらず、
イエス様は十字架で、自分のために死んでくださったことを悟ってから、
こんな話をします。ローマ書、古書8節です。
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しかし私たちは、また罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対する愛を示されました。
地獄に行く人のために、イエス様は死んでくださって、私たちを天国に送ってくださり、
悪魔の奴隷だった私たちを神の子供にさせてくださり、
呪いと病の中で過ごす私たちを、健康と幸せの人生として変えてくださった、これがどれほど何という恵み、何という愛でしょうか。
これを私たちが誠に悟る時、感謝と感激があふれ、
そして私みたいな罪人を生かしてくださった、その恵みが本当に感謝し、私自身を捧げます。
そうしながら、私たちは神を愛し、神様がそんなに愛しておられる、そのために死んでくださった兄弟たちを抱いて愛するようになります。
結局、第一いましめ、第二のいましめは、人間的な熱心、自分の偉い人格によって可能なものではありません。
神様の愛、イエス・キリストの恵みをたくさん体験した人が、神の愛、神の命、神の恵みを受けて、それを通して担うことができることです。
大勢の人がこう言います。あなたキリスト社でしょう。 キリスト社なら愛するべきではないですか。
皆さんその話を聞いたら、ああ挑戦を受けたと思いますよね。 なんとかして自分の力と熱心で、
愛したい、何か使っていきたいと、 頑張ります。
そうしながら、私たちは病気になります。 私の妻が病気になった理由、
私が初めの勃開で失敗した理由、 家族みんなが病気になり、つまづいて勃開の現場から離れた理由は、
人間としてはできない、この愛を自分の力で無理やりやろうとしたからできないんです。
そして病気になったんです。 私は本当にひどい奴だから、
それを我慢して、また家族にやらせたんです。 だから家族はますます悪くなったんですね。
もともと健在のもとにある人間は、 人間の中に愛はありません。命はありません。
神様からいただいた愛と命によって、 神を愛し、隣人を愛することができるんです。
もし自分の力で愛しようとするなら、 もしそれができたとするなら、
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私がやったと、自分の功労、自分がなんとか偉そうに栄光を受けながら、
結局、堕落してしまいます。 それが立法主義、陳本主義ということです。
神様は私たちが自分の熱心で愛することを願っておりません。
私は進学の時に、皆さん覚えてますか、 水俣ということを聞いたことありますか?
長崎県の近くだったんですけど、そこに見学に行きました。
その時、水俣病にかかった被害者たち、 秩相工場から出た汚染物を吐いている魚を食べて、
それで体の異常が起こったんですね。 その患者さんたちを代弁して、
政府と戦って患者さんたちに仕えて、 この人々がそこにいました。
自分の一生涯を、その患者さんのために懸心したと言いましょうか。 本当に犠牲しながら、
今もその時も、その患者さんを面倒見ていました。 私たちは向こうにいてびっくりしました。
私たちもできない、この愛をその方たちは、その人々に示していたのです。
自分の人生を捧げて、その患者さんたちのために 愛していく、
これはある宗教があることでもありませんでした。 ただ人間的な熱心で、その働きをしたんです。
新学生である私たちは、それを見てびっくりしました。 私たちもどうしてもできない愛を、
その方たちはこんなに立派に一生涯を捧げながら、 それをやっていらっしゃるのだなと思いました。
しかし、私はそこで一つ派遣したことがありました。
その方たちの、この何と言いましょうか、 自己義、自分の合浪、私たちはこんなにやった。
キリスト社たちは今まで何をしているんだろう。 今になってきてから福音を伝える。ありえない。
福音を妨げるような場面を見ました。 一体この方たちはどうなんでしょう。
みんなが救いが必要であり、みんながイエス・キリストの福音を 受け入れるべきなんですけど、
それが妨げになっていくなら、それはいかないでしょう。
世の中の人々は彼たちを尊敬し素晴らしい人だと言います。 ところが神様はどう思われるでしょう。
私たちは愛を示さなきゃいけないんですけど、 みんなを愛するために私たちはどうすればいいのか。
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聖書が私たちに教えてくださる方法があります。 これが今日読んでくださったルカの7章47節です。
だから言っておく、この人が多くの罪を許されたことは 私に示した愛の大きさでわかる。
許されることが少ない者は愛することも少ない。 要するにたくさん許された人はたくさん愛するということです。
みなさん、聖書が言われる愛ということは 私たちの努力と私たちの熱心でできるものではありません。
もともと高品性が立派な人、 人格が立派な人からできる愛ではありません。
聖書が言われている愛はこれです。 自分自身がどれほど大きな罪人なのか、それを見事ばと精霊によって悟り、
イエス様が罪人である自分のために 十字架で死んでくださったことを悟り、
徹底的に悔いを改めるとき、精霊様が働いて 神様の許しと愛、
それで罪が許されたという喜び、 天国の喜びを与えてくださるんですけど、
そのことが照らされたほど、 神の愛と許しを悟った人ほど、
罪を許された私たちのことが神様に喜び、 私みたいな人間を生かしてくださったその恵み、
本当にありがとうございます。 だから私は私の人生を神様に捧げます。
このように神の愛によって罪の許しの喜び、 天国の喜びを体験できる、
それが注がれているときに、 その愛に対する感激によって、
私たちは神様と隣人を無条件的に愛することができるんです。
その時、人間的な熱心ではない、世の中が真似できない、 驚くほどの神の愛の力が注がれるんですけど、
私たちはその力によって神の愛を示すことができるんです。
その時その愛はその人から出た愛ではなく、 上から注がれてくださった愛であり、
その愛をもって神を愛し、 また隣人を愛することができるんです。
皆さん、ヤクザが変わって牧師になったという話を いろいろ聞いたでしょう。
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いくらでも可能です。 ヤクザだからこそ、自分がどれほど罪人であることを確かにわかるから、
このことがもともと優しく行われます。 自分自身が罪人であったとした時、
悔い改めもやりやすく、精霊散歩の働きもやりやすく、 ですから変わったという大きな証をもって主に用いられることができます。
ところが難しい人がいます。 その人は倫理・道徳的に立派な人、
謀反的な人です。 自分が今まで良心的に過ごしてきたから、
自分自身が神から離れている罪人だということを、 なかなかわからない、なかなか認めることはできない。
だから悔い改めができないんです。 罪人でありながらも悔い改めができない人。
ですから精霊様が働くのに非常に難しいです。 彼は今も自分の道徳心、烈心によって生きようとします。
変わりたくない。私が今うまくやっていると思います。 もともと謀反的で立派にやる人だから、
自分が罪人だと知らない人です。 だから変わりにくい人です。
初めのスタイルはパウルのようなスタイルです。 パウルは迫害者でした。その意図が変わって福音を伝える人に変わりました。
2番目のスタイルは手も手というスタイルです。 いつも謀反的に過ごしてきたから、自分自身が罪人だと認識を持つのに非常に難しいです。
しかし手も手は変わりました。 パウルも大きな働きをしたんですけど、手も手も大きな働きをしました。
どんなスタイルであれ、方法ということは、見事ばと精霊様の助けによって、自分自身が罪人だと悟り、
深い悔い改めを過程を通して、神の恵み、罪の許しの喜びを悟るときに、
神様の愛し、隣人を愛する人になるんです。 これがルカの47章47節に、
多く許された人は多く愛するんだという言葉をここに当てはまるんです。 神様は私たちが自分の資源で自分の熱心で愛したいという頑張りながら、
つまずいたり倒れたりすることではなく、 また自分がうまくやった後、傲慢しながらためになることではなく、
神様と神の恵みをいただいて、神様を下さる力で、 神を愛し、隣人を愛することを願っておられます。
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これがキリスト教が求める愛です。
ところが、その愛と献身の感激によって、神様に仕え、他の人に仕えてきたんですけど、 その感激がどのぐらい続けられるでしょうか。
私も初めは、罪を許しをいただき、 神様が来よ、あなたの罪が許されたという
御声が聞こえる時に、私は罪が許されたところの喜び、 天国の喜びを味わいました。
その時、私の心の底から、神様、私を全世界の人々に、この罪の許しの福音、 イエス・キリストの福音を述べ伝える人にやらせてください。
それによって、私は宣教師になり、牧師になったんですけど、 40年たったら、その感激と献身の思いが弱くなってきました。
ですから大事なのは、どうすれば、この後も続けて続けて、 主に対する献身、思い、
また、主の福音に対する献身の思い、 それを維持することができるのかということです。
それは、私がどれほど大きな罪人であったのに、 許されたのかという、罪の許しの恵みをいつも覚えて、
イエス・キリストの忠実な愛と恵みを、 いつも覚えることによってできることです。
その愛の中にいつも留まること、それが大事です。 それを、昔、神様を下った恵みを覚えることが大事です。
しかし、それが10年、20年、30年、40年になったら、弱くなっていきます。
それからどうすればいいのか。 これからは、もっともっと積極的に他の兄弟たちに仕えるとき、
他の人に福音を伝えたら、その人が代わって涙を流してイエス様を受け入れ、 人が代わって喜びに満ちあうれる、この姿を見るとき、
その喜びが私にも伝えられて、 そして私も同じような、前の自分の救いの感激を持ち続けることができるんです。
そうです。自分の救われたことの喜びを覚えることも大事だけど、 続けて続けて他の方たちを助けながら、
その方が変わっていく、喜びを得ていく、天国を味わっていくことを見ながら、 その喜びが自分にますます強くなって、その福音に対する炎の力が続けられるんです。
しかし、私がこれ全部やった、私はこんなに人たちをたくさん助けた、という高満になる瞬間、
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すべてがためになってしまいます。 ですから私たちがいつも、私みたいな先人を生かしてくださった、その恵みを感謝しながら、
その恵みを忘れないで、いつもその救いの感激を持ち続けていくこと、これが大事です。
100年の人生、長いように見えるんですけど、私がすでに67歳です。 今、どちょうど70歳になります。
もう私、人生終わりじゃないかと思われるこの時です。 だからこの恵みの喜びを、救いの喜びを持ち続ける、神の愛という素晴らしい恵みを持ち続けること、
それが私たちに一番大事なのではないかと思います。 それをもって神様に感謝し、神様を愛し使いながら、また隣人に周りの方たちに愛をもって使いながら、
天国に入る私たちになりましょう。 じゃあ今日のテーマが、
みんなを愛する人になること、どうすればみんなを愛することになりますか。 私みたいな先人、地獄に行く人を天国の喜び、祝福として変えてくださった救いのイエスキリスト、
神の愛、恵みを受けて、それを味わって、それを知っている人だけがすべての人を愛することになります。
私たちのこのような恵み、悟り、そのような感激がいつまでもいつまで続くことができることをお願いします。
これが共同体が一緒に行ってお互いに証を持って助け合うこと、それが非常に大事でしょう。 お祈り致します。
神様、私たちは自己中心的なので、自分の家族さえも愛することができない、そのような私たちでした。
しかし、主はお互いに愛しなさい、すべての人を愛しなさいと言われます。 どうすればこれができますか。
イエスキリストの忠実感の恵み、神様の愛をいつもいつも私たちが覚えて、救われたその喜び、感激を覚えて、
周りの方たちに使える時、可能だと思います。 どうかどうか私たちにこのような神の恵みをいつも実践できる、覚えていくことができるように助けてください。
イエス様の皆を通してお祈り致します。アーメン。
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