【今月のゲスト】今月のゲストはNEGRONIブランドディレクター 宮部修平さん
【今回のトークテーマ】
・宮部さん越野会長それぞれ会社を継がれるときのお父様とのコミュニケーション
・お父様が進められてきたOEMからの完全脱却の背景
東京商工会議所北支部会⻑である越野充博が
王子飛鳥山の邸宅の談話室で、北区内外の多彩な起業家、経営者の方々をお招きます。
情熱とアイデアが交錯した素敵なおしゃべり。
グラスを傾けながら、北区の未来を語り合います。
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TOKYO NORTH MOVEMENT-飛鳥山の窓から
東京都北区飛鳥山。暖炉のある小篠光洋さんの部屋には、未来を思う様々な人たちが遊びに来ます。情熱とアイディアが交錯した素敵なおしゃべり。さあ、今夜はどんな話が飛び出すんでしょうか。
こんばんは、小篠光洋です。
今月のゲストは、ドライビングシューズブランド・ネグローニブランドディレクター、宮部修平さんをお迎えしております。
第1話は、宮部さんの今のブランドを運営する本社、まるみつ製菓さんの創業からお話を伺ってまいりまして。
そして、お父様から、今、宮部さんが後を継がない。これがですね、過強に入ったところで先週は終わってしまったんですけども、ここからお話を伺いたいと思いますけれども。
いろいろ販売先とのトラブルもあって、お父様が少しご機嫌斜めでお帰りになってきたところに、夢大きい若者の宮部修平さんがいて、お父様がカチンと来たと。
そうですね、私も当時まだちょっとプラプラしてるようなイメージがあったんでしょうね、父親からすると。
宮部さんはいくつぐらいだったんですか?
えっと、その時で多分2009年なので、大体本当に20代半ばぐらいですかね。
じゃあ、お父様が50代半ばぐらい。
なるほどね、まだちょっと生意気に見えるような、多分見た目と年頃というふうなところで、お前は何も分かってねえみたいなところから始まりですね。
そうですかね。宮部さんはいきなりそう言われて、どういう反応だったんですか?
もう私も本当に父親に似て、やはり言われたら売り言葉に買い言葉の人間なので、言われたら、いや、そうやって酔っ払って、もう本当に暴力でもないなみたいな感じでこうなるわけですよ。
なのでそこでもう本当に結構な言い合いになってしまって、お前なんかに何が分かるみたいなところで、最終的に得意合いにまで発展してしまって。
初めての父親との得意合いですよ、そこで。
そこでやはり得意合いになっても、まあもう親父なんていうのはもう完全に酔っ払ってるわけで、力なんて入ってないんですよ。
なのでもうこんなの押し倒したら終わりのような感じなんですけれども、ただそこで私も得意合わないと分からない感覚ってやっぱりあって。
やはりその父親の体格、まあ私より全然ちょっと少し小さめなんですけれども、をやはり取っ組み合った瞬間に、父親がこう自分の中でも要は怖い存在だったりとか、
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まあいつもこう怖さ的な部分も結構あったりとかするんですけれども、かなり存在だった父親がちょっと酔わってるなっていう風な雰囲気はやっぱりその瞬間やっぱりあったんですね。
まあもちろんそのアルコールで酔われてる部分ももちろんあるんですけれども。
ただその中で、まあなんかもうお前にはどうせこんな仕事はできないぐらいに言われてしまったところに返してしまったんですね。
なのでやってやるよっていう風に言ってしまって、ああ言っちゃったっていうところがやっぱり。
それはだけど先週も言ったけど、お父様にとってはこのなんかブラブラしてる息子がここにいた、あれもちょっと限界かな、なんかいろいろ考えなきゃなと思ってて、酒も入ってるチャンスだと思ったと思うな。
いやー罠だった可能性がね、今となると捨てきれないんですよね。
でもその本当に取っ組み合わなきゃわからないっていうところって、実はその事業生計っていうものを考える時にね、すごく大事な要素のような気がしますね。
まあ本当にね、取っ組み合うかどうかは別にしても、要するにそれぐらいのずっと父親としてやってきた事業、その前からも続いてきてる事業っていうもの。
息子ももちろん背中を見てるし、商売人の息子ってなんとなく見てますからね。
わかるけど、でもやっぱりそこってやっぱり違いもあるし、わからない部分もたくさんある。
その時にやっぱり、本当に精神的に取っ組み合うって大事なんだろうなと思いますね。
そうですね、ただいざこう一緒に取っ組み合おうぜってなかなかできないじゃないですか。
なのでこれってやはり何かのきっかけ、さっきお話したような取引先のトラブルだったりとか、何かしらのピンチが家、家業に訪れないとなかなかそういうことってないねっていうところがあって。
それでとにかく入られることになったんでしょうけども、さらにある意味ピンチとしては、もっともっと一緒にやっていく、お互いそう思ってたと思うんですけども、お父様が亡くなられた。
この瞬間、そしてこの後っていうのは宮部さんは思い通りどういう風に?
まずですね、私がすごく記憶に残っていたのは、まさしく2012年頃で、実はそこは私、結婚控えっていったタイミングで、結婚式の本当に1週間前ぐらいに、ちょっと体調悪いって言って病院に父親が行って、その後医者に呼び出されて。
もう余命宣告です、そのタイミングで。
結婚式に行くなんて何言ってるんですかっていう風に言われて、もう即入院です。
もう半年持つか持たないかって、その時に言われてしまったんですね。
要は父親の分ももちろん予約してますし、結婚式自体は本当に山梨でやったんですけれども、そこでやるっていう風になっていたのにも関わらず、父親が要は産列というか、行けないという風なところになってしまって、
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えーっていう状態です、もう本当に。
まさか半年で親父が死んじゃうのっていう風なところで、正直言ってもちろん2012年なんで、もう本当に2年程度しか一緒にお仕事はしてない。
で、プラスその父親自体とすごく密になって一緒に仕事するぞって、親子なかなかそこって難しいところで、やはり父親と息子がいっぱいお話をして、いっぱい仕事についてやってるお家ばっかりではないと思うんですね、実際のところはやはり距離もあって。
それがこう長年にわたってなっていく中で、徐々に徐々に継承されていくマインドのその共通項を探っていくっていう風なところが、私は全くできない状態で一気に闘病生活になっている。
闘病期間中はお父様とどんな感じでお仕事されるんですか?
父親もやはりもう病院に行くことがやっぱり結構増えてしまって、そこを正直商売やってるとなかなか表に出せないっていうのがあるわけですね。
そこで当時取引先とかに、あそこ社長まずいみたいな感じで思われて引かれるのも怖かったので、そこはもうやはりなるべく見せないように見せないという風なところで私もやってたんですけれども、やはりその当時は拙かったので、やはり難しかったですね。
もう本当にその2年間は本当に難しかったですね。
あのね、私も実はね、うちの親父が胃がんを発症して非常に調子が良くてですね、ところが再発をして、これはもう本当に余命戦国で残り約半年と言われたんですね。
で、そこからその実は毎朝病院に私が車を運転して行っていく。この1時間かけて疲労の病院に連れて行くんですけども、この1時間のコミュニケーションっていうのが約200日ぐらい続いたのが、これがですね、本当にその後で生きたんですよ。
それでね、今そういう質問したんですけども、糖病期間中だからこそ、ある意味お父上も先分かってるわけじゃないですか。
で、その中でこちらももちろんね、直接聞いてるから分かってる。その中での濃密な関係みたいなのがあったんじゃないかなって想像したんですけど。
そうですね、あとはあんまり仕事の話をしたくなかった部分ってありましたね。あの要はどうしてもそのストレス、なんか変なストレスかけたくないなっていうところもあったりとか、まあ大丈夫っていうふうに言って、どちらかというと仕事を結構苦労してたんですけど、割と隠してましたね。
どちらかというと。で、なるべく私自身はストレスかけさせたくないなって思いつつ、実際その糖病してると家族のストレスもすごい大変。先ほどおっしゃってたように、お父様を連れて行く、毎日連れて行くっていう風な量ってとんでもない大変なこと。
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プラス仕事、家業があってっていう風なところなので、そこってある種必ずどこかで乗り越えていかなきゃいけない。まさしくファミリービジネスが乗り越えていかなきゃいけない一番の障壁だったりすると思うんですけど。そこが私自身はなるべく父親とマイナスの話をしたくないというか、常にマイナスなので実際のところは。
僕はね、やっぱり元気づける意味でもってね、先の話当然するじゃないですか。そうするとね、うちの親父にね、ポジティブなこと言うでしょ。うちの親父ってやっぱり戦争を体験してきた人なんでね、すごい厳しくて。お前そんなね、俺がいるっていう前提でね、計画しちゃダメだって言ってね。いない前提でやらなきゃダメだろって言ってね、すごい怒られたことあるんですよ。
そうなんですよ。
お前って言わなかったけど、いやー、俺元気づけようとしてるんじゃダメ、それはないだろうとかって運転しながらね、思いましたけどね。
でも今から考えるとね、そういう、なんていうか、非常にネガティブなものをちゃんとネガティブとして捉えて、最悪に備えながらきちっと計画するっていうかね、そういうことをね、あの期間にね、叩き込まれたような気がしますね。
あ、そうですか。
すいません、自分のこと言っちゃった。
いいえ、いいえ。
本当に大変な状況の中でお父様亡くされてということですけれども、ここからお父様が進められてきたOEM、これからの完全脱却っていうんですか、これを目指されたということなんですけれども、これはどういうきっかけだったんですか。
えっとですね、またこれもとんでもない話なんですけど、父親が亡くなる3日前に、今の私たちの工場があるネグロニファクトリートーキョーって言ってますけれども、そこのファクトリートーキョーの物件を契約したんです。
はい。
で、3日前っていうことはですね、別にもう3日後に亡くなることわかんないんですよ。
要するに父親もうちょっといる前提で契約が終わった3日後に亡くなったんですよ。
で、実はですね、工場移転っていうのは父親の夢でもあって、私ももう随分と下町の工場で古くなってたんで、そこも移転しようってかけてたんで。
そこをもう1回、私たちもたまたまいい物件を、今の塩入り地区っていうところがあるんですけど、塩入りの工場をちょっと私も見せられて、ここに工場があったら最高だね、天井も高くてっていう場所があったんですね。
で、そこを契約したと同時に父親がいなくなってしまったんで、もう機械は愚か、何でこれ動いてるの?これってどういう風な配線で動いてるの?何にもわかんない。
まあ靴作りはそこそこわかっても、要は機械がどうなっているのか、この機械が何で動いて、どういう風に配置すれば生産効率が上がるとかって何にもわからない状態で、さあやってくださいってなったんですね。
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そのタイミングで正直言ってOEMもやってはいたんですけれども、私自身は実はそこをずっとOEMっていう風なビジネスモデルに対して結構会議的な人間で、長年やっぱりやってたんですけれども、何とか自社のコンテンツでしっかりと食べていける基盤できるんじゃないかなって、
素人考えで思ってたんですよ。そのタイミングでやはり工場も買っちゃったし、もう親父も死んじゃったし、もうやっちゃえばいいんじゃないっていう風な、すごくもうそこから先はもう、何て言うんでしょうね、もうかなりできんじゃないっていう、本当そんなもんです。
方向展開の恐怖感みたいなのじゃなかった?
やっぱり父親がいなくなったことが大きかったですね。多分そこで、いやお前ちょっとそれは危ないんじゃないとか、お前それはさすがにリスクだよって多分言われた可能性はもちろんあるんですよ。
でも何かそういうふうに注意してくれる人が急にファッといなくなっちゃったんで、こっちはもう無敵ですよね。もう全然もううるさく言う人がいなくなっちゃったんだ。じゃあもう自分のもう勢いでやっちゃえって。今だったらできないかもしれない。
なるほどね。若さですね。
若さです。まだ29くらいの話だったので、当時その29歳の若者というか、もう怖いものなんかないわけですよ。親父も死んじゃってる。工場も作んなきゃいけない。そしたらもうOEMだって辞めちゃったらなんとかなるでしょうね。思ってパーンと辞めちゃったんですね。
そうですか。そういうのって簡単に、例えば社内にはね、宮原さんもちゃんと2年間はやられてたし、信頼もあったと思うんでいいんだけど、例えばその金融機関とか、もしかしたら上北信用金融かもしれませんけど、その辺のところからも、大丈夫みたいな話じゃなかったですか。
いやまあここの部分が実は金融機関を上北さんに変えたタイミングだったんです。
あ、なるほど。
ここで変えちゃったんです。
そうかそうか。逆にじゃあ、もともとお付き合いのあったところからは、ちょっと懸念も示されたりとかそういうことがあったってこと?
あったんじゃないですかね。
ちょっとさしさりがあるわけですけれども、じゃあそういう意味では上北さんがそこは支えていただきながらみたいな。
そうですね。応援してくださったんですよ。その要はマインドで。もうやってやるっていうところで、私ももうやるって言ったらとことんやる意見なので、もう決めたらやるっていうふうなところで、そこはもうストップでやってしまえば私はできるっていうふうな、実感はある程度は自信はありましたね。
なるほどね。これは本当に中小企業が事業処刑していくときに、やっぱり企業機関さんが処刑された若い社長さん、責任者の方へフォローしていただける、バックアップしていただけるってものすごく大事ですよね。
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ものすごく大事です。
ここに見捨てられたらっていうね。だからさっき前段でおっしゃってた、お父様の病気のこともある程度隠さなきゃいけないみたいな話もね。竹田信玄が亡くなって勝頼が隠したのと、基本的にはメンタルティ変わらないところもありますもんね。
変わらないです。
だからやっぱり本当にそこが大事だったんだろうな。本当にね、渋沢くんFM、上北信玄機構プレゼンツだと言うわけじゃないけど、それは本当に素晴らしい。
嘘、偽りないですけどね、ここに関しては。
さて、これで国産ドライビングシューズというカテゴリーを切り開いていかれるということになるんですが、これは次週またじっくりとお聞きしたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
どうもありがとうございました。
ありがとうございました。
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