1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #146 プラグマティズムの発展..
2023-09-17 1:07:55

#146 プラグマティズムの発展。哲学はどこまでフラットになれるのか?

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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サマリー

パトナムさんの立場を通じて、結局、プラグマティズムは実在論の立場から始まり、科学的実在論として発展していくということが説明されます。我々は真理を得ることができるというイメージに近いですね。真理が実在するのかどうかという話です。そして、結局、哲学とは何だったのかという話に進みました。プラグマティズムの真髄についてのエピソードでは、素朴実在論と内在的実在論の違いについて探求されました。人間の信じたり疑ったりする姿勢が重要であり、世界を理解するためにはその中で生きる必要があるというプラグマティズムの考え方が示されました。プラグマティズムの真髄を語る本エピソードでは、哲学とは共同体を正しく捉えてその中で生きるというメッセージが伝えられ、また電気の使用やプラグマティズムのフラットさの重要性などが議論されました。哲学とは結局、自分自身とつなげて思う部分があるのではないかと想像されます。プラグマティズムの真髄を知ると、自分の真理があってもいいと思う話です。

00:05
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回も引き続きプラグマティズムということで、前回までパースとジェイムズ・デュイということで、プラグマティズムを作ってきた人たち、
土台を作ってきた人たちというところだったんですけれども、さらにこの広がりというか、そのプラグマティズムがどうなっていったかみたいなところを見ていくと。
そうですね、はい。今兄貴が言ってくれた通りで、彼らがパースとかがプラグマティズムというのを始めたというのが今から150年ぐらいなんですけど、
その歴史の中でプラグマティズムって思想がどんなふうに広がったかとか、発展したかっていうのもいろんな流れがあるんですよね。
それをより現代に近づくような形でお伝えしていきたいというふうに思っていますと。
前回で終わりだと思っちゃったもんね。濃い目でね。
そうそうそうそう。やっぱり哲学ってさ、例えばソクラテスがソクラテス、プラトンがプラトンはこんなふうに言いましたよ、じゃあ次はアリトテレスですね、みたいになりがちなんだけど、
プラグマティズムっていう発想自体が、例えば検証を繰り返すとか、実践を通じてより確からしい知識を身につけていくみたいな感じがあるんで、
なかなか人それぞれに留まらずに、このプラグマティズムっていう思想自体がどう発展したかとか、プラグマティズムを使ってどんなことを考えたかみたいなのが結構蓄積されやすいんだと思うんだよね。
なるほど、あれだよね、絶対的なプラグマティズムとは何かみたいな、それを読み解くっていうことじゃないって話だもんね、前回からの話からすると。
プラグマティズム自体がどんどん広がりを持っていく形になってるって話なんだね、この思想自体が、哲学自体が。
そういうことです、そういうことです。
じゃあ現在進行形なんだ、今でもって感じなのかな。
今でも、今でもだね。
それはちょっと次回やろうと思うんだけど、今回はだいたい50年60年くらい前の1970年代かなっていう20世紀後半でこんなこと言ってる人がいましたよみたいなのをお伝えしていこうと思ってるんですけど、
最初に言うと少し今回長くなっちゃうかもしれなくてですね。
台本自体で4千字超えたぜっていうのと、あとちょっとこれまた言うかもですけど、僕の中でも読んでて分かった気がしたんだけど、台本作ってたら何言ってるか分からんとか、これ結局どういうことだみたいなので、結構いろんな論文をまた読み直して、それをくっつけたりしたら結局長くなっちゃって。
ただその分ね、あんな風に発展してたなとか、ただやさやパース、ジェームズ、デュイで結構いろんな発展とか広がりがあったじゃないですか。
結構そもそものところを乗り越えたっていうか批判した感じがあったからね、哲学。
そう、それこそプラトンとかデカルトっていう人たちを乗り越えましたみたいな話があったんだけど、さらにそれが20世紀に入って発展していくとか乗り越えられるみたいな感じがあるので、そういうのは今日駆け足でバッと見ていきたいというような感じで用意してきましたというところですね。
大丈夫?前回までやった分をひっくり返すような発見はなかった?勉強してて。あー全然分かってなかったわーみたいな。
そうね、あそこは一定大丈夫。それを土台にして、より遠くに進んでるっていう感じかな。
なので皆さんもこれまでの話聞いたところを土台にしながら今回も聞いていただけると分かりやすいんじゃないかなという感じですね。
もし今回から初めて聞いたよって方がいたら、ぜひプラグマディズムの第1回からちょっと大変ですけど聞いていただけるとより分かりやすいかなというふうには思います。
さらに言うなら、ソクラテスから聞いてくださいって話でしょ。何を乗り越えたのか。
何時間かかるのよ。
ソクラテスとデカルトの、プラトンか、プラトンとデカルト聞いてくださいみたいな。
その話したらまたね、どんどん時間になっちゃうからサクッと行こうと思うんですけど。
パトナムさんの哲学的な立場の変遷
今回ですね、中心的に取り上げたい人がパトナムさんっていう人なんですよね。
パトナムさん聞いたことないと思うし、僕もそんな知らなかったんですけど。
ベトナムの方かな?
違います多分、アメリカです。ベトナムとは関係ないですね。
僕が今回かなり参考にしているというか、ほぼそこから取っているのが、プラグマティズム入門というチカマ新書の本なんですけど。
そもそもその本自体が、パース・ジェームズ11という初期の人と、
こういうちょっと前のプラグマティズムと現在のプラグマティズムみたいな構成で書かれているんですよね。
あ、そうなのね。はいはい。
ちょっとそれにのっとっている部分もあるんだけど、
その本の中ではこのちょっと前のプラグマティズムみたいなので、
クワインという人とローティという人も含めて取り上げられています。
結構それぞれの力の置き方とか主張が違うので、
それぞれ一人ずつやっているとどんどん長くなっちゃうという中で、
このパトナムっていう人を今回取り上げてみたんですけど。
なんかね、さっきも言った通り、
パトナムさん自身が人生の中で3つぐらいいろんな立場を、
俺はこのAという立場だって言ってたのを乗り越えて、
俺はBだって言って、さらに実はCだったみたいな、
そういう変遷を人生の中で辿っているんですよ。
うーん、なるほど。それは哲学的な立ち位置みたいな。
それを今日はしっかりお伝えしていくんですけど、
それ自体が結構パースとかジェームズをどう引き継いだかとか、
どう乗り越えたかっていう、
まさにこれまでやってきた3人のプラグマティズムを発展させたっていうのに
すごい重なるなって思ったんだよね。
うーん、そうなの。
なのでこのパトナムさんという人をメインに取り上げるんですけど、
ちょっと他の人の意見も混ざっちゃってるとかっていうのはあるとは思うんですが、
だいたいイメージとしては1960年代とか70年代くらいの
プラグマティズムって言われたものが、
すごいざっくりこんな感じ。
その一部がこんな感じだったよみたいな。
本当にいろんなテーマとか主張はあるんですけど、
こんな議論があったよぐらいに思っていただけるといいのかなと思ってますと。
はいはい。ちょっとモーラーはもちろんしてないよって。
そうです。
なのでこれはプラグマティズム20世紀のだみたいなのは
ちょっととても言えないんだけどっていう感じですね。
ちょっと早速なんですけど、
パトナムさんの紹介も今回サラッとにしたいとは思ってるんですけど、
1926年ですね。ベトナムではなくアメリカ、シカゴに生まれますと。
亡くなったのが2016年なので、本当につい最近だと思うんですよね。
おー、はいはい。しかもなかなかご高齢じゃない90歳。
そうそう90歳くらいで亡くなられたんですけど、
さっき言った通り3回ぐらい自分の哲学的な立場っていうのを変えてるんですよ。
もちろん単に気が変わったとか、
あっちがいいってこっちがいいってなったとかではなく、
徹底的に今自分が予定立つ思想とか立場っていうのを検証して、
これだとこんな問題が解決できないとか、
もっといい考えがあるはずだっていうので乗り越えていって、
より確からしい立場みたいなのをどんどん作っていきましたみたいな感じなんだよね。
なるほど、はいはい。
今回その3つの立場っていうのをしっかりお伝えしていきたいんですけれども、
その変遷っていうのが、1個目が科学的実在論、
2つ目が内在的実在論、そこから自然的実在論っていう、
同じ実在論なんだけど3つありますと。
うーん、全部わからんの。
ですよね、ですよね。
そもそも実在論何?ってところからちょっと今日話していこうと思うんですけど、
あと何、科学とか内在とか自然とか言ってるけど、
それが何が違ってどう発展してるの?みたいな。
かつそうやってプラグマティズムとどう関連があるのって、
ちょっといろんなものを盛り込みすぎちゃって長くなっちゃったって話なんですけど。
そうそうそう、今のところこれプラグマティズムと何の関係あるのって。
そうだよね、そうだよね。
どこに向かってるのかも分かんないから。
はい、ちょっと、最終的にはちゃんとプラグマティズムの話になってくんで、
そこはご安心くださいと。
なのでちょっと早速入っていこうと思うんですけど、
まず実在論みたいな言葉はさ、
なんかこれまでのスライディストラジオに出たと思うんだけど、
聞いたことあるなっていう感覚ある?
実在?
観念論とか実在論とか。
観と、観とかな。
あー、はいはいはい、そうねそうね。
うん、そのぐらい。
いや、OKですOKです。
で、今ねちょっと言ったんだけど、
実在論とか観念論っていうのが、
いわゆるちょっと対立的な概念として哲学で扱われがちなやつなんだよね。
あー、そうなんだ。
うん。で、実在論は何かっていうと、
要は、僕らの認識、
見るとか聞くとか触るとかっていうものとは独立して、
そのものそのものが存在してるよっていう立場なんだよね。
だから兄貴が言ってくれた通り、観とっていうのは、
物自体っていうものはある。
人間とかその認識とは独立してあるんだけど、
それは認識できないよっていうふうに言った実在論なんだよね。
うーん、なるほど。
そのものを直で認識してるわけじゃないよって話。
そういうことそういうこと。
よく話題に上がるね。
哲学的に話題に上がる像を見てるんだとか、
その認識っていうものを僕ら理解してるんだみたいなそういう話ね。
で、逆に観念論っていうのは、
ある種認識してるもの、
例えば目の前にあるパソコンであれマイクであれいいんだけど、
それっていうのは僕らの認識作用があって初めて、
存在すると言えるんだみたいな話で、
これで結構仏教とか近いんだよね。
要はあらゆるものは空で実体がないとか、
そういうのが観念論的に近い話ですと。
なるほど。
なんでそもそもそういうね、
物があるのかないのかっていうのが問題なのかっていうのは、
ここでは一旦深く入り込まずにやろうと思うんですけど、
そういう二つの立場があります。
けれども、パトナムさんは実在論というのは基本的には推してますと。
なるほど。
ちゃんとその、
うちらの認識とか、
それとは独立して、
ものそのものは世界にありますよという立場だと。
そうそう。
まずちゃんとあるよっていうところから始まるんだよね。
科学的実在論の説明
その第一歩の科学的実在論、
これなんか啓示上学的実在論っていう風に言われることもあるらしいんですけど、
これでは実在論ってどうなるかっていうと、
要はその自然科学ね、
僕らがいわゆるやってる物理学とか生物学とかあると思うんですけど、
それまで見えるいろんな法則や秩序っていうものが、
僕らは認識とは独立に存在をしている。
要はものだけじゃなくって、
秩序とかも全部存在しているんだと。
存在なんだ。
そうそう。
それによってこの世界っていうのは成り立っているんだっていうのが、
科学的実在論なんだよね。
これは一見、
実は当たり前っぽく聞こえるかなと思って、
要は水っていうのは川から海に流れますよねとか、
地球上だったら物っていうのは上から下、
要は地球の中心に向かって落ちますよね、
引っ張られますよねみたいな話って、
観測で見ることもできるし、
数式とか言語とかでも表現できる。
いつかこれを全部やり尽くして、
いろんな物理現象とかものに対しても、
いわゆるこれは元素何でできててとか、
元素の中には素粒子っていう、
もっと細かい単位があってとかっていう感じで、
それを全部解き尽くしていったら、
この世の全部をある種認識可能なものになるみたいな。
そこそこ錬金術的な話で金も作れるよねみたいな。
そうだね。
ちょっと錬金術と違うかな。
元素自体を変えちゃうから。
あれか、質疑応保存だけか、
投下交換の法則が成り立たないみたいな話になっちゃう。
それも破壊の錬金術師だけどね。
そうそう。
錬金術師にしてやると違うね。
科学ではないもん。
違う、科学ではない。
実在論とプラグマティズム
それはもう元素そのものを変えてやろうって話だから、
でもそういう元素にも、
特定のちゃんとエネルギーとか、
科学的な手順を踏めば別の元素にも変えられるよねっていうのは、
この自然科学とか科学的な実在論だよね。
はいはいはい。
っていうのが、
やっぱりある種それをやり尽くすことによって、
真理を我々は得ることができるんだ、
みたいな感じなんだよね。
うんうんうん。
万能とかのイメージに近いよね。
確かになったね。
そうだね、そうだね。
結構これ、パースターの実は科学語に近く、
要は科学的な手続きっていうのが、
いわゆる真理に至る道なんだっていう感じがするというか、
そこと結構重なるんですけど。
そうなんだ。
うん。
なんかちょっと若干このものがあるみたいなところ、
うんうんうん。
そういう公式とか、
自然説理みたいなものがあるっていうのは、
ちょっとイデア的な感じもするけどね。
はいはいはい。
それを読み解こうみたいなのって。
そうだねそうだね。
でも結構ね、
もう真理が要はそもそもなんだろうな、
これって大前提として、
そもそも真理っていうのをどういう風に扱えますかっていうのが実はあって、
今兄貴が言ってる通り、
イデアっていうのは要は真理っていうのが、
人間存在とは独立してとか、
そもそも真理の方が先にあるぐらいの考え方が、
例えばイデア論ですと。
あれでもね、
今日の話を言うと、
真理は実在するのかどうかみたいな話ってことだよね。
そうだね、
確かにちょっとそこを実は深く入り込むとややこしいかと思って、
あんまり言わなかったんだけど。
ややこしいんだこれ。
ややこしい。
真理とは何かってすごく実は難しくって、
ここでは軽く目の前にあるものと、
なんだろうな、
要はそれが本当にあるのかどうかっていうこと。
あるとすれば真だし、
ないとすれば偽みたいな話が、
ここで言うちょっと真理なんだよね。
実在論、関連論っていうのは、
あくまでレイヤーの話をしてるみたいな。
そうだね。
真理とは一旦分けて考えようねっていう、
頭で言った方がいいんだね、そこは。
確かに確かに。
だから僕らが普段考える真理、
要は唯一絶対の真理とか、
この世の究極の真理とかっていうよりは、
物があるとかないとかっていうことって、
何なのみたいな話で聞いてもらった方がいいかも。
なるほど。
じゃあパトナムさんもそういう話で、
今このハイレッドがパトナムさんの話を、
そういうふうに今してるってこと?
そうだね。
ちょっと少しだけ補足すると、
ただ物があるっていうことの究極を突き詰めると、
これハイデッカーで言わせたと思うんですけど、
要は何かがあるっていうことを証明するというか、
論争できると、
そこから神があるかないかとか、
じゃあその究極の真理があるかないかとかっていうことも、
論争できるよねって話に発展していくんだよね。
だからさっき、
いわゆる究極的な真理っていう話と、
物があるっていうのはちょっと別レイヤーだっていうふうに、
兄貴が言ってくれたんだけど、
実は地続きではあるっていう感じなんだよね。
だし、
あとは実はもう一個真理っていうのは、
別のレイヤーがあって、
要は物があるとかじゃなくって、
彼が言っていることは真理だとかっていう、
要は言葉にまつわるものもあるんだよね。
誰かの時にちょっと言ったと思うんだけど、
ソクラテスは死ぬ、だから人間は死ぬみたいな、
よく使われる三段、
これ今二つしか言ってないんだけど、
三段論語とかあったときに、
それは論理的に真理だっていうことも言うことができますと。
ふんふんふんふん。
だから真理ってそういう、
要は究極の真理みたいな、
追求するものと、
そもそも世界がどうあるかとか、
僕らがそれをどう認識するかっていうような意味での真理と、
あとは言葉としての真理とっていう、
すごくざっくり分けて三つぐらいがあるんだよね。
でも別にこれは全部バラバラではないみたいなのは、
真理論っていうまたカテゴリーの中にあるらしくて、
真理論なんてあるんだ。
哲学の中での真理論みたいな話とか、
本も出てるくらいなんだけどそういう。
なるほどね。
そこをあんま気軽に突っ込んじゃうと、
そっちの方に行っちゃうっていうのがややこしいって話だね。
そうなんです。
真理の存在論とその解明
真理論の話をじゃあ今からしましょうかねと、
そういう話になっちゃう。
なるほどな。
すみません、不容易な発言を。
いやいやいや。
でも確かに気になるよね、気になるし、
確かにそこ置いていくとね、
何言ってんのってなっちゃうと思うんで、
いったんそういう前提がある中で、
今は実在論という中での、
物があるとか世界があるって何?っていうところも話を、
から真理について考えてるよっていうような。
はいはい、そういう意味でパトナムは、
パースと近いですよと。
この科学的実在論の時のパトナムさんは、
近いですよが正しいから。
ややこしいよね。
なるほどね、イデアを信じてるとかっていう話ではなくて、
あくまで科学的にあるなしとか、
公式があるなしみたいな、
学問的に正しいとは何かみたいな、
スタンスで言うと似てるよねと。
そうそうそう、そういうことです。
いやー、大変だね、物事を定義するってのは。
本当にね、やっぱりちゃんと理解するっていうのはね、
でも兄貴が聞いてくれる、
ちゃんとわからんことを返してくれるからね、
こうやって今話したいからありがたいんだけど。
了解、そのパトナムのポジションだよね。
なんかちょっと矛盾あるなと思ったんだけど、
今の話でなんとなくね、
なんとなくね、
ちょっと新議論っていう、
なんか深淵を置いてしまった感じがするんだけど。
そこは見なかったことにして。
またちょっといつかそっちはそっちはやりたいなと思ってるんですけど。
ぜひ、それもぜひ。
たださ、ちょっともう一回科学的技術座談。
要は、自然の法則とか、
物が何にできてるとか、原子とか素粒子とか、
そういうものを突きつくしていけば、
この世が全部説明できるっていう考え方。
で、別に普通に言われれば、
そうじゃないの?みたいな感じもあると思うんだよね。
うん、あるある。
だって僕らってそのために自然科学やってんじゃんみたいな話なんですよ。
で、パトナーさんも最初はそんな風に思ってたんですけど、
ただ彼っていうのは、
次に内在的実在論っていう立場に移っていくんだけど、
これに移った時に、
この科学的実在論っていうのを徹底的に否定するのね。
へー、はいはいはい。
で、どうやってとか、なんでみたいな話なんですけど、
ちょっとここでもう場面設定変わっちゃうんだけど、
要は科学の話はさっき言った通りなんだけれども、
やっぱりプラグマティズムって何度かお伝えしてきた通り、
僕らって特定の状況とか場所で生きてて、
それぞれ違った関心とか目的を持ってますよと。
例えばさ、僕と兄貴が今こうやってね、
ラジオとか放送キャストやってるけれども、
やっぱそこに対する関心とか目的を持ってますよと。
同じ場にいるんだけど。
じゃあもっと広げた時に、
ポッドキャストをやってる人、日本でとかって広げた時にも、
当然みんな違う関心とか目的を持っているから、
何のために?
そうそうそう、何のために?
これはちょっと存在論から離れちゃうんだけれども、
結局じゃあ何がポッドキャストをやる意義ですかとか、
そこに関しては、
何がポッドキャストをやる意義ですかとかっていうのはもう千差万別で、
いろんな話が当然あるし、
当然あとは存在するみたいなことについても、
兄貴は途中でさ、
父の子がいるみたいなことを言った時にどうなる?
みたいな話をしたの覚えてるかな?
うんうん、前回ね。
あの時に、兄貴にとっては父の子は存在するけど、
僕にとってはしないみたいな、そういうことも起こり得ますよね。
はいはいはい。
いや、もういると思ってないけどね。
一応置いとくとね。
ユーマ信じてる人みたいになっちゃってるって言うと違うからね。
例え話でね。
そういう信じているとした時にね。
要はそういう風に言えば、
科学では否定されてると思うんだけれども、
とか見つかってないんだけれども、
それを信じるってことさえは、
僕らの生きてる現場ではあり得るよねと。
そうだね、それを本気で信じてる人っていうのもあり得るだろうしね。
なった時に、
それを、いやいやお前そんなものいないんだぜ、
みたいな話をするとかっていうのは、
要はあらゆるものを認識して、
解き尽くしたいんだとか、
言語化し尽くしたいんだっていう、
そういう態度のもとで行われている行為だよねっていう風に、
パトナーさんは捉えるんだよね。
うーん、そうなんだ。
その存在を否定する行為も同じだって話。
そうそうそう。
これもちょっと前回言ったかもなんだけれども、
曖昧性を避けたいとか、
自分の中で言語化できないものを言語化し尽くしたいんだ。
だからお前の思ってることを否定してやるっていう、
否定するってことでそれを解き尽くすってことだから。
っていうような、
そういう無意識的な態度がありますよね。
なった時に、
それ自体は別にその人のスタイルだからいいんだけど、
そもそも科学的実在論っていうもの自体が、
そういうあらゆるものを解き尽くしたい。
もっと言うと、
世界のあらゆる物事を、
言葉とか法則で解き尽くせるっていう価値観が動いてるよねと。
言った時に、
それって本当なのっていうのは疑えるよねと。
疑えるねっていうか、
それってめちゃめちゃ強い前提じゃないっていう風に考えるんだよね。
なるほど、
その解き尽くすことが可能だっていう前提ね。
別にそれは保証されてないし、
どうしたらそれを解き尽くしたと言えるかっていうのも、
確かじゃないじゃない。
そっか、そうだね。誰もそれを知らない以上ね。
例えばソリューシーって言った時に、
でももっと細かい単位があるんじゃないかとか、
そういうことを科学者の人たちがやってて、もちろんそれは素晴らしい行為なんだけど、
どこまでが本当の究極の物質の根源かっていうのは、
本当にそうやって分かるのっていうのは、
誰も分からない中でずっとやってるんだよね。
確かに、
そう思ってるのに、
しつくせるっていう定義がそもそもおかしいよねっていうことに、
パトダムは気づいたというか、
そういう設定してる。
それって定義できるのっていうことなんだよね。
確かに。
誰も100点満点を知らないテストを常に、
100点満点取ろうとしてるみたいな。
100点の基準が分からないみたいな感じなんだよね。
そう。
なった時に、確かに旗と考えてみると、
それって不可能だし無理なことをやろうとしてるんじゃないかってなると、
この科学的実在論っていうのは、
実は結構あやふやなものじゃないかみたいなことを思うんだよね。
そうなんだね。
もともとパースとかが、
それまでの哲学、プラトンとか、
デカルトが持ってた真偽に対する、
その姿勢への批判というか、
違和感に近いものを、
この科学っていうものに対して、
パトダムは持ったっていう、
似てる感覚でいいのかな、ここは。
そうだね。
どっちかというと、
パース自体は真理ってあるのないのみたいな、
そっちに行ったんだけど、
パトダムさんは、その真理を探求する方法が、
科学っていうのって本当なのっていう、
実在論の種類と科学的実在論
そっちの文脈の方が強いかな。
なるほど、なるほど。
手法の方から、
手段の方から、
そもそもあるものないものじゃなくて、
あったとしてもそれたどり着けないんじゃないみたいな、
そういう焦りみたいな感じだろうかな。
そうだね。
さっきも言った通り、パトダムさんは実在論の人だから、
世界にはものがある、人間と独立してあるんだ、
それで真理はあるんだっていうふうな前提なんだけど、
それは科学的な手法とか、
そもそもそれを人間が解き尽くせるっていう前提が、
おかしいんじゃないかっていうふうに思って、
ということは、この科学的実在論っていうのは、
疑うべきというか、乗り越えるべき立場だっていうふうに思うんだよね。
その次に言ったのが、
内在的実在論なんだけど、
これは結構デュイの考え方に近くて、
繰り返すように、
パトダムさんは、
ものっていうのは人間と認識とは独立に存在しているっていうのが大前提なんだよね。
ただその在り方っていうのが、
個人の関心とか、
もっとすごく言ったら、
心みたいなものと結びついてて、
そのものがあるっていうのは事実もあるんだけど、
その在り方っていうのは、
たくさんあって多様性があっていいんだ。
かつそれぞれが真理なんだよ、みたいなことを言いますと。
結構、科学的に言うと、
唯一の公式とか、
そうなんだよね。
例えばこれも分かりやすいなと思った例があって、
例えば地球っていうのは平らであるっていうものは、
現代の僕らからすると明らかに間違ってるし、
科学的にも嘘なわけだよね。
だから真か偽かで言ったら間違いなく偽なんだけど、
でも例えば3000年前とか、
数千年前のある地域の人間にとっては、
それがあるとしても真理だった。
別に疑う必要もなく真だった。
これって、要は無知な過去の人間が、
偽りのことを信じてましたっていうふうに、
否定してるっていうのは、
科学的実在論側の発想なんだけど、
でも本当にそれでいいんだっけと。
そういうふうな人間の営み自体も、
ちゃんと取り扱えるのが、
より広いというか、
ちゃんと考えられる哲学なんじゃないかっていう時に、
内在的実在論はその人の関心とか、
信じてることっていうのも取り扱えるから、
そういった意味では3000年前とか、
そういうふうに考えていたのは、
内在的実在論的にはこんなふうなロジックである、
みたいなことが言えるんだよね。
内在的実在論とその問題点
なるほど。そういう人の立場だったりとかに立ちながら、
視点で考えられる。
知的な水準を考えた時には、
そういうふうに信じてくるのが、
別に真理として、
考えるに値する、
みたいなことが言えますと。
はいはい、プラグマティズム的にね。
だからこそ、そういうふうに、
懐が広い議論とか立場で、
逆に言うと、
その心の在り方、
内在的な在り方が科学的だったら、
科学的実在論っていうのは、
内在的実在論に含まれるよね、
みたいな感じで包んじゃうんだよね。
出た、なるほど。
それも同じですよね。
価値観の一つですよね。
スタイルの一つですよねって言っちゃって、
大きいけどね、みたいな感じに言いますと。
さっきまで言った通り、
科学的なものが大事だっていうのが、
パースが言ったことだとしたら、
結構そういう真理の源、
要は真理自体が外にあるんじゃなくて、
内側、自分たちの中にあるんだっていうのは、
結構デュイが言うことに近いんだよね。
こんな感じで、パース的な科学的実在論と、
合わせて考えたっていうのが、
過去の人たちの発想をうまく取り込んで、
進めていったパトナムの、
哲学的な思想の深まりだと言われますと。
なるほど。
元々パトナムはプラグマティズムっていうものの、
立場ではあったのかな?
そこから出発したわけではないらしいんだけれども、
いろいろ考えていくと、
結局プラグマティズムだ、
あるいは自分もプラグマティズムの中で考えている、
っていう風になったみたいだね。
スタート地点は違うところからで、
途中から合流した感じなんだ。
かつては、
パースとかデュイっていうだけじゃなくて、
実は俺はカントも踏まえてるゼミってことを言ってるらしいんだよね。
まさに兄貴が言ってくれた通りで、
ある種カントにおいては、
真実の存在とかものっていうのは、
そのもの自体っていう、
ちょっと別の世界にあって、
存在するけど認識ができないよと。
ただ認識ができないんだけれども、
純粋理性とか実践理性っていう理性があって、
これさ、まさに実践理性っていう、
実践ってプラグマティズムの言葉だったじゃない?
っていうような、まさに実践していくとか、
そのものに働きかけていくことで、
理解が深まっていくとか、
そういう関わり方っていうのを重視する発想が、
元々カントにもあったんだよね。
それをカントに会ったんだ、だからそこから、
俺は考えてるんだってことをパトナーさんは引っ張ってきて。
うーん、なるほど。
そこを否定するんじゃなくてね。
それも捕まえてきて、
だから人間っていうのは物を知るっていう時に、
そもそも知りたいとか、
そういう欲求っていうのを切っても切り離せない。
純粋な無色透明な理性っていうのが、
どこか遠いところにある真実とか、
存在っていうものを捕まえるんじゃなくて、
その時々の自分たちの関心とか欲求とか、
そういうものと物の在り方っていうのは、
切っても切り離せないんだよみたいな。
それで実はカントも言ってるじゃないかみたいな感じにして、
自分の立場を固めていきますと。
そうなると、なるほど確かにカントも言ってるし、
パーソンもジェームズも言ってたみたいなね。
そういうので学術的にもすごいすごいってなっていくわけだよね。
なるほど、その解釈をうまくね。
プラグマティズムと新たな実在論の提案
そうそう。
で、いくんだけれども、
これでも満足しないんですよ。
内在的実在論っていうのを加えて、
さらに自然的実在論とかと、
素朴実在論みたいに言われてもいるんだけど、
自然とか素朴みたいな、
よりピュアな実在論があるじゃないかっていう風に言っていくんだよね。
なるほど。
またなんかあれなのかな、
内在的実在論か。
そこのなんか違和感をどこかで感じたのかね。
そう、ダメだったんだけど、
ここがね、素朴がゆえにやっぱりめっちゃ分かりにくいというか、
僕もそこが台本作るときに全然ちょっとうまく説明できないし、
自分も理解できなくて、
めちゃめちゃ手こずったんですけど、
ちょっと、ごめん、
めっちゃ綺麗に言えてるかわかんないけど、
この後説明してみますね。
まさに内在的実在論ダメだって、
パトナーさんは思ったんですけど、
なんでかっていうと、
そもそもこの内在的実在論っていうのは、
科学的実在論を乗り越えるために考えましたと。
科学的実在論っていうのは、
全ては科学的に、
理性で記述できるみたいな発想なんだけど、
それは極端だよね。
すごく経時状学的。
そういう本当に、
全部が全部法則で成り立っているのかとかって、
もう人間の理解の外だから、
すごく検証できないよね、
みたいなところまで行っちゃってるよね、
っていうのがパトナーさんの捉え方だったんだよね。
そこが違和感だったんだね、
科学的実在論のね。
確かに内在的実在論乗り越えているんだけど、
結構それって裏返しにしてる感じなんだよね。
それを否定して、
理性では記述できませんとか、
科学では無理ですみたいな感じで、
いろいろ考えていったときに、
さっき話したように、
科学的実在論だと全てを認識して記述し尽くしたいんだ、
みたいな思いがあっていたじゃん。
それはやりたいっていうのは無理なんだ、
っていうことを言うのが内在的実在論なんだけど、
結局大元のスタンスとして、
全てを認識して記述し尽くしたい、
っていうところから出発してるのは変わらんのだよね。
なるほど、
不確定要素の排除だったりとか、
さっき言ってたね、
不安だよね、カテゴライズされてない不安感の解消、
っていう意味では乗り越えてないよね、
みんな違ってみんないいと、
3000年前の人はその時の立場でこうやったんだよ、
っていうところで安心してるよね、
そういうこと、
だから結局根本は変わってないから、
相対主義でまさに真理なんかないとか、
それぞれ時代とか国とか人とか勝手に、
真理を決めることができるんだ、
そういう状況に陥っちゃうんだと、
結局これも虚無主義的な感じもするし、
やっぱりそれって哲学として力があるんだっけ、
みたいな感じになっちゃうので、
そこを乗り越えた時にパトタマさんは、
自然的とか素朴実愛論という風に辿り着くんだけど、
それがどんな立場かっていうと、
これもすごいちょっと僕の理解で、
ちょっと暴論なんだけど、
これは本に書いてあったことそのままとかではなくて、
それだと分かんなくて、
あくまでハヤトの理解、
あくまで僕の理解なんだけど、
さっき言った全ての認識を切り尽くしたいとか、
溶け尽くすぜみたいなスタンスを捨て去って、
もっと素朴に自然な態度で、
その存在に向き合おうぜ、
みたいな感じなんだよね、
それって何かっていうと、
そもそも僕らって普段物事を考えたり、
普通に生きてる時に、
目の前のものに対して、
これって本当に存在するんだっけ?
とかって疑うことってないし、
自分の認識しているコップと目の前のコップっていうのは、
ズレがあるかもしれないとかって、
そんな風に考えることって基本ないじゃないかと、
であると、
それって結局は、
いわゆる実験室とかって、
ちょっと揶揄されていわゆることあるじゃん、
実験室の結果はリアルな場では、
再現できるかわからんみたいなことって、
よく科学を批判というか揶揄する感じで言われると思うんだけど、
そういう状況設定自体が、
そういうちょっとおかしいというか、
やっぱりすごく限定的なもの?
プラグマティズムってもっと生きる現場でとか、
生の人間の関心をとか言っている割に、
そもそも出発点が普通じゃなくね?
っていうことを言い出すんだよね。
おー、なるほど。
そこはプラグマティズム自体に対する批判でもあるんだね。
乗り越えかな?
これってそもそもデカルトだよね。
懐疑で疑っていくんだけど、
何が信じられるか、疑えないものがないかって疑っていくっていう、
その方法自体が、
正しい方法じゃないんじゃないかってところまで、
見た批判だと思うんだよね、これって。
なった時に、だからやっぱり僕らってそういう、
全てを解き尽くすぜとかじゃなくて、
普通に見たものを見たままにみたいな、
そういうところから、
語れる実在論っていうのがあるんじゃないか?
っていう風に言うんだよね。
その中に発想変わると何がいいかっていうと、
そもそも僕ら何をやろうとしたかっていうと、
物があるとかないとかっていうのが、
そもそも真理に近い構図だから、
それを解き尽くそうっていう風にしてたんだけれども、
そもそも真理とか、
存在と認識が一致するとかっていうこと自体が、
問題じゃなくなるんだよね。
それって、自分の見てるものとか、
自分が記述できるものと、
本当の世界の在り方ってのが一致してるかとか、
正しいかっていうのをこれまでやってきたんだけど、
素朴実在論と内在的実在論の違い
そもそもそんな問題はありませんでした、
みたいな感じになりますと。
何が問題にというか、
どういう世界観になるかっていうと、
基本は素朴な実在論に立つと、
あらゆるものが真理になってくるというか、
人間とか共同体の数だけ真理があるって、
やっぱりちょっとそういう内在的実在論っぽい、
相対主義っぽい世界観になってくんだよね。
そうだよね。まだ何か違いが明確に分かんない。
そうだよね。
ただ、それっていうのは、
この素朴実在論に関しては、
人間が勝手気合のままに、
あらゆることを信じていいとか、
真理っていうのを立てていいっていう風にはならないんだよね。
それは何でかっていうと、
結局、本当に素朴に考えた時に、
例えば、さっきのツチノコの例に戻るんだけど、
兄貴も僕も素朴実在論者だとして、
でもツチノコっていなくない?
だって誰も他の人見てこなかったんだよ。
でもツチノコっていなくない?
だって誰も他の人見たことないよって言われたら、
兄貴は、まあそうかもって多分思うと思うんだよね。
はいはい、そのスタンスからいくとね。
自分見たことないしで。
そうそう。内在的実在論者だと、
でも俺は見たんだとか、
でも俺はいるということを信じたいんだっていう風に言えるんだけど、
自分の心ではもう見たって思ってるからね。
素朴実在論だと、確かにでも今いないねとか、
確かにもう一回家中くまなく探したけど、
さっき見たところいなかったわっていうことは、
確かにいるかもしれないけど、
いないかもしれないねっていう、
そういう会話が成り立つんだよね。
この違いって分かるかな?
分かると思う。
さっきその真偽ってあえて言うけれども、
父の子がいるっていうことを真偽だとやっぱり捉えちゃうんだよね。
内在的実在論の方だと、
その父の子がいるっていう真偽っていうものを信じる可能性があるんだよね。
たぶんね。
それはどっちにもある。素朴実在論はあるんだけど、
あるんだ。
可能性はあって、ただそれを信じ続けるか、
それを信じないっていう風に変化できるかって結構違いだと思う。
内在的実在論だとなんでそれが変化できづらい?
変化できない?
結構自分に閉じちゃってるんだよ。
内在っていうのは自分の内側に心理の根源があるっていう話だから、
他の全人類が父の子がいないと言っていても、
俺は信じるんだってことが
内在的実在論じゃできるんだよね。
そうなんだ。
そうなんだ。
心理の根源が自分の内側にあるから、
自分を頼りに心理を語ることができると。
なるほど。
たぶんごめん、これはパトナーさんが言ってるよりは
僕が理解した上での話だから、
ごめんなさい、そこは間違ってるっていう人は
ぜひ言っていただきたいんですけど、
でもたぶんそういうことなんだよね。
なるほど。
人間が哲学とか心理を求める挙動っていうものが
そもそも不確実性だったりとか
不安でも分からないことに対する不安の
裏返しだという時に、
内在的実在論だと
それがあるなしに関わらず、
それはあるはずだって信じることで、
その不確定要素を自分の中で解決することができる。
できちゃう。
自分は見たことないけど、
いるはずだっていうので、
心の安定が保たれるという状況が生まれるんだけれども、
今回の素朴とか、
自然的実在論で言うと、
その良い所というか、
そもそも、
そういう良い所ないよねと。
なくていいよねと。
そんな不安に感じることそもそもないんですよ
という許しを与えた上で、
いるとは信じてるんだけれども、
別にそこに寄り所になってないから、
みんなに、いないよねと。
自分も確かに見たことないなという時に、
確かにいない可能性もあるよねっていう、
ちょっとフラットさが生まれるぐらいの認識でいいかな。
そうだね。今のところ大丈夫。
真理とは何か
大丈夫というか、やっぱりそこが微妙な違いなんだよ。
やっぱりすごく。微妙な違いなんだけど、
でもすごい実は、
さっき言ったように何かを議論するとか、
一緒に作っていくという時には大きな違いになっていくんだよね。
確かに。そもそも結構根本が違う感じがしたもんね。
どこを寄り所にしてるか。
真偽に対してどこに
自分が思いがあるかじゃないけどね。
どこに依存してるかと言ってもいいかもしれないね。
そうだね。
だから、逆に言うと根本的な違いすぎて、
逆に否定面もしにくいみたいなところがあって、
実際にポトラマさんが言っているのは、
いわゆるさっき言った、
物が外にあります、世界にはありますという話と、
人間の認知力がありますという時に、
その物を正しく認識するための
インターフェースというか、
周回物があるんだという発想を、
これまでの哲学は取っていると言うんだよね。
例えば、僕らは網膜に映った像を脳で処理して、
認識するみたいな、
そういう科学的な説明はあるんだけど、
それというのは物を正しく捉えていないという発想に
行き着きがちですと。
100%完全に映しているかと思うわけですね。
そういうところも言えるし、科学的に言ったとしても。
そもそも、
100%正しいって何?という話にまた戻っていくんだよね。
それって誰も見たことないし、
見れないし、
100%正しい認識って何?って分からないのに、
僕らはそれを目指そうとしているという、
その図式自体を取っ払おうぜという話なんだよね。
なるほど、面白いね。
哲学的に言っても、
いわゆる科学的に、
さっきの網膜に映っているんだみたいな話をしても、
じゃあ、その網膜に映った対象であるもの自体が、
100%網膜に映ったものと同じですよね、
というのは、多分誰も、
みんながその網膜を通じてしか認識していない以上、
やっぱりそれは、
誰も証明はできなくてという、
今回でいうと、科学的実在論の限界に達するわけなんで、
まずはその層に。
かつ、それは俺は見たんだ、みたいな話でいくと、
内在的実在論的になるんだけど、
俺は見ただけで主張されても、
要は、じゃあ結局俺が見たっていう、
70億人がいる世界になっちゃう?
それぞれの網膜に映ったのを100%だと信じているのにも、
実はそうじゃないというか、
そこもあんまりそれを信じすぎると成り立たない部分も出てくるし、
出てくる、出てくる。
だから、そもそも100%っていうものをなくそうよと。
映ったよねと。
映ってないよねと。
映ったし、映ってないし、それが世界なんだっていう。
だからそれが正しいとか、
それを80%割り控えた世界だとかっていうんじゃなくて、
直接見たものがそのまま世界なんだから、
そこから話そうよって話なんだよね。
なるほどだし、今は目の話。
目から入ってくる視覚の話をしてるんだけれども、
さっきみたいに土の子がいる、いないみたいなものは、
いろいろだよね、耳であったり、
味であったりとか、
何なら頭で考えたことみたいなものまで全部含めると、
って話だよね。
自分が頭で考えたことが100%正しいんだ、
みたいなのって内在的かもしれないけれども、
ある意味で。
自分が考えたことって。
そういうふうに考えると、
素朴とか自然的っていうふうに持ってこないと、
変な自分の中での猛進、
変な核心みたいなものが生まれてしまう土壌というか、
仕組みがその内在的、
欠陥だよね、多分。
パトナムから言わせるとね。
それがあるという話だよね。
ここ確かに微妙だね。
でもだから、
それさえは悪くないというか、
人間はそういうもんだよねっていうところから始まるんだよね。
例えば、
例が正しいかわかんないんだけど、
いわゆる噂話は都市伝説とか、
学校七不思議とかでもいいんだけど、
そういうのって明らかに真理ではないというか、
事実じゃないからこそ都市伝説になるわけで、
ただやっぱりそれを信じている人たちとか、
学校で過ごして、
七不思議があるよって言っている学生さんたちにとっては、
それは真理なわけだよね。
それを過激にナンセンスだって切ってしているのとか、
それを大人たちが見て、
子どもたちは無邪気で、
結局知能が見渡ったとかっていうのもナンセンスだと。
生きている中で何を信じるかっていうのは、
常に変わり得るし、
変わっていいんだけど、
それは勝手気ままに信じたいものを信じて、
信じたかいやものを避けるとかっていうことじゃなくて、
ちゃんとあくまでも世界の在り方とか、
言葉の在り方とか、他の人との関係性とか、
プラグマティズムの考え方
そういういろんなものと関連した中で、
自分は何を信じるとか、
何を疑うというところに、
よく丸くも責任を持たなきゃいけない。
素朴に前にいたと思っていた父の子が、
今はどこを探してもいないとするなら、
やっぱり父の子はいないかもしれないという可能性を
受けるなきゃいけないっていうのが、
素朴な自然な実在論とか、
ものとの向き合い方だよねっていうふうな話なんだよね。
だからこれって、
普通の感覚化すると、
大したこと言ってないっていうのも変だけど、
普通じゃんって思うかもしれないんだけれども、
まあ、確かに素朴っていうだけあるよね。
何もなくなった感じするよね。
この感覚どこだって、
それこそ感とわけか。
結局何を信じればいいの?みたいな。
ただただの焼きの原にして終わる感じ。
めっちゃ近いな、今のところ。
誰だったかな?
パトナムさん自体が結局、
我々の旅は身近なところから出発して、
帰ってきたみたいな。
そんな言葉を残してらしいんだよね。
でもそれも結局、
僕らが真理とは崇高なものだとか、
何かを解き尽くしたいっていうスタンスがあるからなんだよね。
何か難しいことを言っていって、
普通の人は知らないけど、
俺だけが知っている真理にたどり着きたいってこと自体が、
そもそも一つのスタンスだし、欲求で。
それを乗り越えた時に、
すごく素朴に自然に、
世界と向き合っているこの姿勢自体が
やっぱり大事だよねっていう、
ある種当たり前みたいな、ちょっと片透かしかもしれないけど、
そういうところに帰ってくるよねみたいな。
なるほど。
パトナム自体は、
今全部さ、焼きの原にしたじゃん。
その上に何か立てたの?
ここまでもしかして。
素朴実論が最後。
これちょっと批判かどうかなんだけど、
これすごい分かるよ。
多分分かる気がするんだけど、
もしくは分かってないからこんな疑問を持つのかもしれないけど、
今の文明社会、
電気があって水道があって、
みたいな時に、
人間の本来の生活は電気も水道もそういうのを使わないと。
なるほどね。
そう言ってるようなのに近い気がしてね。
はいはいはい。
例えとしてはずれてるんだけど、
そういう焼けのお腹感がある。
それは分かったんだけど、
だとしたらどうすればいいんでしょうか?
もうそれを知っているし、
その上で生きてきてしまっている。
行動的にみたいな。
そうだね。
それがちょっとあったんだな。
面白いね確かに。
それはプラグマティズムで言うと、
その世界の中で生きるのだっていう風にしか言えないんだよね。
電気とかガスもあって、
文明があるっていう世界を別に否定してるわけじゃない。
その中でそれを純粋に理解するとか、
電気とかっていう存在という言葉を使っちゃうとあれだけど、
プラグマティズムと共同体
電気があるっていう中で生きている僕らの文明とか時代とか、
共同体ってものを正しく捉えて、
その中できちんと生きていけなさいよっていう、
そういうメッセージになっちゃうんだよね。
なるほどね。
なるほどね。
そこはやっぱり、
電気も全部発電所を破壊しろって言ってるわけじゃなくて、
あくまで自分たちがどういう世界に生きているのか、
環境的にだし、
自分はどういう風に、
いわゆるモノオートとか他の人と、
環境的に生きているのか、
自分はどういう風に生きているのか、
自分はどういう風に生きているのか、
自分はどういう風に生きているのか、
自分たちのモノオートとか他の人と、
その環境が成り立っているのか、
モノオートを捉えているのか、
捉えていないのか、
もしくは捉えたいと思っているのか、
みたいなそういうところを、
ある意味、徹底的な不感じゃないけれども、
現状をきちんと自分も他人も捉えた上で、
そのフラットさ自体が実は哲学が 求めていたかもしれないんだけれども
哲学自体が不確定要素の排除だったりとか 何か分からない真偽みたいなものの探求みたいな
そういうものは内在 そもそもしてたよねっていうところを暴き出して
とことん人間がフラットな感覚があるとはどういうことか 不確定要素すら受け入れるというか
そういうのも自覚しましょうと
そういうフラットさをとことん追求しましたの
最終形じゃないけれども ある意味ニーチェとかが神が死んだとか
そういうのに近いのかもね 理性は死んだじゃないけれども
理性も科学も死んだ じゃあ何が残るっていうのが パトナムの場所なのかな
だから草も生えてない感じはするんだけれども そこからみんなでね
だからこそ何か生み出せる スタート地点に立ちましたよ 立ちましょうっていう
こここそがすごいのかな みたいな部分が
おもしろいね
ちょっとまとまってないけど
でもおもしろいしすごくイメージで サーニー家が表現してるからいいなと思ったよね
複雑に詰め上がってくるいろんな 実在論とか関連論でもそもそも複雑なのに
その中に科学的とか内在的とか いろんなものがありますよっていう中で
もう一回ちょっとそれをリセットというか まさにフラットにして
ここから考えていきましょうっていう それを提示したっていうふうに言えると思うんだよね
もちろん自然的実在論とか素朴実在論でも いろんな批判も乗り越えもあるし
これがやっぱりじゃあ 哲学の最終形態ですなんていうふうには
もちろん言えないんだけれども
やっぱ僕がすごいなと思ったのは
僕自身もプログラマティズムの 最初の時にお伝えしたんですけど
やっぱり物を考えるのが好きみたいな 自覚はあるわけよね
なるとどうしても陥りがちなのが まさに途中で言ったような
全てを溶き尽くしたいとか
時々言ってれば究極的な真理を知って 楽になりたいみたいな
そういうのにやっぱり思っちゃうよね
でもやっぱりそれってただの欲求だし
僕の気質かもしれないと思うときに
それをちゃんと乗り越える視点を 提供してくれてるなっていうふうに思ったんだよね
それも一つの価値観ですよっていうふうに ちゃんと
それなんかそのスタンスが真理だと思いがちなんだよね
そうそうそうそういうこと
それがないと真理にたどり着けないとかって 思っちゃうんだけど
そもそも真理っていうのはそういうものではないし
その手法とかスタンスって間違ってますよ っていう感じなんだよね
これすごくなんか自分の中での反省っていう意味でも
やっぱりまさにフラットに
この生きてる現場というか まさに自分の人生の中で
何を考えるかとかどんなふうに考えるか
っていうことをやっぱり届けてくれるっていう意味では
すごくいいというかすごく強い発想だし
プラグマティズムにふさわしい立場なんじゃないかなっていうふうに
ちょっと偉そうなんだけど なんか感じるんですよね
なるほどなるほど
そうだね確かに内在的実在論ぐらいが
もしかすると自分が考えて人に発表したときに
そうだそうだってなりやすかったりとか
面白いのかもしれないんだけれども
そこから一歩先に行ったときの
その何も生えてない感っていうところの
まずそこを認識してますかねっていう話だね
多分パトナムからするとね
でもなんかそうか90歳まで生きたっていう話だから
まあねもうあるのかもしれないけどね
このパトナムがここからさらに何を立てたのかっていうのが
もしあればぜひ言いたいね
そのモヤモヤ感もわかるので
次回プラグマティズム終わりなんですけど
今回パトナマさんが50年60年前の議論だとしたときに
やっぱりより現代の2000年代のプラグマティズム
何言ってるのみたいな話をちょっと触れたいなと思うんですよ
はいはいはい
なのでパトナマさんがこう言ったじゃないんだけど
そういういろんな人がプラグマティズムっていうのを定義
もちろんパーソナルも含めてやってきた中で
今の人たちってプラグマティズムを使って
どんな議論をしてるのとかどんなふうに物事を考えてるのっていうのを
ちょっと最後紹介したいなと思ってますと
ありがたい
ただやっぱり現代に近づくほどやっぱ決着なんてそんな簡単につかないし
明らかにこれが正解だとやっぱりならないんだよね
だからモヤモヤはすると思うんだけど
はいはい
プラグマティズム自体がもうね今日の話でそうだけど
もう何これがその番人にとっても正解だみたいな話は
絶対になり得ないような哲学思想だって話だもんね
実はちょっとそこにもう若干の誤解はあって
へーそうなの?
これが正解だとは言えないんだけど
ここまではちゃんと共通の土台にしようねっていうものを
見定めようとするんだよねプラグマティズムは
パトナムさんも素朴の素朴実在論までは
みんな頑張って同じ共通の立場にしようねってことは主張してるんだよね
なるほどなるほど
そこから先は自由だよっていうそこの線引きというか
どこまでは論理的にというか哲学的に言えて
どこからは言えないのかっていうことにすごく自覚的だなって思うんだよ
なるほどなるほど
やっぱプラグマティズムどういう意味があるかみたいな部分で
自分考えちゃってるからこういう質問が出るんだと思うんだけど
そもそも全部日焼けのフライになっちゃって寂しいと
じゃあ実際どう使えばいいのなんてまさに
プラグマティズムから言うとちょっとずれてるというかね
ちょっと答え欲しがりすぎな部分ってあると思うんだけど
そうだねそうだね
本来的にはもうそのスタート地点で
自分がどのポジションに立つべきかっていうのが
実は荒れる人間にとって
本当はもう泣いて喜ぶべき答えというか
そうそうそうそう
なんだろうなぁわざと言うけど真偽なんだとある意味
そうだね
話はね
そうちゃんとスタート地点と方向コンパスさえ渡しておけば
あとはちゃんとたどり着けるから
それを渡してやるぞっていうのがたぶんプラグマティズムなんだよね
イデアはこっちに正解があるとか
山の頂きはここだぞっていうのを見せるみたいな
そういう違いだよね
あーなるほどね
あなたたちはまずここに立ってるんですよっていうところが
なるほどなるほど
はいっていう感じで結構ね今回もいろんなね
プラグマティズムの哲学思想
こうあっち連れ回して
結局何もないんかいみたいな感じの印象があったかもしれないんですけど
そうねその何もないって考えてること自体が
まだプラグマティズムの考え方に馴染んでない証拠というかね
たぶんその違う思想価値観に染まってるじゃないけどね
逆してるっていう証拠かもしれないね
たぶん科学的偽論とか内在的偽論って
まさに一人のね哲学者が人生をかけて歩んだものを
ただやっぱ話を聞いただけで全部体感できるってもちろんできないんだよね
それは僕ももちろんそうだから
それをだから実際に自分が考えてみた時に
確かにこの内在的実在論ではダメだって
やっぱ思って初めてそっちに行けるみたいなこともあると思うから
それがまさに実践的っていう感じだよね
はいはいはい
確かに今自分今ちょっと科学的実在論っぽい考え方してるとか
あっちょっと今日は内在的実在論で行っちゃったなみたいな話を
まあこういうあれでもね
言語化して哲学として思想として言語化してくれることで
我々みたいな素人というか
何も考えてない奴らでも考えるとかかりを
できますよという話だよね
私それはたぶんねその哲学シチュエーションだけじゃなくて
やっぱりそのただただ頭で覚えてね
その知識を詰め込んでいるのか
まさに言い間違えたようにその人生のやっぱり現場で実践というか
その思想とかを使っているのか
なんかまさにプラグマティズムって使うとか
それね実用的みたいな話があるよって
一番冒頭でお伝えしたと思うんですけど
それをただ単純になんか役立てばOKとかじゃなくて
そういうふうに使ってこそ
ちゃんと意味がある哲学だよみたいな
多分そういうことなんだろうと思ってるんだよね
プラグマティズムの実践と発展
ちょっとすごく深い感じがする
やっぱ最初から言ったけど
このじゃあ役立つとか有用って何よって話を
最初したんだけれども
多分今回の話だけこのパトナムが辿り着いた
この自分みたいなやつからすると
やけのほらになっちゃったんだけど
実はその立ち位置に既にじゃあその有用とか
役立つっていうことも
自分でもう考えられるでしょっていう
多分いろんな環境はもう整えてくれてるんだよね
そうですそうです
ここまででね実践だね
そこもね自分の頭で考えていきましょうという話
そうだね行動して考えてっていうのは
やっぱりねやって探求し続けましょうって話だね
本当に終わりはない
あるかもしれないけどないよみたいな感じだね
はいっていう感じでして
ちょっとねだいぶ1時間以上かな
多分しゃべっちゃってると思うんですけど
でもね今回そのパトナムさんの話が終わって
じゃあ次ねさっきお伝えした通り
2000年代現代人たちってどういうことを考えてるっていうのを
ちょっと道徳とか政治とか
ちょっとジェームズさんのところにお伝えした
それちょっともう少しふわっとした
と思われる言葉に関してお伝えして
プラガマティズム最後っていうふうにしたいなと思っております
はいわかりましたですし
ちょっと今回ぜひ久々に
多分個人的には面白かったんだけれども
このふわっとしてる感じだったりとか
多分そのどうなんだろうな
自分だけなのかちょっと分かんないんだけど
やっぱりこのやけの腹になった感じってあると思うんだよね
ただそれが多分何かを意味してるってのも
多分分かると思うんだけど
ぜひもし今回ねちょっと長いし分かりづらかったと思うけど
聞いてくださった方で
自分はねこれをこらえたとか
あと多分すごく分かりづらかったから
あのちょっとここからついてきてなかったとか
ここちょっと意味分かんなかったみたいな話を
ちょっとねぜひ
そうなったらザックバランというか
率直に送っていただける
フォームあるんで
普段あんまりね
フォームあるんで送ってとかって
あんまお便りかいがり言わないんだけど
このプログラマティズムは結構
やっぱり現代の考え方で
哲学とは自分自身とつなげて思うこと
やっぱり今の生き方に結構直で繋がってる感じするので
なんかね皆さんも多分
その思う部分って多分ね
ソクラテスとかプラトンを聞いたかよりもなんか
その自分とつなげて思う部分って
あったんじゃないかなって勝手に想像するんで
ぜひちょっとその辺
ぜひいただきたい
ぜひいただきたいです
やっぱり実践だし
やっぱ人それぞれの真理があっていいっていう話だから
プログラマティズムは
ぜひそこはいただけたら嬉しいと思います
はい本当嬉しいです
ちょっと長くなっちゃいましたけど
次回も楽しみな内容
次回がねさらにこの
さらにさらに2000年代入っていくというところで
はい次回も引き続き楽しんでいきたいと思います
では次回もよろしくお願いします
お願いします
今回もありがとうございました
01:07:55

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