1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #44 近代哲学の完成者ヘーゲル..
2022-09-25 51:02

#44 近代哲学の完成者ヘーゲルが生きた、矛盾に満ちた世界

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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テツガクについて楽しく学んでみようという番組です。
哲学好きの弟と哲学に馴染みのない兄の兄弟2人でお送りしていきたいと思います。
この動画は、テツガクについて楽しく学んでみようという番組です。
哲学好きの弟と哲学に馴染みのない兄の兄弟2人でお送りしていきたいと思います。
哲学好きの弟と哲学に馴染みのない兄の兄弟2人でお送りしていきたいと思います。
改めまして、兄のカンの教室です。
弟のハヤトです。よろしくお願いします。
今回は、この前の有識からまた西洋の方に移りまして、ヘイエル。
この前は、デカルトカントをやったんですけど、有識を挟んでついにヘイエルというところを今日はやっていきたいと思います。
では、早速やっていきましょうという感じなんですけど、
あれですよね、今ね兄貴がタイトルのコールしてくれたんですけど、
ちょっとね、最近僕らでも話していた、なんか身近なテーマじゃなくなってきたね問題があるなと思っていて、
今日のヘイエルもですね、身近かって言われると、ちょっとこう、果てなところがあるんですけれども、
でもやっぱりこう、ヘイエルって人となりであったりとか、なぜ哲学者がこんなことを考えたのかっていうことをお伝えしていくことで、
ヘイエルのことが少し身近に感じていただけるんじゃないかなということは思ったりしているので、
あの、身近なテーマのきっかけではないけれども、これを聞いた後哲学が身近に感じるかもねっていう、ちょっとずつこう、雰囲気がある。
ちょっと苦しくなってきて。
ポテトがちょっとね、結構ガチな、広派な感じになってきてるもんね。
そうそう、そうなんですよね。
ちょっとザダイは、もしかして今後、ちょっと少し変えていくかもしれないけど、一旦そういう身近さっていうのを自認しておりますという番組でございます。
最初の方が良かったとかね、まだ友達とは何かとかって、ソクラテスの話を聞いてる方が良かったみたいな方もいるかもしれないので、
そういう方は是非是非コメント、感想をお寄せいただければみたいな。
そうですね。
はい、という感じなんですけど、ヘイエルですね。
あの、その近代西洋哲学をやる時に、デカルト・カント・ヘイエル・マルクスみたいな感じで名前はちょっと出させていただいたんですけど、
やっぱり時代で言うと、大体1800年前後ぐらいに活躍された人なんですけど、
ヘイエルはやっぱり哲学史の中でも、その近代哲学を完成させた、みたいな評価をされることが多いですと。
いわゆる大哲学者みたいな。
デカルトからスタートして、カント・ヘイエルで、一旦ヘイエルでそこの流れは完成、みたいなイメージで。
えっとね、実は最近サポが揺らいでるっていうのはあるんだけど、
ちょっと前までは、もうそんな感じで、ヘイエルが一番だ、みたいな、てっぺんだ、みたいな感じがあったんだけど、
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やっぱりいろいろ考えていくと、もちろん他の同じ時代に生きていた人も、例えば似たようなことを考えていたりとか、
当然、ヘイエルを発展させた人もいたり、ヘイエルじゃない形で哲学をやろうとした人もいたりっていう、やっぱりそういったものはあるので、
少しね、デカルトカント・ヘイエルが、なんかこう、気になってた、こう、推薦したっていう考え方は少し古いというか、
ちょっと、あの、なんか知的対魔んだ、みたいに書いてあると思うけど。
なるほどね。まぁ、あくまでも有名人ではあるけれども、もっといろんな人の、ある意味集大成かもしれないし、みたいな感じだね。
一番目立ってただけかもしれないし、みたいな。
そうなんです。
ただやっぱり一つ言えるのは、ヘイエル自身がね、まぁ僕も、改めて色々読んだりとかも、本当に全然ヘイエルのことがわからなさすぎて、めちゃくちゃ読んだって思うんですけど、
あの、結構ね、その、現実とかやっぱり自身のその生活実感、生きているその自分の感覚っていうのを結構大事にしながら、
ま、かつその時代の、まぁいろんな哲学者がいたり、まぁ当然その歴史とかっていうのがあるでもある中で、自分の哲学を一つの体系っていうか、この、なんだろうな、全体として作っていったっていう風に言われてますと。
まぁ、もちろんね、最近はその体系を目指したんだけど、作りきれなかったんじゃないかみたいな、気感とかもされてるんだけど、まぁまぁそれはもうね、後の人が言うことなんで。
まぁ結局言い切ったもん負けみたいになっちゃうもんね、哲学は。
そうそうそうそう。
難しいね。
やっぱり強く言えば言うほどね、批判されちゃうから。
まぁただやっぱりこうね、大哲学者というか、そういったあの、哲学の中でも、すごく大事な位置を占めるよねっていう評価はもちろん変わってないなと思うんですと。
まぁそんな気分批判にさらされ続けても、その、なんだ、こう、既存しない強さみたいなものがあるよってことだよね、逆に言うとね。
そうそう。私やっぱりなんかその、後の1900年代とかの哲学者でも、なんかヘーゲルではない哲学ができるかとか、そう、ヘーゲルじゃない哲学はなんか哲学じゃないみたいな言葉が出るぐらいすごく影響を与えている。
なるほどね、そっかもう土台どころじゃないみたいな、この世界そのものみたいな、哲学界の、近代哲学界のね。
そうだね。
すごいねそれは。
そう。
っていう人もいるってね。
そういう人もいる。
何が、あの、哲学がすごいかみたいな話をちょっと今日、少しでもお届けしていきたいと思うんだけれども、ちょっと僕自身も、まぁそれをね、ちゃんと掴めてるかどうかはっていうのがあるんですけど、
その当時ね、生きたヘーゲルのその現実って何だったかって、もうこれも一言ではなかなか言えないんだけれども、やっぱり一番僕が感じたのは、その自由な個人の出現かなと感じてますと。
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どういうことかっていうと、そのデカルトのね、我を思うゆえに我ありみたいな感じで、1600から何百年ぐらいかな、その間に、それこそ西洋のキリスト教的な世界から、人間の理性とか、人間の方にそのいろんな中心っていうのを持ってくるっていう思想的なとか、現実的な流れっていうのが、まぁヨーロッパではあるんだけれども、
やっぱその頂点っていうのが、フランス革命、1789年に起きたフランス革命っていうのは、歴史として言えるかなと思いますと。
はいはい、まぁ一つの終着点というかね、その。
そう、で、実はこの時ヘイデルが19歳っていう時期なんだけれども、ヘイデルはドイツで生まれているので、隣国フランスでそういうフランス革命が起きたっていうのを20歳で経験してますと。やっぱすごく高んなというか、これから社会に出ていこうという時期でそういうことが出会った時に、当然ヘイデルも最初は同調するというか、すごくいいじゃんってなって、自由って素晴らしいみたいな。
はいはいはいはい。
感じで思うんだけれども、私まぁ僕らからしてもね、その自由、人間が自由を勝ち取ったすごい出来事だみたいな感じには思ったりはするんだけれども、やっぱ一方でその自由かつ平等な権利において生きる個人みたいなものを想像すると、
社会においては結局その自分というのは大事になるというか、自分の価値観みたいなもので生きるようになるから、結局違う価値観の人を排除するとか、下手したらもう本当にそれこそ処刑してしまうみたいなことが起きてるっていうのも、やっぱりこの時代の近代、そのヨーロッパの現実だったんですよと。
はぁ~なるほど、そっか、その1600年にデカルトが考えたその個人だったりとか、自分とは何かっていういわゆるその自我みたいなものが、暗黒時代からの比較として生まれたと。
そこから200年弱経って、まあカントとかもそのね、自分の理性とは何かみたいな話がずっとその啓蒙主義の中でいく中で、そういったその概念とか、もしくは理想像とか、そういったものが初めてそこから200年弱経って、その現実を世界に現れたみたいな感じだよね。こんな大きなインパクトを持って、フランスで。
そういうことだよね。 そういった個人だよね。そういった人たち、多分そういうのに影響されて、その個人とか、理性は大事だとか、自分、神もいるけど、自分も大事だみたいな中で生まれたフランス革命、そこで政権を取ってしまった、革命をしてしまった人たちの挙動を見たときに、あれ?なんで自由とか人権とかって言ってるのに、この言ってる人たちどうして殺し合ってたってんの?やばくない?みたいな。
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それを、その理想像、ユートピアと思ってたものが、現実に目の前にバーンと実現してしまったときに、あれ?こうなるんだっていうのを、ヘイゲルはその目の前というか、隣の国というか、すぐ近くの国で、そこを外から見ちゃったんだね。バーンって。
そうだね。やっぱりね、これはそういう僕の勝手な感想だけど、フランスだったらそこにある人同調して、それを一緒に作っていくっていう立場だったかもしれないけど、ドイツ隣国ってなると、そのフランスの影響はモロに受けるみたいなところとか、
例えば当時のドイツ、プロイセンで言うと、その、もちろん個人だけじゃなくて、いろんな組織、例えば宗教の組織、ヒリスト教もそうだし、あと政治もそうだし、あとは職能団体、その親方みたいなものがあったとして、そういう団体も、結局こうなんか、自分たちの利益だけを大事にして、社会を良くしようとか、なんかそういうことがなくなっている世界とか社会っていうのが、
現実にありましたと。
それはもう、この個人主義みたいな、啓蒙主義みたいなのを抜きにしていったことだよね。既にそういう組織が堕落してたみたいな。
そこは両方だと思う。やっぱりその個人が自由とか、自分たちが大事って思っていくから、結局組織も自分たちが大事って、どんどん多個ツボ化するしとか、あるいはそれをすると、他の組織はダメだとか、自分たちに都合のようにやるみたいな、やっぱりそういうものが生まれてきたときの、そういった社会の、まるでグロテスクな、社会に対する反発というか、本当にこれでいいんだっけみたいな、
そういう思いっていうのは、当時のヘイユーにはあっただろう、という風に言われてます。
なるほど。かなりすごい時代に生きたんだね。生まれたんだね。
そうだね。僕だからすると、和を持ってじゃないけれども、人と人と仲良くしようよ、みたいなところもあるかもしれないですけど、
やっぱり当時の自由な個人というもののある強さというか、新しさ、どう扱っていいかわからん、みたいな感じっていうのはあったんだろうと。
なるほどね。それが一気に解き放たれた時、初めて人類が、初めてじゃないかもしれないけれども、
その西洋、近代西洋になって、初めて自由を手にした人たちの挙動が、フランス革命の後に起きた殺し合いみたいなものだったってことはね。
それ見ちゃった。面白いね。
だからやっぱりホップズという人は、リヴァイアさんという本を書いてたと思うんだけども、
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いわゆる最初、現所状態だと社会というのはめちゃくちゃで荒れ果てていて、それが社会とか国というものによって統治されていくみたいな考えが起きたのがこの時代だったと思うんだし。
そうなんだ。名前は聞いたことあるけど、この時代なの?
ホップズが活躍したのはもうちょっと前でした。1600年ぐらいなので、エイゲルが100年前ぐらいからそういう思想はあったんだけれども、
まさにそれは現実になったというか、目の前の世の中がそういう風になっていたというのがまさにこの時代なのかなと思ったりします。
もう少しエイゲルの話をする。どういう価値観があったかという話をすると、
そうなるときに人ってなんだかんだ過去に思いを馳せたりします。
エイゲルとしても、古代ギリシャのポリス、要は共同体で、その共代体のルールとか敷き足りっていうのは個人が自然に受け入れつつ、
個人もあるし、自分らしさを失わずに他者と交わるみたいな、それこそソクラテスとかプラトンの世界だよね。
そういうのがすごく理想だよね、憧れだよねってなったりしますと。
ただエイゲルが偉いというかすごかったのは、やっぱりそれで過去に憧れてるだけだと現実は変わらないし、
そもそも歴史の真実みたいなものにもたどり着けないよね。
歴史の真実、そうなんだ。
それが何かみたいな話は僕も掴み切れてるかってことはあるんだけど、
ただその要は、今が悪くて過去が良いみたいなのって、すごく今の自分から見た、偏った見方だったりもするじゃないですか。
そうね、ただの解雇主には良くないみたいな部分はあるもんね、現実をこれからもっと良くしようとか変えようみたいなことがあったときにね。
やっぱり現実を良くしようと思ったときに、エイゲルの中で腐敗とか堕落、要は個人も、そしても堕落してて見えるものか、
実はその個人とか集団が劣ったものだから生まれてるんじゃなくて、まさにその個人とかそういったものが共同体をある種否定して、
より強いというか、その理想状態の個人に近づいていく、そういう歴史の必然なんだみたいなことを考えつくのね。
だからやっぱりその時点に立つと、要は今がダメで過去は良いんじゃなくて、過去も良かったんだけど、
そこからさらに個人が自立とか自由になった存在になるための、いろんな歴史的な発展があったんだと。
もしかしたらそれが歴史なんだみたいに捉え直したり描き直したりするっていうことをエイゲルはやっていて、
だからその目の前の厳しい現実っていうのも、より理想的だと思われる、
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歴史社会よりも一歩進んだ社会なんだっていう風に考えたりしますと。
すごいね。これさっと言ったけど、その絵の前で初めて人類史で多分怒っている現象を目の前にしたエイゲルが、
それをここまで的確に、冷静に、その現実、今まで理想としてできた理性の世界が実現した時にこうやって怒ってることを、
ここまで、あいつが悪いんだとか、例えばフランソン・ロベス・ピエールが悪いんだ、
諸刑しまくりあってとか、ナポレオンがとか、そういうことを言わずに、これは構造の話なんだねみたいな、
タイムを悪くないんだよみたいな、何その冷静さっていう感じは。
そういうのはね、こういう人は何をやったかじゃなくて、この人の目の前の世界の捉え方がヤバいねっていう、まずもう1話目から思った。
そういう風に思ってもらえるとめちゃくちゃ嬉しいし、もちろんそのエイゲル時代が革命がすごいとなる時もあれば、やっぱり革命がすごいとなる時もあるし、っていうのはもちろん人としてはあって。
そっかそっか、さっきも言ってたもんね。
フランス革命は期待もしてたんだもんね、個人的にね。
もちろんしてたしてた。
やっぱり20年30年こうやって時間が経過しとか、自分でこういろいろ考えて、もちろんこの後大学教授として仕事もしていくんだけれども、
その中で、それだけじゃダメだというか、もっと本質を捉えなきゃいけないっていう風なことを考えていきますと。
恐ろしいなぁ。
これはね、いわゆる新法主観というか、要はそれが行き過ぎると結局進んでいる社会が良い。
要はもうというと、近代とかヨーロッパは良くて、例えば進んでない他の地域はダメだとか、結構そういうのが植民政策と繋がっちゃったりするから、思想的に。
そういう風にお使いちゃうね、確かに。
だから今はそれを反省されたりとか、相対主義との地域、例えばドイツが優れてて、
例えばアフリカは遅れてるとかじゃなくて、アフリカにはアフリカ独自の文化とか歴史があるし、
それは別にどっちが良い悪いじゃないよねみたいな考え方っていうのも、もちろん今そっちがベースになってるんだけど。
やっぱりそういう何かを乗り越えていくとか、現実を良くしていくっていうものに対して、構造的に捉えてやっていくっていうのは、
平行の幅型ですごく大事なことだろうと思ったりしますと。
なるほど、確かに。力強いだけにそういう使い方を間違えるとみたいな、やっぱすごいね。
やっぱり僕らはそういう歴史とか思想を知ってるからこそできることがあるなと改めて思ったりするんだけど、
そういう意味で言うと、ヘイゲルのいわゆる描く社会っていうのは、自由な個人っていうのを単位にしているから、必然的に否定とか矛盾とか対立、
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そういうのが起きる社会ですよと。それを認めながらどういうふうに社会を形作っていくかみたいな問いっていうのがヘイゲルにはあるんだよね。
なるほどね。しかもそれも説明というか、時代の流れの中で目の前で起こっていることを見られるために捉えながら分析し続けたって感じなんだ。
やっぱり関東の時期にも、ヘイゲルが初めて哲学の中で個人と社会をある種で接続したみたいなことを言ったんだけども、その意味はここで。
やっぱり時代がそこに追いつかない限りは、そこを統合しようもなかったみたいな感じだったかな、社会と。
そうだね。それはあるとこし、その思想があるとこで力を持ち合えなかった。現実に社会が平和で豊かだったら、そんな個人と対立してとか言っても、それはいつの話よみたいになっちゃうけど。
実際に100年じゃかかっているわけですよね、デカールトから。
そう。そう。そう。そういうのは、そういうのを聞い取ったからこそヘイゲルがすごいとか、ヘイゲル哲学というのが力を持ったというのはあるとは思うんだよね。
実はこういう否定するとか矛盾するとか、それを乗り越えるっていうことって何かっていうと、実はこれが弁証法ですみたいな話なんだよね。
今突然、弁証法っていう言葉を出したんだけど、弁証法っていう言葉は何か聞いたことある?
そうだね。あるし、何回も話したんだけど、個人的にコテンラジオがすごく好きなので、弁証法はマルクスの回とかで出てきたし、
あと今回のフランス革命の話とかもシリーズであったから、それはすごい面白くてね、そのイメージで話を聞いてたんだけど。
ぜひ聞いたことある人はぜひ聞いてみてください。勝手に宣伝ね。
コテンラジオの宣伝。
確かにね。
弁証法って何かあるものがあって、それを否定するものとか矛盾するものがあって、それを乗り越えて新しいものに行くんだよみたいな風に教科書的なというか、一般的な話だったりするんだけど、
今日はヘイゲルの弁証法にフォーカスを当てたいと思ってます。要はそんな簡単なもんじゃねえよみたいな話なんですけど。
私は、弁証法がヘイゲルの一番有名だし、実際のど真ん中というか重要なところだよというのは間違いないんだね。
もしかしたらそれも人によって違うかもしれないけど、僕が読む限りは弁証法と矛盾とか否定っていう運動を乗り越えるっていうのはヘイゲルの根幹にあるから。
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関東でいうと純粋製品のようなものかな。物事アプリよりの総合判断。弁証法って方法論みたいな感じだよね。何かを実現するための。
そうだね。もっというと、物の見方とか考え方がヘイゲルが弁証法的。ものごと固定しないとか、常に移り変わるものとして捉えているみたいな感覚があって。
それと次1個またちゃんと話していきたいなと思ってます。
そういうのは根幹って感じなのかな。土台だったりとか。ヘイゲルの哲学を構成する。
そうだね。土台っぽいかな。
ごめん。聞く前にいろいろ。勝手に想像を膨らませちゃってるんだけど。
そういうのだけ面白みを感じていただけたら嬉しいなと思うんだけど。
そうだね。何を乗り越えようとしたのかみたいなところが見えてきた感じがして面白くなってきてる。
だからヘイゲルというのは個人もそうだし、社会とか宗教についても語るから、その範囲が広すぎて、
自分の手には追えないなというのはもちろんあります。
普通にヘイゲル研究者20年やった人が私の拙い知見ではとかって書いちゃうくらいだから無理なのよ。
だから普通に哲学好きですくらいな人間には無理なんだけど、
ただその中でも弁証法的な考え方の鋭さとか幅広さとか、ダイナミックスさみたいなことはめっちゃ面白いと思ったから、
それは伝えられるんじゃないかなと思ったりしてます。
楽しみ。
ここまでどうでしたか?
さっき言ったけど、コテンラジオのマルクス会でヘイゲルとはみたいな話がちょっとあったんだよね。
その中で、理解できないほど難しいことやったとか、弁証法はこんな感じっていうちょっとした事前知識みたいなものはあったんだけれども、
今までのデカルト・カントみたいな話もこのラジオで聞いてきた中で、
ヘイゲルが時代理想に対して、今まで言われてきた理念とか理想に対して、現実が大一いた時にこのヘイゲルが生まれ落ちていたっていう、
運命のいたずらじゃないけどね、そういう必然的な感じも面白いなと思ったし、
そんなヘイゲルは何のためにこんなに難しい弁証法を作らなきゃいけなかったのかっていうところが見えてきたっていうのが面白いね。
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弁証法は次からだと思うんだけど、なんでっていうところがすごいリアルに想像させてもらえてる感じがして、楽しみになってきたね。
今回眠くならないかもね。西洋鉄道は難しいんだろうけどね。理論の話になった途端、今回はストーリーというか、事前の話だから。
人柄的な話だから。でもね、面白いっていうか刺激的だとは思います。何ていうか分からないけどすごそう。
だから、ちょっと分かった気がする。分かった俺、すげえみたいな。
でもね、確かにこのものすごい武器とか、この道具は何のためにあったのかっていう、何のためみたいなところがあればね、少し繋げようっていう感じは多分面白そうだなと思う。
みたいな感じで今回話していくんですけど、ちょっとだけヘイゲルの人となりというか、どんなエピソードがみたいな話を伝えるんですけど、普通なんですよね。ヘイゲル自体は。
ここで言っていくと、1770年に今のドイツのチュトゥッガルドというところに出生されます。お父さんも役人、財務局の初期官みたいな仕事で、
もちろん行政側ではあるんだけど、別にめっちゃ上流家庭とか、すごい貴族ですとかではないです。
だから普通の家庭に生まれたよって感じで、かつ、学校にも普通に通ってくるんだけど、小さい頃から大天才でとか言われても全然なく、
普通に授業中に眠りするとか、チェスでお金かけて怒られるとか、飲み明かして昼前に行っちゃって、学校行かないとか、そういうこと全然しますと。
だから後からベルディン大学っていう最高校のところで教授とか総長になるんだけど、そういう意味で言うと、すごい名声を手に入れたみたいな人なんだけど、
当時の学校時代の友人からすると、あいつがそんなにいいんだなって全然考えたことなかったわ、あいつそんなにすごかったんだ、みたいな。
不良か天才か分からないようなタイプかな。
大体な感じでした。学校卒業後も最年少教授とかでも全然なく、家庭教師になりますと、これカナトと一緒だよね。
ある種で人に教えながら自由を舞いながら論文を書くみたいな生活をするんだけど、お父さんは牧師さんになってほしかったらしくて、ただフェイゲルは大学に残るという学問に行くんだけれども、
例えば宗教みたいなものに関してはすごく身近に感じていて、学問的に哲学家とか宗教家とかじゃなくて、
27:09
例えば残っている言葉があるんだけど、宗教というのは心に打ってかけてくるものなんだと。だから自分たちは気持ちとか意識的に影響を帽すものなんだよね、みたいなことを言っていて、
それって神がとか教えがとかじゃなく、自然にそういう風に思っちゃうよね。お寺、お地蔵さんの前に行ったら手を合わせちゃうし、悪いことしちゃダメかなって思っちゃうよね、みたいなことを普通に素朴に思ってます。
神が中心って感じではないね。 そう。もちろん批判もするし、論述もするしなんだけど、
逆に当時の客観的な、教義というか、神とはこういうものである、みたいなものは結構批判的。
でも、人間の本性で捉えた時に、宗教ってすごく良いものだよね、みたいな。そんなにめくりちゃったって否定するものじゃないよね、みたいな。
そういう素朴な気持ちをもちろん持ってます。だから歴史とかをバッサバッサ切って構造にして、これだっていう、すごく冷たい人っていうわけでもなく。
私、でも個人的には逆に超構造的に理解する人だな、冷静な人だなと思っている。今の話で。
IQ500ぐらいは言いそうみたいな。 当時もいろんな話があった上での感覚だとは思うんだけど、
その宗教とか神ってものをここまで客観的に、時代の中、まだ神がいる中で生きてながら、ここまで客観的に神と自分を相互に置いて、
自分への神の影響はこんな感じで、自分自身に対してこういう風に影響あるかもね、っていう。神30%の自分70%かな、みたいな。
そういうのを超構造的に捉えまくっているな、っていうのをここからも感じた。無理やりにつなげているかもしれないけど、すごい思ったよ。
それは本にも出ているので、そこも少し触れていきたいなと思っていたんですけど。
そこからヘイギル19歳にして、さっきお伝えした通り、フランス革命が起こりますと、やっぱり貴族とか生息者を市民が打倒する、みたいな感じがあったので、めっちゃいいねってなったんだけど、
結局民衆による逆殺とか粛清とかがある中で、どないやねんってやっぱりなりますよと。
そこから31歳で、イエナ大学っていうドイツの大学で、講師になりますと。
ただやっぱりお金はあんまりないので、結構粛々と生きていった、みたいな感じなんですけど、本当に教育者なんですよね、ヘイギルは。
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普通の先生みたいな。
そのまま教授としては名声を高めつつ、ベルリン大学というところに入りますと、教授になりますと。
面白いのが、ヘイギルがベルリン大学っていう、当時でも随一のドイツの大学に教授として就任するんですけど、
その就任演説の言葉っていうのも伝わっていて、そこで一部、僕が見つけたので言うと、こんな言葉を言ってますと。
「絶悪と交わることは、人生の日曜日とみなされる。平日は、国外的生活との必要の利害監視による仕事で、人間は有限な現実に埋没している。
これに対し、日曜日に人間は、こうした仕事を立ち、その視線を地上から天上へと高め、自らの神、神の性質とか永遠性を、すなわち、自らの本質を自覚する。
人間が一週間働くのは日曜日のためであり、一週間の労働のために日曜日があるのではない。」と言ったようですと。
もちろん、日曜日は休息日、安息日であって、神の日、ある種、お祈りをする日みたいなことがあると思うのですが、哲学教授としてのヘイゲルは、それも哲学をすることなんだと。
だから、利害関係とか社会というだけではなくて、自分と向き合って自分を高めるために日曜日があるし哲学があるんだよ、みたいな感じです。
こんなことをやったら「おお、そうか」となりそうな気もするけど、やっぱり哲学に対する真摯な向き合い方とか、ただ哲学を学ぶだけではなくて、自分を高める。
自分の尊さとか永遠性をある種地上から天上に高めていこう、みたいなことを言っているから、そういうのを大事にした人がヘイゲルだと思ったりします。
結局これも弁償法というか、今自分が地上にいるとか、世の中のいろんなことに応察されているみたいなことと、それではない哲学的な自分というところを超えることでより高いというか、精神性を持った自分になるみたいなことも弁償法といえば弁償法だし、
精神現象学という本がヘイゲルにはあるんだけれども、そういう人間精神みたいなものをどう高めていくか、より良くしていくか、みたいなテーマにも通じることだったりはしますと。
33:03
そういう話もしているんだ。
そんな中でヘイゲルは大学でどんどん教えていくんだけれども、実は1831年なので61歳にして、当時流行していたコレラで突然亡くなってしまいますと。
なのでまだ若いだろうなとは思っていて、もし78歳まで生きていたらどうなっていたんだろうと思ったりもするんだけれども、実は生前生きている間に出した本というのは4冊しかなくて、
それがさっきタイトル出した「精神現象学」と「材論理学」と「エンチュクロペディ」という、エンサイクロペディアみたいな、要は百科図書的なものかな、あと「法の哲学」という4冊ですと。
はいはいはい、弁償論というのはないんだ。
弁償論とか弁償法について。
弁償法か、弁償法論みたいな。
そうね、それ自体で語ることはないし、
あとなんか、ヘイギルの本の中で「これが弁償法だ」みたいに言うこともあんまないらしいのよね。
だから、別にヘイギル主体が「私は弁償法を超取り上げて世の中に広めたいんだ」という感じではなく、
考え方の根底にはそういうのがあるよね、みたいな感じをとらえる方かなとは思ってます。
あとは、本は出しないんだけど、
広広く、大学の授業をかけ起こしたものというのは結構残っていて、
だからヘイギルというのは、自己の哲学を語ったのであって、書いたのではない、みたいな風に言われることもあります。
なるほどね。すごいね、そこは各時間があったら人に伝えるというか、講義する場に立ってたみたいな。
まあ、わからないけどね、それは。
もちろん教育者としてはまずは授業というか、学生だったり、そういうのを語るというのはあっただろうし、
あとはやっぱりヘイギルの思想自体が、動的な、あるものがあって、それを否定して、それを乗り越えてみたいな、そういうこともあるし、
結局、リュウジュとかの時にもやったけど、言葉にすると、本質が死んじゃうというか、
そもそも本質は言葉では表せない、みたいな感覚もあったんじゃないかというのもあって、ヘイギルにもね。
だからその、
その言葉にある種仕切れないというか、語ることで、どんどん自分の哲学というのは、ある種広げてもいったし、深めてもいったんじゃないか、
これは僕の個人的な感覚も含めてだけど、あるのかなと思ったりしますと。
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そういう風に感じるとかじゃなくて、事実、本が4冊、死かって言うとおかしいけど、自分が表現したかったものがテキストだと、たぶん十分じゃない、みたいなものがあろうな、感じるね、確かに。
次にも話していくんですけど、そもそも弁証法というのも、いわゆる対話法みたいな感じで、イリシアの通月があった対話術みたいなところから引っ張ってきたりするものでもあるから、
こういうラジオで、例えば兄貴とこうやって哲学について話すっていうのは、わいどこう哲学の基本というか、本質をついているのかなって思ったようにしてて。
この前の雑談会もあったけどね、途中のプロセスを含めて、結果がこうだとか、こう掴んだ、じゃなくて、プロセス自体を理解していくみたいな、積み上げてとかね。
そう、言い切れはしないんだけど、みたいなことも、書き言葉だと難しいじゃない。話しているとニュアンスも含めて伝わるんじゃないかとか、というのもちょっと思ったりもしてるんですけど、
そんな感じで、61歳の決して長くはない障害というのを同一で閉じる、というのがヘイゲルの人生ですと。
ヘイゲルの哲学は、ヘイゲルが生きていた時からかなり広まっていてというか、まずヘイゲル派みたいなものが強すぎて、深刻化されていた部分もあったんじゃないかと言われたりしますと。
ヘイゲルの哲学ではない哲学は可能かとか、弁証法じゃなきゃ哲学じゃないみたいな、という言葉が哲学者の中で言われていたくらい、やっぱり影響がありますと。
すごいね、ここまで聞くと、言葉で、説法じゃないけどね、言葉で、しかも生きているうちに影響を与えて、そういう弟子というか影響を受けた人たちが、その土台の上で、土俵の上で、
ああでもない、こうでもない、というのをどんどん繰り広げていくみたいなのって、宗教と比較するとあれだけど哲学だからね。
そういうカリスマ性みたいなものは、人生は普通なのに、影響力みたいなものはすごい感じだね。
そうだね、読む人が読むと、ちょっとヘイゲルは、哲学者というよりは、神学者とは言わないまでも、論理を超えているというか、人と違う世界が見えていたんじゃないか、という人がいたりとか。
39:08
あと、精神原子学という本も、今回はそこまで関わりを取り上げないんだけれども、哲学者というよりは、小説というか物語みたいな意味合いが結構強くて、
むしろ、ゲーデとか、そういう人たちと並べた方が、この本についてはいいんじゃないか、という人もいるぐらい。
文楽よりみたいな話なんだね。
それは面白いね。テキストの限界をどう乗り越えるかみたいなところも、ものすごい感じてたのかな。
そういう意味では、人というか、高生の哲学者からすると、最も理解が困難な哲学者みたいな人がいたりもするし。
逆に、言い切ってくれた方がわかりやすいのはあると思うんだけど。
日本語の本とかを読んでいると、英語についての入文字とかを読んでいると、怪獣な思想という表現がよくされていて、
怪獣っていう、聞いたことないでしょ?
良かったら、検索するときに変換してもらったらいいと思うんですけど、
何なんだろう、渋いみたいな。書いていることが難解であるという言葉を怪獣という言葉で表すらしくて、
その怪獣という言葉自体がわかりにくい。何言ってるんだ、こいつって思うんだけど、もっとわかりやすく言ってくれよ、入文書なら。
みたいな。
そう、みたいな感じがあったりします。
今回に関しては、ヘイギルの思想を一つ一つ見ていくというのは、僕の能力を超えているというか、
正直、追っつかないというところも思っていて、
それよりも、僕がヘイギルを見ている中で感じた弁証法とか矛盾とか対立みたいな、
それが通定しているなと感じるので、そこを取り上げたいなと思っていますと、
実は前回も優位主権の話の後で、論理学超入文みたいな感じで、本当にさらっと、
無準というのは、その無順率という論理学の中の一個の決まりだった時に、
そこに向き合った哲学というか思想って、ヘイギル以前ではあまりないんだよね。
そうなんだね。
思っていたら、矛盾がないとか、一個一個がちゃんと成立しているみたいなことを大事にしている部分もあったから、
42:07
神の世界って矛盾してないから、
神から乗り越えて、矛盾している人間社会と現実社会にどう取り組むかみたいな観点で言うと、
ヘイギルが近代の完成者というか、まさにそれの前の時代から、今の現代に繋がる思想家だというのも何となく分かるよね、と思ったりするし。
面白い。
矛盾というものに焦点を当てると、
その論理学的な意味で言うと、矛盾というものの存在自体は認識されていて、
だけど矛盾というものはないよね、とか、ない方が真実に近いよね、みたいな感じで、結構捨て置かれていた感じなのかな、存在認識されておきながらも。
そうだね、とか、結局それは神の世界においては統一されている、とか、そんな風に思えちゃってたんだよね、当時までの継続的な世界というか。
ちょっとまあ、美しいものが真実だ、みたいな感じでいくと、矛盾は美しくないから、そもそもちょっと違うでしょう、みたいな。
矛盾はない前提で、世の中とか、論理が構成されている、みたいな。ところに矛盾がある前提というものを見出したのが、ヘゲル、その一人みたいな感じなのかな。
そうだね、その他に積極的な意味を見出したりとか、それこそが大事だというところでは特徴的かな、という感じだね。
なので、改めて矛盾というのも結構キーワードかなとは思っていて、逆にそれが乗り越えられることで、精神とか歴史が発展していく、という思想があるので。
そこが発展なんだね。
それを単純に弁証法というのは、正反後みたいな、あるものがあって無事をしているものがあって、それが統一されて、余裕になりますよ、みたいな、クワッとしたことで片付けるんじゃなくて、いろんなちょっと混み入った議論とかも踏まえながら、ヘゲルの弁証法ってこういうもんだよね、みたいなことをお届けしていきたいな、なんて思っております。
すごい難しそうだけど、面白そうだし。
弁証法、これだけヘゲル=弁証法みたいな話をしておきながら、その弁証法というものは、ヘゲルの話を聞いた哲学者だったり、有識者みたいな人たちが、後からまとめたものなんだね。
ヘゲルは、こういう感じで物事を考えていたっぽいね、とか、こういう論に構造を持っていたっぽいね、というのを、超頭良い人たちが、後からそれらをまとめて統合したような感じなのかな。
45:07
本人は言っていないんだもんね、だってね。
一応言ってはいるんだけれども、それ自体をすごく取り上げて、発明禁だ、これが、みたいに言っていることではないんだよね。
そう考えたら、ヘゲルはすごそうだな、と。
後の人が、あくまでも弁証法は手段で、それを基づいて、それを前提として、これからこの話をしますね、とか言っているのに、それを聞いている人たちは、
その思考プロセスはやばくないですか?という結論は、ともかくそれはやばないですか?というところに、めちゃくちゃ感動してしまっている。
ちょっとそういう次元の違いを感じて面白いね、それもまた。
確かに、私、一般の理解を間違っているというのも次の回で話すんだけど、弁証法はそんなに優しいもんじゃねえぞ、みたいなことも、ヘゲルを読んでいると出てくるというか、読み取れるみたいな話があるので。
ヘゲルのそこの見えなさみたいなものを、今回の話を聞いて、すごい感じたと思う。
正直、僕もそこが、分からなかったというか、何が言っているんだ、ヘゲルみたいな感じがあったので、どこまで押さえできるかとか、
ヘゲルはもっと取り上げるかもしれないな、とちょっと思いながら、今日は話しています。
そうなんだ、やっぱり、聞く地だったりとか捉え方というか、またいろいろあるな、なんか。
いろいろあるし、今後の話をすると、その次、一回、兄貴がよく暗黒時代という、中世に向かうと思っているんだけど、
中世のことをちゃんと理解したりとか、ヘゲル以外の哲学者のことも同時代の話を聞いた上で、もう一回ヘゲルに戻ってくると、そういうことね、とか。
「ああ、ヘゲルすごいな」みたいなのも、逆にまた見えてくるんじゃないかと思っていて。
大きな意味で、このデカルとカント、ヘゲルが乗り越えようとした時代感みたいなものって、確かに同じこと聞いてないし、自分的にも、その土台がね。
歴史で言うところのヘゲルの凄さみたいなところと、その横、同時代の中でどんな思想がある中でヘゲルが考えたのかっていう横もわかると、
より近代哲学が完成したとか、そもそもどういう思想とか、時代拝起だったのかっていうところがよりわかるんじゃないかなっていうのも思ってて。
果たして自分が今そこまで出来んのかって言いながら不安ではあるんですけど。
自分でハードルを上げてるけど。
ハードル上げちゃった。
いいね、そっか。そういうの楽しみだね。
同じ、西洋でもまた、中世に戻ると全然、質感というか雰囲気変わるんだね。
48:05
変わるね。全然違うと思うし、逆に言うと、ただ暗黒時代って切って捨てられないものももちろんあるし、それを乗り越えなきゃいけなかった必然性みたいなものも見えてくると思うし。
確かに、暗黒時代は前もいたけど別荘だしね。
そういうの、暗黒時代ですらその前の時代を乗り越えようとして出てきたものっていう意味ではね、その時代の正解みたいな話だもんね。
おそらく。
やっぱりね、積み上げはもちろんあるし、その当時、その時代の人がやっぱり現実的な、これをちゃんとしなきゃいけないとか、イエス・キリストっていうのはどんな存在なんだみたいなことで向き合い続けて、やっぱりその結果が出てるから、そういう意味では楽しんでもらえると思うし。
確かに今回の話言うと、ヘイリエルがフランス革命の天末というかね、結果見たときにちょっと現実は厳しいなと思って、やっぱり古代の哲学、ポリスだよねとかって、もちろんそこはただの解雇シーンじゃなくてそこを乗り越えてるんだけれども、
と同じだよね。それと逆で、暗黒時代ダメだったねーって言うと、それで終わると、もちろんそれはただの解雇シーンの逆で、思考停止になっちゃうよねーっていう話とちょっと似てるよね、どっちに触れても。
そうだね、いろんな思想を学ぶ中では、その時代のその関係に来たら確かにそれが考え方になるよねーとか、でもその考え方だとこういう問題が生まれてくるから、だからデカールドが出てきたんだねーみたいな、そういう風なことが見えてくると、哲学史を別に僕もちゃんと知ってるわけじゃないからなんだけど、
その思想が点とよりはちゃんと線で繋がってきて、面で見えてくるみたいな感じをラジオを通じてできるんじゃないかなともちょっと思ってて。
はいはい、わー楽しみだね。今偉そうにいろいろ言ったけど、全然知らないから。
うん、すごい楽しみ。
僕もね、もちろんすごい嗅いすまんでるし、当然このイカリとカント、ヘイギルの中にもいろんな素晴らしい手作者とかね、いるから、もっともっと取り上げたいなとは思ってるんだけど、
まあせめて言うとね、このラジオはまだまだ終わりはせんのですということで、
まあまずはね、ヘイギル編というところでね、今回ヘイギルの弁償法編か、という感じで楽しんでいただけるといいんじゃないかなと思ってます。
はい、了解です。そうね、なぜ弁償法が必要だったのかみたいなところがちょっと見えてきたところで、
次はその難しそうなね、中身についてちょっと見ていきたいと思いますので、じゃあ次回もはい、
引き続きよろしくお願いします。
はい、お願いします。ありがとうございます。
♪~
51:02

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