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2024-11-11 38:23

西洋医学と東洋医学の違い、などなど

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サマリー

このエピソードでは、西洋医学と東洋医学の違いや、それぞれの特徴、メリット・デメリットが議論されます。また、健康に対する異なるアプローチや、医療におけるエビデンスの重要性についても触れられています。さらに、西洋医学と東洋医学のコミュニケーションの違いや、医療現場における患者との関わりについて考察されます。具体的には、医療現場での意思決定や患者とのコミュニケーションスタイルの違いが議論され、特に家族や地域社会との結びつきの重要性が強調されています。加えて、西洋医学と東洋医学の違いに関する理解や文化的背景が探求され、家族システムや結婚形態の多様性にも触れられます。さらに、価値観の変化や現代における意思決定の手法についても議論が展開されています。

西洋医学と東洋医学の比較
まずはトピックを取り上げて、健康について考え直す番組、Rethink Healthということで、今回は森野くんよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回はですね、またエビデンスとかコミュニケーションとかに関わる内容かもしれないですけど、
西洋医学と東洋医学とか伝統医学の違いだったり、それぞれの特徴とかメリット、デメリットみたいな話をざっくりしていこうかなと思います。
はい。
自分たちは理学療法士で、大学院も行ってたっていうと、どっちかっていうと西洋医学寄りの考え方がベースかなと思うんですけど、
世の中見ると東洋医学的な考え方をベースに治療している人もいるし、多分なんかヨガとか、
ああいうのもインド寄りだったり、いろいろ患者さんというか一般の人からすると、西洋医学だけじゃなくて東洋とかそういう伝統医学みたいに絡むこともあるだろうなぁと思うし、
その辺をちょっといろいろ喋っていけたらなと思うんですけど。
なんか今ずっとふっぷ気になったんですけど、西洋と東洋の医学でいうと結構かかって分かれてる印象もあるんですけど、
さっきのインドとかってどっちかっていうと中洋というか、この辺りの境目とか、そこが交わるシルクロード的なものとかって分かれてるのかなぁと。
どうなんだろうね。だからその辺はなんかなんだろう、もともとのやっぱ哲学的な思想で、西洋哲学、東洋哲学と分かれているとなんか似てるような気もするんだけど、
なんか西洋哲学とかは結局過去からの積み上げで、この人はこう言ってた、でもこうなんじゃないかって言って、より真理に近づけていくみたいな流れが、
なんか西洋医学的にも過去からエビデンスが積み上がってきて、新しい技術ができてきたらそれをアップデートしてみたいな流れだと思うんだけど、
東洋哲学的なものもインドとかが結構中心になって、そこから東に広がっていったりとか、最初に結構真理みたいなものがもう悟りみたいなものが出来上がって、
それを解釈していくみたいな流れだと思うんだけど、どっちかというとやっぱ東洋医学とかも、まずこう、気があるとか、経絡がありますとか、
で、これに対してのこれはこうみたいな、結構最初に決まったもの、ちょっと自分もその辺まだ理解が浅いんだけど、
だからもうその結構論理の流れがもともと哲学的にも違うし、だからそれは医学的にもあるのかなって気はして、
だからまぁ、なんだろうね、その西洋哲学と東洋哲学の境目みたいなのも、なんか曖昧な部分があったりするし、
だからまあ医学的にも、だからパチッと分かれてなくて、やっぱりどっちも混ざるのはあるんじゃないかな、みたいなのがあるかな。
医学的アプローチの多様性
あとはその、以前その雨の日の心理学っていう東波多さんの本でも出てたんだけど、
ハーサー・クラインマンっていう医療人類学の研究者、精神科医で、台湾とかでフィールドワークやった結果で、
社会におけるヘルスケアシステムのあり方みたいなのが大きく3つ分かれてるっていう話があるんだけど、
民族的な部分と民間の部分と専門家の部分。
で、多分その専門家の部分っていうのがどっちかっていうと西洋医学的なところで、
民族みたいなところがちょっとやっぱ東洋医学とかスピリチュアルが絡むようなところ。
で、あとはやっぱ民間っていうのが人の中でのコミュニケーションとか、
家族の中での会話とか友達とか。
大部分はそのやっぱ民間の部分で結構そういう情報もなされてケアされていったりしてるから、
でもやっぱりその確かグラフとかの中でも専門家と民族みたいな部分がかぶる部分もあるし、
全部かぶってる部分もあるから、やっぱパキッと分かれるのはなかなかないのかなって感じかな。
なんか思い出したきっかけが結構前に読んだんで曖昧なんですけど、
梅竿忠夫っていう人の、やばい、タイトルがどうでした?文明…
梅竿忠夫の文明の生態史観化っていう本があって、結構もう前に読んだ本ですけど、
1957年に出た本なんですが、
その人が結構文化人類学とかそっちの研究もしていて、
アフガニスタンとかインドとかパキスタンとかに結構フィールドワークしに行ってたんですよね。
で、その文明っていう観点でも西洋と東洋っていうところで割と分かれているけれども、
そこの枠組みだけで考えるんじゃなくて、この中洋っていう枠組みを新たに定義することで、
まあその西洋と東洋の見えてなかったところを見えてくるんじゃないかとか、
実はそこを定義することで、新たなこう西洋の形が見えてくるんじゃないかとか、
まあどっちかというと西洋は偏長な傾向があるけれども、もっとこう見いだせるものが実は東洋じゃんとか、
そのあたりの論法がなかなか面白かったので、そういう視点がもしかしたら使えたりするのかなと思って。
確かにね。そうだよね。
まあ結局なんかその一般的な健康になる方法みたいなのを考えていくと、
バランス大事だよねみたいな感じに落ち着いちゃうから、
多分なんか結局西洋的な感じで突き詰めても、東洋的な感じで突き詰めても、
一般的な健康法とかはバランスよくみたいな感じになるような気がするし、
多分中洋みたいのは、西洋と東洋の中洋っていうのもあるし、
そもそも体が健康であるためには、体と心の健康のためには中洋がいいよねっていうのは、
両方あるような気もするかな。
確かにですね。
東洋医学っていうものを実際に我々臨床に、僕はあんまり長くはなかったんですけど出て行ったりする中で、
それを意識するタイミングとかって西野さんの中であったりするんですか?
そうだね。だから自分の中の考え方としてはまず西洋的なところだから、
目の前でクライアントの人がいても、まずしっかり問診したりとか評価をして、
そこから情報をまとめてアプローチするっていうのが基本的な流れだけど、
クライアントの方自身がどういう主義主張というか観念を持っているかみたいなところで、
普段からよく漢方を使ってますとか、東洋医学的な先生からこういうのを教わってますとか、
やっぱりそういう本人がどういう価値観を持っているのかっていうのに合わせて、
やっぱ伝えていく内容とか関わり方っていうのは違ってくるから、
どっちかというとこう相手の考え方をどういう価値観を持っているのかっていうのを意識するって感じかな。
なんかこう西洋、西野さんの中の引き出しとして、基本的に西洋医学的なアプローチで治療を進めると思うんですけど、
中でもその東洋的なアプローチが実は有効だから、これはちょっと場合に応じて使ってるみたいなこととかって、
前に読んだ本、今読んだ本で医学問答っていう西洋医学の専門家、東洋医学の専門家がこういろいろディスカッション、
それどうなんですかみたいなとかって結構楽しく言いながらやる本があるんですけど、
その中でその東洋医学の先生はもちろん西洋医学のことを勉強していて、
正直東洋医学これ自体に確かなエビデンスはないけれども、なんかめっちゃ効くから使うこともあるっていう。
そのなんか弱みというか、エビデンスっていう観点で見た弱みも打ち明けながら話してて、
確かに臨床現場ってそのエビデンス的にはそんなにないけど、有効だから使ってるみたいなことってまあまあありそうだな。
なるほどね。
患者とのコミュニケーション
まあなんか自分の中ではもう基本西洋医学だから、自分のアプローチで使うことはほぼほぼないんじゃないんだけど、
そのなんだろうね、自分のちょっと専門外のとこで、例えばなんかこう酒後、妊婦さんで酒後になることってあるんだけど、
全然はっきりした記事はわかんないんだけど、その酒後を治すツボみたいなのが確か足の小指あたりとかにあるっていうので、
自分のこう世話になってた先生、新級の先生とかが100%治るみたいな、本当にこうわかんないけど、
その先生が足の小指のところのツボを刺激するようなアプローチをすると、もうなんかみんな治ってるらしいみたいな。
その本にも出てきました、そういう話。
だから、実際今んとこその関わってるクライアントでそういう状況の人はいないんだけど、もうそういう話を聞いてて、
その先生自身も自分は結構信頼してる人だから、もしそうなったらその先生に絶対お願いしようって勝手に自分の中で思ってるとか、
はいはいはい。
はあるかなと思うかな。
あとはやっぱりスポーツ選手とか関わってても、自分は理学療法師とかトレーナーだと物理療法っていうような温める冷やす電気とかはできるけど、
やっぱ針とか補給とかあんまりやらないとかできないし、でもやっぱり選手からしたら針がいいですっていう人もいるし、
そうやったらその新級の先生お願いするとか、パートナーとして同様学的な思想でやってる人も身近に居とくみたいな感じはあるかな。
そこを取り入れながら自分でもやってるなんかダブルライセンスみたいな感じでいたりするんですかね。
あーだからどっちかっていうとそのベースが柔道制服師とか新級師とかは学校で多分東洋医学的なことを学ぶと思うんだけど、
それだけじゃなかなか足りなくて西洋医学的なことを勉強していこうみたいな流れの人は多いような気がして、
だから西洋最初に入っちゃうとちょっとこう取っ付きにくい感じはあるのかなって感じかな。
何もなんか万弱っていう顔をしてますからね西洋が。
全然こう、でもやっぱり西洋はカチッとこうこれにはこれがいいっていうのを示しづらいっていうデメリットはやっぱりあるから、
いくら統計でこうエビデンス高いって言って出たとしても、伝え方の自信がない。
そういうデメリットはあるかなと思うけどね。
その患者さんとかに対して何パーセントの確率とか統計では高いけど可能性がありますよみたいな感じでしか伝えれなくて、
結構東洋とかの方がもうこれにはこうって決まってたりするからこう言い方が強く言えるみたいのはあるかな。
なんかこう、なんですかね、冷たい印象と温かい印象がある気がしますよね。
そうそう、なんか西洋の方が人をこう、物とまでは言わないけど、数字とかちょっとこう冷たい感じで見ちゃいがちっていうか。
でももうちょっと東洋の方が人は人として全体のやっぱり循環が大事だよねとか、
その生き元のとして人を見てる感はなんとなく感じるかな。
確かに。
僕はそんなに新旧とかに通ったことってこれまではあんまりないんですけど、
なんとなくイメージとして、さっきたしろさんが言ってたこのこういう時はこうですよって言われる方がなんか安心感があるかな。
なんか大丈夫ですよって言われてるような感じで、これ効きますからねって言われると、やっぱりこう不安な時とか痛みを抑えてる時とかって、
そっちの方が寄り添ってくれてる感覚はあるのかもしれないですね。
難しいよね。ただこう、エビデンスベースとメディソンとか、シェアディシジョンメイキングとか、
いろいろ情報の伝え方とかコミュニケーションの取り方があって、
専門家側からすると相手の状況はこうですっていうのが、ある程度評価はされるけどこういうやり方とこういうやり方とこういうやり方と、
それぞれメリットデメリットありますどうしますかみたいな、相談しながら決める方がいいような風潮があるけど、
いくら聞いても、わかんねーよっていうか、そこで自分に決めさせるの?みたいなことを患者さんとかクライアントが思うこともあると思うし、
強くもこれがいいですって言ってほしい時もあるかもしれないよね。
いやーそうですね、なんか思い出すのは結構フィクションとかでもそういう場面って描かれることが多い気がして、
コードブルーっていうドラマ、ドクターヘリを舞台にしたのがあったと思うんですけど、
その中で結構その裁判に確か、医療行為、医療確保だって言って裁判になるっていう結構シリアスなシリーズがあるんですけど、
DNRでしたっけ?その延命措置を行わないっていう同意書を書くっていうのがあると思うんですけど、
医療現場の意思決定
あるドクターが本当にちっちゃい男の子で、もうほぼ脳死状態に確かあって、一応命を繋いではいるけれども、
もうこれ以上は苦しませるだけだと。で、お母さんにそういう状態ってことを伝えて、どうしてあげたいですかってきて、
お母さんがこう抱きしめてあげたいです、まあ本当もうつながれっていう状況なので、じゃあ外しますねって言って、
外して最後を迎えるっていうシーンがあるんですけど、それはDNRオーダーをしか取らなかったんですよ。
同意書を書いてもらわずに外したんですけど、それはなんかそのお母さんのご家族がそれを見て、
それ取ってないのおかしいだろって言って結構裁判になるっていう流れなんですね。
けどその同意書っていうのがそのエビデンスというのはちょっと違いますけど、その後、この確立論で示されて、
難しいですよ、だからどうしますかって言って、それは結局お母さんの意を汲んで抱きしめてあげたいっていうところに寄り添えた例だと思うんですけど、
なんかそれ迫られてもみたいなシーンって結構なんか医療現場で多々にしてある気がして、
そういう時はもしかしたらパターンアナリズム的な方が楽というか嬉しくなかったりするのかとかはある気がしますよね。
だから結構そのクライアントっていうか関わる人の意識がはっきりしてる時なのか、
どれだけ正常な言語コミュニケーションが取れるかとか、結構そこが影響するだろうなっていうのは感じるところで、
自分の場合だと結構重度な知的精神障害の方とか、これは例えば動物とかもあるし、
例えばちっちゃい子供とか、いわゆる大人、20代、30代、40代とか、
本当に言語ちゃんとある程度コミュニケーション取れる相手だったらうまく相談して、
いろいろ選択肢ありますよねって感じで決めることもできるかもしれないけど、
そういう確かに救急的な状況とか、そういう相手との意思疎通がちょっと難しい場合に、
そういう動揺的な考え方なのか、制御的な考え方なのかで、
どうこう方針を決めるかっていうのって結構センシティブなとこだなって感じはするかな。
コミュニケーションの重要性
家族として判断を迫られる場合っていうのは、さっきの例とかそうですけど、
冷静に判断するのがなかなか難しい状態で、というところも難しいコミュニケーションですね。
そうね、だからやっぱその一人の人に関わる周りの人も含めた共通認識っていうか、
こういう場合はこうするとか、こういう時にはこう考えるみたいな対話がしっかりされてれば、
なんかあった時に判断迷いづらいけど、どうしたらいいんだろうね。
そうやって意識をすり合わせていくといいんだろうねって感じがする。
確かに確かに。
だから本人の大人、その人と自分、セラピストとかの間だけで、
こう方針を決められる状態はまだやりやすいと思うんだけど、
うまくコミュニケーション取れないと、ステークホルダーっていうか、
周りに関わる人の意見をすり合わせないといけないから、時間もかかるし難易度も上がるからね。
どうなんだろうね、そういう西洋的なとこだとそういう
AEBMとか、ナラティブベーストヴィニスンのNBMとか、シェアディションメイキングとか、
なんかいろんなこうコミュニケーションの型みたいのがあるけど、
あんまなんか東洋医学だとそういうの効かないっていうか。
確かにコミュニケーション手法とかって確かに。
あんま効かないようですよね。
もうそもそもそういう、結構これにはこれっていう型が決まってるから、別に誰がどうとか関係なくこれで止めれるっていうのもあるかもしれないけど。
そうですね。
確かに。
あんまり効かないよね。
確かに医学に関わらずのコミュニケーション論とかって、西洋医学がほとんど、
知らないだけなのかなって気がしますね。
そうね、ちょっとその辺もちょっと興味湧いてきたかもな。
確かに確かに。
なんか知ってる範囲というか、類推できる範囲あるんですかね?
東洋医学的なコミュニケーションと東洋的なコミュニケーションですね。
なんだろうね。
本当にその、あんまりわかんないから、なんか読んでいきたいな。
あれじゃないですか、例えばその日本の和歌とか、そういうコミュニケーションで、多分西洋的な流れを、
そらくそんなには組んでないですよね。
あれにも一面を見出せるような気がするんですよね。
そういう時に、苦しい時はこうしようとか、コミュニケーションの方。
でもなんか、その気持ちを伝えるにしても、
なんか考えながら話してるけど、
ゆだね方がちょっとなんか独特な気がして、
逆に変に人がわかって。
なるほど。
あと、遠い人にいるのを、何週間かかるかわかんないですけど、
届けてもらって、遠い月を見ながら思いやるみたいな。
で、とかミス、すだれをかいまみるとか、
直接会わないけれども、遠くで存在を感じるとか。
それは、それが東洋的と言えるのかもわかんないですけど。
そうね。
なんか、忘れられた日本人っていう本知ってる?
いや、聞いたことある。
宮本恒一さんっていう民族学者なのかな?
の、忘れられた日本人っていう本があって、
自分はまだちゃんと読めてないんだけど、
村における寄り合いの風習とか、
集団で意思決定していく流れみたいなのが、
村での方針を決めていくときに、
村長さんみたいな人がいたりして、
地域の人がみんな集まってきて、
もうなんか泊り込みとかで、議題について喋るんだって。
で、いろいろ行ったり来たりするんだけど、
そこで熟議をして、最後村長さんが決めたりするんだけど、
そうやってしっかり関係性も作って話し合って決めると、
意思決定のズレっていうか、納得感があって構成を決めれるみたいな、
たぶん日本人っぽい流れみたいなのがあるらしい。
他にもたぶんいろいろ、
日本人の過去の風習みたいなのが、
民族学的にとったこういう本があったりするから、
ちょっとこれと医学とかは、
わかんないけど、なんかあるかもなと思うし、
それこそあるかな、ドクターコトーとか、
そういう壁地医療とか見ていくと、
まだそういう風習が残ってて、
だからそれこそ、
だからお医者さんが一人いて、
地域の人と別に医学とか関係なくも、
普段からやり取りしてたら、
相手の価値観をちゃんと把握してるから、
この時はこうしようって決めれるみたいな、
病院が、何だろう、それだけ独立してなくて、
人柄を共有してるから、
意思決定のズレが起きづらいとか、あるかもしれないし、
確かに確かに、そうですね。
だからその、医者と住民っていうか一般の人の距離感とかが、
西洋と東洋で違ったりとかあるのかもね、
普段のコミュニケーションの形とか。
確かに確かに、そうですね。
なんかちょっと面白い気がしてきた。
文化と表現の違い
で、なると、
西洋的なお医者さんってもう結構、
分かんないけど独立した存在だけど、
例えば東洋的な医学とか、
お医者さんというか医療者は、
それだけじゃなくて、
もうちょっと普段から地域の繋がりがあるとか、
違う肩書きっていうか、
役割を地域の中で担ってるみたいなのもあるのかなとか、
ちょっと思ったかな。
なるほど、確かに。
ちょっと先輩ですね。
村的。
村的な日本のっていう特徴と、
あとさっき僕が言った和歌とか、
どちらかというと文学のローコンテキスト、
ハイコンテキストっていうところとか、
アートとかそっちにどっちかというと寄っちゃってると思うんですけど、
そのあたりからもしかしたら何か見出せるのか、
あるような気はするんですね。
限りなく短い31文字も込めるとか、
そっからなんか情景を想像させる、
想像するとか、
なんかそれがコミュニケーション、
まあ特にもしかして医療っていうところにも、
もしかしたら何か関わってくるのかな、
なるほどね。
でもなんかこう、例えば、
体に不調があるときの認識の仕方っていうか、
そういうのってそういう言葉に現れそうな気はするよね。
思想としてとか。
老いに対する考え方とか、
痛みがあるときの考え方とか、
なんかそういうのって結構土地によって違うと思うし、
ちょっと日本人っぽさがどういうとこに、
だからまあ我慢するみたいなのが当たり前なのかもしれないけど、
どうなんだろうね。
そういうなんか、
医学にまつわる、
なんか死とか短暇が集まったものとかあるのかな。
あー確かに。
意外とないかも。
健康に関することとか、
子育てに関することとか、
まあ子育てとかありそうだけどね、いろいろ。
確かに確かに。
年老いた老化に関することとか、
まあありそうだよね。
確かに。
あの、ちょっと違うんですけど、
科学者たちが書いた短暇に関してはなんか本があった気がしますね。
えー面白そうだね。
なんか結構有名な科学者で短暇も書くっていう人が何人いるか、
湯河秀樹とかいるんですよね。
なんかね、そういう特定のカテゴリーの人が書くそういう言葉みたいのは特徴がありそうだよね。
ね、気になりますね。
そういう意味ではこう、だから患者さん側の価値観もあれば、
医者側のとか医療者側の価値観が反映されたものもあるかもしれないって感じなのかな。
もう多分明らかにあれ程度されてそうではあるんですけど、
各国の思想の表現の違いとかってある気がしますね。
日本だとお腹痛くて、しくしく痛むんですっていう表現が、
もしかしたら違う国ではなんか、ちょっと覚えつかないですけど、違う表現とか。
そうね、そういう擬音語っていうのは全然違うんだろうね、多分。
そうですね。
痛みとかもね、ズキズキとか、なんかこういっぱいあるもんね、チクチクとか。
もしかしたら全然違う、例えば、なんかお腹の中に魔物が住んでる感じみたいなとかもあるかもしれないですね。
そうね、でも肩こりっていうのも日本人特有っても聞くしね。
確かに確かに。
そもそもそういう感覚自体があったりとかね。
だから肩こりの研究って全然ないんだよね。
聞いたことありますね。
うん。
だからその肩っていう部位の捉え方とかも違いそうですね。
うんうんうん。
肩に胴体を広くさすのかとか。
うん。
腰とかってあまり違わないんですかね。
腰も違うんじゃないかな。
まあ一応なんか西洋医学的な腰痛とかでこの腰のこの部位が腰ってしますみたいな定義とかあったりすると思うけど、
人によってその腰って言っただけの位置は違うだろうし。
うんうんうん。
なんか西洋的な解剖学で言えばこの部位をこうやって言うとかこの骨が骨っていうかもしれないけど、
もうちょっと一般レベルで見たときに、
ここの部位を指す言葉が違うとかはありそうだね。
そうですね。
なんか読んだことない本なんですけど、ずっと気になって本屋さんでちらちらと見てるのは、
なんか言語が違えば世界が違って見えるわけみたいなそういう本もあったりして、
言語学っていうところを最小単位のところから世界を見てみるの面白いですね。
そうね、その辺は面白いと思う。
家族システムの多様性
なんかちょっとまた派生するけど、
なんか今年結構やっぱ哲学的なこととかをよく読んでて、
その家族システムみたいなところもいろんな哲学者とか人類学者とかが調べてるものもあって、
家族の認識とか家族の形態もかなり地域文化によって違うから、
さっきの助け合いの仕方とかも違うし、
わかりやすいところだと日本語だったら弟とお兄さんとか妹姉って言うけど、
もうアメリカとかだったらブラザーシスターって言葉一緒とかは、
だからもうどこまでが認識するかっていうのがそもそも違うとか、
結婚の形も、何だろうな、いとこ婚みたいのがある。
いとこの中の父方の男性だったら結婚してもいいけど母方の男性はダメとか、
なんかそういう婚姻システムみたいのもいろいろあるらしくて、
だからそこは医学とはちょっと違うかもしれないけど、
だから家族形態とかも全然違うから、
それに伴ってそういうサポートを受ける仕組み、
だから医療っていうよりも介護福祉とかに近いかもしれないけど、
どこまでを助けるとかは違うかなと思うかな。
知り合いに最近聞いた話で、
そこはなんか本家と文家っていう文化がまだ根付いてて、
なんかその寄り合いとかがあって大変なんですね、みたいな。
それってなんか日本だけなのか、形が違うけど海外でもあるのかとか。
どうだろう、まあ本家と文家の扱いがどこから生まれてるかわかんないけど、
だからまあ何だろう、もう中国とかはもうお父さんが一番偉くて、
そこに女性を迎え入れる形でどんどん大家族になっていくみたいな形だろうし、
逆になんかその日本の中でも沖縄とかアイヌとかは母方の家に住む傾向があるとか、
なんかね色々違うらしいんだよね。
だからそういうので結婚したらどっちの家に入ってとか、
どこの兄弟、いとこまでが親族として捉えるかとかが多分違うから、
そういうので父方の兄弟のここまでが本家で、
その子供の女性のここからが、とかは違うだろうし、
なんかこう相続の仕方とかも全然話が発展してるけど、
なんか今だとなんか長子相続っていうか、
お兄さんが継ぐみたいなのが多いっていうか、そういう文化もあると思うけど、
末子相続っていう文化の時もあったらしい。
だからその、なんか全然リスイングフェルスから発展してるけど、
なんか農地をどんどん拡大していける時期っていうとかだったら、
子供が生まれて上からどんどん外に出ていって新しい農地を耕していくから、
長男とか上の人はもうどんどん相続しなくても広げていけるんだけど、
その農地拡大の限界が来た時に、
どんどんこう、もう新しいとこ行けないから、
もう上の人に次いで残していく。
だからそのさっき言ったような農地を広げれる時は、
一番下の子供は親からのものを次いで、
上の子供は新しいとこ広げるみたいな感じなんだけど、
そこの市場みたいなとこが限界が来たら、
調子続く変わっていくとかもあるらしくて、
結構家族システムみたいなのは面白いなって感じがする。
医学と価値観の変化
なんか最近も聞いた話で、結婚式に呼ぶ親戚、
全然なんか知らなかった、自分もやったことないんでわかんないんですけど、
なんか、いとこは呼ばないけど、おじおばあは呼ぶみたいな、
そこは多分なんしんと間違いだと思うんですけど、
それどうやって決まったんだろうなと思って。
その辺とかもなんか不思議な感じですよね。
まあ、現代は比較的自由だと思うけど、やっぱ土地によってあるんだろうね。
なんか、自分も愛知県だけど、大和と三河でもうなんかそこはダメだみたいな。
なるほど、なるほど。
あったりするし、日本の中でもあるだろうね。
いや、あるでしょう。
まあ、そんな感じで、ちょっと最初の話からいろいろ外れたけど、
まあ、だからそういう西洋医学、東洋医学みたいな、
まあ一応言い方はあるけど、やっぱはっきり分かれるもんでもないし、
混ざっていくもんあるし、
その後半の話だと一般の人の価値観とか。
そうですね。
なんかそういうシステム的なとこもあれば、
そういう文学的に言葉で表れる、
まあ時代の変化とかもあるだろうし。
まあとにかくね、こう、なんか意思決定の手法が変わってもいるし、
複雑になってるから、
まあ今後どういう情報発信したらいいのかとか、
情報の受け取り方をしたらいいのかとか、
この辺をね、ちょっともうちょっとまたこういうパターンにはこうしたらいいとか、
なんかいろいろ解像度上げていけるといいけど、
結構今回はいろいろアイディアが広がったので、
そうですね。
またいろいろ喋っていけたらと思います。
はい。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
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