第一コーナー、人生いろいろ。
第二コーナー、がんばれホモ・サピエンス。
第三コーナー、SNSあれこれ。
そして第四コーナー、ザ・冬一郎散歩でお送りしてまいります。
北海道札幌、積雪がありました。
7日ですかね。7日の朝には雪が積もって、
7日の昼間、結構降って、5センチ近く積もりましたね。
ようやく今日あたり解けましたけれども、
2日、3日、雪の上の散歩をした、そんな日々でしたが、
そんなことも含めてね、ザ・冬一郎散歩では
そのあたりお聞きいただけるかと思いますので、
今日も最後までお付き合いください。
はじめるラジオキャンパス、シーズン5。
プレゼンテッドバイ、キャンパス。
はい、11月10日になりました。
はじめるラジオキャンパス、シーズン5。
24個目のエピソード、脳は何でも知っている。
第一コーナー、人生いろいろ。
人生いろいろ、脳は何でも知っている。
これホモ・サピエンスの話から本当はした方がいいんですが、
まあ、やっちゃいましょう。
人生いろいろ、脳は何でも知っている。
これはどういうことかというと、
ホモ・サピエンス、人間の脳みそって結構、勝手に世界を作れるんですね。
人間の脳は勝手に世界を作れるという。
空想、妄想含めてね。
SFチックな発言をする人が最近、政治家にも増えてきましたけれども。
漫画の世界に生きてんのかSFの世界に生きてんのか分かんないけど、
そんなの現実政策でやってもらったら困るという。
こっちは生身の人間なんだからと思いながら。
脳は何でも知っていると思ってしまうのがホモ・サピエンスの脳みそだということで、
これがまたですね。ホモ・サピエンスはたくさんいるので、
人によって脳がそれぞれバラ、
バラバラなわけじゃないけども、繋がってんだけど、
言葉とかコミュニケーションで脳は繋がってんだけど、
だけどやっぱりそれぞれ独自性、独立性を持った脳みそをみんなが持ってるって、
これがホモ・サピエンスの社会の厄介なとこですね。
脳が全部AIのようにコンピュータネットワークで繋がってれば、
もうちょっと意思疎通もできるんでしょうが、
脳がバラバラだと。
コミュニケーション、脳同士がコミュニケーションする手段っていうのは、
いろんな五感ですね。
視覚情報、嗅覚情報、味覚情報、触覚の情報、聴覚の情報。
そして特にその中でも聴覚と視覚ですね。
聴覚と視覚が発達して、今は視覚優位のホモ・サピエンスになって、
目の発達っていうのがね、結構重要なんですが、
そんな中で文字も発明しちゃってね。
文字で言葉を読むようになって、
言葉ですね、やっぱりね。言語の本質じゃないけども、
言葉を通じて抽象的なコミュニケーションができるようになったっていうことと、
もう一個は言葉を通じて妄想を膨らませれるようになったっていうね。
現実ではない世界を言葉の世界で作り上げちゃう。虚構ですよね。
虚構の世界を作り上げてしまうっていうね。
そのことはマイナス面とプラス面があって、
これがんばるホモ・サピエンスになっちゃうので、
この話はまた後でしますが、
人生いろいろに戻して。
人生いろいろ。とにかくいろんな脳がいっぱいあるというね。
いろんな脳がいっぱいあるとこれは大変なんですね、コミュニケーションが。
うまくいったりいかなかったり、
こっちはこう思ってんのにあっちはこう思ってたりとかね。
これぐらい理解しろよとお互いに思ってるかもしれないけれども、
それは言葉を尽くさないと実は理解できないっていう。
結局それぞれの脳はそれぞれの脳でそれぞれ何でも知っていると思い込んでいる中での
コミュニケーションをしなきゃいけないわけですよね。
だからここには行き違いも生じるわけですし、
100%のコミュニケーションができないという、
そんな話になるわけですけど。
だいたい誰しもが自分の脳みその知ってることしか知らないわけですよね。
私もそう思ってて、
自分の脳は結構いろんなことを知ってると思っててね。
他人の脳みその中身はね、よくわからない。
さらに言うと自分の、私ね、
私自分の脳みその中にあることをすべて理解してくれる人間はこの世にはいないという、
当たり前のことなんですけどね。
昔若い頃、結構思ってたのは、
結局自分のことを全部理解してくれる人間なんてこの世にはいない。
絶望的な気分になったんですけど、
これ絶望的な気分になる必要なくて当たり前のことなんですが。
だけど若い時とか子供の時っていうのは、
例えばお母さんは自分のことは何でもわかってくれてるとかね。
もうだから私の場合、子供の頃、幼少期は、
お父さんもわかってくれない、お母さんもわかってくれない、兄弟はもっとわからない。
わかってくれないってね。
友達もわかってくれない。
誰もわかってくれない。
わかってくれるのは犬だけだって言ってね。
飼い犬の犬小屋で寝てたっていうね話。
犬小屋部ってあるんですけど。
まあそれはいいとして、
犬しか、犬しかわかってくれない。
俺の脳みその中身は犬しかわかってくれないなんてね、
思ったことあるんですよ。
その脳みその中身を分かってくれるっていうのは、言葉で分かってくれなくてもいいんですよね。
こうなんていったらいいかな。今の脳の状態というかね
こんな感じなんだなと。いわゆるコミュニケーションというか、
なんだろう なんかこう
以心伝心じゃないけど、言葉がなくても分かり合うような脳のシンクロみたいなね
ことが、犬との間だけで成立して、ホモ・サピエンスとの間では成立しなかったっていうね。
めったに成立しなかったっていう。
なんか全然違うことを考えてるっていう。
言葉で喋ってるんだけど、違うこと、結局違うことを考えてるっていう。
なんでそっちにそういうふうに考えるんだろうと思うと、
やっぱり違う世界モデルを持ってるんだよね。
これ世界モデルっていう話がね、これキーワードなんですけど。
これ脳科学の世界でも AIの世界でも 世界モデルっていうのが1個キーワードなんですが、
世界モデルが違うんだって、これ最近覚えたことかですけど。
要するに一人一人世界モデルが違ってて、
私はたぶん世界モデルがちょっと違うんですね、他人と。
たぶんそんな気がしてきまして、60になって。
あ、世界モデルが違うんだと。脳みその中にある。
これはだから違和感を感じるし、常に異端になるし、
コミュニケーションとっても言葉が曲解されるし。
これはこっちのせいなのかと思ってた。ずっとね。
言葉を尽くしてこっちがやっぱりもっと理解される 努力をしなきゃって、
まあそういうことはやってきたんですけども。
だけどよく考えるとそうじゃなくて、それぞれの脳みそがそれぞれに勝手に解釈しているから、
それぞれの世界モデルでそれぞれのことを考えてそれぞれに動いてるから、
おかしな話になるんだなっていうふうに 最近は思い始めてまして、
脳は何でも知っているね。自分の脳は何でも知っているとみんな思い込んでる。
私もそう思い込んでるその世界モデル同士がやっぱりちょっとずれてるんですね。
私が見てる世界と他のホモ・サピエンスが見てる世界とは、
なんかどうもちょっと微妙にずれてる感じがするんですよね。
何がどうずれてるのかわからない。
なぜなら他人の脳みその中身がわからない。
ただなんとなく憶測はできるんですよね。憶測はね。
きっとこういう脳みそでこういう世界モデルで動いてるから、
この人はこういう、常にこういう動き方をするんだなっていうのは
だいぶ予測が立つようになって、その予測はだいたい当たるようになったんですよね。
だからこの人の世界モデルはこうなんだと。
世界モデルって言葉は最近覚えたんですけどね。
それを後付けで今言ってるんですけど。この人の世界モデルはこうなんだと。
だからその、人は人の身の丈でしか生きれないっていう言葉もよく使うようになったんですけど、
結局あるいは自分の尺度で自分の物差しで世界を見ていると。人々はね。
だからそのこっちの物差しの話をしても物差しが違うから通じない人はいるんだなっていうことを
かなり学ぶようになって、それを問題にしてもしょうがないなと。
昔はその同じ物差し持てよって言ってたから。これは無理だということがわかったので、
だから物差しが違うことを前提に、つまり少なくとも私の脳みそは
相手の脳みその物差しが違うんだと。世界モデルが違うんだ。見てる世界が違うんだ。
解釈の仕方が違うんだってことを前提にして、
それも予測に組み込んだ上でコミュニケーションをとるっていうね。
決して100%は求めないっていうね。5%でもいい10%でもいい。
数%分かり合えればいいし、
とりあえずいろんな物事が前に進む上で支障がない程度に
1ミリでも2ミリでも分かり合えればいいっていうね。
結果、脳みその世界モデルが変わらなくても 相手の尺度が変わらなくても、
世の中が前の方に進んでりゃそれでいいやっていうふうに思うようになったんですね。
私の脳みそがね偉そうにね思うようになった。
だからとにかく100%のコミュニケーションはもうできないし
試みたことはあるけれども、
それはかえって相手にとってのプレッシャーになるし
辞めたんですね。諦めた。
これはもうね孤独だと。
俺の脳みそは孤独だと勝手に思って、