【岡田】改めまして、今晩のゲストも、柑橘株式会社の大津哲郎社長です。
こんばんは。
【大津】こんばんは。よろしくお願いします。
【岡田】こんばんは、よろしくお願いします。
【大津】こちらこそ、よろしくお願いいたします。
【岡田】こんばんは。大津社長の人間に迫る、人間大津社長に迫るということで始めさせてもらおうと思います。
【大津】こちらこそ、よろしくお願いします。
【岡田】大津社長は、広島大学の整形学校のご出身ということなんですが、文系の学生さんだったわけですね。
そして、就職先が電気産業だったということで、家電メーカーなんですが、文系の学生としてメーカーを志望した、そもそもの理由というのはどういうところにありますか。
【大津】実はですね、私自身、メーカーであるとか金融であるとか、実はあまり意識はしてなくてですね。
ちょうど先週の時にお話を申し上げたんですけど、当時、やっぱりまだ就職なところで、オイルショックがございましたね。
そうすると、まず入社できるところを、とにかく入りたいなという気持ちがものすごくございました。
当時、広島っていうのはやっぱり、大阪とか東京の企業さんから見ると遠隔地になりますので、大体会社説明会というのはまとめて来るんですけど。
今でも覚えてるんですけど、10月の1日が就職の解禁でしたね。
その時に住友銀行さんだったんですね、スタートが。
みんなが住友銀行に行くんで、私も一緒に住友銀行に行くんだが、けんもほろろに一発で乗されるような状態でして。
10月の2日がちょうど松下電機だったんですね。
2日目に松下電機の面接を受けて、今に至るということで。
住友銀行さんからけんもほろろじゃなかったら、こういうご縁なかったかもしれない。
もう大変ね、志の低い話なんですけども、
金融に行きたい、メーカーに行きたいとか、そういう気持ちよりもまず会社に入って何かを成したいなという気持ちの方が実は強かったですね。
住友にせよ松下にせよ関西の色の濃い企業なんですが、
広島から東京に行かずに大阪で就職というのは何か理由があったんですか。
いいえ、それも特段なかったですね。やっぱり東京への憧れもありましたですけども、広島から大阪近いということで、
どちらかというと、親和性と言いますかね、親しみやすさというのはやっぱり関西の方にあったんじゃないですかね。
だいたい長崎、九州の方は関西に行く人が、もちろん東京に行く方も多いんですけども、
そんな感じですね。東方の方が東京を目指すみたいな、こんな感じでしょうかね。
社長と一緒に長崎の出身ですから、やっぱり西日本という国の方が。
いう感じは少しあったかもしれないですね。
なるほど、わかりました。
その就職先、松下にずっといらっしゃったんですが、平成21年にここを退社されて、いわゆる転職をされるということでこれいいんでしょうか。
結構です。
換気の現会長ですね、中澤会長ですけれども、その間、この5年間の間、会長がよく東京の方にご出張に来られた時に、2人でよく食事をする機会がございましたね。
その時に、よかったらうちに来てくれないかというお話を、お声掛けいただいて、そういう中でですね、そうやっておっしゃっていただけるお会社があるということであれば、
そこで力発揮して何かの役に立てたらなと思って、換気に入ったと。こんな感じです。
今回の場合は、僕の印象ですが、これは明らかにヘッドハンティングだなという気がします。
いやいや、そんな大げさ、大それたもんじゃ全然なくて、そういう私が思ってた時期と会長のお誘いの部分と、ちょうどタイミングがあって入社させていただいたというのが正しい見方だと思います。
これはご自身から言いにくいかどうか、総括に言わせてもらいますと、やはり水田電機産業での仕事ボリュームをしっかり代理店として換気さんは見ておられたでしょうし、
新しい5年間だけ力を貸してくれと言われた時でも、全力でされている姿はおそらく中澤会長さんは見ておられて、そこの一種方向があればうちに来てくれよと言われているような気がしますが。
そうですね。一生懸命はずっとやらせていただいたことは間違いないと思いますけど、成果が上がっているかどうかというのは全然別でしてね。
一生懸命はね、だけはその間は常にやらせていただいたかなというのは自分自身は思っております。
来週も含めて3週にわたってメインのテーマとしては、必要とされる人材とは何かということでこういうことを伺っているわけですが、一つキーワードとして一生懸命ということが出たような気がします。
また後半もよろしくお願いします。
はい、ここから後半ですね。引き続き換気株式会社の大津哲郎社長にお話を伺います。
大津社長、60歳でまた転機が来たということですね。3番目の会社ということになりますが、今回は僕のイメージでは壊れていったという気がするんですが。
拾っていただいたというのが正しいと思います。
今度の職場、1年目でですね、心がけたことっていうのは何かありましたか。
そうですね、私一番心がけたっていうのは、うまいこと言えないんですけどね。
下電気はこうしてたとか、今まで私が生なんだことをやってきたことっていうのが正しいんだとか、ということは絶対出すのをやめようと思いましたですね。
そうしないと本当にこの換気の社員の仲間というか一員として認めていただけないんだろうと、それだけは絶対心しておりましたですね。
ただそう言いながらも、やっぱりどうでしょう、松下の時はという声が出た時もそれはあるかもしれないと思いますけど、心の中でいつもそれを思ってましたですね。
これ難しいところですよね、今までのキャリアとスキルを買われていっているわけですから、それを全く出さないわけにもいかないですが、それも甘い出しすぎると今度は反発を受けるかもしれないという気遣いが必要だったのかなという気がしますが。
そうですね、ちょうど60くらいになりますと、ちょうど同輩でありますとか、親になってその次の転職されている方とかやっぱり友達含めていろんな方がおられたんですけども、
そういうところに集まると、私はこう思っているんだけども、俺はこう思っているんだけど違うんだよなぁとか言いつきの先はとおっしゃる方がよくおられるんですけども、それを聞きながらそれはいつも間違っているよと。
まずその会社の中にちゃんと溶け込んでから、自分の今までの経験であるとかキャリアであるとか積み重ねてきたことを発揮できる場が必ず来ると思う。
それがなくして最初から違和感で語ったらいかんのじゃないかなというのが先方に向いているし、自分自身にいつも言い聞かせていたような感じがいたしますね。
そう思われたこととちょっと関連するんですが、60歳というともうこれで会社とも辞めてしまおうと思う方も結構いらっしゃるんですよね。
そうではなくて新しい職場でもう一度やろうと思われた強い根拠と言いますかね、動機というのはどんなところにあるんでしょうか。
私一つは今の現会長を尊敬してたっていうところがありますね。大変ある意味顔表の目ぐりぐりさせましてね。
本当のところの心の優しさとか、もちろんインテリジェンスは当然ながらあるんですけども、感じるところがありましてね。
その社長のもとでお役に立てることがあるんであればやらせていただこうかなと思ったのがまず一番ですね。それが一番です。
それとですね、構造改革とかいろんなことでいろんな経験してきたんですけど、良い経営って何なんだろうなって実は思ってましたね。
私が構造改革の途上で、部下もしっかりですし私もしっかりですけどもやっぱり愛着あるところからやっぱり去らなければならないとか、それって突き詰めたら何なんだろうなっていうことをずっと思ってた時期があって。
もしその中田会長のもとで社長のもとでやってる中でその答えが見つかるのかなという気持ちもありましたですね。
未知のものに一種挑戦するというところですね。
そうですねそうですね。もちろん皆さん代理店の方としてメーカー営業として接した時期もございましたんでね。
知らない方ばっかじゃなくて、そういう意味では親しい方もおられましたから、完全に知らないところに飛び込むっていうんじゃないんで、そのあたりの心強さっていうのはございましたですけどね。
そしてまたすぐ転機が来ますね。その尊敬する尚且つちょっと怖いかもしれませんが、社長から今度社長職バトンタッチ、会長向こうは中田さんは流れるわけですよね。
それを言われた時というのはどういうお気持ちでした。
そうですね。もちろんそのびっくりしたとか私は無理じゃないかとかいろんなことが思ったんですけどね。聞いてですねしばらくして思ったのは実はこんなことを思いましたですね。
大変私はその営業のある意味プロというか経験は長いけども経営者の経験を全く買い回る。
これは挑戦ですよね。
じゃあ何を柱にしたらいいんかなということを考えて、実はもうね私は単純なんで、社員のためになるか会社のためにことをなすことですね。なるのか。
それと中澤家のためになるのか。この3つの尺度をまず持とう。
だから今からいろんな判断をする時に優先順位もおりおりで変わるかもしれない。
そういう程度でね、いろんなことを考えてやったらそうすると大きな間違いしないんじゃないかなということをまず言い聞かせて、原会長から社長の話を受けた時の私の一番最初に感じたことですね。
非常に興味深いことを今おっしゃったと思います。会社の理念としては得意先の範囲に貢献するんですね。社長になると社員、会社、あるいは創業系ということで、今度は中が内側のことに非常に力を注がなきゃいけないというもう一つの難しさを持たれたという感じがしますね。