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2022-04-19 24:10

第63回「ロシアにいるポーランド児童救済」日本赤十字が繋いだ命

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シベリアには多くのポーランド人が強制連行されたり、
家族を追ってシベリアに来ていた。
そんな中、ロシア革命により争いが起こりそれに巻き込まれ多くの親を失ったポーランド児童がいた。
そのポーランド児童を日本が1920年と1922年で数回に分けて救済したお話。
00:04
傷ついた兵士は、もはや兵士ではない。
始まりました、「大人の近代史」。よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
なんか、あれだね、戦争の極意っていうかさ、の話?
そうそうそう、あの、戦争にまつわるというか、
これ、あの、赤十字を創設したスイス人のアンリー・デュナンって人の言葉なんだよね。
うん。
これさ、この言葉にはさ、赤十字のさ、理念でもあるんだけど、
戦争においてさ、敵味方関係なく救護することが必要だっていうふうに訴えて、この赤十字っていうのは始まっていったんだけど、
それをなんか象徴しているような言葉みたいな。
で、今日のテーマは、前回ね、ポーランドの歴史をやったと思うんだけど、
ちょっとそれを付随する形で、
ポーランドの、ま、故事救済って言われる言い方もするんだけど、
シベリアにいたポーランドの児童を日本が救済したっていう話をしたいなって思います。
はい、ぜひとも聞きたいです。
あ、で、その前に、さっきアンリー・デュナンってあえて触れたんだけど、赤十字の。
うん。
そう、このさ、アンリー・デュナンっていうのはさ、
1859年に、自分自身がイタリア北部に行ったときに、
たまたまソルフェリーノの戦いっていう、まぁ戦争を目撃するんだよね。
うん。
で、ここで多くの死傷者が出て、戦場を見て強い衝撃を受けた。
うん。
で、この悲惨な状況で、当時さ、やっぱ敵味方関係なく救護するっていうことが、なんだろう、常識ではなかったのよ。
うん。
で、この考えを強く持ったんだけど、最初は周りからも受け入れられずに、
うん。
理解してもらえなかったことが多かったんでね。
うん。
そうそうそう。で、こう考えるとさ、そうなんだって思っちゃうよね。
うん、まぁそうだよね。
うん。で、これをね、熱意を持って各国に訴えて、徐々に浸透していったってされて、
うん。
で、こうしてさ、この人スイスの人で、
スイスで誕生した赤十字っていうのはさ、スイス国旗の配色を逆にしたマークじゃん。
あー、そうだね。
そう、白十字に赤十字なんだよ。
うん。
で、このさ、赤十字の考えに共感を得た日本っていうのは、
うん。
1877年に博愛社っていうのを誕生してるのが、これ赤十字の前身の団体なんだよね。
うん。
そう、ここでさ、なんで赤十字じゃないんだって思うかもしれないけど、
うん。
このさ、赤十字のマークもそうだけど、あのキリスト教を連想させるというか、
うん。
キリスト教の布教活動とかをしてるんじゃないかっていうような、まぁ抵抗があったんだよ、日本では。
うんうん。
だから、マークも最初十字ではなくて、
03:02
うん。
赤い丸にその下に横棒1本引いたような、あのマークだった。
へー。
そうそうそうそう。
で、これがあの初めて導入されたのが西南戦争の時なの。
うん。
そう、この多くの視聴者が出たこの戦いで、日本では敵味方関係なく救護をしたっていうことがあるんだよね。
うんうん。
そう、ただね、規模自体がまだ小さかったから、
うん。
あの徐々に規模を拡大して、まぁ色々な支援金も集まってきて、
うん。
で、日清戦争だったり、その後の日露戦争時とかにおいては、
うん。
ロシア人捕虜の扱いに対して、あの日本赤十字が活躍して、
うん。
こう人道的な対応だっていうことで賞賛を浴びたりとかっていうのもあった。
あー。
で、話を戻して、あのシベリア自動を救った話、これ赤十字が関わってるから、
うん。
そう、あえてちょっと前知識として最初言ったんだけど、
うん。
シベリアにはさ、前回のそのポーランドの歴史でも触れたんだけど、
うん。
多くのポーランド人がそれまで強制連行されたり、
うん。
家族を追ってシベリアに来てたっていうのがあって、
うん。
そう。
で、さらにさ、第一次世界大戦でポーランドは戦場となって、
それであのシベリアにこう逃げるように流れ着いた人たちもいたっていう、
うん。
で、この第一次世界大戦中にしかもロシアでは、あのロシア革命っていうのが起こって、
うん。
ロシア国内で社会主義を抱える赤軍とそれに反対する勢力、白軍との争いが起こって、
うん。
そこに多くのポーランド人が巻き込まれて、親を亡くした子供たちがロシアに多くいたんだよね。
うん。
そう。で、ここで1919年にポーランド救済委員会っていうのができる。
うん。
このポーランド救済委員会っていうのは、
シベリアにいる親を亡くした子供だったり、
うん。
危害や病気で苦しむ子供たちを救うためにできたんでね。
うん。
せめて子供たちだけでも救おうっていうような考えなの。
ああ。
まあ、で、そう考えるとある意味ちょっと残酷な部分もあるけどね。
まあ、そうだね。子供限定っていうところでね。
うん。まあね。でも救えるものはって感じなんだろうね。もうそういう余裕がないんだろうね。
うん。まあせめて子供だけはって感じなんかな。やっぱり。
うん。ね。で、これね、会長っていうのはアンナ・ビエルケビッチっていう人で、
うん。
彼女はさ、もともとポーランドの首都ワルシャワで働いてた人で、
うん。
1919年に鉄道技師の夫についていく形で、ロシアのウラジオストックに来た。
ああ。
そう。そこでシベリアでのこう悲惨な状況を目にする。
うん。
シベリアにはさ、長い冬と短い夏しかないんだけど、
うん。
だからマイナス何十度とかいう寒さの中、
うん。
もう家もなく、食べるものもなく、こう彷徨ってるような子供たちがいっぱいいたの。
06:04
うん。
で、エピソードがね、いくつかあるんだけど、
うん。
一つ目はね、使われてないこう列車の中に避難してた子供がいて、
うん。
その子は母親と一緒だった避難してたんだけど、
うん。
最後に母親が我が子にこの自分の着てた服をこうかけて、
うん。
で、残ってた食べ物も与えてから母親亡くなってた。
うん。
そう。で、その傍らを離れずに今にも死にそうな子供を救助したっていうのもあって、
うん。
そう。で、もう一つね、エピソードとしては、親はね、生きてたんだけど、
このままではあの戦争に巻き込まれるし、
もしくはガシか病気で死ぬから、
うん。
せめて子供だけでも助けて欲しいって言って、
あの、泣きながら子供を預けに来た親っていうのもいた。
うん。
そう。ちなみにね、この両親はその後石群に殺されてるんだよね。
うん。
まあ、そんな本当に何だろう、ギリギリのところで救済を行ってるっていうのがわかると思うんだけど、
うん。
で、そんな子供たちを引き取ってウラジオストックの郊外に子供の家っていうのを作って、
うん。
救済をしたんだよね。
うん。
もともとボランティアで立ち上げて募ってやってたんだけど、
うん。
やっぱり支援金というか支援がないと継続できないし、
うん。
そこで最初はね、アメリカに亡命してたポーランド人っていうのも多くいて、
うん。
この組織が作ったポーランド国民機関っていうのがアメリカにあったの。
うん。
そうそう。そこに支援を頼んだりとか、
うん。
あとはウラジオストックにいたアメリカ籍従事者に支援をしてもらってたりとか、
うん。
これさ、なんでアメリカ籍従事者がこのロシアにいたのかっていうと、
ロシア革命によってさ、社会主義政党のボリシビキっていうのが中心となってソビエト政権が誕生して、
うん。
で、連合国側っていうのはロシアが社会主義化するのを恐れて、
うん。
シビリアに出兵したんだよね。
うんうん。
そう。で、結局はさ、社会主義を進める革命派が勝って、支援していた派が負けて、
うん。
で、第一次世界大戦も収結しちゃったから、アメリカっていうのは撤退しちゃうんだよね。
あー。
そうそう。で、支援してくれてたアメリカがいなくなることで、別の支援先を探すというか、
うん。
で、その時に他の国が撤退していく中、シビリア出兵してた日本は残ってたんだよね。
うんうん。
そうそうそう。これさ、日本が残ってたっていうのはさ、
当初はさ、シビリアに孤立してたチェコ軍の救出とか言って、そんな名目で掲げて最初は言ってたんだけど、
うん。
まあ、日本の狙いって、これは支援はどこにあるのかっていうのは難しいとこだけど、
うん。
ロシアっていうのはずっと近代の歴史を見ても脅威だったんだよね。
09:00
うん。
で、この脅威を排除したいっていうのがあって、
うん。
この混乱に応じて領土を拡大したいとか、
うん。
あとは満州での権益を独占したいっていうような狙いがあったってされてるんだけど、
うん。
で、そういうさ、日本の姿勢っていうのがさ、連合国側でさ、あらかじめさ、出兵する数っていうのは制限も大きさなんだけど、
うん。
日本はその数は遥かに上回って、約7万3千人って言われる大群をこう、シビリアに派遣して、
うん。
そう、しかも撤退せずにいたっていうことで、
うん。
ま、これはね、あの連合国側からアメリカとかもかなり非難を浴びたんだけど、
うん。
ま、そんなね、ま、日本がいたっていうので、あの、支援をお願いできないかっていうことになった。
うん。
最初ね、お願いする前に救済委員会の方でもこう検討して、
なんかその中には、日本っていうのはかつてキリスト教を弾圧した恐ろしい国だっていう印象も持ってた人もいて、
うん。
日本は本当に大丈夫なのかっていう意見もあった。
うん。
で、中には、でも日露戦争の時に捕虜の扱いっていうのはその人道的だったとか、
いい目を持ってる人もいて、
うん。
そう、で、最終的にま、日本にも頼むしかなかったから、
うん。
日本に救済をお願いしたっていう流れだ。
うん。
そう、ちなみにこのポーランドの児童をポーランドに返すっていうのはできなかった。
うん。
これはもうポーランド自体がかなり食糧不足というか、
うん。
子供を救済できるっていう余裕すらない状態だから。
うんうん。
で、日本の子児救済の依頼を会長のこのアンナ・ピエルケビッチっていうのは日本に直接行ってお願いに行ってんの。
うんうん。
で、日本の外務省にお願いして、
うん。
そこでね、あの予算の関係で政府だけでは救済は不可能っていう風に最初なったんだけど、
うん。
そう、これさ、日本もこの時って経済的に余裕がなくて、
うん。
第一世界大戦でさ、戦争中は一時的に軍事品とかがさ、連合国から受注が入って一時的に後継期にはなってたんだけど、
うんうん。
この時ってもうちょうど戦争が終わった頃で戦後強行といって不経験になってたんだよね。
うんうん。
そう、そんな中、政府が日本赤十字社に救援を打診して、これで日本赤十字社も協力して引き受けることになった。
うんうん。
これで実現したのが、この児童の救済なんだけど、
うん。
これ、日本がさ、救済委員会に依頼されて、救済した理由っていうのはいくつか考えられて、
うん。
一つ目はさ、第一世界大戦で勝利した連合国側に日本はいて、
うん。
これから何か大国の仲間入りというか、近代国家としての在り方っていうのは、今までその軍事力が強いだけっていうのではなくて、
人道支援をして、その各国から認められるような大切さっていうのを感じてた。
うんうん。
で、もう一つが、シベリア出兵でさ、さっき言ったけど、日本が兵を撤退しないことでアメリカなどからこう抗議の声が上がってたんだよね。
12:07
うんうん。
そう。だから、日本がロシアの領土を狙ってるんじゃないかっていうふうに非難を浴びて、
うん。
まあ、それをある意味、かわす意味でも、日本はシベリアの孤児を助けたんじゃないかっていう言われ方もする。
うんうん。
そうそう。まあ、これはね、いろいろな見方があるから、まあ、その真意っていうのはさ、どう言ったらいいかわかんないけど。
うんうん。まあ、そうだよね。わかんないよね、今となっては。
うんうん。そうそう。でも、なんかさ、俺思うのは、結果、まあ、児童は救済したわけじゃん。
うん。
まあ、そこの真意がどうであれ、まあ、結果は日本は別に、そのなんだろう、悪いことをしてるわけではないから。
うんうん。
っていうのはあるかなと思って。
うんうん。そうだね。
うん。で、1920年とこの1922年で、数回に分けて、合計約765名の児童が日本へね、救出されたの。
うんうん。
で、これさ、どんな子供たちなのかっていうと、
うん。
8割はね、両親またはね、片親がいない子供たちなの。
うんうん。
で、2割は、さっき例でも言ったけど、両親はいるんだけど、
うん。
両親が亡く亡く預けて、別れてきた子供たちだったの。
うんうん。
そう。で、年齢もね、2歳から16歳で、多いのがね、7歳とか8歳が一番多かった年齢層みたいな。
うんうん。
で、ポーランド自動を乗せて、日本軍も協力して、日本軍の輸送船でウラジオストック港から福井県の鶴ヶに入港してんだよね。
うんうん。
そう。これさ、前長丸が杉原中根の時にもやった、ユダヤ人難民をさ、ビザ発行して、その人たちが来たのも鶴ヶだったよね。
うんうん。
なんかこの鶴ヶっていうのは縁があるよね。
なんか多分日本海側の当時のその、やっぱ大陸側との定期便みたいなのがあったのかね。
そうだよね。で、そっから東京だったり大阪の施設に移動して、子供たちのサポートが行われたの。
うんうん。
そうそう。この子供たちはさ、来日した時にシベリアにいたのに、この薄い夏服のような服しか着てなかったりとか、裸足の子たちも多かったのよ。
うんうん。
で、食べ物もろくに食べてないから、栄養失調の状態だったりとか、病気に感染してる子たちもいたの。
うんうん。
そう、だから日本に来た時、結構ね、肉体的にも、もちろんその精神的にも極限の状態だったの。
うんうん。
で、日本でその医療面でも日本赤十字がサポートして、新しい衣類もすべて提供して、
でね、宿舎っていうのはね、無償で提供してくれた施設っていうのもいくつかあったの。
うんうん。
そう、東京ではね、渋谷にある福田会育児所っていうのが無料で提供して、
うん。
これがね、ここにね、375名児童を受け入れてるの。
あー。
そう、ここって明治9年にできた日本で最初の児童養護施設なんだよね。
15:01
へー。
そう、今でも福田会っていうのはあるんだけどね。
うんうん。
で、子供たちをさ、元気を取り戻してもらいたいって、いろんなイベントを催したりとか、
うん。
公園に連れてったり、動物園に連れてったり、
うん。
博物館に連れてったりして、
こう、徐々に徐々に子供たちがこう、最初はね、笑顔もあまりなかったんだけど、
うん。
元気を取り戻していったっていう。
うんうん。
で、このさ、なんだろう、日本では赤十字の人だったり、街の人がこう懸命にサポートしただけじゃなくて、
うん。
多くのね、日本の国民の人から寄付金がね、結構集まったんだよ。
へー。
そうそう、ポーランドのこういう活動に対して。
うん。
で、まあそんな中ね、さっき言ったけど、ポーランド児童の中には、やっぱ劣悪の環境にいて、
うん。
感染病にかかってる子がいたの。
うんうん。
で、あったのが、チョウチフスに感染してたんだよね。
うん。
そう、これチョウチフスって、環境が悪いところで発生しやすくて、
うん。
日本ではさ、現在でもこう、三類感染症って言われて、
うん。
これらなんかと同じ危険度の部類なんだよ。
うんうん。
そう、で、シベリアのさ、劣悪な環境にいた子供たちが、こうやって感染してたんだけども、
うん。
症状はさ、まあいろんなケースあるけど、発熱とか、
うん。
最悪、腸の出血だったり、穴が開いて死に至る場合もある。
うんうん。
日本でもさ、昭和初期ぐらいまで感染者が多くて、こう危険な病気だったんだけど、
うん。
まあ近年ではこう、衛生環境の改善で、医療の発達で、ほとんど日本では見られなくなったっていうのはあるんだけど、
うん。
そんな中さ、懸命に看護してた看護婦の一人が腸チフスに感染して、
うん。
これ、亡くなっちゃってるんだよね。
うん。
だからまあ、それでもやっぱりこう献身的に看護してた人っていうのはいっぱいいたんだよね。
うん。
で、こうしてね、数ヶ月からまあ1年経たないぐらいに日本にね、いて、
うん。
で、体調も良くなった児童っていうのは、あのポーランドへこう帰ってったんだよね。
うん。
っていうのがあって、
うん。
でさ、その後さ、第一世界大戦が終わってさ、ポーランド共和国としてポーランドっていうのは独立を果たすことができたんだよね。
うんうん。
そうそう。で、帰った子供たちも、医者とか教師とか役人とかまあ、いろんな職業について活躍してったんだけど、
うん。
それでさ、まあめでたしめでたしで終わりたいとこなんだけど、
うん。
やっぱポーランドっていうのは周りから攻められるっていうのが多かった国で、
うん。
1939年にも、突如こうドイツがポーランドに侵攻して、
うん。
第二次世界大戦が勃発するんだよね。
うんうん。
で、日本でさ、救助されたポーランドの児童の中にも、
うん。
ポーランド軍としてドイツと戦って、まあ命を落としたりとか、
うんうん。
ドイツの工場へ連れて行かれて強制労働っていうのもあった。
ああ。
それとさ、ポーランドっていうのはさ、アウシュビッツ強制収容所で、がある場所で、
うん。
ナチスによってさ、多くの人が殺された場所なんだけど、
18:02
うん。
ここでもさ、最も多く犠牲者を出したのは、ポーランドに住んでたユダヤ人なんだよね。
うん。
で、ポーランドっていうのはさ、ヨーロッパでユダヤ人の人口がその時一番多い国で、
うん。
これはさ、ポーランドの歴史でも言ったんだけど、宗教の自由を認めてて、過去の歴史から言っても、
うん。
で、さまざまなこう人種を受け入れてきた国っていう背景が、
うん。
そうそう。まあそういうのもあって、ユダヤの人が多くいたんだけど、
うん。
第二次世界大戦ではさ、ポーランドその全体で見たら、約600万人っていう人が亡くなってんの。
うん。
これってさ、日本の倍でさ、
うん。
ソ連が最も死者を出したって言われてるけど、
うん。
人口比で言ったら、ポーランドがもう突出して最も亡くなってる率が高いんだよね。
うん。
そう、国民のね、約17%ぐらい亡くなってるって言われてるから、
うん。
で、これだけじゃなくてさ、第二次世界大戦後もさ、
うん。
ドイツは敗れたんだけど、今度ソ連がさ、支配してきたというか、
うん。
ソ連の共産主義に支配されるような形になって、自由が制限されてったんだよね。
うん。
で、民主化運動とかなどによって、こうやっと1989年にソ連の支配から脱して、
うん。
今のポーランドがあるっていう。
うんうん。
まあ、その後EUに加盟したりとかして、まあ経済成長してるっていうような国。
うんうん。
まあ、こんなね、ちょっと一通りこれでポーランドの歴史を遡れたかなと思って。
そうだね、すごいダイジェスト的に。
そう、でね、このポーランド救済で、やっぱ日本との親交っていうのはその後も続いて、
うん。
阪神淡路大震災の時にも、
うん。
被災された日本の子供たち約30人ぐらいポーランドに招待したりとか、
うん。
ポーランドの合唱団が来て日本と交流したりとか、
うん。
そう、そういうのもあったんだよね。
うんうん。
で、最後に紹介したいのがポーランドの国家なんだけど、
うん。
これさ、曲名がさ、マズルカ・ドブロフスキーって言うんだけど、
うん。
これさ、第三次分割って言われるポーランドがロシア、オーストリア、ドイツによってあの分割されて、
うん。
全ての領土を失ってから2年後にできた歌なの。
うんうん。
これってそのポーランドにその当時、あの亡命してたポーランド人のドブロフスキー将軍が率いた、
うん。
舞台が独立を目指して歌われた文化なんだよね。
うんうん。
で、このさ国家のさ、もう出だしからさ、
ポーランドは滅びず、我らが生きる限りっていう風に始まるんだよね。
うんうん。
この歌詞を見てもさ、もう何だろう、ポーランドの思いというかさ、
他国によって侵略されてもさ、決して諦めずにさ、独立をこう勝ち取った思いがもうこもってるよね。
ああ、そうだよね。
うん、まあそんな感じでちょっとポーランドの歴史を振り返りながら、
ポーランドのシベリアにいた児童を救済したっていうようなお話でした。
21:01
はい。
どうですか。
いやまあ、ポーランドがすごい新日の国っていうのはさ、結構有名な話で、
うん。
ただ、何でだろうっていうところまでさ、考えた時に、やっぱり歴史的にさ、こう調べていった時に、やっぱそういうことあったんだとかっていうのはさ、
知らない人も多分多かったと思うし、
うんうん。
ほら、前にさ、エルトゥルル号の遭難でさ、トルコと日本の交流っていうのをさ、自分がテーマで扱ったこともあるけれどさ、
うん。
やっぱり新日の国って、何かしらやっぱり理由があって新日になってるっていうところがさ、ルーツをこう辿っていくと、やっぱあるんだなっていう。
ああ、確かにね。
逆にさ、ほら、トルコはさ、日本も助けてるっていう側面もあったけど、ポーランドって逆に言うとそういうのないんかな。なんか日本、こういう時に日本を助けましたみたいなさ。
ああ、だから阪神淡路大震災とか震災の時とか、結構サポートしてくれたりとかあるけどね。
っていうところなのかな、やっぱり。
うん。探せばありそうだよね、もっとね。
ね、なんかすごいわかんないけどさ。ただなんか日本にいるとさ、あんまりポーランドっていう国は馴染みがないかなっていう気はしちゃうけどね。
ああ、確かにね。
なんかポーランドからするともしかしたら日本って言ったら、日本ね、ありがとうございますみたいな感じかもしれないけど、日本ってやっぱりちょっと馴染みが薄いっていうか、
なんだろう、俺自身そうだけどポーランドって言って何思いつくって言われるとさ、まずもう多分第一声に俺アウシュビッツって言っちゃうぐらいだろうからさ。
ああ、確かに。
ね、なんかパッとこれが例えば料理でもそうだしさ、なんか有名な人物でもそうだしさ、やっぱりポーランドって言ったらこれっていうのをさ、ちょっと言えない自分がちょっともどかしいなっていうところはあるよね。
ああ、ショパンとか有名だけどね。
ああ、ショパンね。音楽家でも確かにポーランド何人かいた気がするな、有名なの。
うん、いる。中逢くと結構有名な人いるね。コペルニクスもそうだしね。
だからそう、この人そうなんだって言われてさ、みんな知ってるレベルだけど、じゃあその人がポーランドなんだっていうのはさ、意外と知らなかったりするわけで。
ああ、確かにね。
そこはちょっともったいないなと。
うんうんうん。ということで今回はシベリアにいたポーランドの児童を日本が救済したっていうお話でした。
はい。
じゃあこれ聞いていただいた方、フォローだったりとか評価をポチッとしていただくと励みになります。
はい、ぜひお願いします。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
24:10

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