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おはようございます。働く人に送る精神分析チャット、 第1026回をお送りします。
7月26日金曜日の朝8時16分ですね。 最近、間違ってグッドモーニングボイスと言わなくなってきて
かつ、再生回数がなんかこう著しく伸び始めたという不思議な現象がありまして、 ほとんど元に戻ったって感じなんですが
元の人たちが回帰していらっしゃったのか、新しい人が入った結果、 再生数が戻ったのかは、私の方ではわからないんですが
とにかく、おめでたいことに戻ってきつつありまして、 ということはもうタイトルは元のままで、このままでいいかなと思うと同時に
バックグラウンドミュージックいらんのかな、みたいなのを考え始めて、 でもわかんないんだけど、GMVに戻し、かつミュージック戻すと
再生数倍増するのかなとか、くだらないことを考えますが、 そんな感じで今日も撮っていきますが、しばらくはこのままいこうと思っています。
お知らせで、しつこくお知らせで、 タスクシュート手帳術の会が8月4日日曜日の14時から渋谷で開催します。
オンラインでもハイブリッド開催いたしますので、 こちらようやく私のなんとなくポジションがわかってきたんですけど、
私がやるべきことはここでは、 タスクシュートノート術というものを広めていくといったことだなと思いまして、
本格的にタスクシュートノートとして、 つまりほぼエバーノートがウェブクリッパーと化してきたわけですが、
もともとそうなんだけどね。 あとあれだね、エバーノートは画像を撮っておくんですよ。
考えてみると、私スキッチでバリバリ撮るんで、 スキッチとエバーノートが連動しますからね、マックは少なくとも。
Windowsはちょっと私存じませんが。 これはタスクシュートではちょっと苦重いというか、むちゃくちゃな感じになってくるんで、
あると便利かもしれませんから、でも何でもかんでも入れればいいってもんではないし、 今の開発体制でそこまではいかないと思うんですよね。
写真は入るんだけど、でも写真入れるのもどうかと思いますんで、 重くなりますからね、やっぱりサーバーの関係とか様々な問題を引き起こしそうなので、
今のところそっちはエバーノートですけど、 書類、スクショ、ウェブクリップ、でももうこれだけでも結構ですね、やっぱりね。
ウェブクリッパーならなくていいじゃんとかっていう人は いらっしゃるかもしれないけど、そんなことはないんですよ。
ウェブクリップって結構大事で、 しかもそれを一点に集められるというものって実はそうは多くないんですね。
だからエバーノートっていうのはウェブクリップだけでも、 私そういう話はどこかでしたくて、本って感じ、なんか本行き過ぎだろって感じがするんですよね。
この中間コンテンツが欲しいですよね。 私それを勝手に内心で中間コンテンツって呼んでるんですけど、
電子書籍が近いんだけど、ああいうふうにカチッとしすぎてると思うんですね。
ノートのような、ノートのマガジンに近いものなんだけど、 ひとまとまりのあるもの、また音がいいのかな、やっぱりそういうのはな。
そういうのを作っていけばいいんですね、自分でね。
ウェブクリッパーとして使うだけのエバーノートみたいなね、 そういうアホみたいなタイトルにしたくはないですけど、要するにそういうことですよ、でも。
エバーノートって結局、どっからでもあそこに送っておけるっていうのが、とりあえず一番何と言ってもA型いところでして、
いろいろありますけど確かに、アウトライナーとかオブシリアンとかいろいろ言ってますけど、ノーションもそうですが、
取り込むということがすごく面倒くさいものに取り込まないよね、という、単純に。
そんなに高度なことをしてほしいわけでは、僕は最初からありませんから、とりあえずスクショ撮っとければいいぐらいの時もたくさんあるんでね。
それこそあれですよ、昨日先日、昨日じゃない、先日佐藤敏也が、佐藤敏也保守が、
ロッテで、モールスターで、何十年ぶりぐらいな、十何年ぶりだとは少なくともMVP取りましたが、ああいうのはウェブクリップしまくるわけですよ、僕はね。
だけど、それの行き先にノーションって明らかにおかしいと思うんですよね、行き過ぎている。
しかし、それをスクラップボックスに入れておきたいかというと、今コンセンスって難しいませんが、全然そうは思わないんですね、僕はね。
そんな中、エヴァノートでいいわけですよ。
後で読むとかもおかしい気がするんですけど、後で読むわけじゃないからね、撮っておきたいだけだから。
撮っておくことに意味があるものもあるわけじゃないですか、佐藤敏也の勇士とかって、撮っておきたいのは僕ぐらいなもんかもしれませんが、
何言ってるのか分かりもしないと思うんですけどね、ロッテで撃つキャッチャーが出てきたというのは非常に素晴らしいことなんですよ。
佐藤敏也が少し昔撃ってたか、あの時橋本っていう人もいたんですけどね、そういう極めてマニアックな背景がないとあれを撮っておきたいとは思わないんですが、
撮っておくだけでいいわけです、こういうものね。
こういう撮っておくだけでいいものを入れておくというのが、エヴァノートは非常に適しているんですよ。
そんなわけで、何をするんですかね、このテンポラリーに見たいものってあるわけですよ、一時的に集中的に。
多分ね、今月しか見ないですよ、今月はずっと見てるんですよ、割と。
そういうものがある、もちろんネット上で探してもいいんでしょうけどね、ネット上ですでに探しまくってるわけですけどね、そういうわけです。
だから、そういうものはエヴァノートに撮っておくのが一番いいと思うんですね。
これが知的生産のためのものでは全くないからね、知的生産に使わないですね、佐藤敏也のデカい画像とかね。
基本画像ですからね、撮っておきたいのはね。そういうわけです。
というわけで、そんな人間知的生産ばっかりやってるわけじゃないので、エヴァノートに撮っておく。
ただ、知的生産というのかな、仕事で使う側の情報はタスクシュートに入れておくっていう感じに完全に僕はしていきたいなと思っているんで。
Web Clipね、そこがちょっと問題だ。問題ですけど、僕はエヴァノートとタスクシュートクラウドの連携というのをすでにやり始めているので、連携したってあれですよ。
結局のところノートリンクを、どうしてもこれ大事だと思ったらノートリンクをタスクシュート側から貼っておくという、そしてそれを直ちに参照できるようなビューを作っておくってことですよ。
言葉で説明すると非常に単純ですよ、これやってることはね。こんなもんでいいんだと思うんですよね。
そんな感じで、タスクシュート手帳術の回。これ私、タスクシュートデジタルの手帳術の一種だと間違いなく言えると思っておりますんで。
しかもあんまりまだね、巷ではこれ、巷でそもそもタスクシュートクラウドが2がですね、一般化してない以上しょうがないんですけども、ここが僕にとっては2は1から変える最大の目玉になるんで。
あとあれですね、iPhoneではフルスクリーンでサイドピークを見るっていう、この話はどっかでしなきゃいけなかったんだけど、今日にでもXに飛ばそうと思うんですけど、このフルスクリーンで見るというのが超大事だと思います。
じゃなきゃとてもやってられない。画面半分になっちゃう。すごい細いのが見えるっていう、あれはすごい悲しいんで。ああいうふうではなくてですね。
そんな感じです。そんな話をして8分は長いんですが、手帳術はなんかね、集まりがよろしくないんですよ。だからぜひ、現地めんどくさいし暑いしね、というのは本当、僕だって参加者なら絶対そう思うんだけど、まあまあ渋谷に行こうじゃないですか。
そしてなんか良さげな喫茶とかに、良さげな喫茶を探すっていう、まだミッションが残ってるんだけど、そういうことも楽しいと思いますんでね。合理的ではないかもしれないけど、家にいてずっと家にいて知的データばっかりやってるのは合理的かもしれませんけど、つまんないじゃないですか。だからまあまあ、私はそう思うので、渋谷にたまには行くのいいんじゃないかと思います。
知的生産と精神分析の関係
今日は本題に入りますとですね。もの作業というか、その前にまずあれだな。やっぱりこの知的生産って言葉をせっかく出したから、知的生産というものがなぜ、私のような人間の手にかかるとですけどね。知的生産がなぜ精神分析に向かっていっちゃったのかと、ライフハッカーのお前が、ビジネス著作家のあんたがなぜ精神分析ばっかり、
最近言うのかと。これはですね、対極に、対極じゃないんだけどね。同じクラスターの両極ってあると僕は思うんですね。同じクラスターの両極、こういうことですよ。一極にライフハックがあります。僕はもう一極はライフハックだと思ったんですよ。最近衰退しつつあるけど。でもこれはいいことじゃないと僕は思うんですよね。衰退する。
一極にライフハックがあり、対極にスピリチュアルがあると思ったんですね。でもこれは一つのクラスター、ビジネス書解に近い何かクラスター、このクラスターの中に僕が思うにライフハック、いわゆるIT系実用書、ビジネス書、自己啓発書、スピリチュアルが入ってくると思うんですよ。でもこの中に世の中のすべてがここに網羅されるわけじゃないんですよ。
極を作るためにはクラスターがいるんですよ。こういうビジネス書クラスターが僕の頭の中にあって多分多くの方にあると思うんですよ。書店にもそれっぽいコーナーがどんな本屋さんにもありますからね。実用書とかビジネス書とか書いてありますけど、そこにスピリチュアルが平気で入ってきたり、お金の儲け方が平気で入ってくるんですよ。ある種のジャンル構成ができていると思うんですよね。
そこに絶対料理本って入ってこないじゃないですか。どんなに売れてても。あるいは阿川さんのエッセイみたいなの入ってこないんですよ。多くの場合。ビジネス書でもスピでもない。自己啓発書とも言えない。なんかそういうもの。
どんなに売れてても村上春樹さんの方は多分あそこに入ってこない。読者層が近くても入ってこないんですね。あるんだと思うんですよ。そこにはないジャンル。だからそこにはない対局。そこにでも対局があるんですよ。スピとライフハックは相入れないと僕は思うんですよね。外から見て遠くから見て同じだと思ってる人もいるかもしれないけど、それは相当僕からするとずれている。
両方とも納得しないと思うんですね。でもそこには同じカテゴライズだなっていう何かがあるんですよね。例えば文学っていうジャンルを作んないと対局は生まれないです。純文学とライトノベルみたいなそれが対局かって言われるとどっちからか怒られるかもしれませんけど、昔で言うとあれですよ。直木賞と芥川賞はやっぱり相入れないんですよ。今なんだかよくわかんなくなってきましたけどね。
いわゆる純文学といわゆる大衆小説はやっぱり何かが違うんですよね。何かが違う。やっぱりその中間みたいな領域ありますよ。例えば、かしれうさきみたいなね。ああいうのを書く人、あれは純文学なの?それとも大衆小説なの?って言われると微妙にわかんなくなってくるけど、でもなんかね、やっぱりライトノベルと純文学は芥川賞とライトノベルの対象は違うんですよ。
それは一つのジャンルを作って初めてできてくる何か曲なんですよね。僕が思うに、スピリチュアルが一曲にあるのはとても正しいし、良いこと、良いことっていうか、あるべき姿なんですよ。
対局にやっぱりライフハックだと僕は思うんですよね。対局にIT実用書じゃないような気がするんですよ。まあ対局になりますけどね、それはそれで。どういうことかというと、それは知識なのかっていうと、そうじゃないと思うんですよね。
スピリチュアルだって知識なんですよ。例えばマヤリキで言うと今日は何日なのかとか、どういう意味を持つのかっていうのは知識なんですよ。だから、ある種の信念体系みたいなものだと思うんですけど、それを使いこなすということにどういう意味があるのかっていう話になってくると思うんですね。
その使いこなす中には必ず文化というものがありますね。だからそれを使いこなすと、自体は改善するんだっていう信念がそこにあり、その信念を支える文化と人々がいるっていうことが、その知識に力を与えるということなんだと思うんですよ。堅苦しく言えばね。非常に簡単な話なんですよね。これあったら。
知識と力になること
例えば、コントロールCとコントロールVを知っていれば、それは力になりますっていうのは、いわゆるコンピューター系のものがあってこその話ですよね。そしてそれはコンピューター系のものを作る人たちがいてこその話ですよね。で、実際コントロールCとコントロールVを使いこなすことに力が与えられるのかというと、それは与えられるでしょう。速くなるんだからっていうかもしれませんけど、速くなるから力になるかっていうと、そこは微妙じゃないですか。
例えば、私がそのね、一つの知識体系の中にあるから、佐藤利也さんのさっき言ったウェブクリップをすることっていうのが素早くできますよ、もちろん。あの象印をワンクリックするというね、うちの母には絶対に考えつかないことが私は素早くできますよ。うちの父だったら新聞ちょきちょきするのかもしれないけど、最近してませんけどね。昔してましたよ。
あれだって私は増産クリック一発の方が早くできますが、じゃあ佐藤利也のクリップを早くするということが人生にとってそれほど良いことなのかというと、それはわかんないじゃないですか。そんなことできない方がいいのかもむしろ知れないじゃないですか。だからこれはそういうものが私の人生にプラスに働くというのは、ある種の文化的背景があってこその話なんですよ。
そういう意味で言えば、今日がマヤ歴の何月何日なのかというのを知っていることは力になるんですよ。絶対になりますよ。それは例えばマヤ歴の記事を書く人にとってはなりますよ。マヤ歴の記事を書いて何になるんだって言われるかもしれませんけど、例えば日経ウーマンオンラインというところで私は長らくお世話になったんですよ。しばしば週刊ランキングでマヤ歴に迫ったんだけど、買ったことは一度もないんですよ。
やっぱりマヤ歴の記事を書いている人の方が、記事の考慮は高いと思うんですよね。しかも長く書ける。だからこれは力になるんです。でもこれは力になるためには文化的な背景があってこそなんですよ。その記事を読みたいという人たちが相当数いて初めて成り立つ話なんですね。それは実際の力にはなってないでしょうとか、それはインチキでしょうというのはおかしいんですよ。
コントロールCとコントロールVだってコンピューターのない世界では何の意味もない知識になってしまうんですよ。で、それは自然科学とかではないですからね。あくまでも人工的な世界の話ですから。何がプラスになって何がプラスにならないかっていうのは、実は自明だと思っているのはある文化圏の中で生きているから自明なんですね。
これはもうそれこそ自明だと思うんですよ。僕らがこぞって英語の勉強したがって昔してたのは、英語を喋る人がいっぱいいるからで、それはプラスに働くからなんですよ。単に知識がレアなら良いって言うんだったら間違いなくあれですよ。何か聞いたことのない、それこそ今で言えばウクライナ語とかの方が良いのかもしれない。
でも多分昭和の時代にウクライナ語を習おうって人は、今もそうかもしれませんけど、極めて少なかったと思うんですよ。だからそれはやっぱり文化的な話なんですよ。そして何かの背景を持っていなければ意味をなさないんですね。こういう固い話をずっと続けているとつまらなくなるので、逃しますけれども。
つまり、極なんですよ。ライフハックというのは一つのね。この極に人々が集ってきて初めてライフハック的な知識というものが、問答無用で役に立つ知識ってないってことですよね。要するに。
で、片方の極にスピリチュアルがあると。なぜこのスピリチュアルとライフハックって話にしたかというとですね、たとえどっちの信念体系を持っていても、私たちは必ず困り事というのを抱えるということです。
どっちかの信念体系であらゆる問題が解決できるのであれば、多分信念体系は様々なものにはならないし、そこでのある種の力というものも実は生まれないだろうなって感じがするんですよ。
だんだん少しずつですけど、一応カウンセリングの話に近づいてきてるんですけど。つまり、人がそもそも困らないんだったら、極層的な人ってそういう態度を取るんですけどね。いやいや、私困ったことなんかないからって態度を取るんですよ。非常にこれはですね、層的なんですよ。精神分析的に見るとですね。
そういうふうに乗り切るっていうスタイルもあるじゃないですか。乗り切れる限りにおいて。いやいや、別にそんなコントロールCとかはすぐ覚えればいいじゃんとかいう感じで、朝起きればいいじゃんみたいなそういう感じで、どんどんどんどん層的に問題を解決していくんですよ。この背景にスピを持つってことは当然ありえますよね。
みんなは知らないかもしれないけど、このマヤ歴の何月何日に、マヤ歴ばっかり出してますけど、何でもいいんですよ。要するにそういうものがあって、その時には例えば、銅系のメタルを体に身につければ朝起きるのなんか全然つらくなくなるんだよっていう。これってライフハッカーの手にかかるとライフハックになっちゃうじゃないですか。つまりそういうことだと僕は思うんですよ。
仕事が進みませんとか言った時に、いやいやそれは今月は何月だから、何々の月でどういうふうに動いてるから、あなたは体調を崩して仕事が進まなくなるんですよと。なんか二十何とか季節とかもあるじゃないですか。それは気候と関係がないわけじゃないから、例えば今は大暑という時期なんだから、なるべく家にいるのが正解で、そういう時に外回りばっかりしてるから、あなたは調子が狂って仕事が進まなくなって、
食事も喉を通らなくなるんですよっていうのはヒットする可能性は十分ありますよ。でもそれは、そんなのは単に気温だけ測っておけばいいんだということで、なんかこう最新のアプローチについている何とかでぶるっと震えるのが来たら、たちまち喫茶に退避するとかをすればいいんだって、これはライフハックですよね。
そういうふうにできていると僕は思うんですね。この究極的な先に何があるかというと、解決できない問題があるって僕は思うんですね。そこを想定に解決しようという意見を述べると、多分、到底受け入れられないと。
しかし、問題を解決しているというふうに評判する側は、問題解決がしにくくなってくると非常に壮的になってくるという、壮的償いって言葉もあるんだけど、そういうふうになってくるんですよ。いやいや、いつまでもクヨクヨしてんだよっていうような言葉ですよ。
これは、スピリチュアル系でも、時効化啓発系でも、ライフハック系ですら必ず陥る一つの、何て言うんでしょうかね、その、やむを得ないトラップみたいな、そういう構造を作ってしまったら、そういうトラップには陥ります。教祖様は悩んじゃいけないってことですね。
つまり、朝起きられないんですって言った時には、例えば早起き習慣の人が、教祖的な人がですよ。教祖的な人というのはそのまま情報発信のトップにいるような人ですから、どこにでも必ずどんな分野でも絶対にそれは発生するんですよ。その人は謙虚か傲慢かって話ではないんですよ。ずっと謙虚なものだったら、そもそも情報発信じゃないしないでしょ。
だから、必ずどこかでそういう草敵な態度っていうのは、仮にその人が草敵な態度を取るつもりがなくったって聞き手にはそういうふうに聞こえる日がやってくるはずなんですね。先生朝4時になって起きられませんよと。いやいや大丈夫よ。このサプリ飲めば大丈夫よっていう人が、そのサプリを飲んでも実は起きられない日ってあるのよねって言い出すとすると、何かのそこに条件的な問題を加味しなければならなくなってきますよね。
これがライフハックだとしても、早く寝ればいいんですと。でも先生早くは寝られないんですよって言うかもしれないじゃないですか。で、その時に早く寝られないんだったら、なんで早く寝られないのかを記録して明らかにしましょうって話をタスクシュート側ではするかもしれない。でも、どう記録をとってもどういうふうに見ても早くは寝られないんですよ。この職場であったら。もしかすると、タスクシュートの側ではそこで頑張るとするとですよ。
転職を勧めるか、それに近いことをお好みかすかもしれないですよね。でも私は今のこの仕事以外ではとてもつけないんですって言ったら、それはあなたの思い込みじゃないでしょうかみたいな認知行動療法みたいな話に。認知療法ですよね。これはあなたの認知が歪んでるんですよって話をするようになってくる。これは非常に相的ですよね。相的というのはつまり元気を出せ系なんですよ。元気を出せ系の慰め方というのは当然ありです。ないはずはないんですよ。
自己啓発と信念体系
子供の頃しょっちゅうやられてる親にね。いつまでも泣いてるんじゃないと。そんなの大したことじゃないんだからさっさとご飯を食べようみたいな。言うでしょ。この時ご飯よく出てくるのは偶然ではないんですよね。
掘り込み型の同一化をしろっていう話に。まあおっぱい飲めってことですよ。要するにいいおっぱいがここにあるんだから。このいいおっぱいを飲むことでお前のその欲打つ不安を飛ぶ、消し飛ばすのが人生ってものでは必要なんだって。非常に精神分析的に堅苦しく周り苦毒言うとこういうことを言ってるわけじゃないですか。で、子供はぐれるわけですよ。その場でいきなりぐれはしないでしょうけれどもぐれたくなるわけですよ。
お父さんは僕の気持ちが全然わかってないとかって話になる。これはカウンセリングの世界の出来事ですよね。完全に。つまり発泡をふさがってる時にお前の発泡ふさがりは思い込みなんだって言われることは屈辱的なわけですよ。で、しかしどんな世界でもこれを必ずと言っていいくらいにやるってことです。特に教祖様に近い人たちはやるはずです。
これを何て言えばいいんですかね。想的防衛に僕は近いと思うんだけど、ナルシシズムもそこにはあるよね。自己愛的なものがどうしたってあります。私の体型には間違いはないはずだっていうまず自己愛的なものがあるはずですし、それが通じないとなったら強引に通じさせようという非常に想的なものがそこに押し込まれてくると思うんですよね。だから朝起きられないはずはないということですよ。
朝はみんな起きられる。だってそうじゃないと困っちゃうじゃないですか。早起きは一番いいんですっていう覚悟を標榜したり、早起きをすれば人生の問題すべて解決するんですっていう自己啓発だったりを開発した人にしてみると、それは無限の再現性みたいなものがつまり万能空想ってことになっちゃうんだけど、そういうものが出てこないわけにはいかないはずなんですね。
朝3時に起きればすべてがうまくいく。そして朝3時に起きるのは簡単なことだ。私はそれができた。こうこうこうすればできるって言ったときに、それができない人も実は80億人中79億人ですっていうのはダメなわけですよ。まあ1億に通じれば十分だっていう話もあると思うんですけど。
でもそういうふうに仮の条件設定みたいなものに、例えばタスクシュートもこういう人には合いませんとか、GTDもこういう人に合いませんとか言い始めると言えば言うほどその信念体系は弱い感じがするので、そこを強調するためにはやっぱりそれは万能なものである必要があるんですね。つまりそれは真理だってことである必要があるんですよ。
石がここでは万有引力の法則に従って落ちますが、そこに持ってくると上に飛んでっちゃいますって言うんでは、その法則は法則と言われるわけにはいかないってことですよね。どこに行っても宇宙のどこに行っても通じるって言う話でないと。
自己啓発もそうなんですよ。極端な話をすると。あらゆる人類に通じるって言うんでないとダメなんですね。でもそんなものはないんで、そんなものはないわけだから、そこは万能空想的に、想的に通じませんと言っている抑鬱的なものを吹き飛ばすべく、俺は大丈夫、俺のやり方なら絶対大丈夫だっていうのをどこかで押し通そうとしなければいけない、言われる。
クレームが出るたびに、あなたの場合は無理ですね、あなたの場合は無理ですねって言うように、弱々しい教祖様だと誰もついてこなくなってしまうという、それも抑鬱不安なんだけど、そういうことがあり得るから。だからなんとかそこは想的に押し通していくと。
しかしそれをやられている側はですね、やっぱり屈辱を感じるわけですよ。いや、俺は朝が起きられないんだ。しかもそれはすごい嫌な話ですよ。みんなは朝3時に起きて、うまくやってると。人生万歳になってると。
5時に起きて、朝日とともに健やかに起きて、いっぱいライフハックして、どんどんどんどんお金も稼いで、海外旅行にも行けて、みんな家族が幸せになってるのに、私だけ10時になっても起きられず、部屋は汚くなっていて、海外にももちろん行けなくて、みたいなことになると、嫌じゃないですか。めちゃくちゃうつうつとしてくるじゃないですか。
閉塞感の存在
つまり、これがよく、この自己啓発なりライフハックなり、スピリチュアルはちょっとわかんないけども、に出されている社会側からの、実は突き上げの一つなんですね。特にリベラルからは突き上げられますよね。当然、万人を救えていないのに、一部の人間にだけいい目を見させるなってことなんですよ。
それは新自由主義的だっていうわけですよね。そういう社会側からの、社会モデルからの批判みたいなものは、因に要にあるんじゃないかと、僕は当然思いますよね。つまり、ついていけない人がいるってことです。単純に言うと。朝3時には起きられません。タスクシュートに記録はつけられません。というふうになって。
うつうつと、単にできないだけならいいんだけど、あ、いやあなたはできないんだからやらなくていいんですよ。で、済めばいいんだけど、やった人はこんなに上手くいってますよ。やった人はみんな、こう、年収も10倍になりましたよみたいな話。私だけ年収10分の1になりましたよと。めちゃくちゃ嫌じゃないですか。だから、ものすごくそこに自罰的なものが加わりかねないので、そこで発砲塞がり感というものが出てくるわけですよ。
しかし、私にはできないの理由があるんですよってことですよ。例えば朝日を浴びると肺になってしまうんですよとか、まあそんなことはないんでしょうけど、何かあるわけですよ、そこには。転職を考えただけでも、もう、あの、架空があって転職する中でという架空が代々伝わってきているんです。江戸時代から転職はしてないんですっていう人は、転職をお勧めするとか、好めかされるというだけでも、もう非常にこう落ち込むと。
まあ、これらは全て冗談ではありますが、でも発砲塞がりっていうのは、どこにどんな提案をしても必ずそれはダメなんです。それは無理なんですっていう話があるってことです。で、こうなった時に、私の領域で言うと先送りですよ。先送りが出てきます。先送りしちゃうんです。で、なんかタイマーやりましょうとか、5分ダッシュですとか、1分でいいんですとか着手ですとか言ってもダメなんですよ。全部ダメなんです。
で、私は考えたんですよ。どんな方法論だってこの課題にはぶつかるはずだと。そして、だからメンタルに向かうんだけど、メンタルにどれほど向かっても事態は変わらないはずだと。その人は絶対に何と言えばいいのか、引きこもりたい理由を持ってるはずなんだ。
でも同時にその人は、なぜか引きこもってだけはいたくないんだと。私が苦境にあるということは伝えたい。しかし、私は苦境に対するどんな提案も受け付けたくないという、こういう心理状態はあり得るんだと思うんですよね。
ここに非常によく出てくるのが、実は僕はスピーカー仕掛け学みたいなやつ、ライフハックですね。どっちかになると。これは両方ともよく似たところがあるんだけど、とにかくどっちかになりやすい、実用的な話をした場合は。実はどんな世界にも出てくるんだけど、実用的、仕事術みたいな、そもそも仕事しなきゃならないわけですから、仕事するのが嫌だからこんな話してるんだと思うんでね。
私はもう、税金の計算の税っていう字通し、円を見ただけでも立ちくらみがするんですぐらいなことは言い得るわけですよ。言いたくなってるわけですよ。でも、だから引きこもって悶々としていてひたすら税務署の人にいじめまくられていますけれども、ひたすら耐えれますって人はあんまりいなくて、これやっぱり誰かに訴えたいわけですよ。本当にどうしたらいいんだろうとは言いたいわけですよ。
どうしたらいいんだろうに対して、返ってくる言葉に対しては、それは無理、それはダメってことなんだけれども、でもどうしたらいいんだろうとは言わずにはいられない。この話を一番取り扱ってるのは、行動療法でも認知療法でもないと僕は思うんですね。
うまくいくんだったら薬物療法ですでにこと足りてると思うんですよね。税の振興を今年もやってきた、定罪飲もうみたいな感じで、定罪飲むと少し落ち着いてくるから、Excelを操るぐらいはできる気がするみたいな、そういうのでことが足りている人は、でもここには必ず認知行動療法を加わってくると思うんですよね。
例えばあれですよ、パッとExcelが開くように最初からしておきなさいとか、Excel以外は開かないようにしておきなさいとか、あるいはマネーフォワードでもいいんだけど、マネーフォワードの画面だけが開くようにパソコンを仕掛けておくわけですよ。これが仕掛け学的な話です。
あるいは大好きなキャラをそこに置くとか、それを見に行こうとするとマネーフォワードが勝手に起動するとかね、そういうふうにすれば、どんなに自分がそれを回避しようとしていてもそこに行くようになるみたいな。
それがだから、季節とか地球の運行とかいう話を始めるか、それともものすごくミニマムにひたすら自分を操作する側に向かっていくか、大体肉体に向かうんですけど、1個の肉体に向かうか、それを取り巻く宇宙に向かうかみたいな話で、ライフハックがスピリッチあるかが決まっていくんじゃないかなと思うんですけれども、
僕はそのどちらも問題を決して解決はしないと思うんです。
それはどうしてかっていうと、最終的には解決をしたくはないんだけど、このままでは困るっていう、そういう心理状態というものがそこにあるから、それを扱うっていう方法論がいるから、それが精神分析だと思うんですよ。
だから精神分析の話の中には、まさにそういうのが出てくるんですよ。先生は何もしてくれないと。私にとって役に立つアドバイスなり、認知的な、認知行動療法的なアドバイスだってできるはずだと。
それだけ知識持ってるんだから。でも先生はそうやって黙ってるだけだと。あるいはなんかよくわからない解釈をするだけだと。こんなところに来ても時間の無駄だとか、こんなところに来てもお金の無駄だと。そういう風に言われることが少なくないと、そういう話が出てくるわけですよ。
ちょっちゅうそういうことを言われているのがこの職業ですと。でもなぜかその人はそんなことをもう何年も言い続けているのに、何年もここに来ているっていう、そういう話が出てくる。僕はこの話をですね、ちゃんと正面から書いているのは精神分析界だけだなって思うんですよ。
必ずと言っていいぐらいその手前の段階で介入が入っちゃいますよね。介入が入ることがいけないわけじゃないんですよ。普通は入るってことですよ。そんな話を数年もただ聞き続けてですね、心に寄り添うってことだけをし続けるなどということが、今のような世の中で基本許されるはずがないんですよ。なんか手を打てよってことになるわけですよね。
だから顔面だとか頑固だとか古臭すぎるとか全く役に立たないという批判が浴びせられ続けるのが分析的な世界なんだっていうふうに、まあまあ重鎮の松木くにひろさんが書いている。だから顔面だということになるわけですよね。だってそうじゃないですか。どう考えたってこの手前の段階で手を打つべきですよね。
打てるものだろう。でもそれは打てるだろうっていうニュアンスはある気がします。他の世界でね、ライフハック会なり認知行動療法なり、もうちょっと深刻になっているわけですね。あるいは抗精神薬の投与なり、抗不安薬の投与なり、そういう手がすでに打たれているはずだと思います。
打たれていても効果がないから、あるいはその人が効果を実感できないから、結局この何の役にも立たないと罵るためにここに来るみたいな人が現実的にそこに行くわけですよ。しかも松木さんは松木さんだけじゃないですけどね、精神分析の本ではしわしわですね、全く私は途方に暮れていたとか書いてるわけですよ。
これが本当なのか嘘なのかを毎回読むたびに私も考えさせられるんだけど、全く手打つ手はなかったとかね、どうしていいんだか全然わからなかったとか、重鎮の人ですよ、昨日今日始めたって人ではないんですよ。しかも全く途方に暮れたまま3年が過ぎたとかって書いてあるわけですよ。
これは一体どういう方法論なんだろうなと僕はつくつく興味を持ったんですね。本当に同じ重症度は全然違いますし、何とかなるんだけど現実には。でも私はいつもライフアップというか先送り、タスク管理の話を聞いていると、いつもこれだなと思ってたんですよね。非常にある種親近感が湧くんですね。
特にあのかなり重いなっていうか重いっていうのかな、あのこのレベルだなっていう人っていらっしゃるんですよ。本当にね独特なんですよね。仕掛け学ってあるじゃないですか。本が今日仕掛け学の話をしている仕掛け学をディストーリー。全然ないんですけどね。
仕掛け学とライフハック
僕は一種の洒落として面白い本だと思いますよ。だからゴミを捨てる時にバスケのゴールみたいな絵を描くわけですよ。いやいやゴミ捨てろよ普通にって思うじゃないですか。あのバスケの絵をわざわざゴミ捨て場のところに置いて、そうしてバスケットボールのシュートをしているという動機づけを自分に与えないとゴミも捨てられないっていうのって、もう僕には何でもいいですけれども。
本当にこう抑鬱的に感じもしますし、えっと、腕症ってのはどうなのかな。まあ非常になんかこう人格症パーソナリティ的な何かを非常に感じるんですけれどもね。そういう見方をしてはいけないのかもしれないけど、してしまいたくなりますよね。
よくその、ほら言うじゃないですか。刻むと。行動を刻むんだと。だからこれからジムに行きたいと思ってもやっぱり腰が重いと。これは普通ですよ。だからジムに行くまでのまず散歩を生み出す。散歩?なんで散歩?っていう感じがしますよ。やっぱり。
まず塔を開けると。タスクに書くと。いや、塔を開けようよ。そんなの書く前にっていう感じがするんですよ。なぜそこまで無限交代みたいに後ろへ後ろへというか少しずつって言っても、つまりアキレスとカメみたいになっていくわけじゃないですか。アキレスがここに行くまでの間にカメはちょっとだけ歩くみたいな。
やる気をここまでは出せるかもしれないけど、そのやる気を出すやる気が欲しいみたいな。無限交代していくんですよね。まずコーヒーを飲めばやる気が出るの分かってるから。コーヒーを入れるやる気が欲しいとか、コーヒーを入れるやる気を出すためにマグカップにリラックマのついているマグカップを用意するとか、マグカップまで手を伸ばすためにとかってどんどんどんどん刻んでいって。無限に刻めるわけですよ。
もうあと気がつくと、手を1ミリ前に出すとかね、そういう世界まで行きかねないような話が、話聞いてるだけでも冗談みたいだなと思いながら聞いてるんだけど、全く途方にくれますよね。
私が50の方法だ、100の方法だって100個も方法いらないじゃないですか。そういう100の方法を提案しても全部跳ねつけられる。8歩を塞がり、よく言うか100歩を塞がりなわけです。もう何度に刻んでもいいんですよ。360歩を塞がりぐらいな感じで。もう塞がってるわけですよね。
やっぱり、塞がってること自体を問題にしたくなりますよね。この話を受ければ。つまりそれは閉塞してるんだよねってことですよね。早起きがするとか、朝かすするとかそういう話よりも何よりも、あなたの心にあるその閉塞感こそが全てのはずだっていう感じがしますよね。
その閉塞感を直接扱っている方法論が実はとても少ない。なぜならば閉塞感を直接扱う、やはり我々は文化に生きてない、今の時代は特に。三年寝たろうみたいなものははっきり言って受けない。
やっぱり今すぐタイマーをセットしたり、今すぐ新しいノートを作り出してみたり、今すぐノートに何かを書き出してみたりしなきゃいけないわけですよ。今すぐ錠剤を飲む。何でもいいんだけど、とにかく行動が必要なんですよ。行動化がね。
そこで僕らは問題が閉塞しているっていうことになってるんだけど、これはですね、やっぱり僕には投影って言葉の方が全然合ってるなって思うんですよね。悪いものを周りに置いてしまっている。その悪いものは自分が自分の目にだけ映る悪いものがそこにあるんだと思うんですよ。
自分の体に投影するとか、自分のやる気に投影するとか何でもいいんですけど、要するにそこに悪いものを見ている。自分が昔苦しんだ時に何にもしてくれなかったっていう、あるいは自分が本当に困って本当に悲しんだ時に、それをただご飯を食べて元気出せみたいなことで乗り散らさせられてしまったと。
それに対するなんかこう怒りのようなものとか、動くものかと。で、提案してくる奴は全部そういう総的償いみたいに聞こえてくるとかね。そういったことがここで起きているっていう話をそもそもしてほしいと思うんですよね。
章タイトル
だから認知行動療法の方法論に問題があるわけじゃないですよ。それは提案してくる人間というものに誰を見ているのか。昔あの俺に屈辱を与えた俺って2歳ぐらいの時ですよ。あのお母さんがくれないとミルク飲みたくないとか言ってふざけんな早く飲めみたいなことを言われてもしかすると殴られたかもしれない。
そういう屈辱感のようなものと同じものをどんなにいい提案だって提案してくる人に見てしまうかもしれないじゃないですか。同じような口調だとかね。同じような顔してるとかね。私がとかですよ。このタスクシュートを使ってくださいとか言うと、そのあの早く飲めと言って自分の心の苦しみを見下したお父さんそっくりだって思ってるのかもしれないわけですよ。
無意識では。だからそういう投影をいっぱいしている人にとってですね。先送りっていうのは普通に起きそうな話なんですよね。そして提案は跳ねつけたくなる。自分で自分に提案したとしてもですね。
そういうふうに話が進行していくというか展開しているっていう展開してないんですけど、展開しない展開みたいなものを取り扱っている。それを取り扱うという方法論がこの世にあるっていうのが。
いつもしているような話ですけどね。すごく大事かなと思うんですよ。すごく大事だというかそういうものがないと困るよねっていうことですよね。提案ばっかりされているとその提案されるということそれ自体が屈辱だって思っている人にしてみると非常に悲しいとか非常に耐えがたいとかそこに母親がいないとかそういうことが問題だって言ってるときに対話セットしろって言われるのは本当に困る。
しかもその対話セットでみんながどんどんどんどんうまくいってるというのはますます嫌だっていう。そういうことを扱っているところに行きたくなったっていうことかな。